昭和54年11月10日 月次祭



昭和54年11月10日 月次祭

 只今あのお祭りを奉仕させて頂く前に、お取次ぎをさせて頂いた方の中に色々とお願いがございます。そのお願いの中に、この頃はもう孫が非常に悪くなりまして、ちっとおとなしゅうなりますようにと、言う様なお願いがありましたから、それはお願いじゃなくてお礼を申し上げにゃんといけんとよというて、まぁ申しました方がございました。私共はお礼を申し上げねばならないことに、不平を思うたり不足を思うたりしておったんでは、神様の心が分かったということにはなりません。

 神様の心が分かれば分かるほど、もう全てのことにお礼が言えれる信心を頂きたいと思います。心からお礼を申し上げる心は、もうそのまま次のおかげを頂く元になると仰せられるのです。私は大阪のお話に参りましたときに、朝の食事を頂きます時に、あちらで粥食の定食がでました。いやぁほんとに私がお粥さんを頂いておることを、まぁ聞いておられたのでしょうか。ホテルでちゃんとその準備をしておって下さった。その事を神様にお礼を申させて頂いておりましたら、礼という字を頂いた。

 あの略した礼ですね。ネを書いてこうしてこれが魚釣り針になっておるところを頂いたんです。ネを書いて礼という字、ですからお礼を言うということは、心からいえるということはもう次のおかげの受け物、いうなら吊り上げる元がでけておるという程しに素晴らしい事なんです。お話の中にもだからそんなお話しが出てまいります。三代金光様ある時にまだ御在世のことですから、ある教会の先生が何かご挨拶においでられた。幾人ものお孫さんたちが、まぁそれこそまぁいたずら盛りのお孫さんたちがおられる。

 で金光様の部屋に入って来てもうとごえなさる訳ですね、この辺の言葉で申しますとまいたずらざかりですから、で先生が「金光様お賑やかでございますなぁ」と申し上げたら、金光様が「はい良く働いてくれます」と仰しやったそうです。ほんとにあの子供が暴れるとかいたずらをするとかと言う事は、もう子供は子供なりに働いてるんです。例えば子供が寝付いた。さぁ枕元におってやらんなん、熱がありゃ冷やしてやらんならん、腹が痛いといえばもんでやらんならん傍を楽させること。傍を楽させておるのです。

 ですから信心はね、もういよいよ全ての事にお礼が言えれる、内容を頂いていかなければならんということになります。今朝方から朝のご祈念に、ここの山田の石垣という所から、高山さん総代の高山さんとこの近所のおじいさん、中野順吉さんと申します。もう七十幾つでしょうか、毎朝自転車で朝参りを致します。今日は朝お湿りがあっとりましたから、い合羽を着て、自転車にその電気もつけておられなかったんだそうです。して真っ暗いなかに真っ暗い格好をして乗って来ておるから分からなかったんです。

 後から自動車が追突した。ほいでもうはね飛ばされてから、第一もうその歯が入れ歯ですから飛んでしまうぐらいですから、ずい分ショックがあった。それでもまだそのまぁ軽かった。後からもうほんとにあの追突受けて、そのまま即死しても仕方が無いほどしのことである。額口のとこをこう切って、どこかこの辺のとこを少し怪我をしておられた。ほれどもうその真っ暗すみで、あのう歯を拾うてそれからその運転手さんがすぐ病院に連れて行きましょうというたけれども。

 いいやもう私はそこの金光様にお参りしよるとですからもういいですというて無理に、その自転車はもう押してこなければならない、牧ですからずい分ここから道のりはありますところを自転車を押してここへ到着された。すぐ先生方があのお神酒をつけて、そしてこう御神米をお祭りしてあげたんだそうですが、んなにこうしてここへお礼に出て見えましてから、こう広大なおかげを頂いて、有り難うございますというて頭が上がらんぐらいであった。実は先生今日は私はというて、懐の中から便箋を出されるんです。

 その便箋にもう昨夜からだから書かれたんでしょう、もう御造営が始まって御造営御造営と思うとりましたら、ご都合お繰り合わせを頂いて、今日はこのようにして御造営のお供えが出来ます。おかげを頂いてお礼を申し上げて下さい、それこそ貧者の一灯で釘一本にも当たらない様な事ででございましょうけれども、どうぞお供えをして下さい、というもうそれを懐ん中に入れて来ておった事がです。

