昭和56年11日18日 朝の御理解
御理解 第7節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
信心のない間は分からなかった天地の大恩とかご恩徳、ご恩恵に欲しておると言う亊を信心を頂くようになって、段々分かってくる。その分かってくる神恩報謝の心が熱うなっていく。そこから辛抱しきれないような亊であってもね、それこそ神あに縋って辛抱すると言う生き方が身についてくる。『信心辛抱さえしておれば、物事整わぬ亊なし』これは久留米の初代が頂かれておった御教えなんです。
ですからこの辛抱さえしておればものごと整わぬことはないと言う。だんだんおかげを頂いていくわけですけれども、あまりにもお道の信心をいただいて、教えにもとづいて、信心辛抱すると言う亊のないのにおどろくぐらいである。はぁなかなか辛抱しなさった。おかげを頂きなさったと言う話は聞くけれども、そこに一つの合楽的に言うなら、たすかりの理念がない。
昨日、一昨日この南久留米教会の四十五年の記念のご大祭。ここからまあ若先生、総代さん。そしてこんどは石田先生も一緒にお参りになったと言う亊ですが。その記念の薄いご本が出けておる。その表紙に光りん(光梅)とある。光の梅と。あすこは何ち言う所か。梅光と言う所です。ね、その梅を取ってそれに光と言う亊になったんだそうですけれども、私はこれは矢張り辛抱の光というふうに頂きますね。
梅は辛抱。辛抱しなさったその光がね、今日の梅光教会。いや南久留米教会と言う亊になると思うんです。私はこれを頂いて参りましたのを、もうすぐここであの先生方、研修が、三時の研修をしておりましたから、これを読んで貰いました。本当にまあよう辛抱しぬきなさったなあ、と思うのでございます。十九の年に布教出られたと言うんですからね。それでえ、戦時中に何か親教会。久留米の教会の。大体大分教会で修行しておりました先生。そして久留米に見えて久留米から出られた。
久留米と大分は親子の関係にございますからね。そいでそこに、何か夜警小屋があったのを貰うて、それを建てられて、自分で壁塗るなんかをしながら、小さい四畳半と六畳の教会を作って、そこから段々おかげを受けられたと言う亊です。十九才。私うちの先生方に若い先生方。まあ十年ぐらいはここでみっちり修行させてもろうて、布教に出たいと言う。先日、ここの修行の先生方のアンケートを取りました。
で殆どそれぞれもう殆ど海外が多いですね、願っておられる亊は、ですからまあそういう願いの元に修行しよりますが、そな、ここで錦也先生とか恵介先生とか、桜井武先生とか、泰郎先生とかなんかはまだ微弱?未弱?なもんですから。けどもあんたたちはいくつになるかねて、言うたら二十、二十一という。だからふなら十九歳でいうなら、南久留米の先生は布教に出ておられる。
確かにその別にたったあの時分は、学院が半年でしたからね。半年本部で勉強してそしてなら二、三ケ月、久留米の親教会におって、もう布教に出られるというな、もう冒険も冒険。この上ないような感じがするんですけれども。やっぱりその度胸ですよね。そして自分で家を建ててまあ自分で壁を塗って四畳、六畳のそれをまあ建てられたと。そして段々、今日四十五年の記念祭を仕えられる時には、もとにかく記念祭たんびに段々、大きくなっていっておかげを頂いておられる。
あありっぱなお教会にまあなっておる。私最近しばらくいっておりませんから、けどもりっぱなお教会になって。今度も記念祭に八十坪の駐車場が出けたと買いてございます。ああ、やっぱ信心辛抱さえをしておれば物事整わぬ亊ない。ね、辛抱し抜いておられるわけですね。四十五年と言う。それでふな年々歳々いうなら五年の記念祭を一つの節としてそこから、段々大きくなって、おかげを頂いておられます。
だからね、私は思いますのに、これは金光教だけではない。あらゆる宗教でもそうであろうし。いやこれは宗教ではない。一つの事柄であってもね、いうなら石の上にも三年と言う位ですから。その信心辛抱ではなくただの辛抱でもね、おかげになる。辛抱さえりゃ物事整わぬ亊ない。十年経ったけども二十年経ったけれども、と成就せんでも四十年、五十年経っていくうちに段々成就していくと言う亊。
