昭和51年11月8日 朝の御理解
御理解 第25節 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
大きな信心がよい。大きな信心が出来れば大きなおかげが受けられると言う事なんです。大きな信心をしよるけれども、小さなおかげしか頂かんと言った様な事は、大きな信心さしてもろうたら、大きなおかげが受けられるのです。ね。だから大きな信心とはといつも心に願い、大きな事ばかりをただお願いする事じゃない。大きな信心とはどういう信心か、そしてそれを分かったら、一歩一歩それに近づいて行く精進をする。
と言う事なんです。昨日一昨日一昨昨日かでしたか、本部であの特別入殿が御座いました。ここから秋永先生と、日田の綾部さんが、二人でおかげを頂かれ、北九州管内だけで三十何名のまあ入殿者があって、もう今度はもう何からもう何というですか、もう炊事からお掃除から、もうあちらの修行生と同じにしなきゃならなかったそうです。それでまあ先生方だけでも、六人か七人かおられ、三十名くらいの先生方がそれだけおられた。そしてまあ色々信心の研修をなさるけれども。
もうもう一押しもうちょこっとという所が、その皆が分からん。だからそのちょこっという所の、合楽の話をしても、またあのなら向こうには分からんと、言った様な中にはどうでも合楽の信心を頂きたいというて、おかげの泉やら六、七名の方が、その申し込みを受けて帰って来ておられます。昨夜、六時頃だったでしょうか帰って見えてからの話なんです。それでまあ色々おかげ頂いて大変有り難かった事は、あの合楽から行っておる学院生が、大変評判がよいと言う事です。
みんなもうぴちぴちとして、合楽の修行生だけはころっとしとると、まあ言われる先生方からの評判が良かったと。そすともう一つはもう帰り間際に大阪の玉水さんが、団体参拝があったと、もう玉水がお参りして見えるちゅうとあの、もう広いお広前の障子が全部取り払われるそうです。そしてあのお広前いっぱいそのなるそうです。だから私共は帰りに金光様に御礼させて頂こうと思うたけれど、とても寄り付かれるようなだんじゃなくて、もう端のほうからお礼して帰って来た。
けれども非常に力が湧いたと言うております。ね、合楽がもうおかげ頂いたおかげ頂いたと言うてもまだまだ、まあいわゆる伸びる一つの可能性を今発揮しておる所ではありますけどまだまだ言うなら、玉水さんあたりの足元にも寄らないという、まだおっきくなるぞまだ伸びれるぞという訳です。ね。それが大変まぁおかげを学院生の評判が良い事と帰りに玉水さんに、の団体参拝に会わせて頂いたのがおかげだったという風に言うておられます。私も聞かせて頂いて、まぁほんとに有り難いとこう思います。
まあ向こうでの話はあの合楽でいうならば、徹底して教えを頂いておるから、あそこでもう一押し言いなさるとか、教えて貰うとよかばってん、そこは私どんも分からん、という世界ばっかりだそうです。そこを合楽ではつまびらかにしかも、あらゆる角度から教えて頂いておる。だからそういうなら合楽でかく教えられると言う事を、説明しても分からない。又分かった様に思うてま魅力を感じる人は、今言うようにどうでも合楽の信心を聞きたい、という様な事をらしいんです。
私はその玉水さんの話を聞かせて頂きましてね、本当に愈々大きな信心をしなければならないな、したら今日矢張り二十五節でした。ね、迷い信心ではいかん大きな信心、したら私昨日その秋永先生の話しを聞きながら、本当におかげ頂かなければならないと、思わせて頂いておりましたら、大きな大根を頂いたです。もう葉もこうしこっとる、その大根も太して長かった。すと葉はもう隆々として黒々しとるけれども、根はちょこっとばっかりのいうならば、葉ばかりながら、しっぽけなしと言う様な感じの大根と。
