昭和51年11月13日 朝の御理解



昭和51年11月13日 朝の御理解

御理解 第百節 「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」

 どうでもお道の信心を頂いて、家繁盛子孫繁盛の道がいよいよ広がりに広がっていくおかげ。それは我が家だけではない。そういう広がりに広いっていくおかげが、自分の周辺にも、まあいうならば社会の隅々までも広がっていくというような道を、金光大神は教えておられるのです。

 それこそ世界中に金光大神の信心、枝も栄える葉も繁るというほどしにおかげを頂いていく。世界中をいわば喜びの世界にしていく、光明の世界にしていくというような十分な可能性を持った教えを金光大神は伝えておられると私は確信します。

 いわゆる普遍性に富んでいるという事です。世界中のどこへでも、世界中の誰れにでも合点がいくような、いわゆる道理に合うた信心を教祖様は教えておられるという事であります。

 御理解第九十五節から、九十六節、九十七節、九十八節、九十九節そういう比処に教えてある信心が一通リマスター出来なければならない。そこから私は、百節に繋がってくるおかげになると思うです。おかげを受けるという事は九十九節にあります。無学でも人が助けられる、けれども本当に学問があってです、どこの誰れにでも学理的にも説明ができるほどしにおかげを頂いて、そして人が助かるなら、いよいよ皆が合点が行く。ただ助かりさえすればよいというのではなくて、九十八節、心は神信心の定規じゃによって私共が信心を進めて参ります心の状態がおかげの受けられる状態であるかどうか、私が言うておる事が本当の証拠に、おかげという実証がある。

 私は、もしそれがいかに本当な事であっても、私自身の上におかげが現れてこなければ前には進まれないという、いうなら行き方。世間にはずいぶん立派なことを言う人があります。いうなら真の信心とはと、もうそれが本当に真の信心のように言い、自分が真の信心をしておるように言っても、もしそこに真のおかげが現われないならば、それはおかしい。

 私はその行き方で進んで来た。いつも自分の信心とおかげに定規をおしはめるようにして、信心をいわば続けて来たつもりです。

 九十七節になりますと、神を拝む者は拍手をして、神に向うたら、例え槍先で突かれても、後へ振り向く事はできんぞと、いったようなね、もう神様へ向う一途の信心。

 これは神様へ向ういわば気勢を示された、いわゆる一心不乱、心を乱さない。どういうことがあっても一心を立てて神様へ向っておかげを頂いて、段々きたわけけですけど、なるほどそれは日本だけのことではありますまいけど、そういう一心を立てて奇跡を現すとか、おかげを受けるという例はたくさんあります。

 これは金先様の信心とは限らないのです。信心の内容にそういう一途なものを持っておらなければならない。けれども、それで良いという事は決してないという事です。

 おかげさえ立てば良いというのは、例えばそういう、一心を貫く、いうならば、ガムシャラに、水を被ったり断食をしたりです、自分の心が惑わない、自分の心が乱れない為の手段として、そういう修行をさして頂いてでも、神様へ向うという一途なね。

 世の人があれこれと神の事をロ端にかけると、神様の比礼だと。どんなに人が悪口を言うても、それはもう神様の比礼だと。これは私は確かにそうですけど、一つの信心の過程だと思います。

 悪口の言いようのない、というような内容が段々できてこなければなりません。信心の過程なら合楽の場合、現在そうですけれども、悪口を、もう合楽はもうまるきり違うように、別派のように、あれは金光教じゃないというように、見方言い方さえする人がある位であります。

 だから本当にこれこそが、合楽の信心こそが教祖金光犬神が教えられておる本当な、正当な信心だと言われるようなあかしを立てて行かなければなりません。

 だから悪口を言われる間はお互い信心の過程、合楽はそういう一つの過程だと思うのです。実際中を覗いて見るとなるほどなるほどと合点の行く事ばっかりなのですけれど、まあだまあだ大いに反省もしなければならない。これで良いと思わない行き方をいよいよ身につけて行かねばなりません。

 九十五節に世には神を売って食うと、そういういうならば信心は、合楽の場合、おかげでさらさらないというところに立脚して合楽の信心があるのであります。

 そういう例えば、私が今申しましたような、いうなら完壁と思われるような信心が身についてきて、教祖金光大神がこんなにも素晴らしいという事を教えておられたんだ、という事になり、そこに間違いのない神様が実証して下さる、神様が実際をもって示して下さる家繁盛にも子孫繁盛にも繋る。しかもその家繁盛子孫繁盛が、もういよいよ広がりに広がって行く内容を持っておる信心である。

