昭和53年3月7日 朝の御理解



昭和53年3月7日 朝の御理解

御理解 第四節、百節
 今日はこの百節と御理解第四節を頂いたんです、だから四節を読んで見ましょう。「此の方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此の方金光大神あって神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は此の方金光大神である。金光大神の言う事に背かぬようよく守って信心せよ。まさかのおりには天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる。」これは天地金乃神様が言っておられる訳ですね。金光大神の言う事の背かぬようによく守って信心せよとこう仰っておられる。御理解百節は金光大神御自身が、ね、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるじゃと仰っておられる。誰でも家繁盛子孫繁盛を願わぬ者はありません。金光様の御信心によっていよいよそれこそ、枝も栄える葉も茂ると言うようなおかげを頂きたいと思います。それには金光大神が家繁盛の道、子孫繁盛の道を教えて下さるのですから、あーどうでもひとつその教えて頂く事を、ね、そう言う道を子孫繁盛の道を教えると仰る、その道をおぼえにゃいけんのです。

なら道を覚えただけではなくて、その道をやはり辿らせてもらわなければ、歩かせてもらわなければ、ここに教えておられるようないおかげにはなってこない訳です。今合楽で言われておる例えば御教えと言うならどう言う事でしょうかね。心行此の方の行は火や水の行ではない、家業の行、表行より心行をせよと言う、言うならこの二つの御教えに取組んでおると言っても言いと思うんですね。教祖様の御教えはね不思議な働きを感ずると言う事はね、一つの御教えを本気で行じよるとね、他の事に総て関わって来るんです不思議に、取り分け言うなら心行家業の行、家業の行をいよいよさせて頂きよりますとね、家業の行の中に言うなら合楽理念がすっぽり入って来るんです。ね、ですからこの家業の行にもう徹して例えば行くならば、教祖の御教えの総てがこう頂けるような、ね、勿論うーん御教えの一つ一つがひとつの個性を持っとりますから、あのその手掛かり、ね、信心の道を歩かせて頂く手掛かり一つのヒントになって行くです。

例えばほんなら難はみかげと言ったような御教えでもです、本当に難をみかげと分かる事の為の信心修行させて貰いよるとですね、所謂金光大神の道がハッキリとして来るんです。所謂子孫繁盛家繁盛に繋がる道がハッキリして来るんです。ね、ですからやはり徹しなければいけません。ね、阿倍野の伊藤コウ先生は、ね、此の方のうーん修行はもう家業こそ道の修行だとこう言っておられます。道の修行と言うのはどう言う事かと言うとね、子孫繁盛家繁盛の道なんです。金光大神の道、ね、道の修行は、ね、道の修行こそ家業こそ道の修行だとこう言っておられます。ね、だからその家業の行と言う事を本気で家業の行足らしめる為の研修、そして実習果たして今日一日が本当に家業の行になったか、ね、そう生やさしい事ばっかりありませんけれど、はあここが天の心にもならなければならない所であろうか、地の心にもならなければならない所であろうかと、ね、もう、ね、家業の行の中にもう限りなく美しゅうならなければ、

行にならない事がある、黙って受けて受け抜かなければ、黙って治める生き方をしなければ家業が家業にならない事もある。ね、家業の行と言うのはね天地のね心を心として行く生き方で取組まないと行にならんのです。ね、ですからもう家業の行に徹するなら、成る程子孫繁盛家繁盛の道が必ず開ける事は間違いないですね。家業こそこの道の修行この道の修行と言うのは、金光大神の道の修行なんです。ね、所謂本当におんようで御用です、ね、それが私用になる、わたくしの用になる。御用がいちにさんしの私用になるいっちょ足りない、ですからあたくし共の家業が今日は私用になっておらんか、ね、果たして御用になっとるやろうか、本当に苦しい例えば腹の立つ、本当にモヤモヤする事も家業の中にあったろうけれども、それを本当に修行として合掌して受けたであろうかと、言うようにね家業に徹して行く事、御理解四節には天地金乃神様が、金光大神の言う事に背かぬようにと、天地金乃神様が言うておられます。御理解百節には金光大神その方が、ね、此の方はもう子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと仰った。