もう長々と大きい見事な大根とを頂いた。何時も大根のお知らせは、ここでは苦労なしという修行しとるから、ごぼうのお知らせは、苦労だなごう修行しとるから、という意味で頂く。大根な白くて苦労しとらんという意味なんです。けども昨日はその大根と言う事を非常に、強調して頂くんです。大きい根という事です。大根というのは大きい根という事。大根というのは、大黒様のなんていうんですかね、竹にすずめとああ言う風に申します様に、大黒様には大根が必ず付き物ですね。
大根とねずみが昔そういえば、久保山先生所の、あの元のあの神様をお祭りしてる所の欄間に見事なあの、大根とねずみがこう親しげにしてあるのがあった。あん時に私が頂いた事なんですけども、結局大黒様には大根と、ねずみがあの付き物だと言った様な事を頂いたが、どうでもその所謂大黒様に大きな、ねずみは困ったもんですけどね、その大根のおかげを頂かなきゃ、大きな根のおかげを頂かなければいけないという、大きな根という事は大きな心と言う事なのだ。
そこで私は、( ? )のその事を神様にお願いさせて頂いとりましたら、例えば玉水の初代が、言うなら大きな信心をなさったと言う事は、差ほど苦労はしておられないという事です。皆がそれ火の行、水の行と言った様な表行、もういうならば信心とは難しいもんだという修行はひとっつもしておられないと言う事。信心は見易いもんだという、信心をなさっておられると言う事です大黒ですこれは。ね。苦労をしとられないと言う事。今日はもうこの辺の所を聞きどころですから頂いて貰いたい。
信心は難しいものそれこそ高い所から高い所へ綱を引っ張って、その綱を渡らんならんようなね、危険を感ずる様な綱渡りのようなものではないと言う事。なら綱渡りでも稽古すりゃあの軽業師なんかは、綱渡りやります。けれども信心というのはそんなに難しいもんじゃない。今朝から私はこんな事を頂いた。成せば成る成さねば成らぬ何事も、成さぬは己がなさぬなりけり、これは古い昔の歌ですね。誰かの歌でしょうけれども成せば成る成さねば成らぬ何事も、成さぬは己がなさぬなりけりというね。
これは何か大変難しい事、もう人の真似んでけん様な事でもです、ね、やろうと思えばやれるんだ、という風に私は頂いとりましたけれども、昨日から今日にかけて頂くそのご理解から頂きますと、そう言う事ではないのです、成せば成ると言う事は、成そうと思や誰でも子供でも出来るという意味なんです。成せば成ると言う事。だからそういうやろうと思やぁ子供でも出来る様な事を、成そうとせんから成らんのだと。玉水の湯川先生という方はそういうです。
いうならば苦に大きくなっていかれる修行をなさったと言う事なんです。昨日は小倉の富永先生ん所のお母さんの、十年の式年祭が御座いましたから、四時から労の無い火や水の行じゃない、家業の中に心の行、ね、心行の中に愈々心が豊かですから、何時も三時からの研修を二時から致しました。皆集まって参りましたから、私は急に変更致しましてね今日はあの、皆で勝手とあの向こうの下の炊事場、勝手の方とのあの整理整頓をしなさい。私はちょっとまあ昨日は特別だったでしょうけど。
もそれはもう本当に、私はぞっとするぐらいに散らかっとたです。そら散らかっととは子供が来てから、ぱぁっと散らけたつなら新しい散らかり方なら、今日のこたありませんけどね。もう道具の置き方の不整頓な整頓が全然でけてない、これだけ女子が居ってからいや男でんこれだけの修行生が居ってから、どうした事かと私は言いました。私がね今合楽では表行というものが全廃また、表行はしてはならんと私が言うておる。いや表行はせんほうがおかげを頂くと言うておる。
