昭和53年11月7日 朝の御理解
御神訓 「陰と日向の心を持つなよ。」
あの人が良い人に見えたり、悪い人に見えたり。あの事柄が、難儀な事柄に見えたり、有り難い事柄に見えたり、同じ事が。
信心と云うものは、陰と日向の心を持つなよと仰る。云うならば陰の心を捨て、日だけで過ごせよ。裏もなければ表もない。そう云う生き方を、目指せと云うことなんです。ですから自分の周辺に嫌なこと、困ったこと、嫌な人、嫌な奴とよく申しますですね。自分が曲がり根性が強いもんだから、人まで曲っとるように見える、と云う様なことを申します。
確かに云うです。自分の心がね。それこそ教祖様の仰る日の心、明るい心。云うならば、それを云うと円満な心、丸い心。本当なことが本当のこととして分かる心。それが陰っておるから、その陰っておる部分だけが、困ったことに見えたり、悪い人に見えたり、と云うことになるのです。ですから自分の心の状態と云うものをね。困ったことだと思っておる時には、陰った心で見ている時です。あん奴はもうろくな奴ぢゃないと見よる時には、自分の陰った心で見よる時です。
それをなら、合楽理念を以て見ると、どう云うことになるかと云うと。一切が神愛であり、神願であり、皆が神の氏子だと云う見方をするのです。もう云うならば、純金光教の信心、信仰的見方なのです、ね。
あれもおかげであった、これもおかげであったと見る見方なんです。それが見えて来る様になるんです。ところがこれはおかげと思うけれど、これはおかげでないと云う見方をしておる間は、陰っておるのです。ですから本当だから限りがないです。けれどもやはり目指すところは、その心なんです。すべてが神様、一切が神の願いの表れ。あの人も仏様のような人、あの人も観音様のような人だと云う様にね、見えて来る稽古なんです。
確かに自分の心が曲っておるから、人まで曲っておる様に見えるのです、ね。昨夜、丁度最後の御祈念を終わって、寝ませて頂くのが十二時でしたが。十二時から、今朝起こして頂くまでブッ通し。もう寝ながら、神様がズーッといろんなことを教えて下さった。
本当に、その金光教の素晴らしいこと。その真髄と云うのは、今皆さんに聞いて頂いたことなんです。そう云うところをお互い目指すんです。
御神願にZ『柿の種を真っ二つに割ったところ』を頂いた。柿の種の中には、皆さん割ってみたことが、知っておられると思うですね。中にはこうやって、芽がありましょうが。もう柿の葉の形をした芽が、あの固い種の中にあるのです。これは柿の種だけではありません。何の種だってやっぱり同じことだと思うです。ところが柿の種は、はっきり分かりますね。もうあの固い柿の種の中に、もう芽がちゃんと、形が分かるんです、ね。だからいかに中身に、その芽があっても。それを只、ここに放って置いたんでは、芽がでゃしません、ね。それこそ暖かい土と云うか、土の温かみと云う。その土の温かみによって、あれが発芽するんです。土と云うものはそんな素晴らしい、云うならばあらたかな物なんです。
ここに置いといては芽は生えないけれども。土の中にそれが、土を掛けますとです。もう固い柿の種の中に活動が始まるのです。そしてそれが芽を切ることにもなるんです。それが木になり枝になり、そしてまた秋ともなると真赤な柿の実をつけることになるのです。人間の心も同じことです。私共もう生まれた時から、ここに神様の芽がちゃんとあるのです。神の氏子としての芽があるのです。それを我情を云い、我欲を云い、一生を終わったら。柿の種なら柿の種で終わってしまうように、繁昌にもつながらないし。云うならば神としての芽も出らないし、神としての花も咲かないと云うことになるのです。そう云う意味でです。私共は、陰と日向の心ではない。その光の心を目指すと云うか、明るい心を目指すと云うか。云うならば、和賀心を目指すと云うことになりましょう。和賀心と云うのは、そのただ時々心の中に生まれてくる、平和な心、和らいだ心はなくて。根本的に云うとね。根本的なことを云うと、今は皆さんに私は聞いてもらっておる様なことがらがです。身に付いてくるそのことを焦点にして稽古をすると云うことが、金光教の信心だと云うことになるです。成程、例えば人間は土から出でて、土に還るんだ。だからその道中とても土の心を以てしなければと云うのはです。土の心を以てしなければ発芽しないんです。生神の芽は出らんです。土の心を以てしなければ、それが育たないのです。それこそ枝葉の栄えることにならない、ね。
