昭和51年11月11日 朝の御理解
御理解 第91節 「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」
いよいよ合楽で信心の稽古をさせて頂いておる人達は、いよいよ本当の事を分からせてもらい、本当のおかげが受けられる。あられぬ行をするけれどもと、元を取って道を開く者は。あられぬ行と言う事の真意を、今日ここらあたりで申します、あられぬ事をいうなと。これはいらん事を言うなと言う事です。いうならば元を取って道を開く者は、初めての事ですから何がなにやら分かりません。やはり拝むとか参るとかと言う事には、修行がつきもののように思うております。もちろん修行はつきものです。
けれどもそのうあられぬ行をせねばならんように思います。いうなら水を被ったり又は火の行をしたりね、修行と言って日の行をする。火燈明だいたり、断食をしたり。まぁ様々なそのう自分の身を苦しめる修行を致します。教祖様の信心が段々お進みになるに従ってです、そういう修行はまぁ言うならば愚にもつかない修行であった。なるほど苦労はしたけれども、いわばあられぬ行であったと。言うならばいらぬ行であったと言う事に、例えば此処を頂きますと、合楽で言われておる事が。
いよいよなるほど成程と合点がいくと同時に、教祖様の信心の素晴らしさが、いよいよまた格段と有り難いものになって来るですね。昨夜用事を済ませてから、やすむ前にここへ出て参ります。一遍ここを回りますから出て来ましたら、電気がついとる。何かと思いましたら若先生がお夜食を作っておるとこでした。それからなかなか親子ですけれども一緒に、こう揃うてお話をする機会がございませんから、いろいろまぁ信心の四方山話をさせてもらう、自分は自分でなにかラーメンか何か作ってから頂いておった。
そうしておりましたら、石井信二郎さんとそれから麻生さんと二人ひょっこりやってきました。あらあんた達はお月次祭は頂いたとねち聞いたら、「はい頂いてから二人ちょと用があって、どこどこまで行っておりました」とこう言う。そしてまた信心の話に花が咲いた訳ですけれども、若先生がこう言う事を言っております。「今晩の御理解を頂いておって、もういよいよ合楽の信心が完璧」と言う事を言っております。勿論それがなされてから完璧なんですね。
これはもう一つの何ていうですかね、合楽の信心、いわゆる合楽理念と言った様なものを、まぁ簡単に申しますならばね、成り行きを大切に又は尊ぶとか、全ての事に御事柄と頂く。御の字をつけて頂く。今まではこんな事はお粗末だったとご無礼だったろうと思うておったような事でも、御の字をつける内容があったら、それは有り難いものに変わって来る程しの事である。最近は私どものいわゆる目の前に起きて来る全ての事柄、一切が神の御働きと見るという考え。
こういう信心が出来る時にいよいよ心が広う大きくなるとこう言うのです。まぁここんところをですね、そのもう一遍皆さん改めてひとつ頂いて貰いたいと思うんですけれどもね。なぜ成り行きを大切にするかと、なぜ全ての事に御の字をつけるかと、いよいよ大きなおかげを頂く為に、いよいよ神のひれいを頂くかと言う事はですね、天地の親神様のご恩徳が分かるから、天地の親神様のお心が分かるから、一切神愛と分かるから、いいですか成り行きを大事にするのですよ。
昨夜申しましたように、教報に出ております、甘木の初代の親先生のご信心を一口でいうならば、天地の大恩といわれております。玉水の湯川先生のご信心を一口でいうならば、主人はいや主人は神様。氏子はその使用人という頂き方。主人が言うなら番頭さんなら、家内はそこの女中さん。そういう生き方だと言われております。高橋正雄先生という先生のご信心は、どうでもよいという信心だと言われております。
