和賀心教典

『和賀心 — 大坪総一郎師の天地 —』

『立教神伝』(安政六年十月二十一日)

この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。


見逃してならぬことは神伝が下るまでの教祖の信心、即ち、天地金乃神との又とない無類の親密な交流のことである。
だからこそ家業を止めて天地金乃神を助けて呉れ、ということにまでなったのである。
氏子の助かりが神の助かりであり、神も立ち行き氏子も立ち行くこと、『氏子末々繁盛致し親に掛り子に掛りあいよかけよで立ち行く』このことが神の願いであることを肝に銘じて居らねバならぬ。
神伝をお受けなされた教祖の命がけの其の当時の御心を信奉者私共ハ忘れてはならぬ。

 〇「人間ハとかく苦労を忘れると貴族化してまいります。宗教にとってこれが一番恐ろしいことであります。
親のあとを継ぐということは家や財産をつぐことではない。
親の御苦労をつぐということである」
(永井肝四郎師述の中より)
                (昭47・7・22)

天地開闢以来はじめて人の世に宗教以前の宗教、金光教は生まれた。
親神の情理をつくした神願ハ厳しいようで優しく、やさしいようできびしい内容とはなった。
即ち『死んだと思うて欲を放し』然り、『家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言はれ相談もなり云々』然りである。
究極の神の願いは神も助かり氏子も立ち行く合楽世界顕現である。
                (昭53・7・1)
  *合楽世界とは、神様と人間氏子が楽しみ合い拝み合う世界。


この立教神伝を拝読させて頂きますと、神様の血を吐く様な御悲願を感ぜずにはおれません。
この神伝は決して教祖御一人のものにしてはなりませぬ。
お道に御神縁を頂いた者の使命として、各々がこの御神命をしかと受けとめて頂きたいのです。
神、人を求め給うこと真に切なり
                (昭58・7・30)

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『天地書附』

     生神金光大神
    天地金乃神一心に願
      おかげハ和賀心にあり
      今月今日でたのめい


『和賀心』ハ人間幸福の根本原理である。
やわらぎたい心、よろこびたい心、和の心、賀の心を求める心は、生命の欲求であるにも拘らず其の道を知らぬのである。
教祖ハその道を誰にもわかるように説き教えられた人である。
行き詰まることのない、而も無限に開かれる光明の世界がそこにある。

 和賀心の邪魔になる心、
   なかにも威張る心、穢い心。
                (昭47・7・23)

真といい一心というても神に通じないなら、真心一心とは言えぬ。
和賀心とは神に交う時の心をいうのである。
「おかげ」ハ頂くのでなく生みなされるものなり。
神と氏子の歓喜交流なり。歓喜交流とは天にものぼる心なり。
                (昭53・7・2)

「おかげハ和賀心にあり」
たったこの一言を明らかにされる為に、教祖のあられぬ修行の御生涯があった。
又その一言を実証する為に今日の親先生の血のにじむような御修行があるのです。
御二方のなみなみならぬ御修行の中に、ここに、このように容易い、しかも絶対の助かりの手だてを頂いたのです。
いよいよ私共の全生涯をかけ全身全霊をかけて、不動の「和賀心」を頂きたいものです。
                (昭58・7・31)

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『神誡』  ― 真の道の心得 ―


御神誡

一、神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと。


神国とは、人の世のこと。
皇上は、其の国の長のこと、その時代の長にあたると思われる。
国恩を知れと言うことである。
どこの次郎やら太郎やらわからぬようになっては、人間、世の中が立ちいかぬ。
                (昭43・6・16)

神の大恩がわかれば、皇上の恩もわかります。
信心すれバ、するという生活意識が、せしめられておるという生活意識に変わる。
「せしめられて」という境地に到ったときに初めて自己の生活が天地の法則と共に動くという確かなものを感ずるのであります。
生きておるのでなく、生かされてあることを悟ることが、神の大恩がわかったという第一のことであります。
                (昭47・7・24)

道の道たるところを究明し、
人の人たる貴き道を歩む。
人の世即ち神の世と悟るところに、
神徳満つる中にあるを知る。

高野山ハ女人禁制の山であった。
時代ハ変わった。誰でも登る事が
出来るようになった。
奥の院の秘書に記して
日く「時の権力に従へ」と。
                (昭53・7・3)

「人の世の習慣(ならい)として」では、人間の幸福ハない。
シャボン玉のような幸せでは、出来たかと思ったら、つかのまに消えてしまう不安定のものでしかない。
この世を神の世として頂けたとき、永遠の幸福をいただき得るのである。
                (昭59・7・1)

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御神誡

一、天の恩を知りて地の恩を知らぬこと。


地の御恩徳を分かれば、自ずと天の恩は感得出来るものである。その為に、大地の心を知り、大地の心を心としての修行が必要である。
大地の心とは、己をむなしゅうすること。尚かつ、その心で奉仕すること。限りなき天恵に浴するためにも、大地の心を知り、自らの心に頂かねばならぬ。
                (昭43・6・17)

恩を知ったら、恩に報いることがなされねバならぬ。観念の上で分かっただけでは、天の恩を知って地の恩を知らぬも同じこと。
天地の神を大切にするというても、天地の働きそのものを大切にしないなら、真の道は開けてこぬ。
成り行きを大切に、すべてを御事柄として受ける修行に徹するなら、天地の大恩が自然に感得出来る。天地の働きを大切にするからである。
                (昭47・7・25)

限界と無限の間に横たわるもの、その余白の中にある人間の救われがたき難儀の様相がある。一体、何故のことであろうか。
天の真を知り、地の心を知る手立てを、教祖金光大神ハ身をもって解き明かした。
「神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ」即ち「天地の大恩」である。
天地人一体の歓喜の世界が開け、日と光の旋律が生まれてくる。
                (昭53・7・4)

天の心、地の心を分かり、天地の心を心として頂き、はじめて天地の大恩を悟ることが出来る。どんな美味しいものでも、身体が悪けれバ食することも味わうことも出来ぬ。
                (昭59・7・2)

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御神誡

一、幼少の時を忘れて親に不孝のこと。


道徳的な親孝行とは、大変ちがう場合がある。
真実、親に喜んでもらうということ。
次の金光四神様のおことばを以って知れ。

「親に孝行して神に不孝し、親に不孝して居る氏子がある。
神に孝行して親に不孝し、そして後に親に孝行している氏子がある」
                (昭43・6・18)

月の砂漠をはろばろと旅の結駝が行きました
前の鞍には王子様後の鞍にはお姫さま
二人並んで行きました

小学生が歌う唄の歌詞です。なかなか詩的で情緒があるようですが、所詮は月の砂漠です。そこにあるものは、無味乾燥の世界があるのみです。
精神の面にも形の上においても、大事にされておる親の存在をなくしては、豊かな家庭はあり得ません。若い者もやがては歳をとらねバなりません。
手にたとえましても、親指は短く形もよくありませんが、親指なしには本当のものは掴めません。
孝行をしたい時には親はなし
                (昭47・7・26)

「嫁姑の仲悪きは天地にも響く」とあります。孝心なくては良い信心は絶対に育ちません。親孝行ハ信心の根本ですから、子に慕われる親、親に信じられる子でありたいものです。
                (昭53・7・5)

平重盛は「孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず」とそのジレンマにおちたという。
真の親孝行とはそんなものではない。
お道の信心を以ってすれば、孝にもなり忠にもなる、双方が立ち行く道が開けてくるものである。
                (昭59・7・3)

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御神誡

一、真の道におりながら真の道をふまぬこと。


四神さまのおことば
「十のよいことをするよりーつのわるいことをすな」
真の道とは、このようにみやすいものである。
                (昭43・6・19)

天地の間には一つの生命が流れておる。その一つの生命が、それぞれ人間氏子として表現されておるのである。この生命の自覚こそが真の道を知った信心である。
〇〇党や〇〇主義が危険だというが、むしろ無信心の人達の生活こそ危ないものである。信心がないということは、天地の大道に背いておることにもなるのである。
現代の救いとは、今の世の人にこの真の道を広め教えることにある。これが神の願いに応えることにもなります。
 「教えは真なり」
                (昭47・7・27)

発想の転換。
金光教の信心ハ、お徳を受けてゆくことの為にある信心であります。
真の道とは御神徳につながる道です。
そのためには修行が必要です。
おかげ(御利益)を受けるだけの修行で終わる人が多いのは残念なことです。
焦点を間違えることなく、楽しく有り難く、そして愉快にすらなれるのが真の道であり、真の信心です。
もし有難くも又楽しくもないなら、それは真の道を間違えて居ると思って大反省すべきです。
                (昭53・7・6)

大工、左官でも師匠の教えたことを繰り返し稽古して、初めて一人前の職人として世に出ることが出来る。
信心も同じことで、金光大神の教えに背かぬよう守って、稽古していくうちに真の道も分かり、真のおかげもついてくる。
                (昭59・7・4)

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御神誡

一、口に真を語りつつ心に真のなきこと。


一心不乱の御祈念の一時こそ、
口も心も一味一体の時である。
真の芽が出る時でもある。
これを育てるのが心行であり、
教えに従うことである。
                (昭43・6・20)

口は自在なものですが、心にもないことを口にすると、心が自由を失います。
お話をした後など淋しくなることがあります。
口にしたことを反省せねばならぬ時です。
一番悲しいことは、人に嘘を言うことです。
                (昭47・7・27)

今日もどうぞ神さまの御心にかなう一日でありますようにと祈る中味でありたい。

  云ふことと行ふことと思ふこと
   天地のリズムにのりてこそ
       神の心に妙にひびかん

"照るてる坊主てる坊主、明日ハ天気にしておくれ" と、童心で一心にねがえ。
                (昭53・7・7)

言うことも行うことにも実意であれということを教えておられる。
厳しく頂いたら、いかに明瞭に金光大神を語っても、そこに証がないなら、それは口ばかりのことになる。
教えを行じ、実験実証をもって語る時、金光大神の真価が現れる。
                (昭59・7・5)

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御神誡

一、わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと。


自分の苦しい体験で、人も苦しかろうと、分かっておるだけではならぬ。
それが祈りに、または他が助かることのための行動にあらわされなければならぬ。
                (昭43・6・21)

病気でおかげを受けた先生のところでは病人がおかげを受け、金銭関係で修行した人のところでは経済面て難儀をしている人が多く助かり、人間関係で修行させられ、これを克服した先生の教会では、人間関係の問題での人が多く助かる。
それぞれ、その苦しみを通して実感をもってお取次が出来るからである。
自らの苦難が生きてくる。信心とは尊いことでハある。
                (昭47・7・29)

助けると言うても、義理や人情で助けても、双方とも真の助かりにはなりません。
神情です。神心となってお導きをするのです。神様が助けて下さるお手伝いをさせて頂くのです。
そこには、人も助かり自分も助かる示現(神仏が不思議な働きを示し現すの意)の道が開かれます。
信心とは本当の真実を分かることです。
                (昭53・7・8)

諺にも「我が身をつねって人の身の痛さを知れ」と。
お道の信心ハ愛の心も慈悲心も内容とした神心を育て養うことである。

雪の日やあれも人の子樽ひろい
                (昭53・7・8)

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御神誡

一、腹立てば心の鏡のくもること。


腹が立つ時は、自分の患い上がりと知れ。自分は悪くないと患い、これで良いと思うところに、腹が立つのである。
心がくもれば、おかげは写らぬ。

高橋正雄先生のお言葉みることみることじぶんをみること
                (昭43・6・22)

腹立ちのない世界は不平不足のない世界。腹立ちのない世界こそ、博愛、衆に及ぼしてゆける世界。
腹立ちのない世界すなわち金光大神の世界。腹立ちのない世界ハ、喜びまたハ安心の世界に通じ、おかげ無尽蔵の世界に到る。
                (昭47・7・30)

神愛と受けたら御礼が言えた。
修行と受けたら、元気な心がモリモリ湧いてきた。
相手の心を思うたら、祈らずに居れぬ。
こんな人が世の中には沢山居ると思うたら、悲しゅうなった。
これは神の悲しみとも思えた。
事に当たっていよいよ深く広く祈れることは、誠にもって有難しの極み。

 * こんな人とはささいな事で腹を立て、身を苦しめておる人。
                (昭53・7・9)

親先生「この御教えをどのように受けておるか。また何故腹を立ててはならんのか。簡潔に。」
若先生「腹が立つ時は謙虚な心のない時だから、神様の働きがそこで切れる」
光昭先生「腹が立つ心とは小さな心だから、おかげがそこ止まりになってしまう」
幹三郎先生「一切のもの、一切の成り行きとの交流が出来ない」
栄四郎先生「一切を神様の働きと、寛大な心で受けて受けて行きたい」

 * 人に頼れば腹が立ち神に頼れば比礼が立つ
 * 馬鹿とあほうで道を開け
                (昭59・7・7)

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御神誡

一、わが心の角でわが身を打つこと。


バラスのはった道を、裸足で歩くようなもの。
信心という靴を履けば、楽に歩ける。
まるいたまごも切りよで四角ものも言いよで角が立つ
                (昭43・6・23)

円満な心、それは満月のような昼を欺くばかりの明光の状態である。
暗の闇から三日月ぐらいの光が半月と、段々神様のおかげで円を増して行くのでなくては、明光とは言えない。
生神金光大神とは、円満明光輝りかがやく状態をいうのである。
                (昭47・7・31)

「人を呪わば穴二つ」(法界坊)
「お主を殺せば、親まで殺した」(明智光秀)
信心ハ自分自身を殺すこと。親を生かし、周囲を生かす。
自分をむなしゅうすることです。
馬鹿になって行けバ人を生かし、阿呆になって行けば自分を生かす。
目出度、目出度で道が開ける。
                (昭53・7・10)

改まらねバと一心に念じ思うておることが、繰り返し失敗をすることがある。
悲しいまでに自分を嫌悪する。こういうことが吾が心の角で我が身を討つことになる。
改まりは本気でなされねバならぬ。

黙々と 断酒の心 菊づくり
                (昭59・7・8)

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御神誡

一、人の不行状を見てわが身の不行状になること。


悪いことを見て、自分まで引き込まれぬよう強い信心が必要である。
人の無信心になるのを見て、自分まで不信心になる人がある。
連鎖反応を起こすのである。
                (昭43・6・24)

「朱に交われば赤くなる」
にごった社会にあると、いつの間にか、にごった心になっているのである。
赤が白に見えたり、白が赤に見えて来るのである。恐ろしいことである。
「素は自己愛にある」

今日、ある婦人の方のお取次をさせて頂いた。
先日、教会からの帰り道に、子供が親に対して口汚く悪口雑言している場面にあって、そのあさましさにおどろき、自分も主人や子供に対して、あんな姿であることに気付き、心から改まることを神様に誓ったら、心の底から歓喜の涙が溢れたというのである。
                (昭48・7・1)

土の信心でゆきたい。
何を見ても聞いても、すべてを心の根肥やしにしてゆけば、見事な、カラフルな生活が出来るようになる。
夜叉の面を見ては胎教に悪いと言う夫に対して、妊娠中の女房言うに、吾が心の中にあのような恐ろしき心ハなきかと、毎日反省の素にしておりますと・・・・。
                (昭53・7・11)

一、諺に「人のふりみて我がふりなおせ」
一、佐藤宿老の伝え
  「人の欲情を見て、わが身に欲情を増すこと」
一、親の行儀を見て子供は育つ。
一、弓の稽古をするにも、的を定めて稽古をするように、お道の信心は生神金光大神を目当て。
一、天地との調和を狂わせぬように。
一、耳かきの ありてかりけり 日向ぼこ
                (昭59・7・9)

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御神誡

一、物事に時節を待たず苦をすること。


信心して時節を待つということは、最高のおかげを受けることである。
『受け物が悪ければ、おかげが漏るぞ』とある。
受け物を完全にするための時間を与えて下さるのである。
そういう意味で、いよいよ成行きを大切にしなければならぬ。
                (昭43・6・25)

天地に道あり、天地に旋律あり。道を知り、リズムに乗った生き方を体得することである。東京行きを願いながら、鹿児島行きに乗っては反対のことになる。道を知らぬからである。時節を待たず、迷い焦燥するから、天地のリズムを聞き取ることが出来ぬ。
御神意のままに生活することはリズムに乗って行動することで、我を捨てた生き方である。天地のりズムに聞き耳を立てながら、楽しく有り難く実意に生きる道を、教祖は教えて下さるのである。
                (昭48・7・2)

  すみれつむ子に野の道問えば
      わしの行く手を花で指す

天地自然がかなでる音律は、不断に人間氏子の幸せへの真の道を指し示している天然のリズムがあります。
そのリズムにのっての生き方を体得するのが信心です。
いよいよ成行きそのものを大切に、天地との関係(かかわり)合いを心で肌で感ずるフィーリングを育ててゆきたいと患います。
                (昭53・7・12)

雨具の用意があれば、降りだしてもあわてんですむように、信心も構えをつくることである。
喜びと安心を目指して行くうちに、必ず時節到来。
その前後に素晴らしいタイミングが生じてくる。
                (昭59・7・10)

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御神誡

一、まめな時家業をおろそかにし物毎におごること。


「我身は我身ならず皆神と皇上との身とおもひ知れよ」とあるように、家業に忠実であることは、神への奉仕であり、社会への奉仕でもあり、自身のためには、修行ともなるのです。
此方の行は「家業の行」と教えてあります。
驕りがましいことをすれば、必ず身の破滅です。身分不相応は、天地の法則に違反するからです。
教祖は身をもって教え誡めておられます。
                (昭43・6・26)

楽はすると思うな、楽はさせてもらうもの。
蝉は暑い夏を涼しい所で、涼しげに遊び暮らしている。
蟻は夏のうちにせっせと働き、冬場の用意に専念する。
                (昭48・7・3)

 耳かきの ありてかりけり 日向ぼこ

休息と「疎かにする」とは、自ずと意味が違います。
許されての楽には御礼が言える。
その心に神も一緒に和し給う、そこに和楽の歓びがある。
許されての自由、日と光の旋律、縛られることのない金光大神の無碍の世界、「晃」世界が開かれる。
                (昭53・7・13)

世間では、真面目に家業を勤め、食するものも、食せぬようにして貧しい生涯で終わる人もある。
信心させて頂く者は、教祖の御教えとして、これを頂き行ずれば必ずや繁昌のおかげになる。
                (昭59・7・11)

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御神誡


一、信心する人の真の信心なきこと。

〇 真の人をめざすこと。
〇 実意丁寧の化物にならぬよう心がけること。
〇 真の修行をせずして、真の信心は生まれぬこと。
〇 真の修行の第—は、自然の働きを不足に思わず、素直に受けてたつこと。
〇 真の信心には、生き生きとした喜びと、生き生きとしたおかげがともなうこと。
                (昭43・6・27)

天地の働きそのままが真であります。同時に、天地金乃神の大愛であります。この世には「人間氏子可愛い」の神の一念より外にありません。
この神意を悟り、素直に実意をもって神に相対し、または神の心の中に生きる生き方を求め、体得してゆくのを真の信心というのです。

三代金光様お言葉
『真の信心とは、安心の大みかげを受けることであります』
                (昭48・7・4)

一事が万事に円くまるく治めていく精心(精進)こそは、和青心を基軸にしての信心生活です。
間違いなく真の道を行くのであると同時に、真の信心を目指すことになるのです。
答は真のおかげとなって示し現されます。
                (昭53・7・14)

名刀正宗は身を守るといわれ、邪剣といわれる村正は切れ味においてはすぐれていても、名刀とはいわぬ。
信心も御利益があるからというだけで真の信心とはいえぬ。
教祖は自らが助かり、人をも助かり神も助かる手立てを、自らの心に和賀心の育つことを、よろこびとする道を説かれた。
                (昭59・7・12)

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『神訓』  ― 道教えの大綱 ―


御神訓

一、今月今日で一心に頼め おかげは和賀心にあり。


『重い物を負うて居るかかついで居れば苦しいがさうでないから信心は楽ぢゃ家業を勤め勤めするがよい』
信心をさせて頂いて居ることを、この上もない有難いものと思い、日々頂くお話を吾が心で練り出し練り出し過ごすこと。
そこには、神様の身近な働きを感じ、和賀心と共につぎつぎと、お蔭が練り出されてくる。
                (昭43・6・28)

平穏でない時、無事でない時、有難いと思わせてもらう心を和賀心というのです。

 和賀心一つを追求してみれば
  いつ如何なる場合にも
   詫びと御礼の言へる心ぞ
                (昭48・7・5)

 安心と和賀心ハ裏表
和賀心を求めて行くところに安心があり、安心の中味は歓びであり和の心である。
歓びはかぎりなく広がり、和の心ハ不壊のものと定まって行く。
おかげも無限大のものへと進展し、和賀心は人間幸福の要をなしてゆく。
          あなかしこ
                (昭53・7・15)
 *あなかしこ=あゝ恐れ多い、あゝ勿体ない

お道の信心は、究極のところ、
安心のおかげを頂くことである。
和賀心と安心の心は並行して
育ち、又育てていかねばならぬ。
                (昭59・7・13)

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御神訓

一、疑いを放れて広き真の大道を開き見よ わが身は神徳の中に生かされてあり。


 先ず目出度くなること。
即ち、馬鹿とあほうになること。疑いを知らない私になること。信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮し、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々嬉しゅう暮せば、真の道も神徳の中にあることも自ずとわかるものである。
                (昭43・6・29)

『いかされてあり』此の事実は信うすきものも信なきものも認めぬわけにはまいりません。信心とは疑いをはなれただけでなく、神徳の中にある自分をいよいよ広く厚くわかり信じてゆくことであります。
大道とは生神金光大神取次の道であります。
                (昭48・7・6)

おかげを受け、これほどの神の働きを身をもって実証し、神を疑い神を知らぬ氏子に神の認識をさせてゆくのが、おかげを受けた者の使命である。
が果たして、おかげはうけても信心をうけていないから『我身は神徳の中にいかされてあり』の実感をもたない者が多い。実感なければ神ハ現われて下さらぬ。
                (昭53・7・16)

落ちない汚れも、石鹸を使用すれば容易に落とすことが出来るように、信心も頂いてみて初めておかげがわかり、神の働きを信じられるようになる。
信心も重ねて行くうちに真実の信心もわかり、真実の神を信じることが出来るようになる。
広大無辺の神徳の中にあっても信心なければ、それをわかることは出来ない。
                (昭59・7・14)

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御神訓

一、生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ。


恵まれつづけて、はじめてわかるのがこの御教えである。
道の信心により人生観がかわり、死生観までが有難いものになってくる。
信心の究極のものはこれである。
天地が此の世あの世を通しての住家と悟れる時、魂の歓喜が湧き、安心のおかげがそこにある。
                (昭43・6・30)

地獄も極楽も、根の国底の国も、天地の中より他にはあるまい。いずこにあっても神のふところ。又「地獄は一定の住家ぞかし」(親鸞の言葉)と悟れた時、安心が生まれるのである。
いずれにせよ信心のよろこびだけは、もってゆきたいものである。その喜びは天の心、地の思いをさぐり、悟り、行の上にあらわすところから泉のようによろこびは湧きひろがってくるのである。
                (昭48・7・7)

人間ハ土より出て土に還るといわれる。
故に、その道中とても又、土の性根を身につける生き方こそ、天地人一体となれる唯一無二の融合世界に住むことが出来る。
天地の御守護の中にある実感も生まれる。
                (昭53・7・17)

霊肉共にお世話にならねばならぬ天地。
自然環境の破壊。
それは自分の家を壊すも同じ。
                (昭59・7・15)

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御神訓

一、天に任せよ 地にすがれよ。


人間は勝手なもので、困った時だけ神にすがり、神にまかせもきらぬ。
ろくろく教祖の教えも聞かずわからぬでは、神まかせにもなれぬ。
先ず教えを身につけよ。

 雨風も 天にまかせて 地にすがり
       忍べ折れるな 若竹の節
                (昭43・7・1)

「まかせてすがる」これが信心者の神に向かう本当の姿です。まかせることにも度胸が要ります。
すがると言うても、どこをどうするかというと、不安はない心配はないという心の状態になることをすがり願うのです。
本気で修行に取り組むことによって不思議に心に不安心配がなくなります。
こういう状態を本当の意味において「まかせてすがる」と言うのです。
                (昭48・7・8)

まかせてすがるというは、神の心にこたえて願うということである。
「天真地心」
無条件に与えてやまぬ心こそ天の真。
比礼伏して受けぬく心即ち地の心。
「地真水心」
天が与える御恵みとうける心ハ地の真。
低きへと流れてやまぬ心、器に従う心即ち水心。
                (昭53・7・18)

まかせれば、やすらぎが生まれる。
すがれば力がわく。
                (昭59・7・16)

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御神訓

一、神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じこと。


神ハ、人間だけでなく万物の親であることは、言うまでもないことである。
『信心は親に孝行するもおなじ事』ここのところを頂く以外はない。
「どうぞ完全なる氏子にお取り立て下さい」と、ただ願うよりなし。
又、その精進よりなし。
                (昭43・7・2)

一、親孝行とは親に安心してもらうこと。
二、その上よろこんでもらえば最高の親孝行であること。
三、そのためには先ず親の心をわかること。
四、親の喜びを自分のよろこびとすること。
五、このような心で信心してみれば、なるほど『神は我本体の大祖』であることがはっきりしてくること。
                (昭48・7・9)

一、親孝行の心で参ってこい
二、親孝行の心で教えを受けよ
三、親孝行の心で教えを守れ
親孝行には限りハない。限りないおかげを受けて、親神様じゃナァという実感はつのるばかりである。『神は我本体の大祖ぞ』ということを、心で肌で体得してゆくのが限りなく有り難うなるのです。
                (昭53・7・19)

金光教の信心の独自性を端的に表現された御教えである。
信心させて頂いておるうちに「なるほど親だな、親神さまだな」と実感せずにおられないおかげの世界が開かれてくる。
孝心の情をもって信心させて頂かねばならぬ。
                (昭59・7・17)

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御神訓

一、神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ 頼む心にへだてなく祈れ。


おかげがよりそうてくるのでなく、神様がよりそうて下さるのである。
断食から断食がつづいていた或る日、あまりやせて両親が大変心配するので、神様に「太らせて下さい」とお願いしたら「髪を切って帰れ」と頂いた。散髪して帰ったら、両親が「少し肥えたようだ」と言って喜んでくれた。今はこのように太りました。へだてなく祈った後が大事である。
それからは神様の御都合、御繰り合せを祈りながら待たねばならぬ。おかげには早いおそいがある。
                (昭43・7・3)

簡単なことほど、しっかり祈念せよ。こと重大と思うことは自ずと真剣になるもの、要は信頼心が大事である。遠くて近きは私共と神さまの関係である。駅の前におっても油断をすると汽車に乗りおくれるようなものぞ。
                (昭48・7・10)

これで充分、これでよいということはありません。これでは足りぬ、これで済んだとは思いませんという心が必要です。そこに不充分でも、出来ぬでも、出来たかのように神様のおかばいがあります。「昼夜もなけれバ遠きも近きもない」おかげが受けられます。要ハ信頼心の内容が大切です。
                (昭53・7・20)

どこにあっても、神さまのお供をしておる気持ちでおれば「神、吾と共にあり」という実感をもって身近に神さまを祈ることが出来る。
                (昭59・7・18)

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御神訓

一、清き所も汚き所もへだてなく天地乃神はお守りあるぞ わが心に不浄を犯すな。


 我が心に不浄を犯すな
不浄とは「不成」のこと、成就しないこと。
おかげになるだろうかと疑うことは、心に犯したことになるのである。

 桃の花 こいすむ池や うすにごり
                (昭43・7・4)

或る婦人へのお取次のお話。
下の病気でお参りして来た婦人に対して御神米をさげて、これを患部にお祀りするように申しましたら「汚いところに貼っては勿体ない」と言うから「その勿体ない心で貼らせてもらえ」と申しました。
きたないといえば人間の体くらいきたないものはない。お詫びする謙虚な心が大切です。上の方に貼る時も下の方に貼る時のような気持ちが大事であります。
神様にしてみれば上もなければ下もない。
                (昭48・7・11)

家の中でも不要な物、使い物にならぬ物ハ思い切って捨ててゆかぬと、家の中の整頓ハ出来ません。
心の中も捨て切ってゆかねバならぬもの。おかげにならぬ、特に不浄心を捨て切ってゆかぬと本当のおかげの成就になりません。
未練心、執着心に取組んで心の整理を心掛けてまいりますと、すべてが清いもの、美しいもの、大切なものと感じれるようになります。
おかげになるだろうかと思う心はすでに不浄心。
                (昭53・7・21)

罰とか罪の意識が不浄となる。神の大愛を知ることである。
四神様の御教え『罰を与える暇があれば おかげをやるわい』
                (昭59・7・19)

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御神訓

一、表行よりは心行をせよ。


「在 平 素」(へいそにあり)
何のけいこによらず平素の心がけが大事で、ことに信心は油断が禁物。
心行とは、心を研くとか、改まるということと同時に、いつも神様を思うということ。これ心行なり。
 四神様おことば
『表行が出来ぬようでは心行は出来ぬ』

 思い出すよじゃ 惚れよがうすい
      思い出さずに 忘れずに
                (昭43・7・5)

一、心行とは障子をしめるようなもの。表行とは雨戸をしめるようなもの。
一、表行とは身体を鍛えるようなもの。心行とは魂を清め鍛えるのが心行。
一、表行ではじまり心行で納める。
一、身体で辛抱することは表行、心で辛抱することが心行。
一、表行の中に心行あり、心行の中に表行あり。
                (昭48・7・12)
  *障子と雨戸、雨戸は泥棒が入らぬように、障子は隙間風が入らぬようにしめるもの。

 はがゆいこと
 残念なと思うこと
 それを有難いと思える
 稽古が心行です。
 すべてのこと
 それ神愛
 神願だからです。
                (昭53・7・22)

 月そのものに光はない
 太陽の光を受けて光る

「猿も木から落ちる」「百足もころぶ」というたとえがあるように、
自分で出来る、
自分の才能だと思う、
表行の根本である。
自分で出来るということは、何ひとつない。出来させて頂くのである。
我、無力を悟れたとき心行の根本とはなる。
                (昭59・7・20)

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御神訓

一、大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ。


おかげは、此の世に遍満しているのです。故に、いつでもどこからでも、何ごとでも願えるのである。
地球上における金乃神の働きは、実意この上もないのであるから、実意をもって一心に願えば、おかげになるのです。
『身上安全を願ひ家業出精五穀成就牛馬に至る迄氏子身上の事何なりとも実意を以て願へ』お道の信心は実意の追求である。教祖の生きられ方の研究である。
                (昭43・7・6)

郷に入れば郷にしたがえ、道の信心に入れば道に従わずしてはおかげにならぬ。実意丁寧の信心に入れば先ずわかるのが大地の御恩徳である。
大地の心を心として信心すれバ、事に応じて動じない大地のような信心が身についてくる。お道の信心によらねバ頂けぬ独特の有難さ、それが実意丁寧神信心である。
                (昭48・7・13)

孔雀の雄鳥は美しい。雌鳥は貧しく汚らしくさえある。
然し、生みなすのは雌鳥であります。
大地を穢土とも言い思うてきた。
教祖ハ大地の滋味豊かな働きに感じ、大地と共に土にまみれ、大地の徳を身を以て感得された御方であります。
この上もない実意な信心ハそこから生まれたのです。
                (昭53・7・23)

金乃神とは天地金乃神の略称と頂くべきであろう。
ある時、神様からのお知らせに、
『姓は天地、名ハ金乃神』と頂いたことがあります。
                (昭59・7・21)

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御神訓

一、ご地内をみだりに汚すなよ。


『神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなし』
信を受けるために神さまを粗末にしてはならぬ。粗末にすれば粗末にされ、大事にすれば大事にされる。
御地内をけがさぬだけでなく大事にしよう。
穢して居る者がおれば、かわりにお詫びをさせて頂こう。そして清めよう。
このような信心に信が頂ける。
 道の行者になろう。
 理屈ぬきに実行することだ。
 大地を清める。
 なんと素晴らしいことだろう。
 大地の声が聞こえるようだ。
 大地ハ一切のものを産みだす母体なのだ。
                (昭43・7・7)

