昭和57年4月1日 親先生誕生祝賀会
皆さん有り難うございました。何が、あー、有難いと申しましても、天地の祝福を受けられるという事ほど素晴らしい、有り難いという事は無いと思います。
只今、皆さんの祝福の言葉を聞かせて頂きながら、なるほど、皆さんの祝福であると同時に、そのまま天地金乃神様のお声とも私は頂きました。んー、誕生、さあお祝いというふうに皆さんは思います、言いますけれど、これは自分がこの世に生を受けたという事がどれほどの、おー、意義を持つかという事でございますので、本当言うたら、まあ銘々が、あー、この世に出て来た時に、一番の、おー、難儀苦労を致しましたのは母親だと思います。だから母親がそれこそ産みの苦しみに耐えて私をこの世に生み出してくれたんですから、ね、えー、お母さんにまず感謝の心を持たせてもらい、また、私がこの世に出て来た事を、ね、私自身がお祝いをするといったようなのは、だいたいを言うたら、まあ、おこがましいのじゃないかと思います。私はだから、自分の誕生をそのような風に頂いておりますけれども、だんだんと合楽教会でたくさんの人が助かられるようになり、親先生あって私、親先生あって私一家というように言うて下さるようにおかげを受けて下さる。そこで、まあ、年々歳々このように、んー、お誕生、ちょうど月次祭にもあたりますので、またまる少の催しにも、おー、一緒になりますし、合わせてこうして、えー、お祝いをして頂くわけでございますけれども、本当に元を思いますと、私は天地の祝福を受けておるんだという風に思います。
今朝から、私は毎朝、えー、廊下の外から、あの、天地を拝ませてもらいます。今朝柏手して大空を、あの、おー、見上げながら御祈念をさせて頂いておりましたら、私の見えるその大空いっぱいにくノ一と、もうそれこそすごい、もうそれこそ大空いっぱいに書いてくださったんですから、ま、ここではくノ一修行という事をまあ最高の修行として、もうそれこそ、変幻自在、自由自在に自分の心を有り難い、有り難いという受け方をする修行、その修行が第一だという事を私は申しておりますから、その事の願い、その事の修行をこれからも大空いっぱいに広がるほどしのお育てを頂いて、いよいよくノ一修行に取り組ませていただかなければならんという決意を新たにさせて頂きました。
だから今朝の御理解にもその事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、その事がその事だけではないような気がしましたから、また控えに下がってご神前で思っておりましたら、今祝福という事を頂いたんです。ははあ、天地は今日は私に祝福をして下さる、お祝いをして下さる。
それはどういう事かというと、神の願いを願いとして、ね、私が修行をしてまいりまして、ま、結論として一言でいうと、人間の幸せの条件が足ろうてくるという事は、天地の親神様の願いが成就する事であるという事と同時に、ね、そういうおかげを頂いてくれた事に対する神様の、ま、いうならば御礼の言葉のように感じました。神が一礼申すと教祖金光大神の事を神様が仰せられたという事でございますけれども、そういうようなものを私は感じました。
合楽で信心の稽古をなさる方が、もうあらゆる角度から説かれる合楽理念、ね、そのもちろん教祖金光大神の御教えが、ね、たくさんございますが、それを人間が人間らしゅう助かっていけれる、ね、手立てとでも申しましょうか、そしてそこに一切が神愛と結論させて頂けれる信心内容をお互いが頂いた時に、もうこの世には苦の世でもなからなければ、くる、問題そのものすらも無くなってくるほどしの、いわゆる合楽世界の、が、まあ開けて来るわけでございます。
