昭和53年7月31日 朝の御理解
途中から始まる
ここでもそうです。私くしは無学同様ですね。それこそ無学のあきんどですが、の出で御座いますから、自分ながらほんとに学問のない事を、ま後悔した時代も御座いました、けれども、だんだんお陰を頂いて、学問が無かったお陰で信心になりやすかった。そんな所もあります。今ではそれをま私くしは有難いと思うておりますけれども、なら無学な私の所でも、やはり人が助かる。
この方は学が無いけれども、人が助かっておる。とまあ教祖の言葉を借りると、私くしもそう言う事がいえると、いうふうに思いますね。問題はね真。真がなからなければ人は助からん。そこで真を追求するという、本当なものに触れるというね。そこの精進が、ここでは大事だとまいっておられる訳ですね。昨日は、私くしの弟の戦死を致しました、大坪大作といいよりました、七年間召集を受けて参りまして、一回も帰らんなりに。そして終戦になり。
今か今かというなら帰りの船を一家中で待って、私くし共も北支から引き揚げて参りました時は、まあだ何の連絡も御座いませんでしたから、毎日新聞を見て、復員の船があの着くのを、一番に新聞を広げたら1回開けてみる、と言う様な状態の時に、善導寺に原さんが居られます。あの所に秋吉という小間物屋さんが御座いました。それが軍属で南支の方へ行って居られると聞きましたが、あちらが引き揚げて帰ってみえて、私しの方に挨拶にみえました。
そしてほんとに一番口に、「こっちもほんに大しゃんが本当つまらんこつでしたね」というて、いわれたのが始めてです。もうそれこそもうほんとに目の前が真っ黒なるような思いでした。その後に公報が参りました。あちらに南支に居られて、大作と会われた事があったり又、あちらで戦死をした事実を聞いて来て居られて、もう公報があっておるもんと思うて。あのう見えられて、そしてその挨拶の一番が、こっちも大しゃんが本当つまらんこつじゃったというてほんとに残念な事。
こげな残念な事は無か、もう十五日待っておらどうかなっとったら、無事にお帰りが出来たのに、という訳なんで御座います。七月三十日ですからね。八月十五日が終戦でしたから、もう十五日神様どうにかなりませんでしたでしょうかと。まあいいたい所です。その霊の、昨日は帰幽日でしたから、帰幽祭を昨日の正奉仕の、岩部先生が奉仕致しまして、身近な親戚も皆集ってお祭を奉仕してもらいました。
私くしはその後において、「天地の心知りたし、道あらば示せ天地、おのが心に。」とそう云う実感を感じたのは、この時が始めてでした。それはその時頂いた事ではないですけれども、まあ信心が出来ておる、出来とらんは別として、もういうなら、無事の凱旋を一家をあげてこれ程に、お縋りしお願いしておったのにも拘らず、しかも七月の三十日というもう十五日、神様が引き延ばして居って下さったら無事に凱旋出来ましたものを、神様の心がわからん。
本当に神様の心が知りたし。後でいろいろな場合に、今申しますお詩のような本当に「天地の心知りたし道あらば、示せ天地おのが心に」というて信心を進めて参りました、この事が一番始めであったなと思うて居ります。成程私共が終戦そして引揚げ、もう本当に難儀な中に難儀な状態で帰って参りました時でも、そのそういう神様に、どういう訳で私くし共が引揚げて帰って来なければならないような結果になったですか。と言う様なものはさらさら無かった。
これはやっぱり、私くし共が信心が足りんからっだというふうに思うておった。「何故ですか」というて神様の御都合が分りたいと言う様な思いは無かったけれども、大作の戦死の公報を受け、そういう通知を受けて、時から私の心の中に、本当に無事の凱旋こそ願ったのに。しかも後十五日で無事に凱旋、帰りが出来たのに、どういうお神様の深い御神慮があるのに違いないけれども、どういう御神慮かを本当に少しでも分らせて頂いたら、この胸がすっきりするだろうという思いが非常に募って参りました。
これがだから私くしの天地の心を知りたい、と思い出した始めのように今日は思うんです。母なんかは、もう本当にお社にしがみついてから、お社をこうやってごうぐりました(ゆさぶる)。いわゆる私くしの思いとおんなじでしょうね。これ程の残念な事があるだろうかね。まあだ戦時中それこそ名誉の戦死としてという時に、戦死ならまだまだだけれども、終戦そして後十五日と言う事になってから、ですからやっぱり母が残念に思ったのも無理がない、それでもやはり集るのは御神前。