 世界中に金光大神の枝葉が茂り、はびこって行くほどしの内容を持った信心を教祖は教えておられる、伝えておられる。金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教える、というのはただ自分の家だけの、家の繁盛といった事ではない。世界の繁盛に繋る程しの事になるためには、例えば、今私が九十五節からずーっと聞いて頂いたような内容、ただ一心に拝むだけならどうもおかしい、内容を頂いただけでもなるんじゃないでしょうかね。

 無学の者でも、学者でもなるほど合点が行くようなおかげを頂くためには、やはりそれにはちゃんと一つの筋道立った学理と申しますかね、教学が伴うての信心。

 ただ自分の行き方がです、言っておることが例えば本当だと言うたり思うたっするなら、その本当のおかげが現われて来なければ本当としないという慎重な信心の進め方ですね。

 そこでこれは若先生の言葉を借りますとです、最近の合楽の信心はもういよいよ完壁の域に入ったというのです。もちろんそれがいよいよ完壁となると限りがないのですけど、完壁のいうなら域に入ったんです。これからいよいよこれを進めてさえ行けば良い。

 そこで。合楽教会の信心、いうなら合楽理念というものが打ち立てられなければならぬことになります。

 昨日は美登里会でしたが、後半は皆さんの発表を聞かせて貰い、前半を私の話を聞いてもらったんですけど、合楽理念という事について、いろいろ話をさして貰いました。

 だいたい「合楽の信心とは」と問われた時に皆がどのような信心と、ただおかげ頂きましただけではいけん。こういう理念に基づいて、こういうおかげが現われておるという信心でなからなければ。そこでお互いが短い時間で一口で言い現わせられるおかげを頂かなければならない。

 そこで何十年間信心の稽古をしてきた、その時その時の信心の一つの芯になっておるものをいわば挙げられるわけです。

 甘木の初代の信心を一口で言うと天地の大恩、天地の大恩を体得されたからこそ、一切を神様の尊い御物であると言う。

 今日私は起きがけに頂いた事なんですけれども、昨日その合楽理念という事についてのいろいろの内容を箇条書きに黒板に一ぱいに書かせて頂いて、それを逐次説明したり、また皆が合点が行くようにお話を進めて行ったんですけど、最近心行という事が言われます。いやもう心行一本、その、心行の深さ広さを意々深めて行き広めて行き、それを自分のものとしていこうという信心なんですね。

 ですから履物一つ揃えさして頂くでも必ず心行が伴うておらねばならない。ただ綺麗にするだけではいけない。その綺麗に揃えるその心が心行である。後から入って来る人が気持ちが良いであろうという思いが心行である、というふうに。

 最近合楽の勝手の方に行っても、風昌場に行っても、そりゃもう美事です。もう本当にタオルでもピシャッとしてあるし、いつも散らかっておる食堂から向うの方でも、私が夜(夜十一時、十二時頃御神前礼拝に必ずお出でになられます)出て参りますともうスリツパでもピシッと揃えてあってから、飯台の上も綺麗にしてあります。いわゆる心をそこに使っておる事が心行なんですね。

 なぜそういうふうにしていかなければならないかという事でしょう。今日私が頂きますことがね、すべてが拝む対照だからと頂きましたよ。

 例えば下駄が汚れておったり、乱れておったりでは拝むのに拝みにくい。着物を例えば脱ぎ散らかしておる時に、ならその脱ぎ散らかしておる着物は拝みにくい。ピチッと畳んである、掛けてあるという時に初めて合掌する、合掌ができる、皆が拝む対照であるから、キチッとしなければ、拝むにふさわしい行き方を身につけて行かねばならないという事になります。いうならシダゴダ(乱雑に、キチッとの反対)の中に仲々合掌はできません。

 もうそれこそ水を打ったようにとか、またはそれこそ、線で引いたようにとかというキチッとしたり、その雰囲気とか、たたずまい、これは庭石一つでもそうです、キチッとお掃除が行き届いて箒目が立っておると思わず合掌しなければおられない。