ね、ですから、合楽理念のマスター、そしてそれを実験、そして実証させて頂くという事は、とりもなおさずなるほど一切が神愛だなあ、一切が神願の現れだなあ、ね、ここに一人の氏子の上に神様の願いが神願、その願いが成就する事が神様の願いであると同時に、神様の喜びである。ね、そういういわゆる神願成就、どのような例えば、えー、難儀を感じましても、ね、これによって神願が成就していっておるんだと行じさせて頂いていく時に、後々で分からせてもらう事は、はあなるほどあれも神愛であったな、これも神愛であったなという事が分かる。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると真の信者と仰せられますが、その真の信者を目指していくのですから、その真のおかげがそれを実証するかのように頂けていくのが信心であり、教祖金光大神が教えて下さった御教えのすべてがそうであると思うのです。
さあ、只今、えー、ここへ出らせて頂く、うー、一、二十分の間、お茶を頂きながら、あー、いろいろ、うー、(?)話の中に、ちょうど、うー、久富繁雄さんがえらいこう、言いにくそうにしてから言われるんです。実は先生、先日から栄四郎先生や幹三郎先生から、おっちゃま、親先生の、んー、椛目時代のお話をしてください。なるほど椛目時代からお話を頂いてきておりますけれども、まあ子供の時代ですからこれという、その、ものが残っておりません。おっちゃま、その、あのお話はもうちょっと詳しくして下さい。この話も、まあかじっておるわけです。ですから詳しくして下さいと言われましたけれども、私がそれを、本当に親先生からあの時分に繰り返し頂いておった、あー、お話でしたけれどもそのままにお話することが出来ませんでした。親先生、よかなら、あの時あのお話、あの話をもういっぺんしてくださいというお話でした。ね、もうそれこそ、おー、繁雄さんの願いでありますから、それを聞いて頂きたいと思います。ね、そして、私はその話を今させて頂きながら、ははあ、私が今ここで一切が神愛、この世の中には人間氏子を幸せにせずにはおかんという、それは億年かかっても神様の(?)この働きを働き続けてくださるほどしの、神願というものが、ね、私の上に現れて、私が一切神愛と、ま、悟らせて頂いた過程の中に、この、簡単な、む、昔の椛目時代に皆さんが繰り返し聞いたお話の中から、まあ、皆さんも、さ、悟って頂きたい、分かって頂きたい。はあ、なるほど、ね、えー、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かですと、まあ、ふうに今申されますけれども、その内容たるものがです、今も申しますような、ね、その内容を経て、どう言う事かというと、今私がおかげを頂いておる事を皆さんが実行、実験実証して下さる事は、その気になればみ易い事なのですけれども、それまでの過程がね、その、昔の、いや合楽の、ま、古典とも言われております昔話に、中に含まれておる、入っておると思うのです。
ね、それは、私が福岡で一番修行の真っ最中という時分に、福岡の、私はああいう通り、裏の通りをどうしてあんな裏の通りに入っただろうかと思うて、思いま、今から思いますと思いますけれども、入っておりましたら、あの、八つ波の御紋章がこう、えー、ま、普通の民家のようなお家ですけれども、こう、新しく、んー、建てられております。あら、こんなところに教会があったと思ったら、表の方へ、た、えー、高宮じゃない、高宮ではなかった、あそこは、あー、何でしたかね、星野せん、吉野先生のところ。春吉じゃない。吉野、吉野先生ばい。ああ平尾、平尾。平尾教会がその日ちょうど開教式があるというのでございます。ほほう、これはよかとこに通り合わしたと思うて自転車から降りておりましたら、大きな一台のトラックがつきました。そしてそのトラックの中から、ね、それこそビックリ致しましたが、初代の甘木の親先生、日田の堀尾先生。まあ、偉い先生方がぞろぞろとトラックから降りてみえました。中に私が北京時代から知っております、今のむつやの、おー、御主人でありました田代さんも一緒に降りてみえました。当時甘木の教会にご縁を頂いておった方です。だから、親先生のお供をして、その、トラック一台の方達が、まだあの時分は車というてもね、トラックで甘木から福岡へみえられる。ちょうど到着されたのと一緒になりました。これはおかげ頂いたと思うて、えー、お祭りを頂き、お説教が甘木の親先生、私はあの時印象に残っておりますけれども、とにかくもう、もう、行き絶え絶えの病人を廊下にこう寝せてあるんです。ね、あの時分は甘木の親先生のお話を聞きながらおかげを受けたという人がもう次から次とあったんです。だから、親先生がもうまたとみえることはないだろうというので、その、熱心なご信者さんが、ま、その病人さんをあそこに連れてきとったわけでしょう。そしてお話が始まりました。ところがどうも聞きなれない、そのお話ですし、いやあ甘木の親先生、甘木の親先生と言うけども、まあ、お話が長いこと長いことね。あんまりお上手じゃないなあというふうな気持ちで聞いておりました。