 そのもう医者にも行かんでもよい、歩いてならここまでそのまたお礼に出てこられる勢いを頂かれたという、いやおかげを受けたという実感を私は感じました。もうその便箋も、それこそ血染めの便箋です。お初穂もここにお供え、やっぱ血にいわば汚れているわけですけれども、私共が心を一心に神様に向けておる時には、どう言う様な事であってもそのまま病院にいってそれこそ、医療費をどれだけいうならば、汚れてそんな事をいう人すらが最近はあると言う事ですが。

 そうしても良い様な訳なんですけれどもね。いいえ私は金光様参っとりますとじゃから、というて自転車を押してここまで、そういうお参りをしておる道中、しかも懐ん中には神様にそれこそおかげを頂たという、その御造営費が入れてある。そういう思いで参っておるのにも拘らず、こういうことになってと、普通でなら言うところでしょうけれども、その神様に向ける心がただもう有り難いの一念で、それこそこで頭が上がらない程に感動してお礼を言うておられました。

 そのことを、私お取次ぎさせて頂いたら、もうそれこそ見事な山水の軸を一本、こう頂きました。山ね山水の絵です。どういうことだと思いますか。神様がねいうならば山というのは、修行というこでございましょうが水ということは、お恵みという事でございましょうが、修行でもありゃおかげでもある、めぐりのお取り払いでもありゃ、いうならばいうならば無い命でも、いうならこの位な事で助けて頂いたという、お恵みのことであったかも分からないのです。

 このお参りがでけてもしなかったら、どこでどう言う様な大きな、なら事故なら事故にあわれるかも分からなかったところを、そこ辺のところは私共には分かりませんけれども結局お礼をもうしあげることの、でけれる内容を頂いておかなければならない。どんな場合であってもお礼が言えなけ、言えれるおかげを頂きたい。

 昨日は戎浦さんのお宅で今度ご新築が見事に出来ました。それでお神様も御零社も一緒に、新たに求められてそれこそあそこは二間続きの十六畳でしょうかね、のお部屋にそれこそ桧張りの御神殿が出来まして、昨日は奉祭の式を、私が祭主の下におかげを頂きましたが、私はあちらで大変おかげを頂いて帰ってきたことがある。というのはあちらの奥さんが近所の何とか言う大きなお医者さんの婦長として勤めておられます。ですからその先生も特別参拝者として、ご参拝になっておられました。

 私の控えに見えてお茶を差し上げるというので、まぁお茶を差し上げましたんですけれども、一緒にその家を建てた大工さんという、建築屋さんが一緒でございました。まぁお二人の話を色々聞かせて頂いて、まぁ私の話も聞いて下さった。先生の話はテープでも何回か、ここの戎浦さんから聞かせて頂きましたが、私は先生の生き方と私の生き方が、信心と医者と立場は違うけれども、先生がいつもお話しの中に言うておられる人が助かることさえできればという私は思いで患者に当たります。

 よその病院でもこんな病人はお断りというようなのは、私のほうで引き受けさせてもらうと言う様な、とにかく、人が助かりさえすれば良いということを言われます。は感心なお方だなそれこそ最近のお医者さんは、医術よりもいわば医は仁術というけれども、仁術からいわば算術のほうになってると言う様にね、いわれる世評の中にあってです、そのお医者さんだけは人が助かることさえでければ、成程人物も立派なお方でした。

 それからまた色々話がその建築屋さんの話しでしたが、ほんとに見事な家が建ちました。しかも値段もビックリするように安うして頂いて、しかもあのこんな立派な材料を使うて第一間取りが素晴らしい、もう小さい所に心が込めてある使ってある。こういう所にまで心を使うてある配ってある、ということを私が申しましたら、私は先生この家を請合いますとねもうそこの方達が、とにかく喜んで下さいりさえすればよいと思います。だから晩もそのことを思いだすと、眠れないくらいに思いをいたします。

 こう決めておっても、はぁあれの方が良いなと思うたらすぐそれを訂正いたします。と二人の話を聞かせて頂いて、信心のある者でも叶わんなぁ叶わない、これなら繁盛するはずだというふうに思いました。信心させて頂く者はそういう心根に私共が、それこそ障子一重がままならぬ人の身であるという自覚、とにかく一切があなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだという思い込み。あなたのおかげで子を産むはみな親神の恵むところぞといわれるのに、自分が力んで、自分が産むのじゃない。

