昭和53年11月11日 朝の御理解
御理解 第五節 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのぢゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
教祖様が、拝んでござる神様の本質と云うか。まず私共は、分からして貰わなければいけません。そこが分かりませんと、どうしても片便の願ひ捨て的な信心になってしまいます。それでも一心を立てれば、我が心に神がござるから、おかげになるのぢゃと云うのは、ただ願行の事にだけ一心になる。一生懸命に拝むとか、お参りをするとか、ね。ただ塩断ちと云ったような、昔からそう云う行がございます、ね。または断食を致しましたり、水を被ったりと。まあ、昨日の御理解ぢゃないですけけれども、それこそ子供を助けて下さい。私の命は差し上げますと云ったような、信心を願行だと。そう云う、そう云う信心は、所謂片便で願い捨てだと。それでもやはりおかげを受ける。それは我が心に神がござるから、おかげになるのぢゃと教えておられます。
そんならお道の信心、金光教の信心をさせて頂いとる人達がです。神様がもの云うて下さる、ご返事を下さる。云うならば、御理解を申し聞かせとある。
その御理解を、神の心を様々な角度から御自身が頂いておられる神様、御自身が拝んどられる神様のお心を、御教え、神戒、神訓、御理解と云ったような、お話をして下さる。所謂、ものを云うて聞かせて下さる。聞いておっても、それを実行しないとするならばです。もうそれは、聞かんのと同じぢゃないでしょうかね。それを守りもしない、実行もしないならばです。やはり片便の願い捨てと云う事になる。
それでもやはり、おかげを頂いておるからお参りもする。それは我が心に神がござるから一心を立て、所謂一心に拝む、一生懸命にお願いをする。そして朝参りをさせて貰いますからと云うような。その朝参りが、なら朝参りのおかげ頂いて、おかげをただ頂くと云うなら、片便の願い捨て的信心と云うても、仕方がないですね。朝参りをする、そして神様のお心であるところの御理解をよく頂いて帰って、それを実行して初めて、生まれて来るおかげをね。云うなら神様のおかげだと云う事です、ね。
そう云う神様のおかげを頂かして貰う、ね。だからどうでも、お道の信心をさせてもらうなら。成程、話を聞いて助かる道と仰られる。話を聞いてその話が自分の血肉になって、肥、豊かになって来なければならないね。そのためにです。私どもが、教祖が仰る。この方が祈るところ天地金乃神と一心なり、と云うその神様を、愈理解しなければならない。分からせて貰わなければならないと云う事になります。
私どもが拝ませて頂いておる。天地金乃神と云う神様は、どう云う神様であらせられるかと。氏子信心しておかげを受けて呉よと。信心して、おかげを受けて呉よと云われるのは、一生懸命拝んでくれよ、一生懸命修行してくれよと。勿論、修行と云うのは願行のことですね。願行。今まで私どもが聞いてきた事と云うか、まあ特にこれは日本人だけぢゃないでしょうけれども、所謂、雑行的な行ですね。神様を拝むからには断食をしたり水を被ったりしてと云った様なものでなくて、信心しておかげを受けて呉よとこう云う、ね。だから信心しておかげを受けて呉よと云う事は。所謂、信ずる心、真心、神心と云うように段階を追うて、私共が我が心なる神様が、愈我が心に神がござるからおかげになると、ハッキリ仰っている神様が、生き生きとしてみえる。
その神様が、生き生きとしてみえるその心で、天も地も死んだことなしと云う。天地の生きた働きと、交流する程しのおかげを頂いた時にです。初めて教祖が仰る天地金乃神と一心なりと云う事は、こう云う事だなと云う事が分かる。
それを合楽では、合楽理念に基ずいて信心をさせて頂くと、神様の心が分かり。その神様の、心を行じずにはおれない、信心が生まれて来る。
お道の信心を頂いとっても、やはり片便の願い捨て的な信心で。それでもやはり、おかげを頂いておるとするならば。それは今まで、前代未聞の金光教と、宗教以前の宗教と云う風に、私は言っとりますが、そう云う信心を頂きながらそう云う信心をやはりありきたりの、云うなら今まで拝んできた仏様やら、神様と五十歩百歩である。ですから願いをやめる修行をやめたら、また新たな信心に、云うなら繰り返し繰り返しの信心をしなければならん。
天地の心を、愈心とする信心を、愈身に付けさせて頂いて。片便の願い捨て的な信心から、愈神様が物言うて下さる。そのお言葉を本気で頂き、そして行じて行く。そして、そこから生まれて来るおかげ、それを金光教で頂くおかげと云うのは、そう云うおかげを云うのだと思います。
