昭和52年4月16日 大祭における教話
...えー、一番最後の、真の道におりながら、真の道を踏まぬ事という御神誡がございます。〔 〕沢山のお道の信奉者はあるけれども、なら、合楽にも沢山な御信者があるけれども、はたして、真の道におりながら、真の道を踏んでおる人がどれくらいおるだろうかと。えー、真の、今日は道とは、という、私は感じ、また信ずるところを少し聞いて頂きたい。
今日はどういう事をお話させて頂こうかと、私の場合はいつも行き当たりばったりですから。えー、今朝あたりの御理解を頂きながら、はあ、今朝辺りのような御理解を、今日のお祭りの後に皆さんに聞いてもろうたら、んなら、おかげ頂きなさろうばってんが、不思議にね、もう、その、二度やら三度も続けてお話は出来るもんじゃない。それは、やっぱ神ながらな話だからですね。
だから、今日は皆さんにその神ながらな、言うならば真の道を聞いて頂こうと思います。今、若先生がここでお話をしております時に、あちらで、だいたい今日はどういうような事を話させてもらおうかと思うてね、神様にお願いをさせてもらいよりましたら、この、人偏に、こう、乍という字ですよね。いわゆる、作という字、作るという字を頂くんです。人偏を書いて人ながらという。
信心させて頂くと、皆がよく使う言葉の中に、神ながら神ながらという事がございます。だから、真の道というのは、あれは神ながらな生き方をする事だと思うんです。ね、神ながらな生き方。ね。そこから、真の道が分かって来る。その、真の道を辿らせて頂くと、いわゆる真のおかげ、真のおかげ。真のおかげというのは、どういう事でしょうかね。御利益とはちょっと違う。
本当のおかげというのは、ね、もちろんおかげも頂かれ、御利益も頂かれるけれども。ね、身に徳がつくというおかげが受けられん。そこが、人間の幸せの根本になる。〔 〕やらせて頂いても、そのお徳がなかったら、この世でちょうど、お金がないから不自由をするように、あの世でお徳を持って行かなかったら、不自由をするもののようです。
ね、こちらでお金を持たないと不自由しますように、あちらには、お徳というものが、言うならば御霊の安心とか、御霊の喜び。ね。御霊ながらの助かりといのは、ね、私どもが現世にある時に、真の信心させてもろうて、真の道を分からせてもらい。その真の道を辿り辿って、あの世へ行く。だから、あの世でもまた、真の道を辿らせて頂いて、おかげを頂いて。
真の道には、真のおかげが受けられる。それは、ね、御利益というだけの事ではなくて、身に徳がつく。人間の幸せの条件が、だんだん足ろうて来る。貧争病のない世界。ね。それこそ、真善美に輝くほどしのおかげにも段々、なって来る。そういう世界が、極楽の世界。今日、皆さんお祝詞の中に、私、この十年祭を記念祭、奥城造成の事を神様にお願いを申しております。まだ、ハッキリはしておりませんけれども、ここの上の田んぼが5~6〔たん〕手に入るようでございます。
だから、そこに家を建てて何のと、色々。もう昨日もですね、今朝から朝のお届けに、秋永信徒会長が、もう昨日その新館にいっぱいでした。これは、もう十年祭にはどうとかしなければいけませんという、さっそくの御用を、そういう事をお届けしております。今、言うならば、遠隔地の宮崎辺り、山口辺りの支部の方達が前の日から参りますから。もう、とにかく、あの新館がいっぱいであった、前の晩から。
ね、そんな訳で、十年祭向かっての、まあ色々な計画が立てられて、それに向かっての、言うならば信心を、お互い今させて頂いておるのであります。それで、私はその奥城造成という事がです、ちょうど、ここの、だいたいお土地ぐらいの広さがあるでしょう。そこへ、奥城。ね。シナに、シナの、にあるかないか知りませんけれども、桃源郷という所。ね。桃の花が咲き乱れた。まあ、言うならば極楽というような所じゃないでしょうか、極楽という意味じゃないでしょうか。ね。
本当に、この頃から私が頂きます事の中に、ね、合楽はこの世の桃源郷という言葉を頂きました。合楽はこの世の桃源郷なのです。ね、それは合楽部落だという意味ではありません。合楽という事は、ね、私どもが、いわゆる信心のお導きを頂いて、伝導を頂く。私が善導寺の三井教会で、私どもの爺、婆、母達がおかげを頂いております。ね、良いお導きを頂いて、段々おかげを頂いて、本当にやれ有り難や、勿体無やという信心が段々出けて来て。
次に、善導寺から勿体島です。ね。その有り難い、勿体無いの、有り難いものが、人に聞いてもらえることになって、椛目の里の人が沢山助かるようになった。椛目という所は、木偏に花という字が書いてある。いわゆる、木は心であるから、心の言うならば、心に花を、喜びの花を咲かせげ来る所だと、あの時分に頂いておりました。皆さんが心に喜びを頂く、それは初めて参って来た方達が、初めて今まで聞いた事もないお話を頂いて。二日、三日、一週間も参ると、確かに人相が変わる。
心に信心の喜びの芽が出て来るからです。ね。それを、まあ惜しい事に、まあ、死んでしまうような人も沢山ありますけれども、その喜びの芽をいよいよ育てて。その喜びを常に持ち続けるのです。それが、常持です。ね、その信心の喜びを常に、常時自分の心の中に信心の喜びがいっぱいだと。それを、まあ、極楽の世界と言うのではないでしょうか。どんな場合であっても有り難い、有り難い。ね。金光教の信心の尊いのは、それから先が違う。