 神様が恵まれるところ、神様のおかげを頂かなければ、出来んということを、私共がその根底に、頂かなければならない。我無力である。ほんとに障子一重がままならぬ人の身である。その自覚に立ってそして、人が助かる事さえできればとか、又はもうとにかく商売人でいうならば、お客さんが喜んでさえ下されば良いと言う様な、店主であり院長さんであるならばね、必ずその病院は繁盛するでしょう。その商店は必ず繁盛一途を辿ることでしょう。

 それに信心させて頂く者はです、私でなにが出来ましょうぞということ、神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸動かれぬのが私達であるという自覚に立って、でけたら昨日今日のご理解の中に、そういう信心をさせて頂くということが、信心の根底にならなけばならないのである。今日は昼の研修ん時に人が助かるということ、ただあのお導きをしたり病気が治んなさった、あぁいうその迷うておられたところに、合楽にお導きをしたら、ほんとのことを教えてもろうて幸せをなさったと。

 言う様な程度のものではなくて、真実の助かりそれはいうならば人が助かりさえすればという精神であり、同時に障子一重がままならぬ人の身、いうならあなたのおかげを頂くより他に手は無いと、わからせて頂く信心、そこまで頂けた時にもう助かりの一段階行ったというわけです。だから参っておるから拝んでおるから、助かっとるということじゃない、この頃がこのおかげが成就したということが助かりじゃ無い。そういう心が私共の心ん中に培われてくる養われてくる、育ってくるそれが助かりの第一段階。

 同時に今日皆さんに聞いて頂いておりますところの、いうならばお礼を申す子供がいたずらをする悪いことをする、それこそ金光様じゃないけれどもよう働いてくれますと、お礼が言えれる信心。それを私どもが不平不足を思うようなことでは、まだ信心が分かっていないと言う事になるのです。よう働いてくれますとそういうときに言えれる、いうならば、口でいうだけでない心からそれを思わなければいけんのです。

 そこで本当の助かりというのは今申しましたようないわゆる、何々病院の病院長やら、その建設会社の社長さんやらで、が言うておられるようなことが、私どもが絶えず言えれる思えれる商売人であるならば、ほんとにお客さんが喜んで下さるような商売とは、と思いだしたら晩眠れんくらいに思いだすという様な商店主になったらば、必ずその店は繁盛する。どげんして儲かろうかと、そろばんばっかり弾いておると言った様な事では、本当本当のいわば利にも得にもならない。

 だからそういう一つ心がけにならせて頂くような、おかげを頂かなきゃならん。そして今申しますどの様な事にでも、心からお礼が言えれるというときに、その人の信心は本当の信心であるということになるのであり、助かっておる人の間違いのない、考え方であるということになるのです。自分の都合の良いことだけは、おかげを頂いておるという、信心しよってどうしてこういうことが起って来た、来るだろうかというたらもう信心は留まっておると仰せられる。

 そこを私どもが一段と次の信心の手がかりを求めて、信心を進めて行くということが大切でございます。四、五日前でしたでしょうか、あるお婆さんがお参りになりました。もう八十幾つで元お若いときに熱心に、成長の家を信仰されたということを聞きましたが、非常にだから物分りが良い、もう八十幾つ御自分もまだそのいろんな稽古事をいろいろなさる。御習字の習字の稽古などにも行かれるというぐらいに、まぁ開けたお婆ちゃんです。もうそれこそお金はいくらあるか分からんというほどし。

 もうそれこそお城のようなお家に住まわせて頂いて、それこそ何百万円もしただろうと思われるような、私そこへ一、二回お邪魔したことがありますけれども、それこそ見事なお仏壇が拝んであって、もうほんとにまいうならば結構毛だらけ、と言う様な生活をしておられるお婆ちゃん。今日お参りになってからここでお届けをされるのに、「今朝から親先生私はもう淋しゅうして、淋しゅうしてこたえん」とこう言われる。「あなたが淋しいてどこをしたらそげん淋しい」とその思うけれども。

