昭和54年7月9日 朝の御理解



昭和54年7月9日 朝の御理解

 御理解 第72節 「人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし。」

 軽う見たらおかげはなし。重く見るという事は、私は神の氏子としての見方が一番適切だと思うですね。もうあいつはつまらん。あんやつは、という事ではないと思います。その人その人のひとつの神性を見る。神の性を見る。昨日は南筑の連合会、三十二ケ所から教会が、大善寺教会で信徒大会が開かれた。それに講師を是非、合楽からという事で指名して、ここにお願いに見えました。城島教会の総代さんで、有名な方がおられます。その方が見えられまして、昨日朝から綾部さんがあちらへ行かれました。

 昨日、城島の総代さん方が二人で送って見えて、まぁ大変丁重に御礼のお届けがございまして、丁度応接間でお茶を上げよりましたら、秋永先生が、昨日は松影会でございましたから、帰って参りまして、秋永先生も大変懇意な方達でしたから、とうとう夕食まで一緒にお上げした様な事でした。が、そん中にいろいろな話がございまして、秋永先生が昨日、松影会で今度松影会の総会が七月か八月にあるそうですが、鹿児島の行徳先生の息子さん、若先生にお願いをしたいという話になったそうです。

 そして、出来るだけ誰にでも分かるようなみやすい話をして頂きたいという、皆の願いであったそうですけれども。秋永先生が、それに対してこんな事を言っておるのです。そういう事では助からんち。そげなこつじゃなくて、例えば鹿児島の若先生、行徳照磨先生のぎりぎりの信心を聞こうじゃあないかと、一生懸命の信心を聞こうではないか、わけが分かろうが分らんは別として、それじゃあなからにゃおかげ頂かれん、というて申しましたと言う様な話をしていました。

 確かにそうだと思うですね。仏教的にいうと座を見て法を説け等という事を申します。けれども、それは自ずと出てくるものであって、やはり説く人の一生懸命のものが出て来ない限り。私は丸少に話すでも私は一生懸命の話しをします。分かる分からんは別として、やはり丸少は丸少なりにおかげを受けるです。こう言う様な事も私は人を軽う見る事じゃないだろうかと思うですね。しかも初心の人か、信心のない人を前にしてならとにかくも、いうならば久留米の歴々とした御信者ばかりが集まる松影会にです。

 程度を落として見易い話をして貰いたいという皆の願いに対して、秋永先生がそんなこつじゃ助からん、折角なら助かる話を聞きたい。だから照磨先生も言うならぎりぎりの信心を聞きたい、一生懸命の話を聞きたい。と言う風に言ったといっております。昨日城島の総代さんが、久留米に坂本というキッチンセンターのなんか、あれをしておられる。そこの本家の方かなんかという事だったそうですが、長年信心をしておられる。それが先日から壱岐の方へ商品を送った所が、七十万ばかり引っ掛ってしまった。

 それでもう、向こうにゃまだ自動車があったり、色々あるから今の内にそれを取ってでもそのしたがいいだろうか、どうだろうか、すみませんけどお伺いして頂きたい、と言う様な事でございました。神様に私はお願いをさせて頂きましたら、数字の7の字をこう頂いた。それが丁度鍵のようになってこの様になっているね。引掛けられたとこう思っている、70万引っ掛ったと思っている。

 それ例えば、まだ自動車なら自動車があるから、それでも取って来てもという事でございましたけれども、御神意を伺ったら、『引っ掛ったと思う心がおかげにならん。』と神様がおっしゃったですね。そして神様にお願いしよりましたらね。漢字の八の字を頂いたんです。どういうことでしょう。あん人は悪いやつと思うから、悪いやつになってしまうのです。そりゃ、成る程世の中には悪い人も居ります。けれども、その神性を見る事が信心なんです。ね。