ね、だからどうでもその道を体得する、道を覚えるそしてその道を行じ歩いて行かねばならんのです。昨日の御理解から言うと、ね、秋永先生が最近の金光教の教師信者教会を問わずです、ね、教祖の御教えを本気で行じようと言うような、行じて行って各徳を受けたおかげを受けたと言うのが亡くなった、所謂本筋から枝葉に入ってしまったと言う間があると、これはえー金光教を大きく眺めた時に、そう言う風だと言う風にな意味をその壮年部会の時に言ってました。あたくしもそう思う、まあそれに例えば合楽の場合を思うて見ると、合楽ではもう商売をするならもう合楽理念を持ってする他はない、百姓するならもう百姓合楽理念を持ってする他ない、末永先生はそこん所を海外布教は合楽理念を持ってする他はないと、所謂極めた言葉で言ってます。ね、だからその合楽理念を例えば紐説かせて頂いてです、所謂心行表行えー心行家業の行と言う、その生き方にいろいろやはり難しい所もあるし、

通りにくい所もあるけれども、合楽理念を言うならば紐説かせて頂くと、ね、もう楽しゅういやー本当に知らん事とは言いながら腹立てとった、知らん事とは言いながら愚痴を言いよった、ね、そこがハッキリ書いてある訳です。説いてある訳です。何故腹を立ててはいけないのか、いや実はお礼を申し上げならん事だったと説いてある訳です。だからそこにあー本当の自分の考え方が間違っとったと言う風に、言うなら本当な事を分かって本当な道を歩いて行く事が出けるのです。わたくしは今日皆さんにね、金光大神の言う事に背かぬようにと、どこんにきが自分達の信心が背く所になっているのだろうか、ね、金光大神の言う事に背かぬように、どこが背いておればおかげにならんのだろうか?、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると仰るが、その道を取り違えておらんか、イヤ道を聞いて知ったけれどそれを行じていないのではないかと、

こに辺が問題になって来るんです。道だけは覚えてからそれを行じよらん、家庭生活の上に現して行きよらん、歩いて行ってないわけ、ね、そう言う言うならば嗅げた所、ね、を、今日はひとつ銘々分かって行こうと思います。合楽的欠陥と言うても言いでしょうね。だから合楽の人達が皆なひとつの欠陥を持っておる、昨日研修のチョット前でした、うーん池田先生がお届けに参りました、今朝方からそのお夢を頂いたと言うんです。そのお夢がねあの今東光と言うお坊さんがおりましたね。今東光と言う事を頂いた、次ぎには明渡、明渡何んち言いよったかね、池田先生おらんか、エッ、明渡かやみです。かやみ、兎に角まあ明渡と言う事です。ね、どう言う事かと言うと、今東光は今死んでおると、もう死んでいない人なんです。ね、今、東の方の光りは死んだと言う事なんです。ね、そうでしょう今ひがし、ね、光りもう東に光りはないて言う事なんです。ね、ここのご建設の時にあたくしの手洗いの、

そこの控えの手洗い、西の宮橋とあるあの手洗いが座った時に頂いた御理解です。西の宮橋と言うのは東の御本部に対する西の御本部と言う意味の事を頂きましたね。皆さん覚えておられるでしょうか?ね、東の方の光りは消えたと、あたくしは今度実際御本部参拝してから本当にそんなもの感じた、それこそひっそり感としとるです。御霊地全体が。学院御本部教庁もう本当にひっそり感としてあるです。そしてなお驚いたのはお広前出らして頂いたら、み知らん人が座っとんなさいますもん、佐田先生あの人誰のち聞いたら、ここの御用ば頂きよんなさる先生、もうあたくし本当なんかもう本当に金光様のここは恩座に、と、してあたくし共今まで拝みよったのにです、ね、普通の修行生のお広前に御用頂いとる先生が、座っておられると言うのでもう本当にあのビックリしました。今東光です、ですからね言うなら西の宮橋と言うか、うなら段々合楽で光りを頂いて来た、その光りをね東の方へ移して行く、それをなら恩取次成就信心生活運動と言うのが、今本部でえーひとつの教団の目当てとして、

スローガンとして、こりゃもう金光教として素晴らしい最高のスローガンだと思うですね。恩取次成就信心生活運動の新発足と言う事でもう三年目に入った訳です。所が一向その運動が運動になってこない、運動はしよんなさるけども実が上がっていないと言う事なんです。それであたくしは神様にその事をお願いさせて頂いたら、合楽示現活動に参画すると言う信心を中に入って広めると、これは何回か前のご大祭にお参りした時にご本部で頂いたんです。中に入って広めると言う事は中に入って光りを点ずると言う意味にも通ずる。ね、恩取次成就信心生活運動新発足、それに対する合楽示現活動に参画する。ね、これでないとね合楽と言う事は勿論神と氏子とが合楽仕合うと言う事。所謂氏子あっての神神あっての氏子と言うあいよかけよの信心を表現する合楽、ね、示現と言うのは神仏が不思議な不思議な働きを示し現す事だ、ここに至って来る時にこれでなきゃいけん事が分かって来るんです。ね、