一家中のものが集るのはやはり御神前でした、黙あって御祈念するばかりでした。日参もやっぱり欠かした事は御座いませんでした。そういう或る日に、親先生が「大坪さん、今日は御本部の月参りじゃがあんたもお参りしないか」。その時分は親先生が一人で参って居られました。その時にその、私くしは、はっと答えたというのは、ああ言う事だと思うが、その気にすぐなりましてから、それからすぐ帰って準備をして始まり、これが私の御本部の月参りの始めでしたね。
そして私くしの心の中に閃いたのは、よしこれは御本部参拝さしてもろうて、言わばあの教祖様の奥城に、一晩中でも一つ座り抜いて、どういう訳にこういう事でお前の弟は戦死したのだぞと、残念だろうけれども後十五日ね、生き延びとったら無事に帰れたのでだろうけれども、あれにはこういう深い訳があったのだぞ、と教えて頂けれたらもうこの胸がすっきりする、と思うのがその時の私の思いでした。
一緒にお供してまいりました。もう久留米の駅に着いたらもう久留米の駅で、沢山な復員の軍人さん達が、あのう駅でたむろして居られます。もうどこの駅からでも復員の軍人さんが汽車から、あの頃は鈍行のそれこそ窓から汽車に乗るという時分でした。何処ででもここででも、復員の軍人さん達に会わない所は無い位でした。もう戦死しておる公報受けて居るのですから、そんな事は無いのですけれども、ひょっとしてあの復員の軍人の中に、弟を探し求める心があったのです。
ひょっとしたらあの中に居りゃせんだろうかち、それからまあ御本部へそして一晩泊り。その一晩を私くしは奥城で過ごしました。一生懸命一心不乱におすがり致しましたね。所がそれこそもういうならば、神様のお声のおの字も頂かなかった。お知らせのおの字も頂かなかった。自分達位の信心で、神様から直接お知らせを頂くなんて、出来るはずは無いなあ、と諦めて宿に引揚げてすぐ帰らせて頂いた。あの奥城。
久留米の宿から、こう石屋があるあのだらだら坂を降りて来る時、私くしは親先生の鞄を持って後へ従っておる。親先生は前の方で、前の方から「大坪さん今度の御本部参拝に何かお土産が出来たか。」とこういわれた時にです、「はい出来ました。」ともうどうしてそう答えたか自分でも分らんです。はい出来ましたというた途端でした、もう私くしの心の中にですね、千万金の思いちゃこう言う事だ。
何かどんと何かが入った気がしたです。それから心が嬉しゅう成り有難うなり、もう駅に着かせて頂きましたら、丁度京都行きの鈍行が着きました。それから復員の軍人さん達がぞろぞろ降りて参りました。行きがけは、あの復員の軍人さんの中に、ひょっとして弟がと、弟の姿をこう追い求めて居った私が。あのう、その時にはそういう思いがさらさら無かった事です。
やぁ長い間御苦労さんでしたと、一人一人お礼を云うて廻りたい心でした。本当にだから理屈じゃ無いですね。信心とは。私くしは汽車に乗りました。一杯ではあったけれども、席が親先生と私と座れる席がすぐ空いた。二人掛けさせて頂いた。けれどもとても、「座っておっちゃもうどんこん、こんこん勿体のうしてこたえん。」それでお年寄りの人に譲る。丁度車窓から、稲田がこの位伸びている時分でした。
もう車窓から稲田を見ておると、もう感激するんです。涙がこぼれるんです。人に席を譲ると、もうそれが有難うしてこたえんのです。もうそれは本当にもう、ははあこういうものが御神徳というのだろうか、と私くしはそん時感じました。信心はも理屈じゃないですね。それからこっちというものは、どうして弟が戦死したじゃろうかと言う様な事はもさらさらない、只々信心を、いうなら真の信心を求めて、もう信心修行にもう、いよいよまっしぐらにならせて頂いただ訳じゃないね。
そうして居るうちに、今の椛目の妹の婿であります、妹婿が亡くなりました。大変なひどい中でしたから、もうそして病気が胸の病気でしたから、もう誰もかもうては呉れません。近所なんかでも、もうその時分は大変怖がって寄りつきもされん。もう自分一人で、もうあのお棺を作るでも、お棺をこう火葬場に引っ張って行くでも、私くしは一人で引っ張って行きました。
もうそれに同情してその時の火葬場の、に居る人が私に御霊前を呉れる位でした。もう焚きもの(薪)が、もうばいたばっかりですから、こんなつじゃ燃やされん、といわれるからそれで良い割り木を改めて持って、そういうそのそれが哀れにも気の毒にも見えたんでしょう。石井さんという方でしたが、そのとにかく私くしがねんごろに、始めの間はつっけんどうでした。こんなああたばいた、のごたるもんで燃るゆるもんかいといわれるから、又取りに帰ったりしてね。
