昭和52年6月1日 月例祭



昭和52年6月1日 月例祭

みなさん、おかげを頂きました。

信心が分かって、その分かった信心が、行の上に現されて、心が変わり、人間が変わってゆく。そこに、おかげの、いわば、受け物ができる。心がまるうなる、心が豊かに大きくなってゆく。今日、研修の時でしたけれども、話したことです。ほんとに、人間の幸福というものが、物とか金とか、例えば、たとえ、幸福の条件が足ろうておるかのようにみえましても、はたして、それが幸福かという時、そうではない。結局、芯になるものは心だ。だからこれは、どんなもんだろう、もうこれは、家庭の教育の上においてもそうだけれども、小学校、中学校、というような過程で、その、人間は心がまるくならなければ、幸福はないんだと、どんなに頭が良くても、どんなに素晴らしい所に就職がでけても、それで、人間の幸福というものはありえないのだと。ね。

まずは、何というても心なんだ。心が円満に、心がまるうならなければ、人間の幸福はないんだと。天地自然の働きの中には、そういう人間の心だけではないでしょうけれども、人間の心の上に、全てを円満にしよう、全てを丸くしようとする働きがあっておるんだというようなことを、小さい時から教える、そういう教育というのは、いけないものだろうか。ほんとに幸福というものは、ね、もう心が芯になって、頭が良くて、良い所へ就職がでけて、ね、様々な人間の幸福の条件が足ろうた時に、初めて、いうならば幸福という事が言えるのであって、その芯は、やはり心だと。だから、心を大切にしなければいけない、心を清めていかなければいけないというような事を、現代の教育の中に、それを言える手立てはないもんだろうかと。もしあたしが今、そういう事を思うておることを、もし、皆さんが、町の人が村の人が聞いて下さるならば、それこそ三味線太鼓お囃子を入れてからでも、宣伝をして回りたいような気がするというて、話したことですけれど。

どんなものでしょうかね、皆さん。ところが、信心を頂いておりましてもです、ね。おかげは和賀心にあり、和らぎ喜ぶ心にあるんだと教祖様、教えておられるのだけれども、なら、本気で、その和賀心に、和らぐ心に、心を清めよう、心をいよいよ丸くしていこうと、精進することに焦点をおいておる人は、非常に少ない。不思議なくらいに少ない、ね。

お取次ぎを頂く、お願いをする、灼かなおかげを受ける、と。ね、それが、金光教の全てのように思うておるのじゃないかと疑われるほどに、心の方には関心を持っていない。ね、小さい、こんな子供の時から、ね、それを私は、あの、和賀心学というものがでけなければならない。哲学があり、科学があり、ね、物理学があり、というように、様々な学問があります。それをいよいよ、医学でも科学でも極めた上にも極めていくと、もう、これから先は神様の世界だ、という事に到達するそうです。ね、人間の知恵力で、月の世界にも飛んでいけれるほどしの、いうならば、科学が進んだといたしましても、ね、そういう、いうなら、人間の知恵力を持って、それこそ、あたくしどもが夢にも思わなかったような事が実現できるような世の中になりましても、幸せとは関わりがない。そこで、なら、科学者の、まあ、最高権利といわれる方達は、もうこれから先は心があるだけだと言っておるという話でございます。

だから、そういう例えば様々な学問を最高の所まで高めていかなければ、心でない、心と分からないという事ではなくてです、もう小さい時から、ね、小学校に入って、中学校に入って、いよいよその高度な和賀心学というものを、いうならば、合楽理念のようなものが、学問になって、して、それを教えていくということ。よくできんだろうかと、まあ、夢のような話ですけれども、私、そのことを本気で、今日はそう思わせて頂いたんです。

今日ある方から、手紙が参りました。その手紙の中に、私のような信心音痴、という言葉が書いてある。信心音痴というのがあります。ね、あの。何遍お参りしてきても、いっこう分からない、お話を頂いても分からない。かというと、もう一を聞いて十を悟るというほどしに素晴らしい分かり方をする人がある。しばらく参って来とるともう、ほんとにもう有り難うして有り難うしてというて、涙を流して有り難がる人もある。ところが、それが長く続かない。結局、ほんとの有り難いものでない。本当に分かっていっておるのではないからだという事になります。

