昭和51年2月10日 朝の御理解



昭和51年2月10日 朝の御理解

 御理解 第92節 「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 これはお取次ぎをさせて頂く者へ対する、まぁ御理解だと思いますですね。どこへ参っても、「神は一体じゃによって」と。神様は天地金乃神様御一体だと。同じだけれども、おかげが受けられるとか、受けられないとかというのは、結局守り守りの力と。その神様を、守りをしておる者の力の相違じゃと言う訳です。昨日日田の国師さんがここでお届けをされました。昨日の朝お夢を頂かれた。もう便所はあるけれども、そのお便所の踏み板が、もう落ちてしまって、使えないと言う訳です。

 もし使うなら、その危ない、危険、危険を感ずる。で私、国師さんに申しました。合楽に御神縁を頂いたと言う事を先ず本当にお礼を申し上げなきゃいけないよと。以前ある教会にご縁を頂いておられた。まぁいうなら難儀な問題で、その問題が右になる、左になると言う事で、本当に一生の幸不幸が決められると言う様な大変な、まぁ問題に直面しておられる時に、合楽に御神縁を頂かれたのが、初めてであった。

 以来その事がならそこのみんな同じ神様ですけれども、お取次ぎをなさる先生が全然反対の事であった。そこの教会では右にせよと言われた。ここに来たら左にせろとこう言われた。そこにです例えば人間に( ? )というかおかげを頂く、頂かんというそのいわゆる分かれ道がある。まぁおかげを頂いておかげを受けられた。まぁ本当に神様のおかげといわにゃおれないおかげを受けられた。ですからその教会でおかげを頂いておる事は、ね、昨日丁度そのお夢で頂かれた様な、状態ではなかろうかと思う。

 合楽におかげを頂かれておったおかげで、言うならばもうそれこそ、なんと申しますかね。一生一代自分だけじゃない。子供達までもその幸不幸の、岐路に立てねばならない様な問題が、おかげになって来ておるのである。というてそんなら合楽におかげを頂いておれば、おかげいわゆる良い事ばっかりだというと決してそうではない。別にここで私が力があるという訳でもないのだけれども、ここでは教えを受ける事が出来る。

 しかもそれは間違いの無い教祖の神様のみ教えを、愈々天地の親神様のお心を通して、聞かせて頂くのだから間違いがない。いわゆる親先生の言われる通りしておけば間違いがないと、皆が言うそこの事である。ならそれはどう言う事かというと、ただ右にしたら良いか、左にしたら良いかと言った様な事ではなくて。ここで日々説かれる、その御教えを頂くか頂かないかと言う事で、違って来る。守り守りの力ではないけれども、教えを頂くか頂かないかと。それを守るか守らないかと言う事で決まって来る。

 私は昨日昨夜もうその事ばっかりを一晩中まあ思わせて頂いたんですけれども、折角信心をさせて頂くなら年も取れば取るほど、言わば一年一年有り難うなって来ると言われる様に、その有り難うなって行く信心でなからなければ駄目だよ。年を取るに従って、段々寂しゅうなる。本当に私は2、3日前から毎日同じ様な人のお取次ぎをさせて頂いたんですけれども、久し振りにお参りをして来た方が、親先生私に会って腹を決めたいと言う事であった。ある県立高校に勤めておられた先生です。

 丁度今年が60歳になられる。そこでそのいわゆる肩叩きである。それはめれと言う訳にはいかんそうですね。だからどうですかともう辞めたら、今辞めると退職金も多くやられるがと云う様な話があった。所がまだ子供さんが今度九大の医学部に、その試験を受けなさられた。奥さんはもう随分長い間寝たっきりである。だからもう60にもなっとるけれども、暫くは自分が働かなければ、言うならば子供の手足がのばんと言う事である。それでも今年、やめればなら退職金が多いけれど。

 来年になるともうそれは、まぁやられないとこう言うておる様な事だそうです。でまぁ私はあの、どうでもあの辞めずにおかげを頂いて行かれたら良かろう、という風に返事をさせて頂いたんですけれども、そのあの話を聞きよってからもう、本当に寂しくなって、寂しくなったですね。この頃から頂きますように、例えばこの道徳の世界と言った様なものが、いかにつまらないかと言う事です。私はもう二十四年か五年か勤めておられるそうですが、もう本当にいわゆる真面目人間です。