ところがね、そのお話の中に、いわゆる、当時椛目で私が繰り返しいたしました、豊竹呂昇の話がでました。もう私はね、もう本当に座りなおして頂きました。そしてもうそん時、親先生が仰った一言一句をそのまま暗記しておりました。そしてその話を、その感動を皆さんに聞いて頂いたんです。ね、あの時分は娘義太夫が非常に、いー、流行しておりました。ある片田舎で、いわゆる、ま、あー、その、今で言うならば、あの、まあ、何で言うですか、のど自慢から歌手に進んで行くといったような事じゃないでしょうかね。もうとにかく義太夫が好きで好きで堪らんというので、当時の名代の師匠の元に弟子に参りました。たくさんな弟子がおります。その内弟子として入ったんです。
ところが、義太夫どころか、ね、もうとにかく子守りともう使い走りばっかりで、二年経ち、三年経ち、四年、五年と経ちました。他の通うてくるお弟子さん達はどんどん進んでまいりますのに、師匠が自分に教えてくれないのです。みんなの歌ば聞いて、好きだから一生懸命聞きます。そして教えられたというのは、野崎村、ね、いわゆる野崎の一段だけでした。だから毎日毎日その野崎の一段を、ま、繰り返し、ま、稽古させて頂いておりました。
ところが、とうとう、ま、これは自分は本当に浄瑠璃語りになろうと思うたけれども、自分ではだめなのだろうか、自分はもう見込みがないのだろうと、もうそれこそ、わずかばかりの荷物をまとめてこっそりと逃げるようにして師匠のもとを発ったというのです。
船に乗って、そして、その船でここへきた時には、それこそ心弾ませて、ね、将来を夢見ながら来たこの船に、自分が哀れな姿でただ帰っておる、自分が悲しゅうて仕方が無かった。甲板に出て、その五年前の事を思わせて頂いておったら、やっぱ嬉しいにつけ悲しいにつけ出るのはその野崎の一段であった。一心にその事をね、語り続けておりましたら、ね、自分の周囲にいっぱいの、その船客の方達がこう輪をかいて自分の浄瑠璃を聞いておって、中から「千両」という声がかかってきた。もうびっくりしたんですね。自分が今、野崎の一段を語らせて頂いたのをみんながこんなにたくさん聞いておってくれておった。覚えんようになって語っておった。しかも中から千両という声がかかってきた。ここまで育ててくれたのは、もうそれこそ師匠のおかげであったと感じた時に、もう、その船が出ようとするのをお願いして降りて、また師匠の下へ帰ったというお話でございます。
いつもなら今の時間だったらもう(ふと?)の音がして、もうそれこそお稽古があっておるのに、ひっそり感としておる。どうした事だろうかと思うて奥の座敷に参りますと、師匠が(つくねん?)と火鉢の前に座っておられた。そしてその、おー、呂昇を見られるともうそれこそ、もうびっくりして、ツンとも喜びとも、ね、もうとにかくね、お前が、たくさんな弟子もおるけれども、この弟子こそ自分の芸の全てを譲っても惜しくない弟子だと思うた時に、ね、これはまず修行が大事だと思うた。そして、お前に教えたのは野崎の一段だったけれども、あの野崎の一段の中には浄瑠璃の難しいところ、泣きとか笑いとか、全ての仕草とか、あー、その、おー、発声法とでもいいますか、ものが入っているんです。野崎の一段を本当に語りこなしたら、これからの、いうならば浄瑠璃の、おー、まあ稽古もみ易いんだと。だから、お前には五年間も、ただ子守りをさせたり使い走りだけだったけれども、それこそ願いに願いを懸けておったお前が、それこそ私には、ね、一言も言わずにもう出て行ったというので、もう他の者に教える気力もなくなったと、と言われた時に、お師匠さんすいませんでしたと言うて師弟が手を取り合って、それからまた、その浄瑠璃に励んで、いうならば当代、その時代の、もう第一の、おー、まあ、あー、流行娘義太夫、私もこの方の浄瑠璃を、あのー、私以前レコードに持っておりましたが、こりゃあ何とも言えん語り口といいその声といい、素晴らしい、はり、いー、浄瑠璃でした。