 だから、相手のお繰り合わせを願って、引っ掛った引っ掛ったという思いではなくてです、それこそ「やれ痛や今霊験を」ぞという心になりなさい、と私は申しました。「はあ、その御教へなら私も知っとります」だから、知っとるだけじゃいかんち。ね。やれ痛や今霊験を、はぁ七十万という言うならば、引掛けられた感じですけれども、その人が自分のめぐりの、お取り払いをして下さったと思うたら、有難いじゃあないかと、先方の事を願いなさい。必ず八の字になるよと。

 この八の字になるという事は、もうその七十万が、返って来たというだけじゃあないです。それが店の上に、また繁盛広がりに広がるおかげになって来るのですから、信心とは不思議、微妙なもんですよというて、お話させて頂いた。こりゃあそりばってん、改めて私共も分からなければいけない事ですよね。あんやつは悪いやつだと、それはぎりぎり相手をいうならば軽く見たわけです、ね。7の字これは引掛けいる、あんやつから引掛けられたと思うから、相手もとうとう引掛けてしまう事になるのだ、ね。

 だからやれ痛や今霊験をという心は、めぐりのお取り払いをあの人を通して頂いたんだと、そしてあの人もきつかろう辛かろうから、どうぞ万事にお繰り合わせを頂く様にというて願えと。「そんならそんな風にどうでもお願いします。」というて帰られましたがね。まぁ本当に私は合楽でこういうね、御理解を頂けるという事がね、まぁ本当に有難いというて帰られたんです。これなんかも人をやはり軽う見る事だと思う、ね。昨日午後の奉仕の一時の御祈念が終ってからでした。

 行本先生がここに出て参りました。「先生、只今直子さんの部屋に参りました。そしたら丁度、親奥様を中心に若奥さん達が二人、それにお孫さん達がいっぱい、それに丁度栄四郎先生も見えたり、また椛目のスマ代おばちゃまも見えて、もう和気靄々の中になんともかんともいえない雰囲気の中に、昨日奥様の誕生日というので、皆が持ち寄ったもので、お茶を飲んで居られる所にまいりまして、私もその雰囲気に浸らせて頂いてもう、感動で感動で足りませんでしたというて、涙ぼろぼろ流しよりますもん。

 こちらまで胸が一杯になったんですけれども、そしたら神様から、私が頂きます事がね、『拝み合いつつ拝みつつ 共に磨きつ磨かれつ、今日の喜び何にたとえん。』という歌を頂いたんです。「夫婦の者が、家の父ちゃんなとか、家の家内はと」もうすでに家内を軽く見る、父ちゃんを軽う見とるわけです。お互いがですね、それこそ拝み合いつつ拝まれつ、そういう夫婦にならねば、本当の夫婦 愛とは言えないとでしょうもん。そこから生れてくるものでなければ、よいものは生れてこないと思う。

 お互いに、共に磨きつ磨かれつ。私共が結婚を致しましてこの方、私は結婚の時に、神様にどう言う事があっても、どんな事があっても、決して手を当てる様な事は致しません。これが私が神様への結婚した時の第一の誓いでした。私昨日もね、研修、昨日は青年会の方達が、一夜信心実習のここでやっとりましたから 、研修を一緒に致しました。それで、昨日の御理解を、皆まとめておりましたのを聞かせて貰いましたが。

 今日はプロとアマの違いがどの位あるか、一つ青年会の方達もまとめて発表して下さい、と言うとりましたから、先生方のも聞かせて頂いて、その青年会の方達のも聞かせて頂いた。もうアマとプロのその違いがない。素晴らしい。今日は塗板に書くのは、青年会の方達のを書かせてもらおうという位に素晴らしいまとめが、皆さん出けておられました。そして昨日の御理解の中からね、本当に分かっただけじゃあ出けんて、ね。例えばね、もう腹を決めた所からおかげになるんだと。

 昨日の朝の御理解、もう「腹を決め る」という事だと、例えば私がどんなにきつかっても、「あぁきっつぁ」と言うたら神様が、いうなら疫病神というか死神が集まるとおしゃった。「あぁきっつぁ」、というそれは。だから貧乏しとる人が、本当に貧乏の苦しみをいうならば、貧乏神がいうならばついて離れない、ね。福の神がつく為には、いつもそれこそにこやかに、どんな場合であっても有難い勿体ないでゆくならば、言うならば貧乏神に代って福の神がつくと言う様な話をしたんですけれども。

