昭和58年10月16日 教祖大祭



昭和58年10月16日 教祖大祭

 おめでとうございます。ただ今は、ビリグイ教会長末永建郎先生があのようなおかげを受けておる模様を聞かせてもらいましたが、どういうところから助かりの手立て、道が開けていくのであろうか、と思わせて頂きましたら、背中に大きなのしをね、こう、担いでおるところを頂いた。いわば、全身全霊を捧げての布教、そこに神様の働きを受け抜けていく基があるのだ、ということを思わせて頂きました。

 これは、末永先生だけではありません。お道の教師たる者、いわば、全身全霊を、しかも、生涯かけて神様にお供えをしておるのでございますが、その焦点が間違うと、その全身全霊のもっていきどころが違うとおかげが違ってくる。

 なんでも同じです、絶対のもの、間違いのないと極めた、例えば、二、三日前に頂きましたことですけれども、「救われる身より救う身になれ」というお言葉を頂いた、ね。私は、これを頂いた時に、ちょうど病院のベットの上で、大変痛むものですから、まあ、言わば苦しんでおりました。「生神金光大神様」を唱えさせて頂いたら、そのことを頂いた。そしたら不思議ですね、この苦しみを神様が修行として受けてくださるなら、自分が助かるのではない、人が助かることのための修行として受けてくださるならば、もうちっと苦しんでもいいと、そんな気が起こったんです。ありがたいです、不思議です。そういう苦しい中に、そういう心が起こってくることをありがたい、不思議なことだと思わせて頂きましたが。

 もう、いつも聞いて頂くお話の中に、阿倍野の、阿倍野では、奥平野という所に片島せんという女の先生、本当の無学の、まあ方だったそうですけれども、たくさんの人が助かった。ある時に、大変な病気で苦しまれ、「もう神様、こんなに苦しいなら命をお引き取りください。どうぞ、お国替えのおかげを頂かせてください」と願われたら、神様が、その方が苦しめば氏子が助かる、と仰せられたと。片島先生はそれを頂かれてから、「そんならもうちっと苦しんでもよい」と思うた、と言われるお話を承っておりますが、私も二、三日前、そういう実感を頂きました。

 小倉の桂松平先生のお弟子の中に、日吉つるという先生がおられました。大変な病気を持っておられて、芦屋という所から、まあ当時は汽車がございませんから、歩いて、小倉の教会にお参りになる。毎日、自分の頂くお食事の中から、一合ずつのお米を貯めていかれる。それが一升貯まった時が、ちょうど十日目だと。十日、十日にお参りになった。

 ある時のお参りに、御神前に出られて、お取次ぎをなさっておられる桂先生のお口を通して、ご裁伝があった。日吉ツル、真の信心になった、と。お互いが真、真の信心ということを申します。その真の信心には、真のおかげが伴うてこなければ、真の信心とは言えません。

 米を一合ずつ、お供えすれば、真の信心、十日に一遍参りゃ、真の信心ということじゃないでしょう。日吉つる先生が、ね、心の中に咲く花は、金光大神より他に知る人はない。まあ、弘法大師様のお言葉じゃないですけれども、そういう、我とわが心が拝めれるようなありがたい心をもって、ご参拝になっておられた、一日がかりで一生懸命。これは、他の者ではわかりません。桂先生を通して、日吉ツル、真の信心になった。

 だんだん熱心なご信心ができられるようになりました。桂先生は日吉先生に、自分の病気はなかなか治らない。そこで、教えておられることは、日吉つる、人を助けてわれ助かれ、と教えられたということでございます。人を助けてわれ助かれ、私はもう、それこそ、何十回この話をしたか、また聞いた、頂いたかわかりません。または、片島先生の、その方が苦しめば氏子が助かる、という話もどれだけ聞いたかわかりませんけれども、自分の身近なところで、これを、ここ二、三日実感しております。

 金光教、まあ教祖金光大神が現世に現れなさって、そして、お国替えになられて、今年は百年という、大変なお年柄。そのお年柄に教団でも様々に、これは、この節を境に、一段とご比礼を頂かなければならないと、ね。いろいろと、例えば、お祭りの祭式が、もう変わってしまいしました。唱え言葉も変わりました。いろいろと斬新な、新たな金光教の出発という感じでございます。