その話をね、もう切々と甘木の親先生がお話なさるんです。だから他の話は全然耳に残ってなかったけども、そこのところだけが耳に留まっておった。私はこれを自分の身にひっきょして、ひっきょしながら皆さんによく聞いて頂いたものでございます。
またの話は、これは六地蔵さんのお話です。これは父が、父にせがんで、抱かれて休むときにあの話ばして、あの話ばしてともうそれこそ同じ口調で同じ事を、ね、繰り返し話してくれましたお話でございます。
あるところに、ね、み、みすぼらしい貧乏なお爺さんとお婆さんが住んでおりました。もう明日はお正月だというのにお餅もつけんのです。そこで、夫婦が話し合って残っておる(たこん傘?)を、(たおん傘?)ってこう傘ですね。傘をその、おー、があるから、これでも街に売って、ま、あの、お餅をつかせてもらおうというて、二人のものがそれこそ降りしきる雪の中を街に商いに出たんです。
一日足を棒にして歩きましたけれども、とうとう一枚の傘も売れませんでした。もう仕方がないと帰って参っておりましたら、あるお寺さんの前を通る時に、ね、お寺の前に立っておられる、あの、六体のお地蔵さんが、もうそれこそ雪をかぶって立っておられるので、はあ寒かろう、せっかくのこれは商品、商売のために持って出たんだけれども売れなかったから、これをね、えー、お地蔵さんの一人一人にこうかぶせる。雪をはろうて、持っておったのは五枚、一つ足らない。そこで自分の、まあ、煮しめたような(タオル?)であるけれども、まあしばらくこれで我慢して下さいというてタオルをかぶせて帰らせて頂いたというのでございます。
帰らせて頂いたら、お婆さんが待ち構えておりました。今日の首尾はどうでした。それがお前、こうこうだったとそのことを話させて頂いたら、お婆さんが言われました。そりゃあええ事しましたね、お爺さんと。それこそついた餅より心持ちでこの正月は、つかえる、過ごさせて頂こうと老夫婦のものがそういう話の中に寝につきました。
夜中にふと気付かせて頂きますと、(さばんこ?)の向こう、納戸の向こうちゅうこってすね。私の父はそれを(さばんこ?)と言いおったが、(さばんこ?)の向こうで誰かが餅をつく音がする。開けてみると、ね、お地蔵さん達が一生懸命お餅をついておられる。向こうの方からはたくさんの何か、い、まあ、いうならば人間の幸福にならせて頂くための、いうなら条件とでも申しましょうか、ね、その、衣食住の全てを持って、六人のお地蔵さんがせっせと家を建てたり、うー、着物を持ってきたり、お餅をついたり、いろいろなさっておられる。もうびっくりいたしました。
どうでしょうね、皆さん。それこそ、今までかつてなかった豊かなお正月を迎えることも出来たんですけれども、本当にどういう場合であっても、喜び、それが爺さんだけが喜んだんじゃあいけんのです。はあ、あなたばっかりは馬鹿んごたる人ですねっち、そげなあなた人にどんやってきて、うー、石の地蔵さんにどんかぶせてきてっちいってから、言うならできませんでしたけれども、そりゃあよか事してきましたと。もうついた餅より心持ちと、その受けたお婆さんの心といい、お爺さんのその慈悲心といい、ね、それが天地に通うたんだ。ね、それから何不自由ない生活にはいったというようなお話でございます。
ね、喜びに喜んで開けた道だから、ね、神様が、ね、喜びには苦労はさせんと仰せられるのは、そういう喜べない時でも喜べる心でなからなければならないと思います。それも私一人ではいけません。一家中が喜べれる、そのことに対してどんな場合であっても、ね、神願有難し、いわば、これも神愛の現れとして頂けれる心。