私は少年の頃から大地をよごすことをやかましく言われてまいりましたから、訳はわかりませんままに、それを実行してまいりました。
福岡での修行中の頃は穢さぬだけでなく、神様のお指図をうけながら大地を清めて廻りました。
信心は理屈ではありません。この肉体も一度は大地に還らねバなりません。還る所をきれいにする精神です。
                (昭48・7・14)

私の祖母ハ私共が幼少の頃、怪我でもすると金光さまを唱えながら、傷口にお土をつけてくれました。
日頃、大地を拝み、お土を御神体と信じて大切にして居る者でなけれバ出来ることではありません。
                (昭53・7・24)

金光教信者の常識です。
ダイヤは、価値ある宝石ですが、その大小で値打が違うように、金光教が明教というても、頂き方の比重が、明教としての値打を現わすことになる。
大地の尊厳、如何に頂いておるか、確かめてみる必要がある。
                (昭59・7・22)

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御神訓

一、今より何事にも方位は忌まず わが教えの昔に帰れよ。


『我が教の昔にかえれ』とは天地の道理にもとづけということである。
そこには只おかげにつながる道だけがある。
自由の天地が開けてくる。
ただむつかしいのは、まちがったことでも思いこんでいることから抜け出ることである。
どんなにむつかしい事でも道があり、道をふんでゆけば目的地に到達することは容易である。
                (昭43・7・8)

無信心者でも生かされて生きていることはわかる。
疑う余地はないが信ずることは出来ぬ。信心はそれを信ずる稽古である。迷信に対する迷いも執着もとれ、この世に漲る神徳を感ずることも出来る。
教えの昔に復るということは、生かされて生きているという幸福の原点に思い気付かされることである。
                (昭48・7・15)

障りでもないものをさわりと思うたり、怖くもないものをこわいと教えたり、不自由の世界にして世間を狭くする生き方から、人間本来の姿にかえり、自由に天地との交流を喜び楽しむ道を、神も助かり氏子も立ち行く道と説いた金光大神の教えこそ、宗教以前の宗教と言えるだろう。道の信心によって戒律にしばられた宗教から脱皮せよ。
而して教えの昔に復れ。
                (昭53・7・25)

金光教を真の宗教であると世に宣言されたような御教えである。
人間のつくった、自然に墨金(尺)をあてたような迷信を打破せよとの御神意である。
                (昭59・7・23)

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御神訓

一、わが身はわが身ならず みな神と皇上との身と思い知れよ。


我が身でないとわかればわかるほど大事にせねばおられぬ。「身を鴻毛の軽きにおく」等という思想があったが、大変なまちがいで、最も神さまに対して御無礼になることと知れ。神さまからの預かりものである身体を大事にして、公のため世のため人のために尽くすことが、神と皇上とに奉仕することである。
「他が助かりさえすれば」の精神であり、働く(はたが楽になる)の精神である。
                (昭43・7・9)

ここ一寸、神様のお許しを頂かねば動けぬ私共であってみれば、我が身であって我が身でないことがわかります。それは心も同じであります。
神様の御心に添い奉ることは、身も心も自由自在に使わせてもらうことになるのです。
自由自在のおかげも又、頂けることになるのです。
                (昭48・7・16)

歌舞伎の殿堂と言われた歌舞伎座に浪花節が出演したというて問題になりました。けれども歌舞伎座ハ歌舞伎座に変わりありません。
天皇が人間天皇を宣言されたからというても、天皇に変わりありません。時代と時節であります。
「我が身どうなっても」と決心され、終戦の御決断とハなりました。
言ってみれバ総日本人の大恩人です。全国民が玉砕さえ覚悟していたのですから。
日本の繁栄と平和を祈るとき、天皇陛下をはじめ全国民の立ち行きと助かりを願います。やはり天皇ハ日本国民の中心です。
                (昭53・7・26)

神の大恩を悟ってはじめて
神恩報謝の生活ができる。
国恩を感じて、社会奉仕の
心が生まれ、国民の務めを
果たすことが出来る。
                (昭59・7・24)

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御神訓

一、食物はみな 人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ。


食物は神より人に与えられるものの第一なり。しかも生命の為に下さるものなるに、生命を犯すために飲み食いする者が多い。飲みすぎ、食べすぎ、不平不足がそれなり。
食物の中には、生命の原動力、血肉になる素と生命を断つもとがある。
                (昭43・7・10)

食物ハ人の命のためにあるもの、穀物も野菜も魚介肉類も、さまざまの飲みものも、総てが命のための神の恵みのものである。
肉類はいけない、酒ハ禁物、ということはない。問題ハ命の為にいただく心が大事であります。
断食の後に食する一杯のお粥の有難さ美味しさ、全身にみなぎる精気の躍動。
そこに神の恩恵を感じます。
                (昭48・7・17)

何処の誰にでも通用する普遍性に富んだ御教えです。
神と人との交流がスンナリと出来、御礼の言い合いを感ずるのが食物であります。
神のお恵みと人間氏子の労力がこめられたものだから、有難く感謝の心で食すべきだけれども、そのことを忘れて不足が出たり、食べすぎ飲みすぎでおかげを落してしまう。
ここを忘れんようにすることが、信心の大事なところです。
                (昭53・7・27)

食物はすべて命をささえるエネルギーとしての賜りものであるから「御食物」として頂くべきで、たとえば神前に供えられるものが仏前には供えられない(魚介類)といったような思想は、人間がもたらした偏見である。
                (昭59・7・25)

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御神訓

一、神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。


信心はせぬでも世界中の氏子におかげはやってある、というのと、ここでいう霊験(みかげ)とは違います。
霊験は頂こうという心になり、一心に実意にすがれば、不思議と思われるおかげが頂けます。
缶詰があっても缶切りがなければ缶詰は宝の持ちぐされです。
丁度、霊験は缶切りをかして頂く様なもので、缶詰があいても不思議ではないのです。ここでの霊験は私共が顕わして行くおかげです。
                (昭43・7・11)

私共ハ日々天地の大不思議の中に生活させて頂いて居ります。
夏があり冬があり、昼があり夜があり、天地の中にあることすべてが、私共の為にある大不思議であります。
今日、熊谷さんが昨日今日のことをお届けしておられます。
或る人に電話をかけようと思うと、向こうからかかってきます。
バスに乗り遅れたと思うと便乗させて頂く車が来ます。車に乗ると雨が降り出しました。こちらに着かせて頂きましたら、雨はあがっております。
毎日のことながら、神様ハ私一人のためにうごいて下さってあるかのように、一分一厘の間違いのないお働きの中にあることが勿体ないと言われるのです。
信心させて頂くと、こういうおかげを体験させて頂きます。
こういうおかげを小不思議と思います。ここのおかげを受けぬと大不思議が実感としてわかりません。
                (昭48・7・18)

神信心して不思議と思われる霊験が現われないなら、生きた宗教とは言えません。
おかげをうけて私共の心も生き生きしてこなけれバ、次の真実のおかげ(神さまが下さろうとしておるおかげ)にふれることは出来ません。
そこから真の道がわかり、真の人を目指し、神人合楽(しんじんあいらく)の世界に住むことが出来るのです。
                (昭53・7・28)

物を買い求めるにも
百円の品なら百円を
支払わなけれバ
入手することは出来ぬ
千円の品を
五百円支払っても
求める品もわたされない
                (昭59・7・26)

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御神訓

一、信心してみかげのなき時は これぞ不思議なることぞ。


素直にこのみ教えを頂こう。
『人間は病気災難の時神に助けて貰ふのであるから人の難儀を助けるのが難有(ありがた)いと心得て信心せよ』

吾も他も万物すべてが
刻々に変わって行く時の流れの中で
すべての事柄がおかげになっておる。
だから自然の働きを大事にしながら、実意をもって御礼申さねばならぬ。
五に五をたせば十になる原則があるように、神さまと私共が相より相すがり、頼み合いの信心が出来れば、当然のこととしておかげが頂ける。
頂けぬときは、自らの計算ちがいと知れ。
                (昭43・7・12)

助けにゃおかぬと念願を掛けておいでになる神さま、助かりたいと願う氏子、両者が相対して霊験の現われぬはずがないと信念し、改まることに、研くことにつとめ、一心に願い、両者の仲にみかげの邪魔になっておるものはないかと、自らの心の上に反省追求を怠らず、すがってゆけば、そこからみかげがうけられる。
                (昭48・7・19)

思うようになるだけが霊験(みかげ)ではない。
真心一心をもって願えば必ず手ごたえがあるものです。手応えを感ずるまで一心に姿勢を改めてゆかねバなりません。
手応えそのものが霊験です。
昨日、吉田先生が初めて或る御信者の帰幽祭と五十日祭を奉仕しました。奉仕を終わって感動一杯で御礼お届けがありましたが、それぞれに霊様がおかげを受けている様子をお知らせ頂き、私の様な者でも一心にお縋りすれバおかげが受けられることがわかりましたと・・・・・・・。
この心を忘れるなと言うたことでした。
                (昭53・7・29)

打てば響くおかげの受けられるのが、お道の信心です。
私は、初めてお願いに参ってくる信者に必ずおかげの験が見えてくるから一心にすがって来い、と申します。
ところが大概の人が後の信心が続きません。
                (昭59・7・27)

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御神訓

一、わが信ずる神ばかり尊みてほかの神を侮ることなかれ。


「一寸の虫にも五分の魂」と言い、霊魂が神秘的であればそれを祀るという。狐狸でさえ神に祀られられているというのが日本の神仏の現状であるが、侮るなとは、拝めという事ではない。藪神小神の前を通る時は、一礼して通るような心持ちが大切である。
 〇心を広うもてということである。
 〇本当は天地の神の中に包含されるべきである。
 〇他人の信心を非難するな。
この御教えの頂き所は『侮る事なかれ』
侮るという事が神の機感にかなわぬ。
                (・7・13)

私共人間の最もよくない僭越(せんえつ)な考え方は、あらゆる神仏(宗教)の長所欠点を決定的に極め付ける事です。
広大、然も悠久なる天地の道理の中に、人間の小さい思索によって結論を出すほど曖昧なことはない、と思います。
神仏だけではありません。
医学も科学も哲学も進歩の過程にあるのですから本当のものではありません。と言って、侮ってはなりません。
何事も本当からより本当を追求しておるのですから結論はないはずです。
                (昭48・7・20)

之が本当だ、これが真実だと確信出来て行じたら、必ず其の実証が現われるのがお道の信心です。
低迷なものを信じたり、これでよいと思うて居る人には神心をもって、より本当のことを伝えるのが真心です。
他を侮るのでもなけれバ軽蔑するのでもありません。
自分の心の定規に照らしながら、本当と間違いを正して行くのも『わが生活の真実を丁寧、親切、愛を以て語りゆき』と言うことになるのです。
                (昭53・7・30)

侮る心は高ぶる心、
神様に嫌われる心。
謙虚な心であれというだけではない。
心に謙虚さがほしいというのである。
いよいよ自らを深める以外ハない。
                (昭59・7・28)

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御神訓

一、信心する人の真の神徳を知らぬこと。


真の神徳をさとることのためにいよいよ大道を体認して、限りなく教えの深さをさぐり広さを知り、其の喜びと楽しさを知れ。
天地に満ちあふれている神徳を、体で心で体得させて頂くことが出来るであろう。
奇跡的霊験は金光大神の徳、または取次者の信心により顕われるものである。
真の神徳ハ頭で知っただけでなく、実感として神徳の中に生かされてある事をわかることである。その時、人は幸福である。
                (昭43・7・14)

天地金乃神はわれわれ人間の本体の親であり、人はみな其の神徳の中に生かされている氏子であります。神をはなれては生き得られぬものであります。氏子の信心によって神の働きを現わすのです。
神と氏子は親子の関係でありますから、親孝行の心で信心すれば神の信任を厚くすることが出来るのです。それを人間が神様から受ける神徳と言われております。
石橋松次郎先生おことば
「神徳は神さまの御信用じゃから」
                (昭48・7・21)

修行なくて真の神徳を感ずることは出来ぬ。
知っただけでなく神徳ハ頂かねバならぬ。
神徳の中にあっても修行なくては神徳ハ感じられぬ。
真の神徳を感じるところに神恩有難しの心が生まれる。
その有難しの心で修行にはげむ時、必ず誰でも神徳が頂ける。
神徳を受けて初めて真の神徳を知ったということになる。
神徳をわかり受けるという事ハ、修行にはじまり修行に終わる、と結論。
                (昭53・7・31)

ほんとうの魚好きは魚の頭を求めるという。
身だけを求める人は、ほんとうの魚好きとは言えない。
信心もおかげだけを有難がっておる人は未熟の証拠である。
ふつうの人では頂きかねるような問題でも、それを御神意として受けとめていく。
御神意がわかり真の神徳にふれていくこともできる。
                (昭59・7・29)

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御神訓

一、欲得にふけりて身を苦しむことなかれ。


〇 舌切雀の昔噺そのままに苦しんで居る人の、なんと世の中に多いことか。
〇 形なきもの、それは徳である。徳は持ち荷にもならず、あの世にも持って行け、子孫にも残すことができる。
〇 小慾を捨てて大慾に生きよ。
〇 此の世で一番強いものは、欲を捨てたものである。
〇 道にもとづけば、欲を捨てる事が出来る。
                (昭43・7・15)

一、慾得にふけることのむなしさ悲しさ
一、慾得の得は自業自得の得
一、煩悩の愛は足元からくずれる
一、苦悩の歓び
                (昭48・7・22)

富貴自在の世界に住みたい。
身を削りこころをけずり、天に捧げよ地を肥やせ。
信心ハ限りなきものへの憧れ。あこがれているものの前には、惜しいものも欲しいものも影をひそめる。
執着の心が身を苦しめる。
真の信心ハ小慾を捨て大慾に生きること。
                (昭54・7・1)

我情我欲があっては真の助かりはありえない。
神さまを信ずるということは、我情がとれ我欲もおのずととれて、はじめて助かりの世界がある。
                (昭59・7・30)

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御神訓

一、四季の変わりは人の力におよばぬことぞ 物事、時節に任せよ。


暑い事も、寒いことも、降ることも、照ることも、神さまの御都合によること。
人の力には及ばぬことで神様の御心のあらわれともいえます。
信心は、神さまの心に添うこと、起きてくるさまざまな事にも、これに忠実であること。それを合楽では特に「成行きを大切に」と言われています。
神様の御心にかなうことですから必ずおかげになるのです。
本来、神様のお働きの中味ハ『氏子可愛い』の一念です。
〇 行雲流水
〇 任せてすがる他なし
〇 信心辛抱さえして居れば物事整わぬことなし
                (昭43・7・16)

自由自在の境地があります。そういう世界に生きるということが信心する者の理想の世界です。
地球と太陽、地球と月というように、それぞれの引力を以て引き合っておる。
そこに一糸乱れぬ天体の運行があるように、私共の上にも一分一厘間違いのない自然の働きを現わすことの出来るおかげを受けるために「物事時節に任せよ」の実行がなされねばならぬ。
そこに依りて整うの世界がある。
                (昭48・7・23)

人間の智恵、力で大いなる自然をおし量ることは出来ぬ。
この梅雨前も今年は空梅雨とテレビで報じていたが、あちらこちらで水害が出るほどの雨量である。
災害も天地の謂(いわれ)あってのこと故に、自然の働きに逆らうことなく、時節を待つのが肝心である。
天地の心に添うことこそ、神乍(かんなが)らの生き方といえる。
神乍らのおかげの世界に住むためにも、時節に任せすがってゆかねばならぬ。
神の大愛を知るためにも・・・・・・。
                (昭54・7・2)

人の力に及ばざる事を不平不足を言わず頂くことこそ、御神意に背かぬ事である。
合楽で言われる御理念に基づく生き方は人間の最も善なる生き方である。
故に、人間の最高のおかげの道が開かれる。
                (昭59・7・31)

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御神訓

一、天地のことは 人の眼をもて知りて知りがたきものぞ 恐るべし恐るべし。


『神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない』
先ず天地の働きを知り、その働きが氏子の幸福社会作りにあることを信じ、すさまじいまでの神愛を受けよ。
神に信じられる氏子にお育て頂かねばならぬ。
人の眼には映じなくとも、心の眼を開けば、だんだん天地のこともわかるようになる。
めくら滅法が一番こわい。心の眼も開くとは神徳をうけること。
めくら蛇におじず、めくら滅法は案外素晴らしいこともできるが、大きな落とし穴に気づかぬ。
恐るべし恐るべしである。
                (昭43・7・17)

 三代さまおことば
『天地のことは人の力に及びませんでなあ』
「天地人」一体、これがお道の信心目標です。天地のこと、それは大海の水にも譬(たと)えられることです。私共は一滴の水のようなもの。しかし一滴の水が大海の水に合流する時、一滴の水は大海の水、大海の水は一滴の水ということになるのです。
そこから恐るべき力の発動を見ることが出来る。
因(ちなみ)に教祖の諡号(しごう)「人力威乃命(じんりきおどしのみこと)」
                (昭48・7・24)

小賢しき人より見れば神ハなし
 神の叡知にふれて見て
  はじめてわかる神の偉大力

神業を神業なりと知らずして
 生きて行くほど恐いものなし

永遠の魂悟らず終えて行く
 人ぞ悲しき唯物の
  人の世界に住むぞおそろし
                (昭54・7・3)

一寸先は闇の夜というが、心に明かりをともすことが出来たら闇はない。
心に明かりを頂けば心は触角の働きをするものである。
危ない所は除けることが出来る。
真愛にかばわれ真愛を悟る時、心の明かりハいよいよ冴えてくる。
                (昭60・7・1)

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『神訓』  ― 信心の心得 ―


御神訓

一、信心は家内に不和のなきがもとなり。


神さまが一番求め給うもの。それは家内に不和のないことであるが、円満というだけでなく、どのような場にのぞんでも、どのような節に出会うとも、家族の信心の度合はちがっても、一にも神さま、二にも神さま、三にもと、神さまに向かう心が一心になれるということである。
常日頃、家族勢を揃えた信心が必要である。
おかげの元とも頂ける御教えである。
                (昭43・7・18)

教祖さまの御教え下さることは、「わかる」だけでなく、おかげにつながる頂き方をせねば、御教えの値打ちはありません。
この御教えもそのとおりであります。
家内に不和がない、仲ようしとるというだけではおかげになりません。拝み合うてゆくと言うことであります。
形や言葉ではありません。常に心が感謝で一杯ということです。
                (昭48・7・25)

茶室を建てるに其の約束に従い内外にも、そのたたずまいにも工夫を凝らし、茶の精神を自ずと体得出来るように心を配ってあるように、信心者の家でも先ず神様を家の中心に奉斎しまつり、信心家庭としての雰囲気作りと共に家庭円満も形の上からも、そのような手立てが必要ではなかろうか。

 和をもちて治める人に福徳も
人をも慕い来るものぞ
 ゆめ忘れるな和賀心を
                (昭54・7・4)

お父さんが子供に優しい所では、家庭円満が出来ておるようです。
お父さんは怖い者、お母さんは甘い者というようなイメージは、アップしてゆかねばなりません。
朝の礼拝から夜の感謝の御祈念、そうした雰囲気を家内の中につくってゆくことが、大切です。
勿論、一家中で年寄りを大切にすることは言を待ちません。
                (昭60・7・2)

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御神訓

一、真の道に入れば 第一に心の疑いの雲を払えよ。


疑問がおこることは、進歩している証拠であるから、そこを大切に一つ一つ聞き、又は体験によってわからなければならぬ。
但し「神は絶対のもの」として疑ってはならぬ。
疑問とうたがいは自ずと違うものである。
道は一筋である。一心に進んで行けば疑いの門は開かれ絶対の信が生まれてくる。

 神は信ずる者を信ずる
                (昭43・7・19)

物や金は当てになりません。
それと同じことが親の上にも、子供、連れ合いの上にも現われることがあります。
永遠不滅なものはこの世にはありません。この世の一切のものは頼りにならんことがわかります。そうすると、最後に自分を頼ろうとしますが病気等になって自分も頼りにならんことがわかります。
そこからの信心であれバ真の道も求めずにはおれず、又神を信ぜずにおれぬ体験も生まれ、疑うに疑う余地のない神を知ることが出来ます。
                (昭48・7・26)

おかげを受けずして、神さまがわかるだろうか。
おかげを受けずして、不動の信念が得られるだろうか。
御利益を言うと低級視する宗教があるとしたら、それハ片輪の宗教だと思う。
おかげを重ねて行くうちに、神さまがわかり信念も確立してゆくのである。
先ずハ救われよ、そして信ぜよ。

 疑いの雲を払えばあるものは
  神愛のみとわかる嬉しさ
                (昭54・7・5)

神を信じて疑わない心。
修行をぬきにして神の確信は、生まれない。
話を聞いて頭でわかっただけでは、真の確信にはならない。
火の行、水の行をする訳ではない。御教えの実践であり、
心行、信行、家業の行、そこから動かぬ実証となる。
                (昭60・7・3)

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御神訓

一、真にありがたしと思う心 すぐにみかげのはじめなり。


おかげを受けたから有難いと言うのは、真に有難しではない。
心が浄化されるから有難い。これが真の有難しである。
真に有難いというのは、神の心に会うということで、即ち「会心」である。
会心の喜びこそ真の有難しである。

 〇 心のスピードアップを願え
                (昭43・7・20)


真実のことがわかるところから心に湧きおこる心情を真に有難しと言うのです。
今の今まで難儀と思うていたことが、神愛とわかる時、限りない喜びが湧いてくる。
幸と不幸は、紙一重のものです。

 そこ深く 静かにしずかに
  湧き出づる 愛の真清水
   くみてのまばや
                (昭48・7・27)


 論理もて説き得ぬ
  不思議をねむごろに
 説き明かしあり合楽理念は

「真に有難し」とは内には我が心が拝めるとき、外には天地の大恩が悟れたとき。
わが心が拝めていよいよ信心が深められ、天地の大恩が悟れてはじめて、信心が大きく広く育つのである。

  鍬をもつ手に天地の
   心しみじみ味わえば
  思わず感動自ずからおこる
                (昭54・7・6)


慚愧の涙にかきくれる時
初めて起こる感動が
発心につながる時
与えられるのが
「真に有難しの心」であります。
信心とは
この有難しの心を
育ててゆく精進であります。
                (昭60・7・4)

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御神訓

一、神徳を受けよ 人徳を得よ。


神徳は信徳、人徳は仁徳
人徳は人に真心であれば得られるが、神徳は、信心によらねば受けられぬ。
信心して真の人になり、神様の信用を受けねばならぬ。
神徳を受け、何事にも信心になれバ、人徳は自ずとついて来るもの。
神徳、人徳を兼ね備えて、はじめて人の幸福はある。
                (昭43・7・21)

やれる腕があるからするという人がある。
持って居るから出すという人がある。
こうした生き方には、限界がある。
必ず行きづまりがある。
「我」の生き方だからである。
我をとれバ神徳を受けることができ、人徳を得る事もできる。
                (昭48・7・28)

道徳的生き方をする人に人徳がつき、超道徳を身につけるれば神徳が受けられる。
心が培われ、悟りの境地が開かれる。
この世にあるうちに真の信心により神徳をうけておきたい。
  尊きは真なりけり
   真とは真理を求めて限りなく
    すすめてやまぬ心なりけり

  現世をおへて先の幽世までも
   もって行けるは神徳ぞ
    残しておけるも御徳のみ
                (昭54・7・7)

最高の穀物といわれる稲、麦も放任しておっては収穫は得られない。
人間も神の氏子といっておるだけでは哀れな生涯で終わらねばならぬ。
我情を鎮め、我欲をコントロールする精進を怠ってはならない。
お道の信心によって神の氏子としての値打ちを発揮できるおかげを頂きたい。
                (昭60・7・5)

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御神訓

一、生きたくば 神徳を積みて長生きをせよ。


柳に風折れなし。弱い人は特に身体を大事にするから、かえって長生きする様に、神信心すれば心を大事にするから長生きが出来るのも道理である。言い換えると、億万長者になりたくば「信心して長者の徳を受けよ」ともいえるのである。
腹がよいから何をたべてもあたらんというように、信心して腹がよくなる(心が美しくなるの意)と何事も心にさわらんようになる。腹も立たねば心配もせんですむので、長生きも出来よう、金もたまろうというもの。
                (昭43・7・22)

神さまに頂いた寿命を充分に生き抜く力を、信心によって養っておかねばなりません。
どんな難儀の中でも、信心によって養われる信心辛抱の徳こそ長生きの徳です。
教祖さまは『死したる後、いついつまでも拝んでもらえるのが長生きじゃ』と教えておられます。
                (昭48・7・29)

「天地の御守護の中に生活あり」
此の実感が生きるリズムになって来る。
嬉しゅう楽しゅう有難く愉快に過ごせる信心を身につけてゆきたい。

 直き誠の心もて
    人の世すごせ功しく
   神恩報謝の明暮に
     天命天寿成就せん
                (昭54・7・8)

神さまにささえられており
かばわれてある実感をもって
生涯を終わりたい
                (昭60・7・6)

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御神訓

一、わが心でわが身を救い助けよ。


『大きな信心がよい迷ひ信心ではいかぬ一心と定めい』不行状があったり迷ったりする時、身も心も救われぬ。
一心と定めて信心をつづけて行けば、心も助かり身も救われる。
大きな信心とは、偉大な馬鹿と阿呆になることです。馬鹿と阿呆に成れている時ハ、我が心で我が身を救い助けていける時である。信心を頂いている事がしみじみ有難いと感じられる時、貴方ハ、信心によって救われ身も助かって行ける時です。
                (昭43・7・23)

「信は力なり」神を信ずる力量のことです。
五十斤持てる人、百斤持てる人、二百斤平気で持てる人、これは、技とか業ではありません。
本当の力量です。
我が身を救うというても、他人を救うというても、神を信ずる力なしには救えません。
                (昭48・7・30)

     〇
 真の幸 人の力にては
  成されぬものぞ
   神の与える特権なれば
     〇
 みおしえを
  奉じて総てを神まかせ
   心安らに暮す楽しさ
     〇
 拝み合いつつ拝まれつ
  共に磨きつみがかれつ
   今日のよろこび何にたとえん
  (親奥様の誕生日に親先生がおくられた御歌)
                (昭54・7・9)

 ランプの芯も
 小さく出せば光も小さく
 大きく出せば光も大きいように
 人間の心も大きく豊かに出せば
 おかげも大きく豊かになる
                (昭60・7・7)

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御神訓

一、信心する人は何事にも真心になれよ。


神より金光大神に尽きぬおかげを、話にして下されてあるのだから、よく話を聞き、守ることが信心になることで、おかげを受けて身体であらわし、真心で人に伝えていくのが信心である。
教祖さまの生きられ方を、実意をもって神習うことです。
                (昭43・7・24)

お道の信心らしくなれ「魅力」あふれる信者になれよということです。
その内容は実意丁寧神信心であります。
人間の上にも家庭・家業の上にもおかげを受けることです。
女形芸に徹した役者の、あのみずみずしいまでの女らしさ、女にもない程の色気は、女になり切ろうとする不断の精進がなされるからです。
真実の信者をめざす者ハ、この精進がなされねばならぬことは言うに更なりです。
                (昭48・7・31)

守護られて居る実感が真心にならずにおれぬ。
わかっただけでなくそれを感じる時、湧いてくる心が真心。
どんな立派な着物でも、しめている帯との調和が欠けて居たら、着物も台なし。
どんなにスタイルがよくても肩桁がちょっと短かったらスタイルも台なし。
どんなに十全の教えと言われる金光教でも真が欠けていたら又、台なしと言わざるを得ない。
人間関係、物事、総てのことに真心になること。其の気になれバさほど難しい事ではない。

 〇心身一如

 〇水に映ゆる明月も
   波打ち立てばゆがむなり
    すべてが真の現象とぞ知れ
                (昭54・7・10)

「勝って兜の緒をしめよ」ということがあるが、信心も平穏だから、無事だからというて、心に隙をつくってはならん。
心におこる感興と、外からなる響きとがひとつになり、交響楽ともなり、リズムともなって神と氏子との絶妙なるドラマが生まれる。
むつかしいと思わず、信心が血肉になる精進である。
                (昭60・7・8)

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御神訓

一、真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。


すべてのことを有難く頂く為に肉眼をもってせず、心の眼をもってすれば、一切神愛とわかりおかげと悟れるのである。
真の信心生活、真の御礼の生活が出来るようになる為にも心眼を開かねばならぬ。
総てのもの、すべての事の形のことを見ず、其の実相を見る事が心眼を開くことである。女の妊娠の時、困った事とハ言うまいが、よいものが生みなされて来る為の苦しみだからである。
よいおかげの産みなされてくる為の修行の時、不平不足では折角のおかげが流産になる。
                (昭43・7・25)

肉眼の世界は、人間の考えを中心にした世界。
心眼の世界は、神さまを中心にした世界である。
不平不満の満ちた肉眼の世界より、喜びの満ちあふれた心眼の世界に住むこそ、御神願の世界である。
心眼を開くため信心の稽古をしていると言うても過言ではない。
                (昭49・7・1)

「真の道」いかにも真っすぐい道のように思うけれど、決して一直線ということではない。又、常識的でもない。
むしろ曲がりくねった道である。
真の道をまっすぐなものと思うところに至難の道とはなる。
心の眼を開けばハッキリとわかる、わかる迄が信心である。

山頭火の句に、
「まっすぐな道で淋しい」と。
真の道は茨の道ではない、楽しく心はずむ道である。
要心せよ、身欲は迷い道となり理屈はまわり道となる。
                (昭54・7・11)

心眼を開いたからというて、痛い痒いがなくなるわけではない。
只、修行の価値観が変わってくるのである。
                (昭60・7・9)
 *只、痛い痒いが修行というだけでなく、その修行が人が助かるための修行と実感が頂ける信心。
 「おまえが苦しめば苦しむほど人が助かる」という修行。

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御神訓

一、神の恵みを人知らず 親の心を子知らず。


神の恵みを悟れば報謝の生活ができ、親の心を知れば親不孝ハ出来ぬ。
親の思いを子供にわからして下さい、私には神さまの恵みをわからして下さい、と願え。
                (昭43・7・26)

神さまの嘆きをここに聞く思いがする。
神さまに喜んで頂く信心をさせて頂こう。
神さまの御思いに応える信心になろう。
電流がそこにあっても電球との接点がなければ明かりにならぬ。
「親は子のため子は親の為」
これが真の道の原点です。
                (昭49・7・2)

  千万の富にもまして嬉しきは
   親子仲よくつつがなく
    生きる身の幸

  親神の思いにくらぶれば
   万分の一にも足らねども
    誠のしるしと受けさせ給え

  こころよきは子の親を
   大切にする状ほどに
    うれしき事はなかりき

  如何ならむ
   宝といえど孝行の
    徳ほど宝はあらじとぞ思ふ

  子の思い
   親の思いと交ふとき
    神の心に交ふ時とぞ知れ
                (昭54・7・12)

神の恵みがわかれば
悲しゅうなり
有難くなり
うれしゅうなる
親の喜びを自分の喜びとしての
心がけができたとき
親の心が
わかったときである
                (昭60・7・10)
 * 悲しゅうなるとは、神の恵みがほんとうにわかったとき、その恵みに対して自分の信心が足りないことがわかるところから悲しゅうなる。
   そして足りない私でも、このようなおかげを頂いておることが有難くなり、最後には、うれしゅうなってくるのである。

