昭和54年12月23日 朝の御理解
御理解 第61節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
人に伝えて真の信心をさせるのがとあります。真の信心、真の信心を自分が頂き、真の信心を人に伝える。そして真のおかげを頂いて行くという事なんです。それが神になるのぞとまで仰っておられます。確かにその生き方なら神になる手立てが頂けると思いますね。自分が真の信心を頂いて,それを丁寧に人に伝えて行く。そしてまたその人にも、真の信心を教える。そこには真のおかげが待っておる。その真のおかげを頂きながら、御神徳を頂いて神へ向かうて行く信心をする。
だからそれはあそこへ参って来なさい、とてもおかげを頂きますよという程度のものではいけないようですね。真の信心をさせるのがとあるから。為にはまず真の信心を自分が体得しなきゃならない。先日ある若い今度結婚をいたします二人が、ここへ参って参りまして色紙を持って来ました。これに私共これから私共が結婚して。まっ一生の一つのまぁ生活の指針とでも申しましょうか。信心のまぁ指針というものを,一筆書いて下さいとこう言うわけです。
それで私はそれに幸扇と書いた。幸扇と言やあ幸せという。それから扇という字。幸せの扇と。そしてその裏に、山本山とその御理解を書いてやりました。幸せにしかもその幸せは、それこそ末広の扇子のように、広がりに広がって行くようなおかげを皆が頂きたいのです。幸せでありたい、しかもその幸せは限りなく、広がりに広がって行きたい。いわゆる幸扇である。
その為にはねこの山本山という意味が分からなきゃならない。上から読んでも山本山、下から読んでも山本山。何かコマーシャルにありましょう。幸せという字を書いてごらんなさい。幸せという字を書いて、上から読んでも幸せ、下から読んでも幸せと読むでしょう。いつでもどんな場合でも、有り難いと思えれるような心。上から読んでも幸せ下から読んでも幸せ。だからどんな場合であっても、幸せを感じれれる時、初めて貴方は幸せになるんだと。
しかもその信心生き方を進めて行くならば、いよいよ広がりに広がる幸せの世界、お徳の世界にも入って行く事が出けるだろうという御理解なんです。けども昨日ほんに戎浦先生が研修が終わってからでした。今朝方からお夢を頂いたと言う。そのお夢をまっ理解づけるとどういう事かと言うと。石の上にも三年という。合楽の信心を頂いて三年も経ったら、まず肉眼を置いて心眼を開けと言われる、心眼を開かなければ駄目だよと。心眼を開かなければ本当の修行は出けないよという御理解でした。
合楽にお参りをさせて頂いて、三年も経ったら肉眼を置いて心眼を開けと。心眼を開かなければ本当の修行は出けない。心眼を開いてからが、本当に御神徳を頂く世界への修行が出けるのです。肉眼を置いて心眼を開いても、ならそのまたそれからの修行がなされなかったら、それは頂いただけで宝の持ち腐れです。心眼を開くという事はどういう事だろう。三年間も一生懸命お参りをして御理解を頂いたら、何が合楽では分かるだろう。また何を合楽では分かれと言うて教調するだろう。
皆さんどうですか。もう皆さんの中には、その心眼を開いておられる方が、合楽には沢山おられます。心眼というのは、色々神様からお知らせを頂くという心眼じゃないですよ。本当な事が本当な事と分かるという事なんです。言うならば次元の違った、信心のない時と信心のある時とのその差というものは、それこそ親のある子とない子との違いというものが三年も経ったら、そこんところを理解し、そこんところを分からなければいけないと言うのです。
皆さんはもう分かり過ぎるぐらいに分かっておられると思うですよね。私共が日々生活させて頂いて様々な事があります。もう痛い事痒い事、悲しい事腹が立つ事。けれども後からよくよく考えてみると、はぁあれもおかげであったと皆さんが分かるでしょうが。言うならば開けてみれば愛という事が分かる。もう分かっておられるでしょうが。だから最近では、開けて見らんでも愛であるという事が分からなければならんと、こう言われるんです。これが心眼です。
それを分かっておってそれを行じて行かないならば、宝の持ち腐れです。この様な素晴らしい事を分かりながら、折角心の芽を開きながら。本当な事をしなければ本当の道は開けません。真の信心とは私は先ずはそれであり、教祖の神様が信心しておかげを受けてくれよと沢山の御教えを下さってある、御教えの芯はそれです。あれもおかげであったこれもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと仰る。
その本当の信者になって、それから修行をなら本当の信心に基づいての修行をさせてもらって、これはまた限りなく御神徳の道は開けて来るんです。肉眼を置いて心眼を開いただけではいかんのです。けれども三年も合楽で信心の稽古をさせて頂いたならば、まずはそこが分かれよという事なんです。昨日は、西岡先生が65歳の誕生日に当たると言うて、お礼に出て見えました。
そしてこれもまた色紙を持って、何か一筆書いてくれとこう言われるから、神様にお願いをさせてもらいましたら、もうその事を私はずうっと昨夜も思い続けたんですけども。こげな素晴らしい教えはあるだろうかと、私は段々だんだん思うようになりました。書いてやる時には、そう思わなかったけれども、もう後から分かれば分かるほど、それがそう感じるようになりました。それにはどういう風に書いてあげたかと言うと、今を喜ぶと書いてありました、今を喜ぶ。