ね、もう一つあります。ある億万長者のお嬢さんが婿選びをいたしました。ね、度胸の座った人をと、それこそ日本中にふれを出しましたから、たくさんの、まあ、若い青年が集まりました。ところがみんな素晴らしいんですけれども、力もあるし頭もよさそう。器量もいいけれども、最後のところで失敗をする。
中に、最後に一人の青年が、ね、あの、でました。ところがなるほど、おー、これならみんなが逃げ出しただろうと思われるような事があったんです。というのは、いろんな、いうなら試験を受けて一番最後の部屋に行った時に、実は私と結婚して下さる為には、私の、いうならあり方、趣味というか、ね、を知っておらなければならない。私にはこういう道楽があり、こういう趣味がありますと言うて、連れて行きました部屋にはもうそれこそ骸骨がるいるいとして積み重ねてある。もうそれこそびっくり仰天した。だけなら良いけれどもその一つをポキポキ折しょって食べてしまう。しかもそれを、あなたも一つどうぞと言うてこう持ってきた。もうそれこそ、そこでみんなが落第したんですね。ところが、その青年はそれを頂きました。そん時のその娘さんの喜び、そして、よろ、食べてみて分からせて頂いた事は、なんとそれが氷砂糖で作ってあったというお話なんです。
ね、私はそれこそ、合楽の古典と言われるお話を三つ聞いて頂きましたが、今、今朝から申しておりますように、合楽の信心をさせて頂いて、いよいよ実験により実証を積み上げて分かる事は、なるほどあれもおかげであった、これもおかげであったと分かる事。それもあれは一切が神愛であった、あれは、神様が力を下さろうとする、特に御徳を下さろうとする神願の現れであったと分かる。だから簡単なんです。明瞭なんです。ね。そこが分かったら、ね、どんな例えば難しい問題があっても、それを、ね、神願有難しとして受けていけれるんです。ね、一切が神愛と分かる時に私共の上に現れてくるおかげは、人間の幸せの条件が、これは私が今日三十年間、ね、私の信心が育つにしたがって、合楽教会も育って参って、今日の合楽であります。
今日はまる少の十五周年の記念の、おー、大会がございましたが、ね、今年の、うー、大会テーマが「合楽と共に育とう」という事でございましたが、本当にまる少の方達に感心いたしました。本当に、先程栄四郎がご挨拶にでて、挨拶に出て参りましたから、やっぱりあんたどん一生懸命、何に、まる少の事なんか、その、大した事なかごたるけれども、はあ、本当にあれだけの人があれだけの、あのようにして育っておるという事。しかもまあだ小学校二年、三年の子供が土のころを、心を言い、成り行きを尊ぶという事を言うておる。天の心、地の心、ここは日月の心と言うておる。ほりゃあ、もう末恐ろしい。この人達がおかげ頂いたら、もういよいよ本当の合楽っ子が育っておるわけなんです。ね、そういういうならば、おかげの頂けれる手立てを、ね、合楽理念と申しておりますが、ね、私昨日から、ね、合楽理念という事を、ぐいる、御理念による助かりという事を申しておりました。御理念である。
これは今、あー、ヨーロッパ旅行中の石田先生が毎日のようにお手紙を、ああ、葉書を下さいます。その中にありますのです。ね、御取次、御取次という事を言うけれども、さあ、遠くヨーロッパにおって御取次を頂くことはできません。けれども、ここには御理念がありますと言うておられます。ね、ここはもう土の心で受ける他はないという教えを頂いております。私はそこんところを聞かせて頂きながらね、確かにそうだと思いました。皆さんが合楽理念、合楽理念と尊い物にするならするほどに、それにやはり、御の字をつけなければおられないという、ね、御理念によるところの、御取次以上の御取次を頂けれる、その生活のそれぞれの現場で、ね、そこでなら土の心のいうならば、実習をなさるならば必ずそこから生まれてくる、ね、おかげの世界が開けてくるのです。これはだから何と言うてもです、ね、これをただ聞いておるだけではなくて本当に実験実証なさらなければ、ね、せっかくの合楽理念と申しましても、ね、ただ、耳が肥えたというだけではなりません。ただお取次を頂いて、ね、昨日も久留米の安東さんの、おー、お願いで、お願いし続けてありました、えー、白血病の方が助かったというお礼参拝がございました。