あたくし共の力がいくら奮闘した所でです、運動が成就しない、神仏が前に立って下さる言うなら神様が、前に立って不思議な不思議な働きを示し現して下さる事を示現と言う、合楽示現、ね、そう言う活動が合楽では御こっておる、それにお互い一人一人が参画させて頂かなければならぬ。参画しとるかどうか、言うだけで、どうぞあたくしも合楽示現活動に参画させて下さい、参画と言うのは預からせて下さいと言う事なんです。語ると言う意味じゃないです語らせて下さいと言う事なんです。だからその願いが立てられなきゃいけません。ね、そこでなら合楽示現活動に参画する事の為に、合楽理念をマスターしろとこう言う事、合楽理念を覚えよと、してそれを煎じ詰めて最近では心行だ家業の行だとこう言っておる訳です。ね、そこから光が頂けるんです、力が頂けるんだその光を結集して言うならば中央に持って行かなければならない、そう言う働きをあたくし共が現して行かなければ、

ならんと言う事でございます。所がほなら現在の合楽にですよそれを持って出て、果たして皆がはあーなる程合楽の信心は素晴らしいとだけ、言うならば言うてもらえるような内容持っておるだろうか、先生は素晴らしかばってん信者はつまらんとハッハッハ反対かも知れん、ね、あっちぁ信者は素晴らしかばってん先生がつまらん、そりゃどっちでもよいけれどもです、つまらんじゃいかん訳です、ね、言うなら先生も信者もなる程合楽理念の行者としてです、合楽元現活動に参画する言うならば、姿勢を取って本当に示し現せれるだけの事実を実をです、あたくし共が身に受けて行かなければならない。おかげを示し現して行かなければならない。あたくしを観て下さい合楽の信者の一人一人を見て下さいとならなければならんのです。それが今どう言うような事になっておるかと言う事をです、次に池田先生が昨日その事、今東光のお届けをしたすぐその後に、梶原先生がお届けに来ました、

それが彼も今日こう言うお知らせを頂いたと言うのです、と、言うのは合楽の信心が、ね、言うなら昨日から言っておるように、本当に教えに基づいて日々お互い教えに取り組んでの修行させて貰いよる、ほんなら家業の行なら家業の行に今取り組んで一生懸命している。そこからおかげを言うならば、頂いておる現して行っておるのである。ね、例えばこう言うお知らせ頂いておる、あの能狂言と言うのがありますね、お唄いに合わせて舞う能狂言、次には言うなら文楽とか歌舞伎とか、ね、まあ最低の所では浪花節芝居と言ったようなのが昔あった今ないですね、言うなら同じお芝居ならお芝居でもです、狂言でもですそう言う言うならもうハッキリ格段な差がある訳です、能狂言なんかをする人達は歌舞伎役者は程度が低いと見とるです。文楽なんかの浄瑠璃語りをする人達なんかは、歌舞伎の浄瑠璃なんかは全然問題にしてないです。だから一緒でも最近は段々文楽の浄瑠璃語りさんが、歌舞伎座に時々出演するような事が時々あります。

そりゃもう確かに格段なそう言うあるですよはい、それだけ言うなら位が高い格が高い、そんなら今度は歌舞伎役者あたりが、浪花節芝居なんかと言うたらもうあげんと芸術じゃないと言ってるです、決め付けるです、ね、あの天誅ケン雲月と言う女流の二代の雲月が、あの東京の歌舞伎座を借りきった時なんかもう大変な問題だったんです。けども歌舞伎に貸したよりもその雲月に貸した方が倍ぐらいお金が取れるんです。一ヶ月間と言うもの超満員で満員にしてしもうたです。と言う程しにです大衆の人気があったと言う訳です。ね、芸術価値と言うのはです、ね、歌舞伎なら歌舞伎から見たら程度が大変落ちるけれども、大衆にアピールした訳です。ね、だから例えば歌舞伎座で浪花節なんかをやると、歌舞伎座が穢れると言って反対があったんです。浪花節なんかに貸した、けれどもやはりまあ今はなんですか、三波春男なんかはもう毎年恒例になってしまった、歌舞伎座を貸しきって使うんですね、