その方が私くしが椛目で人が助かるようになった時分に、その方が非常に熱心に信心するようになった。皆さんもご承知の石井さんですね。吉木の石井さんでした。そういう中にまお陰を頂きましたけれども、結局そういうなら難儀が続いても、どうしてという気持ちは一つも起きりませんでした。お陰を頂いて、心の中がもう何であっても有難い、有難いという事になって参りましたからね。
昨日も、霊祭を岩部先生が奉仕して、私くしはこちらで拝まして頂いております時に、頂いたのが八本の骨があるあの白扇を頂きました。扇子です。そして合楽が今日こうやってお陰を頂いて居るのは、骨の二本だけは今日の霊のお陰だと頂いたね。霊が働いたとそういう意味じゃないでしょうね。いうならばその時に、私が弟の戦死と言う事で、私くしが一生懸命になったのはならその霊様のお陰だと。
八本の骨の中の二本は、その今日の霊のお陰だと。そして誰のお陰、彼のお陰と八本をずっとこう頂きましてね。所が私くしのお陰というのが全然無いわけです。親のお陰とか先祖のお陰で、今日の合楽がこうやって開けた。そしたら最後に頂くのがね。「お前の信心がこの要の所ぞ」とこう頂いたですね。だからどういう先祖に例えばどういうなら立派な人があっても、お徳を下さろうとする、神様の働きが有っても、それを纏めていよいよ末広のお徳にする、おかげにするのはその誰かが居らなければだめだ。
それを、私はまとめて要の信心、いうならばどういう中からでもね。「天地の心知りたし道あらば、示せ天地のおのが心に」と神様へ、只々打ち向って、真を求めて行ったという事で御座いますね。今日は御神前で、もう見事な男物、女物の履き物を頂きましたけれどもどれも皆んな、どれでも半分ずつ片一方しかない、というお知らせでした。私くし共が知っとる限りのお道の信者又は教会。
大変な御比礼を頂いて、もうそれこそ何千何万の人達が助かった、という教会も沢山、色々知っていますけれども、何処にかちょっとおかしいな、おかしいなという訳じゃないけれども、欠げておるなあ言う様なものを感じるね。〇〇教会なんかは、いうなら息子さんが頭が狂るわれて、家族の牢の中に入れられておられる。又ある教会の所では、息子さんが出来が悪かったり、そして奥様は三角関係で問題が起こられたり、まあいうならば、もういろいろなですね。
いろいろな本当に素晴らしい、今に残っておる沢山のそこの出社の、何かが残っておる大きな教会であっても、何かが何処にかこう、そういうどうしてじゃろか。信者はそれをどういうたかというと、親先生があのようにして、修行しておって下さってあるからというたんですね。例えば家の中に気狂いが居ろうが、どういう出来損ないが居ろうがね。又教会に不祥いろんな、その信心しよって教会であげなこつが起こって言った様な事があろうが、それこそ親先生があれを修行として受けて居って下さるから。
皆んなが助かるというふうに。昨日の御理解のなかにも足ろうた信心。昨日研修の時に私くしは、本当にもう私くしがお話をすると、こうせきこんで、せきこんでお話しとるのを見てまちっと、ゆっくり話せんもんだろうかと何時も思う。けれどもね、私くしの心の中にはせきこまずには居れない、なんかそんなものを感じるという話をしました。何故せきこみよるかというと、私くしももう六十五ですから、何時お国替えするやらいつ死ぬるやらわからん。
私くしが生きとる中に、これだけは皆んなに聞いてもらっとかにゃん、分ってもらっとかにゃならない。これは合楽の信奉者だけではないね。と言った様な何かせきこむような物が私くしの心の中にあるわけ。そして尚更、今でなければいけないというのは、今の合楽というのはもう一切の点に足ろうて居るという事なんです。なら家族なら家族に特別に器量が良い、特別に素晴らしい人物という訳じゃないけれどもですね。
いうならば子供なら子供でも士農工商、なら私くしの家内でもまた嫁達でも、家族これだけの中にです、人から後ろ指差される、と言った様な事は今の合楽にはさらさらない。なら教会での、いろいろな現れでもです、もう一切が足ろうて居るね。これは昨日でしたかね、お話しましたようにこの足ろうて居るというこの見本をですね、合楽理念をもってすれば、こういうおかげが受けられる、という手本のような見本のようなものであるから、今でなからないかん。