けれどもね表行せんほうがおかげ頂くけれども、心行せんならも全然おかげ頂かんぞと。例えばその一つの例に私は何時もあの、風呂場の事を皆んなに聞いて貰いますよね。お風呂に入らせて頂いたら、ね、今朝方からも私はお風呂に入らせて頂ましたが、蓋が逆さまにしちゃる風呂の蓋がね、成程それで蓋になっとるけれどもです、ここで蓋がこう半月方になっとるからきちっとこう閉めにゃいかん。
タオルはただもうぽんと掛けただけ、だらっとこうならんとる。最近はもう出来よったけども、ほんとに誰か一人か二人のろくそなかつが居るとあげんなる。そりけんろくそなかつがおるけん、何人かがこんだそれをカチッとしていきゃですね、綺麗になる、だから綺麗にすると言う事ではない。整頓するという整頓好きとか、綺麗好きと言う意味じゃ無い、それが心行なんだと言う事です。
石鹸なんかも使い散らかして、こうしたというのでは、入って使う者がじゅくじゅくしとる石鹸を使わにゃならん不経済でもある。それをきちっとこうしてあるとですね、そして洗い流してあって綺麗にしてあるとです、入った者が気持ちが良い。それこそ合掌して入るとに合掌して入りよい。洗面所と私だから風呂の事をもう心行とは、整頓する整頓して綺麗にすると言う事が、自分の心も有り難くなるなら、後から使う人が気持ちが良い。だから心にその事をいつも掛けさせて頂くと言う事なんだ。
今日はちょっと炊事場と、下ん方の炊事場も見ていらっしゃい皆、と言うて私が昨日は研修をせずにあの整頓をさせました。だから末永先生なら男だからしちゃでけんと言う事は無い、というてなら女子を捕まえて、とてもいま炊事場がちらかっとるけん、こう汚れとるばいとならあんたげん嫁ごんでん、言うたっちゃいいじゃないか、公子ちょっともう勝手の方の散らかりはどうかと、整頓せんかとあんたなら言えるじゃないかと、夫婦でね、これが教会の勝手ごとかと。
もう裏から入って来たもんがびっくりするじゃろう、裏から牛乳配達さんとか、新聞配達さんが入って来る、もうちょいと合楽の金光様の勝手ばっかりはもう、そりゃもう上からなんか落て掛る感じ、箱でもこうこうして置いちゃるね、例えばあのやかんならやかんが、棚がきっちとでけとるから、斜めに置くならみんな斜めにこうやって、おかにゃいかん、真っ直ぐ置くなら、きちっと真っ直ぐおかにゃいかん。斜めに置いたら、みんなこう斜めにこう置いて、今日は全部やり直しとる。
それはもうやり直すとか、整頓するこつじゃないんだと。ただ親先生が言いなさるから、するのじゃでけんね、あんたどんそういうね、心に掛けさせて頂く行に今は専念しとるとじゃ、そこでなら皆さん方の場合でもそうですよ。心行心行と言よるが、家ん中はもう散らかしっぱなし汚れっぱなし、私は本当は修行生の部屋の一部屋一部屋を毎日検査に歩こうごとあるけれども私はそげな事はせん。
けれどもなら自分達の言わば住まいなら部屋にです、着物が脱ぎ散らかしてあったあれがこう汚れとった、と言った様な事で心行しよるものとは言えないのです。だから心行とは、やろうと思やぁ誰でも出来る事でしょうが皆さん、ね、成せば成される事でしょうが。それを成さんのはですからね、自分に成す気が無いから成らんのだ。今私共の若い女の方達だけで、何人居りますかね五、六人いるのでしょう。それはちょっと誰かするじゃろうというのか、気がいわゆる心行しよらん証拠です。ね、
例えば金光様がいうなら、朝の四時から夕方の四時までぶっとうしに、お座り抜かれご奉仕し抜かれた。しかも七十年という、ね、そういう真似はとても私共じゃもう始からでけんとこう思う。出来んけれどもですそれを少しつづは自分のものにして行く、いわゆる出来るとこだけはして行く、ね。私は朝神様から八時までと頂いておった。けれども私が三十分間は神様におまけしときまっしょと言う気持ちで、八時半まで座るように致しましたら、もう八時半までずうっと、お参りが続く様になりました。
