昭和55年7月10日 月次祭



昭和55年7月10日 月次祭

 とかくに信心は地を肥やせ、地を肥やしておけば肥えをせいでも、ひとりでに物が出来る様なものであるという意味の御教えがございます。ひとりでに物ができる、まぁいうならばまぁ願わんでもおかげが受けられると、その為にはいよいよ地を肥やしておかなければならない。肥やす前にいよいよ自分の心を耕し、そして肥料を施しま地肥えをしね、どういう種をどういう苗木を植えてもそれが育つ芽を切る、そして花が咲いて実が実るというようなおかげ。

 確かに一人でに物が出来て行く、一人でに育って行くと言う様なおかげを受けると言う事。私が今日まぁこの様におかげを頂いて、しかも是はどこまで広がって行くか分らない、限りないおかげの世界に住まわせて頂いております。ですから皆さんもやはり私の信心に繋がるのでございますから、まぁ私がさせて頂いたいうならば信心修行、勿論教祖生神金光大神様の御教えに基づいて、今日のおかげを頂いて参りました。ところが教祖生神金光大神様の御教えに基づいて、今日の合楽があるのでございますけれども。

 始めからそうではなかった。ただ一生懸命お参りすれば良い、一生懸命御用すれば良い、御用すりゃ助かる。一生懸命お参りすればおかげが頂かれると、そういう信心が何十年続きました事かね。そしてもういうならお道の信心で言われて来た、あぁもすればおかげになる、こうもすれば力が徳が受けられるというような、まぁ信心の真似事ではありましたけれども、させて頂いたけれどもおかげが受けられなかった。そこでま私がもう修行というても様々ないうなら、火の行水の行もさせて頂いた。

 それでもおかげが頂かれんのですから、これからはまぁ言葉でそんなにではないですけれども、自然に起きて来る私の上に起きて来る、その成り行きそのものを、これは好きですから頂きますこれは嫌いですから、向こうに押し返すと言った様な事をしないで済む、そういう修行をさせて頂こうと発心させて頂いて、いわゆる合楽で言われる合楽理念の、いうならば根本でもありますところの、成り行きを尊ぶ大切にさして貰うと言う事になったんです。その成り行きを尊び大切にすると言う事は。

 何をそんなら私に教えてくれたかと、成り行きを大切にし、総ての事に御の字を付けて御事柄として受けさせて頂いておったら、どういう信心が私に身に付いて来たか、又それに伴うどういうおかげを頂いて来たかは、まぁ私のおかげのひとつの歩みというものを、皆さんが聞いたり見たりして下されば分るのです。今晩御神前に出らして頂きましたら、蓮根のねこう節から節の真ん中ん所、この位な所だけをはっきり頂いた。節の所はこう黒くしてから、なんかこうもじゃもじゃしたひげが生えてるでしょう。

 あの部分を頂きました。まぁそれをご心願に頂きながら感じた事は、まぁ節といえばここでは節を尊ぶとか、節を大切にすると。節を大切にする人は伸びると、これは私の青年時代からの座右の銘でした。節を大切にする人は伸びるね、今のように合楽理念を持って説かれたら、それこそ御神願あり難しとして、まぁそれこそ合掌しながらリズムに乗って、楽しゅう愉快に有難く過ごした事でしょうけれども、それが分りませんもんですから、只々がむしゃらに。

 丁度私が今日頂いた蓮根の節というのは、ちょうどそういう真っ黒い節を、しかもひげがもじゃもじゃしたようなところ、いうならば私が感じた事は、がむしゃらと言う様に感じました。もう只々ね有り難くでもなからなければ、生き生きとした元気な心喜び一杯でというのではないですけれども、只がむしゃらにその蓮根の節のような節をね、も折れそうねあそこは折れそうなところでしょう。真ん中の節のところその折れそうなところをただがむしゃらに乗り越えたというか、歩き抜いたというかね。