もう、すぐそこに見えておる合楽があるのであります。ね。合楽という事は、ね、私どもと神様。いわゆる、あいよかけよで。ね。神も助かり、氏子も立ち行くという世界なのです。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み。頼み合いいたせと仰る、頼み合いの世界なんです。ね。そこに、合楽があるんです。なるほど、善導寺、勿体島、椛目、常持というように、信心の過程を応じて、私どもの心の中に合楽の世界が開けて行ったならば、なるほど、それこそが、合楽は、合楽は桃源郷。ね。
お互い、そういう桃源郷に住まわせて頂く。魂の世界に入っても、だから、もうそれこそ四季折々の花が咲き乱れて。ね、もう本当にあの、合楽の奥城に行っただけで、ね、気持ちが安らぐほどしのおかげを頂いたら、お互い確かな死生感といったような物も出けるのじゃなかろうかと、私は思う。はあ、私どもが死んだならば、こげな素晴らしい所にお祭りして頂いて。朝から御理解が頂かれて。ね、朝から有り難い大祓い信行の声を聞かせて頂きながら、この合楽の血に、いわば御霊が静まられる。ね。
いわば、そういう素晴らしい、言うならば桃源郷とも、極楽とも思われるような、いわば神ながらなおかげを頂いて、奥城が造成されねばならないなと思うております。そこでです。私どもが、ね、いよいよその合楽世界に住まわせて頂く事のために真の道があるのです。真の道を踏み辿らせて頂かなければ。沢山の信心をする人はあるけれども、ね、真の道を踏む人が少ないと天地の親神様が教祖を通して、お嘆きになっておられる御教えが。あの御神誡がそれなんです
それは、金光様に限りません。例えば、一心を立てておかげを頂くとか。ね、真心を持っておかげを頂く。例えば、三代金光様にある先生が、しかも私のような無学に近い先生だったらしいんです。これから布教に出らせて頂きますが、とても私のような無学な者では人の助け様もない。どういう心掛けにならせて頂いたら人が助かりましょうかと言うて、お届けをされた時に金光様が、この道は親切一つで助かりますと仰った。
それは、親が子を思う切なる心を持ってお取次ぎをさせて頂けば良いと言うのです。また、四神様は、ね、真で成就せぬ事なし。ね。成就せぬその時は、真が欠けたと悟れと仰る。真でおかげ。ね、一心で。または、私どもの心の中にある親切心でおかげが頂けれる事が分かります。昨日は前夜祭の後が富久信会ですから、ここで商売をなさっておられる方達の、毎月15日が集いです。もう、昨日はクタクタに疲れておりましたけども、私もその富久信会に出させてもらった。
矢部からお茶の栽培と製造をなさっておられます、古川という人が参ってまいります。奥さんが大変な病気で難儀をしておる。もう、枕素から離れられないほどしの重態。医者も油断は出けんと言う。ところが、ちょうど御本部参拝が申し込んでありましたから。ね、もうそれこそ家内の事は神様にお任せして、そして自分はおかげを頂こうと。自分は御本部参拝をさせて頂こうと腹を決めた。
そういうところが、信心にはいるようですね。そういうところが、人間心というものを捨てきって。それこそ、神様に必死にすがって。神ながらに申し込んであるのだから、しかも、御本部にお礼参拝をさせて頂くのだから、そこにそういう勇気が出る。帰ってみて、驚いた。〔 〕近所の方へ行ってから、起きておられたという。ね。
そういう、例えばままよというような、一つの信心の度胸とでも言うよなものが、段々出けて参りますと。ね、そこに神様のお働きの場ば生まれるのです。して、昨日、えー、富久信会を終わらせて頂いてからですね、アンタもここへ、今夜は泊まるとじゃろうもんて私が言うたら、いや、それが貴方、明日は何とかの会があってから、そちらに出らにゃならん。あら、ほんなアンタ、明日の大祭は頂かれんと。と、御無礼ですけれども、今晩帰らせてもらう。ね。
嫁子、嫁子が寝とっ時には放からかしてから御本部参拝しとってから。ね。それこそ、春の大祭っちゃあ、年に一回しかないという御礼のお祭りの日に、何々会合があるからと言うて。だから、何々会はもう止めておきなさいち。今晩、泊めてもろうて、明日お祭り頂いてから行きなさいち、夕べから泊まって、今日もやっぱりお説教を頂いておられます。
ね。だから、信心には、そげんところがいるです。ね。そういう、例えば何と言うかね、排水の陣を敷くと言うか。ね。もう、絶対、神様のおかげを頂かずには止まんという、そういう心がいります。同時に真心がいる。梅林寺さんの前に床屋さんがありました。もう、その時分、もう50~60、頭がハゲとる〔 〕、当時、椛目に、十日に一遍ぐらい必ず散髪に行っていた〔 〕。その当時は、今は〔いわゆる?〕何とか、〔 〕、ね。
あの、大変器用な方ですから、自分でこの箱を作って。ね、それも見事な箱が木で作って。で、そん中に、この長髪道具ですかね、いわゆる散髪道具をもう、一色をお供えして。それを、当時の椛目に供えとこうと。そすと、まあ、誰でも使われるし、親先生のは自分が来てから抓ませて頂きゃ良いからと言うので、その、それこそ真心ですね。真心というのはそんなんです。ね。
それから、その、久留米からバスで、とにかくバスが大変混んでおったそうです。だから〔 〕席が。そこで、〔 〕こうやって、その、あの、あれに〔そのぶら下がってね? 〕その、散髪道具を〔 〕、そして、椛目に見えられた。そしたら、もう不思議な事が起こったんです。その人は右の腕に大きなコブがあったんです。ね。〔 〕下りてみたなら、コブがなかげなもん。