そういう例えば、まぁ現代の金光教的、いうならば東の玉水西の甘木、と言われる程しの信心がです、言うならば私が皆さんに聞いて貰い、そして私が私の信心としてです、私のものになっておるものを皆さんに語っておる、聞いて頂いておると言う事です。甘木の親先生は、本当に一切が天地の親神様の御物であると。天地の大恩が分かれば分かる程、もうそれこそ木の葉一枚枯れ枝一本でも、天地の親神様の御物だとして、自分がそれを信じて実感して、自分のものにして人に伝えられたから人が助かった訳です。
ここでもそうです。玉水の先生がです、湯川先生が、天地の親神様がご主人だ、自分はその番頭さんだという頂き方。そこで主人であり番頭さんである、その番頭の姿勢番頭の心掛けというのは、いつも主人の顔色を見て、主人の気に入るように気に入るように、陰日なたのない働き、いわば忠実にありさえすればです、神様を主人と思い自分は私は番頭と思うて、そういう番頭としてのあり方をです、真面目な番頭として誠実な番頭として仕えてさへいけば、いわば主人は給料もあげて下るだろう、地位もどんどん上に進めて下さるだろう。
これを自分が身をもって体験されて、もう信心はこれだと、この生き方でさへいけば商売大繁盛であり、家は大繁盛するという体験を自分が頂かれて、大阪商人にどんどん説かれたから、大阪の商人がどんどん助かった訳です。いわゆるどんどん商売が繁盛した訳です。まぁ高橋正雄先生がね、一生懸命の御信心をなさって、後の事は右とか左とかと言う事はもう言うならば神様任せ。どうでもよいと言う信心。だからその三つの信心がです、完全に合楽の信心の中に入ってしまっておると言う事なんです。
なぜ成り行きを大事にするのか、なぜ御の字をつけたり、天地の大恩が分かれば分かるほどね、これは物だけではない事柄であっても、神様の御働きであると実感せずにはおられないし、どうでも神の心が分かれば分かるほど、それが神愛である。どういうそこに難儀な問題と思うておっても、それが神の神愛なんだ。氏子を助けずにはおかんという神様の働きなのだから。神愛として有難く受けていく、いや勿体無いというて頂いていくのであります。
そういう信心をいわば長年続けてきておる内にですね、ここ3、4日言っておりますように、「成せば成る成さねばならぬ何事も、成さぬは己が成らぬなりけり。」というこの詠から御理解を頂いて、今まで例えば成そうと思えば子供でも出来る事、成そうと思えば子供でも出来る事を、成さずに疎かにして来たというのです。玉水の湯川先生の信心はこれ何です。いつも主人の顔色を見ている。主人の喜ぶように喜ぶように、主人の気に入るように気に入るようにという頂き方が。
まさにまぁ言うならばろくそな事は出来ん、主人の気にいらんような事は出来んと言う事になって来た訳です。この信心が出来る限り、もう合楽の信心は完璧だというのです。出来ればですよ。だからいうならば成り行きを大事にする、尊ぶとか頂くとかという、これは皆さんが何十年、いわば続けて稽古をして来た事。確かにそれでおかげを頂いて来た事。もう本当に神様の生きた働きを日々感じて来た事。なるほど難儀というものはない、難儀と思うておったのは、神愛であると言う事が皆さんが分かって来た事。
だからおかげをここに集中して集める事が出来たんだけれども、そのおかげがなら一年なら一年を締めくくってみると、例えばお金でいうならば、残っとらんと言う事です。どこからか漏れよったと言う事が分かって来た。そして成せば成る事をです、成そうと思えば子供にでも出来る様な事を、疎かにして来て始めは立派にやりよるけれど後はね、尻尾を結んどらんと言う様な生き方。信心をしていてそげな事でよかろう筈がない事を、本気でいうならば実意を欠いて来たと言う事が分かった時です。