そこで、なら私どものように信心音痴と、もういっこう分からない、理解力がない、ような者はもう助かりようがないかと、( ? )そうではない。どんなに信心音痴でありましても、ね、おかげを受けておる人がある、ね、気の利いた事は言えない、ね、けれども、いうならば、馬鹿の一つ覚えというのがある。それをほんとに身に付けて、ね、それをおかげの世界にまで進めていっておる人がある。ね、例えば、素直心の一つにて雲の上までも昇る道があるというように、ただ何にも分からないのだけれども、ね、ただ、素直心がいよいよ昇華されていく、ね、高められていく、そして、それこそ神様の世界にでも入っていけれるほどしのおかげを受けておる人もある。

ですから、ね、誰でもがおかげを受けられるという事がいえます。ね、昨夜、三十一日の月末御礼会に皆さんの信話を聞かせて頂きました。その中で、んー、御結界、あ、御結界に座っておる(笑い)、あたくしの一番下の男息子の栄四郎というのがおります。21歳でしょうか。お道の教師としてのお取立てを頂いて、最近、あの、風疹にやられて一週間ばっかり休んで、隔離されておりました。それで、その間に色々、まあ、思うたことを昨日発表しておりました。お夢の中に、もう度々、鯉のお知らせを頂く、ここでは鯉のお知らせはお徳と言われております。

いうならば、お徳のお知らせばかりを頂く。ところが、その鯉を捕りもらしたり、捕り逃がしたりするお夢ばっかりであった。目が覚めて、ほんとに残念と思う。お道の教師にまでお取立てを頂いて、ね、いよいよ分からせて頂くということは、とてもお徳を頂かなければ、力を頂かなければ、人が助かる、人の難儀を取り次がれるという事は、とても出来る事ではない。そこで、お徳が頂きたいと、まあ、彼は彼なりに様々に心を砕いたり、修行をしてみるけれども、でけたりでけなかったり、ほんとに残念な事だ、悲しい事だと、昨日は、その事を目に涙を浮かべて発表しておりました。

先生が最近言われるように、心一つで全てを創ると言われるが、ほんとに自分の心一つで全てを創るほどしの信心、またそういう教えを頂いて、目の当たりに手本を見せて頂いて、おかげを頂いておるのに、その心一つに取り組んでおるかのようにみえてなかなか出来ない。それが残念だ、とこういう。私それを聞かせて頂きながら、話したことです。また思いました。

信心のいわゆる、真の信心の入り口というのは、もうここからだと思うんです。そこまでは、いわば、おかげ信心でもね、今朝の御理解を頂きますと、ね、『付焼刃の信心では取れやすい、どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよ』と教えられてます。付焼刃の信心とはどういうような事だろう、人に誘われてのしょうことなしの信心が付焼刃と、教祖は言っておられるが、私は今日は、ね、ただ、おかげからおかげを追い求めておる信心は付焼刃の信心だ。おかげを願う、はあ、灼かなおかげを頂いた、やれ有り難やと言うておっても、その次には、そんな自分の思う通りにはいかない。また願うたけど、また同じだ、ね。

そこでです、そういう信心は信心がそこから薄うなったり、信心を取り外したりするのである。だから、おかげ目当ての信心は付焼刃の信心だというふうに今日は聞いて頂きました。そこで、なら、真の信心をせよと仰せられておる。人から誘われてのしょうことなしの信心、いや、おかげを受けるから参りよると、という信心から、信心が頂けるから、信心が分からせて頂けるから、心を清める手立てを教えて頂けるから、という事が、信心の眼目であるとすると、おかげになります。ね、それが真の信心の入り口。

だからもうとにかく、心一つで全てを創りだすことが出来るんだ、ね。ほんとに自分がおかげを頂きたいと思うなら、もうお徳を頂くより他にはないんだ、そこで、お徳を頂くためには、こういう信心がある、いわば、自分の心一つで全てを生み出していくような、おかげの頂けれる心とは、こういうような心だ、こういう心は、こういう信心させてもらわなければならんと、説いてあるのが合楽理念です、ね。

だから、合楽理念をやはり覚えて、それを行じなければ、おかげにはならんです。ね、それは、やはりなんとはなしにおかげを頂くから、そのおかげに腰掛けてしまっておるようなものじゃないでしょうか。