だから最近ではまぁ三十分間ばっかりおまけさせて頂いて、ここ最近はもう九時だから必ず九時近くまで、ここへ座っとらんならん様にお参りがあります。だから自分でね出来るけれども、三十分でもここを奉仕させて頂く。昼は十二時あ二時まで久富先生が座られるから二時から交代すりゃあよいのですけれども、私は一時間早う出て来る事にこの頃しとります。だからね成せば成る事を少しづつ、育てて行くと言う事なんです。それが見易うに出来る様になる有り難く出来る様になる。
皆さん今日はね、大なおかげを頂かなければならんという、例えば玉水がねお月参りに何千人という人がお参りになる。秋永先生たちがあちらで見て来て、はあまだこりゃ合楽はまだまだ、まだ自分たちが信徒会長として、ね、また支部長として本気でまちっと、本気で信心の、いわゆる合楽示現活動に参画さして貰うと言う様な、おかげを頂かなきゃまだまだという、元気が出て来たという、私も聞いてそれをほんとだと思うた。
それでなら玉水の湯川先生と言う方は、どういう信心をなさったら、ああいう大きなおかげを受けなさった、受けられなさったじゃろうかと、私が思うたら大根を頂いた。大きな大根ね口だけはむごう言よんなさるけれども、心がこまい惟では愈々見かけは、話じゃむごういわっしゃるけども、教会は一つも御ひれいが立たんと言う様な教会が、その葉ばかりながら尻尾けなし、根がこまい心がこまいと言う事だろうと思うた。
まあそれをなら、合楽と例えても良かろう、ね、大きなこの大根を玉水さんで、矢張り尻尾けなしの方がまあ、合楽と思うても良かろう。だからこのいわば根がひとつ愈々大きくなると言う事が大きな信心根とは心である。なら大根とはいわば苦労なしと言う事である。そげな火の行やら、水の行やらせんでんよかと言う事です。言うならば成せば成る、成さねば成らぬと、私共はこの事この歌を何か大変難しい事、その難しい事に挑戦する事の様に思うておったけれども、そう言う事じゃ無いんです。
もう成そうと思えば子供でも成される事をですね、今朝からもタオルがこげん風においちゃったから、あちょっとこうやって引っ張てきちっと、こうね後から使うもんが気持ちが良かろうと思うけれども、どうしてこんなたったこれくらいな事が出来んのじゃろうかと私は思う。成そうと思う心が無いからです。成そうと思う心その心が心行なんですね、お茶菓子をあんた達がずっとこう並べて置いてある。一掴みとってもきちっと並べてあると、あらいっちょどこに持っていっとるかすぐ分かる。
しかも斜めに置いてあるなら、皆が( ? )斜めに置いてある。ぐしゃぐしゃ大きかつ小かつとが、こうきちっとこうやって飾る様にして並べてある。それを見てから気持ちがいいでしょうが。なら勝手のほうですから、信心の無い方達やらが入って来る。もう合楽の金光様ん炊事場に行ったらもう、なんでんお菓子のごと綺麗にしてある、やっぱ信心じゃというじゃろうけれども、結局昨日の様な状態だったら、それこそもうほんなこてつばかくるごたある、ほんなこげなお鏡さんな、ね。
お鏡さんのなんか水、水餅にしとったつのごとある。そればもうなんちゅうですかね、流し台の上にぽんとこう置いてある。蝿がこれにこうついちゃる。もう私はぞっとしました。あげな餅まで食べさせるとじゃろうかともうほんとに心行、ただ修行というだけであってね、女子じゃから茶碗洗うたり、ご飯を炊いたりしよるというだけであて、心行を持ってそうしよらんと言う事が分かる。私が此れ程心行というの、もうそれこそ合楽中の教会の者がです、ね、もうだから散らかしちゃ成らんじゃ無いですよ。