 結構です、ありがたいです。けれども、それよりももっと大事なことは、教祖生神金光大神のご信心が生き生きとして、人の助かりに繋がってまいらなければならないということでございます。

 合楽教会では、この百年祭という記念のお年柄に、どう変わらせて頂くか。このご大祭から、今まではご大祭が終わった後に、御神戒を奉読しておりました。いろんな宗教に、いろんな、やっぱ御神戒ふうのものがございますね。例えばキリスト教では十戒、仏教では五戒の教えというような。それを、例えば頂きますと、とてもとても、普通の人間では守れそうにもない。厳しいみ教えでありますけれども、お道の信心で言う、御神戒というのは、もう一か条、一か条、誰でもその気になれば頂かれる、守られるみ教えであります。

 いわゆる、み教えが身についた時、初めて金光教の信者、金光様のご信者ぶりというものが、身に備わった時だと思います。合楽教会も十五年になりました、教会もお許しを頂いて、ですから、もう、そうしたみ教えは、みなさんの血肉になっておるものとして、教祖のみ教えを合楽理念に基づいて、日常生活の上に頂き現していくことは、もう一通りマスターしたとして、私は今日、今日から私をはじめ、合楽にご縁のある方、これは教団自体がいろいろに変わっていかなければならんことでございますけれども、とりわけて、私は、合楽にご神縁を頂いておる方達が、変わっていかなければならないことは、いよいよ願う氏子におかげを授け、と仰せられるおかげは頂いてもう(      )あらたかな神様だということはわかった。わかったのですから、理解申して聞かせ、という理解も頂いた。

 そこで、初めて神の願いから氏子の願いから神の願い、神様の願いを私どもの願いとして、神も助かり氏子も立ち行く、あいよかけよの世界が顕現されてくる焦点を変えなければならないということでございます。

 例えば、十年も二十年も、いやそれよりも毎日朝のご祈念にお参りをするというご信者がたくさんがございます。それが、ただ、自分一家のことやら、子や孫だけのことで終始したら、それは、いわゆる、まあ願う氏子の部類でしょう。私は、合楽教会でみなさんの一人一人が、例えばこの度の百年祭には、神様から千人参りということを頂いておって、願いとしてまいりました。

 千百名からの、しかも一糸乱れず、一人の落後者もなく、ご参拝がでけたということは、もうこれは奇跡ですよというて若先生が申します。本当にそうだなあと。ご神意のまにまに、私の願いと神様の願いが一つになり、神願が成就したことになります。まあ、冗談のように、合楽では五十人衆とか百人衆とかというて、もういよいよこれからは、千人衆を目指さなきゃと言ってましたが、その千人衆が、まあ、形の上だけではあるけれども、でけたような感じです。

 その千人衆が、ただ私が助かるということ、いわゆる、私が二、三日前に頂きましたように、救われる身から救う身にならせて頂く、願いの焦点を変えられたら、素晴らしい働きが起こってくるだろう。いわゆる、御神誡、御神誡がもう身についたとして、これからは立教神伝、教祖の神様がお受けになられた、それを読んで、それを私どもが聞いてというだけに留まらず、それを私どもが受けたとして、これはもう何年か前でしたが、久留米の佐田さんがご神夢の中に、やっぱご神伝と同じ、立教神伝と同じことを頂かれて、まあ、大変なありがたいことだと。ただ、あちらはお商売人ですから、農業へ出、というところがあります、ところが商売と変えただけで、後はそのままをお夢の中で頂かれた。はあ、素晴らしい、ありがたいことだなと、ね。

 一人息子の恵介くんを、お道の教師にさせる。とてもできることじゃない。一人息子ですから、二人とか三人おるなら一人ぐらいお道の教師にしてもいいと言うけど、一人息子をですよ、しかも、あれだけ繁盛しておるお店の後継者にでもというのをお道の教師に、ね、いわば、人が助かることのために。周りが助からなければならんけれども、それよりも、神様の願いが成就することのために、思いが変えられた訳です。