寝みながら頂いたことの中に。この前中近畿の、私の講演は、こげん頂いたですね。Z『テレビでですね、おじいさんが何とかマルキバンというコマーシャルをやってますよね。あのマルキバン、と云う声が聞こえて来るのです。』マルキバンと云うことは、どう云うことかと云うと。マルキと云うことは和賀心のこと、丸い心のこと、ね。木は心。バンと云うことは、決定版と云うことを申しますでしょう。だからあの私が今度、大阪でお話をした。あのことを、つぶさに研究すると云うか。もちっと深めると云うか。あれをもう一遍、頂き直したら、これからの金光教の本当に、流れが変わる程しの素晴らしいお話があの内容にあるんです。そつが無いです。神様はズーッと私が話したことを、いろいろと説明づけて下さったが。ははあ、これは今の金光教が、あの講演会に私が話した話をすると。今までの金光教が、百年続いて来た。その百年間続いて来ている間に、いつの間にか、こう歪められられて来た。そのね、ここからはこう云う風にしていかにゃん。これが本当だと云う、過去の信心が間違っておるとかと云うのではなくてです。そう云う本当の道に出る一つの仮定である。過去の金光教は。これからの金光教は、この生き方を。云うならば、拝詞の中にありますように。和賀心を基軸にしてと云う生き方、ね。
成程、あの時の話を思ってみるとです。謂わば、教団がいろいろ云っておられることは。もう根本の所でなくて枝葉の所ばっかりを、言うておられると云うことになるです。あのお話を基にしてすると、だからそれではおがけにならん。これでは金光教の信心が、どんなにバタバタしても、繁昌。金光教の繁昌と云うことにはならない。とても世界に伝わって行くことは、絶対ないでしょうね。云うならば本当の意味において、天の心、地の心と云う生き方、信心をです。なら合楽理念に基ずいて。金光教の信心をさせて貰うのが本当に有難う、楽しゅう。しかも愉快にリズムに乗って、信心生活が出来るようになる。と云う内容をもっておるです。本当にあれをそうだと、頂くことになった時に始めて、金光教の流れが変わること。変える程しの内容を持っておるんです。
もう一遍、あれをね。皆さん、あれを只ビディオ出見るだけでなくて、テープに納めてね、お聞きになるがいいです。もう神様の御演出と云うか、もうその素晴らしいことを、いろいろ聞かせて頂いたんですけれども。
その柿の種に、柿の種の中にはちゃんともう柿の芽が、もう固い種の中にあるんだと。そのままにしとったら、やっぱり柿の種に終わるんだと。人間もそののままで生きたら、とにかく只、人間で終わるんだと。神の氏子としての内容を持ちながら惜しいことだと、ね。そこにどうでも、これに泥の信心をさせて貰い、土の信心をさせてもろうて。それが発芽して、それが生神へ向かって成長のおかげを頂くと云うことなんです。
ですから、どうでも私は思います。おかげさえ頂けば良か、と云うだけではなくて。もう合楽の場合は、どうでも生き神を目指さねばいけん。やはりお徳を受ける教えばかりです、ね。
信心しとっても、合楽に通うて来とっても。云うならば、ただ柿の種をそのまま置いておるだけのようなものであって。成程、願えばおかげも頂けますからなんだけれども。おかげと云うのはどこまでも影のようなおかげです、ね。
日の当たるおかげと云うのは、そう云う神様が、謂わば與えに與えて下さろうとしているおかげなんです。その與えに與えようとしていなさるおかげを頂かなければいけん。そう云うおかげを頂かんで、只こっちががむしゃらにお願いするおかげばかりを頂いて。そしてひとかどの信心を頂いておると云うのが、今の金光教全体。これは合楽も含めて、そうだと思うのです。
日々、信心が楽しゅうて有難うて愉快にと云う信心をしておられる方達は、確かに、この土の信心が出来て行きよるです、ね。
私共が生神様の芽を、ここにちゃんと恵んでおる。私共の心の中には、ね。
それを例えば、お参りしょうりますと云うだけでは。お話を頂きよりますと云うだけではね。もう丁度、柿の種を地上に置いとる様なもの。置いとるだけでは芽は出らん。それを土の信心を以て、それが培われて行くと云うかね。だから、土地そのものも肥とらにゃならないし。云うならおしめりを頂く、水分が出来る。そこに土の中の温か味が生まれてくる。そう云う温味を感ずる時、神様の御守護の中にある自分と云うものを、しみじみ感じられる時。そして愈以てこれを発芽。そしてそれを育てると云うことが、信心を育てると云うことなのです。もう云うならば、生神を育てると云うことになります。
そこで私共が、思うて見ると反省することばっかり。もうあん奴ばっかりはと、思う時には自分の心のかげりを以て見ていること。
人はあげん云いなさるばってん、とてもいい人と云う風に見えた時、ほんなことです、ね。問題でもそうです。もうそれこそ心の眼を以てすると、神愛いっぱいの事柄をです。困った事、難儀な事として見ておるならばです。それは、かげりの心で見ているのです。明るい心、心の眼を以て見ると、一切が神愛であり、神願と見えてくるのです。だから、お礼を云わねばおれないのです。
云うならば良いことにも、悪いと思うておる事でもお礼が云える心が、マルキ。丸い心ぢゃないでしょうか。
もう今日の御理解は、そう云うことを分らせて貰ろうて。それに取り組む、と云うことになりゃ、和賀心を基軸にしてと、教えの決定版。マルキバンと云う事になるのではないでしょうか。