料理しよる時はどんなに散らかしても良いけれども、終わったならきちっと整頓さして貰うとい言う事、その思いが心行だというのです。私は綺麗好きでいいよるとじゃ無い。ね、玉水の湯川先生と言う方成せば成る、もう簡単に成そうと思えばもう改まりでん、もうなんちゅうかねもう血の中に、そのもう入り込んだごたある、難しいものがありますよ。だからそう言う事じゃ無い、例えばちょっと人から注意受けたら。
すぐ改まられる様な成せばなれれる、成せばすぐ改まりが出来る様な改まりを、していけというのです。成さんというのは自分が成そうとする心がないからなんです。私は昨日ほんとに有り難い事を聞いた、はあ、玉水さんが大きくなられたのはね、大きな信心をなさったからだ、そんなら玉水さんが大きな信心をなさった、その大きな信心とはどういうことかと言うとね、葉も隆々ならば。
根も太くて長い大根を頂いたというのです。だから玉水の湯川先生と言う人はです、決して人の真似のでけんごたある、いうならあっちからこっちに綱張って綱渡りするごたる難しい道を歩きなさったのではなく、当たり前の道を当たり前に、それこそ黙々と歩かれた方だと言う事です。ね、皆さん成せば成る、成さねば成らん何事も、成さぬは成らぬは己が成さぬなりけり、と言う事を難しい私共は事に取り組むと言う様に、思うておったけれども、今日はそうじゃ無いです。
成そうと思うたら、子供でも成される様な事を、私共が疎かにしておると言う事です。昨日も例えば勝手に五人も六人も女の人達がおって、たったあんな狭い炊事場がです、あんなに散らかっておる、汚れておると言う事があって良かろう筈がないじゃないですか。ね、成そうと言う心が心行だとね、今合楽で言われているのはそれでしょうが。お風呂入っても後から入る者が気持ちが良い様にと、洗ったり流したりして来る、その事が心行だと私は言ってるんでしょうが。ね、
だから皆さんがほんとに大きなおかげを頂くならばです、頂きたいと思うならばです、成そうと思えば、成そうと思えば、子供でも成される様な事を、おろそかにしておる事を、改めて思わなければいけないと言う事です。分からんならま一辺私が整理しましょうかね。いま分かったでしょう。成せば成る、成さねば成らんと、難しい事に取り組む事じゃ無い、ね、しかもそれがあの、成ったらです、また次の事へ取り組んで行く。だんだんそれを大きくしていくね。
朝私がお食事を終わらせて頂いて、繁雄さんの奉仕を受けて休ませて貰う、まあそん時はぐっすり休む、だからぐっすり休んだ時にゃ、私は絶対ばんは休まんです。だからほんと言うたら神様がですね、あのこれからこれまでの時間というて下さったら、私はいつでもぱっと転心が出来るです。寝る時間と言うならちゃんと四時間半か五時間、に決まっとるとですから。足だけはどうでもやっぱ揉んで貰わなきゃいけませんから。
揉んで貰うと矢張り気持ちが良いから、ぐっすり眠る。眠った時には私は絶対晩な休まんです。夜中に来て下さい、私はちゃんと起きとる。ね、だから自分の休む時間というものだけは、ちゃんと決めとるです。ですから神様が私がいまなら、ね、三時半にここに出て来てから、丁度八時半ですから、五時間ここで奉仕をさせて頂いて、下がらせて頂くともです、神様は始めは、八時に下がる様に頂いたたけれども。
私は何時もまけときまっしょ、と言う気持ちで、なら八時半まで座る事にさせて頂きましたら、最近では八時半までずっとお取次ぎさせて貰う様にお参りが多くなった。この頃では、もう九時近くまで座とらんならん事が日々続いておる。だからこりゃ又三十分間まけときまっしょと言わんな、段々そんな風にして、ね、出来ない出来る範囲でこうやって自分のものにしていくという精進が、ね、成せば成る事です。
