昭和54年12月8日 朝の御理解



昭和54年12月8日 朝の御理解

御理解 第5節 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 金光教祖の御信心の素晴らしいというところは、天地金乃神と同根と言われたり、天地金乃神と祈るところが一心という事。こういう表現で教えておられる、また教えてある宗教はもう皆無だと思うですね。もう金光大神の信心によって初めて、それを知る事が出来るんです。その金光大神の信心は、そのまま天地金乃神様のお心であり、また天地金乃神が願いとされるところがその教えのすべてであります。

 ならその天地金乃神様は、又は金光大神様はどういう事を教えておられるかというと。今日、私御神前で頂いた事の中に「清濁一如」という事を頂いたんです。清濁あわせ呑む、という言葉がありますがね。同じようで大変内容が違うんです清濁一如と。もう清濁あい呑みというのは、ま大きな腹の人の事をよく申しますよね。もう良いもない悪いもない自分の心の中で、ま、良いもの悪いものというのは区別してある。

 それでも大きな心で受ける、というのが清濁あい呑みですけども、清濁一如というのは一つだという事です。清きところもきたなきところも天地の神はお守りあるとかね、と言う様な御教えがございますよね。清いどころきたないところという区別がない。神様のお守り下さる処には、もう一つのものとしか見えない。そこに教祖金光大神の御信心の素晴らしさを最近合楽で説かれる。人間が人間らしゅう生きて行くという生き方になるのです。そういう生き方を、いわば教祖金光大神は説かれたのです。

 氏子信心しておかげ受けてくれよと、言う天地の親神様の願いを、そのままに教祖金光大神が、氏子信心しておかげを受けてくれよと言われる、そのおかげとはここにもありますように。今までどこへ参っても片便の願い捨てであったろうがと、こう仰っておられますように、神仏というのは、もうただ自分の願い事を頼むというものであったわけ、ね。自分の言う事ばっかり願いばっかり。それでもわが心に神がござるから、おかげになるのじゃと仰っておる。

 それでもやはり一心を立てると、奇跡と言われる様な不思議なおかげ、又は願いが願望が成就するというような、おかげを頂いて来たのが過去の宗教、又は信心であったわけです。教祖金光大神の信心はその辺が全く違うのです。取次によって助かるという。いわゆる清濁一如の大きな心をもって、ならどういう氏子が人間が参って来ても、それを金光大神のいうならば超真理と申しましょうか、その特大の大きな心をもって、そのろ過器をもってろ過して下さる。

 そしてそこにおかげを頂ける、というのが金光教の私共が受けて来た信心ですけども。それはわが心に神がござるからと言う様な、そのわが心の神に触れておかげを頂くのではなくて、触れなくても金光大神取次によっておかげを頂いた。そしてそういうおかげのしるしを感じさせて頂く頃から、神様がもの言うて下さるという事になってきた。というのは、人間の生き方、人間の本音と建て前を見事にコントロールしながら教えに説かれたわけです。私共がいうならおかげを頂きたいという本音である。

 建て前はそうじゃないのだけれども、その本音と建て前を金光大神取次の働きによってコントロールして下さって、ならお互いが私の様な者でも、かくおかげを頂いてというおかげになってきた。そしてギリギリの所はどういう事かというと。真の信心を求められ、また真の信心のあり方を説かれたのです。それを詳らかにしたのが合楽理念だと私は思います。ならそこでですその天地金乃神様が、私共一人一人の氏子の上に、思いをかけ願いを懸けて下さるその思いとは、願いとは一体何かという事になるのです。

 氏子信心しておかげを受けてくれよと言うのは、どういうおかげを願っておられるか、今私がお話をしてまいりましたのはね。いうならば私共があの世にも持って行けるとか、この世にも残しておけれるとかというおかげじゃないんです。本音と建て前を金光大神がコントロールして下さって、信心は出来んでも出来たかのように、出来んでもおかげを下さってあるのですね。それでも違う事が心に神がござるから、おかげになるのじゃという過去の宗教のおかげとは、だから異質なんですやはり。