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御神訓

一、神信心のなき人は 親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞや。


人の世の真実を知らずにいる人が、どれほど居るかわからない。金光大神ハ此の世での人間が真の幸福になる道を教えて下さった。
然も、この世での幸せがあの世にも持って行け、此の世にも残しておける道を、実意丁寧に話にして残して下さっているのである。
その真実の中に、素直になることで人間が幸福になれる。
底抜けの素直さが出来れば、底抜けした限りないおかげが受けられる真実を、身をもって証を立てよう。

  何事も素直心の一つにて
   雲の上までのぼる道あり
                (昭43・7・27)

信心するなら拝むだけ参るだけでなしに、信心の道を習い行い行じて、おかげの道を体得し、世の中のほとんどの無信心の人達に、教え導いてゆかねバならぬ。

  みちびきの 親になるこそ 尊けれ
    人も助かる 神も助かる
                (昭49・7・3)

天地の大霊に対する小天地的小分霊である私共人間が、天地との関係を知れば知るほど、その道理にもとづく生き方をせずにはおれぬ。
それを教祖ハ親神と氏子と説かれた。
いわば人間ハ神の真子であり愛子である。
私共がその心になって子が親に対する思いをもって向かえば、そこからなるほど親神様だなあというみかげの実感が限りなく広がって行く。信心はそこがわかり、ここを進めてゆくのがお道の信心である。
  世の中の 難儀のもとは 人々の
    親神の心に 添わぬからなり
                (昭54・7・13)

御理解に『昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ』と教えられるように、道徳的観点から言う人の道、又は孝の道とは自ずと内容の違ったものである。
天地に通う道、真の親孝行の道がついてくる。因縁に苦しむことなく罪悪にとらわれることなく、究極、金光大神の世界、喜びの世界を究めてゆけるのが御道の信心である。
                (昭60・7・11)

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御神訓

一、我情我欲を放れて真の道を知れよ。


真の道を知る前に真の人になることにつとめねばならぬ。
我情我慾を捨てた姿こそ真の人の姿である。
我情は自分の思いで、我慾は恵まれる以上のものを慾する心。
真の人になることにつとめるところに、吾、神のふところにあることを悟ることが出来る。
                (昭43・7・28)

『欲しいものも考えることもいつのまにかなくなりましてなあ。有難うて有難うて・・・・・・』
これは三代金光様のおことばです。
この心境こそ我情我慾をはなれた者のみが味わうことのできる真の世界であり、思い以上、欲する以上のおかげの世界がそこにあるのです。
                (昭49・7・4)

 大神の威徳にふれる歓喜(よろこび)ハ
  我情我慾をふり捨てて
   神の御胸に抱かれてこそ

話を聞いてわかるだけでなく、我情を放し我慾をせず、そこから真の道が開かれる。
我があっては真の和ハ生まれぬ。
真の和があれバ光は与えられる。
光があれバ真の道がハッキリわかってくる。
                (昭54・7・14)

我情我欲を放すとは、無心没我とは内容が違う。
我情我欲を放れると、いよいよ情が強く深くなる。
欲は益々、膨れてくるものである。
私心を放れての欲であり情である。
                (昭60・7・12)

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御神訓

一、わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともあり。


信心はすべてのこと、ものを生かすことを教える。我が心が生き生きと喜びに満ちてくるからである。
人が善いのと、神に信心しておかげを受けるのとは別物であることがわかる。
信心の喜びは我が身だけでなく一切を生かす。
不平不足は我が身だけでなく運命を悪くする。
                (昭43・7・29)

物でも捨てれば殺すことになり、使えば生かすことになる道理。
心も放任すれば殺すことになり、研き清めしてゆけば、我が身だけでなく一切を生かす働きが生まれてくる。
                (昭49・7・5)

神人の歓喜は現在過去をも生かして居る時です。
然も未来への光ともなるのです。
その反対の心ハお先真っ暗の時、お蔭をも殺しておる時と知らねバなりません。
自分を殺し神をも殺すことになります。
                (昭54・7・15)

力持ちが
力にまかせて
人をきずつけたり
殺したりする。
自分の力を
世の為、人の為に
使う人もある。
                (昭60・7・13)

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御神訓

一、大酒大食するは絶食のもとになるぞ。


信心があっても、暴飲暴食すれば体を害することはわかった事であるが、なかなか出来難いことで、信心する者は有難詞、勿体なしが伴わねばならぬ、ということを教えられたものである。
 〇何でもお粗末にすることは、神さまへのご無礼と知れ。
 〇おみきのうちは有難いが、お酒になると酔狂になる。
                (昭43・7・30)

お角力さんは大食するだけ大きくなり力もついてくる。食後が肝心である。
少量食べても、食うては寝、食うては寝すれバ牛になる。
適量の酒は自他を益し、量を過ぎれバ自他共に害する。
                (昭49・7・6)

あれを食べてはならぬ、これハ飲んではいけぬという戒律的な教えハない。
人間らしい生き方を自然に則して教えながら、絶食の元になるようなことは神さまにもご無礼、自らも身体をこわすことになると教えられたところに、金光教十全の教え躍如たるものを、やさしく感じさせるみおしえである。
                (昭54・7・16)

信心がなくても誰でも合点のいく御教えだが、実行することハ容易くて難しい。
教祖の御教えとして改まって頂く時、容易う教えを血肉にすることの出来る教えである。
                (昭60・7・14)

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御神訓

一、食物はわが心で毒にも薬にもなるものぞ。


先ずハ有難く頂くこと。同時にこちらの身体の健康状態がよくなければ、どんなに薬になるものも毒になる。これは食物だけでなく、何事もこちらの受け心次第でおかげになったり、おかげ落としの元になったりする。胃腸の丈夫を願うと共に、心の胃腸も健全を願わねばならぬ。
 〇 回心 − 心を回転して邪より正に入るなり。
 〇 毒を変じて薬にするのが信心である。
 〇 めぐりを有難く受ければ徳になる。
                (昭43・7・31)

よい事ばかりでない、楽なことばかりでないのが私共の日日です。
教祖さまは其のような日日を夜が明けたら元日と思い、日が暮れたら大晦日と思い日日を嬉しゅう、悪いこともよいこととして、楽でないことも辛抱して暮らされました。神さまも「これには試しようがない」とまで言われるようなおかげを受けられました。いわば毒なものでも薬としていかれたのです。頂き方ハ食物だけではないことがわかります。
                (昭49・7・7)

一粒の米、一滴の醤油でもお粗末にしてはならぬという心掛けが大切です。
しかし余ったからと言うて、カスッて食べる心はおかげになりません。

  親神の 願に生きる 吾なれバ
   小さき事にも 心許さず
                (昭54・7・17)

食物と人間との関係は舟と舟頭のようなもの。
舟頭あって舟ハ自由に操られる。
人間あって食物。
身体を操る食物との相まった調和に良い働きが生まれる。
調和をくずすと身体も壊れる。
                (昭60・7・15)

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御神訓

一、何を食うにも飲むにも ありがたくいただく心を忘れなよ。


世に食物を三宝様というて、尊いものとして頂くことの出来るのは人間だけである。
感謝の心を無くしたら最低である。
死したるのち神に祀られ神になるのを楽しみの信心においておやである。
有難しの積みかさねが、人間にだけ許された徳を受けていける道でもある。
又、人間の特権でもある。その特権を放棄することは、この上もなく惜しいことであると同時に、神様への御無礼ともなるのです。
                (昭43・8・1)

有難く頂く心もさることながら、先ずは美味しく頂ける健全な胃腸に御礼を申さねばなりません。
また有難く頂けるためにも、からだ全体の健康を願わねばなりません。
天地の御恩恵を思い思い頂いておりますと、お百姓さんにも漁師の方にも、それを加工して下さる人達にも御礼の心が自ずとつのって参ります。
                (昭49・7・8)

私は飲食に当たって先ず願います。
どうぞ頂いたものが血肉となり活動の元になりますよう。
又、大小便としてお取り払い頂きますときは、心よりお礼申し上げて居ります。
「願い」「頂く」「御礼」の繰り返しであります。こんなわけですから、真実有難しの一念で頂くことが出来ます。

  食物ハ命のために親神の
    作り与えしものなれバ
   頂く心あつくして
    健康に過ごさん今月今日
                (昭54・7・18)

美味しく
楽しく
有難く
                (昭60・7・16)

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御神訓

一、体の丈夫を願え。


体が丈夫でない者に対する御教えと思う。どうぞ元気にならして下さいというのである。病気をしても、怪我をしても養生することは必要である。医者が病気を治すのでも薬が癒すのでもない。癒し治して下さる働きは神様である。只その促進をはかるのが医者であり薬である。
その真実を知って丈夫を願い、全快を祈らねばならぬ。『祈れ薬れにすればおかげも早いが薬れ祈れにするからおかげにならぬ』と教えて下さることがよくわかります。
                (昭43・8・2)

楽を願ってのことのみでない。
お役に立ちたいの一念が願わずにおられぬ。
痛い苦しいというても生きて居るしるしと思えばお礼が言える。
                (昭49・7・9)

私の健康管理はどんなに苦しく、きつい時でも弱音をはかぬことです。
「きつい苦しいと言うと死神が集まる」と頂きました。
以来、きつい苦しいと言わずお陰を頂いております。
結構な修行をさせて頂いていると御礼を申すことです。
これハ金銭面の事でも同じ道理です。
金に困るとか「貧より辛いものはない」と思うたり言うたりすれバ貧乏神は離れません。
何事によらず有難く頂く事は、神さまに対する間違いのないお答でもあります。
                (昭54・7・19)

健康は一切を+にする土台である。
大切なことは、力余って「とりこぼし」にならぬように慎みが肝要である。
                (昭60・7・17)

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一、体を作れ 何事も体がもとなり。


体を作るということはどんなことであろうか。
栄養をとることも大事、適当な運動も又必要である。何事も体が元であるようにおかげも心が元である。
心の健全を願うと同時に作らねばならん。それには心の栄養を先ず必要とする。
苦い思いをすることも苦しい悲しいことも、すべて神さまから差向けて下さる栄養と悟り、有難く頂くことである。
教えを行ずる事は心の運動である。
                (昭43・8・3)

生命あっての物種
肴があってお酒が生きる
お酒があって肴が生きる
人間万事生かし合いに生きるが真実の生き方
  教主様の御歌
 なすといへ なし得る条件恩恵の
  なくばなし得ず 何ひとつとして

                (昭49・7・10)

願わずにおれぬが、又、作る精進を忘れてはなりません。
其の精進とは「天地金乃神と一心なり」の信心を目指すことであります。
嵐の前の静けさや降る前の雲行の上に、その前ぶれのように、前兆としての現象が起こる。
大音声に又、或る時はささやくように、天地自然の生きた動きハ実に親切である。
お道の信心は、天地との交流を生活のリズムの中に受けとめられる生活を願いとせねバならぬ。
                (昭54・7・20)

体調を整え、体を作るということが、大切であるということは勿論だが、健康が禍の元にならぬように、何事にも信心になることを忘れてはならない。
                (昭60・7・18)

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御神訓

一、心配する心で信心をせよ。


心配せんですむ私になれということ。
心配は神様に預かって頂く。
お取次を願うだけで、お取次を頂いて帰らないところに心配がはなせぬ。
信心して神の大恩を知れば、無事健康、子孫もつづき身代も出来、心配はいらんようになる。
お道の信心は天地の大恩を知ることである。
                (昭43・8・4)

吉野山 ふみ迷うても 花の中

心配の元を尋ねて求むれば氏子信心しておかげをうけてくれよの親心。

心配があるからこそ一心が立つ。
おかげで信心が出来ますという事になれば先ずは安心。

山は雪 ふもとは霰(あられ) 里は雨
  いずこも同じ 神のふところ
                (昭49・7・11)

本来、信仰とは任せすがるところからはじまるのです。
信仰体験がつまれにつまれて神の確信が育ちます。
心配が大きけれバ大きいだけ、おかげもまた大きいと悟り、修行力行が大切です。
心配は広前に置いて帰れるだけの神さまを頂きたいものです。

 まかせきる心の内ぞ尊けれ
  神を信ずる心厚けれバなり
                (昭54・7・21)

願いが大きくなると
小さな心配はなくなる。
                (昭60・7・19)

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御神訓

一、障子一重がままならぬ人の身ぞ。


信心の根本精神で先ずハこのところがわかるための信心修行がなされ、尚且つ御理解を広く深く受けねばならぬ。
自分ではどうすることも出来ぬ。いよいよ吾無力の自覚に立つとき、はじめて神さまの前に無条件降伏が出来るのである。
おまかせの生活即ち、信心生活の醍醐味がひらけてくる。
三代金光様おことば
『氏子が神さままかせなら、神さまが氏子まかせになるとおおせられますから』
                (昭44・6・16)

思い上がった人間に知らせねばならぬ。知ってもらわねばならぬ。
出来るというのが思い上がり、出来させて頂くのである。
「神様のお許しを頂かねばここ一寸動けぬ私」を悟り、人間の誤を指摘導くことは、最高の「おかげ」への指針を与えることになるのです。
                (昭49・7・12)

神の経綸は一分一厘違わない。
その中に生かされてある私どもとわかれバ、その働きに素直に合流する生き方を体得する以外に真の道も人の倖せもあり得ない。

 障子一重がままならぬ人の身なれど
  吾神と共にありけるしるしぞみゆる

 成行を尊びうける生き方を
  学びて永遠の生命とぞせん
                (昭54・7・22)

なんと悲しい迄の表現である。
然しこの事を悲しい迄に感じとった時、すがらずにおれぬ、任せる外なしの心が開ける。
初めて真の信心の第一歩といえるのではなかろうか。
                (昭60・7・20)

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御神訓

一、まめなとも信心の油断をすな。


つよいが当てにならぬのが人の身の上。繁昌しているから安心ということはない。
いよいよ繁昌するよう、いよいよまめであるよう、御礼の信心が必要である。
光には蛾(我)が集まるように、まめな時、繁昌しているとき、すべてに順調であるとき、思い上がりという虫がつきやすい。
                (昭44・6・17)

信心は進展していないときは後退して居る時です。
じっと同じ所にあることはありません。後退している時ハ、有難いはずのお話を頂いても有難くなれません。
おかげをうけていても、おかげをおかげと感じとることが出来ません。
油断大敵、慢心は大怪我の元。
                (昭49・7・13)

「畏み畏みも白す」と言い
「おかげ頂きました」と言う
「有難うございます」と言う
これがマンネリ化せんように精進せねバなりません。
教会を遠ざかるのは油断のはじまり。
忘れませんと言いながら、遠ざかれば遠ざかるほど見えなくなります。
                (昭54・7・23)

まめであればある程に、平穏無事であれば平穏無事である程に、強うなり手厚うなる信心を身につけてゆかねばならん。
それには和楽路ばき(一生懸命の意)の信心が、いよいよ決意されねばならん。
御道の信心は、和楽の路を辿るのであるから。
                (昭60・7・21)

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御神訓

一、信心は本心の玉を磨くものぞや。


本心の玉とは心の中に誰しも受けている神性のことであります。
研けば必ず出てくるもの、光を放つことにもなるものです。
光の前には暗いことは消えてなくなるものです。心を研こうと思えば身のまわりに一杯、研く材料がころがっています。
私の信心の心得の中に「それによって研き、これによって改まる」とあります。
                (昭44・6・18)

光明世界に住むということが信心の目的です。光明あれば不安うれいはなくなります。
金剛石も磨かずば光は出ない。
心も研いて、はじめて輝きとなる。
家庭の内が明るくなり、世の中をも明るくすることが出来る。
神さまの願いは人間が光明世界に住むことです。
                (昭49・7・14)

自らの心に頼れる内容をつくれ。
先ず心の垢をとれ、洗い清めることじゃ。
心が輝き出す、総てが輝いて見えるようになる。

  心研くに砥石はいらぬ
   己が心の悩みがといし

  研けば輝く尊き光
   周りの闇を照らすなり

  世の明りともならんには
   人を拝める心をつくれ
                (昭54・7・24)

本心に立ち返るということは、人間、この世に生を享けると同時に神性が授けられる。
ところが成長するにしたがい我が芽ばえてくる。
神性とは似ても似つかぬ浅ましい苦悩の道へ堕落してゆく。
そうした人生の分岐点に立った時、真の道を示してくれるのが真の信心である。
                (昭60・7・22)

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御神訓

一、若い者は本心の柱に虫を入らせなよ。


頭も出来る時、身体の発育も一番盛んな時である。
間違うと頭でっかちになったり、体力だけが出来、腕力ばかりで暴力をふるうようになる。
心を育てることを忘れるからである。世のお役に立つ人間に、お育て頂かねばならぬ。
頭脳も体力も心も、育つバランスがくずれるとまちがってくる。
若い者の考えは甘いから虫がつきやすい。
お参りが出来る、必ず喜びの芽が出る。
それが無惨に摘みとられる、惜しいことである。
信心の若い芽にも虫がつきやすい。
                (昭44・6・19)

信心は筋金入りでなけれバならぬ。
筋金には虫も寄りつけぬ。

目もと口もと耳もとに御用心。
信心の心で見ること聞くこと味わうことです。

俗には「見ざる言わざる聞かざる」と申しますが、信心する者は見ても聞いても迷うことがあってはなりません。
                (昭49・7・15)

若者よ雄飛の心を抱け。
神の悲願に応えまつる願いを立てよ。
若者でなければ出来ぬ御用がある。
「和賀心時代を萬国に広げん」の精神。
寒天危地と言われる人間世界を歓天喜地の世にする手立ては他にない。
ふるい立て若き血に燃ゆる心を。

 天地の真理陰陽の
  法則(のり)にしたがいまっしぐら
   人とし生まれし使命果さん

 若き教えのともがらと
  力を合せいざないて
   迷える人を導かん

 真の光赫赫と
   我等を照らし悟らしめ
  示現の世界を示さるる
    神の願にこたえなん
                (昭54・7・25)

縛られない
伸び伸びとした
青春時代でありたい
大きな信心を目指すこと
問題が問題にならず
御無礼が御無礼にならず
不浄が不浄にならず
おかげの世界も大きくなる
                (昭60・7・23)

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御神訓

一、慢心が大けがのもとなり。


信心はえらくなるためでもなければ、かしこうなるためのものでもない。
信心は有難うならせてもらう稽古である。
おかげを受けるために信心すると、おかげを受けて慢心になる。
信心、真心、神心を求めての信心には、慢心の出ようがない。が、慢心が出るほどのおかげも受けてみたいものです。
                (昭44・6・20)

一、これが本当だと思いこむ心は慢心です。本当の本当を求める姿勢が肝要であります。

一、慢心があると広さは出来ても深さがなくなります。
  自分を掘り下げようとしないからです。
                (昭49・7・16)

    教主様御歌

  こればかりのことなるからに
   よからんと心ゆるすに
    あやまちおこる

台風の眼にあたるところは無風状態ということです。
無事息災のときこそ油断なく信心をすすめるときです。
教主様の御歌と併せて頂いて下さい。
                (昭54・7・26)

一角の信心が出来、一角のおかげを受けるようになる頃から慢心が出る。
信心は、さらに更に深め広げてゆくものである。
                (昭60・7・24)

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御神訓

一、用心せよ わが心の鬼がわが身を責めるぞ。


良心の呵責をいわれたもの。
我が心一つで極楽に住むことが出来るかと思うと、我が心から地獄の苦しみを受けねばならぬ。
信心により真の徳をうけ、苦しみのない世界に住みたい。
法を滅した世界、それを私は「滅法界」と言っている。
神愛を悟れば、こわいものも困ったということもない極楽世界あるのみである。
                (昭44・6・21)

一、うかつに、言わんで済むことを言うて苦しむことがある。
  吾が心の中に鬼が住んでいる証拠。要心もさることながら、この鬼を退治するとあとは楽。
一、人間の本性に関しては悲観的であり、人間の行動に関しては至って楽天的である。
  本性に体しては神性を自覚し、行動にはきびしく反省的でありたい。
                (昭49・7・17)

信心のないとき気にもとめなかった事が、しきりに心にかかり出した。我が身を責めるのである。慚愧の念と言うのであろうか・・・・・・。
真っ暗な心の中に信心の灯がともりだした。心の隅々に迄ハッキリとわかるようになった。
これに取り組んで行くことが改まりだと心づく時、生き方が変わってきた。これから真の助かりが出来るという喜びが湧いてくるのである。

  執着と きりなき欲の その果ては
   身も魂も 滅ぶほかなし
                (昭54・7・27)

自分自身心身共に
助かることの為の信心であれば
心の鬼は出番を失う
                (昭60・7・25)

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御神訓

一、打ち向かう者には負けて 時節に任せよ。


勝つ力をもっていて負けることはむつかしいことではあるが、信心をいただいておると、それがむしろ楽しゅうなってくる。そうなれば信心も一人前である。
時節をまっておれば自他ともに助かっている体験が生まれる。
私の信心の信条である成行きを大切にとか、又は尊ぶという信心が身についてくると有難い。
神さまが見ておいでの世界に生き抜くことが信心と信じているからである。
「馬鹿とあほうで道を開け」と福岡教会の初代は教えておられる。
                (昭44・6・22)

実力なしにハ勝てぬ。
負けることがわかっていて討ち向かうほどあわれなことはない。
返り討ちにあうは必定だからである。
負けて勝つということは、時節到来するまでにエネルギーをたくわえて待つのである。
只待っておれバよいというのではない。
                (昭49・7・18)

燃ゆる心ハおさえることは出来ません。おかげの水を打てば治まります。
治まってみれバ何も争うこともないことがわかります。
勿論このみおしえハ勝負を争う勝負事でハありません。勝負を楽しむことでも、「よい勝負が出来ますよう」に願わねバなりません。

 豊かなる心をつくるに己が先づ
  打向ふてくる人に勝をゆずらん

 打向ふものには負けて祈るこそ
  人をば救ふはじめとぞ知れ
                (昭54・7・28)

  妙賀栄える富貴繁昌

負けておれる心が尊い。
相手の心を祈れる心がさらに有難い。
そういう時に感じる心が妙賀である。
妙賀には、必ず富貴繁昌がともなう。
                (昭60・7・26)

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御神訓

一、過ぎたることを思い出して 腹立て苦をすなよ。


有難しを追求してゆくのが信心であってみれば、過ぎた事のすべてがおかげの素になっているはずであるのに、思い出しただけで腹が立つということがある。
信心の根本をまちがえているからである。
はずかしいことではある。
 甘木の安武松太郎先生は
  「われよしと 思ふ心を 仇として
      戦ひて行け 日毎夜ごとに」
と教えておられるように、われよしと思う心が腹立ちの元になるのである。
                (昭44・6・23)

思い出しても腹が立つというようなことがあった。
信心を頂くようになったら、あの事のおかげで信心をわからせて頂いた、力を受けたと其の事に御礼が言えるようになった。
無念残念、苦しかったは昔の夢と消え失せた。
信心のある者とない者の違いをしみじみと感じます。
                (昭49・7・19)

過去・現在・未来までも生かし生きることが信心ですから、すべてのことに御礼の言える信心を頂きたい。

  あれもおかげ
  これもおかげとわかるとき
  無明の闇はいつしかに
  光明世界と変るなり

  心眼を開きてみれバいまわしき
  こととて今は神愛と
  悟りて真広の道ゆかん
                (昭54・7・29)

  養素拝山

全てのことを信心の養素となし、全てのことに御礼の言えれる信心により、現在を喜び、未来をも楽しめる信心が出来てくる。
                (昭60・7・27)

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御神訓

一、心で憎んで口で愛すなよ。


自分の都合で人を憎んだり愛したりしていることがある。
自己中心ではよい信心はできぬ。どこまでも神さまを中心にした、神さまの心を心として思わなければならぬ。そこには神の氏子としての人間があるばかりである。
「口でけなして心でほめて」というのも神の心に添わぬもの。
口と心が裏腹であることをいましめられたものである。
                (昭44・6・24)

〇 自分の心の中に善悪の両面を見る。
〇 憎む心から悪が生まれ、愛の心から善が生まれる。
〇 神は常に相対する人、事柄の中に、見神を求め給う。
                (昭49・7・20)

嫁姑の仲によくあるケースです。
恰好を付けるより「心ぼとめき」の心がありがたい。

 上辺より 中味を大事に なすことは
  真の道の 信条とぞ知れ

 人のため 世のため 道のため
  祈れや祈れ 我を忘れて

 さもしきは 己が心の 裏表
  人知らずとも 神ぞ見給ふ

 尊きは 己れをころし 他を生かし
  私心を捨てて 奉仕する人
                (昭54・7・30)

今日、東京国技館での小錦−多賀竜戦を見ました。力の点では、二百十五キロの小錦と、百キロも違う多賀竜とでは、力では到底及びません。それが小錦をみごと破りました。
力だけではなく「技」による勝利でありました。
信心も心の技ひとつで、おかげが頂けます。
為には、常に心に焦点をおいて、心技を磨かねばなりません。
心に焦点をおいたら、心で人を憎むことなどは出来ません。
                (昭60・7・28)

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御神訓

一、信心する人は常に守りを心にかけておれよ。


心に安らぎがなく喜びがないなら、先ずハ守りをはずして居る時で、神さまが遠のいてござる時と思い、改まって願わねばならぬ。
「神、吾と共にあり」とか「同行二人」ということを言うが、自分だけ其のつもりでおっても、つもりだけではいけない。
要は、和賀心に影形のように神さまは寄り添うて下さるのである。
                (昭44・6・25)

金光大神御取次の働きの中、いわば御祈りの圏内にあるのだから、御守護の中にある実感をはずしてはならぬ。
信心の喜びを常に持ちつづけることです。
善導寺→勿体島→椛目→常持→合楽
*私は善導寺の親教会で善いお導きを頂きました。そしてどんな難儀に出会っても勿体ない(勿体島)で受けていきました。すると、いつしか心に喜びの花(椛目)が咲きほこり、その頃から人が助かるようになりました。その信心の喜びを常に持ち続ける心が常持。そしてその向こうに合楽世界があります。
                (昭49・7・21)

大金を懐中しておるような気持ちでおれ。落としてはならぬ、掏(す)られたり盗られてはならぬと思うて大事にする。
心に神さまを頂き守れ、神さまが御守護下さる。
神さまを頂き切っておる時、真心、愛の心がおのずと身についてくる。

  真善美 輝く世界に 住まんには
   真愛の こころ行い おしむべからず
                (昭54・7・31)

電流がそこまで来ておっても電球の玉が緩んでおっては、灯りにならない。
信心も金光様を頂いておるというだけでは真のおかげにつながらない。
心に一心があって、初めて心に守りを懸けたことになる。
                (昭60・7・29)

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御神訓

一、心にかくる守りは汚るることはなきものぞ。


忘れたり落としたりすることのない信心、円満具足の信心、どちらにころがしても喜びたげよりない信心。
しかるに、私共の信心は心にかけている信心のようにあって、実は不足が出、不満がある。すでに穢れているのである。
おかげをうける喜びはあっても、信心を頂き教えを行ずる喜びにとぼしいからである。
  思い出すよじゃ 惚れよがうすい
   思い出さずに 忘れずに
                (昭44・6・26)

色即是空、一切無と悟る。
これは至難。
私は一切を有と見る。
「御物」と見「御事柄」と頂くのである。

ここには穢れることは無く、只、有るものは感謝あるのみである。
                (昭49・7・22)

神愛の中にある自分を悟れた時、守りが心にかけられた時である。
穢と思っていたことがおかげであったと気付くとき、穢に対するイメージアップが出来たときである。
金光大神ハ人間が人間らしく生きる手立てを教えているのに、穢でもないものを穢と思い苦労する。

 穢と思う心が けがれである。
                (昭55・7・1)

確信こそ心の守りである
神様を信じて疑わない心
成行きとの対決に於いて
力を鍛える
そこから生まれてくる心を
そのまま心の守りにしたい
                (昭60・7・30)

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御神訓

一、わが子のかわいさを知りて 神の氏子を守りくださることを悟れよ。


  寝て居ても団扇のうごく親心

これが親の真情であります。寝ていても起きて居ても、神さまの御守護はつづくのです。その情を知るところからお道の信心ハはじまります。
親の心に添うことを一生懸命につとめる人を孝行者と呼ぶように、神のおもいを悟り神のおもいに添うて行く人を、真の信者と申します。
                (昭44・6・27)

人間は神さまの子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はない道理です。
最近、私がきびしく火や水の行、いわゆる苦行的修行を差し止めておるのも、神さまの心がわかればわかるほど、言わずにおれぬのです。
神さまの願いは外にあるのです。
神さまの氏子可愛いの切実なる一念を悟れよ、との御教えです。
 * 昭和49・7・20より合楽では表行全廃される。
                (昭49・7・23)

幸福の原点とは、親の喜びを我が身の喜びと感じられる人にしてのみ、許されるものです。
信心も親神の心を悟ってはじめて真の信心が出来ます。
おかげ目当ての信心ハ神の心がわかっただけで悟れていない証です。
すべてが、御事柄として受け止め御物としての頂き方からの実験から、悟りへの実証が生まれます。
                (昭55・7・2)

親が子を思う程の心で、子が又親に対する時、親子最高の交流が出来る。
親となり子と呼ばれる程の深い縁はなけれども、神の思いに触れ、分かれば分かる程深い広い信心が出来る。
おかげもそれに伴う。
                (昭60・7・31)

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御神訓

一、信心して まめで家業を勤めよ 君のためなり 国のためなり。


只今、大阪府警につとめております上滝定三君から手紙がまいりましたが、その中に「今度の警視庁の件につきましては親先生のお言葉どおり一応見合わせておくことにいたしました。本当にありがとうございました。(中略)
祖母のこと母のこと、よろしくお願いします。赴任以来、初のボーナスをいただきました。少ない金額ですがお神様にお供えして下さい」とあります。
この上滝君の生き方其のままが、信心してであり、君の為なりであり、国の為なりであります。
  * 君の為なりとは貴方自身の為とも頂くべきでしょう。
                (昭44・6・28)

信心により健康のおかげを受け、家業に実意をこめよとのご神意ですから、其の内容が奉仕(神に仕える)、仕事(ことに仕える)、働く(はた楽)の内容になっておらねバならぬのです。
其の事が、そのまま君の為なら国の為でもあり、自分自身の為にもなるのです。
国の繁栄が世界総人類の繁栄にもつながらねバ、ご神意に応えた事にはならぬのです。
最高にして絶対の道ハ中心を神意におくこと、いわゆる神さま任せの生き方になることです。
                (昭49・7・24)

国の為とか君の為とか、むずかしいことは思わぬでも、自らの為、そして「はたが楽になる」ための「働く」であれバよいのです。
「その時代にはそれが真」、「今の時代ではこれが真」とコントロールしてゆくことが真です。
山頭火の句に「まっすぐな道でさみしい」というのがあります。まっすぐまっすぐばかりでは興がありません。
                (昭55・7・3)

きのう、天皇陛下御夫妻が御結婚六十周をお迎えになり、福島地方に御旅行になっておられることをニュースで聞きました。心から、およろこび申し上げておりましたら、感動が起こってまいりました。
今、アフリカでは一億五千万という人の危機が伝えられております。
イラン、イラクの戦争は今もなお続いております。悲しいことです。
いよへ世界の平和、人類の立ち行き、力ある祈りを捧げたいと思います。
                (昭61・7・1)

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御神訓

一、不浄のある時は先に断りおいて 願いあることを頼めよ。


不浄と感じたら素直に詫びることです。
『わびれば許してやりたいのが親心』と教えて下さいますから。
だんだん信心を進めて参りますと、本来不浄はありません。教祖様は『不浄とは不成のことぞ』と教えておられます。
神さまがおきらいになる不浄とは、氏子の願いが不成就に終わることです。
一心の信心をさせてもらい御祈念成就のおかげをうけたいものです。
                (昭44・6・29)

穢い心が不浄です。即ち我情我欲です。
いよいよ「真、善、美」の中に住みたい。
「偽りのない」「悪のない」美の世界、即ち神徳の中にある歓喜に満ちた生活。そこには争いのない病気のない、勿論、物金等に不自由のない世界が限りなく開けてくるのです。
神徳の世界とは不浄のない別天地。
                (昭49・7・25)