お取次ぎさして頂く先生が、ご結界奉仕をせんならんと、ね、成そうと思えば成される事をね、なさん様な教会は、なら私はどんなに大きな事を言うておっても、立派な事を言うておっても、ね、もう一つ頂いたその、葉ばかりながらしっぽけなし、の方の大根になってしまう。玉水の湯川先生は決して難しい事をなさったのじゃない、ね、成せば成る事を、只黙々と成し続けなさった、というだけなんだ。大根と言う事は大きい根という風に、ね、その大きい根がです、ああ言う大きなおかげを頂かれたんです。
皆さん今日はね、大きな信心と言う事をです、もう成せば成る事。例えば風呂に入ってから上がる時、きちっとする事も女の方が炊事場に入って、整頓をきちっとする事も、成せば成らん事はないでしょうが、今はね合楽で合楽では教会内だけじゃ無い、信者さんに全部に、表行がでけんのですから、心行一本に絞んなさいとこういっておるのですから。成せば成る事をです、今まで疎かにしておった、本当にしようと思えば子供でも出来るような事を疎かにしておった事が、沢山あると言う事です。
だからそれをね成して行くだけ、しかも黙々とそれを続けると言う事。ね、それが大きな信心につながって行くのです。昨日富永先生の所の霊祭を奉仕させて頂きましたが、本当にもうご兄弟親戚全部集まってから、もうほんとに盛大なお祭りでした。ほんとにあの、いうならば富永よしこさんの場合は、姑お母さんになる訳なのだけれども、ほんとに姑お母さんのその事を一生懸命祈り思われて、あのされたのは矢張り奥さんの方だった。昨日ご神前にでらせて頂きましたら。
昨日ちょうど午後の奉仕をさせて頂いとった時に、昨日も沢山ずっとここに続いとりました。そいで向こうの方に座ってから、お取次ぎの番を待っておられる方ん中に、ちょっと垢抜けした、始めて参って来たばのと言う人が、参っておられました。段々こっち近づいて見えるにしたがって、中々上品にこしらえてはあるけども、どうもこう体のこなしからね、はあこの人は踊りかなんか踊られる人だなと私は思うた。という風にと取り次ぎさせて頂いたら、その今度はいん塚で、あの踊りの稽古場を開きたい。
藤間の名をもろうておられる、ま、藤間の踊りのお師匠さんだった。踊りが身に付いたらですね、踊りが身に付いたら、そのなりが変わって来るです。末永先生あのあれはどげん頂いたかな、らしくらしくとまいっちょあったなあ、とにかく矢張り踊りなら踊りを、稽古させて貰いますとね、踊りを稽古しとる人らしくなる訳ですね、もう体つきから、言うなら信心をさせて頂いてもです。
私はこのう金光様の信心の雰囲気をもち、金光様の信心らしいはあぁあの人は違うと思いよったら、金光様の信心しよったげなと、分かるくらいなおかげを頂いた時に、まずは金光様の信心の一人前だというです。ね、それから先はもう限りがないとです。だから信心が身に付いたらです、金光様の信心らしくなるのです。そういう意味で富永さんとこのお母さんという方は、始めは野口さんのお導きを頂いてお参りして見えた時分には、なんかよっぽど悩みかなんかあんなさるとじゃろうかと、思うくらいにずうっと。
こう下をうつむいたるごたふうで、寂しい顔の方でした。そりゃどんな夏でもきちっと着物を着て、いわゆる行儀の良いまぁあのま、お方でしたけれども、けれども四、五日続けてまいられるうちに、もう顔が生き生きなられる、もう何時もにこにことされてお参りされる様になりました。その事を私がその子供さんがたに申しました。お宅のお母さんは何とはなしに、こうあの何時も下向きかげんで、淋しい様な風をしておられたがね、段段お話を頂く事が楽しみになって。
