昭和59年10月18日 月例祭



昭和59年10月18日 月例祭

 「波紋広げて沈む行く石を又投げる、めぐりの底を知らぬ人の心に」。もう30年も前に頂いた御理解でしたが。波紋広げて沈み行く石を又投げる、めっぐりの底を知らぬ人の心に。私は今晩は皆さんにまたひょっとすると、波紋を広げる様な事になるかも知れないと、思う様な事を聞いて頂きたと思います。生神金光大神の世界を極めると言う事、それは人間の幸せいわゆる御理解百節に御座います様に、生神御金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると、こう教えられます様にその道を教える。

 いうなら教えというものは、もうここまでだここ止まりだと言うところがある事を、ここ一両日感じつつ頂いております。ちょっと思い上がった考えのようですね。今までの合楽の在り方から言うと、もうこれ以上はないんだと、いやこれ以上の事を極めて行こうとすると、今度は反対にまた人間の幸せとはつながらない、神様のお喜びとはつながらない世界に入っていかなきゃならない。もう金光教の信心もいうなら、合楽の御理念止まりだと言う訳なんです。

 それを段々頂いてみれば頂いてみるほど、成程そうだなぁとこう思うんです。例えば富士山頂を極める、段々それ以上に極めてもう例えば参りましたら、空気が希薄になって人間が生きるとに苦しい世界になるのです。信心を掘り下げた上にも掘り下げて、そして素晴らしい夏は氷のような水が、冬はお湯のような温かい水が、しかも良質の水が滾々と湧き出て来る所までを掘り下げて参ります。その水脈に当たったらそれをまた掘り下げようとすると、今度はまたどういう所に突き当たるやら分からないのです。

 まぁ言うなら合楽でご信心の稽古をなさる方が、御理念を基にしての生き方幸せ。神も助かり氏子も立ち行くあいよかけよの世界が、そこから開けて来るとするならばもうそこ止まりなんだと。先日合楽で合楽だよりが発行されまして、今月で丸百回を記念するために、親先生を中心に士農工商の先生方と修行生の幹部の方達の、まぁ座談会のような形式でお話を頂きたいと言うお届けがございました。ほうも百回にもなるんだ。本当にまぁ有り難い事だなぁとという思いましたが。

 その時様々ないろんな話の中に、是からの合楽の信心。まぁ例えば若先生の時代になり3代の信心へ信心が移り変って参ります事は、現在の御比礼とどう関って来るだろうか。何時迄もこの御比礼というものは、まぁ維持できるだろうかと言う様な意味の問答でございました。そおうどういうことになるかなぁ、これはまぁ過去百年のお道の信心をまぁ振り返ってみますと、まぁそれこそ飛ぶ鳥を落とすような勢いで、御比礼を頂かれたお教会があったかと思うと。

 二代には三代には段々それが、先代のような御比礼の訳にはまいらないと言った様な、お教会が事実多いのですから。やっぱり合楽の事も心配する人達は、さぁ二代に三代にこりゃつながっていくだろうかと、まぁ心配するのも当たり前であります。けれども私は教祖金光大神の御教えを信ずる。教祖金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると教えられるのですから。その道を私は行じて来ておるのですから、なら4人のまぁ息子達がおりますが、息子たちにそれぞれ。

 あぁあんたは士農工商のここんところに力を入れて信心、そういう信心じゃいかんあぁ言う風に信心入れかと言うて、指導とか教導とかと言う事をした事がない。私が言うならば金光大神の教えに忠実でありさえすれば、子供たちのお育ては神様が、もうそれこそ思いもかけなかった手立てを持って、又はその時その時の事柄を通して段々、親の私があのまぁ感心すると言うか、恐れ入るというか様な信心に。今日まではお育てを頂いてきておるのですから。これからとてもやはり神様がお育てになるに違いはない。

 だから今日の合楽のおかげの状態というものが、もっともっと充実して来るであろうと私は答えました。今日の合楽の状態というものは、もっともっと充実した内容になって来るだろうと。もうそんな事をお話さして頂いて、また自分の話した事はこう振り返って考えさして頂きました。そしたらいま神様から今申しました様に、合楽の信心もね、言うならばいよいよ信心を高めていこう、いよいよ信心を広く深く深めても行こう広めても行こう。と言うのももうここまでだと。