一、拝む心のまちまちに百人百様、その内容こそ我が身の信心と悟り、かぎりなく内容を高め深めてゆきたい。
一、臭いと香りは違います。臭いはくさいのです。おわびが要ります。
  臭いから香り、そして無臭を目指し、そこから徳の香りが出るようなお陰を受けたい。

ご無礼もお粗末も平気な横着時代から、お粗末ご無礼がわかり身のほどを知り、そこからかぎりない信心の世界がひろがってくる。
                (昭55・7・4)

合楽教会草創の頃、お供えものに大変きびしかった。
あるとき蕨(わらび)とりに行ったと、蕨のお供えがあった。それにそえてパンのお供えも一緒にあった。
お供えをさせて頂いたら「パンをかえせ」と神さまから頂いた。
おどろいた信者は「実は私共に御無礼が御座居ました。出がけに主人が蕨だけでよいと申しました。このことが御機感に叶わぬものと思います。どうぞ御無礼を御詫びして下さい」と。
あらためてお供えをさせて頂いたことがある。
                (昭61・7・2)

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御神訓

一、人の身が大事か わが身が大事か 人もわが身もみな人。


ちょうど今日は、大祓式(交通安全悪疫予防大祈願祭)ですが、今日の御教えをよくよく身につけて居れば、とくに交通禍はないと思います。
自他共に助かって行くことのために精進せねばなりません。
自分も大事、人も又大事とわかって居ても、自分を粗末にするところから、イライラ、モヤモヤが起こります。
結果は自他共に傷ついています。
私共の心からイライラ、モヤモヤの元を追求して、御礼心をつくる事が先決であります。

  今あるを うれしと礼び まつらなば
    家に不幸の おこることなし
                (昭44・6・30)

「仲よき事はよき哉」これは武者小路さん画く南瓜、ピーマン、茄子の絵に対する自画自賛です。
人の身もなく自分もないという以前のものです。お互いに長所を認め欠点をおぎない合う心が必要であります。
同じ時間に同じ汽車に乗り合わせる、こんな不思議はありません。せめて同席の者同志だけでも親切を尽くし合いたい。
同じ屋根の下に住み、親と呼ばれ子と呼び、夫といい妻と呼ぶ者同志です。拝み合い尊び合いで行きたい。
同じ時代に同じ地球上に住む人間同志、励まし合い助け合いでありたい。
                (昭49・7・26)

了見のせまい人がこの御教えを本気で頂き、大きな心、豊かな心になる精進をしたら、すばらしいお蔭になることでしょう。
手立てとして『人が助かることさえ出来れば』の精神をおこせば、人がみんな難儀の氏子に見え、親切心(親が子を思う切実心)が自ずとおこります。
                (昭55・7・5)

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御神訓

一、天が下に他人ということはなきものぞ。


一本の野菜をみても白いところも青いところもある。けれども根は一つであります。白とか黒とか黄色とかいうても、根は一つであります。
天地の親神さまの目からみれば一視同仁であり、可愛い氏子であります。世界中の氏子が手を取り合って仲ようしてゆけば、親神さまの喜びはいうまでもなく、それが神の悲願でもあるのです。
世界真の平和、総氏子身の上安全の熱願は当然のことです。
                (昭44・7・1)

一体、人間というものは科学が造ったものか、医学で出来たのか、それとも神が造ったものかを、よくよく考えてみるがよい。勿論、科学者又は医者といえども科学が造った、医学で出来るとも思うまい。「神が造った」に異論はあるまい。
この論法から言うても大祖は神御一人ということになる。
他人などあろうはずがない。
                (昭49・7・27)

世界のどこかで血腥い戦争が続いていると思うだけで悲しい、他人事とは思われぬ。
こういう思いの人達がたくさん出来れバ人間同志の争いはなくなるだろうと本気で考える。
それが世界真の平和達成の御神願成就の強い祈りになってくる。
                (昭55・7・6)

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御神訓

一、陰とひなたの心を持つなよ。


人の足もとばかりが見えるのは蔭と日なたの心をもって居る証拠と知れ。
暗い道を歩くに、前方だけひかる明かりをもって居る様なもの。前方は明るいが自分の方は暗い道理である。
後も前も見える明かりをもちたい。
自分自身もみえる明かりを持たねばならぬ。目にみえぬ神さまがわかるようになると蔭の心はもてません。

   明治天皇御詠
  目にみえぬ 神の心に かなうこそ
   人の心の まことなりけり
                (昭44・7・2)

目に見えるところより目に見えない所を、人が見ているところより人が見て居ない所を大切にさせて頂くようになりましたら、その心が有難くなり豊かな思いが心の底から湧いてまいります。
自分が助かるということや「和賀心」とは、このような生き方からお育て頂くのではないでしょうか。
                (昭49・7・28)

自然のはたらきほど正直で間違いのないことはありません。
其のはたらきを神のはたらきと頂くところに合楽理念の根本があります。
自然のはたらきの中には妙なるまでのリズムがあります。
そのリズムにのっての刻々であり、日日であります。
蔭日なたの心などもつ暇がありません。

  自然を大切にすることは
   自然を生かすことになります
                (昭55・7・7)

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御神訓

一、縁談に相性を改め見合わすより 信(まこと)の心を見合わせよ。


「つり合わざるは不縁の元」
どんなに相性がよいというても早死にをしたり、不仲であってはつまりません。
信心して徳分を高めてゆけば相手は必ずよくなります。
人間関係だけではありません。信の心を進めてゆけば、それにとものうて全てのことが、物が、より有難いことにととのうて、ついてまいります。
人間心を使わず御取次を頂き、神乍らに進める事が肝要です。
                (昭44・7・3)

信の心を見合わせるということは、各自が信念をもって、信じ信じられる二人になるという信が必要だ、ということと思います。
「松秀寒姿(しょうしゅうかんし)」という言葉があります。
松の秀れている美しさは、どのような寒にも色さえも変わらず耐えている姿だということです。
松の心を頂きたいものです。
                (昭49・7・29)

合楽世界(あいよかけよで生みなす世界)に住むに『相性を改め見合より』信心になれ。

永遠の徳につながる生き方をめざせ。

心して正道をゆけ道のともがらは相たずさえて。

迷信に迷うことは道を違えると知れ。

永遠の幸福に至るためにも夢忘れるな真の道を。
                (昭55・7・8)

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御神訓

一、家柄人筋を改むるより 互いに人情柄を改めよ。


幸、不幸は神さまのお蔭を頂き、はじめてお許しを受けねばならぬことがわかります。
許されるということは私共の心次第でありますから、家柄人筋は幸不幸にはかかわりありませんのに、人間の見栄や気位ばかりで家柄人筋を申します。
つまらぬことです。
同時に神さまの機感にもかなわぬことです。
家柄人筋がもとで昔からどのくらい悲劇が生まれたかわかりません。
プライドを捨てたところから美しい人情柄が生まれます。
                (昭44・7・4)

喜びあふれる思いやりは、どんなにか人を喜ばせ元気づけ、人の心を生かす動きになるかわかりません。
人情柄を改めるということは家庭内だけでなく、社会での人と人とのふれあいの場でも表わせるおかげをうけたい。
明るい社会、豊かな家庭をつくりたい。
人も助かり自分も立ち行く道を進めて行きたい。
それには教えを行ずる生活者であらねばならない。
                (昭49・7・30)

百姓ハ百姓同志、商人ハ商人同志でなけれバ話も合いません。
が、一度其の気を起こして商売に縁のない人が商人になろうと決心し、百姓を知らぬ人が百姓を覚えようと一念を発起して之につとめるとき、見違えるように商人になり切り、又百姓が身について、その楽しみまでが身についてくる。
諺に「氏より育ち」ということがあるが、育とうとする所に、育てるというはたらきも加わってくる。
人情柄も家柄も同じことである。
                (昭55・7・9)

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御神訓

一、子を産むは わが力で産むとは思うな みな親神の恵むところぞ。


暑ければ涼しいところを、寒ければ暖かい所をえらぶことは出来ても、暑さ寒さを人間の力ではどうにも出来ぬように、子を産むにも安産のための方法は講じても、ぎりぎりのところは神の恵みを受けねばならぬ。
人間の力みだけではどうにもならぬもの。
出来た所で不自然になるばかりだ。
自然の働きと共に相まってのおかげをうけることが大切である。
無理がないから、のちのちまでのおかげになる。
ここの道理は、すべてのおかげに通ずることである。
                (昭44・7・5)

昨日、田中さんの所で初孫安産のおかげをうけられました。
信心のない息子さんは女の子であったことが不足らしかったが、おばあちゃんの田中さんは早速お礼お届け、そして命名を願われました。授産名を「礼為(れい)」と頂きました。子を産むということは神さまへの御礼という意味です。
同日、森光さんの所でも女の子が生まれました。病院に行く途中自動車の中で安産のおかげをうけました。
我が力で産まれるなら男、女も自由自在のはず。あと十分もすれば、病院に着くまで待てるはずですのにね。
                (昭49・7・31)

その気にならぬでも催しがあれば其の気にならざるを得ません。生むまいと思うても生まれ、生みたいと思うても生まれない。気張る力も自然出てくる。
「気張り」もみんな神さまの御はたらきとわかる時、一切が神さまのおかげを頂かねバという心も出てくるのです。
生みなす信心と最近言われますが、この厳粛な神の摂理にもとづく時、はじめて真の生みなすおかげに会うことが出来ます。
                (昭55・7・10)

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御神訓

一、懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ。


胎教ということを申します。おなかの中で赤ん坊の教育をするのです。母親の心掛けを大切にすることが、生まれてくる子供に関係すると教えています。
教祖さまはこのことを百年も前に教えておられます。尊い御徳をうけ、有難いお蔭を生みなし現わした人たちは、皆この懐妊ともいうべき苦難を大切になされ、真心一ぱいでうけ切り大事にした人達です。よいものを生みなす為には、まずは心に花をということです。
                (昭44・7・6)

懐妊のおかげをうけた当の本人の信心は言うに更なりであります。
その半身である主人たる者も、女だけにその修行を任せず、生まれる新しい生命のためにも、その半分の修行を担うべきです。
夫婦揃うての信心修行こそ安産のおかげだけでなく、よい子に恵まれる為の神様に対する絶対の条件と思います。
                (昭50・7・1)

真の帯とはどんな帯でしょうか。しっかり真の信心をせよと言うことです。
そこで真の信心とは、と言うことになります。
私共には七人の子供があります。長女長男ハ難産でした。三人目は逆産でしたが不思議に安産でした。
終戦そして外地よりの引揚げ・・・・・・、その頃から私共の信心が本調子になってきました。家内ハ四人目を懐妊した時から、教祖の御教えどおり腹帯をいたしませんでした。ひたすら神様一心とおすがりいたしました。それから次々と三人の子供に恵まれましたが、四人共、隣知らずの安産でした。
思いますに、真の帯とは教祖の御教えを本気で守ることだと悟りました。
真の帯とは真の信心とは、御教えを頂き守ることの外なしと言う結論に達しました。
                (昭55・7・11)

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御神訓

一、出産の時よかり物によかるより 神に心を任せよかれよ。


産みの苦しみを思わず一心にすがるのは神さまだけ。そこには「案ずるより産むがやすし」のおかげがうけられる。
任せ切ることが、おかげの要諦である。
一事が万事、すべてのおかげに通ずることだから、産まれる時だけ、おかげをうけねばならぬ時だけでは真のお任せはできぬ。日頃から何事によらず神さま任せの稽古をつんで、いよいよの時は、心やすらかにお任せできる信心を身につけておかねばならぬ。
                (昭44・7・7)

「より良い有難いおかげにあずかることの出来ることの為に」
日頃の信心により頂いており分かって居るようでも、いよいよ自分の事になると案外わかっていないことに気付くものです。出産だけのことではありません。すべての事柄の中に神を信じ、神にゆだねておる心の度合いがよくわかります。
神さま以外の「よかり物」を一つ一つ心の中からとりのぞき、よりよい有難いおかげにあずかりたいものであります。
                (昭50・7・2)

 よりかかって よりかからず

私は信者の皆さんによりかかって居ます。
けれども心ではひとつもよりかかって居ません。
一心にたより、よりかかれるのは神さまだけです。
神さま任せですと言うても心が不安定であるなら、まだまだ他の人や物や金によかっておる証拠です。
「神に心任せてよかれよ」ということです。
                (昭55・7・12)

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御神訓

一、疑いを去りて信心してみよ みかげはわが心にあり。


疑うことを知らぬような人がありますが、そんな人が信心して信頼心をおこすとおかげがあり、又大変疑い深い人があるが、一たび神さまのおかげを受けると人一倍の信心が出来る様になる。
前者を教祖さまの信心とするなら、後者は笠岡の金光大神の信心といえよう。
疑いもきらず信じもきらぬものがつまらぬ。氏子が半信半疑ならおかげも半分、うたごうてかかれば全部うそ、信じてかかればみなおかげ。
                (昭44・7・8)

・祈ってみるでなく祈ること。
・参ってみるでなく参ること。
・お取次を頂いてみるでなくお取次を頂くこと。
・御教えを聞いてみるでなく拝聴すること。
・教えを行じてみるでなく行ずること。
そこには疑う余地のない神の働きが起こってくる。
『霊験は我心に有り』とは、こんな信心から生まれてくる。
                (昭50・7・3)

拝む気になる、おかげがあります。
改まって信心すれば心が助かります。
本心の玉を研く気になって信心すれバお徳が受けられます。
                (昭55・7・13)

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御神訓

一、わが身がわが自由にならぬものぞ。


壮健な時ここへ参って信心のけいこをしておかねばなりません。
我が身が我が自由になるとき「生かされてある吾れ」の自覚をつくっておかねばなりません。我が身を我が自由にさせて頂いているとわかるところから、神恩報謝の心が湧いてまいります。そのことがわかる様になったら一生まめで過ごすことが出来るでしょう。
我が身が我が自由にならぬことは、まめな時の御礼不足と知らねばなりません。
                (昭44・7・9)

「生命あるかぎり御用させて頂きたい」の願いが通れば身の自由は許される。
自由を許されてあるときに「させて頂く」事の喜びを、人の世の為に尽くすこそが神への御礼と心得よ。

    四代教主様御歌
  なすと云へ なし得る条件 恩恵の
    なくばなし得ず 何ひとつとして
                (昭50・7・4)

我が身が自由になりませんが、心は稽古次第で自由自在に使うことが出来るようになります。
喜びに喜んで過ごせる稽古が信心です。
ルールを守り約束に従う行き方、信心も教えにもとづく生き方ハいかにも窮屈のように見えますが、身につくと有難く楽しい生活が出来るようになります。
自由以上の自由を頂くことのために。
                (昭55・7・14)

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御神訓

一、忌み汚れは わが心で犯すこともあり払うこともあり。


私が信者時代の頃です。
親先生と大奥様のお供をし御本部参拝の時の事です。
大奥様のはかれた履物のハナオが新しいのにもかかわらず、何かの拍子に切れてしまったのです。
其の時、大奥様は「ああお蔭頂いた、途中ででも切れたら大変困るところであった」と神さまにお礼を申されました。
これが我が心で忌穢を祓われた姿です。
出がけにハナオが切れた、縁起でもないと受ける所に縁起でもないことが起こるのです。
これは我が心を犯したのです。
                (昭44・7・10)

すべての事に御の字をつけて頂ける内容が出来ると、穢すことも犯されることもありません。
信心にも度胸が要ります。神を信ずることから生まれる『ままよの心』をつくってゆくのです。
ままよの心の前には、たとえ悪神邪神といえども、これを避けて通るのです。
何事も御事柄として頂ける心と信心度胸、いわゆる『ままよの心』が出来れば、いよいよ鬼に金棒です。
                (昭50・7・5)

『清濁一如』
神様から御覧になれバ本来清も濁もない。
神の心を心とする生き方を体得させて頂くのがお道の信心ですから、それに近づく一歩一歩の精進が「さとり」となって、大悟とまではゆかずとも有難い心の状態が開けてきます。
本音と建前とのコントロールが出来るのも神の願い。神のみこころを根底としてのコントロールでなけれバ横着になることがあります。心して土の心を基調としてゆけば間違いません。
心は信心の定規ですから。
                (昭55・7・15)

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御神訓

一、祈りてみかげのあるもなきも わが心なり。


  火の車 作る大工は なけれども
      己が作りて 己がのるなり

  何事も 素直心の 一つにて
      雲の上まで のぼる道あり

祈れども祈れども難儀はつづく、じっと自らの心を見つめる。
そこには楽になれない元がひそんでいた。われながら愕然とするほどのものが。
そこから、あらたまりの信心生活がはじまる。
久留米教会の初代石橋先生は「この世は徳の舟にのって渡れ」と教えられた。
火の車も自分が作るなら、徳の舟も又自らの信心によって作ることが出来るのである。
                (昭44・7・11)

この御教えを神さまの側から言えば、おかげを授けるも授けぬも神の心次第ということになる。
そこで私共としては神さまの心を悟り、神さまの御心に添い奉ることに専念するより他にないのである。
授けたいと願われる神さま、授けて頂きたいと願う私共、その両者が相対したのである。おかげにならぬはずがない。
もしもおかげにならぬなら両者の仲に何か障害があるのです。
それを取り除くことです。
                (昭50・7・6)

『心一つで総てを創る』と私ハ頂いております。と言うことは、心ひとつで総てを壊すと言うことにもなります。
『霊験のあるもなきも我心』とあるも、同一意義のものと思われます。
「我心」と言い「心ひとつ」と言うが霊験の受け得る心とはどういう心を言うのでしょうか。
お参り、表行(火や水の行)から来るみがけではないようです。
金光教的独自のおかげとは、家業の行にかけ、心行一つにしぼり、祈願し奉るところから生まれて来るおかげであって、はじめて本教的おかげと言うのではないでしょうか。
                (昭55・7・16)

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御神訓

一、用心は 前からたおれぬうちの杖ぞ。


御理解七十一節に『おかげは我家で受けよ』とある。又『壮健な時ここへ参って信心の稽古をしておけ』ともあるように、日頃の信心を求められたものである。
やぶれた袋を持ってお米を買いに行くようなことのないように常に心がけて、つくろい修繕をしておかねばならぬ。
いかに神さまがおかげを下さっても、心がやぶれておれば洩れてしまうの道理である。
                (昭44・7・12)

あの人を杖とも柱とも頼んでいたのに、と嘆く人があります。
人では頼りにならない、物も金も学識も本当の役にはたたぬと悟っての神を杖につけば、人も物も金も学識も総て一切が生きて来る。
神が人間行動の原動力となるから心強い生活が出来るのです。
                (昭50・7・7)

何十年信心いたしましても杖にも柱にもなって居ない人があります。
ここで信心の力を受けねバと言うとき、信心のある者も無い者も変わらぬ様では、『倒れぬ内の杖ぞ』が泣きます。
只今の御祈念前に日田の綾部さんのお届けに「この頃ハ毎日が事柄の中に、人間関係の中に、すべての中から神さまを身近に実感致します」と。
又、これも昨日のことです。福岡の伊藤さんのお届けに、先日或る方が「主人がおかしな事件の為、給料を持って帰らない」と嘆かれるのを聞き「お金を差し上げると思うて貸してあげたい」とお届けがありました。
私は申しました。
「貴女の親切では双方がおかげになりません、其の心で神様に向かいなさい」と。
今日のお届けに「其の方から、主人が十万円持って帰りました、とお礼の電話でした。たしかな神さまに恐れ入ります」と。
このような神様を頂き乍らの信心でなけれバ、いざと言う時の杖にはなりません。
                (昭55・7・17)

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御神訓

一、悪いことを言うて待つなよ 先を楽しめ。


真の信心をしておりますと、よいこと楽しいことだけより他に思わぬようになります。
取り越し苦労や悪いことばかり心に浮かんで来るときは、信心をまちがえておる時、修行の足らぬ時と悟り、そこからの信心をさせていただかねばなりません。
悪念邪念を祓うものは、真に有難しの心以外にありません。
                (昭44・7・13)

言葉にも魂があると言われます。有難い言葉を良いことに使わねばなりません。
教祖さまは家庭内においても貴方(あなた)、此方(こなた)と呼べと教えられました。
悪いことを言うておると悪いことが起こって参ります。不平不足を言うておると益々不平不足を言わねばならぬことが起こります。信心は神を信ずる稽古、更に神より信じられる稽古です。
ここのところがわかってくれば悪い事を言うて待つようなことは出来ません。
                (昭50・7・8)

どんな場合でも、ここからの信心という心を頂いてゆけば、お先真暗という事はありません。
これから先どういう事になるだろうかと思う心が悪いことを言うことになります。よくないことが起こって来る元があります。
どんな場合でもお陰の素、お徳をいただくチャンスと頂く時、むしろ先が楽しくなります。
                (昭55・7・18)

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御神訓

一、やれ痛やという心で ありがたし 今みかげをという心になれよ。


「どうしてという心におかげはなし、こうしてという心におかけがある」
こうして育てて下さる。
こうしてみがかして下さる。
こうしてあらたまらして下さる。
こうしてめぐりのお取祓いを下さる。
と頂くところから『有難し今みかげを』ということになるのであります。
信心のある者とないものの違いがここにあります。
                (昭44・7・14)

良薬は口に苦しと申します。
苦ければ苦いほどその効果があると思いますように、そこに難儀を感ずれば感ずるほど有難しの心が湧いてまいります。
何故ならば、此の神さまハ愛の一念より外にない神さまとわかるからです。
                (昭50・7・9)

苦しかっても御礼もうし上げるということは、みやすいとは思われませんが、『一切神愛』とわかってみれバ嘘にでも御礼申し上げねバなりません。
教祖様はこのように御教え下さってあるのですから。
諺に「嘘から出たまこと」と言うことがあります。
                (昭55・7・19)

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御神訓

一、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。


 はじめて聞いた神の教
 はじめて知った真の道

信心のなかった昔の事がくやまれ、現在の道によって助かり、歓喜の中に私があり生活がある。
此の喜びが、まだ知らぬ人達の上にも願われるおかげをいただきてこそ、はじめてこの御教えがわかったといえよう。
                (昭44・7・15)

大学の門をくぐり裏門から出た人が、「大学に行った」「門をくぐった」と言った。笑い話である。信心も只教会の門をくぐった、という人がある。
信心の血にも肉にもなって居ない。信心の素通りである。教えも守らず真の道も行ぜずでは、おかげは受けても人間の幸福にはつながらぬ。これでは哀れとも悲しいとも言いようがない。楽がしたいからの信心ではやはり哀れに尽きる。楽はさせて下さるのでなければ本当の幸福につながらぬ。
                (昭50・7・10)

天地金乃神さまの御心がわかれバわかるほど、信心のない人共の姿が哀れにも又悲しくも見えてまいります。
ここから起きてくる情感をもって示現活動に参画することが、どんなに尊く且つ親神さまの御心を少しでも安んじまつることとも相成ることでしょう。
ここにはじめて神と氏子の『あいよかけよ』の働きが起こり、神も助かり氏子も立ち行く世界が開けてまいります。
神さまにお喜び頂ける世の清まりと人の助かりを願う一念を、燃やしてゆきたいと念願して止みません。

*示現活動参画
 示現とは神さまが不思議な働きを示し現わすの意。
 そういう活動に参画すること。参画とはその計画にあずからせて頂くこと。
                (昭55・7・20)

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御神訓

一、神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ。


信うすき者に対しては神の権威にかけてもおかげ(御利益)をもって見せて下さるが、信心をわからせて下さる為には、様々なところを通らせて下さるもの。
どんなところを通らせて頂いても迷うことなく折るることなく信心を進めてゆけば、そこからお徳が受けられる。

  神さまは有難い方じゃとわかると
  同時に又、こわい方じゃと知れ。
                (昭44・7・16)

信じたいから疑いをもつなら神ハその働きを見せて下さる。疑って疑って真実の神を見る例もあります。
素直に神に向かう、そこから疑おうにも疑えぬおかげの証が見えてくることもあります。
信は力なり信は光なりとも言われます。
暗い所に居っても光があれバ怖いことはありません。力があれバ恐れる心もなくなります。神ハ声もなく形もないが、其の働きを示される。
                (昭50・7・11)

おかげ(御利益)をうけて信ずると言うのは本当でない。
『信心は本心の玉を研くもの。信心は日日の改りが第一』として、教えの根底となし、日常の信心生活から生まれてくるおかげを受けて、神への絶対信がついてくる。
神を信ずる者ハ多いが神から信じられる者ハ少ない。
神に信じられて生まれてくる信こそ、絶対信である。
                (昭55・7・21)

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御神訓

一、真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。


真心の道を正しく教えて下さるのは、此所御広前よりなし。
教会を中心にした、お取次を頂いての生活を子にも孫にも教え伝えておかねばなりません。
教えるもの自身が、迷うことのない失うことのない真の道のおかげをうけておかねば、伝えるにも伝えようがありません。
                (昭44・7・17)

徳の雫が小川に落ちて川に流れて大海にそそぐ。そこにはすでに一雫の水でなく大海の水そのものであります。
祖母の信心ハ素朴そのものでした。お土を異常なまでに大切にしました。特に食物ハ一粒の米でも押し戴きました。
御祈念の時ハ私共三人の孫の名前を称えながら「どうぞ世のお役に立つ氏子にお取り立て下さい」と繰り返し繰り返し、唱えるように願って居りました。
其のような信心が両親に伝わり私共に伝承され、今日の合楽があります。
お土を大切にし食物をおし戴く心ハ、そのまま天地の真を真として受けていた姿ではないでしょうか。
又、祖母の祈りはそのまま神さまの願われる心と同じではなかったでしょうか。
                (昭50・7・12)

片島せんというお徳の高い先生が居られました。
或る時、大きな手洗石がお供えになりました。
神様にお届けをなさり「この大きな手洗の水が一日でなくなりますような沢山の氏子をお引き寄せ下さい」と願われました。神さまより何の受け応えもありませんでした。
尚、お願いをなさると神さまより「なぜ真心を求めて来る氏子をと願わぬか」とおさとしがありました。
神様が求め給うのは真の信心であることがわかります。
残るのはお徳であり真の信心であります。
同時に、毎日、子供に孫に伝わる信心を願わねバなりません。
どうぞ神さまのお役に立つ氏子にお取り立て下さい、と繰り返し願うのです。
                (昭55・7・22)

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『御理解』


御理解 第1節

 今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。


病気や難儀のつづく時、今こそ天地の開ける音を聞くときであるが、信心にならぬから眼がさめぬ。
眼をさますということは大真理の喝破である。本当の本当をわかることである。
教えたから、習うたからわかるものではない。一心の真心、不乱の信心が必要である。

一、湯川安太郎先生ハ、神さまが御主人、氏子は番頭。
一、安武松太郎先生ハ、一切が神さまの御物。
一、私は、一切が神さまの御事柄と悟った。

それぞれ天地の開ける音を聞いて眼をさましたのである。そこから限りないおかげの道が開ける。
                (昭44・7・18)

天地の開ける音を聞くために、先ずは耳掃除から始めねばなりません。
何か障害になるものがつまっていたり、肝心の鼓膜が破れていては、いかに大音声で叫ばれても聞くことは出来ません。
いよいよ研き、いよいよ改まり、限りなく美しい心になる精進こそ、天地の開ける音を確かに聞きとることの出来る第一の手立てです。
                (昭50・7・13)

『おかげは和賀心にあり』として天地書附を千遍となえても真実のおかげにはならない。
断片的なものでなく、こわそうとしても壊れない不壊のもの、不壊の和賀心を頂きたい。
天地の開ける音を聞いて眼をさますということは、一切神愛と悟れた時である。
そこには御礼の対象、喜びの対象にならざるものなし。
難儀も苦労もここの所をわからせたい神愛の現われである。
                (昭55・7・23)

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御理解 第2節

 先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。


泳ぎを知らずには水中に飛び込むことは出来ぬ。神徳の中にあっても氏子に信なければ神徳を受けることは出来ぬ。
泳ぎの術を知れば自由に水中を泳ぎまわることが出来るように、金光大神は天地が自由になって下さるような道を誰でもうけられ、わかるように教えて下されてある。その気になれば誰でも受けることが出来る。神徳をうけるということは泳ぎのコツと同じである。
あの世この世を自由に泳ぎまわれるおかげを受けようではありませんか。
                (昭44・7・19)

すべてが神さまの御働きの中にあることと信ずればこそ、
 悪く言われても
 笑われても
 叩かれても
又、どのような場合にも人情を捨て神情一つで受けとめてゆけるのです。
ここで『神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る』と仰せられたのは、このような信心を言われたものと思います。
所謂「信ずればなり」であります。
                (昭50・7・14)

最高にして最大の内容を持つ宗教。
それは『信心すれば誰でも受ける事が出来る』と言う神徳。
神徳の世界に住む手立てを教えられた教祖の教えの中心になるものは『天地日月の心』である。
それを具体的に言うと『成行きを尊び頂く』ことである。
神さまの働きそのものを大切にすることハ、神さまを大切にすることになる。
お祀りをしておる神さまばかりを大切にして、御働き其のものをお粗末にしてはお徳にならぬ。
その根底には『信心は本心の玉を研くもの。信心は日々の改まりが第一』とすることは勿論である。
                (昭55・7・24)

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御理解 第3節

 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。


親のふところにありながら親のふところにあることを知らず、不安焦燥の生活をなして居る状態(さま)は、天地金乃神として、又親として、みるにみかね給うところから、生神金光大神を差し向け、親子共々の繁栄、幸せを願われたものである。
その不幸の第一は、人間氏子の見当ちがい思いちがいの生活が其の原因をなしておると指摘し、メグリの根絶を願われたものである。
どこに難儀のもとがあるかを知り、親のふところにある子供のような安心を頂かねばなりません。
(昭和44年7月20日、朝の御理解を参照)
                (昭44・7・20)

神人共に栄え行く道をここに初めて、『天地金乃神と申す事は』と、のっけから大音声に宣言されているように思います。
天地の大恩恵を知らず、又どのような事が天地に対する御無礼になるか、難儀の元になっているかを知らず、其のわけを条理を尽くして説いてあります。
即ち『神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所』又は『方角日柄ばかり見て』と、其のことだけでなく、人間の思いちがい考えちがいを指摘しながら、金光大神の理解を受け追求しつつ、神と人との理想郷実現を目指させています。
                (昭50・7・15)

『末々迄繁昌致す事』とありますおかげは、神と氏子の助かりにならねバなりません。
天地との調和そして交流、そこからはじめて生みなされるおかげの世界が開かれます。
即ち、神人共栄の世界です。
究極、神の願いとされるところは、ここにあるのです。
神の願いが氏子の上に成り、氏子の願いが神願成就に至る時、神人交流の歓喜の世界は開かれます。
                (昭55・7・25)

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御理解 第4節

 此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。


目には見えない神さまを目に見えない私どもの心で拝むということは、此の上もなくたよりないことである。
只あるものは、只たよりになるもの、それは金光大神、即ち親先生あるだけ。
金光大神が教えておって下さるから、親先生があのようにお陰を取次ぎ現わして下さるから、只信じれるのは其の事だけ。
親先生が金光大神に通じてござる。
金光大神が天地金乃神さまに交流(かよ)うてござる。
だから親先生と称えるだけでおかげになるのである。
                (昭44・7・21)

金光大神御自身の生活体験から、人間の本質をどのようにとらえておられたかを知らねばなりません。
そこから人の生命の支えとなるエネルギーが尽きることなく生み出され、教えともなり、真の信心の原型を作るに至ったのです。
其の一端を言うと、世俗の快楽に流れるを慎み、同時に苦行的表行が人間の助かりの上にはたいした価値はないものと悟り、心行による神ながらの道を生み出し、これを教え、自らもこれに徹しられた。
この御理解の一番大切なところは『金光大神の言ふ事に背かぬ』ということと共に、金光大神のあられ方を私共の生活の上に神習わして頂く事であります。
                (昭50・7・16)