 だからもう「悔やまんぞ」と決めたら、悔やまれないことに腹が決まった所からおかげになるです。ね。だから、知っとるだけじゃいかん。それをまた失敗しました、と言う様な事ではね、おかげにはならんです。昨日、城島のその総代さんが言っておりましたが、大変おかげを頂いて、三つも会社を 持っておられる方だそうですが、大変難儀な所を通ったんだそうですけれども、私は以来御本部参拝をもう毎月月参りさせて頂きます。「親先生と一緒にですか」「いいえ一人で参ります。」

 親先生は参りなさらん。けども毎月お参りします。もうどげん参られん様な事があっても、金がなくても、これだけは私は何十年か続けとるち。腹を決めたら、それが出けるんです。朝参りをさせて頂こうと腹を決めたら、絶対出来るです。その「決める」所からね、おかげになるです。私がもうきついとは言わんぞと決めたら、その時点から私が、きっつぁきっつぁを言わんで済む様なおかげを頂いて、あれ程飲んでいたお水を飲まんで済む程に、形の上に現われて来るでしょうが。ね。

 腹を決める事だと。だから今日は素晴らしくまとめておるけれども、そのまとめてお るのはどうでもよいけれども、今日の芯は、兎に角皆さんの信心それぞれの程度に応じてでよいから、腹を決めるという事を今日はね一つ頂いて帰りなさいよ、というて青年会の方達に話した事でした。これなら神様に通う、これなら神様に通うていけれるという程しのものを、何かもう腹を立てんと 決めたら腹を立てんね、徹底してそれをする。ならばそれこそ腹立ちゃ馬鹿らしかという事になるです。

 ここまでおかげが来よたっちゃ、腹立てちばっかりおったら、向こうへくるっとひっくりかえって行くです。おかげは。腹を立てんという事は、そんなに言うなら神様の心に叶う事なのです。だから今日の御理解でいうならば、ね、人を軽う見るような事はしないという生き方を。ね、例えばね、人を軽う見ないというだけでなくてです、相手を拝むという事が、その反対だと思う。人を軽う見ると言う事は人を重く見る。重く見ると言う事は、その人の中にある神性、神の性を拝むという事。

 だからね、相手を拝むという事がです、そん為には、私は家内との何十年間の夫婦生活の中でです。これこそ私は本当ただの一回でも手を当てた事はないです。そりゃもうほんなこて、ここでもうベンプ(ほほを)はじきまわしたらどげん気持ちよかろうかちゅう事がないじゃなかったです。あったです。けども、金光様金光様でやっぱ辛抱させて頂いて、今日まで家内に手をあてんですんだ。これからも、恐らく手をあてるようなことはないだろうとこう思います。

 昨日は、もう本当に皆さんの方が、ちゃんと家内は六、七、八なんです誕生日が。大正六年の七月 八日なんです、六七八だから忘れんごつ、忘れんちゅうが忘れにくい、忘れんですむようなんだが、こちらはころっと忘れとった。そしたら、皆さんが親奥様のお誕生日お目出度うございますと、いろいろプレゼントして下さったり、あらあ今日は家内の誕生日だったんですね、と言うた様な事でしたけれどもね、家族中の者が家内のその、お誕生日のその雰囲気を見て、感動する程しに。

 まぁ行本先生が感じたと言う事をです、どこからそういうものが生れて来たかという事。それこそ、私共がそれこそ拝み合いつつ拝みつつ、共に磨きつ磨かれつ、そして今日の 私共の夫婦がある。そこからです、本当にこういうおかげを頂いてもよかろうか、こういうおかげの中にあって勿体ないという日々を過ごさせて頂いてです、今日の喜び、何に例えようもない程しの有難さということになってくるのです。先ず拝む事から始まらねばいけないと言う事が分かりますですよね。

   どうぞ。



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