 それが今日の合楽のおかげの元だという意味の事を今日頂きました。教えがいうならば本当に分っていなかった。只一生懸命に信心をさしてもらう。一生懸命にお参りをすると、それでも次々と難儀な事は起こって来る。その難儀な事が起こって来るたんびんに、もうそれこそこれほど信心するのにと、言いたい思いたいところをまぁがむしゃらに、そこを通り抜けておかげを頂いたということが、段々今日のいうなら合楽、そういうがむしゃらな信心をさせて頂いておる。

 そこからですいうならば本当な修行に目覚めてきた。火の行もした水の行もしたね、まぁいうなら人間で出来る修行は様々にもしてみたけれども、それではおかげは受けられなかった。そこで成り行きですどういうね、お金を貸してくれお金をくれ、あるなら上げる。あるなら貸してくれというなら貸しても上げる。こんなもう棒にも箸にもかからんような病人を預かってくれといや、そんなのは困りますよと言うた事がなかった。と言う様な在り方でおかげを頂いておる内に分らされた事なんです。

 そして成り行きを尊び成り行きを大切にさせて頂いて、いうならば天の心地の心が分って来た。そして教祖様の御教えとの、本当の意味においての出会いである。天地日月の心になること肝要だということになって来た。天地日月の心になる事肝要、ためには先ず天の心が分らにゃいけん。地の心を悟らなければいけない。そんなら日月の心とはどういう心なのかと、それを探し求めて行く内に、今日の合楽理念が誕生したんです。通るとこを通りそしていよいよ間違いのない。

 いわゆる合楽で言われる合楽理念は絶対の理念である、もちろん助かりの理念であると言う風に言われます。今日私は四時の御祈念を終らせて、四時の御祈念に入る時に、ちょうど目の前に、今毎日夏期信行があっております。もう今年は何かもう異様なまでに、一時のあのう御祈念が、もう本当になんて言うでしょうかね、一同が火の玉のような勢いで三十分間です。私の話を聞いて頂く終わる、三十分間で終わります。御祈念がま二十五分間私の御理解が五分間ぐらい。

 ありゃやっぱ誰でもあんまり時間がかかるけん、参るごとなかとかも知れませんね。はぁ一時の御祈念はもう三十分で帰られると思うからね、皆んなが。さっきから梶原先生がお話させたら、えらい拍手が多かった。どうして多かったじゃろうか、その大して良か話しでもなかったがと思ういよったら、ねやっぱそうだったでしょう。短かったからやっぱ拍手喝采しよった。そんな様な所があるんですよ。一時の御祈念、夏期信行はもう三十分間で終わる。

 だからもうそれこそ皆んなが一生懸命、しかもあのうもう合楽の名物のようになりました、もうそれこそ火のような御祈念のいわゆる信修うがあっております。まだ参加した事がない人は、もうそれこそ一日でも一辺あの御祈念会にかたらして頂くといいですね。合楽の信心が只一生懸命に拝むとか、御祈念をするとか拝むとか、それこそもういつでもこの御祈念が終わりますとその人達が座ったり、一生懸命やる人達の前のその畳がです、擦り切れるぐらいにあります。もう膝をもうどしどしもう力が入るからです。

 ですからもう汗が出ますから、あすこにはタオルをひいて、まぁ今年の夏季信行は涼しいですからね。でもありませんけれども、そんな勢いで信心が成されておりますけれども、それとてもですね、それは勢いを持っていうならば拝んでおかげを頂くというのではなくて、おかげはどこまでもやはり合楽理念に基づいてからのものでございます。四時の御祈念に入ろうと思いましたら、毎日私が書かせて頂きます、いま毎日戸板掲示されます、あれがいわば教典感話にもなるわけです。