 金光大神の取次によって現れてくるおかげだったんです。ね。そういうなら例えばおかげの世界に留まらずに、人間が本当に人間らしう生きながら、御徳の受けていかれる手立てを、いわゆる片便の願い捨てではなくて、その帰りにはそのことわけを言うて聞かせて下さるのが、合楽で説かれる御理解なんです。だから合楽の御理解の全てが合楽理念と言うていいわけですね、ね。だからそこからの信心を、私共が頂かなければ本当は、金光様の御信心を頂く、いうならば価値というものはないのです。

 金光大神の、いうなら御教えというものの、いうなら価値観と最近言われる価値観というものは、只おかげを頂くというならば、わが心に神がござるから一心を立てて、石の地蔵さんでもよい拝めばおかげになるという事になったり、また金光大神のいわば見事な本音と人間の建て前とを理解されて、そしてそれをコントロールしながら神様へ取り次いで下さって、わが心に神がござるござらんは別として。

 受けものが出来た出来ないは別として、おかげが頂ける金光教の、ま初歩のところの信心なんですけれども、そこどまりになっておるのが、私は現在の金光教だと言う風に思うんです。だから合楽世界が生まれなかったんです。神も助かり氏子も立ち行くと言う様な世界の、いわば顕現にならなかったのです。そこのところを段々おかげを踏んまえて、私共が段々わからして頂くという事がですね。いうならば清濁一如の精神。それを言うと一切がおかげという事にもなるんです。

 一切が神愛という事になるのです。そこで私共がおかげを受けて、そこからいうならば御理解を頂きます。そしてその御理解に基づいた生き方が段々出来てくるようになって、いうならようやく真の信心の入り口に立ったという事が言えるのです。いわば皆さんも言われる「神様に喜んで頂く信心をさして下さい」と言うのはね。そこからなんです。御心に適う信心をさして下さいと。

 そこでその御心にかなう信心とは、どういう事かと言うと、天地金乃神様が一人一人に人間氏子にかけて下さる、その願いが成就する事だという事です。そこでなら皆さんがどうぞ私にかけられた願いが成就致します様にと、特に取次の道に従わして頂くここの先生方の場合なんかは毎日そのお届けを致します。銘々お初穂の肩にはその事を書いてあります。私にかけられた神様の願いがどうぞ成就致します様にと書いてある。

 そこでその願いが成就しなければならんのだけれども、成就とは反対の心がけであったり、信心であったんでは成就しない事になる。願いにはねどうぞ神様、あなたの願いが私の上に成就しますようにと。合楽教会大発展の御神願が御成就に相成りますようにと、いうのも同じような事なんです。だから皆さんの願いがね、先ずはここの一線上に出らなきゃいかんです。私にかけられた神様の願いが成就致しますように、という祈りがなされなきゃいけんのです。

 皆さんもなさっておられる方もありましょう。けどもただ自分の目先の難儀な事だけは、どうぞ金銭のお繰り合わせを下さい。健康にならして下さいという事が、どうも先になりがちですけども、それを願ってはいけんという事ではありませんよ。痛いなら痛い、痒いなら痒いと願っていいですけれども、その根本というものは、その事を通してね。その難儀を通して神の願いが、私の上に成就する。神の願いが地上になるという事は、そういう事なんです。

 神の願いが地上になる。神の願いが氏子一人一人の上に、成就するという事なんです。そこで私共の願いがです。どうぞ私にかけられた神様の願いが、成就致しますように、という事になってくるわけです。これは私は三十年前にそこに気付いた、気付かないかはわからなかったけれども、願ってもそれこそ引けども押せどもおかげにならない、という時に初めてです。もうままよというドン腹据えて、私のような者にでも、神様の願いがかけられておろうから、ね。