ほこから、もう確かに善導寺まではあったがち。はっはっは。お届けされた時にそげん言われた。もう、跡形もない。そげなこつがあるじゃろうかと。だから、というような思い方をする人は、おかげの受けられない人です。はあ、神様っちゃあ、新たかな。本当に、ここではそういう話が沢山ありますからね。今日も参っておられます、小郡のあの百万畳という美容院の女御主人です。
もう、三ヶ月も前に、ここに〔こぶしがい?〕の固まりがある。それで、病院に行くというお届けをされたけども、病院に行きゃシャッチどうか言うばいち。ね。だから、もう神様に一心におすがりしておかげを頂きなさいち。それこそ2~3日前です。それこそ、昨日まではあったがちゅうとこでしょうたい。その、コブがなかげな。で、明くる日、もうそれこそ、あの、感激いっぱいでお礼参拝がありました。
というような事。そげなこつがあるもんかと言う人は、やはりおかげを頂かれない人です。ね。本当にこの神様はこの体を作って下さった神様なんだから。ね。神様が、言うならばこの体を修繕して下さるという事は、神様にお願いをしたが一番よい。ね。親教会に私が、まあ、言うなら〔 〕おかげを頂いておる時に、今は奥城が境内にありますけれども、その当時はちょっと教会の裏の離れた所に、ちょうど竹やぶのような中にございました。
親先生の式年の、があると言うので、お墓の奥城のお掃除に。そして、沙を引かねばならんから、もう石炭ばこう、自転車に乗せちから、それから筑後川の浜に行ってから、沙を取りに。もう、これで、もう最後という時に、私が早い道を知った。その、奥城から下の田んぼにポーンと飛び降りた途端に、下に竹の切りかぶが、こうあった。もう、それでもう、ワクワクするごとある。その、足の底が。ね。
その自分は、もう本当にあの、何と言うですか。全身と言うですか。私の婆達は、私どんが転んで、膝をこう割るとですね、生神金光大神様、四神金光大神様っち言うちから、あの、足にその泥を塗ってくれよりました。お土というのは、もう神様のお体と同じ事だから。ですから、私はいつもそんな思いが、ね。例えば、もし医者が助からんと言うても、神様に一心におすがりをして、助かるというのは、この神様が、神様がこの体を作って下さったのだから、神様におすがりをして、修繕をして頂くという事。ね。
が、私は一番本当だ。けれども、それが半身半疑でしたから、自分の体の上、体験したいというような意欲を持っておる時でしたから。ね、それこそ、〔 〕、もうチンガチンガしながら、最後のおかげを頂いて、もう夕方でした。親先生が、もう、お風呂も入って帰れと仰る。もう、その時分な親先生は神様ですからね。今でも神様ですけれどもね。そういう、その、一生懸命の思いの信心のけいこをさせて頂いておる。
いいえ、もう足が今日はこげな風ですけんで、もう、〔 〕どん入っちゃならんから、御無礼しまっしょと何てんと言うとじゃなかった。親先生が入れと言わっしゃるから、お風呂頂いて帰ろうというような、言うならば純真さがその時分にはあった。信心にはこれが大事です。おかげを頂きましてね、日長くしておかげを頂きましたが。ね。信心には先ほど申しますように、真心がいる。ね、その床屋さんじゃないけれども。
自分の真心が、言うならばそれが形に現されてという時にです。ね。それこそ、確かに善導寺の上あったが、ただ、善導寺から椛目の間に、長年のコブが取れたというようなおかげにもなって来る。ね。または、んなら、純真一途でです。それこそ、親先生が〔 〕を赤と言われても、はあ、本当に赤ですなあと言うて見よると、赤になって見えるくらいな、私は純真さが信心には求められると、こう思うです。ね。
いわゆる、〔 〕。例えば命がもう明日をも知らんというように、例えば重態という場合であっても、事それが神様の事であるならば、それは事、御本部参拝であるならば、もうそういう事は一生懸命〔 〕して。ね、神様の親心を〔 〕神様が〔 〕。言うならば、元気な心、〔 〕。または、真。そういうおかげを頂く手立てとか、思いとかというのが、〔 〕願いますから、それは金光様の御信心に適いません。もう〔 〕おかげを受けた人は、もうどのぐらいあるか、金光教の信者にどのくらいあるか分かりません。〔 〕ように。ね。
信心をすれば、誰でも神徳が受けられると仰る。ね。神徳と言えば、それこそ有り難い世界。それこそ、人間の幸福の条件が足ろうて。しかも、あの世にもこの世にも残して行ったり、持って行ったり出けるほどしのものが神徳だというのに、はたして金光様の御信心を頂いておりながら、ね、そういう神徳を受けた人が何人あるだろうか。ね。すと、教祖様は嘘を仰っておるという事になる。信心すれば、誰でも受けられるのが神徳だと、こう言う。
そこで、教祖様が仰るところの信心とは、どういうところ、どういう信心をさせて頂いたならば良いかという事でございます。ね。金光様の御信心を、ね、ただ、おかげを頂く為ならばです、それこそ、ね、言うなら箱を作って、床屋さんの道具を全部お供えして、それで下げて来よれば、ね、コブぐらい取れるくらいなおかげが受けられる訳です。真ですから、真心ですから。ね。