 六年間に一回の御理解になるんです。私が夏の夏期信行の時だけに伝える御理解が、六年目六年目に回って来るんです。今その三回目がね二回目までのは、あの厚い教典感話になった。だから一昨年からですか、また段々おかげを頂いて、また一回り二回りしてまいりましたら、また感話集ができるでしょう。これはもう本当にいわば助かりの理念が生み出したものだというふうに思います。生粋の御教えです。しかも簡単ですということが、それこそここではミニ御理解と言う様に。

 簡単な塗板に少しばかり書くだけの御教えなんです。明日のところがなんだったか、そこにちょっと書いとるから、そこを見てくれてんの。それじゃないでしょう懐妊の「懐妊の時腹帯をするより、心に真の帯をせよ」真の帯をせよということでしたね。だからそれをちらっと見てからご神前に座らせて頂きましたら、その事を頂くんです。真の帯ということはどういうことなんだろう、金光教では真ということが言われます。いうなら真の信心と言われます。

 その真の帯をするということは、しっかり信心の帯をせよとも仰るのですから、この真の帯を締めた時が真の信心なんです。懐妊するというならば、いうならなんていうですか、あの腹帯を致します。その腹帯をするよりも真の帯をせよ、真の信心の帯をせよと教えられます。ははぁ明日のこれは御理解だなと思うてここへ座ったら、頂きます事がです、家内の事を頂くんです。私どもが北京に長男と長女があちらで産まれました。もうほんとに難産でした。

 長女なんかもう頭がほていさんのごと長かった。あんまりやっぱひどかったから。もう若先生が時には、もう死んで産まれましたから、もうぼろに包んでお縁の向こうんとこへおいちゃる。家内の方がきつがっとりますから、家内の方の手当をしてからその、私ももう死産と思うていましたからね。そちらの方にあまり気を取られてませんでしたら、その家内が一段落して、そのぼろをこうやってほどかれた。そしてあの水に付けたりお湯に付けたりしてから、叩いたりしてギャッと泣きだした。

 もう本当にこの人は、いうならばそういう無い命を、もうそもそもから頂いておったというふうに思われます。いうなら未来の二代を継ぐ事になるのです。三人目は逆産でした。そして今月腹のような大きなおなかを抱えて、私どもは引き上げて帰って参りました。私は朝の御祈念に参って帰って参りましたら、ちょっと催しが始まったとこういう。ちょうど前の日に大分におりました、北京時代の隣組の産婆さんが丁度その前日遊びに来ておりました。夫婦でね。

 それで私は朝の御祈念から帰って来てからまた、すぐそのまま親教会にお願いに参りました。そして私はあの時に聞いたのが、まぁお知らせだっただろうと思うんですけれども、御祈念をしよりましたら、その時分に朝ニワトリが時を告げる事がないはずなのに、そのコケコッコウーが私のまぁいうなら響いて来た。隣で鶏が鳴いただろうかとも思ったけれども、そうではなかった。私の心にはぁ今生まれたなぁと、言った様な感じがしました。それから帰らして頂きまして。

 あの勿体島と椛目の間まできましたら、その産婆さんの御主人が私を迎え来よった。してから向こうの方から「でけたでけた」ちゅうてから言うて来よる所でした。しかもそれはもう大変逆産でしたけれども、その産婆さんというのが逆産専門の産婆さんでした。わざわざ大分から神様が呼び寄せて下さる。そしてまぁ産のおかげを頂いた。それからというものは、勿論私共の信心の程度程度に応じてそれを感じますけれどね、それから四人目、五人目七人子供を産みましたから。もうそれこそ隣知らずの安産でした。

 帰らして頂いて本気で信心が分るようになり、本気で信心の御教えを行じようと、言う様な心も段々でけて参りました。家内が申しました。今度はもう腹帯はしません。教祖様は腹帯をするよりね、信心のいうなら真の帯をせよと仰るから、もう今度は腹帯は致しませんというて、四人目からは腹帯を致しませんでした。もうそれこそどれもこれも隣知らずの安産でした。七人目の栄四郎の時なんかは、もうむしろ快感を感じたと今言うております。そんな事があるだろうかと思うけれどもそうなんです。