本当にまあ素晴らしい亊であります。今日の御理解をどれ程繰り返し、繰り返し頂いても、金光様のご信心はどこまでも、いわゆる天地日月の心になる亊肝要と。だからそれをいわば骨子としてですね、それを芯として辛抱が出けたら、もうこれは間違いないお徳を受ける亊であろうと思います。だからそんならここでもそうでしょう。何十年信心させて頂いて別に教えが身についておらんようであっても、矢張り日参り夜参りさして頂いて、一心にお縋りして辛抱しておられる方達は、おかげを受けてます。ね。
けどもこれではね、私は何と申しましょうか、ね。信心辛抱のおかげがうけられても、信心辛抱の徳にはならないと思う。私は昨日でしたかね、あの研修の時話たんですけども、沢山なお道の教会があって大変、人が助かる教会として御比礼受けて、大きな沢山な信者を擁しておる教会がございます。けれどもあちらの教会は、例えば一つの教えのシンと言うものがあってその教えに基づいて、皆なが助かっておると言うのではなくて、いうなら御祈念力が強いとか、いわゆるただ辛抱力が強いとかね。
又は中には御霊さん関係を言って人が助かるとか、ね。又は先生がこう指圧のような亊をなさって、どんどん病人が助かったと言う様な教会ですらある位ですから。それは私も金光大神の御名を唱えて助かるのですから、それがどうこうとは思いませんけれども、どこまでも私は、お道の信心は話を聞いて助かる道でなからなきゃならんと思うです。その話もです、いうならば天地の道理に基づいた、いうなら本当から本当、いわゆる真理の追求と言われるそれを。
そんなら、天地日月の心と言う亊のその芯にもなるもの、又私共が行じようと思えば行じられる。その天の心、地の心と言った様なふうにして合楽では説くわけですけども。だから合楽ではどうでも、信心辛抱とその教えに基づく、教えを貫くと言う亊から頂けるおかげでなからなきゃならない、ね。たしかに例えば本当に辛抱し抜かせて頂くと言う亊だけでも、おかげを受けるのですからね。金光大神の矢張りお徳で助かりますけれども、金光大神は私共に「信心して徳を受けておかげを受けてくれ。」
という天地の親神様の願いに基づいて、お道の信心が始まったのですから。どうでも一つね、愈々日々を天地日月の心という、その頂き方をしかも貫いて、おかげ頂いて頂きたいと言うふうに思います。昨日合楽の目玉商品と言った様な亊を頂きましたよね。合楽というデパ-トならデパ-トとしますなら、そこにある矢張り、誰でも飛びつくようなね、一遍で飛びつくような、目玉商品的、御教えがある。それを一人一人昨日、皆んなに聞きました。皆知ってますですね。
第一土の心、成り行きを尊ぶね。もう本当に合楽で言われる信心を、皆が知ってます。所がね、あすこにああいう目玉商品があると言うて知っておるだけではいけんのです。それを自分のものにさせてもらわなければ。けども私昨日、皆さんがそれぞれに合楽で言われる、いうならば合楽理念の芯になっておると言った様な、いわゆる天地日月の心を、それを色々に、ま答えがございました。けどもあなた達が言うように、合楽の目玉商品というのは、そんなに私は安売りをしたいとは思わんと申しました。
知っておる。は、土(どろ)の心じゃけん土の心さえ、も黙って治めさえすりゃいいですねと言う、それを知っておるだけで、そんならあんた方の手に渡るのじゃない。だからそれは目玉商品じゃない。私安売りはせん。いわゆるなら土の心なら土の心に、本当のそれを頂き抜く。して自分のものに実験実証していわば、信心の確立がその亊をもってできるという亊なんんだから安売りじゃない。本気で信心を求めようとする人がです。なら天地日月の心を解り易く解いてあるから。
ははぁ金光教の信心は是だなあというふうに思いもする、分かりもするけれどもそれを自分のものにすると言う亊は、そんな簡単にねいわば合楽のこれは宣伝文句のように言われます「簡単です。明瞭ですそしておかげは確かです」というふうに申しますがすがです、ならその土(どろ)の心になると言う亊だけなら、それは簡単ですけれども。それを本当に明瞭にしていくと言う亊になると限りがないです合楽の信心は。
だから合楽の修行をしとる先生がもう、合楽のいうならば合楽理念だけはちゃんと、そのマスタ-が出けてるです。だからそれをなら日々実験実証して行く亊の為に私は、昨日特に若い先生方にその亊を申しましたがね。梅光(南久留米)の先生は十九歳にして布教に出られた。そして今日段々おかげを受けておられる。あんた達は二十とか二十一とか二十二というならば、もう布教に出てもよいのだけれども、私は思うのに合楽理念のマスター、それの実験実証ができる。