いわば、家内は重態である、けれども、心を神様に向けての事だからというて、御本部参拝をするような、言うなら勇猛心がある、元気な心が、言うなら信心の度胸が定まって参りますと、ね、帰った時にはもう全快のおかげを頂くというようなおかげが受けられる。ね。親先生が右と仰るけんハイ、お風呂入れと仰るからハイと言うて入らせて頂く。そこから、ばい菌の入るだんじゃない、〔 〕のあるだんじゃない。日長くしておかげを頂くというような。
なるほど神様が、この体は作って下さってあるんだなあと言うが、足の一部分から分かって行く。ね。だからね、そういうおかげならばです、もう沢山な人達が金光教の信心によっておかげを頂いて来たという事でございます。ね。ところが、お徳にはなっていないです。ね。そこで、んなら教祖様が嘘を仰るとは思われないから、教祖様が仰るところの、ね、信心をすれば誰でも御神徳が受けられるという、誰でも受ける事の出来る信心とはと、その信心を追求して行かなければならない事が分かります。
ね、おかげを頂きたいから、もう、そもそもが、それこそ修行をさせて頂いて。ね。2~3日前でしたが、ある、今、事業をなさっておられる方が、行き詰まっておられます。朝の御祈念にその人の事をお願いさせてもらいよりました。そしたら、私の信心に響いて来るのです。ね、それこそ、あの、歌舞伎の口調。いわゆる、歌舞伎町で頂くんです。訳もない事という事。訳もない事だという事なんです。ね。あれは何でしたか。〔 〕何かですね、ぶよう劇があります。
〔 〕の言うセリフに、訳もない事というセリフがあります。なぜ神様は、わざわざ、私がいかに芝居好きだからと言うて、芝居の口調で言いなさらんでん、もうそれはお前、訳はない事だぞと。けれども、なら、なぜ今、大きな壁にぶつかって、まあ、青息吐息しておるか。その事を、私は思わせて頂いておりましたら。ね、お鍛えという事を頂きました。神様が鍛うておって下さるんだと言うのです。さあ、また売れた、また売れたというごたるおかげばっかりじゃないという事です。ね。
今日は宮崎支部長が参って来ておりますが、2~3日前、もうどうにでも出来ない問題があった。もう金銭、もうどうにでも出けない問題。もう家族中が集まってね、もうどうにも出けない、どうにも出けないという、今話をして、とにかく親先生のお取次ぎを頂くより他にないという、まあ、お取次ぎを頂いたところで、どう、願いようもないほどしの問題でした。そん時、私は電話を取らせて頂きましたら、ちょうどあの、樂の、その稽古をしよるところへ、太鼓がドンと一番口に響いて来たんです。
それは、こちらから、あの、太鼓がもう12時ぐらいだったでしょうかね、晩の。んー。それが、その、ここから太鼓の〔 〕がドンと響いて来たから、私が、もうそのままを申しました。ね。支部長、いかん、いかんと言わずに、いかんと思うところを、もう一遍、それこそドンと〔ぶつかれって私が言う?〕。神様と私っていうのは、そんな具合に密接に繋がりがある。それを、なら今日言う、神乍らと言うのです。
日頃、神乍らな生き方をしよらんと、神乍らな太鼓の音がドンと〔響いちゃ?〕来ん。御理解のしようもない。ね。ほれは、もう翌日、電話がかかって来て、もうおかげ頂いた、おかげ頂いたと。ほれで、今朝からお届けがありましたが。本当に神様の、やはりお鍛えを頂いておられるなという事。ね。この方が初めて合楽に御神縁を頂いた時には、それもやっぱり、商売上のどうにも出けない問題から夫婦でお参りになって、おかげを受けて。ね。
そして、段々、今日までおかげを頂いて来た訳です。そして、えー、宮崎支部長にも劣りたて頂いて、昨日は27名、支部員の方達が一緒にお参りして来ておった。宮崎支部。ね。ですから、自分自身が力を頂かなければです、ね、さあ、その皆、月の会合なんかの時に、お話もさせてもらわんならん、体験もやはり豊富でなからなきゃならない。ただ、また受けた、また頂いただけではいけん。
こういう難儀も、一家中の者が、それこそ火がシュンと火が消えたような状態の時であっても、お取次ぎを頂いて、親先生がドンと行けと仰るから、ドンと行ったら、ドンとおかげが受けられたという事。ね。銀行にお金を借り行かれる時も、やっぱそうです。もう行く所がないから。だから、〇〇銀行に行きなさいって私が。だから、私はその手紙を持って、銀行〔へ行けと?〕、こんな人も珍しいでしょうね。合楽の金光様ここに行けっち言いなさったけんで。
ね、そしたらそこの支店長がですね、それこそ合楽の金光様っちゃあ大変な神様ですねち言わっしゃったげな。それこそ、一回、今までね、その、あの、〔計算機〕、何ちゅう、計算機?お金ば数える機械。ね。その機械がね、もう故障して止まっとったって。そしたら、貴方がドアを入って来なさると同時に、それが動きだしたち。ほお、これはとても、まあ、言う方も言う方で、合楽の金光様に手紙を頂いて、行け言いなさったけんち言うた。
したら、その、支店長が言われる事がよ、銀行っちゃあ、ただ、ね、預かるばっかりではありません、金も借ってもらわなければ立ち行かんのですから、どうぞ借って下さいっちゅうてから、もう本当にそのまま、おかげ頂いた。ね。だから、そういう体験を、んなら一遍、二変積んだからと言うてです、ね、〔でない?〕。それが、次から次と頂いて行く事の為には、ね、次の信心が育って行かなければならない。その為には、神様が、ね、鍛えなさらなければならない、言うなら神様も自由を感じなさる。