 その願いが成就するように、という願いをするようになりました。どうぞ集金が寄りますように、商売が発展しますようにという願いはやめた。思うて見るとその頃から私の信心が本当なものになって来たんだな、というふうに思います。そこで私にかけられる願いが成就致しますようにと。ために神様が求め給う様々な修行をね。それを苦労と思わず修行として、成行きをいよいよ尊び大切にするという生き方が、いよいよ本当なものになって来たわけです。

 昨日の研修の時にこの事を話た事でした。お互いが皆私にかけられた神の願いが成就致しますように、と言うて願っておろうが。願っておるのにも口ではそう願いながら。その為に神様はおかげ下さろうとする、働きを向うに押し返すような事では、やっぱりおかげにならんじゃないか。悲しい事が起こる。腹の立つ事が起こってくる。もう辛抱の仕切れないような事が起きてくる。それが私にかけられた神様の願いが成就する事のための手立てであるならば。

 修行であるならば、それを潔よい元気な、瑞々しい心で受けていくという事が、取りも直さず、私にかけられた神様の願いが、成就していく手立てをであるという事を、も知らなければいけないよという話をしました。ですから今日の御理解のね、いうならまそのう片便の願い捨て的な信心から、神がものを言うて聞かせると言われる、神様もものを言うて聞かせる事は「氏子信心しておかげを受けてくれよ」。氏子信心していわゆる御徳を受けてくれよと。

 始めて御得を受けて、神も助かる氏子も立ち行くあいよかけよの世界、合楽し合う世界拝み合う世界がこれから頂けれるんだと。そこに気付かせて頂いたのが、いうならば私にかけられた神の願いが成就致しますように。そなら神の願いが成就する事の為に、私共が艇身しなければならないという事なんです。それに没頭しなければいけないのです。起きてくる一切が、いよいよ神様の願いが、私にかけられておる願いが、成就する事の一つの一段階だ、二段階だという頂き方なんです。

 だから楽しいです勇気が出るです。それがわかって来たら、いよいよ実験実証が、も目の当たりです。昨日の朝の御祈念にお参りしておいでられる、最近毎日参ってみえられる方が、いよいよ合楽の信心の素晴らしさに、本当に傾倒される。昨日この合楽の御造営が、御神願の成就の一段であるという事が、わからせて頂きました。神様が先に立って、あの御造営は始められておる事がわかりました。どうぞ親先生、私にその御用を受け持たして下さい。

 私に今のところとても出来そうにございませんけれども、五百万お供えをさして下さいというお願いがございました。私はそれをお取次させて頂きながら、私のこりゃ人間心であったなぁと思った事は。まぁあぁ言いよんなさるけれども、もうそれこそあてせんで待っときますというような。私は皆さんがあるです。一千万とか一億、一億なんかという人があるのです。だから全然こっちが相手にする気がせんのですよ、口で言うばっかりで出来るもんかいち私がこう思うわけです。

 けれどもいやしくも、ここでお取次を頂かれるのですからね。はいはいと言うて、けれどもそれこそあてせんな待っときますと言うのですけども。昨日もそんな感じでした、私は。そしたら神様が私に下さる事がね、「あてして待つ」と頂いたです。もう私はびっくりしました。これは今まで私の考えが間違うとったと思うたです。あてして待たれるんです。何故でしょう。そこでんならばです。私が過去に思ってきたようにです。いくらお供えさしてもらう、まぁあてんせんで待ってる。

 ま出来てん出来んでんよかと言った様な感じでしたけども、そういう事になる事は神様が、あてして待っておられるのに、あてにならんのですから、あの氏子はもうあてにならんという事になるのじゃないでしょうか。あてして待っておられるのにそれをすっぽのかすのですから、結局真の信心とは、神様の願いが成就する事の為に、参画する事なんだ。合楽のいわば今合楽建設の一環として、ね。信徒会館建立と言う様な、ま合楽としては大きな大事業が起こされた。