これが神よりの信心、大きなおかげの受けられる信心。大きな信心をすれば大きなおかげを頂けれる事は間違いない。その大きなおかげの頂けれる信心をここに指し示して頂いたのです。これでいうならば完璧だと、まぁ若先生がいうのです。私は昨日その若先生と話して来た事ですけれども、あんたんごとろくそなか男が、大体今度は一番おかげを頂く事になるばいと。なしかち例えばなら、いつも風呂の事でもうしましょ、綺麗好きな物は言われんでんきちっとせなすかん。
ばってん綺麗好きなものは、これがろくそなかつが入ってきて汚しておると、またこげん汚してからというてから、責めるごたる心があるです。綺麗好きなものは必ず。けれども、綺麗にしなければおられない心、それが心行だと言われておるのですから。例えばちょっとでん曲がったり汚れたりしておるとです、皆んなが気持ちが悪い。皆さんが気持ちが悪いようにと思う心が心行なんです。だからその心行がね、いわゆる表行全廃と言う事になったのです。
表行はせん表行は今日の御理解で言うとあられぬ行なんだ。いうなら要らぬ行なんだ。そこで言うならば心行、心に掛けさせて頂いておればです、女の人であるならば炊事場がいつもきらきら光りよるじゃろう。お百姓さんであるならば、いつも鋤鍬鎌の面が泥がついておる様な事ではないでしょうか。使うた後に綺麗に今日もこの鎌のおかげでというて、磨きあげてから整頓するだろう。だからろくそなかもん程、心行が出来ると言う訳なんです。あんまりきっちとそれはだからそうせにゃ気持ち悪かけんしよるとです。
だからその行がお風呂に入る時とかね、まぁ鎌をぬぐうと言う事だけではありませんよ、心行というのはいつも心にかけさせて頂いて、いつも湯川先生ではないですけれども、いつも主人の顔色を見ておると言う事なんです。主人がどう思うてござるじゃろうかと、右と思うてござる時には、はぁ右と左と思うてござる時には左にしていくという、いつも主人の顔色を見ておる、いつも神様の心をみておると言う事です。
昨日若先生がこうも申しておりました。「親先生のどこから毎日毎日あぁいう新しいさらな心が生まれてくるだろうか」というわけです。それは「わたしゃ寝ても覚めても心の中に金光様金光様と言いよるけんくさい」と私は申しました。いうならもう寝ても覚めても、神様の顔色ばっかり眺めておると言う事です。いうならば湯川先生の信心がそこに出来てきたという事なんです。
それでいてですよ、そう言う風に信心をさせて頂いておって、結果は右であろうが左であろうがどうでもよいという心が、これは人間の助かり意味するものです。右にならなければ駄目、左にどうでもならにゃいけないという処に助かりはないです。こういう間違いのない神様にお願いをして、こういう間違いの先生のお取次を頂いての事であるから、右左はもうあなたに任せてあるという心が助かった心なんです。だからそのまぁ初代の先生方、三人の先生方の信心が、合楽の信心には全部入って来ると言う訳なんです。
だからこれだけは皆さんがどうでも覚えなければならん。何故成り行きを大事にしなければならないか。天地の大恩が分かれば分かるほど、成り行きを大事にしなければおられない。神の心が分かれば分かるほど、神愛と分かれば分かるほど、御の字をつけなければおられんのであり、尊ばなければおられんのだと言う事になりましょう。そしていよいよ大きなおかげを頂きたいと思うならばですね。
いよいよ頂いたおかげを漏らさん様に、いつも主人の顔色を眺めさせて頂いておるという信心を身につけなければ、必ずそこから漏ってしまうと言う事なんです。それが本当に身についた時の事を思うたら、もう本当に私は胸がどきどきする思いが致します。それはまた信心にゃそれを完璧に自分のものにすると言う事には、一生懸かりでございましょうけれどもです、金光様の信心のおかげを頂く、いうなら未来の信心あられもない信心を廃してしまって、必要な信心いや神様が求めてござる信心。