そうだ、もうこの心で行こう。と云う事になれば、ね。しかもそれは、その手立てと云うものは、日頃頂いておる信心の手立てを以てすると。一段一段有難うなってくる。一段一段和賀心の内容が調うて来る。
その調うてくる心におかげがある。と云うおかげは、神様が下さろうとしているおかげ。もう神様が、信心しておかげを受けて呉よと頼んでござるようなおかげ。そのおかげは、人間の幸せの条件の一切が、その中に含まれておると云うことなんです、ね。
まあそう云う信心を、お互い目指さして頂いとるけれども。やはり時々、困った事だと。ひとつの事柄を、困った事に見たり。神の氏子であるはずの神の氏子を、悪人と見たり、悪い奴だと見たりする。そこにこちらも、もっと精進して行かなければならないと云うことになって来る訳です。
今日は、陰と日向の心を持つなと。ところが私共は、陰と日向の心ばっかりで、有り難く見えたり、有り難く見えなかったり、そんなにまだ不完全なんです。
けれども、今日のその根本的なところ。云うなら柿の種の話。人間の心にも、やはり柿の種にでも、柿の芽がちゃんとあるように。どう云う悪人、どう云う人だと云うても。その中に、生き神の芽がちゃんとめぐまれてあると云うこと。その自覚、その事が分かると云うことが信心、金光教の信心。だから分かるからこれを育てるためには、土の信心がどうでも必要だ。だからもうこの生き方をさせて頂く以外にないと云う、ことになるです。
もう合楽の場合は、その今までいろいろの信心をして来たけど。枝葉のようなところから、その信心を頂いておりますから、根本的なおかげにもならないし。教祖様の仰ておられる、親の代より子の代、子の代より孫の代と云う繁昌にもつながらないのは。只、断片的なおかげ。一代のおかげに過ぎないと云うことになるのです。
今日、私が皆さんに聞いて頂いたのは。根本的なところから、芽が出て来て。それが枝葉が凝って実が実る、と云うおかげ。これはもう愈繁昌のおかげの基礎であり、土台のお話なんです。だから結局、信心の土台作り。
もう言葉に出せないぐらい素晴らしいことを、今日は沢山頂いとりますけどね。まあ、皆さんにお伝え出来ないとが残念です。けれどもそう云うひとつの土台を、まず作らせて頂くと云うこと。そして、その信心に日々励まして頂くと云うことが、信心であり精進なんです。金光教の信心はそうなんです。どうでも心に恵んでおる生き神が、生き生きと活動を始めるおかげを、私共が感じさせて貰う。ハーこれで、愈私共も助かることが出来るぞ。お徳を受けることが出来るぞ。と云ったような、その願いと云うか、もうそこに光を見ると云うか、そこに楽しみを感じられるような信心を続けたいですね。どうぞ。
今日の御理解の、Z『実意丁寧にと云うことを。非常に、細かに頂いたのですけれど。例えば、自分なこげなこっちゃおかげ頂かんと思いよる事があるでしょう。例えば、お酒を沢山飲む人が。自分は、ああお酒に溺れてしまう。こげなこっちゃ、自分の助かりはないと思うでしょう。それでいてお酒をまた飲んだとしましょうかね。これはね神様からね。あの神様にね。神様が、殺しゃしなさらんことが分かっとるからね。殺すなら殺せと云うて、首叩きょる様なもの。』もうだからこげなご無礼なことはないでしょうが。
例えば、親に向かって、殺すなら殺せ。親が殺さんことが分かっとるから云いよるとです。こげなことはしてはおかげにならんことが分かっとると云うことです。それをですね、もし平気でやるとするですね。丁度首を叩いて、サァ切れと云いよるのと同じ事と仰る。と云うと神様が、どれぐらい苦しみなさるかが分かるわけです。本当に、一刀両断にしてやりたい思いがしなさるだろうけれども。そこは子供ですからね。こげな実意を欠いだ、欠くと云うことはないと云うことが分かるでしょうが。
私は今日、実意の内容と云うことを、そげなことでいろいろ頂いたのですね。
親にサァ殺せ。こげなことぢゃおかげは頂けん、と云うことは分かっとるとぢゃけんな。その分かっとるとば、お許しを頂いてならまだ別ですよ。どうにもなりませんからどうぞ、と云うて頂くならまだ別です。けど分かっておって平気でそれを実行する。やってのけるならです。神様に、サァ殺せとこう云うておるようなもの。神様が、殺しなさらんことは知っとるから。こげな横着なことはない、と云うことになるでしょうが。もうそう云うような意味のことをね。もう本当に実意丁寧神信心と云いよるけど、私共はいつも。成程、金光様が実意とは、我がままと横着な心を取り除けば。と仰った意味がよう分かりましたです。
私は、昨日頂きながらね。だから本当に、こんなこっちゃおかげは頂かれんと云うた様な内容を見極めます。見極めたら、それを本気で取り組んで。それこそ一分つづでも、一厘つづでも改まっていくならば。もう少しづつでも、改めて行きよるからと云う、親心が動くからおかげを頂くのです。どうぞ。