 もうそれこそお産の事でここにお参りをして来て、奥様と合うたらはぁおかげじゃった、安産のおかげを頂くちゅうたら、ほんなこつおかげを頂くです。と言う様にいうならば家内が力を受けたということです。私はその事を今日ここで改めて頂き乍らです、はぁ真の帯をせよということは、いうならば真の信心とは、教祖様の御教えを本気で行ずる事だということになりました。もう私はこれを頂いてから、もう本当に真の信心とは、真の信心とはというてどの位、百年の間に言われてきたか分かりません。

 そして本当か嘘か分らんおかげも頂かれない、真を真と思いこんで一生懸命信心してきて、おかげを受けられなかった。真の信心をすりゃ真のおかげが受けられる。その真のおかげとは真の信心の帯とは、教祖様の御教えを本気で行ずる事なんだと分かった。もうこんな簡単な事はない。それが真の信心とも気が付かなかったでしょうけれども、教祖様は腹帯をするより、心に真の帯をせよとこう教えられた。だからもうすぱっというならば腹帯をする事をやめて、改めてそして腹帯を教祖様の御教えを本気で行じた。

 からというものは四人の子供達が安産のおかげを頂くだけではなくてです、安産というてもただ隣知らずの安産であった。しかも最後の栄四郎の時なんかは、本当に快感を感じたというくらいな、おかげが頂けれるいうなら力を受けたということになる。その力が合楽で難産だとにかくいろんなお産と言った様なお願いで、奥様にお願いすりゃおかげを頂くと言う様な、ひとつのまぁ定説ではないけれどもね、そう言う風に皆さんが思いこんで下さるようになる程しのおかげを頂いた。

 皆さんあの真の信心とはね、教祖様の教えを本気で行ずる事なんです。それにはですたとえばね、表行よりも心行をせよとこうみ教えにあるのですから、今までしよった火の行、水の行家業の行じゃない断食の行と言った様な形の上でする修行というものを、すっぽり止めた。そして心行一筋に本気にならして頂いた。もう途端に合楽のご比礼が輝きだしたね、この御教えを行ずるようになってからです。表行全廃ということになってからですね、それが真の信心だ真の帯だということになるのじゃないでしょうか。

 どうすればどうすればじゃないです。教祖様が教えられたね、ここでなら御理解を皆さんが頂かれた、その御理解をです、皆さんが本気で頂いて、本気でそれを行ずる事にあるのです。本当にもう潔い心がいるようです。それを言うなら過去の自分の生き方というものに、見切りを付けるのです。いうならば人力に見切りをつけるのです。そして教祖様の御教え一本で生活すると言う風に、生活様式も変わって来るです。

 思い方も考え方も変わって来るです。そこからねいわゆるいうなら、合楽で言われる実験実証ということになるのじゃなかろうか。その教祖様の御教えをです、もう本当に誰でも行じようと思えば、行じられるように説いてある。その手立てが説いてあるのが、合楽理念だと思います。ですからどうしてこげん受けられんじゃろうか、まぁ今朝の御理解頂きますとね、腹が立つ心が暗くなる、いらいらする心配になるね。

 そういう時には今こそ心が荒れておる時なんだと。心に雑草が生えておる時なんだと、どんなに教えを頂いても教えを頂いても、その教えが芽を切らない。花にもならない。芽を切らない筈なんだ、こんなに心が汚れておるもの、こんなに心が荒れておるもの、こんなに雑草がおい茂っておるものと、気付かせて頂かなければなりません。荒れ地荒れ屋敷を神様が嫌うと仰せられるが、私共の心の荒れ地荒れ屋敷も尚更、私共が神様から嫌われるということを分らしてもろうて。