神様が願ってござる信心に、私共がいよいよ踏み切らなければいけない。もうここでは私永年、そのまぁ思うて来た事ですけれども、私の方にはお届け帳が三つでお届けしますから三冊ある訳です。私はお届けをする時に「一」つとこう書いて「、」を打って例えば、高島秀雄なら高島秀雄、久冨繁雄とお届けするのです。勿論修行生の先生方も皆そうするのです。ところが内の若先生だけがここに一字を書かん。面倒くさかち言う訳です。ほんに面倒臭がりやですうちの若先生は。
だからそげんと程今度はおかげを頂く事になるのですよ。もうこげんせにゃあきちっとしなければ気色の悪かちいうごたるとは、あんまりおかげを頂かん。当たり前。それでもうろくそなかとはもう、面倒臭がり屋がです、私が言いよる事が本当に解らせて頂いたら、それが心行だとするからおかげを頂く。昨夜からちゃんと一の字をひいちゃる。もう私は本当に嬉しかったです。もうこれは長年私は決して言わん主義ですからね、こんな事じゃいかんよと言わん主義ですから、もう神乍らに任せておりますけれども。
昨日月次祭のお届け帳を見せて頂きましたら、「一」とちゃんと書いてある。これはもう絶対な心行です。こうすれば親先生が喜ぶからと、その思う心が、私はこんなに喜んでいる。親先生が喜ぶ、いわゆる親先生の顔色を見とったら、親先生の心に沿わなければおられない、それが私は、昨夜も遅うこちらの便所を使わせて頂いた。どこの便所を覗いても、やっぱ三角にこうして折ってある。本当に嬉しいんです。今日なさるっ人が心行をしてござる。
それを例えば私が、皆さんに教えたり伝えたりしておる私が見てから嬉しゅうなかろうはずがない。そうでしょう。なるほど湯川先生が言われるように、神様は御主人、そして氏子は使用人。主人が番頭さんなら、家内は女中さん。だからいかに勤め、いかに精進し、いかな態度を取らせて頂く事が、主人の気に入るかと言う事ば、考えさえしておればよいのです。どうして親先生のあぁした新なものが日々その出て来るのか、現れて来るのか、私のいうならば、長男の若先生ですらそれが分かってなかった。
それは私の心の中の事、当然の修行をしよるかと思うとった、決してそんな修行はしよらん。もう只々いつもいつも、主人の顔色ばっかりを眺めておると言う事に他ならない。そこでですこの御理解をまた裏付けるかのように、教祖様の御理解が昨日の教報に出ております。これは教典意外にある御教えです。読んでみましょうかね。「必ず塩、干物絶ちせんでも、夜中寝ずに拝むような事をせんでも、夜は寝てもよい。心の内さへ届いたら、同じじゃ」と心の内さへ届いたらそれでよいと言う。これが心行なんです。
心の内さえ神様に届いたら、心の内さえ主人の心に通うたら、それでよいのだというのですよ。私はこれをみてから、これは初めて発表されました御理解ですから、これを見て私が、こげん改めたじゃなくて、私の法が本部で発表されたよりも、早くいうておると言う事になりますでしょうが。私が言うておる事が間違いない言う事が分かるでしょうが。次にね「物を頂く時に額まであげて頂いたら、腹にあたったりするような悪い事はない」とあります。分かりますでしょうか。
物を頂く時に額まであげて頂いたら」と、これは物だけではありません。事柄でもそうです。成り行きを尊ぶとか勿体無いというて頂く時、それは額までもこう上げて、私がお風呂に入る時にお湯の水を汲んでから、三回額までこう持ってきます。必ず三回。だから私はおかげを頂くはずだと思う。この御理解もこの教報が来てから初めて頂いた御理解。理屈じゃないです。そうしなければおられない心なんです。絶えず心行が出来ておるから、そうしなければおられんのです。