金光大神の信心を通して天地金乃神をわかることは、金光大神の世界に住むことである。
どちらを向いても有難しの道理を説き明かし、日々が信心の喜びと驚きの実験実証の出来る手立てを忠実に頂き守り、金光大神の別世界を目指したい。
神も助かり氏子も立ちゆく世界を開いて下さった金光大神ハ、たしかに神からも氏子からも両方からの恩人と言われる所以である。
何としても金光大神の世界に住みたい。
                (昭55・7・26)

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御理解 第5節

 これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。


生きた天地を生きた心と生きた教えによって、いわゆる生きた教学(天地の道理)によって、天地金乃神と一心になれる道を教祖生神金光大神は樹立された。
昨日はじめて人間が月の世界に第一歩を印した。正に科学の勝利である。大変なる度胸といえよう。その度胸は科学を信じ、人間のもつ力の限りの訓練によった賜物である。
日日の修行により神さまの働きの間違いなさを体験する所から、不動の信念ができる。と同時に神徳を科学する、又は信心を教学でわかれば月の世界に行けるほどのことが出来る。
信心の力も教学して得られる道を教祖は教えられた。
教祖は教学の大家であると同時に、それに対する弛まざる修行修練をつまれ、天地の大徳を受けられた不世出の御方と言えよう。
                (昭44・7・22)

自己満足的な信心から、神も立ち行き氏子も立ち行き、喜び合い満足し合える世界にまで発展出来る道が、金光大神によって生き生きと開かれた。
『此方が祈る所は天地金乃神と一心なり』と仰せられる金光大神の御取次による、生きた天地の働きをそこに集中してメグリを断ち、おかげを授けて下さる働きとは、なったのであります。
                (昭50・7・17)

浅くも深くも頂ける御教えです。
只、片便の願い捨て的過去の宗教観念から言えば、お道の信心ハ大変便利で有難いようですが、いよいよ頂いて帰る。
そこから、其の奥にある御神意を悟らせて頂く時、限りなく深遠なものとなるのです。
『此方が祈る所は天地金乃神と一心なり』という深甚かぎりない広大無辺の御神徳にふれてゆく時、願い捨て的信心では得られぬ金光教独自の一切神愛の世界に没入してゆける。
天地金乃神と一心なりの境地も開けてくる。
                (昭55・7・27)

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御理解 第6節

 目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。


これは教祖さまの神観でありましょう。
たしかに神愛の中にある私共であるはずなのに、これは私の場合ですが、こわい所を通っている様に、又は薄氷の上を歩いている様な、ヒヤヒヤする様な思いで過ごして居る今日此頃であります。
こわいと思う心が我が心の中にあるからです。
いよいよ改まり、いよいよ磨き、何処におっても神の広前として、又、神の中を分けて通りおる様な実感をもって過ごせれるおかげを頂きたいと、日々精進させて頂いております。
                (昭44・7・23)

『神の中を分けて通り居るやうなものぢゃ』と、お道の信心もここまで実感として頂けたら、日々が生き生きとして有難い信心生活が出来る。それだけでなく、お徳を受けることでありましょう。
信心の確立とは、このような実感が得られる時をいうのであります。
                (昭50・7・18)

何をなしておりましても感謝の心が頂ける信心・・・・・・。
すべての中に事柄の中身を味わい、御事柄(おんことがら)と頂く時、一切が生き生きと輝き、神の恵みと御礼の心が湧いてくる。
信心しておれバあれは飲まれぬ、これは食してならぬということはない。神の恵みと押し頂くとき、神さまもよろこんで下さり、私共も有難い。
神恵みの中にあることを悟ることである。

 底深く 静かにしずかに
   湧き出づる
  愛の真清水 くみてのまばや
                (昭55・7・28)

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御理解 第7節

 天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。


如何に天地は流行る事もなく終わりもないにいたしましても、其の天地を生かすも枯らすも氏子の信心次第であります。
いつの時代いつの世になりましても、生きた天地の働きを人間氏子の幸福のため、生神金光大神取次の道の真意を体して、気を緩めることなく頂きつづけねばなりません。
それには天地日月の心になることが肝要であります。
天地日月の心とは、だまって与え、だまって受け切り、日々を実意をもって生きることです。
                (昭44・7・24)

真の道が見失われ、悪徳と凶暴とが人間社会を当然のことのようにまかり通る世の中です。
世界の難儀は、いよいよ深刻になってまいりました。
この悪徳と不信を根絶征服するものは、わが教祖の信心『和賀心時代を創る』運動以外にありません。
神様も今の世を「寒天危地」と教えられました。
神様の願いハこの世を「歓天喜地」となさんの御心であります。天地日月の心とはそのまま親神様の御心です。御心を心として知ること、行ずることこそ肝要であります。
                (昭50・7・19)

天地ハ流行ることも終わることもなし。
然れども人間の住む地球上には、どんな変化があるかわからない。
今、地球ハ「寒天危地」にさらされている。その様な現状の中でも、特に地球上にさまざまな大きな変化が起こっていることも由々しき事と思われます。
神さまハいつも人間氏子を中心にお働き下さってあることを思う時、人間も又神様中心の生き方にならせて頂く生き方を悟らねバならぬ重大な時期にあると思います。
即ち「寒天危地」を「歓天喜地」に・・・・・・。
その働きを受けるには『信心はせぬでもおかげはやってある』おかげに気づき、神恩報謝の神さま中心の生き方を身につけねバなりません。
和賀心時代を世界に開く運動がいよいよ急を要します。
                (昭55・7・29)

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御理解 第8節

 子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。


かぎりなくおかげを受けてゆく為にも、限りなく「屑の子、吾」の自覚を深めてゆかねばなりません。
一心が足りない、真心が足りない、実意が熱意が、かぞえれば限りなく足りないずくめの私を見いだし、そこからおすがりせねばおれぬ私「これですんだとは思いません」という底のない深い信心が生まれてきます。
このように、いよいよ屑の子の自覚をつくってゆく氏子の上に、かぎりなく神さまは恵みつづけて下さるのです。
                (昭44・7・25)

信心のない氏子、信心による真の助かりを知らぬ氏子の上にかけられる親神様の切なる御思いであります。
信心による真の助かり、それは勿体なしの生活に入り、それに徹することでありましょう。何故なら信心とはギリギリの自分を見いだし、それに目ざめることだからです。
わかればわかるほど「屑の子、吾」の思いは募るばかりです。
                (昭50・7・21)

屑の子の自覚は有難いが、神さまが御覧になっての屑の子ハ困ります。
信心はしておっても教えも聞かず、聞いても守らず行ぜずでは、親の言うことを聞かぬも同じですから親を悲しませることになります。

「心をみつめ教えを行ずる」と頂きました。
                (昭55・7・30)

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御理解 第9節

 天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。


釈迦もキリストも天地金乃神さまの氏子であることがわかってみれば、心を広うもち『世界はわが心にあり』の気概を持って信心の稽古をさせてもらう心の姿勢が必要であります。
其の願いの第一は「神願成就」であります。
天地金乃神さまの願いが地上に成ることです。私共の身上にかけられる神の願いが成就することをもって、神の願いとされるのです。
ここにはじめて神も助かり氏子も立ちゆくおかげの顕現とはなるのです。
                (昭44・7・26)

心が豊かである時ハ何を聞いても見ても心にさわりません。
信心による有難しの心は、広い豊かな美(うるわ)しの心です。
小さいことに心を汚し、心配になり、心が穏やかでない時は、この有難しの心が欠如のしるしです。気のぬけたサイダーのようなものです。
『宗旨嫌をせぬ』金光教なのに、内の信者をとったのとられたのと内々で騒ぐなどは、お道の信奉者として最低です。
ナンセンスです。
                (昭50・7・23)

せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです。
先ずハ広い心を願い、その修行をせねバなりません。
だまって治める信心、即ち土(どろ)の信心。
心ハ自ずと大きく広く豊かになってまいります。
清濁一如の信心もわかります。

 大願の氏子の上には特別の
 親神さまの働きが受けられます
                (昭55・7・31)

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御理解 第10節

 神が社へ入っては、この世が闇になる。


只今、秋山さんからお届けがありました。
今朝のお参りの時、子供の事で心が闇になるようなことのお届けがありました。
それが「神さまにお願いさせて頂いておりましたら、心の中に何か楽しいような心持ちにならせて頂きました。それから間もなく子供のことは思い以上のお陰を頂きました」と言うのである。
それで私は「子供のおかげより、心が楽しゅうなったことの方がおかげだね」と申しました。
神さまが社に入らず此の世一ぱいにお働き下されてあるから、この様なおかげになるのです。
 形のお繰合せより
   心のお繰合せを願え
                (昭44・7・27)

広大無辺の御神徳ハ天地にみなぎりわたって居ります。
お社の中も外もありません。お社の中にお祀りしたから外には出られぬという神さまではありません。又、押し込めたことにもなりません。
けれども人間は、それぞれ感情又は感覚を持って居ります。御扉の開く音とともに自分の心が開かれる思いがいたします。
御神燈を明々と点ずれバ拝む者の心の雲が払われる思いがします。
要は自らの心を開き、自らの心を明るくすることです。
                (昭50・7・24)

いつでもたえず光を下さり、安心と喜びを与えつづけて下さる神さまです。
それを信ずる者の上に光の道は示される。
光明世界ハ其の先。
うたごうて信ずることの出来ぬ者の上には、いつも手さぐりの道しかない。
その気になって神に向かえば必ず手答えがある。
                (昭56・7・1)

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御理解 第11節

 神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。


天地を守ってござると同時に、小天地である私共も一様に御守護下されてあるのですから、お守りを受けていることを悟り、神恩に報ゆる生活が出来ねば、人間の求めに求めている安心の生活には入れません。
「神の守りをうけておる」「神のふところにある」の実感が安心です。
形の上で御守り頂いても究極、心の中まで御守り頂く事は出来ません。ただ信心による和賀心をもって願うところに、心も又、御守護の中にあることがわかります。
                (昭44・7・28)

御神性を明らかにされたものです。
御本性とハ真・誠・信であります。
この「まこと」をもって天地を御守護下されてあります。人間氏子も勿論かぎりない御慈愛の中にあります。

 三代金光様おことば
『氏子が神さままかせなら、神さまが氏子まかせになると仰せられますから』

氏子が真なら神さまも真で受けて下さる道理です。真とまことの交流が信心です。
徳を受けてゆく道でもあります。
真の信心がないと神の御守護をうけて居ることすらもわかりません。
                (昭50・7・25)

神さまが離れることが出来ぬと仰せられているのだから、人間氏子がこの神さまを離すことは出来ぬとわかり悟らせて頂くところから、はじめて「あいよかけよ」の世界が開かれ、神さまと氏子(私共)の歓び合いの生活が出来るようになる。
御教えはすべて其の手立てである。
                (昭56・7・2)

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御理解 第12節

 神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。


「天地神明に不足を言わず」とは、久留米教会の初代石橋先生のおことばであります。このような御精神があの大徳を受けられた元と思われます。
昔より「天地神明に誓って」とか「天知る地知る吾ぞ知る」と申します。こうゆうような心でなければ、真の道ハ歩けません。
天の守り、地の恵みをうけて、天地間の一切のものがはぐくみ育てられるのです。
其の恩を知るところから、一切の事柄もよりて整うのです。
                (昭44・7・29)

金光大神の御教えによって知るのは真の信心です。そこから天地の大恩がわかります。又その大恩に報いる生活が出来るのです。
見るもの総てが神の形、聞こえるすべてを神の声と頂けるとき、はじめて天地まる生かしの神を身体全体で感じとることが出来るようになります。
私は毎朝、天地を庭の口に出て拝みます。天地のエレキを全身に受ける思いがいたします。
                (昭50・7・26)

見てなるほどと感じたら、教会の門をたたけ。
聞いて感じる神さまが頂ける。
又、おかげをうけて納得も出来る。
御理解第十節、第十一節、第十二節ハ、教祖が感じられた神であり、また見定められた神である。
いうなれバ教祖の神観である。
                (昭56・7・3)

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御理解 第13節

 神は向こう倍力の徳を授ける。


倍力の徳をうけられる様な向かい方とはどんな信心だろうか。先ず考えてみなければなりません。

 かまきりの 暑さに少し つかれみせ
 日まわりの 幹太くして はげしさも

これは昨日、少年少女会かまきり班、ひまわり班に対して頂いたもの。
勿論、徳をうけるには後者をとらねばなりません。
                (昭44・7・30)
 *かまきりとは、筑後地方で別名「拝まにゃ通さん」といわれるから、おかげ信心のことをいう。
  ひまわりは太陽に向かって暑い方へ暑い方へ向かう。だから、楽はしませんという修行精神をいう。


皆さんが、このように炎天下、夏期信行に打ち込んでおられますが、これで徳をうけることにはなりません。
お徳をうける肚作り、又ハ心を練る修行をなさっておるのです。徳を受けるチャンスは、いつもある訳ではありません。
いよいよの時、迷わんですむ、動じないですむ、生命をかけての信心が出来ねバなりません。
即ち「ままよの心」です。背水の陣です。
一切をまかせきっての次の信心姿勢一つが徳をうける極手です。
                (昭50・7・27)

一心に参拝(まいっ)た、一心に拝んだでは、おかげばかり。
一心に教えに取りくみ、神に向こうて進んでゆくから徳をうけるのです。
この行き方には、よしそれが完璧でなくても出来たかのようにしてお徳を下さるものです。
                (昭56・7・4)

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御理解 第14節

 神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。


心が荒れてはおかげにならぬ。家の内が乱れておっては神さまがお嫌いなさる。
『おかげは和賀心にあり』『信心は家内に不和の無きが元なり』とおしえておられます。

  輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば
    蝶やトンボも鳥のうち

小さいことを揶揄(やゆ)したものでしょう。
信心も一人前になる為には心の養生、即ち大きく豊かになる稽古をする以外はありません。
                (昭44・7・31)

地面を荒らすことは、それだけ神さまのお働きの場を狭くすることです。人間は勝手なもので、収入が少ないと言って田畑まで荒らして居る人があります。
自分中心ではおかげになりません。神様を中心にすれバ、地面を御地面にすることが出来ます。
天地の親神様も御満足なら、教祖さまにも喜んで頂くことになります。
                (昭50・7・28)

荒地荒屋敷を神がお嫌いなさるというのですから、心掛けておかねばなりません。
金光大神、またの御教えに『水をかべって行をするといっても、からだにかべっても、なんにもならぬ。こころにかべれい。(中略)水をかべるけい、まことじゃ、かべらんけい、まことでない、とはいえぬ。喰わずの行をするのは金光大神は大嫌じゃ』

  表行では心が荒れる。
  心行をすれバ心が豊かに養われる。
                (昭56・7・5)

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御理解 第15節

 氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。


真心から御用させて頂く(用いる)と神のヒレイがどの様に氏子の上にひびいて来るかを、今日、親教会の月次祭に参拝させて頂いて、親先生の御説教の中に、久留米教会の総代内田さんのことを聞かせて頂きました。
毎日の御献費ハ自身の健康(血圧が非常に高い)の為、商売繁昌の為、それに次の記念祭を目標に相当額のお供えがある。もしその額が出来ぬと、其の日の食事を細めて其の事に打ち込まれる。
最近ではあちこちの教会に請われて、お話しに回られる。大祭等の時ハ前日から親子で、お店を休業して御用を頂かれる。
御本部には、月参りが幾十年とつづいている。勿論、商売は大繁昌のおかげを頂いておられる。
最後に内田さんのお年をきいて、いよいよ感動いたしました。あのように若々しくしておられますが、七十四歳になられるとのこと。これこそ真から用えていられるしるしだと思いました。
私共の御用の内容を、もう一度たしかめてみる必要があります。
                (昭44・8・1)

親神さまなれバこそと思います。
無理をしてのお供えを親神さまが喜ばれるはずがない。
しかし、おかげうけて呉れよの御心から氏子の真心を求められ、育って呉れよの親心を思う時、じっとして居れぬのは私共の有様です。
一工夫も二工夫も要る御教えです。
親神さまに喜んで頂ける、しかも安心して頂ける御用でお役に立ちたいものです。
                (昭50・7・29)

神の比礼として受けて下さる用い方とは、どんな信心であろうか。
今日は行橋地区の共励会ですが、その中心である堀内さんの宅では、日々朝参りの同心の方たちがふえて居ます。
先日より畳替えを申し出る方があり、御簾のお供えをしたいと言う人ができ、今日ハ全部の八足を作りたいと言う人が現われました。
堀内宅の神の比礼と言わずにハおれません。これは堀内さんの日頃の信心が「真一心」だからだと思います。
                (昭56・7・6)
 *「真一心」とは神にもちいることが、どんな場合でも「絶対」のもの。

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御理解 第16節

 無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。


いうならば、金光大神のいわれる事を、教えておられる事を、確かに金光大神は本当な事を教えてある、嘘を教えておられないという事の実証者に、私共がならなければならない。
同様に、取次の教師も又、金光大神の教えをひたすらに頂きぬかせて頂いて、金光大神のいわれる通りのおかげを実証していかねばならぬ。
                (昭44・8・2)

無情即ち有情と悟らして頂けるところに安心立命の世界があります。
やりぬく心から、頂きぬく心に変わります。
今日、あたかも戦死いたしました弟の三十年の式年の祭が、午後から行なわれます。それにつけても御神慮の深さにいよいよ恐れ入ります。
人間心を以てするなら終戦の年、しかも七月三十日という、あと十五日生き延びのおかげを受けて居れば無事生還出来たものを・・・・・・。
ここまでは無情の風であります。弟の死を境に、私共一家の信心が有難く一変いたしました。
今の合楽の御比礼を思います時、無情即ち有情を感じざるを得ません。
                (昭50・7・30)

お道の信心ハ有情の世界の発見にある。
難儀と感じること、助からんものも助けてもらうとき「神の心の奥ぞ知らるる」期(とき)である。
難儀と思わるることも神愛とわかるまで大切にせねバなりません。
                (昭56・7・7)

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御理解 第17節

 神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。


一、今朝或る方がお参りして来て「今度住居が三里ほど遠くなりますので、今迄の様に日参が出来ません」と言う。
「信心は自分で工夫しなければ、近くに居ってもお参り出来ないよ」と申しておきました。
二、或る信者に申しました。「今日は、親教会の夏の祈願祭にお参り出来るだろう」と言いますと「一寸今日は・・・・・・」としぶります。
それで「御本部参拝するつもりなら、今日一日ぐらいどうにでもなろうが」と申しました。
(明日から御本部参拝の予定だったが、都合でお参りが出来なくなった人)
信心をやめただけが綱を切るのでない。
この二つの例も同じことです。
                (昭44・8・3)

  朝顔ハ 馬鹿な花だよ 根もない竹に
    命までもと からみつく

根もないものにすがっておるものを嘲笑した唄でしょう。信心を頂いていても、「神も仏もあるものか」というような事に出会う場合もありますが「根のあるもの」、生きた働きのある信心を頂いていますと、どんなに失意の底にありましても、その前後に必ず生きた神の働きに会うことが出来ます。おかげで神の綱を切ることなく信心を続けることが出来ます。
問題ハ入信の時、生きたものがあるかないかを確かめることが大事です。
                (昭50・7・31)

切れたとまではゆかぬでも
切れかかって居る人が
沢山いるのではなかろうか
不平不足はおかげが切れる
                (昭56・7・8)

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御理解 第18節

 此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。


神さまの願いは人間氏子の真の助かりをもって第一の願いとされておられます。
世界中の人が助かることを願いとせねばなりませんが、先ずハ私自身が助からねばなりません。
私自身が助かりはじめになるのです。そこから、自分の周辺が助かって行くおかげを受けねばなりません。
一人助かれば一人の神、ともおおせられます。
『生神とはここに神が生まれると云ふ事で』自身のまわりが一人一人助かってゆくことは、ここに即ち、生神が生まれることになるのです。
百人の人が助かれバ、百人の神になることが出来るのです。
或る人が私を評して、「神さま都々逸を歌わせ給ふ」と申されましたが、味わわして頂くべきだと思います。
自身の心に、真に有難しという心が生まれる。之即ち、生神の誕生とも言われております。其の心を育てることが、生神への道につながることにもなるのです。
                (昭44・8・4)

心に花園を。四季折々の花が咲き乱れ、其の中に住む手立てが信心修行である。
『生神とはここに神が生れると云ふ事で』と教祖は教えています。
炎天の下にも喜びがあり、極寒といえども工夫次第では喜びの花が咲きます。
いつでもどこでもよろこべる喜びの種子を播いておこう。
喜びの芽が出たら、枯らさず折らず育てるよろこびを身につけてゆこう。
我情我欲が無惨に喜びの芽を踏みにじる。
                (昭51・7・1)

  山吹や 筧で足を 洗いおり
  黙々と 断酒の心 菊作り

一、山吹の花には実がなりません。おかげは受けても徳にならねばと悟った心。

一、これが信心の生命とりと気づいたら、本気であらたまって信心の喜びを育ててゆく心。
                (昭56・7・9)

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御理解 第19節

 金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。


時間空間を問わない自由無碍の働きを現わして下さるのであるが、私共は一歩でも金光大神に近づかせて頂かねばなりません。金光大神も楽、私どももおかげの早道でもある。
それには、ぎりぎりの自分を発見し、そこからの出発であり、一念発起でなければなりません。

「四角四面の鏡の中に入れられた蝦蟇は、自分のきたなさ、あさましさに苦しみ、タラリタラリと脂を流した。其の脂を練り上げたものが切傷の特効薬となる」これはガマの膏売りの口上である。
私共も教えの鏡をみたら、自分のきたなさ、あさましさがうつし出されてくるのである。
それが自らの発見ともなるのである。
                (昭45・7・1)

「去来するもの」
それは金光大神取次の働きの場である此処にはじまる。
来てくれと言う所に。
頼む時だけでなく、御礼を申すときもお詫びの時も来てもらわねばならぬ。
                (昭51・7・2)

人間教祖を超えたもの、神の心証なしには言い切れぬお言葉だと思います。
即ち天地と同根との自信と自覚に立っての正しく宣誓であり、宣言であります。
                (昭56・7・10)

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御理解 第20節

 此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。


天地金乃神を『親神さま』と呼ぶ所以であります。
「縁なき衆生は度し難し」と言うのでなく、親心の一心が神の祈りになるのであります。
御理解中に『可愛いものぢゃ』とあるは『可愛想』とはちがいます。
其のままが神心であります。
故に『親よ子よ』と名乗りがあげられる。
そこから詫びれば許され、すがればおかげになるのであります。
『  』の中をよく味わって下さい。
                (昭45・7・2)

この御理解は、信心のない者に対するものとばかりはかぎらない。
信心しながらも教えを頂かず、教えを守らないなら、親の言うことを聞かぬも同じこと。
なぜ聞けぬのか。
それは『合点』がないからです。合点とは親心との一致点がないから、親の心がわからないから。
親の心がわかれば親不孝は出来ぬ。
神の心がわかれば信心せずにはおれぬ。
                (昭51・7・3)

思索から生まれた宗教でもなく、又、奇跡が生んだという宗教でもありません。
正に天地と教祖の交流から生まれた真の宗教です。
真の宗教とは読んで字の如く天地が示したことを教えるのが真の宗教です。

『此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にして聞かすのぞ』とあります。
                (昭56・7・11)

 *宗教=「ウかんむり」は宇宙、又は自然の意。
  故に天地が「示」すことを「教」えるのを宗教という。

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御理解 第21節

 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。


 信は力なり
 力は光なり
 信により人が助かり
 光は世を潤す
 現世まさに世界が闇なりの
 様相を感ずる
 闇夜にも等しい今の時代に
 信の力を以て
 光を以て
 社会に奉仕しよう

『信心せよ信心とはわが心が神に向ふのを信心と云ふのぢゃ』『氏子に信なければ』の信を得るには、すべてのことをすべて神に祈り、神にまかせることから信が生まれる。
『わが心が神に向ふ』とは其のようなことである。
                (昭45・7・3)

 人の世から神の世へ
 闇の世から光の世に

わが道の信心は心が『神に向ふのを信心と云ふのぢゃ』。
わが心が一歩一歩神に近づく修行です。
悪がぬけ我がぬけて行く其の喜び楽しみから、次第に苦しみがぬけてくる。
そういう人達の集りこそ、神の世であり光の世である。
光の輪をつくろう。
さらにそれを拡げてゆこう。
世直しのおかげを頂こう。
                (昭51・7・4)

合楽理念は宗教学と頂かれた方がありました。
そこで此の方ハ考えました。
「学とあるからは、予習復習が要ると思いました。早速、明日頂くはずの御理解を、くり返しくり返し頂くことにいたしました」
「其の頂く御理解が心からわかり、頂く事が出来ます」と言うのです。
神に向かうというのは、こういうことではないでしょうか。これが心の光に家の光に、はた又、周囲を照らす光にならぬはずハありません。
                (昭56・7・12)

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御理解 第22節

 天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。


此の御理解を頂いていると、いよいよ神徳をうけることの容易でないことを感じます。同時に徳をうけるチャンスも、何時もあるものではないことがわかります。
天地金乃神さまは、誰彼の差別なく平等に徳をうける機会を与えて下さるのですから、常平生、その受け物を作っておかねばなりません。
うけものとは、絶対信であります。いよいよ其の時あわてることなく迷うことなく『ままよ』という心を出せるだけの信心修行を積んでおかねばなりません。
                (昭45・7・4)

常日頃いっぱしの信心が出来ておらんと、いざという時「ままよ」という心ができぬ。
信ずる心が安心。「ままよ」の心から信が生まれる。
神は信ずる者を信ずる。

御神徳は神さまのご信用じゃから。
     (久留米教会初代石橋先生のお言葉)
                (昭51・7・5)

『ままよとは死んでもままよの事ぞ』と教えられますが、なかなかに出来ません。
然し、神さまの働きを一分一厘まちがいなく感じる日日であれバ、それがいつでも「ままよ」の心が頂けます。
いわゆる天地のリズムに乗っての生き方です。
神さまから「晃」という字をもってお示し下さいました。字引を見ますと日と光の旋律とありました。
日とは神さまのこと、光とは私どもの信心による心の光のことです。
                (昭56・7・13)

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御理解 第23節

 氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。


信心が好きになることです。
おかげが好きな人が多いが、神さまは、私共の思いどおりのおかげを下さることはないからです。
思いどおりにならぬと信心がいやになります。信心が好きになり、修行が好きになりお徳を受けてまいりますと、思い以上のおかげがうけられます。
いよいよ神さまと仲ようなるために、いよいよ神さまに好かれる私になることです。
魅力ある私になることです。
                (昭45・7・5)

難儀は神さまと私共との仲立ちです。
そこから神さまとの交流がはじまります。
難儀が神愛と悟れる頃には、いよいよ神さまとの仲に切っても切れぬ仲が生まれます。
神の働きそのままに受けてうけて受けぬく時、神の働きそのままのおかげの世界が生みなされて来ます。
                (昭51・7・6)

難儀と取り組んでいると難儀がいやになり、こわくなる。
その事を通して教えに取り組むことになると、難も又有難く楽しくなる。
神と仲善うするための手立てである。
                (昭56・7・14)

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御理解 第24節

 人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。


信心が長くなると、だんだんマンネリ化して来る。其の身から打ち込んだ信心でないからである。其の身から打ち込んだようでも御利益(おかげ)に打ち込んでおる人が多い。
真の信心に打ち込めばマンネリにもならず附焼刃にもならず、必ず人がついて来て、期せずして勢信心も出来る。
家内中勢を揃えた信心にならぬと本当のおかげにならぬ。家内一心に勢を揃えて願えば御取次もしよい。
神さまも安心しておかげを下さることが出来る。
                (昭45・7・6)

参拝に打ち込む、御祈念に打ち込む、教えに取り組む事に信心の喜びを感ずる。この喜びなしには自然との対決において敗れをとらねばならぬ。この対決こそ、真の力は得られるのである。
力のない者が勢を揃えても、大したことは出来ない。
少しでも力を得たものが掛声も一つに勢を揃えた時、思いもかけぬ働きになってくる。
                (昭51・7・7)

各自の信心の要がとこにおかれているかよく考えてみましょう。

 一、「人間ハ土より出でて土に還る」と言われます。だから其の道中とても土の心に徹する。

 一、成行きを尊び大切にする。それハ、成行き其のものが天地自然(神)の働きだからと信じて疑わない。

 一、間違いのない絶対の真を身につける生き方を体得して行けば、必ず末広のおかげも肝心要の御神徳も受けることが出来る。
                (昭56・7・15)

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御理解 第25節

 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。


天地より大きいものはあるまい。
大きな信心には行きづまりがない。迷いもおこらない。
天地に学ぼう。
『天の心』恵み与え切る心。無条件に与える心。これこそ真である。
『地の心』それは受けてうけて、それを育てる心。
天地の心を心としての信心修行こそ大きな信心の焦点といえよう。

真の天や地のぬくもり
                (昭45・7・7)

私的なことから公のこと、はては天下国家の事に至るまで祈られる信心にすすみたい。
或る人、三代金光様に
「金光様、あなた様はどのような事をお祈りなさいますか」
とお尋ね申し上げし時、
「ハイ、天下国家のこと、世界総氏子のことをお願い申します」
とお答えになった。
その人聞いておどろき、
「それハあまりものことです」
と申し上げるに、
「ハイ、大は小を兼ねます」
と仰せられたと。
これには只、恐れ入るばかりでした。
大きな信心には迷いがおこりません。迷いがおきたら自分の信心が小さいことを悟り、一つ一つ打開して大きな信心に進むことに一心になるのです。
                (昭51・7・8)

金光教の信心ハ大、且つ深遠であります。天地の心を心とする生き方を教え説きます。
かかる偉大なる教えを頂きましても、自ら小さくしている人が沢山あります。
天地の徳と大きなおかげを頂く為にも、天地の心を体得し実験し実証してゆかねバなりません。
昨夜、私の知人のおばあさんが亡くなられました。家内がおくやみに参りまして帰ってから話して居りましたが、今日が友引になるので葬式を一日延ばすと言うのです。
何と窮屈な生き方ではありませんか。
                (昭56・7・16)

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御理解 第26節

 信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。


枯れた木には花は咲かぬ。枯れた心にはおかげは実らぬ。日に日に生きるとはただ生きて居るというのではない。その「生」が生き生きと『真に有難し』を求めてやまぬ生き方こそが信心である。
有難しの芽が出る、花が咲く、実がみのる。限りなく天地は与えて与えてやまぬ。
受ける喜び現わす楽しみ。それはたとえようもない。
 「空海の心の中に咲く花は
    弥陀より他に知る人ぞなし」
この喜びは天地の親神さまと私のものと思えるほどの信心こそ、独信心してというのではなかろうか。
                (昭45・7・8)

只今の御祈念前に二人の方からこんなお届けがありました。一人は殺された夢、一人は自分が死んだ夢。
私は申しました。
「一遍焼き直さんと本当の改まりが出来んよ」と。(死ぬということはメグリも一緒に死ぬとの意)
『日に日に生きるが信心なり』とは日に日に死ぬること。即ち、自我を殺すこと。
そこから『日々が新』の信心が生まれる。
他の追従を許さぬ独創的な「連」の要らない信心が出来るようになる。
                (昭51・7・9)

「生命の欲求」と頂きました。
いのちが求めるやむにやまれぬもの、という事でしょう。
信心は私の生命ですといえるまで信心を高めたい。
教祖さまが極められた御教え『日に日に生きるが信心なり』という本当の意義がだんだんわかってまいります。
                (昭56・7・17)

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御理解 第27節

 昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。


信心しておかげをうけるというのは、それは片仮名でも金釘流でも神さま宛に手紙を書くようなもので、必ず御返事を受けることが出来ます。
それは人が善いとか悪いとか、字が上手とか下手とかいうことは別であります。
昔からいう「誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」等ということは、人間の勝手な言草でしかないと分かります。
頼まんことには神も仏も知らんということです。
                (昭45・7・9)