一ヶ月間、しかも歌舞伎の入りの少ない夏なんかの枯れ時にです、やっぱり一杯にするんですからねー大したもんです。そう言う意味の事次々梶原君頂いている訳です。ね、そして合楽の場合はですね、言うならば能狂言例えば皆さんもご承知でしょうけれども、お唄いと言うものはもうそれこそ上げる下げるからもうその、あれは何て言うんでしょうか符牒がついてますよね、その通りに声を発声しなければ舞台は崩れるし、勿論能狂言が出来る事もないです。もうそれこそ綴りの音色一つが違うたら、もう狂言が出来ないと言われる位に難しい訳です。ね、そう言う格のあるもの言うならば教祖金光大神の御教えを、間違いなく踏んで行うてそして現して行くと言う事なんです。ね、能狂言今例えば全教きって教えを本気で全部が取り組んでおると言うのは、合楽教会ぐらいなもんじゃなかろうかと、ね、普通一般なそりゃ御用であるとか、道を間違えるなとかと言うてね、その道を本当に天地に繋がる道を言わずに、

手続きの道を道と間違えたりして、ね、神様は道と言う言葉に迷う事なかれ道は教えを踏む他なし、教祖様の教えを踏むほかないそれが金光道なんです。金光の道で子孫繁盛家繁盛の繋がる道であり生神金光大神になれる道なんだ。そう言う道をまあぼちぼちながら合楽はそれを辿らせて頂いておる。撫で擦りしておかげ頂いたでなからなければ、ね、普通の霊能者的な意味でのご利益でもなからなければ、ね、お取次ぎを頂いて合楽理念を御理解に頂いて、合楽理念に基づいて言うなら?天地日月の心になる事肝要と言う、天の心とは地の心とは日月の心とは、そう言う心を基にして家業の行をいよいよ行としなければならない、そこには日勝り月勝りのおかげが約束されると、言うならば確信を持って皆なに聞いて頂いている訳、ね、ですから言うならばその能のお唄いに合わせてです、言うならばその舞いを舞っておる狂言をしておるような、おかげなんだけれどもこれを第三者側から見ると合楽をどう見ておるかと言うとね、

こう頂いとるです、あの双葉百合子と言う浪花節がおるでしょう、あの人が歌謡曲とも浪曲とも分からんような、言うなら浪花節うなら唄やら唄うでしょう、あれなんかはね、浪花節が何故?低級視されるかと言うと、わがよか事発声が出来るからなんです。自分でコツを作ったり自分で節回しどんなに我が自由自在に返る事が出来る訳、ね、だから程度が低いと言われる訳です。ね、フタバ百合子の聞きよると浪花節じゃ流行歌じゃ分からんような節回しがあるでしょうが。ね、言うならばそれをミーハー族だと、それを喜ぶ見る人達をミーハー族だと、こうさげすんだ言葉です。ね、チョット面白いと言ったらワーと行ってそう言うのがミーハー族だと言う訳です。ね、言うならお涙頂戴的な演劇だとこう言う訳です。ね、だから程度の低い事を浪花節的だとこう申しますでしょう。ね、合楽の信心は折角合楽理念を基にして、教祖の御教えに神習わせて頂きながら、おかげを頂いているにも関わらず、

世間一般では、言うならば双葉百合子のお涙頂戴的な信心だ、おかげだと言う風に見ておると言う事でござい、あたくしはそれを聞いた時に確かに素晴らしい表現です、今度学院での問題もやっぱそうです、ね、合楽的素晴らしいものを持っておるか、言うなら合楽の修行生は非常に感受性が強くて、ね、感動涙もろいと言う訳なんですね。だからやらんでんよかとこまで一生懸命やるかと思うと、やらにゃいかんとこはすとっとそのまあずるけると言ったようなとこがあると言う訳です。こりゃもう合楽的欠陥なんです、今日あたしはそこん所を皆さんに聞いて頂きたいんです、折角言うならば、ね、舞台を習え能の言うなら、狂言のようなキチットした教えを頂きながら、ね、見た目からは双葉百合子の言うならば、お涙頂戴的な只ご利益さえ頂きゃよかと言ったような、程度の低い信心のように見られておる、だから中に入って合楽に触れてみると、はあー合楽の信心は素晴らしいと皆さんが言う訳です。