もうお宅のお母さんぐらい変わられた方はないというて、その時分に話をしておりましたが、ほんなこて、もうご信心する様になってとても朗らかになりました。もうとにかく、あの変わりましたという、私がいうておる事にまぁ、合点をしておられましたがね。いうならば、金光様のご信心が、段々身に付いて来るにしたがって、表情から態度まで変わって来られる感じでした。霊神様霊神様の前で頂いたのはなんちゅう事じゃった、あ、そうそうそこにあの、花が活けてありましょう。
私はあの花器は何時も秋永のお母さんが、大祭の時にあの花器を必ず使うんです。共励殿で花をもう、それこそもう沢山使うて、あれにするけれども、私が気に入った花がなかったんです。沢山な花を使うてどうしてじゃろうかと思う。それで私はこの頃から誰があれは花器が大きすぎるけんじゃろけん、こまか花器にしたらどううか、と言うてこまい花器に直させたんです。所がね昨日霊神様の前に出ちから、あの花を頂くんです。今暗いから分かりませんけれども、花をね菊の花を低くぅく入れてです。
周囲をあの梅もどき真っ赤なで横にこうしてある。だからあの花器があんな風こんなでしょう、だから花を平たぁく入れてある訳です。だからあれが電気をつけますと見事です。どういう事かと言うと、どんなにいうなら沢山の花を使うてもね、いうなら花材を使うてもです、花そのものの生け方は素晴らしいかっても、花器に合わなかったら、花器は死んでしまう、なら、どんなに花器が素晴らしかってもです、花がつまらなかったら、今度は花器が死んだり、花が死んだりする訳です。
だから花は花器を生かし、花器は花を生かすと言う事が是なんです。その事だと私は思いました。だから私はあのこの花からね、今日の御霊様はね御霊様に喜んで貰えたと言う事はです、こちらも喜べた御霊様は遺族を生かし、遺族のものは御霊様を生かしていった様なお祭りが、今日は出来られたんだと言う事でした。生かし生かされるそれはどう言う事かというと、親が子の事を願う子が親の事を願うのは当然の事当たり前でしょう。けれどもね信心をさせて頂いておる者として当然のお祭りだったわけなんです。
親だから子だからというのではない。信心を頂いておるから当然親の霊祭をかく賑やかに、かく真心を込めてしなければおられなかった。そこに花器が生きた花器は花を生かしたという事になるのです。ははあこの花器はこれからこういう風に、立体的に活けたりこう投げ入れ的に、こう前のほうに流した様な、そう言う事じゃなくて、成程こういう風に平たく入れたら、この花器は素晴らしく生きるなと言う事が昨日は一つの発見でした。昨日の御霊様の祭りはそういうお祭りでした。
信心させて頂いておるものがです、信心信者らしゅうなると言う事です、ね、金光様の信心の雰囲気を身に持つと言う事なんです。はぁあっちは態度やら、言葉遣いがなんか違うと思いよったら、金光様のご信者さんじゃったげな、そこまでが信心の一人前だと言うのですね、何十年信心しよったちゃ、あん奴どんが信心しょるばってん、と言われる様な事じゃいけないと言う事。
信心がいうならば、踊りの稽古を真からさせてもろうたら、姿勢が良くなるそして素人が見ても何とはなしに所作が違う、成程踊りの師匠さんじゃったか、となら私昨日思うた様にです、金光様の信心すりゃいうならば人相から態度から、言う事する事が変わって来るね、そこに始めて信心が頂けたと言う事になる。踊りが身に付いた時には、もうすでに姿勢が良くなっておる様にね、信心が身に付いた時には。もうする事言う事が変わって来た、そこまでがいうならば信心のま、一人前と言う事。
それから先はまだ限りがない。今日の御理解で益々大きなおかげを頂いて行く事の為には、ね、そこでなら、合楽で言われておる心行が、一つ身に付いてしまわなければいけないというのです。だから身に付くまでは、心がけときなさいというのです。ご飯を炊くにもね、お掃除をするのも、部屋の中の整頓をするでもです、何時も心行を持っておらなければならないと言う事です。