 けれども心ばかりは、どうにもでけんもんですなぁと。ここで嬉しいここで有り難いと思おうと思うても思えない。どこをじゃそんなら、そんな淋しい心が出てくるかと、私共 思うようだけども、淋しいという心はどこにもどうにもしょうがない、持って行き様がない。今日はこちらへお話でも頂いてからと、心を開きたいと言う思いでお参りになったんでしょう。もうそれこそ私が四時半、研修にも一番前に出てきてから、その研修を受けられます。もう若い先生方ばかり、いうなら難しい信心が、もうこう理解が出来られるもようですね。

 でその日はもう私は下がりましけども、まあのうそれからまた末永先生の所に行ってからいろいろ、話を求められたということですが、今日もやっぱりお参りになりました。それでやっぱり研修も受けて、もう一番前に来てから一生懸命、みんなの発表やら私の話やらをお聞きになる。助かりたいんです。だから助かるということは、立派な家に住んでおるとか、百味の恩食を頂いておるとか、いい着物を着ているとか、良い家に住んでおるということだけではないことが分かります。

 どこをおせばそんなに淋しいのですか、と言いたいのですけれども、淋しいということは、事実どうもう隠しようがない、自分にもどうしようもないほどしに、淋しゅうなってくる。私どもが段々信心をさせて頂いて、それこそ一年一年有り難うなってくる信心させて頂くということは、位がついていくと言う風に、教様は教えておられます。位がついてくる一年一年有り難うなってくる、そこで私どもがしっかりいまのうちにです、若いうちにです、これは若いうちということではないですけども。

 信心の根底になるところの、天の心地の心を分からせて貰い、その天地日月の心になること肝要と仰せられる様な信心を、本気で稽古しておかなければならない。そしてどの様な事の中にも、一切が神愛であると言う事を分からして貰わなければいけない。そしてどの様な事にでも、お礼が言えれると言う様なその心を持って、人が助かる事この助かりを人にも伝えずにはおかん、とにかく人が喜びさえすればと言う様な、心の状態で生活をさせて頂いたら、どんなにか有り難い事だろうかと私は思います。

 それはただお参りしております、何十年信心が続いておりますだけではいけんのです。世の中にはなかなかやはり変わった方があって、信心はないけれども、そろばんを抜きにして、人が助かりさえすればよいと言う様な、お医者さんがおられるかと思うと、それこそビックリするように値段も安うしてさしあげられた、そして素晴らしい材料も使ってあって、しかも見事なその間取りを作る為には、自分がその思いだしたら夜眠られん位に、思います考えますというように。

 人が喜ぶ事のためにいうならば生きがいを感じておられるという大工さんがおられるくらい、信心によって私共はそれを体得する。そしてその信心のいわゆる根本的なところから頂いて、全ての事にお礼が言えれる、と言う様な信心を頂きたい。ちょうどそのお婆さんのお取次ぎをさせて頂いた前後に、久留米の井筒屋さんから、特別なんか売り出しのお手紙が参りました。特別ここは会員になっておりますから、会員の方達に五割引というね、その切符も入っておる。

 でこう開いてみて開いてみたところが、こうやってたたんであってそれが裏のほうが、あのいわばもちろん何も書いてないんですけれども、だから裏に私がねそのずっと書かせていただくこと、その上にねただご案内と書いてある。井筒屋とも書いてない。なぁんにもないただご案内と書いてある。そこで私はそこの横にね墨で、「合楽世界へのご案内」と書いた。私の心の中にはそのおばあちゃまの事を思いながら、そしてそのおばあちゃまに、これを差し上げようと思うて書いたんです。

 こんなそしてこれを書かせて頂いて読ませて頂いたら、これはこのお婆ちゃんだけじゃないな、合楽にご神縁を頂いているみんなの方に、この事を教えてあげるべきだな、と思ったから私は、大坪総一郎様と来とりますから、大坪総一郎様ほか御信者御一同様とここに書いた。そいで研修のときにんならこれを信者に印刷してから配りますか、ちゅうて先生方が、配らんでん今度の月次祭のときに話そうというわけです。だから皆さんそのつもりで他御信者ご一同様。