 それこそお湿りの後のしっとりとした、真っ黒い土のような心の状態をね、頂く事にまず精進しなければならない。そこになら有り難いなら御教えを頂くとするか、例えばなら今日私は家内の事を頂いたから、家内が今までやはり金光様信心しよった訳ではない。ほりゃもう一番初め長女が生まれた時なんかは、もうそのうあのうまぁお産婆さんが来てから産ましてくれるからね、昔はもう大変難産だというからこのまま、もうその医者に連れて行かにゃいけんとこう言われる。

 ほりからもうあただに教会にお参りして、教会であんまり一生懸命拝みよったもんだけんで、一生懸命こうこうやってお願いしよったら、もう手が離れんとですよ。こうやってから。そげん一生懸命やって拝みよるね。それでそう言う風な信心でも神様はおかげを下さって、帰る時には頭ん長かつが産まれとった。本当に頭が布袋さんのごっ長かった、それがおかげを頂いて段々丸うなりましたけれどもね。丸うなり過ぎるごつなった。だからそういう時代もあった訳です。

 ただ拝みさえすりゃ、しかも自分が困った時だけ一生懸命こうやって拝みよる。長男の時にもやはり難産、ようやくおかげを頂いて生まれたと思うたら、死産とまぁ私は思うた。ぼろにくるんでお縁の隅にこう置いちゃったけん。、そしたらまぁおかげを頂いてその命を頂いて今日の若先生がある。だから信心しよっても此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと教祖様は請け負うてござる。それを私共が喜びで受けていなかった、只拝みさえすればお願いさえすればで来た。

 何十年間の信心だったということが分かります。いうなら三番目の愛子が産まれる時にはね、もうとにかく大きなおなかを抱えて帰ってこんならんから、やっぱずっと神様に一生懸命お願いをした。そして帰って来てからもとにかく逆産ではあるし、まぁ心配ですから一生懸命神様にお願いをする。前の信心とは少しはその信心の垢抜けがして来た。そして前の日に神様が、それこそ逆産専門の産婆さんを大分から、こう迎えておって下さったような感じがする。しかもそん時にはお知らせまで頂いた。

 そしてそれこそ逆産で難産であろうと思った所が、もうそれこそ私が善導寺にお願いに行って帰って来る時には、もう産まれておると言う様な安産のおかげであった。その頃から難儀はいよいよ続く本当の修行が始まるね。もうその頃にはいうならば教祖様の御教えを本気で行じようと思うた訳でもなかろうけれども、家内が本気で行じた訳です。もう腹帯はせん神様一本にお縋りをする、というならば教祖様の御教えを本気で、それを行じたと言う事にならして頂いたら。もうそれこそ成程教祖様は嘘を仰っていない。

 隣知らずの安産のおかげが頂ける次々と生まれて来る。七人目の栄四郎の時にはそれこそ快感を感ずる様な、それこそ産みの苦しみというけれど産みの楽しみである。と言う様なおかげを頂いてそれを人にも伝えれる位なおかげを頂いた。どうぞ真の信心の帯をすると言う事はね、本気で教えを頂く行ずると言う事である。姿勢である構えであるね、皆さんどうすりゃおかげが頂けるかじゃない事が分かりますね。皆さんの心の中にいらいらがあったり腹が立ったりね。人の事ばっかりが目に付いてしょうがない時には。

 自分の心にまず荒れ地荒れ屋敷である事に気付かしてもろうて、先ず荒れ地荒れ屋敷の開墾から、それから雑草を取る事、それから耕したならそこから、教えの肥料をたっぷり施しておいて、でそこに有り難い教えの種をまかして貰うならばね、これが芽を切らない筈がない。花が咲かない筈がない。実りにならない筈がないそういうおかげを頂く。真の信心とはともうそれこそ私共随分言うて参りましたけれども、お道でいう真の信心とは、教祖様の御教えを行ずる事だ、ということになります。

   どうぞ。



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