 持に天地自然の働きなど、それこそ朝日夕日の例えば時などは、思わず合掌しなければならないものが心に生れて来るでしょうが。同じなんです。私共の周辺のすべてがです、合掌しなければおられないほどしにそれをキチッとできるということはね、心行であるということと同時に、すべてが拝む対照になるのだから、キチッとしなければいけないということになるのです。

 甘木の初代が天地の大恩を分かられた、悟られた。枯れ葉、枯れ枝―本一枚でも天地の大恩を悟られたからすべてが尊い神様のいうなら御物として頂く事が出来られた。すべてが拝む対照であられた。いや押し頂く対照である事が甘木の信心だというのです。

 玉水の湯川先生の御信心が一口で言うならば、神様が御主人なら氏子は使用人という行き方を身をもって体験されて、それを皆に伝えておいでられた。もうそれで大阪地方のいうなら特に商人が大変におかげを頂いた。神様は御主人なんだ、自分がどんなに〇〇会社の社長さんと例えばあってもてす、実際は自分はその店をお預りしておる支配人だ、番頭だという頂き方。そこで主人であるところの神様がご覧になってです、油どん売りよっては神様からいつお暇が出るやら分からん、御主人から。

 だから、いかにその神様のお心をわかって、その神様の心に、主人の心に添うような精進、努力、陰日向のない行き方、いわゆる実意丁寧神信心がそこにできたわけです。なるほどおかげ頂く筈だという事です。

 神様がご主人、私はそこの使用人。ごまかし半分じゃきかん。神様がご主人であるという頂き方から、もうおのずと実意丁寧神信心ができればできるだけ、神様からの給料は上ってきたという事になるのがおかげですね。うちの番頭はもう、あれは本当にどこから見てもスキがない。もう支店の一つも持たせてよかろうというようにです、いよいよ繁盛に繁盛を重ねていく一つの理がある。

 なるほど湯川先生のご信心はもう氏子は使用人、神様はご主人というこの一つで表現できるようなご信心を身につけておいでられた。

 だから決して神様はここに出てまいりますようなね、厳しい修行は教えておられない。水被れの、火の行水の行せよといったような難かしい事は全然ない。いうならばいかに心に心行がなからなければできないか。いわゆる最近合楽でいわれますね、「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは己がなさぬなりけり」という事になるのです。

 これは厳しい意味でどういう事でもやろうと思えばやれるという意味でなくて、なせばなるということは、いうならば子供でも、やろうと思えばできる事だということです。

 私共此処のところを頂いてから、もう本当に合楽の信心が目が粗かったなと、改めて気づかせて頂きます。

 湯川先生の信心は、そういうピシッとした信心ができておるからこそ、水も洩らさぬおかげになって、今日あのような、今日までもご比礼が隆々と輝いておる。

 合楽の場合は確かにおかげを頂きとめる信心はしてきたけれども、頂いた信心をみんな洩らしておるところに、堂々回り的なおかげにしか繋がっていなかったと言える。

 やろうと思えば子供でもできるようなことを私共はおろそかにしておったという事です。なせばなるという事は、やろうと思えば子供でもできるというようなことをおろそかにしておった。これではいけないというので、それこそやろうと思えばば子供でもできるようなことですね。私の方に例えば炊事場とか風呂場とか洗面所がいうならば綺麗に、まあこれから段々光り輝くようになりますでしょう。そこにそれが心行をもってなされる時。 同時に今日頂きますように、そこを拝む対照にしなければいけないから、炊事場に例えば立った時に、炊事場がまず合掌しなければおられない程に光り輝くようにしていかねばならない。

 だから合楽の信心を一口で言うならば、成り行きを大切に、成り行きを尊ぶという事だという事ですね。

 最近はそれに、すべての事柄に御の字をつけてとか、いよいよ大きなおかげを頂くために、いよいよ心を広く大きくする事のために寛の字で行こうと。う冠にくさ冠に見ると書いて寛という字。くさがん だから一切すべてをです、神の働きと見るところに、それがどういう難儀なことであっても、それを受けて行く。黙って受けて行く、黙って治めるというその事が寛の字につながる。