 それも教会長大坪総一郎が起こしたのじゃない。神様が起こして先頭に立って働いておられる。その働きにいうならば参画させて頂く、という事が真の信心だと。真の信心のいうならば、ま行の上にというかね、もう実際行動に表わして行く事の為の、これは真の信心です。またそれが内容的に心の上になされる心行とか、家業の行とかがありますよね。これはもう絶対間違いのない合楽建設に、私共が参画させてもらうという事は真の信心。そこでお役に立ちたいと思う。お取次を頂く。

 自分にはとても出来そうにないけれども、それを真剣にお取次を頂いてるのであるから、私はまあてして、あてせんな待っとこてんなんてん言う心がけは、これは私自身のこれは間違いであった。そしたら神様があてして待つと仰った。そのあてして待って下さるほどしの事だから、その願いが一貫する時に、その願いが成就しないはずはない。初めてこの氏子はあてになる。いうなら神様の御信用がそこについてくる。神様の御信用そのままが御神徳なんです。私その事を頂いて昨日研修のこれを芯にしてね。

 お互いがどうぞ私にかけられた、神様の願いが成就しますようにというて、お願いをしよろうが、てんなら神様がその願いが成就する事の為に、様々なその手立てを悲しいこと苦しい事腹の立つ事と言った様な事の中から、ね。本当なものを求めてくれよ、身に付けてくれよ、という腹を立てるだんじゃなかった、悲しむどころじゃなかった、御礼を申し上げる事であったと言う様にです、受けていくという事にならなければ、神様の願いがあなた達一人一人の上に成就しないよと。成就しないどころではない。

 折角そういう願いを立てたのに、そういうおかげを頂けれる手立てを、こちらから押し返すような事になるのですから、これは神様に対して御無礼になるよという話をした事です。なら今の真の信心のいうなら合楽の建設という事に対して、どうぞこれこれのおかげを頂かして下さいと願った以上、神様はよしと引き受けて下さる。それこそあてして待って下さる。そこで私共がもうお願いしとるけんで、神様がおかげ下さるじゃろと言った様なもんじゃないという事。

 まぁ出来るだけと言った様なもんじゃないという事。どうでもというその一心と、神様があてして待って下さる、その働きとが一つになってそれが成就する時に、この氏子は確かな氏子であると信用がつくはずでしょうが。それにまたまけときまっしょという信心が出来たら、もっと素晴らしい事になるでしょう。五百万と思いよったけども千万のお供えが出来たという事になれば。あのね今日私が皆さんに聞いて頂く御理解は、神がものを言うて下さるという事は。

 ここからが神がものを言うて下さる事なんです。その神様はならどういう神様の本質というか天地金乃神様、教祖金光大神がいわゆる、祈るところは天地金乃神と一心と言われたり、天地金乃神と同根と言われる、その神様とはどういう神様かというとです。決して逆立ちしとかなんごたる修行をとか、それこそ人間の生身をもっておって、かえって不自然な修行を求め給う事のない神様であり、人間らしい生き方をしながら、それでいてその気になれば出来る修行を求め給う。

 しかもそこには清濁あい呑みではなくて、清濁一如といういうならば、天地金乃神様の本質です。そういう神様なんです。そういう信心。そういう神様を私共が頂きながら。真の信心を目指す。結局天地金乃神様が願ってござるのは真の信心であり、そしてそれに伴うところの真のおかげ、というのは人間が人間らしう、それこそ一切のものに恵まれ続けながらおかげを頂いていけれる道手立てがね。

 神がものを言うて下さると、いう事になるのじゃないでしょうか。もう一遍私共はです。簡単にどうぞ神の願いが成就いたしますようにと。それは教会の上にも私一家の上にも、私自身の上にも、そういう願いを立てなければなりません。そしてそれが本当に成就していく為の手立てを、本気で忠実に受けていかなければならんという事でございます。

   どうぞ。



[Return to the List]

[Return Home]


Copyright (C)