 そして子供達にも何でん生徒達にも私が言う事は、真面目にさえしておれば必ず認められると、人からというのを教える私も教えて伝えて来た。自分も又それを守りぬいて来た真面目にです。所が今では人に認めて貰えると言う事は、返って不幸になるという場合があると言う事が分かった。例えば上役からはようやく認められた。認められたばっかりに、不幸せになるという例があると言う事である。ありゃ真面目だからと。生徒達にもその事を教えて来たけれどもです。

 真面目だから幸せになると言う事ではないと言う事。決してまぁ不道徳な生き方をせろというのでなくてです、そういう( ? )私三人それを前後して、お取次ぎをさせて頂いてから、それを思わせて貰った。皆さんの周囲をみて御覧なさい。いうならば今さっきも頂いた御理解の様に、あの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃというても、次々難儀な事が起こって来ると、どうした事であろうかと言う事があろうがというのです。信心させて頂いておって一言一言をです。

 まぁ御神意をお伺いしながら、進めて行くと言う事で、人間のいうならば幸福が決まると云う訳ではありませんけれども、信用を頂いて一年一年有り難うなって行く様な信心を、させて頂いたら間違いのない安心がです、ね、いうならば喜びの生活が出来るのに、この事を世の中の人達に教えて伝えて行くと言う事は、こりゃもう大変な、難しい事だなと言う事を( ? )。なんとかこれを世の人達に、信心によってこういう幸せな道が開ける、安心していきゃ、生活が出来る。

 年を取るほど一年一年有り難うなって来る。不安はないないという生き方がここにはっきりこういう、そういう道があるんだからと皆に教えてあげれる、なんか手立てというものはないもんだろうかと言う事をしきりに考えておる。そして又思う事はそんなら信心を続けておるというか、いうなら金光様の先生になってもです、私は先日あるまぁ偉い先生に会うたんですけれども。大変やはり寂しい感じであった。ちなみにいうならばお話も上手だし、まぁなんていうでしょうかね。

 信心の力じゃなくてやっぱりある意味で力もある方である。だからとにかく何というでしょうかね。私が( ? )ですから、けれども何か年を取って行かれるに従って、金光様の先生でもです、寂しゅうして応えんと言った様な感じであり、合楽の話を聞いてまぁ何とはなしに羨ましい様な、言う事をまぁ言われるのを聞かせて頂いて、その事を思い出した。金光様の先生でも信心頂いておってもです、ただその時その時のおかげだけ、若い時にはまだいうならば、そんなに感じないけれども。

 年を取って来るに従って、寂しゅうなって行くと言う事はです、いかに教えがその人の信心を支えていないか、ただ人情人間心だけで、お道の教師を何十年続けて来ておるかと。まぁ神様を信ずる力も段々なくなって来ておる。勿論神様から信じられると言った様な事尚更ない。だから金光様の信心を頂いておっても、それであります。だから合楽での例えばおかげを受けておると言う事がです、有り難いと言う事は有り難い、まぁ合楽でおかげを受けておる。

 御教えを愈々自分の血に肉にしていっておらなければ、なら合楽だって同じ事だと云う事です。先日の寒修行開けの時に、皆さんが体験発表なさった時に、日田の梅山さんがお話になって、最後に歌を一首こういう歌をまぁ出来たというて、皆さんに披露しておられた。それで私は聞かせて頂いて、まぁ私ならここん所をこう直させて貰うという、こういうあの風に、まぁ昨日も話した事でしたけどね、"遠き道教え求めてひたすらに、通い続けし合楽への道"とまぁ私の歌はこうなっている。

 所謂教え求めてひたすらに通い続けると言う事。しかも何を求めて続けておるかというと、合楽への道を続けておるんだと言う事です。合楽というのは、合楽教会という意味ではなくて、所謂合楽なんです。神も助かり氏子も立ち行く、という道なんです。そういう神様にも喜んで頂けれる信心の道を、求め続けて、遠い所を通うて来ておるけれどもです。そこに神も助かり氏子も立ち行くと言う様な、信心を求めて来る事によって、愈々信心は楽しいものになり有り難いものになり。