免許皆伝を頂かなければ、私はここからあんた達を出そうとは思わん。十年が十五年かかっても、それを体得しなけりゃいけん。知っとるだけじゃいけん。自分のものにしなければ血に肉に。その代り私は何十年かかると言った様な事はない。布教出たらそこから自他共に助かっていくという道が開かれていく亊の為にもね、合楽理念を知っておるだけじゃいけん、ね。それをやはり貫く。為にはね。
今日からどうじゃろか、もう例えば二十歳なら二十歳の青年教師の先生がね、今日から布教に出たと思うて、そういう構えで修行しなければ、いつまでたっても実験実証はでけないよというて申しました。例えばそんならここに泰郎君とか恵介君とか錦也君とか武君とか、それはまあだ皆さんがご覧になっても微弱なもんです。二十歳そこそこですから。けれども十九歳で布教に出られるというと、これはもうそこには金光大神の働きが、辛抱し抜く、そこに働きだけは現れるのだやっぱりね。
だからあんた方がね例えば二十歳にしてなら、今日を境に布教にでたつもりでね。そりゃ自分で家を一軒もつと言う亊だけでも、ならお教会ならお教会をもつと言う亊だけでも、もうあらゆる点に心配りが変わってくるだろうと私は思うです。本気で人の助かる亊の為に自分が愈々助からんならんと言う天地日月の心も、本気でそれを自分のものにしょうとする精進がです、ね、もう布教に出たつもりで頑張んなさいと。是は勿論若い先生方だけに申しましたけれども、他の年を取った先生方尚更の亊です。
十年も十何年も言うなら修行しとる先生方がおりますが、果たしてね布教に出る構えで日々信心の稽古をしておるか、とまあ昨日は申しました亊ですが。ならこれは皆さんの場合であっても同じです。皆さんは別に布教に出られる訳でもないけれども、信心して徳を受けてと言うが、果たして徳を受ける亊ん為の構えができておるか、ね。おかげおかげで何十年経っても、それは辛抱しておかげが受けるかも知れんけれども、あの世にも持っていけれるぞ。この世にも残しておけるぞと言う様なもう。
金光教の信心はお徳を受ける為の宗教と思うんですけども。とりわけなら合楽の場合はもう、お徳を受けさせずにはおかんと言う働きがあっておる、と言う亊なんですよね。ですから本当に、それをその気になって受ける気にならんと、何時までたっても頂けない。私は昨日、目玉商品と言う様なご理解を頂き、ご神前でご祈念をさして頂いとりましたら、頂いた亊が、あの鯖のね魚の鯖の新鮮な、目がギラギラ光っておるような、鯖の頭の所の、目の光ってる所を頂きましたね。
鯖と言えば合楽的めぐりとも、昔から言われております。目がギラギラと輝くように光っておる。それで私は昨日皆の話を聞いた後でです。私はお知らせを頂いて、昨日はあの目玉商品と言う亊を聞いたが、あんた達が土(どろ)の心とか、成り行きを尊ぶとか、大切にするとか皆答えたけれども、それは決して目玉商品じゃない。私が自身がね安売りしょうとは思ってないもん。まあ「あんたもう一通り覚えたけんで、ならもう布教に出たっちゃよかばい」と言うふうに言わんもん私が。
それが本当なものに確かめて、五年十年十何年たってでも、それを自分のものにね、したと言ういうなら、見極めがついた時に初めて布教と言う亊になる。安売りじゃないでしょうが。知っとるだけじゃない、ね。私は昨日その鯖の目ん玉を頂いて、まあ目玉商品とこう言う亊を説明したら、皆がすぐ分かったごたるふうです。ははぁ合楽の目玉商品と言うのはこれだなと。皆さんも感じられるでしょう。ね。
鯖の目玉です。いうならば合楽で言われる、人間が人間らしゅう生きてすべての亊に御の字さえつければ、と言った様な表現をいたしますね。人間が人間らしゅう生きると言う亊。ここでは過去の宗教の全てがです。ね、とても信心で本当のものを頂こうとするならば、それこそ火の行、水の行は勿論の亊、あられもない行をしなければ頂けない。体得できないというのが、過去宗教のまあ私共のイメ-ジであったわけ。そのイメ-ジをアップしていくのが合楽理念だと思うんですけども。
とりわけ人間が人間らしゆう生きると言う。これが例えば、これは信心のない者でも、少し関心をもった人ならば、「ほうそういう信心があるなら」と一遍に飛びつくような感じがいたします。けれどもね人間が人間らしゅうと言う亊は、いうならば人面獣心と言う亊を申します。人間の面をしとるけれども心は夜叉のような、獣のようなというのではないですもんね。人間が人間らしゅうと言うのは。例えばね「欲を断たなければならない」といったようなものではなくて、教祖がはっきり教えられる。