もうこれはもう日々私がまあ驚くばかり、ね、本当に現代の医学ではどうにもできない、もうこんなにももつれにもつれた問題、ね、もう昨日、一昨日はもう、うー、いうなら何ですか、あの、刑務所行きを覚悟しておられた方がお願いにみえて、おかげを頂いたお電話が、臼杵の方の方の矢野先生あてに電話がかかって御礼のお届けをさせて頂いた事ですけれども、問題だけではありません。ね、健康だけの事ではありません。商売繁盛の事だけではありません。その健康管理も商売繁盛も、また、人間関係も、御理念による助かりという事をです、ね、お互いが実験実証させて頂いて、そういう、かさね、おかげの重なりが、ね、なるほどこの世の中には困ったとか、ね、難儀というのはない。難儀と思うておった、困ったと思う事は、あれは私共が肉眼で見る限りの事なんだから、心を開いてみれば神愛であり、それは神願の現れであったという事が分かってくるような手立てがです、合楽では、いうならその気になればです、誰でもができるような教えが説かれてあるという事が、ね、いうならば和賀心時代を全世界に、ね、その、難しい事ではない、難行苦行ではない。
昨日は田主丸のむつやの石井信司郎さんが、あー、お導きをしてまいりました。呉服屋さんですから、久留米の校区の問屋をなさっておられる宮本という方なんです。この人は、その、うー、石井さんの人柄というか、商売の繁盛振りというものを、この不景気にはむつやだけは不景気しらずのおかげを頂いておるが、何かがあると聞いた時に、合楽におかげを頂いた話をした。だからもう(?)でもよかろうかというので、もうとにかく、従業員を入れられる時には必ず御神意を頂いて決めていかれるという方なんです。その方が昨日お参りしてまいりましたが、実は私の兄が、兄弟でしております。兄がこの頃もうとにかく商売の不振です。そこで、どっか日田の(成田の?)何々不動様かという、ま、あらたかな不動様がおられるそうですが、そこにお尋ねに参りました。そしたら、あなたのところの家の下に、ね、女の霊が、あー、ある。それが災いをしておる。だからあなたのところは、まあ、今、あの、久留米の問屋街に新たな家を買い求められて、そこで、ま、お商売をなさっておられる。それが三年の間にそこを出なさらんとまたいよいよろくな事がないですよと言われて、もうびっくりして帰ってきて、兄が悩んでおりますのを見て、私が、また、こ、合楽の方へお尋ねに来たわけでございますというのである。
私は思うた。様々な宗教がありますがね、本当に仏様神様の風上にもおけない感じであります。だから、そのお不動さんにお願いしてはどうですか。その助かっとらんおなごの魂があるならば、お不動さんのお力で一つ助けてください、というて言うてみなさいっち私が申しました。ね、その家ば移らんでよかじゃないの、そしたら。というて私がお宅の、いうならば繁盛と、その御霊の云々といったような事の関係はないです。そのために、そうではない。そのために商売が不振になったというのではない。
ところが実は先生、そげん言うてから兄が、んー、聞いて帰りましたが、ま、今まで手形が落てんちゅうこつはございませんでしたが、今度は手形が落てんごたるです。で兄がもうやっぱおなごの霊が祟っとつちゅうてから、もうとてもこう悩んでおります。ね、だから私は思いますけれどもね、まあいうならば、でたらめをいうたわけではないでしょう。ま、程度の、ま、低いと言うかね、そういう一つの霊能的な人がそういう風に見たんですから嘘ではないでしょうけれども、たとえそれがね、もうとにかく自分の家の下にはそういう霊がいかっておって、いろいろな災難、災いを起こしておるんだと、神経がまいってしまうんですね。だからもう今月も、もう難しかろうと思うその神経がもうすでに難儀を呼んでおるんです。ね、例えそれが事実にあったにしても、それは今言うように、神仏の風上にもおけんほどしの事であるというところから、光があってもそれは蛍の光のようなものなんだ。だから、金光大神の光、太陽の光というような大きな光をあてると、もうその光もあってないものと同じ事になるじゃないか。