 というように、それなら佐田さんだけではない、それこそ、合楽の千人衆が、心をひとつにして、毎日の日参も、例えば、まあ、これが修行と思われるこの修行も、これで人が救われる、助かるなら、いわゆる、みなさんで言えば、難儀な氏子がたくさんある、お道の信心によってこう助かるということを、それを伝えて、お導きをするというような働き、そういう傾向にお互いがなってまいりましたら、それはとにかく百倍千倍ではない、力を現すことができる。救われる身から救う身になる、ね、形を変えるのではない、日参しとるなら日参させて頂いておる、その日参の願いの焦点が、救う身になっての修行になったらありがたい。立教神伝を天地の親神様が教祖金光大神に神頼みに、神頼まれた。その金光大神の願いを私どもが受けて立つという気になる、立教神伝を私ども一人一人が受ける気になって、今後の信心を進めてまいりましたら、また合楽に一段と変わったご比礼を頂くことができるだろうと、ね。

 私どもが助かると同時に、神様が助かってくださる、ね、あいよかけよで、神も助かり氏子も立ち行くということがです、どういうことか。あいよかけよという、この言葉の意味のもつ、その深さという広さというものが、限りがないほどだと思いますけれども、いろいろなところの手前のところで捉えておる人もありますけれども、ね。なんというても、神様と喜び合えれる世界が顕現されなきゃなりません。

 神のひれいが見え出したと、教祖金光大神に神様がお言葉を下しておられます。神のひれいが見え出した、神様の、いわゆるお喜びの様子が見え出した。おかげを頂いて、やれ嬉しい、ありがたやというのは、何か自分の願いとか、自分の欲しいものをもらったり、叶ったりすれば、誰だってありがたいと言うでしょう。だから、お道の信心を頂く者のありがたいというのは、それは勿体無いでなからなきゃならんと思うですよ。信心もできませんのに、かくほどのおかげを頂いて、思いもかけない、それこそ、このようなおかげを頂いて、勿体無いである。

 なら、ありがたいはどこにつきるかと。ありがたいというのは、信心のない人たちは、はあ、困ったことだ、難儀なことだ、と言うておるようなことの中に、神様がこうまでして信心をわからせてくださる。こうまでして、本当の神愛を悟らせてくださる、ありがたい。私は、ありがたいはここにつけなければいけない思う。私どもは、ただお願いをして成就することがありがたやで、なら、それだけの受け物があるか、それだけの信心がでけたかと、でけていない。でけてもいないのに、かくおかげを頂いてのですから、勿体無いでなからなければなりません。

 そして、普通の人ではありがたいとは言えないところに、ありがたいが頂けれる。難儀と言っておったけれども、難儀ではない、それは神様の神愛の現れである、神愛のお心であるとわかった時に、はあ、どうした難儀なことであろうかと思うておったことが、それこそ、ありがたい。

 私が二、三日前、体験した、こういう痛いとか苦しい中に、どうしてこういうありがたい心が起こるだろうか、不思議で不思議でたまらん。この苦しいことが人の難儀の、または人の救われる、助かることに繋がるんだと思わせて頂く時に、その修行が、苦労が、痛いことがありがたくなってくる。これは体験していなければわからないこと。だから、日ごろの願いが、お互いの祈りの焦点が、どうぞ、商売繁盛もよかろう、無病息災もよかろうけれども、人が救われる、自分に縁のある人たちが助かって行かれることに繋がる信心、繋がる修行。私は今後の金光教は、そういう立教神伝を銘々が、頂き受けた思いで、自分の救われるということよりも、救う身になる喜びをわからせて頂く信心に変わっていかなければならない、そこから、生き生きとした、ね、天地の働き、天地との交流。

 最近、コミュニケーションというような言葉が、よく、たくさん使われます。親子、夫婦、人事、ね、様々な工夫、いろんなあれを演出をしてからでも、そういう交流。私はお道の信心はね、そういうことはいらんと思う。まず神様との交流、天地との交流、天地とのコミュニケーション。そこから、一切のものとの交流は頂けれるんだと信じております。

 なら、その天地との交流ということは、いわゆる、天地の心を心とすることだと思うんです。だから天地の親神様のお心は氏子可愛い、氏子助けたしというご一念ですから、これは生きとし生けるものの上に、ご恩恵は(足りたもう)けれども、教えをわからせるということは人間氏子でなからなければできません。牛やら馬には教えてもわかりません。人間であるから、その気になって頂く気になるから教えが入っていく。人間氏子が、教えに基づいた生き方を、いうならば、合楽理念に基づく生活ができるようになる、それは天地の心を心とすることですから、ね、自ずと交流が始まるんです。もういつも、絶えず、神様と交流しておれれる。そういう、言うなら、世界を顕現していくということが、お道の信心を現していくこと、ね。