 いよいよ心が広く大きくなる。その広く大きくなるから広い大きな例えば、ならおかげを受けてもです、それを洩らしておったのが心行不足であったからという事になるのです。

 なそうと思えば子供でもなるようなことを私共は実に軽く見ておった。そのなそうと思えば子供でもできるような事を、よかよかで通り過ぎておった。そこからおかげが洩れよったという事になるのです。

 咋日お風呂に入っておったら、昨日皆さんにお話をした合楽理念という事をいろいろ箇条書きに書いて、あゝもう一つここに、この事が欠けておったなという事は、なせばなるという、そういう信心が目ごもうできていくと同時に、神様が私共に求めて下さる修行、決して火の行水の行じゃない。神様が私共に求めて下さる修行。

 その神様が私共に求めなさる修行ならば、それが例えば火の行であろうが水の行であろうがです、表行的なものであろうがです、神様が求めなさる時には、どんな修行でも受けていこうというのです。いうならば成行きを大切に尊んでいく事の中に入るわけです。けれども、具体的に分けるとそういう事になる。

 例えば神様が私の前にもう、それこそ腹が煮えくり返る様な問題が起きても、それを受けていくといういき方が身について、同時に子供でもなそうと思えばできるような簡単な事柄をおろそかにしておった事をです、私共が行の上に、それを表わして行くところにすべてがキチッとなってくる。

 その、なぜキチッとせねばならないか、それを心行でもってすればキチッとしなけばおられないが、同時にキチッとしなければ、そこは拝む対照だからという事になる。

 もういよいよ合楽理念を箇条書きに書かせて頂いた事がです、今日皆さんに聞いて頂いた事が内容になってまいります時です、立派な一つの合楽理念という事が生れて来る。

 そういう程度のいうならば高い信心を教祖の神様は合楽に教えて下さった。これを理念づけて、人に説明していくならば、これは合楽の言うておる事が間違いのない本当な事だという事にもなってくるだろう。そういう信心であるならばです、なるほど普遍性に富んだ金光教という事がいよいよいろんな角度から見ても、世界中に葉も繁り枝も栄えて行く内容を持った信心だという事に、いわゆる御理解百節になってくるのです。

 今朝御神前で頂いた事は、歌舞伎十八番の勧進帳の弁慶が、勧進帳の空読みをしておるあの場面を頂いたんですね。いうならば忠義一途の弁慶が、例えば主人の義経を叩いてまでも自分の心中をですね、まあカムフラージュするわけです。そして関守をごまかしてでも此処を、関所を通ろうとするわけです。関守はただ分かっておるけれどもその心中を察して、そこをね通してくれるのです。

 いうならば今までの合楽の信心はそんな感じが致します。違うておる事でも、言う事があまりにも健気であるし、または一途ではあるし、一心に願っておるし、それこそ矢でも鉄砲でも持って来てもビクともせん行き方でいくから、神様もまけて下さって、おかげを下さったというのが、今日の御神前で御心眼に頂いたのがそれじゃろう。だからおかげというのはね、間違うておっても、その願いが一途であったり、健気であったり、おかげを頂く一つの分野というのは、おかげだけであるなら何処からでも入って行けるわけです。 無学でもよいのである。いうなら泥棒でもよいのだ。願うことに例えば昨日か一昨日の御理解の中にありましたよね、だから間違うておってもこちらが一生懸命になれば、神様はおかげを下さるのがちょうど弁慶と富樫のやりとりのような事ではないでしようか。間違うとる、これは通しちゃならん。けれども、それでも忠義一途に一生懸命に涙ぐましいまでにやるもんですから、そこに富樫がそれを本当のようにして通してやるのです。

 だから本当のようにして通して下さるというのでなくて、今日皆さんに聞いて頂いたのはです、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にするような信心は、いうならばです、なぜ成り行きを尊ばねばならないか。

 例えばこれが合楽理念という事になるとです、なぜ成り行きを大事にせねばならないか、それは神様の御働きだから、神様のいうなら大恩の中にあるのだからという風に説明がつくでしょう。だからそういう説明を段々して行っておりますとです、合楽の信心は玉水の湯川先生の信心も、それから安武先生の信心も、それから高橋正雄先生のどうでもよいという信心もです、含んできます。