もう一つ変った御理解がありますからね、これも私が日頃まぁ思うておる事でもあり、又時々言う事ですけれどもね、「盗人は盗んで拝んでいる、取られる方の信心が強ければ取られぬし、又盗人の方が信心がよければ取られる」と。素晴らしいでしょう。大きいです、この頃の御理解に、例えそれが泥棒であろうが売春婦であろうが、助からなければならんからと言う事なんです。だから泥棒にとって今日はよか収入があったと言うて押し頂きよるならね、泥棒の方が勝つて。
自分の物でも無い物を自分のものと思うて、こうがめとるとの方が取られると言う事。だからこちらにそういう気持ちがあれば盗られんといっておられるのです。泥棒がとってからね、はぁ今日は大分取ったけんよかったっち、こうやって押し頂くならね、それでいいのだと言う事なんです。その方が神の心には叶うんだと言う事なんです。私この「元をとってあられぬ行をする」と言う事はです、これは例えば教会なら教会を開く、その一番始めの先生方は、やっぱあられぬ行もされると言う風に頂いとったけれども。
あられぬ行と言う事がね、今日はもう本当にあられん事をするという、この久留米の方言と同じです。あられぬ行と言う事はね、もうあられん事を言うなち。違った事を言うなという事なんです。だから違った修行をするなと言う事です。それは元をとって道を開くものはね、あぁでもなかろうかこうでもなかろうか、どうすれば自分が助かるじゃろうか、また人が助かるじゃろうかと思うて、それこそ間違うた修行も沢山するけれども、いわゆる教祖様自身もなさったけれども、そういう修行は違うた修行であったと。
表行より心行をせよ、桜の花の信心より梅の花の信心をせよと。もう桜の花は捨てなければならない。表行は捨てなければならないと言う事になるでしょうが。そういう行はせんでも見やすうおかげを受けさせる、今合楽でいうておるのはそれなんです。みやすういわゆる大根のね、湯川先生の信心はね、苦労はしておられない。火の行水の行と言った様な苦しい修行はしておられない。只々神様の顔色ばっかりを眺めておられた、言うならば心行だけをなさったというのです。
そういういわば通る所を通って、これが本当だと言う所に至った時にです、おかげは見やすく頂かせると言う事になるのです。だからどうでも今まで頂きに頂いてきた、成り行きを大事にすると言う事は、言うならば甘木の親先生が天地の大恩が分かられたから、木の葉一枚でも大事にされたように、神の大恩が分かっておるから、全ての事に御の字をつけて頂くのであり、成り行きを尊ばせて頂く、神様のいうならば大恩、いうならば起きてくるその全てが、神の愛とこちらは悟っておる。
大坪総一郎はどげな難儀な事であっても、それは神様が憎うて苦しい事を与えなさるのではない。かわゆうて与えなさるいうならば手であるとか、神様の愛の現れがこの難儀でありこの問題である。だからそれは難儀ではない、もう神愛の固まりだと悟ったから、私が今日皆さんに聞いて頂いた。いうなら語っていっておるわけなんです。成り行きを尊ばせてもらう、成り行きを大事にさせて頂くと言った様な信心がもう天地のリズムをいつもそこに聞く事が出来る。
昨日も私ちょうどここ下がったのが五時過ぎでした。勝手の方に参りましたら、「親先生今あの櫛団子が下がって来ております」ち言う訳、小さい折りに一つあがって下さいというて出しました。ちょうどこのくらいのお弁当箱のごたっとに、まぁ6、7本入っております。それから私一本頂いて、そこにおる女の修行生の方達にあんただんも、頂かんのと言って1本づつやったんです。そしたらそこに千恵子さんがやって来た。そしたらまた公子さんがやってきた。