教祖様が御晩年の頃は、信心に身が入って来ると用心しなされやと。神様のお験しがありますぞという事を仰ったという事でございますが。ね、神様も、有り難や、勿体無やと言うとるけん、本当どのくらい有り難いかです、試して見なさなければならない事になるのです。ね。それを、ならお験しとも言やあ、またの言い方をすると、このようにして神様がお鍛えを下さってあるんだと分かる時にです、それこそ叩かれりゃ痛いけれども、痛いその手にすがってお礼が言えるという事になるのです。
ボチボチ真の信心になって来たんですよ、はっは。ね。真の信心とはね、そういう鍛えにも鍛えられる。しかも、先ほど申しました。もう私はおかげを頂くコツを覚えた。もう、どげな時でん、もう神様にお任せして、御本部参拝すりゃおかげが頂かれる。もう、どういう時でも和賀心を持ってお供えさえすれば、もう、どういう時であっても、それこそ馬鹿んごと、親先生の言われる事に素直になりさえすればというとだけではいけん、もちろん、それが真の信心の内容には〔ちっすう?〕のものである、絶対必要ですけれども、それでは、沢山な金光教の信心をして来た人が、そういうおかげなら誰しもが頂いて来ておったんだという事です。ね。
そして、なら、おかげだけの世界で、徳の世界というものを知らず、あの世にも持っていけない、この世にも残していけない証拠に、子供が信心もしない。親の時には、それこそ飛ぶ鳥を落すようなおかげを頂いておっても、もう子供、孫の頃になると、信心の、信心の毛もないごとなっておる。ね。そこでです、ね。お徳を頂くという事がどんなに大事か、そんならお徳を頂くという事は、もちろん、それは真の信心さえすりゃヨカと行きゃそれまでの事。
なら、真の信心とは、という事になるのです。ね。私も修行中の時には、もうあらゆる修行をさせてもらいました。ね。けれども、決して、その神様を身近に。ね。これは、例えば一生懸命心を神様に向けて、大祓いなあ五十巻でん、その日にあげる。お水を朝晩頂くけん、お風呂どん入れようと思わん。断食から断食、そして何年間という一椀のお粥さんで過ごさせてもらう。夏もなからなければ、冬もない。夏服一着で過ごさせてもらう。
もう、靴は破れて、こう口になったから、後は下駄。下駄も擦り切れるようになるまで履かせて頂いた。あそこに病人があり、あそこに難儀な人があると言うと、それこそ〔にんもさんじ?〕もあるところを、ね、もうそれこそ喜びいっぱいでお話に行った。ね。そういう時代に、そういう修行をさせて頂いたけれども、おかげらしいおかげにならなかった。ただ、神様を感じるのは感じるけれども、ね、おかげにならん。
ね、そこで最後の切り札。ね、神様、私の上に起きて来る、ね、どういう事がらでありましても、どういう問題でありましても、それを、こんな事では困ると向こうに押しやるような事はいたしません。ね。それを、合掌して受け、それをこれからの修行にさせて頂くという事になった。腹を決めるという事はすばらしい事です。あの時分に私は我情が無くなったんだ、我欲が無くなったんだと自分で思います。ね。
今、私が着ております紋付は、あの、梅鉢ですが、私のはだいたい、これに和がある。ところが神様が、そういう信心をさせて頂くようになったら、ある日、私の紋はこの鉢を取る。和を取るように、和があったんでは大きゅうなれない。ね、枠があっては大きゅうなれない、我があっては大きゅうなれない。その我を取り外す。限りなく大きくなれ。ね。限りなく大きくなる為に、我が取れなければいかん、我欲が取れなければならない。
我情というのは、自分の思いである。ああしたい、こうしたいという思いを捨てて。ね、そこから、ね、させて頂くその事が、神乍らなんです。ね。今日私が、作るという字を頂いて。作るという心は人乍らです。作らせて頂くという事になったら、神乍らです。この野菜は私が作った。ね、神様のおかげで作らせて頂いたという時に、神乍らなお野菜が出けるようになる。ね。そういう、言うなら神乍らな道をです、私が身につけて行きながら、そして真の信心の入り口に今差しかかっておるところですよ。ね。
そこで、腹を決めるという事はです、ね、金を貸してくれと言やあ、なら、ある。ね。貸してやる。ね、くれと言やあ、もうあるだけお賽銭箱ひっくり返して与える。ね。もう、親でも構わんというような病人をしばらく預かってください、おかげ頂かせて下さいと言うてくりゃ、そりゃあ、私げには困るばのとは言わなかった。今から考えてみて、まあよう、家族の者が、ああいう。昨日もあの、信徒会長と話した事でした。
ほんなあの時分にはもう、病人〔 〕今にも〔 〕引っ切れるごたるとが、もう5人も6人もあの狭いお広前にウヨウヨしよった。あげん、横にある谷に来てから、顔洗うたり、唾吐いたりするけん近所から色んな問題が起こるくらいであった。けれどもね、もう椛目のお広前にはあげんとがおるけん参るめえっちゃ誰でん思わなかったという事。ね。私どもの今の、下の方の2~3人の息子の子供達は、そういう、もうそれこそ明日をも知れんごたる状態の病人の人達が、抱いたり、負うたりしてから守りをしてしてくれております。
よう、母なら母、家内なら家内が。とても貴方、あげな病人に子供を抱かしてから行きますもんですかいとは、もうこれからも言わなかった事、今、本当、秋永先生、不思議な事っじゃあるのや、あの時分な。そしてもう、ハエがワンワンじゃった。裏にゃあ牛がおった、前にはブタ小屋があった。そうだもんだから、もうてんで、わんわん言うごとあっですよ、本当、ハエが。それでもね、もう本当に不潔ったらしいものを感じさせなかったという事は、もう素晴らしい事だと思う。