「我情我欲を離れて」と仰る。我情なんだ我欲なんだ。それをはずしていくと言う亊、ね。そこになら欲あってよいのであり、情もあってもよいのであると言う事になる。そこに大体は人間が人間らしゅうと言うのは、そう言う亊なんである。そこには我身は神徳の中に生かされてある、と言う亊が分かってくるのである。それには矢張り天地日月の心と言うその信心が、見やすうそれに取り組んで。
日々いきよらんとそれこそいつの間にか、我がとれ我情が取れ我欲が取れて、我身は神徳の中に生かされてある亊が分かって、今までおかげとも思いきらなかったおかげの世界に住む亊が出来、「あれもおかげであった。これもおかげであった」という世界が開けて来るのだ。そういう信心が頂けて、それが辛抱し抜かれたら、どう言う亊になると思いますか。教祖が仰ってとられる「目出度、目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁ると言うではないか。金光大神は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ」と、ね。
私一代じゃない。子にも孫にも伝わって行く様な子孫繁盛の道を教えると仰せられる、その教えを、愈々頂く亊の為にですね、「あれもおかげであった。これもおかげであった」と言うような信心が分からせて頂く亊の為に、愈々天地日月の心を大事にしなければならん。それに取り組まなければいけない。只人間が人間らしゅう生きられると言う様な亊だけに、まあ簡単に飛びつくとですたいね。
まあ合楽の一つのキャッチフレ-ズですから、ふっとやっぱりその目玉商品にお互いが飛びつくように、飛びつくものがあるわけ。そしてこれは今迄これが罪とも思うたり、御無礼と思うたり、ね、こう言う事が因縁を作ったのじゃなかろうかと、思っておったような亊柄の中には、罪もなからなければ、因縁を積む亊のないのだけれども、自分で自分の心の中に罪を作って行くのであり、因縁を作っていっておるのである。それが不幸せのもとにさえなっておるのである。
そういう意味でですね。人間が人間しゅう生きると言う亊は素晴らしい。それこそ御の字をつけて、有り難う御座いますで、有り難しで頂けば障る事も当たる亊もない。これは食物の亊だけの亊じゃない。事柄でもそうである。但しそこに分からせて貰わなければならんのはね、食べた上にも食べると言った様な、我情で我であり我欲である。ならこれを中々取れんのだけれども。いわゆる天地日月の心によらせて頂く、合楽理念に基づかせて頂くと、それこそいつの間にか取れていっておる自分に気がつく。
これはね合楽以外の教会の場合は、私は今日は梅光のこの梅の光と言うこの本から感じるんですけども。確かに金光大神、金光教という看板さえ掲げて、そしてそこが先生が辛抱し抜きなさんなら、必ず繁盛していくですね。これは間違いないですね。だからそれだけでの繁盛では私は金光大神の教えを、道に有る者としては勿体ないおしい。こんなにちゃんとした教えがあるのだから。
その教えが愈々身につくおかげを頂く亊の為に、私が昨日、若い先生方に言うた様に。「今日から早速、布教に出た積りで物亊を見たり聞いたり、修行の構えを作っての日々の修行でなからないけんばい」というふうに申しましたように、皆さんとても同じようなことが言えるんじゃないでしょうか、ね。本当に神様がいうて下さる。信心しておかげをうけてくれよと仰るおかげ。
それは子孫繁盛につながる様なおかげでなからなきゃならん。その亊一つが成就すると言う様な亊じゃない。その為の信心の構えをね先生方が今日から、自分が布教に出た積りで、その教えに本気で取り組む様に、皆さんとてもどうぞ一つねそういう構えを作って、愈々合楽理念をマスター。分かるというだけではなくてね、それが血に肉になる為の修行に取り組ませて頂かれたら楽しゅうなるです。有難くなるです。
昨日ある先生がいってました。合楽の信心の目玉商品は、あのリズムが感じられるように、だんだんなる亊だ、と。確かにそうです、ね。リズムを感じるようになりますから、楽しゅうなるです、ね。折角信心をさせて頂く。苦しまぎれの信心から、まあひとつ信心が楽しゅう、うれしゅうでけるようなおかげを頂いて、そしてそれを貫かせて頂く辛抱の徳を受けたいと思います。
どうぞ。