宗教学者でも精神家といわれる道徳者であっても、おかげハ受けられぬ。
「別物」と言われるおかげとは「楽」の下に「有難し」というおかげ。即ち、心身共に極楽に住めること。
貧争病のないおかげを受け、真善美の世界に住める信心者だけの味わいにひたることが出来る。

 茗荷栄える蕗繁昌(妙賀栄える富貴繁昌)
                (昭51・7・10)

親鸞上人ハ
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言うことを残しておられるそうですが、親神の心をいたいほどとらえたおことばだと思います。
善人悪人を問わず、神さま助けて下さいと言う心をおこしたらお蔭が受けられるのは、氏子助けたしの神願の現われであります。
                (昭56・7・18)

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御理解 第28節

 病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。


わかり切った道理をもって説いておられますが、なかなか出来る人が少ない。
お道の信心は、ふぐ料理を食するようなもので、繰り返し繰り返しの水洗いが肝心で、天下一品の珍味を食しようと思えば、其の手数と度胸を求められます。
井戸は清水になるまでのおかげを受ける為に根気と根性が大切です。
少しばかりのおかげに腰掛けず、湧き出るばかりのおかげを頂きたいものです。
                (昭45・7・10)

「吾、無力無能無才にして」の自覚。
あなたにすがらねバ助かりようのない私。
あなたのおかげを受けねバここ一寸動けぬ私。一切をおまかせするより他に道のない私。
それでもお役に立ちたい一念を燃やす時、あいよかけよの無限の道は開かれるのです。
途中で止めるにも止めようのない道が。
                (昭51・7・11)

信心辛抱しぬいた後の感動が力となりメグリのお取り払いともなるのです。
感じたことが神さまを動かすのです。
まこと、真と申しましても、感動のない真では神さまに通いません。
                (昭56・7・19)

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御理解 第29節

 桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。


桜の花のような、はなやかなおかげも受けたい。
それには、いさぎよい信心が出来ねばなりません。その内容としての梅の花の信心辛抱こそ大切です。
合楽の信心を一言にして言うなら

  うめの香りを さくらにもたせ
       しだれ柳に 咲かせたい

梅の辛抱、桜の華やかさ、いさぎよさ、柳の素直にまかせる心。
この三つの要素が合楽で受けている信心とおかげだと思う。
                (昭45・7・11)

形のおかげを願うだけの信心は桜の花の信心。
心の助かりを願っての信心に御神徳が受けられる。梅の花の信心をすれば花も実もあるおかげが頂ける。
痒いから掻くのは桜の花の信心。痒いけれどもじっと辛抱する、これが梅の花の信心。
辛抱しているうちに徳がうけられる。

 霊徳はさくらの花の信心。
 神徳はうめの花の信心。
                (昭51・7・12)

  梅ハ咲いたか
   桜はまだかいな
    柳なよなよ風次第

これハ小唄の一節ですが、梅の信心辛抱、桜の花が咲いたような華やかなまでのおかげを受けたい。
それにハどこまでも、柳の風次第風まかせであるように、神さま次第の信心をせねバなりません。
先ずハ桜の花より梅の花の信心が先です。
                (昭56・7・20)

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御理解 第30節

 神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。


正札の店での買物は安心して買える。
又、売る方も楽であるように、神さまと氏子の上にもこの様な働きが出来るようになった時はじめて、『神も助かり氏子も立ち行く』世界の顕現がある。
信ずるところに安心があり、信じられるところに徳がある。
信じ信じられる稽古の手始めに先ず、親に信じられる子になろう。
子に信じられる親になろう。
                (昭45・7・12)

「主従三世」と言うが、主人に対する恩愛の情、従者に対する憐憫の情あって、はじめて成り立つ言葉だと思う。
おかげを受けることによってはじめて、神を知り神を信ずることになる。
神の大恩がわかればわかるほど神恩報謝の心がつのる。
神に信じられる人々は、この神恩に応えつづける決心のついた人達である。
                (昭51・7・13)

人間が人間らしい生き方の中にこそ、神人一体の真の喜びの生活がある。いわゆる歓喜の世界である。
聖人君子の様な生き方をめざすのが信心のような間違った観念をふり捨てて、神さま頂きますという心、すべてに「御」の字をつける受け方を身につけて、目に見えるところより目に見えぬところを大切にする心、メグリのお陰で信心が出来ますというような信心を求めてゆきたい。
                (昭56・7・21)

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御理解 第31節

 信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。


信心して、いよいよわからして頂くことは、すべてが有難しとお礼を申し上げねばならぬことばかり。御礼の対象にならざるハなし。
そこから真のおかげの道が開かれてくる。
すなわち『道不孤(みちはこならず)』である。
但し、ここに思わせられることは、おかげの頂き過ぎである。
お礼もさることながら、御礼そしてお詫びが切実になされねばならぬことを思う。
                (昭45・7・13)

信心する者は木の切り株に腰を下ろすにも「お願いします」と言う心持ちになれよ。自ずと立つ時には礼を言う心がおきてくる。
汽車に乗るにも切符を見せて乗り、又、降りる時にも切符を見せて降りる様なもので、もし失くしたらまた料金を払わねバならぬ。
すべてに行き届いたこの心掛けがいる。
                (昭51・7・14)

遊侠の世界にも一宿一飯の恩義に命をかけて恩に報ゆると聞く。
教祖ハ『信心して神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ』と教えておられる。
生命で感ずる物すべての恩のことである。
                (昭56・7・22)

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御理解 第32節

 女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。


女だけでなく、野菜にかぎらず、食する時のことだけでなく、其の時そのことの取り組む姿勢を教えられたものである。
どのようなことでも事柄自体を拝む心、そこまでに至る過程を詫びる。
願う心があればおかげである。
又、そのことを処してゆくとき、成行きそのままが御神意として、『神様頂きます』というような心あらば、あたることもなく、さわることもなしである。
むしろ其の事が信心の血に肉になるのである。
                (昭45・7・14)

〇 商売をする人が、お客様を拝む。其のお客を差し向けて下さる神さまに礼を 言う。
〇 お百姓の方たちが野菜の種を播く。きれいに芽が出たと其の芽が出たことを 称える。又、其の元つ働きの天地の恵みに感謝する。
〇 神様あっての私としての感恩の生活が出来るようになる。そこには氏子あっ ての神としての神の感謝が伝わってくる。神と氏子との拝み合い、即ち「あ いよかけよ」の道が開かれる。兎に角、お道の信心は拝み拝まれることに尽 きるのです。
                (昭51・7・15)

実験実証させて頂く信心の「いろは」です。
大地を拝む気になり、すべてに頂きますという合掌の心。
今まで気づかなかったおかげの元が、そこにもここにもある事に気づかされます。
信心とは一切を拝み、一切を頂きますと言うことだな、とわかります。
                (昭56・7・23)

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御理解 第33節

 お供え物とおかげは、つきものではないぞ。


お供物は神は要らん。要らんものを供えたからとて、おかげには関係ない。
然し、そのお供えものが自らの身の清まりを願うてのもの、又は、神恩報謝の心がそこに現わされるものであれば、身に徳がつく。それとても、その功徳が遍く一切衆生に及ぼす働きがなされねば、徳にはならぬ。

お供えする氏子も一生懸命なら、それを取次ぐ者も一生懸命、又、それを行使するものも一生懸命。
                (昭45・7・15)

  鮮やかに捧げる

捧げる物とか金に、おかげが伴うのではない。
その鮮やかな捧げ尽くす心におかげ(徳)がつくのである。
                (昭51・7・16)

親が子に無条件にお乳を与えるようなものではなかろうか。
氏子私共も又、無条件に親神に尽くせるように育たねバならぬ。
無条件と無条件の出合い、そこに『天地人一如』の世界が開かれるのです。
                (昭56・7・24)

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御理解 第34節

 ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。


神と氏子の真実がぶつかり合う。火花を散らすほどのものがあって、はじめて真の神の真実にふれることが出来るのである。
浪花節の文句ではないが
  女は客に惚れたと云い 客は来もせで又来ると云う
  うそとうそとの色里で 恥もかまわず身分まで
  よう打明けてくんなました
そこから、相手の真実を射止めたようなものではなかろうか。
私共の場合、神さまに嘘や掛け引きがあるようなことはあるまいか。
実に神に一心とは迷いのない事ぞ。
                (昭45・7・16)

もう五、六年にもなりましょうか。或る日突然、「今日よりはサイダーを飲むな、コーラかジュースにせよ」とお知らせを頂いた。それ以来、サイダーを飲んだことはない。
何故だかわからない。伺うたこともない。ただ神さまがそう仰せられるからである。
まして天地の道理に基づいて、懇々と又、切々と然も頼むように説き聞かせて下さる御教えを守らない事は、勿体ない限りである。
改まった心で一心に迷わず「拝聴」「実行」することこそが、お徳を受けることになるのです。
                (昭51・7・17)

信心させて頂くものとして大切なところをみ教え下さってあるのです。
心の内を改めることの大切さ、教えを守らねばならぬこと、神に一心とは迷いのないこと等々。

 神徳の
 めぐみのなかに
 かみありて
 うじこありての
 しんじんしんとく
                (昭56・7・25)

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御理解 第35節

 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。


元日の心、又は大晦日の心とはどんな心であろうか。
今日は親教会の月次祭に参拝のおかげを頂いたら、親先生のお説教の中に、今月の御本部参拝の折、金光さまより御教えを頂かれたお話がありました。
金光さまのお言葉として『何事もありがとうありがとう受けてゆかぬと物事成就いたしません』
これこそ元日の心、大晦日の心ではなかろうか。
家族中がこの心で、又、社会の中にもこの様な思い方が出来る世の中を祈らねばなりません。世界の真の平和を祈るとは、こんな祈りをもつ事だと思います。
『信心は日々の改りが第一ぢゃ』と仰せられますから、今日をかぎりに本気で何事もありがたい、ありがたいでうけて御祈念成就のおかげを蒙りましょう。
                (昭45・7・17)

朝日を拝む者ハ多いけれども夕日を拝む者が少ない。大晦日の心を大切にせねバ元日のような朝を迎えることは出来ぬ。

  朝のすがすがしさ
  昼の忙しさ
  夜の有難さ

今日なさねバならぬことは明日に持ち越さぬ努力こそ大晦日の心。
家内に不和のない元日の心を頂くためにハ人を責める心を捨てねばならぬ。
周囲の一切を拝める四方拝の心である。
                (昭51・7・18)

『元日の心で』『大晦日と思ひ』、これが実行出来たら家内に不和もなかろう、おかげも受けるであろうと一応誰でも思うのですが、なかなか実行が出来ません。
要ハ有難き、勿体なき、恐れ多きの三喜がないからです。
養老の滝ではないですが、親の喜びを一心に願い、心にかけておれば、神さまが与えて下さるのが有難しの心です。
不思議に有難しの心があれバ普通できないことも楽に有難く出来るものです。
                (昭56・7・26)

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御理解 第36節

 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。


道は一筋
頼むはこの方御一人
『この一心』とは
信心が生命と定まること
                (昭45・7・18)

病気直しや災難除けの神じゃなし、心なおしの神じゃ。
医者にも外科、内科、小児科といろいろある。
それぞれ専門医に行くのが早道であるように、お道の信心は心直し専門の神さまであることがわかると迷いは消える。
心直しを頼む気になると「運命改善」が出来る。
心開いて一心に頼め。
                (昭51・7・19)

八百萬の神々と拝むはいかにも信心深いようでも、それハ螢の光を集めたようなもので、ボンヤリとあたりを明るくするにすぎない。
此方一心と定めて拝むは火のついた線香のようなもので、紙(神)の裏表を焼き貫くことが出来る。
                (昭56・7・27)

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御理解 第37節

 生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。


今朝より、福岡の秋永由喜子さんがお参りして来て「先日よりお夢を頂きました。北野町の中村のおばあちゃんが御結界の前で寝て居られますから近づいて見ると、死んでおられました。親先生がすぐに御神前に出られて御祈念をなさいますと、生き返られピンピンする様になられた」というお届けでした。
正しくこの秋永さんのお夢の様な状態が中村さんの信心の上に起こっております。最近、お孫さんの病気で以前にも増した若い者にも負けんような信心が出来て、毎日、生き生きと参拝修行が出来ています。
ここで思うことは、折角生きて居る間が修行なら、枯れたような修行でなく生きた修行をさせて頂き、お徳につながる修行で一生を終わりたいものです。
生きた修行とは喜びが伴うた修行を言うのです。
                (昭45・7・19)

 花の生命は短くて
   苦しきことのみ多かりき
信心がないなら、この世は苦の世、苦の世界。信心しても御利益を追うのみの信心なら、やはり修行がつらい。
信心を求めての苦労なら、力を受け徳が身について行くのがわかるようになるから、楽しい苦労である。これが真実の修行になる。
楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある。
清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すなわち、即身成仏を願う信心である。
                (昭51・7・20)

「この世はあの世の為にあるのだから」の一言につきます。

難儀の元ハ神と氏子の間にはられた光明電線のようなものである。
有難く修行として受けてゆけば、光ともなり徳ともなるのです。
                (昭56・7・28)

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御理解 第38節

 垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。


身体の垢離をとるにも力をいれて揉みほぐすことがいるように、心のこりも同じことで、よくよく教えを元に練り出して本当のことがわからねばなりません。
心のこりも嘘のようにとれるものです。
今日、ある方が或る問題で心にしこりができ、ここ二、三日悩み続けて居りますと、お願いがありました。
私は「その事柄をとおして信心のお育てを頂いているのですから、お願いもさることながら、お礼も申し上げねばなりません」と申しましたら、すぐその後でお礼に参拝して来ました。
本当のことがわかったから、幾日もの悩みも心のしこりもとれたわけです。
本来、我情があるから、こりをつむのです。
我情をとることに精進することが第一です。
                (昭45・7・20)

有難い心を態度で示せ。
太くなれ、大きくなれ、死んだ気になれ。
三井教会初代教会長荒巻弓次郎先生の御信心の内容と言われる、

 垢離をつむな 垢離をつますな
    身をつつしめ

こりをとってと言う前に、こりを積まず積ませずの修行こそ大切にすべきである。それには、有難く太く大きくなるより他になし。
                (昭51・7・21)

ここの青年会長、本日或る教会に御用の為参りましたところ、そこの教会長先生に合楽は金光教ではない等と、散々悪口を聞いて帰りました。
其の旨、神さまにお取次させて頂きましたら「この暑さで不快指数が高い時でもあったろう、涼風を送ってやれ」と頂きました。
此の行き方でゆけば垢離を積むこともありますまい。
最後に「無駄な抵抗」とも頂きました。
                (昭56・7・29)

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御理解 第39節

 此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。


お道の信仰による行の目的は神に向かう神に近づくにあります。家業に精を出して居れば修行しているような思い方をしてはなりません。
家業の行の中に真に有難し、又人が助かることさえ出来ればの精神が育ってゆかねばなりませんが、なかなか難しいことであります。
そのような神心、奉仕の心が頂ける為にやはり火の行も水の行も、又心行も必要であります。
すべての行はそこが体得出来て家業になり、はじめて「家業即行」「行即家業」ということが出来るのです。
本来、修行の眼目は己を乱さないというにあります。火にも焼けない、水にも流されない自分を修めてゆくのです。
                (昭45・7・21)
  ※ 神に向かうための形の行も心の行も、行という行がすべて大切であります。その精神を体得しての家業になりますと、教祖の神意、いわゆる家業の業の行の意味がわかります。


生活そのものが行ではなく、その内容如何である。
生業が生活の為でなく、生かされてある自覚が神恩報謝の真となってはじめて家業の行と言えるのです。只、忠実に働くというだけではありません。
今朝、戎浦さんから電話がかかって来ました。或る病院に勤めておられます。院長先生が大変ひどい方らしいのです。そのために従業員の人達が長く続かぬような始末です。その事で毎日、不愉快な日日でした。
二、三日前より思いを変え、院長の言われることをそのまま親先生の言われることだと思い頂く心になりましたら、毎日が楽しい有難いものになりましたというのです。
この頂き方こそ、正しく家業の行というのではないでしょうか。
                (昭51・7・22)

家業の内容が行になる時、家業により徳を受けてゆける道である。
勿論、内容は心行に通ずるものでなければならぬ。
合楽において表行全廃のおかげをうける様になって七年、いよいよ「心行 信行 家業の行」に取り組むことになった時点より教会の比礼ハ倍増している。ちなみに
火や水の行によるおかげは質屋で金を都合するようなもの。
心行、家業の行ハ自然の恵みで都合がつくようなもの。
                (昭56・7・30)

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御理解 第40節

 重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。


楽じゃというても、苦労せんでよいというのではない。苦労そのままが修行じゃと悟ることで、家業全体が修行、それが有難い勿体ないと感じられてくるから、信心は楽ということになるのです。
今朝より、大橋町の久保山さんがお礼お届をされるのに「毎日、畠の草とりをさせて頂きながら、取っても取っても生える雑草と取り組んで、自分の心の中にもこのような雑草の様なものがあることに気付き、暑さも感じず終日御用させて頂きました」と。
信心はこれだと思いました。
                (昭45・7・22)

毎朝、しばらくは御礼、御願いの電話がひっきりなしに続きます。電話ではご無礼とか失礼ということはない証拠に、みんなおかげを受けて居ります。
私も楽なら信者も楽です。
しかし、信心を頂こうとすれバそんな訳にはまいりません。
御教えをうけることが楽しみ、修行が有難いとわかり、信心が好きになれば信心は楽なものです。
                (昭51・7・23)

徳川家康という人ハ、此の世を重い荷物を背負って山坂を登る様なものと人生をみています。
世の殆どの人は、正にその通りだと思っています。
どんな重いものでも、楽しく有難く持って渡れる力を与えられる道を、金光大神ハ教えています。
しかも人間が人間らしく生きる手立てを、家業をつとめつとめ身につけてゆけるのです。
その気になれバ誰でもが頂けるのです。
                (昭56・7・31)

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御理解 第41節

 信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。


仕事が仕事を教えると言う。
信心も信心が教えるまでが信心辛抱であり、教えは或る意味においてそのヒントに過ぎない。
信心が真心を教え、真心が神心に導いてくれる。
                (昭45・7・23)

話を聞いても行いの上に行じ現わさねば、おかげにならぬし、わからぬことすらもわからん。
共励会等の研修の場で体験の発表も出来ず、質問も出来ぬ人がある。教えを行ずるなら、体験が生まれぬはずはない。
練り出すということは、理屈を練り出すのではなく、おかげを練り出すのである。
先ずは参拝の時間を練り出し、お初穂を練り出す工夫が第一。
話を聞くことにより心が開け、行ずることにより心の眼が開ける。
                (昭51・7・24)

実意とは
「守る」ということ
「守り通す」ということ
神の教えを守るということ
神の言うた通りにするということ
丁寧とは
「神に向かう」ということ
「その心(実意)が神に向かう」こと

神の言うた通りにするのが実意
神の心を尋ね尋ねするのが丁寧

実意丁寧とは真の御用
まこととは神の心を心とする生き方
                (昭57・7・1)

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御理解 第42節

 これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。


一、そこからの信心が力になるのであり
二、そこからのおかげが本当のおかげである。
三、足りぬことばかりの私に気付くとき、真の信心の姿勢が出来る。
四、このような時、教祖さまならどのように受けてゆかれるだろうか、と思いをそこにおく時、自ずと新たな道が開けてくる。
                (昭45・7・24)

この頃から毎朝、どなたか私の部屋に大輪の花をつけた朝顔を持って来て下さっています。目がさめるようです。
最近、信心のマンネリ化が言われています。信心は、日日に新な、毎日朝露をふくんで咲く朝顔の花にみるようなフレッシュな信心の喜びを感じられる精進工夫が要ります。
おかげだけに終始しますと「どうして」という心が起こります。
信心が目当てでありますと「こうして」信心を育てて下さるという生き生きとした心が湧いてまいります。
                (昭51・7・25)

『これ程信心するのに』というけれどもどれ程神様の仰せどおりにしているであろうか。
神様の仰せどおりにするのが「行」。それを頂き抜くところに金光教の行の原点がある。

『行』としての布教
神様の仰せどおりに行をされる金光大神。それが外に表出した時、他との摩擦現象を起こし、時には反発を受け嘲笑をあびせられることもある。「他人が嘲笑う。外見がわるい」と奥様は反発された。
その事に対して、「私は、人のまわい(世間体)をかまわず、神の仰せどおり、なにかによらず、そむかず」と、そのご姿勢をくずされなかった。
そういう『行』を通して、いよいよご自身の神に向かう心、ゆるぎなき信心をふかく確認し、自覚せられる金光大神である。
(昭和五十七年七月一日金光教徒新聞論説より抜粋)
                (昭57・7・2)

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御理解 第43節

 死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。


信心の道理がわかっているくらいで出来ることでないが、死に際にもお願いせよと言うことは、花でいうなら散り際ということになるだろう。してみると又、次の年もきれいに咲かねばならぬ。
願わねばおれぬのだけれども願える人は少ない。次の世を信じられぬからである。
『死んだからと云うて神のおかげを受けずには居られまいが』とハッキリ教えて下されてあるのに。
                (昭45・7・25)

  露草の 露よりもろき 生命かな

故人になられた久富くにかさんが、生前に頂かれた御理解です。
現世において生きたところで、五十年か百年です。魂の世界は、かぎりなき無明の世界と頂きます。
光明世界とは、自らが頂きもつところの光によるもので、光をもつ者のあるところこそ光明の世界です。
現世にあっては、いよいよ魂を清め高めておかぬと、死に際だけでは心もとないかぎりです。
                (昭51・7・26)

あの世、この世。
人の世、神の世。
人、人の世に生まれ、
人の世の
はかなさに目覚め、
神の世の
住人にならんと欲する時、
いよいよ御教えを
行ずる他に道なし。

この世はあの世のためにあるのです。
                (昭57・7・3)

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御理解 第44節

 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。


お道の信心による神格開眼です。
金光さまの信心をして居るから神になるのではない。神になる道を行ずるから神に祀られるのです。
万物の霊長としての霊徳を研き清めてゆくところに霊長としての自覚が生まれます。少なくとも真の信心の有難さ楽しさが身につき、吾ながらわが心がまつれる信心に向きが変えられねば、神になる楽しみは生まれません。
芝居講談で見ききする狐狸ですら、どこどこの山に千年の修業をかさねた狐とか神通力を得た狸とか申しますからね。その為の修行が要るのは当然のことです。
                (昭45・7・26)

教祖は『この世で神にならずして、あの世で神になれるか』と教えています。
神になるとは、霊長としての値打ちを発揮することです。我情我欲をはなれることです。
そこには霊徳、神徳が渾然として一つになる世界があります。いわゆる『神徳の中に生かされてあり』の実感です。
『死したる後、神にまつられる』ということは、吾が心が神に向こうて行くことを楽しみに生涯かけて精進して行くことをいうのです。
                (昭51・7・27)

金光大神の道は、凡夫の身そのままに神に至る道なり。
出家することもなく、修道院に入ることもなく、人間を幸福にせずにはおかんという神愛に触れながら・・・・・・。
その親神の思いにふれる時、いよいよ神の道をたどらずにおられない。
                (昭57・7・4)

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御理解 第45節

 世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。


難儀という鎧兜をつけている時は、身動きも出来ず頭も上げられぬが、少し形のおかげをうけると、すぐ思いあがり頭がさげられぬ。人間の浅はかな悲しい性である。徳がうけたいものである。
真の徳が身につけば、自ずと辞をひくうせねばおられぬ。
身に徳をうけてゆく為に、いよいよ成行きを大切に、三宝様(世に言う大切なもの、神さまの働きそのもの)をおろそかにせず、自分の足元をみつめて暮らしたいものである。
                (昭45・7・27)

お徳をうけよ、お徳をうけても油断すなとの御神慮を感じます。
本日、教徒新聞の「先師を語る」欄に安武松太郎師のことが掲載されておる中に、「千にあまる会葬者が教会から墓地まで続いた。当日は雪と雨にはさまれた好天気で、ひとえにお繰り合わせであった」と。
ここまで読ませていただいた時、しばらくどうする事も出来ぬ感動を禁じ得なかった。
四十五年間というお取次のおごくろうの中には雨の日も雪の日も又、あったことだろう。
それら一切を神の恵みとして受けぬかれた師のご信心は正に、この御理解を守り現わされた鑑ではなかろうか。
                (昭51・7・28)

信心ハ本心の玉を研くものと知れ。
有難い心も育って来る。
真心もみえてくる。
驕る心もかげをひそめる。
おかげハいやでもついてくる。
                (昭57・7・5)

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御理解 第46節

 痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。


百味の飲食が頂けることも有難いが、何を食しても美味しいことは、それにもまして有難いことであります。
地獄で仏とか暗夜に光明とか申しますが、信心して極楽の境地を開き、いつも仏の中にある世界を創造していくのです。
今朝より、ある婦人のお届けに、信心を頂くようになって私の周囲の人達がみんなよい人に見え、親切な人ばかりであるのに気づきました、と申されますので、既にあなたの周りは観音さまや菩薩さまばかりですね、と申しました。
                (昭45・7・28)

「本日もおかげさまで火難、盗難、水難、家内安全、無病息災の大みかげを蒙りまして、誠に有難い一日でございました。厚く御礼申し上げます」との祈りは、毎晩、就寝前のご祈念の時の心からの御礼の詞(ことば)です。
それには、このことは毎朝、心よりのご祈念の内容でもあるわけです。
痛い思いをする前の願いの信心が必要であります。いかにも欲張った信心のようですが、おかげを受けねば信心の真を現わすことが出来ませんから。
                (昭51・7・29)

目先目先の信心から、あの世此の世を通して通用する信心を頂けと言うことである。
くノ一会の伊藤さん、こちらへ参拝の道中、しみじみと思うたことは、合楽にご縁を受けたおかげで、あの世まで持ってゆける信心をうけることが出来ると思うて頭をあげると、前方を「萬代」と書いた車が走っていた。いよいよ感動したというのである。
魂の世界を信じなけれバ真の信心は出来ぬ。
                (昭57・7・6)

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御理解 第47節

 祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。


病気の時は医者、死んだら坊主、果たして医者と坊主でよかろうか。
人間がいよいよの時、どんな無信心者でも何かに縋らなければおれぬと言う。その縋らなければおれぬ心の比重の相違が祈れ薬れになったり、薬れ祈れになるのである。
『薬れ祈れにするからおかげにならぬ』ということは、病気が治らぬということではない。
次の高橋博志先生のおことばで知ることが出来る。
「お取次を頂いておきてくることは、よいことわるいことみなよい。
お取次を頂かずしておきてくることは、よいことわるいことみなわるい」
御取次の働き、その作用の微妙さが教えられている。
                (昭45・7・29)

病気だけのことでなく、すべてに神さまを中心にしてという御神意です。
今朝、福岡の龍さんが御礼参拝されました。先日より宮崎に縁についておられるお嬢さんより、お孫さんの急病の知らせがあり、すぐ来てくれとのことであった。
取り敢えずお取次を頂いてと、こちらにお願いに見えました。
そこで、私ハ貴女が宮崎に行かれたからといって、病気が治る訳でもありません。
あちらのことは神さまにお任せして一心にこちらにお参りなさい、と申しましたから心が決まり、毎日参拝でき、今日の御礼参りの出来るおかげになったのです。
                (昭51・7・30)

『くすりはどくです』
と教えて下さるのですから
毒薬変じて薬になるおくり合わせを願わずにはおれません。
                (昭57・7・7)

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御理解 第48節

 わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。


安心と慢心は紙一重。
『放っておくやうな気』と言うても、横着であってはならず、慢心では尚更いけぬ。
医者でも、自分の子供の手術が出来るようになると一人前だと言われるように、メスをとる手に自信が出来るからである。
信心も、子供の病気だけでなく、様々な難儀に直面した時、放っておくような気で信心することが出来たら、おかげになる。
一心の信心修行が出来ている時は不思議な度胸が出来て、同じようなおかげが受けられる。
本当は、わが子もなければひとの子もない境地が開ければ最高である。ここはもう、お徳をうけた者の世界である。
                (昭45・7・30)

『ままよと思うて放っておくやうな気になって』と言うことは、自分の欲や情を捨てた姿ですから、神さまに充分の働きが頂ける場を作るようなものです。
その上『信心してやれ』とは、いよいよ信心を進めてゆけと言うことです。
四十八節とは、いつもがおかげのチャンスと言うふうに思います。
常平生がこの気持ちにさせて頂くなら、間違いない御神徳がうけられます。
                (昭51・7・31)

三男幹三郎、肉腫の診断があった時、心は平常であった。
「九十九パーセントだめ」とのことであった。
「ままよ」の心の発露であろう。
おかげで奇跡的なおかげをうけた。
後で思うのに、もしこれが信者の子弟であったら、どうであったろうかと思う。

 我を殺して神を生かすか

 神を殺して我を生かすか
                (昭57・7・8)

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御理解 第49節

 信心は相縁機縁。


お芝居でやるお半長右衛門にしても、相縁機縁である。お互い信心の上でもお半長右衛門的なものはないだろうか。
楽やご利益やお義理だけが縁のもとになっておったり、現世だけが金光さま、あの世ではお釈迦さまと言うのでは、笑えぬナンセンスも起こりかねない。
「縁は異なもの味なもの」とも言う信心の縁は、どこまでも有難い、味なものに育たねばならぬ。異なものだけで終わってはならぬ。
あの世この世を通しての金光さまでありたい。
                (昭45・7・31)

難儀が機縁を作り「おかげ」が相縁を生む。
「袖すり合うも他生の縁」と言うなかに、親と呼ばれ子と呼ぶほどの深い縁はなけれども、その深い縁を袖にする親不孝、子不孝のものがある。
折角、親神様との縁を頂きながら、親子の縁を結びもせず、神をはなれるほど、神を悲しませることはない。
教祖ハ『信心は親に孝行するも同じことぞや』と教え給う。
                (昭52・7・1)

不思議と縁をうけながら、妙賀(信心のよろこび)にもふれずに縁を切ってゆく人、富貴繁昌のもとにもなるおかげも、うけられるのに。
おしいことである、悲しいことである。

茗荷栄える蕗繁昌(みょうがさかえるふきはんじょう)
                (昭57・7・9)

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御理解 第50節

 とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。


世間では「金の成る木があるじゃなし」というが、お道の信心は金の成る木だけでなく、人間の幸福の条件の一切が成就(なる)徳の道である。
『肥をせいでもひとりでに物が出来るようなものぞ』と教えられる所以である。
常平生、根を肥やしておかねばならぬ。
根とハ心の根、家の根、天地の根。天地への還元が大事である。

*家の根とは親先祖のこと
                (昭46・7・1)

天地の大恩を悟れバ自ずと報謝の心が湧いてくる。善行にも勇敢になれる。大きな心も豊かな心も自然に出来てくる。
大きな心に大きなおかげ。豊かな心に豊かなおかげ。

一、天地への還元ハ天地を肥やし
二、先祖への真心の奉仕ハ家の根を肥やし
三、いやなもの、いやなこと、すべてが心のこやし
                (昭52・7・2)

  養素拝山

心を養う素ハ、難儀そのものを拝んでうける修行に徹することである。
ご神願がわかり、神愛を悟ることが出来る。
筋金入りの信心とは、この神愛を頂けたとき。
                (昭57・7・10)

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御理解 第51節

 天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。


願いの姿勢が示されています。『氏子身上のこと何なりとも実意をもって願え』とあります。実意の追求が大事です。
何故願わねばなりませんか。
それは『天地の間に住む人間は神の氏子』だからであります。神の氏子としての御ご用が出来ることのためにも『身上安全を願い家業出精五穀成就牛馬に至る迄』願わねばなりません。
単に身楽のためでハありません。金光教の願いの本質が説かれています。
                (昭46・7・2)

親神なれバこそ、氏子なればこそ、願い願われることである。
身の上のこと、氏子が幸せになるための一切が願われる。それは幼児が母の膝に乳を求めてすがるように、無心であり純真そのものである。