ちょうどあれが来たこれが来たで、ちょうど女の修行生の方やら、うちの嫁達ばかりで、私が一本頂いて丁度ぴったりだった。それまで誰も来なかった。そう言う様な事柄の中にね、もう私はいつも神様の素晴らしいリズムを感じます。それこそ私が風呂場でお湯を押し頂く、それこそ皆さん額までも押し頂く心になれば、おかげになると言う風にここで仰っておられる様に、私は昨日本当に迂闊だったなぁと思うた事があるです。この前からお風呂に入ってから、そのまぁ石鹸を付けさせて頂いて。
まぁそれこそ押し頂いて使いよりますよ。けれどもこの私は必ず牛乳石鹸の赤箱しか昔から使わんのです。それがもうこう何十年間、一日だってきれる事なくずっと続いておると言う事は、とてもこれは大変な神様にお苦労をかけておったなと、言う事にひょっと気がついた。もうその日だけが有難いのではない。いうならば何十年前から有り難いです、こういう働きを受けておったと思うて、お礼を申し上げておったら、扉にカチッとおいさみがありまたよ。今日だけではない。
今月だけじゃないもうお前がこの石鹸しか、他の石鹸つこうたら肌が荒れるんです。だから牛乳石鹸を、もうどげなよか石鹸でも他は絶対に使わないです。それが何十年間ね一日だって欠けた事がないように、神様が送り続けて下さっておる。それから思わせてもろうて、なら、石鹸だけではない、あれもこれもと思いがそこから、きりがないほどに神様のおかげを頂いておる事が有り難くなってきた。
ここのところまでならです、いうならば成り行きを大切にしていくという事で、皆さんも感じなさるでしょうが。素晴らしいリズムが聞こえて来るでしょうが。素晴らしいタイミングが生まれて来るでしょうが。だからおかげを頂いておる、その頂いたおかげがです、いうならそこまでの信心では、どこからか漏れよったと言う事になるです。だからこれを漏らさぬ信心が、なら湯川先生の信心。いつも主人も顔色を眺めて、良い忠実な番頭さんとしていわゆる女中さんとしてです。
もうちょいともう家の丁稚ばっかりゃ贅沢か贅沢から、もう家の番頭ばっかりはもう本当に裏表があって、俺が見とる時だけはむごうやるばってんから、もう見よらんと目を離すと、もう油を売っておると言う様な事では、何時まで経っても給料はあがらんと言う事。湯川先生はそこん所を忠実に遣り抜かれた事になるのです。そこの信心が出来る時にそれこそ、若先生じゃないけれども、合楽の信心は完璧だと言う事になって来るのです。今まで精進をして来られた、成り行きを大事にするとか御事柄として頂くとか。
もういかにも完の字を頂くぞという信心に、ここにもう一つここにお互いが成せばなる事を、やろうと思えば子供でも出来る事を疎かにして来ておった事を、もう一辺頂きなおして、なら若先生がお届け帳に一つ点を打つだけだから、子供でん出来る事じゃろうもん。それを他のもんなしよるばってん、あげな面倒臭い事をしてから、俺は絶対にせんという風な態度で、もう絶対書かなかったのが結局棒を引く様になった。一時が万事にこれを実行していく事になればです、いうならば完璧なおかげが頂けれる事になる訳です。
しかもこれは限りなく目細く、頂いて行くと言う事になれば限りがないですけれども、同時に今日教祖様の御理解を3つ聞いて頂きました。今までこれは発表されなかった御理解であります。その3つの御理解がです、合楽ではもう教祖様と同じ事を私が、これを見る前に頂いておると言う事が、如何に私と教祖様が繋がっておるか、通うておるかという事が皆さん分かるでしょうが。皆さんそれを信じて下さらないとね、私がいうておる事を右左ににするです。
それではやはりおかげは受けられません。形の事。本当にこうやって額にまでも、もっていって有り難いと言う様な信心をです、させて頂く事こそが、最近昨日でしたかね一昨日でしたか、信心がいよいよ身に付いた事になるし。それが行いの上にも思いがけの上にも、何じゃったかね言葉は、らしく振る舞えると言う事になるのです。だかららしく振る舞えるおかげを頂きたいですね。