私は最近、特に思うんですけれども、合楽の信心が、そんなら私の心一つで、こういうおかげを段々頂くようになったと。決してそうじゃない。やはり、それには、一つの風の力というものがある。私は最近、もうこれだけは家内には適わないなと思うことに時々直面するんです。もう、ほんとに何にも言いません。気の利いた事も話しもしません。けれども、それこそさっきの、まあいうならば、私は信心の天才とするならば、彼女はもう鈍才だろうと、こう思うです。いわゆる信心音痴だろうと思うんです。これほど毎朝晩、御理解頂きよって、人に御理解の一つも説いてやれないというような事があってよかろうはずがない。ところがどっこい、そうじゃない。いかにあたくしの言うておるような事、例えば、お話が出来てもです、力がなかったら同じじゃ、家内の場合には、それをね、いつも感じます。

もう、いうなら、何十年でしょうかね、えー、特に、なら、引き揚げて帰ってまいりまして、この方の様々な事がありましたけれども、顔色を変えないです。どんなことがあっても。これはもう驚きです。ね、そうして、その、人を責めないです、言わないです。だから、どういうような信心が内容にあれば、ああいうふうに黙って治まっておれるのだろうか。体は小さいけれども、なかなか、お腹が、まあ、いうならば、でけとる。

ね、魂を清めんならんとか、ね、改まにゃならんとか、磨かにゃならんとかいうような事を、もう、聞いた事もないけれどもです、どうして、あんなに、いうならば黙っておれるだろうかと思う。これはまあ、一つの性格でもありましょうけれども。けれども、いうならば、いわゆる、馬鹿の一つ覚えというような信心が内容にしっかり入っておるからだというふうに思います。

ね、例えば今朝、今日の玉櫛を奉らせてもらう。あたくしは、今も申しました、非常に神経が過敏なほうですから、ね、その玉櫛の、それが萎れてしまっている。6月1日の、いうならば、今日の月次祭にこんな玉櫛を用意して、と、まあ思います。けれどもね、それが、あたくしの今の信心の状態だというふうにすぐ思い変えをいたします。と、結局、神様すみませんという事だけしか出らないんです。

あたくしは、家内の場合はね、いつもそういう事じゃなかろうかと。軽く見られる、馬鹿にされる。ね、様々な問題を目の当たりに、例えばそれを見ても聞いても、顔色変えんですむという事は、がたの、それがたしかない私だという自覚に立っておるのじゃないだろうかというふうに思うです。( ? )、お前はどうしてそげん、その、治まっておれるかと聞いたことがないから分からん、ね。

もうこればかりは驚くです。ちょっと何かがあったらすぐ顔色を変える、すぐ角を出す。ね、そして、自分で自分の心を苦しめて、周囲までも苦しみの中に巻き込んでいく。そういう意味です、私の家内は素晴らしい、そういう家内が風の力、風の祈りとして、あってくれたおかげで、今日の合楽があるというてもよい、と思うようにこの頃なりました。ね、ですから必ず、その、理解力があって、ね、人に、ま、いうなら信心の話の一つもさせて頂けるくらいにおかげを頂くという事も、それは大変有り難い事なんですけれども、ね、例えばそういう話はできなくても、あの人の姿を見ておると皆がおかげを頂く。

この頃、末永先生があちらへ参られ、ま、行く時に、寄せ書きを持って、あたくしの所に持ってきた。で、家内の所にも持っていったらしいんです。あとでそれを見せて頂きましたら、家内がなんと書いておるかというと、神様にすがりてと書い、や、『神にすがりて』と書いて、五十枝とサインしておりました。あたくしは、ほんとに感動を覚えました。なぜかというと、なら、あの人の何十年間が、ただ、神様におすがりしての何十年だったからだという事を知っておるからです。

はあ、あんな苦しい時も、あん時にはもうそれこそ、もう、角はやさんならんごたっときもあったけれども、決して、角を見せなかった、顔色を変えなかった。もうそういう時には、ひたすら、ただただ、神様におすがりをしておったんだなと思いましたから。はあ、素晴らしい、例えば、実行力のある人が言うた事やら感じた事は、実に力があるなと、あたくしは思いました。

ね、こりゃあ神様( ? )とも、どのくらい言っておるか分かりませんけれども、神様にすがって、何十年間黙って、いうなら治めてきたという、その事実がです、ね、そういう力になって現れてくるんだと思わせてもらいます。

昨日、善導寺の原さんが、娘さんが今年学院に行っております。その娘から、お母さん宛てに手紙がまいっております。その手紙の中に、もうほんとに学院に来て良かったというような事をいっぱい書いております。その中でも、最近、朝のお出ましを拝みに出らして頂く事の素晴らしさ、お許しを頂いた。2人、あの、女の子信者さんと2人で話し合って、金光様のお出ましをお迎えをする、お迎えをするなら、金光様のお宅の前で、お迎えさせて頂こうというて、2人のものが金光様のごほんぜんに出て、しかもその、地べたに土下座して、金光様をお迎えさせて頂いたという事が書いてある。