もう、私が有り難いの一念、有り難いのいっぱいにもう、これで、カバーされとったんじゃないかと、夕べその事を話しました。ね。もう、それはゴミはね、あの、今の〔あさり?〕じゃないですから、いくら〔 〕をふいとっても、一遍、自動車がバーッと走ったら、もうざくざくするごとなる。まあ、ようあげなん所に辛抱した事っじゃあると思うごとある。けれどもね、もう一切を有り難く受けるという腹が決まっとるから、もう本当に、困ったなあ、神様にあげな約束しなきゃよかったというような事は一遍もございませんでした。
ね、というようにです、そういう信心が四年半続いた時に、ね。神様が、ね、これからは、言うならばほうれん草に例えて頂いたが。今まではほうれん草を畑からぬい取ってきて、そして、枯れ葉もありゃ、ね、ひげがこうあるとでも、もうそれこそ、何もかにも食べておるようなもんであったが、これからは、自由になるところだけ。ひげはむしって、赤い葉は取って。ね。そして、その力になるところだけを頂けという、以来、私の方には病人を預かってくれとか、金を貸してくれとか、下さいという人は一人も無くなりました。
だから、私は思うのにですね、いかに神様のお鍛えをその時に頂いておったかという事が分かりますでしょう。もう、ハッキリした事でした。ね。いかに神様が試した上にも試されたかという事が分かりますでしょう。ね。そん時に私が落第しておったら、今日の合楽はないです。ね。そしてです、初めて、そんなら、その成り行きというものが、このように素晴らしいもので、力がつくもので、おかげが頂かれるもんだという事がわかった時に、初めて成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にするという事を、言葉を、そういう言葉でお話をするようになりました。
成り行きを尊ぶ、成り行きそのものが神様の御働きなのだという事。いかに神様を大事そうに拝んでも、参っても、ね。家には〔 〕しゅうお祭りしておっても、神様の御働きそのものを粗末にするような事では、神様を大事にしておるという事は言えない。神様の働きそのものを頂く。そして、自分で水を被る、断食をするのというのは、自分が我でしておった修行であるから、ね。これでは、本当のおかげにはならなかった。それこそ、入道雲のような、モリモリとした雲が湧いたかのように見える、力がついたような思うけれども。ね。それは、あっという間に消えて無くなる。
だから、霊徳を受けられた、ね、これは金光教だけに限りませんけれども、霊徳によって人がどんどん助かったという時には、ところでの教会やら、人達のところでは、必ずその霊徳者が亡くなりますと、消えてしまいます。ね。それは、入道雲のような力だからなんです。あの世にも持って行かれない、この世にも残して行けないという事が分かります。そこを、教祖様は、ね、金光様の信心は、荒行より心行をせよと仰った。私がその時分に、荒行より心行をせよと仰るから、心行させてもらわんならんけどれども。
ね、やっぱり荒行もして良いのだと思うておった。ところがね、荒行より心行をせよ。荒行ならば、何々様だって、何々教だって、皆やってるんです。金光教の独壇場というのは、荒行をやらないという事だと、私は分かりました。ね。例えて言うならばですよ、ね。お稲荷さんの信心をしとる人があるとしましょうか。お稲荷さんの信心より、金光教をせよと言われたら、そのお稲荷さんの信心を止めなければいけん。ね。
荒行より心行をせよという事は、ね、もう心行一本にして行けという事であるという事が分からせてもろうて。今、合楽ではその心行に、ね、もう一生懸命、それこそ子供でも取り組めば、取り組めれるような修行ですから、おかげを頂いておるのだ。ね、お便所へ行かれますと、お便所のトイレットペーパーがこういう三角に織ってある。後から入った人がやっぱり気分がええ。だから、自分またこうやっとる。
お風呂へ入ったら光り輝きしよる。はあ、ほらは、もうタオルはキチーッとこうやってしてある。石鹸はもうちゃんとこうやって水が切ってある。ね。そして、きれいに〔服が流してある?〕、後から入った人が気持ちが良いから、また自分も上がる時に、それをして行こうというような心掛けが、心行なんです。ね。下駄を、ね、揃える。自分の為に揃えるのじゃない。後から来る人達が、気分が良かろうと。心行はそういうところから入って行かなきゃ。ね。
一切の働き。ね。それが、あれもこれもという事ではない。あの人の真似をする事はいらん。貴方の前に現れて来るところの、それなんだ。貴方の前に現れて来る問題なんです、事柄なんだ。それを、合掌して受けて行こう。言うならば、神様が貴方に求めたたまう修行を、合掌して受けようというのである。ね。今日のお祝詞の中にも、それこそ天地の中にはね、円うしよう、円うしようという働きだけしかない。
これは、テレビの子供ニュースのところでお話をしてました。この自然界という、自然界には、もう一切を円うせずにはおかん、何億年かかっても円うせにゃおかんという働きがあるという事。その何日か、あの後にその話したら、今日は物理学者のお話があっておった。その物理学者も言うておった。自然界には、一切を円満にせずにはおかんという働きがあっておるという事を。ね。教祖の神様はそこがお分かりになっておった。ね。