 神を信ずる力も段々出来てきて、神からも又信じられるおかげも頂く事が出来る。まぁ合楽の御教えというたらね、もういうならそこの所ばかりに焦点がおいて、話されて伝えられておる。だからなら皆さんの信心がです、その合楽への道でなかったらです、矢張り皆さん若い間は、元気があってですどんどんお参りも出来るけれども、それこそなら又段々年をとってお参り出来んごとなるけれどもです、そこの合楽への道を辿らせてもらう。合楽への道を体得させて貰うならです。

 それこそ有り難いというものは、神様が与えて下さるのですから、一年一年有り難うなって行く道が開けて来る。だからこういう信心を続けていけば、段々有り難うなると云う所まではですお互い信心、おかげを受けるから有り難いのではない。こういう信心が分かるから、有り難いという信心にでて、そこまでは信心を頂いておかんとです、やっぱり信心しておっても寂しい事になります。

 昨夜そんなわけでずっと、起きておりましたが。あの総子がもう声を殺して泣きよりますもん。家内がずっと撫でたり擦ったりしよる風でした。で私も堪り兼ねてから、起きてその何処が痛いとね、まぁなら抱っこしてから擦っててやろうかて、したらあのいやち言いますから、なら御神米を頂かせろと。それからお神酒さんをやらせてから、あの御神米を頂いたり、おけんさきをさまを貼らせて頂いたり、そして頂いたら五分もせん先ぐっすり眠ってしまった。本当にあらたかな事だなぁと。

 これ何時の場合っもですけれども、まぁ思わせて頂いて。例えば本当にそれは有り難い事です、けれどもそういう例えばおかげではね、痛い痒いが治ったとか、金光様のご信心の私はあの有り難いのはね、本当に御神米お神酒さんでおかげを頂くと言った様な事も、それは有り難いです。だからそれと同じ様な信心がです、お取次ぎを頂いてお願いをすりゃおかげを頂くと言った様な信心じゃです、必ず寂しゅうなるです。

 私は夕べも一晩中その事を思わせて頂いて、本当に年を取れば取るほど有り難う、にぎやこうなっていく、勿論それにはおかげが伴のうて来る。不安はない心配はないと言った様な、そういう道があるのに、そういう道を教えてあげたいけれどもです、それを教え伝えると言う事が、大変難しい事だと言う事になるです。合楽に皆しげしげと通うておられる皆さんでもです、ただ夜あの御神米を頂いて痛いとが治ったとか、お取次ぎを頂いておかげを頂いたとかと云う事で、終止するとするならです。

 大した事はない矢張り一年一年、言わば有り難うなって行くと言う事ですから。それこそ教え求めてひたすらに通い続ける。それはどこまでも合楽への道を求めてからのものでなからなければ、いけないと言う事です。神も助かり氏子も立ち行くという、そういう生き方が段々身に付いて来るならばです所謂有り難い事になる。その有り難いものをいうならあの世にも持っていけ、この世にも残して置けると言う様な、そういう一つの確信が段々強うなって行く様な信心を頂かなければいけないと言う事です。

 だから先ずなら合楽に御神縁を頂いてです、まぁその国師さんの事じゃないですけれども、もし今までの教会におかげを頂いておられたら、それこそ危険危ない落ち込まんばかりのような便所を使わなければならなかっただろうけれども、又右左例えば御神意を頂いて頂く事がです、全然片一方では赤といい片一方では白といい、言わば合楽で頂いた方を取らせて頂いておかげを頂いて来たというと言う事と同時にです、合楽ではです言うならば神様直会とでも申しましょうかね。

