昭和57年10月16日 朝の御理解
御理解第七十八節 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切なものが死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」
金光大神が天地金乃神よりお受けになられたみ教えというものは限りがない。氏子がより本当から本当を求めようとすると、そこにはより本当なことを分からしてもらうというか、悟らしてもらう道がちゃんと開けてくる。
だから、また限りないおかげに浴することができるのである。これでよい、これが本当だということはない。限りなくそこを極めて行こうと。それにはやはり、それも自分の信心姿勢というものが、まあそれこそ「日々の改まりが第一」と教えられるように、今日私はこの七十八節、ここんところをこう頂くんですよ。
七十八、こう七と言うのはね七という字を漢字で書いてあるところをちょっとまっすぐにすると十(プラス)になる。八というのは広がりに広がるというようにここでは頂きますね。ですから、七~八への転回がいつもなされて行かなきゃならんとね。
ですからね、そりゃおかげさえ頂けばよいという生き方で行ったら、様々な言わば、まあ手立てと言うでしょうか、信心もございます。それこそ、鰯の頭も信心からというくらいですからね。また「我心に神がござるからおかげになるのじゃ」と教祖が教えておられるように、私共はどこまでも、いわゆる本当は生き方・在り方というものを御教えに基づいてね、そこに本当はおかげを表して、より本当なおかげを頂いていく為に、また、より本当な、言うなら信心を広めても、深めても行かなければならんということ。中には、神のおかげを知らんから互違いになるとかね。
「神の大恩を知れば無事健康で子孫も続き」と教えられてあるとこなんかは、もうこれは限りがないですね。この言葉を究明していこうとしますと、神のおかげを知らん。合楽で言われるいわゆる一切神愛論と、今日皆さんに記念出版になりました一切神愛論という御本が出来ましたですが、今までお願いをしておかげを受けるということが有難い。お願いしてお願いと反対なことになるということはおかげでないとか、おかげを落としたとか言うけれど、それもひっくるめて御神意・御信愛の中にあるんだと。おかげとして頂けるんだと。これは信心の稽古のまあ程度によることである。
一昨日、石田先生の車追突されなさって、その時に、昨日奥さんお参りして見えてから、久留米の佐田さんまあ火事になった時にも心から有難かったと。それこそ笑いが止まらんように有難かったと言われるのがどんなに考えても、そんな気持ちになれる筈ないと思いましたけれども、私はもう追突を受けた時に親先生・金光様と唱えた瞬間に、もう本当に今までかつて感じたことのないおかげを感じたと言われるのです。不思議なことですよね。
だから理屈じゃないです。というのはどういうことになるかと言うと、いわゆるおかげを、あら、お参りしよって帰りに追突されたというようなことなんですけれどもね。それがおかげと分かる時にと、実感される時に言うならね、神のおかげを知ることになったわけですね。神様の、神のおかげを知らんから互い違いになる。今まではおかげではないと思うておったことがおかげと分かるようになる。理屈じゃない、実感であるね。
そういう所からいよいよ信心を限りなく追求していくわけですけれども、それにはね、言うならまあ合楽で御理念と言われるね。御理念の絶対、これは正しい、これまた限りがない。今からどのようなふうに御理念が進展して、けれどもこれは人間が絶対幸福になれれる道であり、または教えとして、手立であるということはお互い体験に体験を積んで確かなものにして行かなきゃならんけど、ならこれでよいというのじゃない。人間の幸福の絶対な道、入り口に立ったのであって、これを限りなくまた歩いていくうちには、まだもっともっと深い広いおかげが受けられる。
今朝私は、あのう御祈念中に、昨日のあの前夜祭に大楠公の歴史舞。本当にまあ長い間稽古に稽古を致しました。楽の方も素晴らしかった。舞も私の娘と孫が舞いましたが本当に感心しました。あの場面を今日はっきりまた頂くんですよ。どういうことじゃろかと。まあ昨日良かったと頭に残っとったからじゃろかとこう思ったけど、そしたらはっきり字でね「正行、正成」と頂いたんですよ。正行といやあ正しい行と書いてあるですね。正成というのは正しく成ると書いてある。