 それには、なら、一人一人が、ただ、どうぞ、どうぞと言うて、自分の都合のことだけを祈るとか、願っておるという信心からね、お互い信心をしておるのですから、その願いの焦点をちょっと変えるだけなんです。神様のあらたかさとか、金光教の信心が絶対とか、間違いないとか、もう本当に、前代未聞の宗教であるということがわかった。わかったから、それを自分の身に頂くためには天地との交流を図らなければいけません、それには天地の心を心とする生き方を身につけなければなりません。

 それを、合楽ではいろいろに説かれます。とかく信心は地を肥やせ、地が肥えておればひとりでに物ができるようなものぞ。ひとりでに物ができる、ね、地を肥やす、心を肥やすということは、いろいろな手立てもございましょう。けれども、今日みなさんに聞いて頂く焦点は、言うならば、御神誡、御神誡的なもの、ね。教祖のみ教えをみなさんが一つマスターした、わかった。あらたかなこともわかった。だから、そのあらたかな働きを私どもの周辺に及ぼしていこう、これからの金光教はそこに眼目を置き換えなければいけない。そして、後から形のものがついてくる、でなからなければいけない、ね。

 まず、わが身の救われることのありがたさがわかったから、これから、救う身になれと仰せられる、ね、救う身になる、大きな信心。

 私は今朝から、サンパウロからお見えになっておられる、今朝から、あ、夕べみえて、今朝から私の部屋に挨拶にみえられまして、田代さんという方が、田代さん、せっかく頂くなら大きな信心を頂かにゃいけないよ、と言うて、まあ開口一番にそう申しましたら、実は先生、私の父が大変熱心な信心を頂いておりまして、私にせっかく信心をさせて頂くなら大きな信心をせよと、大きな信心をせよ、と言うておりました。そんなら誰でも大きな信心をして、天下国家のことを祈ったり、言葉の上に言うことは見やすいけれども、なら大きな信心とは、私は救われるということの、よりも救う身になる、そこに自分の信心の焦点、修行の焦点を置くことこそ、大きな信心だと思いますよ、というて、今朝から話したことございますけれども。みなさん、どんなに熱心に信心はでけても、焦点を間違えますと、いわゆる、真のおかげになりません、真の信心も大きく育っていきません。

 どうぞ、百年の記念のお年柄に、そういう信心に、お互い構えを作って、これからの金光教の上に、いよいよ、大きな天地の親神様が、教団の上にひれいが見え始めた。教祖金光大神だけじゃない、教団の上にひれいが見え出した、と喜んでくださるような、私はおかげを頂くために、変わりましょう。お互いこの百年という節を境に、私もこんなに弱々で、もう目も見えなくなりました、だんだん、耳も聞こえなくなりました。もうどこもここも取り柄がないようですけれども、おかげで口だけは、こうしておかげを頂いておりますから、まだまだ、一つ体質改善のおかげを頂いて、元気な心で、ね、新たな百年祭を境にいちだんと、もっともっと素晴らしい、生神金光大神を世に現していく信心を身につけていきたい。

 どうぞ、天地金乃神様が、そのへんのところまでわかった氏子に地を低くうして、お頼みになっておられるような気がする。こんな神様が過去の宗教にあっただろうか、ね。氏子のところへ、それこそ、あいよけよでと地を低うしておられる。そこに神の助かりがある。それには、私どもの本当の助かり。いわば、願ったことだけが成就したぐらいな助かりではいけん。思いもかけない、夢にも思わなかったようなおかげが銘々の上に現れてくるようなおかげを頂くためには、救われるより救う身になるというような信心が身についた時ではないでしょうか。

 百年という金光教の大きな節に、生まれ合わせた私ども。百年を境に大きな枝を、大きな金光大神の花を咲かせたい、世界を金光大神の教えで包みまわす、合楽ではそのことを和賀心時代を目指さなければならん、というふうに申しております。

 どうぞ、構え、姿勢、または自分の祈りとか修行の焦点をひとつ考えてみて、いよいよ真のところに、真の焦点に置き換えられて、真のおかげを頂きたいと思います。どうぞ、よろしゅうお願いいたします。



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