ですから、例えばどういうきつい問題であろうが、腹の立つ問題であろうが、はあ、神様がこのようにして、豊かになれよ、円満になれよと言うて下さるんだと思うけん、腹の立つ事も、有り難い、お礼を申し上げる対象でしかない。ね。それば、いちいち腹かきよったっちゃ、何時まっでん、〔 〕三角が四角になってしまうわけ。
ね、もう腹を立てんで、もう腹を立てちゃ馬鹿らしかちゅうごつならにゃいかん。ね。そういう働きしかないのだ。それを、ここでは一切が神愛という風に申します。ね。一切の事柄に御の字をつけて。どういう事柄であっても、御の字をつけて頂く。ね。そういう頂き方から、神愛とはこれだという事が分かって来るのです。ね。本当にあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと仰るように。
いわゆる、真の道をいよいよ分からせてもろうて、本当の信者に少しもなって来たとこでしょう皆さん。ね。あれもおかげであった、これもおかげであったとい分かるようになると、本当の信者じゃと。ね。そして、今まで、ね、お社の中にござる神様だけを尊いと思うておったけれども、神様の御働きそのものが有り難いんだと分からせて頂いて、それを合掌して受けて行くという生き方が、四年半続いて初めて分かったのは、はあ、これが真の道に繋がるんだなあ、これが真の信心というのは、ここから入って行かなければいけないんだなという事が、分かってまいりました。
だから、真の信心とは、言うならば天地日月の心になる事肝要だという事なの。大変難しい、それはもう、それこそ金光様の信心するなら、誰でも知っとる。ね。天地日月の心になる事肝要なり。んなら、天の心とは、地の心とは、日月の心とはという、言うならば神の心を心とする生き方が始っておる。〔B面へ〕……とする生き方が始ってます。ね。今まで難しいと思うておった事が楽しゅうして、有り難うして。ね。たまには愉快で愉快でたまらない。ね。
それがね、いわゆる自然と調和した生き方を生み出して行くと言うのですから、生みなされて行く度に、心の中に喜びが頂けるのです。様々な問題にぶつかる、信心しよってどうしてというような心が起こったら、もう信心はそれで止まっておるんだ。ね。これは、まだ信心が足りんのだという、その内容はです。神様がこのようにして腹の立つ問題を受けて向こうへ行こうという生き方だから、神乍らです。
だから、神乍らなおかげにも繋がって来るはず。なるほど、これが真の道だという事が分かって来るんです。ね。合楽理念とはね、今日皆さんに聞いて頂いたような。ね。もう、本当に見やすい。誰でも行じられる。ね。それこそ、ね。とてもそげな事が、人間、生身じゃ出けるかというような戒律でもなからなければ、ね。人間を小さくしてしまうような教えではない。私は今度、末永先生が南米に参ります。
私は金光様に、ビリグイという所は小さな町だそうですけれども。ね。ビリグイ布教の事じゃなくてから、金光様にね、南米布教を願えて私が申しました。ね、金光様が大変お喜びになったそうです。そして、もう長々と御理解下さったそうです。ね。あちらへ行ったら、もうそれこそ、ね。もう南米中の人間が、本当に助かる。ね。いわゆる、和賀心時代、和賀心の世界が、ね、南米の地に広がって行くところの、その種を蒔きに行くのだ。
ためには、言うなら先ずは、ならビリグイの町が、ブラジルが。ね。丸ブラジルなら、ブラジル国家の事を本気で願えという風に、まあ申しております。ね。それも、秋永、末永先生有り難い事ばい。ね、今、合楽で言われるところの、合楽理念は助かりの理念だと言われておる。助かりの理念という事は、ね、しかもそれに絶対の道だと。それを、体得して、一通りマスターして南米に行けるという事が、私は有り難いと思う。
神様がこの時期を待っておって下さったんだと。先月から大阪の若い先生方が5~6人ここへ研修に参りました。ね。私は驚いてしまった事なんですけども、お話を、まっ、あの、聞きたいというので、なら私の話だけじゃいかんから、家の修行生の4~5人も一緒に行って。ね、私の話を実証してくれなきゃいけんから。連れて行きましたら、ああ、すいませんけど、もう貴方がたは外へ出て下さい。もう、外へ追い出してしもうちから、私一人を取りまして。そして、もう矢のつけ、火のつけの、あの、質問でした。
もう、第一言われる事はね、合楽の先生、もし貴方が亡くなられたらという事でした。ね。人が助かっておる、どんどん、ごひれいを頂いておると話ですけれども、そういう教会なら、今までかつて沢山ありましたと言うのです。大阪辺りには、もうそれこそ〔まんもす?〕教会がいくらもあるんです。ね。ここ辺り足元にもよらんような教会があるんですれども、もうあれは、もうこの世の遺物だと、その青年教師達は言ってるんです。
もう、二代になれば、門はまた地に落ちるんだと、こう言ってる訳です。なら、今上昇中であるところの合楽に行って、何を学ぼうかと言うのは、もし先生あなたが亡くなられたら、ね、後の見とおしはどうつけておられるかという事が聞きたいと言うて、四時間あまり私の話を聞きました。ね。そりゃ私が死んで見にゃわからんけれどもね。特には、合楽には合楽理念がある。助かりの理念なんだ。例えて、例を言うならば。ね。阿倍野辺りの何千の信者を要しておられる所の、もう80歳ぐらいになられるでしょう、女の先生がおられますが、もうそれこそ、有り難いこんげのようなお方である。