 これ以上の必要はない、高くさえあれば良いというのではない、深くさえあれば良いと言うのではない。却ってそこに人間の幸せとは反対の結果になって、神様を又悲しませる事態にすらなって行きかねない。だから合楽の信心は、皆さんもここまでこんにちまで、こういう頂いて参り、何十年間の間に頂いて参りましたそれが、合楽では御理念と言う様な、御理念に伴う生き方というものを、まぁあらゆる角度からま解かれて来て、まぁ教えられて参りました。

 そこで私共が信心を求めると言うのは、今まで習ってきた信心をつぶさに一つ一つ自分の血に肉にして行く信心に他ない、他にもう新しい事を覚えたり却ってそれはいけない、今まで覚えた来た今まで教えられて来た御教えと言うか、教えを言うならば忠実に守ってそしておかげを頂き現して行くという。是はもう私自身本当に御理念の忠実な、どれだけ忠実であったかと言う事を思う時に、本当に目が荒かったなぁと最近思います。

 ただその目の荒かったところをもう一辺頂き直して綿密にいよいよ、この御理念を基軸にして行く修行以外にはない。それ以上深めよ高めよと言う事はなら申しません。もう本当に素晴らしい水脈に掘り当てた、ところから滾々と湧き出る水を頂くことが出来る様になった。なるほど信心をここまで高めて参りましたら、いわゆる視野の世界というものが広くて、いままでこの位の世界しか見えなかったものが、なら高い所から見るとこれだけ広い視野が広がって来るのですから。

 それ以上の所を見ようとしたり深めようとしたりするのではなくて、いよいよ御理念にもう一辺頂き直して、例えば成り行きを尊ぶとか大切にすると言った様な事でも、いよいよ厳密にそれを忠実に守っていく自分のものにして行く、そしてそこから生れて来る実験実証をもって人間の幸せを謳歌出来る。それが神様のお喜び頂けれる働きにも繋がって行くと、もう合楽の信心もここまでだという。皆さんここの所を頂き違いない様にね、あぁもう合楽は今それこそ合楽はここまでやったらもうこれで終えたと。

 言うのではなくてね、今までいろいろ教えられて来て頂いて来た、その信心をやっと血肉にして行くと言う事でございますから、これをただ通り一遍に、もう金光大神の世界を極め尽くしたのが合楽理念だと、まぁ言う訳なんですから。そう言う事をまぁなにかそこだけを聞いたら、いやいや合楽も思い上がったもんだ、それこそ合楽もここまでやなと言う風に見えたり聞こえたりするかも知れません。

 けれども今私が申しましたような事ですね、これをそんならその御理念をどれほど厳密に頂いて来たか。血に肉にした来たかと言う事を思うて、いわゆる人間の幸せになれると言う事はもう、これ以上の事はないのだと。これ以上のものを例えば頂こうとすると、今度は今まで出よった素晴らしい良質の水がね、ほかの水に変わるかもしれない。いやもう出なくなるかも知れない。

 だから今日只今合楽で言われる所の、有り難い水脈に掘り当てておる様なもんですから。それをいよいよどう頂いて行くか、どう自分の血肉にして行くかと言う事を、いよいよ頂いて行かねばならん。例えば私がいなくなりまして子供の時代になりましても、とてつもない所にそのま求道心を燃やすと言うのじゃなくて、今まで教えられた事をもう完璧に復習していくと言うか、血肉にして行くと言うか。

 もう一辺やり直して綿密なものに。そしてこんなにも確かなものであると言う事を、もう確かめていく信心が出来さえすれば、合楽の信心はより充実したおかげの世界。それを持って生神金光大神の世界と言ってもいいと私は思うです。生神金光大神の世界は、それ以上の事を言うならば人間がいよいよ、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛していく道を、教えて下さったのですから。

 その道と言うのはもうあらゆる角度から合楽では説き尽くされて来た。だからこれを異常に詮索するのではなくて、それをいよいよ銘々のところで、銘々のものとして消化していく事の出来れる、いよいよ信心生活が求められる事になります。ひとつ頂き方を違いますとそれこそ波紋広げて沈み行く石をと言う事になります。それがいよいよ有り難い波紋、有り難い人間のおかげの世界を頂いて行かなければならんと思います。

   どうぞ。



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