ハハアこれはもういよいよ偉大というか、大きくというか、大きくなる為にはどうしても正しい行でなからなきゃならんということね。いわゆるおかげさえ頂けばよい。まあ祈念力で助かったとかね、こう撫でたりさすったりしてもらって助かったとか、霊の云々とかいったようなことで助かるとか、比礼が立っているという教会もやっぱあるですからね、やはりそれも金光大神の信心の世界の中にはあるとしましても、金光大神の信心のこの真髄というのはどこまでもやはり私は天地書附だと思いますね。和賀心であるとね。
なら和賀心を以てする心の受けとめ方というのはどういうことかというとね、一切をおかげと受けられる心が私は和賀心だと思うですね。それには一切神愛論をマスターしなきゃなりませんが、マスターだけではない、それが修行が伴のうておって初めて、その石田の奥さんじゃないけれどもね。まあ信心の巧者の方達が様々難儀な時に、実感として「おかげ頂いた」とこう言われる。
久留米の佐田さんなんか、火事が焼けると言うのに、もう有難うして御礼参拝して笑いが止まらなかったち、笑いちそのケラケラ笑う笑いじゃないけれどもね、神様がこのお取払いを下さった。あとのことを思うたら心が嬉しゅうなってくる。そういう心を開けて、そりやほんなこっじゃあるじゃろかちこう思とった。ところが実際私自身が体験させて頂いてね。もうそれこそ追突の瞬間、「親先生」と唱えたら、その後から湧いてくる喜びというものは、こりゃあ信心の修行を、正しい修行をしておらなければ頂けるこっじゃないね。
だからおかげさえ頂けばよいと言うなら、今言うようにそれこそ石の心でも、心に神がござるからね。「イワシの頭も信心から」といったような、まあ奇跡というようなものが、まあ生れましょうけれども、そうじゃない。正しい修行によって正しく茂っていく。しかも楠の木太りである。もうこれは限りなく大きくなっていく、大木になっていけれる木ですね、楠というのは。
ならそこから何がいよいよ実感として、日々生活が出来るかというと、いよいよもって神のおかげをおかげと知るということ、これはおかげ、これはおかげではないというもんじゃないね。いよいよ「神の大恩を分かればね、無事健康で子孫も続き」とおっしゃる。いわゆる子供にも孫にも伝えていけれる信心とは、私はそういう信心を言うのだと思います。
まあ合楽で、合楽は御理解力によって立っておる教会というふうに皆が言っておられますが、そのただ御理解力と言うてもです。金光大神の信心のその真髄に触れながら、しかもその深さ広さにいよいよこう頂いて行きながらね、おかげを受けて行こうというのである。
昨日、一昨日でしたか、今度皆さんにお配りする「一切神愛論」という御本が出来てまいりましたから、神様にここでお届けをさして頂いとりましたら、信心の「信」という字を頂いた、イ偏に言という字を書いてあるね、して次にはイ偏に伝えるという字ね。言うという字、人に物を言うという時に書く、言うという字を言うなら略すると「伝」ね、だから私は、人に、もう人間の世界に初めて神が本当なことを教えられたという感じですね。
今までお釈迦様が頂いてきなさったりね、キリスト様が頂いて来なさったことはウソかと言うと、まあ今日の合楽理念から言うと、いや本当ではないと思いますね。より本当なこと、人間が人間らしゅう助かって行けれる手立て。しかもその気になったら誰でもその手立てを言うなら身につけていくことが出来ると。もう人間に初めて神様が本心の本心を問うて下さった。打ち明けて下さった。
それが私が何十年間説いてきたお話であり、その内容である。だから、「一切神愛論」というなら合楽で何十年間説かれてきたのが本当はみんなひもとかれなければならないのですけれども、それをまあ主枠、まあさわりのところだけをもう集めたのが、今度の御本なんでしょうけれども。あれは神様が本当に人間に初めて言い伝えて下さったね、この行き方で行けば、人間の幸せの条件というものは足ろうてくる。しかも人間が助かるというだけではないね。神と氏子とが合楽し合えれる世界。喜び合えれる世界が開けてくるというのが、まあ「一切神愛論」の芯だと思うんですね。