今朝から、お夢を頂いた。Z『勿体無い。勿体無いと云うか、そんな感じで頂いておるわけですが。私が道を歩いておりましたら。その道よりも早道がある。その早道をしてそこに見えて、私にお礼を云わなければならんと云うて、私に行っておる。後から追いかけて来るのぢゃなくて。早道をして、私の向こうに出て来ておると云う人が三人あった。これが誰かと思うたら、昨日も大和さんの話をしたですが、そのとてつもない大きな大和さん、その人が息子を連れ、ちょこっとばかり小さい息子。そして孫も連れて来とる。そして所謂、親、子、孫と三人で、先回りをして、その私が通る道に待っておられる。そして云うならば大坪さんにお礼を云わんならんからと云うような』お夢であった。
私は本当に、びっくりしたですけとね。教祖の神様は、天地の親神様から、神が一礼申すと云われなさった。神様からお礼を云われる程しの、御信心を頂かれた。おかげで天地金乃神の、お心を段々に分からせてもろうて、真の信心をする者が段々出来て来て。世の中の難儀な氏子が、取次ぎ助けられる段取りが出来た。これから天地金乃神のおかげを受ける人が、段々に出来て来る。その元をとって下さった教祖様に、教祖様が。天地の親神様が、教祖様に一礼申すと言われた。これは私が、椛目のじっちゃまやら、ばばしゃま達が居りました部屋が出来た直後でした。その直後はあの部屋は、私が使っておったんです。
今椛目に妹が、使っとる部屋です。また次に出来た部屋。次々に、部屋が出来て行きましたからね。一番初めに二階が、広うなった時のお部屋です。寝ませて頂いておりましたら。お夢を頂いたZ『御本部参拝をしておる。そしてこちらの右の御結界ですから、丁度時計の下あたりのその辺の、<真中>辺の所に座らせて頂とったら、金光様が立ちあがんなさいました。三代金光様、あら、立ち上がんなさいました。あら、どこへおいでられるだろうかと思ったら、お広前の方へ降りてみえるんです。そして私がここに座っておるなら。丁度、斜め左手の畳一枚ばかり手前の所に、お座りになった、真っ直ぐ。そして私が斜め、ここに座っておる方へ向かって、じっと膝の向きを変えなさった。はーぁとまあ、それこそ切羽詰った雰囲気ですから、どうしたことぢゃろうかと思わせてもろうたら。金光様は、そのまま私の方へ向かって手をついて、深々とお礼をなさいました。』私は、その時分にまあだ、教師の資格も取っていない。それでも人がどんどん助かる。例えばお結界が出来たら、御結界が出来たと云うて、皆が周囲の教会の人達が騒ぐ。教会でもないのに。
そのことを金光様に、お届けさせて頂たら、右を左になさったら結構だとお知らせを頂いた。それでお結界を、左の方へ移すことになったんです。ですから私が、教職も持たずに、まあ皆の様々な噂の中にお取り次ぎをさせて頂いとると云う事が気兼ねであろうと、まあ暫く辛抱して下さいよと。金光様が仰っとられる気がしたんです。
ところが私は今日、大和さん。偉大なる大和さん、それからその息子さん、そしてそのお孫さん。所謂、親、子、孫三人が、私が通っておる道を早道して向こうへ回っておって。ここで大坪さんに、お礼を云はねばならん。と云うておられる、ね。
私は数十年前に、お夢の中に頂いたそれと、今日のことを思い比べてみてですね。合楽の信心の素晴らしさと云うのは、合楽理念が打ち立てられたと云う事です。数十年の信心を土台として、そして云うなら、最高の理念、ね。助かりの理念。それは釈迦や、キリストも説き得なかった。説き得なかっただけではない。いよいよ難しい、難儀な宗教。云うならば食べてはならん、こうしてはならんと云ったような厳しい戒律、ではない人間が人間らしゅう生きて行けれる。しかも有り難く、楽しう、愉快にまでなっ行けれる手立てを説いたのが、合楽理念なんです。
それは、なら天地の心を心として、それに基ずいた。人間が幸福になって行く事のための条件が足ろうて行くことの為の、天地の心であり、日月の心である。教祖金光大神の信心をさせて頂いて。只、今までかって百年の間に、成程おかげを頂いて来たけれども、それはもう大体に於てです。片便の願い捨て的な、おかげに終始しておったと云う事なんです。
教えを行じて、神の云う事を聞いて。そしてそこから頂け、表れて来ると云うおかげでなくて、片便の願い捨て的なおかげ。やはり一生懸命拝みもした、日参もした。様々な修行をしてでも、やはりおかげを頂いた。先生方でもそう。
皆それこそ大変な修行をなさった。特に、福岡の吉木先生の初代なんかは、もう願行に掛けては、吉木先生に右に出る者は居るまい。と仰る程しの願行をなさった。なら二代四神様もやはりなさった。三代様もなさった。そしてそこに表れて来るところの、おかげと云うのは。本当の、教祖が頂かれた御信心によって話を聞いて。その話が血に肉になって、そして限りなくおかげの頂けて行くと云う、おかげではなかった。