『実意をもって願え』とはそのような道理を知り、このような心で願うのである。
                (昭52・7・3)

「草野球に勝たせて下さい」といったような無邪気な願い。
生身の人間が、その生身のままで幸福になろうとする時の素朴な願い。
こういうおかげは、おしゃぶりを頂くようなもの、本当の血肉になるおかげを頂かねばならない。
『実意をもって願へ』とはそういうことである。
                (昭57・7・11)

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御理解 第52節

 信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。


唄の文句に「沖の瀬の瀬にドンとうつ波は みんなあなたの度胸さだめ」と言うが、信心も同じで信心度胸が出来ねバならぬ。どのようなことが起きても、少しも驚かんですむ信心修行が必要であります。
その時の受け方次第で、おかげが変わってきます。信心の位も出来てきます。
神さまに対する信心姿勢の見せ場でもあります。
大向こうから「日本一!」と言う声がかかって来るようなスッキリしたおかげを受けたい。
                (昭46・7・3)

何時どのような事が起きても、それはどこまでも神さまの間違いない働き、金光大神御取次の圏内にあることと解っていても、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)するような事がある。
『驚いてはならぬ』と仰せられるが、そこは凡夫のこと、少なからず心は動揺する。そんな時は神さまに心を向け、心を鎮める願いをする事である。
神さまは少しも驚いていぬかのような、おかげを下さるものである。出来ずとも出来たかのようにおかげを下さる。
金光大神のおかばいがあるからである。
                (昭52・7・4)

真っ暗闇だから不安になる
信心の光がさす時安心が頂ける
神の偉大な働きを実感する時
そこに信心の喜びが湧いてくる
その喜びが不可能を可能にする
                (昭57・7・12)

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御理解 第53節

 信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。


あれもおかげであったとわかる時、過去一切が生きて来る。現在もっている難儀があったにしても、これも事実はおかげと悟る時、ただあるものは神愛のみとわからせて頂きます。
肉眼に見るおかげは氷山の一角でありますから、どんなにお礼を申しても申しても足りません。
過去も現在も一切がおかげとわかる真実の信者を目指しましょう。
                (昭46・7・4)

『彼もおかげであった此もおかげであったと云う事が了解るようになるさうなれば真実の信者じゃ』と仰せられるのであるから、真実の信者を目指さねバならぬ。
それには最低の自分を発見することである。「一切がおかげ」の実感がしみじみとわいてくる。
                (昭52・7・5)

『一切神愛論』から頂けば、あれもおかげこれもおかげとわかりますが、どれ程の深さ重さをもっておかげを実感できるかということに、限りない信心の精進が求められる所以です。
                (昭57・7・13)

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御理解 第54節

 徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。


神徳を受けたからというて心配がないという訳ではない。心配の内容が変わるだけである。
信心のない者、信心のうすい者がする心配をせんですむだけである。
心配のあまり夜も眠れぬというのでなく、ただ有難い勿体ない心配である。
                (昭46・7・5)

損得を任せ、生死までも神さま任せになれた時の状態が『心配はない』の時である。
神徳を受けるということは、神を信じ神に信じられる事である。私共の場合あまりに心配なことが多い。
そこに信心の精進が求められるのである。
不思議に不安から安心の世界が開かれ、闇の世界から光明の世界に移り住むことが出来る。既に神徳の世界である。
                (昭52・7・6)

まず御神徳を受けたい。
ある人は「金光教の信心は一切をおかげにしていく道だ」と説かれた。
合楽では「一切をお徳にしていく道」を教える。
先ずは『一切神愛論』のマスターから。
                (昭57・7・14)

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御理解 第55節

 賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。


「私」が無くなって行くにしたがって、一年一年有難うなってくる。
有難うなってゆかないなら、それはおかしいと気づき、我力をとり改まって信心してみよ。必ず有難い心が頂ける。
年をとるから位がつくのではない。有難うなること自体が位である。
信心ハえらくなるとか、かしこうなる稽古でなく有難くなる稽古である。
                (昭46・7・6)

信心ハ我をとる稽古である。我があるとおかげハ受けても有難くもなれない、徳も受けられぬ。
信心しておっても我をとる精進に気を入れない限り、我が有難いものを吸いとってしまう。
有難い心が育たぬとするならば、我が邪魔になっておると悟らねばならぬ。
我ほど自分を苦しめるものはない。
                (昭52・7・7)

おかげおかげの信心では有難い心は育たない。
本心の玉を研くことが信心だと悟って信心すれバ、自然と有難くもなれ、信心の位もついてくる。
                (昭57・7・15)

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御理解 第56節

 日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。


「世間のうわさも七十五日」と言う。
じっと辛抱して行く内に自分を見極めてくる心もおこり、相すまぬ私、至らぬ私であることもわかってくる。
ひそかにして信心することが、如何にしみじみとした有難い信味を味わい、信心辛抱の徳を身につける時であるかということがわかる。

 だまって喜んでおれバ
 だまっておかげを下さる
                (昭46・7・7)

『世間が広うなって行く』と同時に自分の心を寛く大きくして行く事である。
ひそかに信心の喜びをじっとおさえて、心の奥に喜びの泉をつくることである。
いたずらに、ただ日にちが経って忘れていくだけでハ、勿体ないことである。

 ひとりわが道をゆく
                (昭52・7・8)

例えば、むつや呉服店の場合、親が亡くなられたのは社長がまだ二十歳頃のことだった。また次々と難儀が続いた。
不幸が続き、店の上にも、むつや騒動と言われる程の事件が持ち上がった。
「もう、むつやは仕舞えた」という風評もたった。その中を日々のお取次を頂いた。親先生はいつの場合も「信司郎さん、大きくなることばい。豊かになることばい」。唯、この一言だった。
堪え難いところを神様にすがって堪えて来た。十数年後の今日のむつや呉服店の繁昌につながった。
久富繁雄氏の場合も同じである。数十年の信心の中に、ただ良い事ばかりではなかった。さまざまな難儀な事も続いた。
「地蔵の徳」と言われ、「土の信心に徹せよ」と教えられ、これに徹した。
いよいよ素直な信心も育った。親戚の者にも「金光様、金光様と逆上(のぼ)せておる」と言われた時代もあった。そこを土の心で受け抜かれ、今日の久富一家一門のおかげと繁昌がある。
                (昭57・7・16)

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御理解 第57節

 金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。


金にたよるな、人にたよるな、自分自身にすらたよるな。当てになるものは何一つない。
ただ、たよりになるのは神さまだけと悟るところから、自ずと一心の信心が生まれ、信の世界に住むことが出来る。『神を杖につけば楽ぢゃ』と言われるのに楽でないなら、神さま以外のものをたよりにしている証拠である。
金や物や人もみな向こうの方からやって来るもの。
                (昭46・7・8)

今の社会ハ闇の世です。今ほど真の光を求められている時はありません。
『神を杖につけば楽ぢゃ』と教祖は教えておられますが杖に出来る神がすくない。
巷(ちまた)に氾濫している神々では杖にも光にもなりません。
宗教とは読んで字の如く、宇宙(天地の親神様の意)が示すことを教える宗教でなければ真実、光にも杖にもなりません。
                (昭52・7・9)

歩いて行く人
自転車で行く人
車で行く人
お徳の車で行けば楽です
                (昭57・7・17)

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御理解 第58節

 人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。


はやり唄にも「松葉の模様が気に入った枯れておちるも二人づれ」この打ち込みがあれバ信心も本当なものだが、又の文句に「紅葉の模様が気に入らぬ紅葉色づきゃ秋が来る」と言うが、これではならぬ。信心も少しはわかり佳境に近づいて来る。何かがある、もう動揺する。
信心の帯がシッカリ出来ておらぬからである。
信心は神が見給う聞き給う世界に生きぬくことである。
                (昭46・7・9)

念ずるとは今の心と書いてあります。
今を心にかけるということは心に神を頂くということ、つまり心行そのものです。
腹を立てておる内容をよくよくしらべてみると、御礼を申し上げることに気づきます。
久留米の今村アサエさんが今日の夏期信行にバスで参拝の途中、車の中で息子さんの事でちょっと不足を思いながら、そのままウトウトしておられましたら、お夢の中で大きな建物がガラガラと音を立ててくずれるところを頂かれたそうです。
腹を立てたり不平不足を言うことは折角のおかげをこわしてしまいます。
                (昭52・7・10)

一把の割木がある。
ゆるんでいる。
数本加えたらシッカリと締まった。
『シッカリ信心の帯をせよ』とは、その内容を加えて行くことである。
                (昭57・7・18)
  * 木とは気、即ち心のこと

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御理解 第59節

 習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。


マイホーム的なおかげでは、信心もおかげも落とし易い。落としては神さまは喜んで下さらん。生活のための信心だからである。信心のために生活のすべてがある、と悟らせて頂く信心こそ絶対の信心である。
『神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びぢゃ』という信心とは、このような信心を言うのである。
                (昭46・7・10)

育つ働きと育てる働きが相まってゆく限り自他共に助かり、神も助かり氏子も立ち行くおかげが開けてくるはずなのに、どの辺から間違うのか『神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びぢゃ』ということになっていない。
育てる者も育たねばならぬ。育てる者の深く反省せねばならぬところです。信者もおかげを受けることのみに終始せず、共に育たねばならぬ。
合楽で言う『五つの願い』が成就することは、神の願い、氏子の願いが成就することになる。
                (昭52・7・11)

家族勢を揃えて、どうでも願わねばならぬ事
  五つの願い
一、体の丈夫
二、家庭の円満
三、子孫繁昌、家繁昌
四、真実の御用が出来ますように
五、神さまの願いが成就しますように、
  即ち和賀心時代を創ることの為の
  御用に役立たせて下さい。


「神様のおかげで今日の私がある」
と悟った時から本当の信心が出来るのに・・・・。
反対に、かえって後ろ足で砂をかけて行くような人もある。
                (昭57・7・19)

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御理解 第60節

 おかげは受け徳、受け勝ち。


  おかげはわが心ニあるもの
  お徳ハ神さまが下さるもの

四神さまのみ教えにも『おかげは神から出ると思うな。氏子の心の中から出るものじゃ』とありますが、お徳はそういうわけにはゆかぬもの。
久留米教会の初代はお徳は神さまのご信用と説かれてあります。神さまに信じられる信心をせねばなりません。
本当のおかげは徳をうけたものには勝てません。
                (昭46・7・11)

先生が先ず、おかげをうけて見せねばならぬ。先ずハ徳を受けることが先決で、徳を受けた者には勝てません。
受け徳のおかげを頂くために、神さまをむしるようなことをせず、信者をむしるようなことをせず、自分自身をむしる気で信心してゆけバ徳がうけられる。

 〇 おかげは押しやり修行は受け身
 〇 魚釣る人見ている人

天地は限りなく与えようとなさる。
受ける方に姿勢がいる。
見ているだけでは受けられぬ。
                (昭52・7・12)

心が豊かに大きくなる
おかげも豊かに大きくなる
まさに受け徳であり
受け勝ちである
                (昭57・7・20)

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御理解 第61節

 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。


人間がいつの時代にあっても幸福になることのために、これ永遠不滅の真理が誰にもわかるように、平易な言葉で説かれています。
先ずは自分自身がおかげを受けねばなりません。同病相憐(あわれ)むの心になりて、心から心に伝わってゆくのが楽しみになるほどの信心が有難いのであります。なるほど神にもなれよう、神への御礼にもなるだろうと合点がゆきます。
自分が話して自分が助けたという心ハ神より上になる心です。
                (昭46・7・12)

形のおかげがついて来るほどの心の助かりに、尽きぬおかげが頂ける。
梅の花が馥郁とした香りをただよわせながら花を咲かせるように、自然に鶯宿梅の働き、即ち頼まんでも現われるようなおかげを人に伝えるならば伝わらぬはずはない。
神願成就ということは人間が助かるということが第一です。これが神様への第一の御礼にもなるのです。
このような信心が徳を受けることになるのです。
『これが神になるのぞ』にもつながることです。
                (昭52・7・13)

信心生活とは神様中心の奉仕の生活をいうのである。
神様を使う信心から神様に使われる信心をめざせ。
                (昭57・7・21)

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御理解 第62節

 昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。


私的の助かりから人間としての真実の助かりをうけ、お道の信心に縁を得たことが、しみじみと有難いと思う心が「和賀心」。
この心で他人のことを願い、教会のことが願わずにおれぬ愛教精神が生まれ、教団全体の発展が願われ、世界中のことを真でねがわれる信心こそ、神の願いが成就することであります。
このような信心が一段一段進んで行かねバなりません。
                (昭46・7・13)

信心による助かりとは、心安らぎ心豊かになること。『我身の上のおかげを受けて』ということハこのようなおかげを言うのである。悲しみの中にも喜びの中にもこの歓びが湧いてくる。
水は低きに火は上に。これハ天地の道理である。道理に従うからその折々のリズムが生まれてくる。
神の神用(神にもちいられるの意)もついてくる。神さまに使ってもらわねバ人は助からん。お役に立ちたいの一念が神様への情念と変わる。
                (昭52・7・14)

今までの過去の宗教観念、道徳観念、常識観念をかなぐり捨てる。
そこから金光教の本当の助かりが得られる。
『我身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ』とは。
まず教祖の御教えが人間の助かりの最高理念と信ぜられる所まで高めて行け。
合楽理念は、その手掛かりを説く。
                (昭57・7・22)

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御理解 第63節

 一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。


『善い手本になるような信心』とはどんな信心を言うのであろうか。
「信は光なり」信の光が心に点じられる。その光で自分の心の中の暗黒面がハッキリしてくる。そこから真の改まりがなされる。又その光は自分の周辺を明るく照らしてくる。
いよいよ光は広く輝くようになる。その光に潤う者、数かぎりなく信心の喜びをたたえるであろう。まさしく一粒万倍ではある。
このような信心をさせて頂きたい。
                (昭46・7・14)

『手本になるような信心』とは、どんな苦しい時でも、神愛を思うたら有難涙がこぼれるような、どんな場合でも神にお礼が言えるような信心である。それが出来たら『一粒万倍』のおかげが受けられる。

  渋柿は 皮をむかれて
    つるされて
   白粉ふきつつ 甘くなる哉

問題ハ皮をむかれるとき、つるされながら渋がぬけてゆくとき、神の心の奥がわかるとき。
                (昭52・7・15)

喜びの種子を播くという。
自分では喜びの種子を播いたつもりの人が居る。
それでも喜びの芽が出ないなら、喜びの種子が枯れておると、教えの頂き直しが必要だ。
                (昭57・7・23)

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御理解 第64節

 此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。


御取次を願い御取次を頂いて帰る。私共の願いを聞いて頂き、又その返事を聞いて帰ること。それを実行することが、お徳を受け身凌が出来るようになることであります。
先ほど長い間信心しておる或る老婦人の方が三カ月ぶりで参拝されました。人間関係の問題で悩んで居られました。
その時、私は「それハ難儀のように見えますが、貴女(あなた)に対する神さまからのお供えですよ」と申しました。
「今日はあのお話を頂いて少しは心が楽になりました」と御礼申されましたが、そのことを神さまからのお供えとして、又御事柄(おんことがら)として有難く合掌して受け得られる時、そのまま身凌の出来るお徳になるのであります。
                (昭46・7・15)

求めているものが与えられない淋しさ、悲しさ。時には腹立たしくなることさえある。
我が身の不徳を悟り、信心の奥処(おくが)を尋ねたずねして行くうちに心も開け(心眼)求める以上、願う以上の夢にも思わなかったおかげの世界に住むことが出来るようになる。
『信心して徳を受けて身凌(みしのぎ)をするやうになれ』とはこのような事をいうのである。
                (昭52・7・16)

赤ん坊の時には食べ物もめめて食べさせてもらう。大きくなると自分で箸を取り茶碗を持って一人で食べるようになる。
これが身凌が出来る姿である。
信心も正調に育てば誰でも身凌が出来るようになるのに、何時までたっても信心が育たない。
何時までもめめて食べさせて貰うことが信心のように思うておる。
信心が正調に育たないから育たぬ。
                (昭57・7・24)
 * めめて=幼児に食物をかみくだいて与えること

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御理解 第65節

 日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。


事をなすに当たって、よきことを願い悪しき事のなきように祈る心が、日柄になり方位になるのである。悪しきを言わず思わず行わず、心は常に安らかなり。
その上、天地の道理を知れば、千人力なり。
迷いは失せて常時が天赦日なり。
なるほど『自分に都合のよい日が吉い日柄ぢゃ』と悟るべし。
                (昭46・7・16)

金光教の信心をさせて頂くものには日柄もなけれバ方位もない。鑑札を持って車に乗るようなもの。無鑑札で乗るから日々が不安であり、ビクビクで過ごさねばならぬ。実は日柄も方位も人間の心がつくるもの。御取次を頂いての日々は有難く又楽しいものである。
信心させて頂く者にとっては毎日が天赦日である。
                (昭52・7・17)

鳥や獣には日柄も方位もない。
人間にだけあるはずがない。
天地の恩恵の中に生きるものは総て、人間も動物の仲間である限り、生きる自由の与えられておる事をわからねばならぬ。
                (昭57・7・25)

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御理解 第66節

 人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。


流れ来たって流れ去る水の流れにも等しい私どもである。人間の実相は智者も徳者も凡人も、この世に生まれて来るも死んで果ててゆくも皆同じである。
これが天地の法則でもある。
故に途中ばかり旨(うま)く生きようとしても、それは空しいものになる。この人生の大事を悟り、この世にある内に天地の道理を身につけて、道理に合った信心生活が必要である。
そこに実のある生き甲斐が生まれてくるのです。
                (昭46・7・17)

 神ながらに生まれ
 神ながらに生き
 神ながらに死ぬ
 信心者の一生ハ
 かくおかげを受けたいものである

出物腫物所きらわずと言うが、信心して居れば所をきらわして下さる神さま。
生きるも死するもおくり合わせを願え。
                (昭52・7・18)

教祖様ほど素朴な生き方をなさった方はあるまい。
しかも天地の道理に基づき『討向かふ者には負けて時節に任せ』と言う生き方こそ土(どろ)の心であろう。
人間は土より出でて土に還ると言われる。
その道中とても土の心を身につけての生き方こそ、御道の信心者の神髄でもあろう。
                (昭57・7・26)

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御理解 第67節

 何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。


地球はじっとしているようで、実はすさまじい回転をつづけているように、何事も変わったことはないようで実は釘づけではないのである。
だからこそ天が地になるほどのおかげ、白が赤になるほどの奇蹟もまた生まれるのである。その動きが有難い方へ有難い方へと向かって進展してゆくような信心が、求められる所以であります。故にめいめいの信心が生き生きと成長してゆかねばならぬ。
他人を見ず自分だけを見つめて進め。神さまと自分だけの世界を開け。
                (昭46・7・18)

目の見えない人、耳が聞こえない人、人それぞれ様々なれば、各自その自覚に立って信心せねバならぬ。目が見えないため、かえって目明きが不自由に見えるほどの勘も強くなり、耳が聞こえないために人の心を読むことが誰よりも的確になるようなもの。
それぞれ身にもてる力が充分発揮できるよう精進が肝心。いよいよ極めにきわめてゆくことが楽しゅうなり有難うなることにつとめねばならぬ。
                (昭52・7・19)

本当からより真実(ほんとう)を求めて行くのが信心だ。
限りない追究、限りない精進、そこには限りないおかげの世界が開けて来る。
より真実の信心には、より真実のおかげの証がある。
−(引)いたら+(足)してみる。+(足)したら −(引)いてみる。確かな答えを踏んまえて進む。確かに信心は釘づけではない。
                (昭57・7・27)

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御理解 第68節

 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。


三代金光さまのおことばに『神信心には何事も辛抱することが一番大切でございます』とあります。
信心辛抱させて頂く内に、三代さまの又のおことばの中にありますように『ほしいものも、考える事も、いつの間にか無くなりましてなあ。有難うて有難うてならぬようになり、なんぼう御礼を申しても、足りませんのじゃ。御礼の足りませぬお詫びばかりしております』というお徳に進まれておられます。
『はじめの間は泣く泣く辛抱しいしい』とも仰せられて居ります。
とかく信心辛抱こそ、すべての徳の根本になるものであります。
人生の上におきてくる雨風の上にもまた同じことであります。
                (昭46・7・19)

辛抱というても信心辛抱でなからねバならぬ。
その内容が心の内を改めるであり、清めるでなけれバ『身に徳を受ける修行じゃ』にならぬ。
生活そのものが改まり清まるおかげを受けねバ『神に虚言を云ふも同然ぢゃ』ということになる。

  形だけの信心でハおかげだけ
  心からの信心に徳がうけられる
                (昭52・7・20)

  六 --- 禄・徳に通じる
  八 --- 広がりに広がるの意

とかく先ずは徳を受けよという事である。
おかげは広がりに広がって来る。
雨も風も総て御徳を受ける素である。
雨風も神愛と悟れた時、心から「神願有難し」と受けることが出来る。
総てを有難しと受ける心、即ち真である。
                (昭57・7・28)

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御理解 第69節

 信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。


その日その日のおかげが足らんような思いから、信心が間違ってくる。
信心はどこまでも我ながら我が心をまつれるようになるけいこである。
信心は容易いものと仰せられるのは、例えば自動車の運転を覚えるようなもので、覚える気になれバ誰でも覚えることが出来るようなもの。覚えようとしないからむずかしいものになる。
                (昭46・7・20)

ご参拝の時間が惜しい、お賽銭が要るという人には信心ハ難しい。
神さまが参らせて下さる、お供えもさせて下さるということがわかれば、信心は容易いだけでなく有難いものになる。
このような信心が十年も続いたら、間違いなく我が心がまつれるようになる。
このような信心生活が出来ておると他の真似の出来ぬような大きな、然も勿体ないようなその日暮らしが出来るようになる。
                (昭52・7・21)

好きこそものの上手なれ。
信心が好きにならねばならぬ。
それには信心の好きな人の話を聞く事。
信心の奥処を尋ねる楽しさ、喜ばしさ。
我が心に合掌出来る心には限りがない。
信心の節目節目を大切に。
節から芽が出る枝が出る。
                (昭57・7・29)

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御理解 第70節

 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。


万物の霊長としての信心生活が出来ねばならぬ。霊長としての自覚に立ち、霊長としての徳を身につけ、輝かしい人生を生き甲斐にするこそ「真の人間」「真の信心」と言えるのである。
冷血動物のヘビや蛙でさえ降り照りのことがわかると言う。霊性を失うた人間を人面獣心と言う。これでは世に悪を流すのみである。
世の清まりを願う前に先ず人間の清まりこそ大切である。
                (昭46・7・21)

金剛石も磨かねば玉の光ハ出ません。
万物の霊長と言うても霊長としての値打ちを発揮するにハ、天地の道理を見極め、道理に従い、改め研きしての生活にならねバなりません。
教祖金光大神さまハ、天地の親神さま直伝の深遠にして広大な教えをもって、誰にもわかるように説き示されました。
                (昭52・7・22)

胡椒がもし辛くなかったら胡椒の値打ちはない。
人間が霊長としての値打ちに値しないものであったなら、霊長としての値打ちはない。
教祖は人間が人間らしゅう、霊長が霊長らしく生きる手立てを教えられたのである。
自然の働きを尊重する生き方こそ、道理に合った唯一無二の生き方である。
                (昭57・7・30)

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御理解 第71節

 ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。


たとえば野球を見物する多くの観衆、中で試合をする選手達。見物するのも楽しいが、試合をする人達ハもっと楽しく、日頃の練習にもの言わせ実力を競い合う喜びは、勝っても負けても又格別であろうように、信心もまた、見たり聞いたりするだけでなく、信心者の選手をめざさねバ本当の信心の有難さは望めません。
一にも稽古、二にも稽古であります。
                (昭46・7・22)

天地の道理をあらゆる角度より、余すことなく説きあかしてあります。
楷書で書き、ある時は行書又ハ草書で書くように、稽古次第で自由自在にいただけるように説かれています。
限りないおかげの世界に有難く楽しく遊ぶ心地で導き入れずにはおきません。
尽きぬみかげを永遠に頂ける確信が心の底から泉のように湧いてまいります。
『まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ』とは、なんでもない時、不断の精進を強調しています。
                (昭52・7・23)

痒い時に掻いて貰い、痛い時にさすって貰うだけの信心なら稽古はいらぬ。
痛い事もおかげ、痒い事もおかげとわからして貰う為には、真の信心を目指す一心の稽古が要る。
またの教えに『彼もおかげであった此もおかげであったと云う事が了解るようになる。さうなれば真実の信者じゃ』とある。
                (昭57・7・31)

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御理解 第72節

 人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。


神の氏子としての頂き方、見方が出来ることが本当ですが、なかなか難しいことです。それでもやはりおかげを受けねばなりませんので、どうでも本気に取り組まねバならぬことであります。
『軽う見たらおかげはなし』とまでに断言して教えてあるのですから。
そこでいよいよ自分を見極め掘り下げてみることです。そこには、いたらぬ私、きたない私、いよいよ相すまぬ私がハッキリわかってまいります。そこから人を見るのです。
みんな自分より立派に見えてくるのです。
軽う見ようにも軽く見れなくなるのです。
                (昭46・7・23)

人間を軽う見られぬように、言うことなすことに心しなけれバなりません。
軽う見られることは軽う見た人が『おかげはなし』ということになるのですから慎まねバなりません。
他人が軽う見える時には自分を尊大に思って居る時です。
自他共の助かりの為にも他人を神の氏子と見、自分を屑の子と見ることです。
                (昭52・7・24)

『軽う見たらおかげはなし』と言われるのですから、大切にする心におかげがあるということになります。
大切にするとは、その個性(いのち)を尊重するということです。

  大根に 人参の赤きを求めず
  人参に 大根の白きを迫らず
  午蒡(牛蒡)に その黒きをたたえ
  蕪菜に その青きをほむ
  自然の心 寛きかな    (信楽216節)

大切にせずにおれない心の根元は寛き心です。
                (昭58・7・1)

 *「寛」・・・・・・「ウ」かんむりは宇宙のこと
        「草」かんむりは自然ということ
天地自然の働きを神の働きと見ることこそ寛大な心である。

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御理解 第73節

 変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直(すぐ)いことぞ。


『変人というは直い事ぞ』
直い事とは本当のこと、真直いことの意。
本当のことをなす人を変人と言わねバならぬほど変人は少ないのである。
学生に「勉強と信心はどちらが大切か」というと勿論「勉強ハ学生の本分だから」というであろう。
けれども、つまるところ勉強も人の幸せにつながるものでなければならぬ。すると信心はその根本になるものである。
信心を先に立てて勉強をとると、人は変人というかも知れぬ。
「信心と勉強」「勉強と信心」二つにして一つ、信心と勉強との対立のない世界がそこから開けてくる。
それが信心である。
信心とは信ずる心である。
                (昭46・7・24)

ここで変人と言うのは、真実のことをわかろうと意欲してつとめる人を言うのです。
人間の身体の中にも「感じる」ところと「感じない」ところがあるように、神さまは真の変人ぶりを発揮する人間に感じなさる。
                (昭52・7・25)

変人と直い人の違いは、自分の我を通そうとするか、神様の思いを徹しぬくかの違いです。
変人とは、信心によって人間の性から神の性に変わって行く人をいうのです。
即ち変人とは「変神」のこと。
他人に笑われても神様に笑われぬ生き方をしたいものです。
                (昭58・7・2)

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御理解 第74節

 かわいいと思う心が神心じゃ。


人間の頭ではわからぬ心、しいて言うなら慈悲心、愛の心を一つにしてねがう心、有難き勿体なきの心の充満した心とでも申しましたらよいでしょう。
ゴキブリを見たら憎らしくて殺さねバ居れぬと言う人に「私もころしますがコロス心の中で、この次にはもう少しましなものに生まれ変わってくるようにと祈りながらころします」と答えました。
わが心が神に向かって一歩一歩神に近づき、神の心をわが心に頂いてゆくのがお道の信心です。
                (昭46・7・25)

神心とは無条件の愛、無条件の慈悲、無条件の真心。
商売敵と思うて居た人のことを祈らずにおれぬ心、自分の事を憎んだり悪口を言う人のことを祈り願わずにハおれぬ心。
神心はお道の信心の目当。
                (昭52・7・26)

この天地には氏子可愛いの一念が満ちあふれているのです。
しかし、その神心(おやごころ)の内容は決して撫でさすりして下さるばかりではありません。
獅子は我が子をも谷底につき落とし、這い上がって来た子しか育てぬという。
これも又、我が子可愛いの親愛の一面でありましょう。
「一切が神愛」これほど完璧に神心を表現した言葉はない。
今、難儀を感じるなら、今こそ、神様の神愛(ねがい)があなたの身の上に成就しているのです。
                (昭58・7・3)

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御理解 第75節

 人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。


『人を殺すと云ふが心で殺すのが重い罪ぢゃ』と教えられるのですから、信心とはその反対の働きをすることであります。
そこで先ず自らの心の健全を願い、どのようなことにも傷つけられず、殺されることのない力を受けることが第一であります。その有り余る力こそ人の心を生かす働きになるのです。
「道を伝える働きを」等ということが叫ばれて居りますが、その動きとても今日申しますような有り余る力を以てせねば無意味に終わります。
                (昭46・7・26)

責める心、争う心、憎む心、うらやむ心、高ぶる心ハ人の心を傷つけ殺すことすらあるのです。
「心ひとつで総てを創る」と言われるのですから、心一つですべてをこわすことにもなりかねません。
もたまほしきは和賀心ですね。
                (昭52・7・27)
  ※もたまほしき→ 持ちたいの意

人を殺すと言うが他人ばかりではありません。自らが自らの心を殺すような場合があります。
他人を殺すより、この罪の方が重いかもしれません。もう一つの重い罪は運命を殺す罪です。

物事を良い方へ良い方へとる人を善人というなり。
物事を悪い方へ悪い方へとる人を悪人というなり。
                (昭58・7・4)

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御理解 第76節

 人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。


人助けが楽しみ。なんと素晴らしいことでしょうか。
助けを求められ助けてやれること、助けを求められても人間ではどうにも出来ぬこと。よし助けることが出来たとしても、結果的に見て助けたことが助けたことにならない事実が多くあります。
教祖さまは『人が助かることさえ出来れば』と申されて居られます。勿論、真実の助かり、根本的助かりのことであります。
私共もおかげをうけ、心からの助かりを得て、人が助かることのために奉仕させて頂きたいものであります。
                (昭46・7・27)

その場かぎりなら金ででも助けられる、物でも助けることは出来るが、心から助ける、又ハ永遠の助かりにつづく助かりハ真の信心による他に道はありません。
助ける者自身が難儀を修行とわかり、神愛と悟り心に真の喜びをうけ、その心で人に話をしていけば、そこから「神の示現」(神仏が不思議な働きを示し現わすこと)がおこり自他共に助かることの出来る道が開かれ、人間最高の生き甲斐ある信心生活が営まれるようになる。
                (昭52・7・28)

いかに幸福の条件に恵まれていても、安心感は神様に許されなければ絶対に頂けぬものです。
歓喜の生活、それは私共の願いと神様の御心が交流するところから湧きいずるものです。
一滴の水でも谷川にそそげば谷川の水、大海に流れれば大海の水。
確かに私共の願いや働きは一滴の水にも等しいものかもしれません。しかし神様の願いと一つ心になる時に、思いもかけない神のヒレイを受けることになるのです。
お道に御縁のある人ことごとく、和賀心時代顕現の神願成就の使命に燃えたたせて頂きたいものです。
そこから生まれてくる喜び安心こそ不壊のものであり、それが真の助かりであり永遠の助かりになるのです。
                (昭58・7・5)