そして、もう有り難うして有り難うしてという、ほんとに学院に来て良かったという事だった。そしたら、神様からね、『一日千回の喜び』と頂いたそうです。そして、その次に書いております。もう一日千回の喜びを心にとめさせて頂いておりますと、色んな心配とか問題というものが、全然それが入ってくる暇も隙もありませんと書いております。

ね、一日千回の喜びというのは、ね、金光大神様、有り難うございます、という事だろうと思うのです。必ず、なら千回というのじゃないでしょう。おそらく、四六時中、金光様、有り難うございますという、あたくしは、こういう信心がです、身に付いていく限り、いよいよ全ての事が有り難うなり、それこそ、学院にならずとも、こういう仕事を頂いておって良かった、こういう家内を持っておって良かった、こういう主人を持っておって良かったと、もう、そういう心だけしか起こってこないようなおかげが頂けるのじゃないかと思うのです。

ね、今日、信心音痴というて、けれども、あたくしのような信心音痴でも、かくまれのおかげを頂いて、ね、感涙に咽んでおりますという事でしたが、そのすぐ後に、お参りにしてみえた、もうこの方は、椛目の時代からですから、もう30年近く参ってきよるけれども、それこそ、信心音痴というのでしょうか、お話は、なかなか頂こうとしない、頂いても、分かったか分からんような顔してある。いうなら、コンクリの上に水をまいたような感じ。染み込まない、ね。

ところが、先日から、お夢の中に、『親先生と吉井の熊谷さんの真似をしなさい』とお声を頂いた。そして、親先生の真似とか熊谷さんの真似は分からんけれども、知ってはおるです。ね、と言われたからです、なら、自分を少し、教えの鏡を立てて、眺めさせて頂いたら、先生、あたくしの心の中には、鬼が住んでおりました、蛇が住んでおりました、と、今日、言っております。

そりゃあいいことだ、あんた、分かりだしたね、て、ね。30年間といやっぱ、その信心は一度も分からなかったけれども、自分の心の中に鬼が住んでおりました、蛇が住んでおりました、親先生の真似をさせてもらう、熊谷さんの真似をさせて頂く、そんなら、どこに焦点を置くかというたら、結局は、自分自身の心を見るより他にはない、という事になったんです。

ね、そして、自分の心の中に、鬼が住み、蛇が住み、なるほどこれじゃ、子供達が孫達が、という事にまでなってきて、ね、その鬼や蛇という、いうなら、そこから改まるという事にもなってまいりまして、なるほど、心一つで全てを創りだすようなおかげの、いうならば、信心の入り口に立ったというような感じがいたします、ね。

ギリギリ自分というものを見極める所から、ね、人ではない、ああではない、もうどんな場合であっても、金光様有り難うございますという事以外にはない、または、あいすみませんとお詫びをする以外にはない。ね、そういう信心がね、例えば、それが合楽理念を分からなくても、ね、そういう信心が身に付いていく限り、あたくしは、助かっていく、救われていくというふうに思うんです、ね。

まずは、心というものが基点であり、ね、土台である。これは、今日あたくしが、研修の時に皆に申しましたように、ね、どんなに素晴らしい学問を身に付けても、どんな財産を身に付けても、それで幸福が約束されるという事は決してない。もう絶対、約束されるのは、自分の心がいよいよ有り難い心に清まっていくという、そこには、もう絶対の人間の幸福の条件が足ろうてくる。心が芯だ、心が土台だ、そういうような、いわば、教育をです、小さい子供の時から、しておくような手立てはないだろうか、そういう、いうならば、何々時代と言われるが、確かに私が申しますように、和賀心時代を世界に広げていくというような、大きな願いの基にです、合楽の信心があるとするなら、その中でおかげを受けておられる皆さんがです、ね、和賀心とは、いよいよ自分の心をまるう、広うしていくという信心修行と、また、それに伴う所のおかげを頂いて、いよいよ、自分の周辺に広げていかなかければならない、ね。

『光の前に闇がない』と頂きました。もう光の前には、もう暗い事はなくなる。その光というのは、自分の心が光り輝きしてくるということなんであります。どうぞ。



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