 けれども、どうでもよいという信心はどこまでも自分自身の個人の助かりですね。自分が楽になる、お願いをして一生懸命にお願いしての事だから、後は右になること左になることはどうでもよい、というのが高橋正雄先生の信心だというのですから、これは自分が救われるとか、自分が助かるという意味においては素晴らしい事です。けれども自分がその助かった時点でです、その助かりをいうならば常持から合楽へ向うという。常持という事はいつも助かっておるという事なんです。この助かりを持って合楽に向うというのです。合楽というのは神も助かり氏子も立ち行く世界に進むというのですよ。

 この助かりを、どうでもお役に立ちたい立ちたいという一念が、そういう心の状態であるから、どうでも良いという自分の心の中の信心は、自分が助かっておってです、その助かりをです、こんどは止むに止まれぬお役に立ちたいという一念に向って初めて合楽に向ったという事になるのです。

 合楽理念というのですかね、を説明すると、ざっと今日皆さんに聞いて頂いたようなことになってまいります。そういう信心が身につけられるという事はさほどに難かしい事ではないという事になるです。

 今まで成り行きを大切にして見えたですね。御の字をつけてみえたです。すべてのことを寛大の寛で受けてみえたです。だからなるほど素晴らしいタイミングが生まれて、素晴らしいおかげを頂くのだけれども、残っていない。それを最近気付かせて頂いたのが、なせばなる、という、なそうと思えば子供でもなせる事を私共がおろそかにして来たことが、段々心行を高め、心行を進めて行っておるうちに、その大変な大事なことが分かってきた。

 そこに例えば玉水の湯川先生の信心も、合楽の信心の中にスッポリ入ってくることになった。

 玉水の先生の信心はです、神様がご主人、私共人間は使用人、だからその神様の眼をごまかすようであっては、いつまでたっても支店長にもなれなけりゃ、店を分けて貰う事もできない。いうなら蔭日向がある。神様がご主人、私共は使用人。そこに蔭日向のない忠実な働きをするから、神様がおかげを下さるんだ。なるほど繁盛する筈だ。その信心がその中にスパーッと入ってくるでしょうがね。

 合楽のいうなら心行がです、いうならば実意丁寧神信心になるからです。だから下駄一足扱わせて頂くでも、もう人がおらん時には脱げ散らけとくごとこうするのではなくて、人が見ておろうが見ておるまいがキチッとさして貰うという行き方が身について来る。しかもその行き方はです、子供でもなそうとするならばできるほどしのみやすいこと。だからいよいよ若先生が言うように、合楽の信心が完壁の域に入ったと言うても過言じゃないと。

 昨日半ばに豊後森の武田先生が、女のお医者さんですね、もう七十からのおばあさんです。自分で運転して自動車で参って見えます。もう合楽通いが有り難うして、嬉しうてたまらんようにして、お参りして見えます。

 最後に「先生、あなたが合楽に御縁を頂かれて、合楽の信心に対する感想を一口のべて下さい」というて私が申しましたら、こういうことを言われます。

 「私は永年、本当の信心、宗教とは、ということを思い続けてきましたけれども、これはという信心に、宗教に行き当った事がなかった。これはという宗教家に行き当った事がなかった。私は合楽の親先生に初めてお目にかかった時にです、私の心に描いていた幻の人と思うて感動しました」と。

 私はそれを聞きよってね、やっぱりお医者さんでもされる位の人じゃから表現が素晴らしいと思った。

 「私が永年心の中に、恐らく生涯、私が求めておるような人はおそらく、会う事はできないだろう」

 お茶の言葉の中に一期一会という言葉があります。それは今日、私が皆さんに話しておるといったことは、もう今日限りのものだと。今日会うて、もう一時間後にはもうないものだ。また会えば別なものだという。これはお茶の言葉だと思いますけども、私共がそういう時々刻々に変って行く一期一会だというのではなくてです、私共が一生に一度です、本当にこういう人にめぐり会いたいと思うておって、それに例えばめぐり会えた時の感動をね、私の心の中に描いてきた幻の人と表現しとられます。

 もう二十何年も前の、私が福岡にいろいろお話しに行っとる時分でした。その時私は何かで大変おそくなりまして、秋永さん(信徒会長)が、私と光橋先生(先代光橋寿一郎先生)を送って、西鉄の駅にやって参りましたところが、最終のがあと三・四十分あるというような時でした。それであの辺の西鉄の周辺を、あんな繁華なところですから、そこをブラブラしておったら、そこに易者さんがおりました。灯りをつけて暗いところに居りますね。それでそれこそひやかし半分に秋水さんと光橋先生が、いっちょ手相を見て貰おうというごたるふうでいったんです。