 いうならばそれはどこから来ておるか、天地から神様から皆さんにいわば、半額大売出しのまぁいうならばお手紙が来たと思うて聞いてください。ここにご案内とだけ書いてある。だからここに墨で書いとる。合楽世界へのご案内、お互いが極楽のもう一つ向こうにある合楽世界に住みたいのである、助かるだけではない神様も共に喜んで下さる、合楽しあえる世界への、いうならばご案内でございますからね。どうぞ「身に余る、おかげの世界に住みながら、何ゆえに起るこの淋しさはと。

 ならば信心しておっても手厚ういただいとっても、どうして今日はこんなにイライラするだろうか、ようと考えてみるとそんなに腹立てることじゃないけれど、腹が立って仕方がない、と言った様な事があるでしょう。やはり助かっていない証拠なんです。次にだからこれは連歌です「報恩の心起こせ喜びは、願わずとてもおのずから湧く」とあります。恩に報いると。つまりそんならどこの、どげな恩に報いんならんか、というのが今日のご理解です。

 どの様な事の」中にでもお礼が言えれる心というものがでけてこんならん、報恩の心起こせよ喜びは願わずとてもおのずから湧くという、この喜びはどこから沸いてくるのであろうかと思われるくらいに、心が生き生きと感動で一杯になってくる。この喜びはあの世までも、持って行かれてこの世にも残るものぞと悟れがしとございます。そういう信心の喜びこそが、あの世にも持っていかれこの世にも残して於けるというものだと、いうことでございます。

 して中にこういう半額券がはいっとる。五割引のこれ持って行くと五割引で買われる、だから私は裏には半額券を書いた、これを持って来るなら合楽でおかげが半額で頂かれる。おかげがおかげじゃない御徳なんです、御徳の大バーゲンと書いた。只今合楽ではその御徳の大バーゲンが、いわばいうならばそういう催しが、そういう売り出し中なんです。昔から言われます教会に何かという時が、御徳の一番受けやすいチャンスを与えて頂いたようなものだということなんです。

 今御徳の大安売りがあっとるのです。それこそ今日の中野順吉さんじゃないですけれども、そういう例えば死ぬか生きるかと言う様な事故にあいながらも、医者に連れていくということを断って、いいえ私は合楽の教会にお参りしておる道中ですからと、それは自分の心の中に入れてきてあるところの、神様へのいうならば真心をです、持って参らせて頂けておるその途中であった。その思いを貫かなければ、そこにはもうそれこそそういう事故に合いながらも、ここで頭が上がらんほどの感動が沸いてきた。

 その感動こそあの世にも持っていかれ、この世にも残しておけるという程しの、ものでございます。神様はその中野順吉さんのその事をです、いうならば私の心眼には見事な山水の軸一本にお知らせ下さったが、山水とはいうならば修行と言う事、山、山のお知らせは修行と言う事。水はお恵みと言う事、修行にいうならばおかげお徳のは付き物である。そういういうならばおかげの頂けれる時期に合楽はあります。それこそ秋永文男先生じゃないけども。この御造営ができた時に私は徳を受けたというなら受けただろう。

 私は以来百万円という金だけには不自由しないと言えれるほどしの、一つお徳を受けて頂きたいと思います。もうこれは皆さん一人一人に出しませんからね。まぁここで手紙屋さんから受けられたと思うて、このことを一つ頂いて帰って御信者ご一同様へ、これは申し上げたのでございますから、聞き漏れておられる方達には、皆さんからお伝えを頂きたいと思います。

 このイライラとかこの不安心配というのはどこから、来るかそれをやはりつめていかなきゃいけない。そして分かる事は成程お礼不足である事に気付かせてもろうて、報恩のいうならば真を尽くし捧げていかなければならない。そこからは頼まんでも願わんでも、どこから起ってくるか分からない感動を喜びが頂ける。その喜びこそが徳でありその喜びこそが、あの世にも持っていかれこの世にも残して置けれるという、信心のギリギリの願いであり、また神様の願いであり。

 私共もまた求めてやまないお徳の事でございますから、せっかく信心をさして頂くのですから、このこと一つ二つ頂いたからぐらいなことに腰掛けずに、本気でいうなら今日病院の先生の人が助かることさえできればとか、人の喜ぶことでさえあればとそれを思いだしたら、夜が眠れないというぐらいな、いうならあそこの神様に喜んで頂く心をいよいよ持って、育てていかなければならんというふうに思います。

   どうぞ。



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