だからその心行を持ってすると言う事は、決して綱渡りをする様に難しい事ではなくてね、もう成せば成る事だというい事です。それが成そうという気がないからだ、心行しょうと思うたら、誰でも出来るのだけれども、心行しようとしないから、それが形に表れて来て、部屋がちらかっとたり、炊事場がちらかっとたり、汚れておったりと言う事になるのです。まぁ繰り返し申しますけれどもね、私は今日はどうでも一つ、それこそ玉水さんのご信心にあやからせて頂いて。
どうして例えば月参り何千人もの者がお参り出来る様なおかげを頂きなさったじゃろうかと、そしたら、それこそ火の行水の行をしたからじゃとは神様は教えて下さらなかった。一つも苦労のない修行をなさった。大根の様な修行をなさった、葉も隆々なら根も太くて長い、大根とは大きな根とある。大きな根を頂かれた。なら苦労のない修行とはどういう修行かというと、言うならば心行を愈々なさった。いい加減になさらなかった。成せば成る事を成し続けられたね。
それをです真似しようと思うたら誰でも真似のでける事を成そうと思やあでける事、それをしだごだにして、いい加減にするからおかげがね、でけたごとあったちゃ、又しだごだになってしまうのだ。今日は私は本当一つ、成せばなるのですから成し続けて行くと云う事ね、それは最近合楽でいわれている心行なんですね、そこでなら秋永先生が昨日、言っておられました様にです、ね、別にたいしたなら、合楽の宣伝のして来たぐらいなこっちゃ、けれども修行生の合楽からいっとる修行生が。
もうそれこそちりちりとして、生き生きと修行が出来よる。合楽の修行生の評判が良かったのが嬉しかった。帰る間際に玉水さんの団体参拝に会わせて頂いて、隅から拝ましてもらあわんような、を沢山な参拝があって、ほらもう、合楽は是からだと言う様な思いで、それが二つがお土産のようじゃったと言う話からですね。皆さんどうでも信心は大きな信心が良い、なら大きな信心とは、大きな事を願うと言った様な事ではなくて、もう日々刻々です、苦労はいらん成そうと思えば成される事。
改まろうと思うたらすぐでも改まられる事をです、もうこれは私の癖じゃけんとか言わずに、もうせからしかけんでと押しやっておる様な事をせずに、そこに心を使うと言う事、その事自体が心行だと言う事。だから成せば成れれるんだ、湯川先生という方はそういう、いうならば簡単な見やすい事を、ね、いい加減になさらずに成し続けてこられた方だと言う事なんです。勿論その中に厳しく言うならです、ね、辛抱のでけん所でも辛抱するという、最近言われるなら寛の字であります。ね。
それになら寛の字に信心の生き方、これも成そうと思えば出来る事です。一切をいうならば、神の働きと見てそれを頂いていくというのですから、心の心行が出来ておる時なら誰でも頂けるのです。愈々広くなる大きくなる、大根の信心大きな根、大きな心もう早速成せばなる事をね、実行してそれをしかも黙々と続けて行くと言う事が大きな信心だ、どうでも一つ玉水さんのような、信心にあやからせて頂くと言う事は、是はもう大変な難しい修行しなきゃ、人並みなお徳は受けられまいというのじゃなくてです。
成せばなる事ね。昨日私は修行生の方達にね、これだけの修行生がおって、どうしたざまなかコツのと、勝手ん方は結局私がこれだけ一生懸命心行心行といいよるとを、心行しよらん証拠じゃないの、が今日はもう研修よりも、そのお掃除の方ば先してきなさい、と言うてまあ、皆行きましたが。さあそれから後は、もう団体参拝でした。十人、十五人連れ立ってからの、もうあっちこっちからのお参りが、丁度あの三時にここを下がる、霊祭の準備がありましたから、ね、まで続いとりました。
(途中切れ。)