ですから、いかに神様が本当だよ、この道さえ行けば絶対だよ、間違いないよと教えて下さっても、その道を行じなかったら、それを正しく行じていく正行である。そこから正しく茂(しこ)って行く。もう限りなくしこっていく、もう限りなく大きくなって行けれる楠正成であるね。で、その大きくなっていくことに従って、またより大きくなっていく手立てというか、よりまた本当なことが分からして頂けれると思うね。
合楽理念は、これでよいというのじゃない。完璧じゃない。完璧の域に入ったのである。それを、なら限りなく、限りなく極めていこうという、たとえて言ったら、拝みさえすりゃあおかげになる。一生懸命の祈念力さえつければ、はあ、水をかぶったり、断食をしたりして、それをおかげ、成程、それでおかげを受けるかも知れませんけれども、これでは限りなく大きくなってはいけないと思うんですね。正しい行いでない、正しい行いというのは何を言うても御理念にあるね。心行、信行、家業の行。最近また言われる、心行とは神行、心の行とは神様へなっていく行だと、神行ね、に、段々と極められてまいりますわけです。
どんなに、これは絶対だ、本当なことだというて教えて下さってもね、その、ならそれを身をもって行じようとしないね。それを自分の血肉にしようとする精進がなかったら、どんなに、言うなら合楽に一切神愛論を説いても、また語ってもね、分かっただけじゃいかん。実感として、それこそ石田先生じゃないけども、普通で有難いというような喜びというものが湧こうはずもない中に、喜びが湧く。有難いと思えるということ。それがね、おかげをおかげと思ったことになるのです。
「神のおかげを知らぬから互い違いになる」だから、私共が、もうどんな場合、どんなことであっても、おかげと頭で分かっただけじゃなくて、実感としておかげとこう感じれれる心を養うて行く、それが信心修行であるね。そういう、信心修行に本気で取り組ませて頂いてね。
「神の大恩を知れば無事健康で子孫も続き」と。「身代も出来、一年勝り代勝りにおかげが受けられる」とおっしゃる、その教祖金光大神の言葉をね、実証していくということね。金光大神は嘘を教えておられないね。為にはね、いわゆるいよいよ信心の、金光大神の御教えの根本のところにです。言うなら和賀心を目指す。和賀心とはどんな場合であってもおかげと感じられる心だと。まあ今日はそういうふうに聞いて頂いたわけですね。
だから、そういう心を目指さして頂けれるのですが、その手立が私合楽の場合には、もうあらゆる角度から説くと思うですね。だから、自分でも不思議なぐらい、どうしてこんな場合に、こんなに心の中でニコニコしておられるだろうかと。どうしてこんな時に有難いと思へれるだろうかと。まあそれこそ不思議な心が開けてくるわけね。
神のおかげを知ることになるね。私共の場合は半分はおかげで、半分はおかげでないように思うておるけれどもそうじゃない。信心をさして頂いとって、起きてくることすべておかげであるね。そのおかげの世界をいよいよ広げていく為には、まず、だから正しい行に取り組まなきゃいけない。断食じゃいかん。水かぶった行じゃいかん。正しい行というのは、どこまでも心行・信行・家業の行と。そういう御用を、いよいよ私共が本当なものにして行こうとする精進が必要だということになります。
昨日が一番身体がきつかったんですけれども、今朝はおかげで何かこうきついですけれども、ジイッとしておれば、だから有難ーいきっさです。心よろしいきつさです。ここからあそこまで走れと言われたら出来ませんけれども、ここでジイ-ッと座って神様を思うておったら、極楽のような感じがしております。御祈念も今日は大変有難い。だから御祈念が出来た。
そして頂いたことは「正しい行」に「正しくしこる」。しかもそれは楠太りに大きくなって行けれる。それにはいつも改まる、七から八に変わっていく姿勢・構えがいるんだと。もうこれが本当、私の言うことが本当だと、じゃなくてね、より本当があったら、そっとそれに七という字をまっすぐにして行く生き方。そして七から八の字になっていく広がりに広がるおかげの頂ける為にもね、太りに太っていく楠太りのおかげを頂く為にも、正しい行を正しく、いよいよ日常生活の上に頂き、そして現して行きたいというふうに思いますね。
どうぞ。