何時、なら合楽教会にも不祥な事が起こったり、いうなら後ろ指を差されるような事が無いとも限らん。金光様信心によって、と言う様な事があるかお知れん。今ならばここ三十年間の間にですね。もう本当に成る程神様じゃなあ、信心しござるけん、合楽教会は素晴らしい、というふうなふうにばっかり、又事実そうなんですね。例えばならここの御建築なら、御建築でもただ大きなお広前が建ったというだけではなくてです、私くしが日頃言う様に、それこそ真善美に輝やかんばかりのお広前であると言う事ね。
どういう点から、今いうても合楽はいうならば、一つの合楽理念を持ってすれば、かくおかげが受けられる、と言う様な状態の時だからね、今私くしが急き込むのはのは、そういう所にもあるかも知れんよ、というて昨日研修の時話した事でしたね。いうなら真を追求し、真の信心さしてもらえば、真のおかげが受けられる。真のおかげとはこういうおかげなんだと、皆んなにも見てもらい聞いてもらいする事が出来る。
だから、話しただけではほんな事じゃ無かごたる。真実性を欠くごたると、昨日も末永先生がその事について話とりましたがね。実際合楽という所には来て見てしかも、二日か三日か居ってみなければ、合楽の本当の素晴らしさは分らん。話を聞いただけじゃほんなこつじゃろかちゅうごたる感じがするね。という程しにお陰を受けておると言う事もです、いうならばぎりぎり昨日の私くしが霊祭の時に頂きましたようにね、おかげを受ける元はいくらもあるね。
その芯になる肝心要の所の、私くしの信心がいわば、現在末広のお陰を頂いて居る状態だ。これはいよいよ、広がりに広がって行くだろうけれどもね。何時何処で。いうならば、足ろうたというのでは無くてね、あそこはおかげは、そうにゃ頂くばってんか、信心がいっちょん分らん。そげん所がありますよ。もう霊験だけ御かげだけと。合楽位にいうならばお陰と教えと云うものが、足ろうた所は無いです。と私くしは思うです。先生の祈念力が素晴らしいから人が助かっておる。
あちらの先生は、有難いの権化のような有難い、有難いであれだけの人が助かって居るだけですから、信心が分らん。だから先生が亡くなられたら後、はいうならば細々にになる。そういう意味で合楽教会ではどうか、と質問を受ける訳ですけれども、だから合楽には、合楽理念がある限り、私くしは教祖様がおっしゃる様に、子孫繁盛家繁盛のおかげになって行くんだ、というふうにま申しておる訳です。
そしてこういうおかげ、そして何処にもですね。信心しよるばってん、あげなこつが、と言った様な事のいわれんで済む程しに足ろうたお陰を頂いて居る。私くしが今日、御神前で頂いた素晴らしい履き物をいろいろ頂いたが、それが皆半分しかない。その足ろうて居らねば本当の役にはたたないね。この足ろうた信心をです、合楽の信心合楽理念をもってすれば足ろうたお陰が受けられるね。
そういう見本でなからなければ、世界の津々浦々に迄でま広げて行こう、いうなら和賀心時代を創る、十三日会を世界にと言う様に、いくら鳴り物入りで宣伝しても、その実際合楽がお陰を受けていなかったらね。いうならば良い手本、良い見本と言う事にはならない。だからどういう難儀の場合であってもですね。それこそ「天地の心知りたし道あらば、示せ天地おのが心に」という、もうどういう中からでもね。
自分が分らなければならないことは、何処かと言う事を追求しなければいけん。ただ拝んでもろうただけ、ただ親先生のお取次で助かる、というのじゃあなくてですね。私くしが弟の戦死の公報を受けた時にですね、言わば神様にね一晩中、どういう訳でこう言う事になったか、その追求心がもうその勢なんです。成程私くしはその時は何のお知らせも頂かなかったけっれども。
それ以来私くしの心の中に、千万金の思いを持って入って来たもの。それは何を見ても何を聞いても有難いというものであった、と言う事なんです。だからお互いの追求心が足りん。どういう場合であってもね。どうして私くしがこげな難儀ばせなんじゃろうか、と言う事が分ったら、その難儀が有難うなってくる難儀が有難うなって来るからおかげを受ける、というのが合楽の信心です。
本当の神意が分るそして、一切を神愛、私くしの前にはもう難儀はないとなら、過去二十数年間云うて来ておるね。私の前に難儀はない。難儀かの様に見えておったがそれは神愛だ、ね。そこに有るものは有難い物ばかり、お礼申し上げねばならない事ばっかりだ、というような道がです開けて来る。此方は無学でも人が助かっておる。なら此方大坪の所では無学でも人が助かっておる。その元はいうならば肝心要の真の追求にあったと言う事がいえるですね。
どうぞ。