初めて、所謂、合楽理念が世に問われる。教えの云うなら、助かりの理念の生粋なものが出来て来た。教祖様でも、二代様でも、三代金光様でもです。今、合楽で云っている様な事は、感じておられなかったかも分らない。云うならば知っておられなかったかも分らない。けれどもその基は、教祖様の御教えにある。その御教えを、いよいよ探求した。いよいよつまびらかにして行った。そして、こう云う簡単なと云うと、誤屏がありましょうけれども。云うなら真っ直い、真の道と云うが、真の道に真っ直ぐに出られる。真の信心が出来れば、真のおかげが伴のうで来る、真の徳が受けられる。天地日月の心そのまま、此方が祈るところ天地金乃神と一心なり。と誰でもが頂けるような、手立てが合楽理念によってはっきりして来た。
その事をです、云わば教祖様がね。云わば大和さんの大きなお父さん、おじいさん。それから息子さんと、お孫さんと三人で。私が歩いておる道を、向こうの方へ回っておって。ここでお礼を、云わんならんと云う事は。ここで金光様が、大坪に一礼申すと云う事になるとぢゃないでしょうか。云うならば、自分の信心を、これ程までに、素晴らしい教えにまとめ上げてくれた苦労を、ねぎろうて下さろうと云うのぢゃないでしょうか、ね。だからそれ程しのものを、合楽では皆さん頂いてるのでございますから。それでもそう云うお話でも、人間の心の中にはもう生まれて来る時に、既に生神の芽が、ここに恵まれておるのだ、ね。
だからこれを育てるか、育てないかと云うところに、信心があるのだと。だからそれを育てる手立てと云うものを、例えば土の心を以てとか、または天の心、地の心を以て、または日月の心を以てと、説かせて頂いて。その生神の芽が段々生長して、云うなら信心、真心、神心である。
愈、天地の働きを信じ。愈、信心。愈もう生粋の神心。云うなら真心が生まれて来る。そして愈神心が募って来る。神心、神そのものが育って行っておる。そこにそれが枝葉とも、なり花もなり、実りともなる。これはもう限りなく、大きくなって行くおかげ。親の代より子の代、子の代より孫の代と、いよいよ繁盛してして行く様な、素を頂かせて頂くための信心が、合楽理念なんです。だからどうでも合楽理念をです、マスターする。
昨日も参って来て居られましたが、熊本の洋装店の方ぢゃないけれども。ここにお参りをして来る。成程、成程合点の行く話を聞かせて貰う。もう合楽理念の小さいパンフレットを、何回繰り返して読んだか分からない。そして云うなら天の心、地の心。その云うならば黙って治めると云う事を、本気で行じさせて頂いて。或所に、商品を納めに行った。ところがその商品が気にいらんと云うて、駆けつけられた。今までの自分であったら、もうそれこそ、こちらもかっとなって、掴み掛かって行こうごたる状態になったであろうけれども。それを黙って押し頂いて帰った。只、済みませんで帰った。帰ったらもう涙が流れて仕様がなかった。それは残念とか、歯がゆいと云う事でなくて、それを黙って、土の心で頂いて帰れる、自分が有り難かった。
合楽理念は、そう云う事が説いてあるんだと云うわけです。だからそう云う行の中にです。それが身に付いて来るところにです。それが血、肉になるところにです。所謂、天地金乃神と一心になり。と云う様なおかげが、誰しもがおかげが頂ける様に。しかもその気になれば誰でも、受けることが出来る。御神徳が、手立てがです。合楽では説かれておる。そう云う素晴らしいことが、出来上がって行きつつある。
その事をです。私は大和さんの云うならお父さん、大和さんの息子さん、大和さんの孫さんが、三代揃って私にお礼を言うておられる。言おうとしておられる。一言お礼を言わにゃおれない。と云う程しに、広大なものだと云う事を、皆さんが知って頂かねばならんのです。それを皆さんが本気で身を持って行じ、もう一心にお願いをする前に、頼んどりますと云う信心から、一心に土の心なら、土の心にならせて頂く事に、それを極めて行く信心をしなければ、百年金光教がたって今日、振り返ってみるとです。本当に話を聞いて助かり、話を、教祖様のみ教えがそのまま血になり肉になり、徳を受けた人はごく希である。やはり参りは居った、金光様風にはなっては来た。金光様もお祭りをしたことはしたけれども、そのおかげたるや、やはり片便のおかげ的に終始しておったと云う事になる。
なら合楽で、こう云う御理解を頂いとったても、只おかげを頂くと云う事だけに終始したら、やはり同じ。神様がお礼を云うて下さる程しの教えが、まとめてあるのにも関わらず。あなた方合楽に参りよってから、片便の願い捨ての様なおかげしか頂きよんなさらんですかと、云われても仕方がない。
合楽におかげを頂いて、私の教えを皆さんが、本当に皆さんが頂いて下さり、聞いて下さる方達はです。合楽理念が、いよいよ血肉にならなければです。此方が祈るところ天地金乃神と一心なりと、云ったような信心は生まれないと云う事でございます。どうぞ。