 そしたらね、当時、秋永さんが夫婦間のことでトラブルがあっておった時代でしたがね、もうその事を的確に言いましたよ。だからもう光橋先生が、「ほうこれは合うばい」というごたるふうで、なら私も一つ見て下さいというわけです。そしたらこう言いました。 「あなたはね、だいたいもうあなたの運命というのは橋の下にでも寝らんならんような運命です」と言ったですよ。もうその時は先生は商売に失敗して、それこそ金光様の先生にでもならにゃん(ならねばならぬ)という時でした。そしてからね、他にも言う事が余りにも的確に当るもんですから、私もやっぱリ一つ見て下さいというわけです。

 そしたら私の顔を見たり、本を見たりしていたが、「こげな人相の人を見た事がない」と言うた。

「あなたの人相はね、天地を貫く相だ」と言う。そしてからまた調べよったがね、「あなたは不動様の信心をなさいますね」と言うたです。「はあ」と私は申しましたです。不動様という事は不動の信念という意味だと思ったから「はい」と言うた。

 そしてね「あなたのところには八百萬の神々様が集まってござる」と言うたですよ。もうこれには私ども、秋永さんも光橋先生もですね、顔を見合わせてから、本当にビックリしました。

 「そしてこの方はあなたのお友達ですか」と言う。「はあ、友達です」「ならこういう素晴らしい友達を持ってあるのですから、この人の言う通りにすりゃ」光橋先生にです、「橋の下に寝らにゃんことにならんですよ」ということを言いましたよ。

 私はその時には光橋先生に「こうせにゃん、あゝせにゃん」という事を言いよったけど、なかなか自分の信心を信心を出して私の言う事を聞こうとしなかった時分でした。こういう素晴らしい友達を持っておるなら、この人の言う通りにしなさるなら、あなた達の運命も良い方へ展開してくるという意味のことを申しました事を、皆さんにお話しをしながらね、それこそ武田先生が自分の心の中に描いてきた、いわば、幻の人に、会うた時の感動とね、たった短い時間の中に本当に感動いっぱいで語られた、そのことを皆さんに聞いて頂きながらね、ほんに何十年前こんなこともあったたいと思うて。

 だから皆さんがです、それこそ一期一会じゃないけれども、私と皆さんとがこうやって会えたという事がね、大変なもう素晴らしい事なんです。

 そして今日、私が皆さんに聞いて頂いた様にです、教祖金光犬神の言われた事をです、合楽ほどに広く深く頂き止めておるところはないのじゃなかろうかと思うくらいであります。それが今日の御理解にもなってきたのです。なら今日の御理解をいよいよ家繁盛子孫繁盛だけでなく、世界中に枝も栄えりゃ葉も繁るようにおかげの頂けれる内容を、いわば頂けて、しかもそういうおかげの頂けれる、完壁とまで思われる教えを今日、こうして頂けておるという事なんです。成り行きを尊び大事にせんならん。もうこれを完壁のように思うとったけれども、甘木の信心と、いうならば玉水の信心、これに高橋正雄先生の信心がごッぽり合楽の信心の中に入ってしまう。それ程に素晴らしいのです。しかもそれは大変な難かしい事かというと、そういう事ではない。合楽の信心は、なそうと思えば子供でもなせれるほどしの信心であると同時に、私共が本気で神様に向うというか、修行をするならば、あなた方の前に現れてるその事柄の一切をです、外にもう修行はないのだから、その事を本気で修行として受け止めていくならばです、いよいよ限りないおかげに会う事ができるという事であります。

 今日の御理解は、もう私はいついつまでも残る御理解だと思うて聞いて頂きました。皆さんの心の中に本当に、今日皆さんに聞いて頂いた事がしみ込んで、そのしみ込んだのが皆さんの信心の行き方というか、皆さんの心の中に血となり肉となっていくおかげを、これはもう限りなく続けられなければならない事です。

 なるほど若先生が言うように、完壁の域に入ったというこの合楽の信心を、いよいよ完壁なものを目指して進めて行くその手立て、手掛りが、最近このようにしてできていきよるという事であります。どうぞ。



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