ね、その先生の有り難い、有り難いで沢山の人が助かって、潤うて行きよる。または、泉尾教会が辺りのように、もう70いくつになられますけれども、それこそ世界中を股にかけて。ね、世界総氏子の総助かり。総助けを願って。もう、それこそ、ね、命はいつどこで無くなっても良いというような迫力と、ね、決死の思いでの布教がなされておるところに、ああいう、マンモス教会が出けた。だからね、そういう真似が出けるはずがない、私どもには。そげな、命掛けて何てんちゅう事でけん。
そんなにまた、有り難くない。けれども合楽には、もう絶対の道が私が言うておる、合楽理念がある。しかも、それが大変難しい事、頭が良うなからにゃ分からんとか。ね。寝ながらじゃ分からんとかちゅう事じゃない。もう、誰でもそれを勉強しようとしたら、誰でも分からせて頂けれる理念がある。それは助かりの理念であり。ね。あの世までも持って行けるお徳の受けられる理念であり。この世にも残しておける理念である。この理念のある限り、合楽は私の時代よりも、二代、三代とおかげを頂く。
教祖の神様が仰るように。ね。親の代よりも、言うならば、日勝り、月勝り、年勝りのおかげが皆が頂いておりますけれども。ね。代勝りのおかげという事になっていないという事なんです。なぜ代勝りのおかげが頂けないか。教祖の仰るような信心でなかったからという事。なら、教祖が仰る信心をすれば、誰でもお徳が受けられるというお徳は。ね。言うならば神の心を心とするという、そらあ、大変難しい。その言葉どのぐらい聞いたか分からん。神の心を心とする。
けれども、それを具体的に私が踏んで、私が行うて体験して。おかげを実証して見せながら。そして、ここ二十数年間歩いて来た事をまとめてしてあるのが、説いてあるのが合楽理念なんです。ね。だから、どうでもその合楽理念のマスターと、ね、合楽理念の行者になって、金光大神が嘘は仰ってはいないんだという実証者に、お互いがならなければならないという事であります。大阪の先生方が、ね、私はね、合楽理念のある限りという風に、まあ申しました事ですけれども。
なら、合楽の信奉者の皆さんが、その合楽理念に基づいたところの信心生活。合楽理念に基づく生き方というのは、自然が奏でるところのリズムがわかる。そのリズムに乗っての生活である、狂いがない。ね。だから、一通りはマスターしなければならない、一通りは覚えなければならない。もうそれも、んなら、子供でも成そうと思えば成せれるような簡単な事から入って行って。ね。そして、信心生活の上に、それを現して行かなければならない。
そうして行く内にもです、分かった、分かった、有り難い、有り難いという事になって来ますけれども、そういう時に神様のお鍛えがあり、またはお験しがある。そのお験しだと分かり、お鍛えである神様の演出なのだ。私になぜ、歌舞伎町でその、訳もない事というように教えて下さったかという事は、ね、神様のお芝居だという事なんです。神様の御演出なんだ。ね。そこで、なら自分が悪役をしてぬけたり、ね。デレッとしたのを一人で担って、それこそ、そこの中心になる主役を演じさせて頂くような信心を頂かなければならんという事であります。ね。
信心する者の真の道を踏まぬ事と仰せられるが。なら、真の道とは、と、なかなか教えてもらえるもんじゃありません。真の信心とは、となかなか一口に言えるもんじゃありませんけれども。私が歩いて来た道を、私は真の道だと自分で言っておる。ね。また、真の信心だと言っておる。だから、真のおかげが私の上に現れるんだと言っておる。ね。そういう、なら私が実証しておるような実証を、皆さんも、ね、実証して行けれるおかげ。そこに、なら今、合楽でそれこそ月々のあの新聞をご覧になるように。ね。
それが、ほんなこっちゃあるじゃろうかというような、おかげ。神様の働きの言うならば偉大さ。または凄まじいまでの、その働きそのものをです。ね、私どもが信じて。私どもの信心が出けさえすれば、そういうおかげも〔 〕私どもは受ける事が出ける。そういう内容に、一番始めに申しましたようにね。やはり、真がいるのである、純真な素直さがいるのであり。ね、または場合には勇猛心、元気な心がいるんだ。ね。
家内が病気しとるから、今度の御本部参拝は御無礼しますと言うなら、他の事っじゃなかけんで、そりゃあ、ああそうのち、私も言うたかも知れん。けれども、自分がその気になって。ね。ところが人間ちゅうものはみょうなもんでね、こういう有り難い、なら私ども合楽の信奉者が、言うならば年に一回の春の御大祭にお礼ば申し上げんならんという事には、今日は何々会合がありますけんで、今夜はご無礼します、というような事になりかねないのです。もう、本当に油断も空きも出けん。
一言を、コツを覚えたからと言うて、それが本当に自分のものになるまでは、やはり信心辛抱という事じゃないでしょうか。ね、真の道におりながら、真の道を踏まぬ事と、お嘆きになる神様のお心を心とする時、しようとする時に、もうそこに真の道が自ずと開けて来る。そういう真の信心を身につけて。誰しも御神徳が受けられると仰せられる、その誰しもの中に私どもが入らなければならないという事でございます。どうぞ。