よく言われることの中に今を大切にという、まぁあのよく言われますね、今を大切にするという事。その内容なんですよ。なら今を大切にするという事は、今、今を喜ぶ。昨日の朝の御理解がそうだったんですよね。今こうやってお話をさせて頂いておる、今聞かせて頂いておる、それがこう耳に聞こえて来る響いてくる。もうその事が有り難い。今お食事をさせて頂いておる、その事が有り難い。
今手紙を書いておるその事が有り難い。もう私はこれを思わせて頂きよったら、もうもう本当に四六時中が喜ぶという事になるんです。それも今申しますように、肉眼をおいて心眼を開いて見れば、もう本当にいつだってどんな場合であっても、とにかくお腹がせきよってもです、胃が痛みよってもです。もう本当に痛むという事が有り難い事、生きておる証拠だと。もういつでもどんな場合でも、私は肉眼を置いて心眼を開かせてもらうと、喜べておれれるという事です。
それもやはり今を喜べと神様から言われると、喜ぶとを忘れとる。ちょっと思い出すと、はぁ喜ばんなん事ばっかり、お礼申し上げんならん事ばっかりという事になるのです。だからどうでも皆さん、肉眼を置いて心眼を開かなければいけんのです。いや皆さんは開いておられると思うけれども、なおざりにしておられるです。分かっておるです開けてみれば愛という事も、いや開けて見らんでも愛という事は、もうこれほど合楽でもう八重十文字から説きよりますからこの事は。
よう分かっておられるのです。分かっておってもですそれを実行しないから、いつまでも血に肉にならんのです。まず肉眼を置いて心眼を開けと。だからなら心眼を開いたからお徳を受けたという事じゃないです。心の芽を開いてそれに基づいて起きて来る全ての事を、言うならば上から読んでも幸せ下から読んでも幸せ。いわゆる山本山上から読んでも下から読んでも、山本山と言う様な頂き方が出けて来て、フッと今思うた時に喜ばねばならない事ばっかりの世界に、私どもは住んでおるという事なんだ。
これからその事を実験実証して行くに従って、お徳はもう絶対ついて来るんです、これなら。だからそういう信心を体得して、それを人に伝えてやるならば、もういよいよそれが神になるのぞという、おかげが受けられると思います。素晴らしいですね。合楽に通うて来りゃ三年すりゃ心眼が開ける。また開かなきゃ駄目です。それこそ石の上にも三年と辛抱させて頂いて、合楽で何を得たかと。
心の芽が開けたという事である。そしてそれがいわば、神愛の現れであるとか、表現であるという事が、いわゆるわかったならばです。その分かったところから、いよいよ実験実証に移って行くのです。なるほど神様のおかげを下さろうとする、働き以外にはないんだなと、いう事が分かって来るんです。だからこれを続けて行くならば、お徳を受けられないはずがない。そういう信心をです、人に伝えて行かなければならないという事です。だからそれが問題はね、スッキリする事だということです。
皆さんが分かっとるけれども、スッキリしとらん。だから今を喜べと言われても、喜べない。まっ繰り返し繰り返しそこんところの、実験実証をさせて頂いて、なるほど神様の働きの中には、もうそつがない無駄がない。一切がお礼を申し上げる事ばっかりと言う様な信心が分かって行ったら、それこそ幸扇である。広がりに広がって行くおかげが約束されます。ね。
そういう信心をです、私どもはいよいよ身につけて行きたい。なるほど十年経ったら我ながら和賀心が奉れるようにも、確かになるだろうと思います。そういう確かな信心を踏まえての、言うならばところを、今日の御理解には説いてあると思います。ただ神心となりて人に伝えて行けという、伝えて行くその内容がです、おかげが受けられますよと、お話が素晴らしいよだけではいけない。自分自身がまずはそういう言うなら肉眼を置いて心眼を開かせて頂いておる、一つ次元の違った世界からです。
自分の低いと言うか信心のない方達にそれを伝えて行く。そしてまたその方が、いわゆるはぁ本当にあるものは、神愛のみだという事が分かって信心を積んで生きようと、こう受けて行くならば、なるほどそれを導いた人は、神にならないはずがないです。皆さん私の話を聞いて下さって、皆さんがそういう言うならば道を辿らせて頂くならばです、私はいよいよ神様へ向かって進んで行く事が出けるという事になるのです。
皆さんが話だけは聞いとるばってん、知っちゃおるけれどもそれを実行しないならば、いくら私が話しても、私も私自身もんなら神になる事が出来ないことに、いわばなる訳なんです。私を神様にして下さる事のためにも、皆さんが本当に真の信心を分かり、真の道を歩かせてもらい。それこそ肉眼をおいて心眼を開かせて頂いたその時点から、その内容であるところの、なるほど一切が神愛であるという実験。
なるほどそれを実証させて頂きながら、いよいよ確信が出ける。そこから起きてくるすべての事が、上から読んでも幸せ下から読んでも幸せと読めるような、心の状態が開けて来るところから、おかげの世界もまた開けて来る。幸扇であります。山本山であります。上から読んでも山本山、下から読んでも山本山という心の状態が開けて行く。さぁこりゃほんに迂闊にしておった。
心の芽が開けておるのにも関わらず、それを実験してなかったという事を改めて一つ、あの思いつかなければいけません。でそこから一ついよいよ、神を目指す信心。また人に伝えるでも、そこんところの体得が出けて、そこんところをそれこそ日頃頂いておられる信心を縦横無尽に、皆さん人にお出でられたら、もう分からん事は、分からんはずはないごと、合楽では説いてあるのが、合楽理念だと思うですね。
どうぞ。