ね、だから私はお宅もこれから、繁、店が繁盛するかしないか、それはわかりませんけれども、信心を元にしておかげを頂かれるならば、ね、いうならば不景気知らずのおかげにもなってくる。ここにまあよか先生がおりますからいっちょこの人から話を聞いて下さい、と言うて、ま、信司の、あー、石井さんの事を申した事でございますけれども、そういう他愛もない、今度ヨーロッパに行かれてキリスト教とか開教とかの色んな深い(じょうけい?)を持った先生ですから、((飯田先生?)が。そういう会合にも研修にも行かれた。さあ、素晴らしい話をしておるけれども、ね、銘々個人個人が話す時には、もう第一人間関係、生活の問題で悩んでおるのを見て、もう哀れというより他はないと言っておられます。
お互いが間違い、ね、あの、おー、分かってない事は、ただ神様でさえあれば、おかげさえ下さればええというようなものではなくて、ね、先だっても申しましたように、例えば富士山頂を目指しておる。あらゆる、四方八方から登る道はあるけれども、ね、いうならば、んー、富士山の山頂目指して進んでおるんだからどっから登ってもいいというような風に申しますけれども、ね、実はそうじゃないです。私共はそう思うとりました。だから何様でもよか、ね、やはりこの頂上目指して、ところが頂上目指して行くという事じゃなくて、もう中途半端のところで、因縁とか輪廻とか、罪とか原罪とか、ね、悪魔とかサタンとかといったような藪の中に入ってしまって、もうこれ以上助かりようがない。もう屈折に屈折した道を辿っておる宗教がもうこれは過去数千年の歴史を振り返ってみればいい、分かります。ね、ですから今合楽で説かれておる天地金乃神様の願いがこのように成就する、和賀心時代が世界に拡がっていくという事は、そういう間違った、ね、もう道ではなく、もう一直線。
ね、先日、福岡のご信者さんから、あの、お電話をなさってまいりましたが、天地金乃神、生神金光大神、大坪総一郎と私の方の御霊とが一直線に直結しておるというお知らせを頂かれた。ね、屈折がないんです。天地の親神様の心の全てを、教祖生神金光大神に神頼みになられた、いうならば、御心の全てを、ね、金光大神に教えられた。その金光大神の教えの全てを合楽では実験し、実証して合楽理念が生まれた。しかもあまりにも難しかった教祖金光大神の御教えが、誰でもがその気になればいただける。例えば人間は土より出でて土に還るのだから、その道中とても土の心に徹する事だというような表現を持って説くわけです。ですから、本気でんーなら土の心になる。
先ほど若先生が、まる少の、おー、中で、えー、の最後のお話をいたしておりましたが、先だって、えー、自分のむす、娘が小学校三年生でしょうか、二番目んとが今度二年生になるとですね、こげんしてから。二つ違いですから。ね、先だって、もうあんたどんがいっちょ二人で、お父さんがね、一番感動する事を一言言うてごらんっち。そしたらいろいろにこう言ったらしんです。いやそげなんこっちゃ感動せん。そげなんこっちゃ感動せんっち。したらあの、恵城が申しました事がね、僕はね、名前が恵城というから、ね、あの御理解がね、土へんに成ると書いてある。もう土の心でさえいけば成就するという御理解がついておる事を思い出したんでしょう。僕はね、今からもう土の心になることに精進すると言うたんです。もう、それこそ冗談に言うたことじゃったけども、それこそ、まあ、子供の言葉に感動したという事を申しております。ね、子供でもその気になれば出来る御教えなんです、合楽理念は。
ね、どうぞ一つ皆さん、あの、せっかく合楽に御神縁を頂かれたのですから、ね、皆さんのその体験が、ね、次ぎから次ぎと合楽示現活動に参画させてもろうて、その実があがっていくおかげを頂き、いよいよ、日勝り月勝り年勝りの、自分の家庭の上にも、また、教会の上にも、教会とまる少じゃないですけれども、共に育っていくようなおかげを頂きたい、頂いて頂きたいという、これはもう私の切なる皆さんへの願いでございます。話が詳しゅうなっただけではいけません。いよいよ実験実証の実をあげて頂きたいと思います。
有り難うございました。