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御理解 第77節

 人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ。


人の悪口にはあやしいまでの魅力がひそんでいる。たしかに悪魔のささやきにも似たものがある。
教祖ハ『そこに若し居ったら成る丈逃げよ』と教えて居られる。ところが私どもはそれに入って一緒に悪口を言い、悪魔の仲間になってしまう。
一匹の犬が吠えると他の犬も一緒に吠え出すようなもの。「弱い犬は吠える」である。強い心を養わねバなりません。
「陰で人を助ける 陰で祈る」
それは信心するもののつとめでもあると思います。
                (昭46・7・28)

拝み合い、助け合い、誘(いざな)い合いの世界をひろげていくのが信心であってみれば、他の悪口など言うたり聞いたりする暇はない。
肉の耳で聞かず、心の耳をもって聞けば陰で祈らずにはおれぬ。
                (昭52・7・29)

面白いもので、有難い教えはいくら聞いてもすぐ右から左に通りぬけるものですが、人の悪口は小耳にはさんだだけでよく耳にとまるものです。
こちらの命が低い次元に住んでおります時は、低俗なものにしか興味を感じないものです。
「猫に小判」ということを申しますが、むしろ猫には小魚一匹の方がふさわしい。今、自分の耳、口、目、鼻、肉体を喜ばせるものは何でしょうか。よくよく考えてみたいものです。

「信心がだんだん身についてくると、今までしたいと思っていたことがしたくなくなり、したくないと思っていたことがしたいと思うようになる」
 (玉水教会初代教会長・湯川安太郎先生)
                (昭58・7・6)

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御理解 第78節

 神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。


『神のおかげを知れば』又『神の大恩を知れば』子孫も続き身代も出来、一年勝りのおかげを受けることが出来ると教えられるのですから、神のおかげが神の大恩が心から深く広くわからせて頂く信心を修養させて頂くことが大事です。
先ず神の機感に適うた氏子にお取立て頂かねバなりません。その手掛りとして本当の自分を知り改まってゆくことです。
他のこと他の人のことが気にかかる内ハ自分のことがてんで空になっているのです。神のおかげがわかるために、ここのところから修養これにつとめて下さい。
                (昭46・7・29)

神の機感に適わぬと、身代があっても健康であっても人間が出来て居るようであっても真の幸せは許されません。
信心によれバ先ず人柄が変わり、家柄が良くなってくる。神の大恩がわかってくるから日々が神恩報謝の心が厚うなってくるのです。
神のおかげを受け神の大恩がわかれば『無事健康で子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ』と御教え下さるのですから、その実証者とならねバなりません。
                (昭52・7・30)

『円生法』
この天地の働きの中には円くしよう円くしようという働き以外にないのです。
その丸くしようという働きと、丸くなりたいという願いが一つになる時、神様の一大威徳を頂くことができる。
『身代と人間と健康とが揃う』というように、この天地には足らわせようという働きがある。にもかかわらず、なぜ互い違いになるのか。
そこのところを神様は『神のおかげを知らぬから』だと指摘しておられるのです。
一年三百六十五日、丸々おかげ日であり、起きて来るすべての成行きが神愛の現われと分かった人こそ、神のおかげをおかげと知った人であり、神の大恩が分かった人ということになります。

  信ずれば
  あちらもこちらも
  おかげの世界
  ただ夏は暑いなり
  冬は寒いなり
                (昭58・7・7)

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御理解 第79節

 商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば、数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。


『商売をするなら』とあるが、商売人だけに限らず、真の信心を目ざして信心の稽古をさせて頂く者の心がけ、又は心ばえでなければなりません。
目先のことばかりに心を使わず、御神意を中心に信心を進めてゆくのが真の信心です。
真の信者とは、目先のことにとらわれず御利益が有難いのでなく信心が有難いとわかり、神を信ずる心が「絶対信」となることこそ真の信心であり、真の信者のたどらせて頂く真の道であります。
                (昭46・7・30)

信心を頂く者はこうなけれバということを、こんなに端的に教えてある御教えハありません。
その気になれバすぐにでも実行出来るのですが、なかなか実行出来ていません。
有難いという心の中身に勇気と度胸が欲しいです。
  〇 愛嬌一つで二つ売り
  〇 度胸一つでいつも繁昌
                (昭52・7・31)

『商売繁盛要項』
一、関係のある人を実意をこめて大切にする事。
一、目先の欲にとらわれぬ事。
一、合楽理念を基にして、身体はちびるものでないと悟り、家業をおこたらぬ事。
                (昭58・7・8)

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御理解 第80節

 年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。


信心させて頂く者に対する心掛けの一つです。特に若い者には適切です。つい心掛けておっても、おろそかになり勝ちなところです。
心掛けというものは、だんだん心掛けずとも自然に出来、自ずと自分のものになる為の心掛けであります。
私は年寄りの方に接すると、皺のよった手をしっかりと握って撫でさすりしたい衝動にすらかられます。
私もはじめからそうではありませんでした。
                (昭46・7・31)

  秋晴れや 畠の中の 花畑

お宅の献立は老人向きのものになっておりますか。お部屋が日当たりのよい、夏は涼しく冬暖かに工夫がなされてありますか。
親が年寄りを大切にしますと、子も孫も大切にするようになります。
ここには信心するものの心掛けが説いてあります。
                (昭52年)

  哀楽の 心も老いぬ 冬籠り
  合楽の 心もうれし 冬支度

お互いの年の重ね方はどちらでしょうか。
教祖様も『信心をすれば一年一年有難うなってくる』と教え給うておられます。
このような年の重ね方をするならば、人ばかりでなく、神様が大切にして下さるようです。

  恋にかがやく
  少女の唇のように
  うつくしく、
  山を出た
  聖者の唇のように
  おごそかに。
  照れば青葉のかがやきて、
  ふれば若葉のいそいそと、
  おどる心をだきしめて、
  うれし涙にくれておる。 (信楽304節)
                (昭58・7・9)

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御理解 第81節

 氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。


 咲いた桜が柳に聞いた
   梅が答えて信心辛抱

信心には桜のいさぎよさ、柳の素直さ、梅の辛抱づよさが内容として必要である。
なぜならお道の信心は神の心がわかり、そのみこころに添わせて頂くにあるからである。
みこころを、わかればわかるほど一切が合掌の対象でないものはない。
『向こうへ降りたら安心ぢゃ』とはここのところまで心境が進んだ時、神様が安心して下さる。その安心が私どもに返ってくる。それが向こうへ降りた時である。
                (昭47・7・1)

おかげ信心ではつらぬけぬ。
信心ハ嬉しゅう楽しゅう愉快に
出来る工夫が要る。
何としても天地のリズムにのった
信心でありたい。
                (昭和52年)

生きることは辛く苦しい。
「生かされて生きる」ことが悟れば、嬉しく楽しく愉快なもの。
我力辛抱では辛く苦しく怪我の元。
信心辛抱に、神様が前になり後ろになっておかばい下さる。

山登りのコツは
  迷わず 失わず
  急かず ゆるめず
  有難く
                (昭58・7・10)

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御理解 第82節

 大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。


口に美味しく、排便は有難く出来る時、身体壮健のしるしである。
国恩を感じ恩に報ゆる心が愛国心なら、国家安穏を喜び形に表わすのが税金である。
信心する者は天下国家の安泰を願うだけでなく、国家社会に奉仕する心が大切である。
先ずは国恩を知れ。
                (昭47・7・2)

  芽が出りゃつまれ
   葉が出りゃかられ
    それでも茶の木に花が咲く

摘まれまい、刈られまいと思う心は行き詰まる。
お礼のしるしに、お詫びのしるしにと喜び添えて出す心は限りない繁昌につながる。
                (昭和52年)

国恩を感じ恩に報ゆる心が愛国心なら、神恩を悟り神恩に報いる心、これ天地への還元なり。
還元とは、身をけずり心をけずり、我が全身全霊を天地に還すことなり。
催促されてしぶしぶの改まりはつらいもの、信心にはいさぎよさが求められる。
御礼のための還元、御礼のための改まりでありたいものです。
                (昭58・7・11)

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御理解 第83節

 一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、見てる(尽きる)ことはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。


総てのことについて言えることだが、とりわけ財産のことは財そのものに天地の裏付けのないもの程危ないものはない。
国家の保証のない金は形ハ同じでも贋金である。天地の保証のないものは贋金を持つも同然である。いつかは贋金使いとして失くする苦しみを受けねばならぬ。
「使うてへらぬ金百両」天地の徳をうけての分限者を願わねばならぬ。
『人より一年後れて』何と滋味のあるお言葉ではないか。
                (昭47・7・3)

金光様の信心をさせて頂く者ハ必ず末広の道、広がりに広がる道に居るのだからという信念を、持ち続けられる信心を頂かねバなりません。
『我慢我欲』も『濡れ手で粟』の心も起きようがありません。
決して迷うてハなりません。
昔からどろぼうで金満家になったためしはありません。
                (昭和52年)

人より。財がある。人より美味しいものが食べられる。
人よりいいものを着ている。人より地位が高い。
これが今日の社会においての幸福の基準になっているように思う。
いうならば、幸福は高い所にあるように錯覚している。
『人より一年後れて』という心は、くぼんだ心。即ち、くぼ地に水の寄るごとく、自然に自然に幸福の一切の条件が向こうから足ろうてくる。
しかも、みてる(尽きる)ことのない広がりに広がる末広の道が。

  唐  日本
  天竺
くぼい所へ寄り、同行(同様)水の寄るごとし。
                (昭58・7・12)

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御理解 第84節

 おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。


信心は永く続いておるが繁昌のおかげになっていない人がある。細い細い道がただ延々とつづいているだけである。
信心には、いつも履み拡げる精神がなからねばならぬ。
履みひろげるということは御教えを履み行なうということである。
繁昌でないなら教えを行じていない証拠と思い、新たに教えを頂き直さねバなりません。

 道と云ふ言葉に迷ふこと勿れ
   道は教えを履むほかはなし

道を追求するだけで教えを行じない人が多い。
教えを行じておれバ驕る心も出てこない。
                (昭47・7・4)

「理」「情」に徹してみて得る潤いと光彩と、そして躍動を与え、恰も駱駝のごとき気の利かざる存在かに見え、実は限りなき感銘を人々に与えながら地道に、『細い道でも次第に履み拡げて通るのは繁昌ぢゃ道に草を生やすような事をすな』を実行させる不思議な力を感ぜずにおられない。
                (昭和52年)

お道の信心に基づいて、謙虚な心と貫く心があれバ繁昌疑いなし。
                (昭58・7・13)
 *謙虚=自己の弱小・無力・罪業に対する深刻な自覚から、神の意志に飽くまで従順になろうとする心。(広辞苑第二版)

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御理解 第85節

 女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。


「女は客に惚れたと云い、客は来もせで又来ると云う 嘘と嘘との色里で恥もかまわず身分まで よううちあけてくんなまんした」

これは有名な紺屋高尾の一節だが、真実は人を動かし神様に通ずる。本当なことは教えられても、なかなか出来にくいものである。ここでも本当のことを教えられてあるのですが、今までのしきたりや観念が邪魔をして実行に移す勇気が出ません。
他の動物の出産を見ると、自然の働きにまかせきっているのを見てもわかるはずですが。
                (昭47・7・5)

少しばかりの知識が間違った観念を作る。
生神への道と言われる道が観念により狭められ障害となる。
この御教えハ今の観念を捨てねバ行じられぬ御教えの一つである。
                (昭和52年)

『神を杖につけば楽じゃ』といわれているが、まだ楽ではない、不安心配があるなら、人や人智人力への依頼心が強いのです。
信心には、頼むはこの方御一人の依頼心が一番肝要です。
金光大神御理解(坂根利三郎の伝え)
『人に、もたれてはいけない。神に一心にもたれたら助けてやる』
『神の守りをするには神心でしなければならない。みなは人心を出して利口で するから、人心は人心だけのことになる。
 神心は神心だけのことがある』
                (昭58・7・14)

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御理解 第86節

 女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。


「私には、かかわりのない事です。貴方のせいですよ」とせず、家事万端、特に不祥事において私の不行き届きとして詫びる、おわびの信心が出来るような女こそ『善い家の家老』と言えるのではなかろうか。
それでこそ家は栄えるのである。
『女は世界の田地』とある田地とは心のことであろう。世界とは大きな心の事であろう。しかも、それをいよいよ肥やしておかねば貴いものが出来ぬと教え給う。
『馬鹿とあほうで道を開け』(四神様が福岡教会初代にさげられた御教え)
                (昭47・7・6)

世界の田地であると同時に家の田地でもあるわけですから「豊穣美田」でなければなりません。
「いよいよ豊かに美しく」を目標に精進せねバなりません。
よい土になるために、どんないやな問題でも拝んで受ける気になれば、心は肥え、問題ハ問題でなくなります。
豊かな心に豊かなおかげ。
                (昭和52年)
*ウ冠に女と書いて安になります。ウ冠は家の意、家の女は安らいでおらねば家は繁昌しません。


素直にこの御理解を頂きたいものです。
家を治め栄えさせる土台は家庭の主婦の心一つ、世界の真の平和を築くもこわすも世の女性の心がけ一つ。
世の女性の方々が本気で地(心)を肥やすことに精進するならば、家は治まり国は栄えることでしょう。
しかしながら、最近の女性は地を肥やすことを忘れて、目に見える枝葉だけにとらわれた賢しい女(ひと)が多くなったように思いますね。
恐るべし恐るべしですね。
                (昭58・7・15)

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御理解 第87節

 腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。


胎教ということが言われるが『神の氏子が我胎内に居ると思うて』大切にすることは一番尊いことである。
大切にするということは、神を念じ不平を思わず不足を言わず、親切な心で感謝の念をもって心を大切にすることにある。
心のお繰り合わせを願い、よい子を出産させてもろうて、はじめて『萬代の宝』といえるのではあるまいか。
                (昭47・7・7)

気づかぬ裡に 種々の
お粗末ご無礼 あらむをば
詫びに徹せよ 親神の
御心悟り 日々を
感謝で過ごせ 必ずや
胎教みごとに 育つらん
                (昭和52年)

神を神と用いる前に、心を心と用いることです。
万物の霊長たる人間なら誰もが万代の宝(心)を持っているのに、宝のもちぐされにしてしまっているようです。
使えば進化し、使わねば退化するものです。
折角、打ち出の小槌を持ちながら、その小槌を打ち捨てて両手で重荷を背負う大黒様。信心のない人の姿ではないでしょうか。
                (昭58・7・16)
 * 若先生は昨日の富久信会の時、大黒様が小槌を脇においたままで袋だけ背負っているところのお知らせを頂かれた。

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御理解 第88節

 昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。


鏡を立てて見る顔は、そのまま自分の心である。
嬉しい時ハ嬉しい顔、悲しい時ハ悲しい顔、腹の立った時などの顔ハまさに鬼の顔である。
先ずハ自らの心を治めることである。
心治まらずして家が治まるはずはない。
一寸法師ではないが「鬼に喰われて鬼退治」勿論、吾が心の鬼である。
こわい思い苦しい思いをせねバならぬ時こそ、自分の心を見極め、吾が心の鬼を発見するチャンスである。
                (昭47・7・8)

世の禍事の迫りきて
われらの智恵の如何とも
なし得ぬことのあるときは
教えを鏡となすならば
必ず道は開かれん
日々を素直に朗らかに
すべてを神に任すべし
                (昭和52年)

辛い悲しい思いをせねばならぬ時、まずは教えの鏡を立ててみることです。
辛い悲しい思いをせねばならぬ元はこの私にあったとわかります。
それを相手のせいにしたり運命のせいにしたり、その問題から逃げようとしても真実の助かりにはなりません。
又同時に、その難儀をせねばならぬ元が自分にあったとわかっただけでは、なんにもなりません。
その成行きこそ育てずにはおかんという神様の働きと確信し、黙って治める気になれば、広がりに広がる繁昌の道に出ることができるのです。
                (昭58・7・17)

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御理解 第89節

 此方の道は傘一本で開くことができる。


一、此の方の道ハ真心一つで開くことができる。
一、此の方の道ハ和賀心になれば開くことが出来る。
一、此の方の道ハ神さま一心を出せばおかげが頂ける。
真心一つが、和賀心が、神さま一心がなかなかむずかしい。真心、和賀心一心に求める信心から生まれるやすらぎの心、安心の心が一切をおかげにしてゆく。
外出の時、傘一本(原文は「一本傘を」)持って居れバいつ降ろうが照ろうが安心であるように、信ずる心から生まれる安心が一切の道を開くのである。
                (昭47・7・9)

無明の闇に光明がいる。
さまざまな迷いに苦しみに
光明世界への導きがいる。
導くものに光がいる。
「此の方の道ハ光一つで開くことが出来る」とも言えるわけです。
                (昭和52年)

信心のない世界では身体が物質が資本。
信心するものは心一つが資本。
信心させて頂くものは、いよいよ「心ひとつですべてを創る」ということを実験実証していくことです。
すべてを創るほどの心とは・・・・・・。
時代を越え、人種国境を越え、思想文化を越え、何時如何なる場にも生きへと通用する心、それが和賀心です。
真心の最高峰、それが和賀心です。
                (昭58・7・18)

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御理解 第90節

 上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。


今朝よりの夢に、或る人が油を買いに行っている。容物が桶である。箍がゆるんでいたので底がぬけた。庭一面、油で汚しているのである。自分も困りお店の方も大迷惑である。
信心の稽古をさせてもらうにも、受け物(姿勢)がしっかりしておかねば教会の比礼に傷をつけることになり、自分もおかげハうけられぬ。
『假令一時はむつかしい事があっても辛抱していく間には徳が受けられる』と御教え下さるのですから。
                (昭47・7・10)

凡夫のことですから、ああもしたい、こうもなしたいと心を千々にくだきます。
それでも道ハ開けません。それハ我情だから我欲だからです。
次第に自身の無力さに気付きます。はじめて神さまの十分の働き場が出来るのです。
『辛抱して行く間には』とは、その間に我情をとり我欲をはなす修行が出来ます。神徳の中にある自分がわかります。
真実、神徳の中にあることがわかることは神徳を受けたも同然です。
                (昭和52年)

過去の宗教に於いて、生身の人間が、神や仏を目指すというのは、やはり『下から上へ水を流す』ような不自然なことですから、凡人では不可能なことであったのでしょう。
しかし、ここに「円生法」という大法則に従った生き方になりますと、『上から下に水を流す』ような自然な自然な道が開かれてくるのです。即ち、人間は獣になるより神になることの方が自然な生き方なのです。
要は天地の円うしようというリズム(流れ)に乗ることです。
天地のリズムに乗るコツは我無力にあり。
                (昭58・7・19)
 *「円生法」
  天地の働きの中には円うしよう円うしようという働き以外にない。
  だからこちらも円く生きようと心を定める時、神様の働きを十分に受けることになる。

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御理解 第91節

 もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。


教祖は天地の心と人間氏子の心が一つになって拝み合い、あいよかけよで立ち行くことを、神にとっても氏子にとっても最高の幸福として、その原点を追求せられ、実意丁寧神信心によって体得せられたのがお道である。
容易うおかげが受けられると言うても、幸福になるための当然の理を教えられても、計算違い思い違いをしては、よい答えは出てこない。
男と女が合体すれば子供が出来る。
5+5=10の答えは当然の理である。
                (昭47・7・11)

『本を執って道を開く者はあられぬ行もするけれども』というのは、たとえば舟を出しイカを釣り、これを干しあげ、スルメにするようなものである。
後々の者ハ噛めばかむほど味のあるスルメを食するようなもので、要ハどこまで味わいを深めるかは後々の者の真心である。
                (昭和52年)

「よりよい生き方はないものか、より助かる事のできる道はないものかと尋ねつづけ、さまざまに迷い、さまざまに苦労し続けて、はじめて、ここに其の助かり方と生き方を、確信と喜びをもって、お話し出来ることを、先ず感謝いたします。」(大坪総一郎師教話集より)

今日、井村美恵子さんのお孫さんが誕生されました。
授産名を「信行」と頂きました。
あられぬ御修行の中から神と人とが交流し、合い楽しむ合楽世界の道が開かれたのです。
そういう容易うおかげが受けられる道がここにあるのですから「素直に信じて素直に行ずる」ことが肝要です。
                (昭58・7・20)

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御理解 第92節

 神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。


守り守りの力とは取次者自身の神を信ずる力のことである。
常に真実を求め願う心の強さである。
神前奉仕にあたっては、節度を守り確かな修行精神の盛んなことによって神のヒレイが異ってくる。
よいことは神さまのおかげと頂き、悪しきことは神さまのせいとせず他人のせいとせず、私の不行き届きとして詫びてゆく道を光の道と言う。
光の道を行く人の上に光り輝く道は開ける。
                (昭47・7・12)

 神の守りをする者ハ
 一、朝寝ハシマセン
 一、諸事ニ身ヲ慎ミマス
 と神様に誓いを立てるがよい。

はじめのうちは涙の出るほど辛いことだが、辛抱して居るうちに我情もとれ我慾もとれてくる。辛抱の有難さが身に沁みてくる。
他のご比礼をうらやむようなことでは、いつまでたっても神の比礼ハ現われない。
                (昭和52年)

彼の人はおかげを受けるけれど、この私はどうしておかげが受けられぬのかというのは、守り守りの力によって神のヒレイが違うからです。
『守々の力』とは、教えを守る力のことです。
お道の信奉者として守らねばならぬ三原則
一、朝寝はせぬ事(天の心)
一、一切の成行きを尊ぶ事(地の心)
一、信心辛抱を貫く事(日月の心)
                (昭58・7・21)

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御理解 第93節

 氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。


武士にはさむらい言葉、町人には町人ことば、廓には廓にふさわしい里言葉までがあるように、教師は教師らしい、信者は信者らしい信心態度と内容を持ちたいものである。
形よりも内容と言うけれども、形もまた大切である。
信心も紋付き袴をつければ紋付き袴をつけた心が生まれる。浴衣がけでは浴衣がけだけの信心である。
袴に白扇でも持ったようなキチッとした信心を身につけたいものである。
                (昭47・7・13)

せねバならぬ修行ハ苦しく疲れる
せねバおれぬ修行ハ有難く楽しい
                (昭和52年)

『常平生心に裃を着けておれ』というのは「吾、神の子」としてこの世に生を受けし栄光と「吾、屑の子」としての最低の自分とをいしつも自覚せよということ。
この上下の心がある時なら、どのような中にあっても有難いという答えがあるものです。そこには人を見下したり見上げたりせんですみます。
心配、不平不満、おごる心、人を責める心等々がある時は、神様があなたの心からお留守になっておられる時です。
                (昭58・7・22)

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御理解 第94節

 信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。


神の氏子としての見方を誤るなということである。
大人と子供を平等に扱えというのではない。大人は大人、子供は子供としてあつかうことが『不同の扱ひをすな』ということで、一様に扱うとすれば滑稽である。
「貧乏人は麦を喰え」と言うて失言問題を起こした大臣があったが、あながち失言ではなく妥当ではなかろうか。
要は神の氏子として見るか見ないかが問題である。
                (昭47・7・14)

取次者ハ神さまさえ大切にして居れバ神さまが信者を大切にして下さる(おかげを下さるの意)。
信者ハ取次者を大切にするようになる。
                (昭和52年)

神様から特別に大切にしてもらえるような信心をしたいものです。
為にも、神様と本音でおつきあいのできる間柄になりたいものです。
信心が篤くなると、神様の心の奥が感じられるようになります。
今日は少年少女会長期合宿にあたり「喜びを現わす」とその合宿テーマを頂きました。
                (昭58・7・23)

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御理解 第95節

 世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。


御祈禱料があったり、お守札に定価がついていたり正に商売、商品に等しい。
お道の教師たる者、教会家族の生活立ちゆきのため同様の教会状態であるとするなら、神を商法にしているも同じですから猛反省がなされねバなりますまい。
只今、或る信者から葡萄の初なりのお供えがあったが「お陰で出来ました」の御礼のお供えなら有難いが「今年も出来るだけ高く売れますように」というのであったら、これも神を商売に利用しているも同然である。
                (昭47・7・15)

無欲は大欲に通じる
                (昭和52年)

人の世に生まれ 五十年
或いは八十年
営々として衣食のためにのみ働いて
何一つ取り上げることの出来ることなく
この世を過ぎてゆくのだと
いうことを感じた時
即ち夢の如く幻の如くこの
一生を過ごして来たのだと思うとき
いよいよ淋しい悲しい思いに
おそわれるだろう
神の願いを明らかにし
永遠の願いに生き目覚めよ
今天地の開ける音をきいて
目をさませ このこと一つを明らかに
するためにこの世に生をうけたのだと
いうことがはっきりすると
飛び立つばかりの喜びが
わいてくるのです      (信楽1節)

信心の目的が、只自分の我情我欲をみたすことだけのものであるならば「神を商法」にしているのです。
いよいよこの世に人間として生をうけし目的を明らかにし、永遠の願いに生き目覚めたいものです。
                (昭58・7・24)

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御理解 第96節

 世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。


信心しているから、いつも光を持ちつづけて居れるということはない。
例えば螢の光のように点滅しておるようなもので、ついたり消えたりである。
信うすき者、信なき者はその消えておる時、兎や角言うものである。消えておる時も次の光の前提であることを知らない。
悪口でも言われる時ハ、神のヒレイと思うて辛抱してゆくうちにおかげが受けられる。
「神が顔を洗うてやる」と仰せられる。
顔を洗うてもらう時、神の光は輝きつづける。神のことをあれこれ言うていた者も神威に恐れ入る時である。
                (昭47・7・16)

信心を極めるために、どうでも通らねバならぬ難関。
山に登れバのぼるほど視野が広うなって来るように、信心も高められれば高められるほど、心が広うなってくる。
「借金取りの声もウグイスの声」に聞こえてくるようになると、もうしめたもの。
いよいよおかげ間近しの時である。
                (昭和52年)

我が顔を立てようとするから腹が立つ。
神の顔を立てておればヒレイが立つ。
                (昭58・7・25)

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御理解 第97節

 神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。


赤い炎も白く見えるほどの時、信心の佳境がある。神に向かう者の姿勢である。
問題が問題にならぬほどの信心をさせて頂きたい。
親が子を思い子が親をおもうの一念が、神さま一直線の烈しい尊い姿になるのである。
神さまを尊び得ぬ人は、すべての尊いことを知るに縁の遠い人である。
「神に一心」とは、神を尊いものと実感する為の、白熱した一途の心を言うのである。
                (昭47・7・17)

武士の心掛けとして、たとえ不意討ちに遭った時、鯉口三寸切らずして討たれた場合、武士としての心得がなかったとして禄を召し上げられたという。
又、場所柄もわきまえず鯉口三寸でもぬいたら、抜刀したとして家は断絶、身は切腹というきびしい心得を教えた。
信心も神に向かう心掛けが真剣でなけれバならぬということです。
私は鉄道レールの中で祈念をする気持ちで神前に向かいます。
                (昭和52年)

神信心をするものは、一度取次ぎを頂いた上は、たとえいかなる事になりてもおかげと確信し、後ろを振り向かず、只前進あるのみ。
難儀にまどわされたり、周囲の人々の口端が気になるようでは神に一心は届かぬ。私一人を育てるために、天地総がかりでの働きがあっていることを知らねばならぬ。
育てる親も、しら真剣なら育てられる子も又真剣でなければなりません。
                (昭58・7・26)

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御理解 第98節

 心は信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。


「今日ハ慈悲の日、又は愛の日、神の日」と日々を神に向かう心を作る為に精進したら、さぞ有難いことであろうと思う。
迂闊にしているところに、いざと言う時に「平気」な心を失うのである。
平気とは平静心のことであろうが、自分の心の状をみつめての日々でありたい。暑い寒いの中にも、毅然とした修行の心が生活の中にとけ込んだ生活を、信心生活と言うのである。
おきてくる様々な問題を自分の心のバロメーターとして真の信心を進めたい。
                (昭47・7・19)

習字の稽古をするのに、最初は楷書から一点一画をおろそかにせぬ事が大事であるように、神さまに向かう心も、正しく落ち着いて静かに願う稽古をしてゆくうちに、流れるように行書草書が書けるように、神さまとの交流が頂けるようになる。
                (昭和52年)

「右に行くべきか、左に行くべきか」
このような事は日常の生活の中で、事柄の大小はありましても度々出会うものです。
そのような時、ほとんどの人が自分の好き嫌いや損得、常識的善悪で判断してその左右を決めて、めげる方へめげる方へ行っているのです。
本当は神様は角々に「さあ右だよ、さあ左だよ」と方向指示を出しておられるのです。
この指示に従っての生き方を、天地のリズムに乗った生き方というのです。
この道は広がりに広がった道なのです。
その神様の神意を分かるために平静心がいるのです。
平静心の根本はままよの心です。
因みに、まだその神意が分からぬなら、嫌いな方、損な方を選べばまず間違いないようです。
得の道より 徳の道
                (昭58・7・27)

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御理解 第99節

 無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。


『此方は無学でも皆おかげを受けて居る』と仰せられる教祖の御内容は、完璧と思われる和賀心であったと思う。
人智をもって開けた文明は終わりをつげる。資本主義を超えると共に共産主義をも超えたところに、物質文明の価値が精神的価値観に変わり、外に向けられていた人心が神に向かい、内に向かうような革命がなされねばならぬ。勿論、争いをもってのものでなく、和賀心(やわらぎ、よろこぶこころ)をもってのものである。
七十年代という時代は、科学万能時代から和賀心時代にとって変わらねばならぬ時代である。
                (昭47・7・20)

南米布教に出ている末永建郎先生よりの手紙の一節、「ブラジルへ来て二カ月たった今日ハッキリ分かりましたことは、学問やら言葉やらは、さほどあてになるものではありません。只かぎりなく美しく豊かに大きくなる以外ありません。
結論して海外布教は合楽理念に基づく他ハないということを身をもって分からされました。
毎日百名近い参拝者があり、その大半は外人の方達ばかりです」とあります。
                (昭和52年)

学が身を食う、金が身を滅ぼすというが、学問や金や物が悪いのではない。
学問があれば幸福になれる、金や物があれば、と錯覚する心が身を食う結果になるのです。
それは丁度、ここに電気スタンドがあるだけではその用を足さぬもの。真というスイッチを入れて、初めてその学問や金や物が生きてくるのです。
物質文明のいきづまりとは結局、この真のスイッチがわからず、その物質に押しつぶされていく姿ではないでしょうか。
                (昭58・7・28)

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御理解 第100節

 めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。


子供の助かりハ其のまま親の助かりである。
立教神伝にみる神の助かりとは真実氏子の真の助かりにあるのである。
『金光大神は子孫繁昌家繁昌の道を教へるのじゃ』と仰せられる道とは、子孫繁昌家繁昌がそのまま国の繁昌に、世界総氏子の繁昌につながる道なのである。
金光大神の教えの総てが、ここにありと言うも過言ではない。
このような道が開かれた。目出度い。目出度い。
                (昭47・7・21)

「子孫繁昌家繁昌の道を教えて下さい」と神さまへ手紙を出した。神さまから返事が来た。
それには「体の丈夫を願え」と「願うからには夜食をするな」。
「家庭円満を願え」と「願うからには人を決して責めるな」とありました。
                (昭和52年)

これが金光教人の証明です。これが金光教の信心の結論です。
しかしながら、金光教の信心を頂いておられるけれど、そのようなおかげになっていないとするならば、ここに猛反省しなければなりません。
子孫繁昌家繁昌の道を教えるといわれるのです。
道は踏まなければ絶対に目的には到達しないのです。
道は踏んでも、目指す方向が違えば、これも又、目的には到達しないのです。
そういう意味において合楽理念という絶対の大道が今明らかになった。なんと目出度いことではないか。
                (昭58・7・29)
 * 合楽理念について
合楽とは神と人とが楽しみ合い、拝み合う、神様も助かって下さり、私共氏子も助かっていく世界のこと。
理念とは、理性から得たもっとも高い考え。
生身の人間がその気になれば誰でも和賀心への道を楽しく、有難く、しかも愉快にさえ行じていける手立てを合楽理念と称している。

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(終わり)



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