けどもそう言う風に見られる、何ものかがあたくし共の内容にあると言う事なんです。ね、

確かに立派な言うならば、お唄いに合わせて言うならおかげを頂いておるけど、その半面にです、すとっと落としてしまうような所がある、こりゃもう合楽的欠陥だここの欠陥が補われない限りわたくしは、合楽の大きな光りにはならないと思う。中央に持って出るだけの光にはならないと思う。ね、まあ最近頂く御理解から実意を貫くと言う事でもです、ね、我が侭があり横着があり、しかもそれを貫こうとする言うなら意欲に欠けておると、言う事にもなるでしょうね。折角の言うならば、ね、能の舞台が踏めれるだけの稽古をしながらです、ね、言うならミーハー族に合楽の信心はお涙頂戴だと、おかげ専門の教会だと、言う風に程度を低う見られては本当神様に対しても相すまん、ね、そこであたくし共がいよいよ実意丁寧の信心を身につけてです、我が侭のない横着のないしかもそれを貫くと言ったような信心が、

身についてしまうようなおかげを頂いた時に、ね、始めて合楽の光りともなるのじゃないでしょうか。その光りを中央に持って出れると言う時は、其処まであたくし共の信心が徹底した時だと思うんです。次には若先生がお知らせを頂いとります。こりゃ大変こみいった事ですからそこだけ申しますとです、ね、今の合楽でお徳を受けなかったら受ける時はない。ね、今の合楽でお徳を受けようと意欲し精進しなかったら、こんなに勿体ないおしい事はないと言うお知らせを頂いとります、今合楽で言うならば徹底してです、お徳を受ける信心をさして頂くと言う事はです、ね、まあ言うならば合楽理念に基づく事ですけれども、言うならばいよいよ信行心行として家業の行を家業の行として、いよいよ目の詰まった家業の行をもうそこに本気で取り組む、そしてなら家業の行の中にです、天の心にならなければならん時もあろう、地の心にならなければならない時もあろう、こう言う言うならば、なそうと思えば子供でも成せるような事を、おろそかにしておったと言うような日月の心と言うようなものが、行じていかなければならない所もかげておる所に気がつくです。

ね、そしてわたくしはね、あれもこれもと言わんでも家業と心行と言う事を徹底して行く所から、金光大神の言う事に背かぬようにと言う事になり、金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと仰る、言うならば、ね、家業こそ道の修行だと、家業こそ金光大神の道だと、子孫繁盛家繁盛絶対間違いないと言う太鼓判を押してから、あーあたくしは皆さんに言ってる訳です。ね、家業の行を行とすりゃもう絶対どんぶりはない、おかげ頂いたり落としたりち言う事はない、ズーット日勝り月勝りにおかげが頂けて行く、年勝りのおかげが頂けて行く、ね、それを実意丁寧を持って貫くならばです、言うならばお徳の受けられぬ筈はない、言うならば日勝り月勝り年勝りだけではなくて、代勝りのおかげにそれこそ真善美に輝くおかげにもなって来ると言う、所謂目出た目出たの若松様よ枝も栄える葉もしこると言うではないかと、繁ると言うではないかと言うそのおかげを目指してね、信心さして貰う、

そして合楽的言うならばひとつの団体的な動きと言うものがです、ね、教団の為にも世界に和賀心時代を創って行く事と言う意味においてもです、あたくし共がいよいよ和賀心言うなら心の光りをいよいよ本当なものにして、行かなければその大きな光りを所謂光臨の世界を広げて行かなければならないそう言う使命をね、あたくし共は頂い使命感と言うかねをひとつ感じれれる位な信心にならせて頂いたら、ね、信心修行がいよいよ楽しい事になり有難い事になり、まさかのおりには天地金乃神と言うにおよばん、金光大神助けてくれて言えば助けてやると言う、御理解四節にあります所のおかげにも繋がって来る訳でございます。昨日先生方が期せずしてこう続いたようなお夢を頂いております、ね、所謂もう一辺今東光字に書いて見て下さい、ね、それを明渡、明渡とは灯りを渡すと書いてあります、ね、明日の明です、あけ、どは渡す渡ると言う字です、ね、そう言う合楽には神様の願いがかけられておると言う事です。

だからその願いを受けて立たして頂こうと言う信心が、合楽全体に望まれる時です。折角言うならば、ね、一分一厘間違いのないお唄いならお唄いに合わせて、舞いを舞う言うならば所作を創って行く言うなら稽古をさせて頂いておるものをです、ね、言うならお涙頂戴的な程度の低い信心に見られては、神様に対しても相済まん事ですからね、どうぞ。



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