 そういう御教えを頂けて、それが自分の血に肉になって行くと言う事が、有り難いと云う所まで、いかなければです、どんなに例えば守り守りの力だと仰る、力のある先生のお取次ぎを例えば頂いておっても、同じだと言う事。もうここだけが力がある、という訳じゃないけれども、ここでは力がなくてもです、皆さんに例えばもうこういう生き方をすれば、こういう風に頂いていけば、必ず一年一年有り難うなって行くという、教えを頂いておるのですから、

 これは私はそれは真の信心、真の信心とこういわれます、どこの教会だってなら御理解のないとこはないでしょうし。けれどもそれをいうならば合楽への道と。神も助かり氏子もそれはもう立教神伝を読ませてもらやその事が中心であるし、それを月次祭たんべんに読まれますから、聞かせても頂いておるけれどもです、一つも自分の助かりがそのまま神様の助かりに繋がる様な助かり方をしていないとするなら、いくら金光様のご信心を頂いておっても、何十年続けておっても同じだと言う事。

 合楽に御神縁を頂いておったと言う事のおかげというのは、そういう信心を体得出来る、それをいうならば噛んで含める様に、教えて頂けれると言う事は、有り難いと私は、合楽では分からなければです。これは例えばなら、毎日お参りをして来ておって、なら毎日お話を説いておってもです、それを本当にそうだと分からせると言う事は、もう非常に難しいと言う事です。合楽に例えば何十年、お参りし続けておってもです、本当に先生が言われる通りに一年一年有り難うなっていきよると。

 確かにこれならば、あの世にも持っていけれるだろうと云った様なものをです、頂いていきよる人はそげん沢山はないと言う事です。私がおかげを頂いておる様な、こういう有り難いものを、本当に世の中の、こういう例えば神も仏もいらん。とにかく真面目でいきさえすれば人に認めてられる。ちゃんと引き立てて貰える、その引き立てて貰う事、その自体、こと自体が不幸せの道である場合があると言う事。それは本当に人間の幸福に繋がるもんじゃないと。

 そしてなら真面目にさえやっておけばと、あの2、3日前お取次ぎさせて頂いた高校の先生じゃないですけれどもです。もうとにかく寂しい限りの話ではあるけれども、これからいうならば力強く合楽に御神縁を頂いて、お伺いする時だけじゃなくてから、少し信心の稽古に先生通うてみえなさいと。いわゆる賑やかな、将来が感じられる、その生き方を身に付けなさらんといけませんよと。

 何十年間、もう真面目でさえあればよいという生き方が、こんなにももろくしかもこんなにも寂しい結末になろうとしておる時に、まぁご縁を頂かれた訳ですから、その方の信心如何によっては、又これからでも、有り難く賑やかな道が開けてくるでしょうけれどもです、お互いが信心しておれば良いと言う事ではない。合楽への道を一つ体得しなければ、心が賑やこうなってこん有り難うなって来ない。

 それこそ人情を振り捨ててね、神情一つに生き抜かせて頂く様な先生でなからなければです、どんなに若い時には信用なされておられる先生であってもです、もう人が相手にしなくなって来る。そして寂しゅうなって来る。信者の方ばっかりむいとらずに、神様の方へ向きを変えて信心をさせて頂かなければです、こりゃ金光様の先生でも同じ事が言えます。段々お徳を受け力を得て、いよいよ自分の助かり、その度合いというものを、感じれれる様な年のとり方をさせて貰わなければいけません。

 神様はどこへ参っても、金光教の看板の掛っておる所であるならば同じだから。神様にはかわりはないけれども守り守りの力によって、神のひれいが違うとこう。なら合楽というて別に守り守りの力というものはたいして、ならまぁ言うたらないと言う事です。けれども合楽ではです、いうならば神様直伝のお話が頂けると言う事です。そのどんなにそんな神様直伝の御教えを毎朝、毎晩頂いて浸っておってもです、ならその御教えが、あなた方々の身に付かんならば、矢張り

   (A面終り)(B面)

 ただ御神米様でおかげを頂いた、お神酒さんでおかげを頂いた、確かにおかげを頂く、だからそういうおかげだけに、まぁとらわれた信心であっては、詰まらんと言う事です。合楽のまぁ独壇場とでもいうならばです、その教えが頂ける事だけなんです。だからその教えを皆さんのものにしなかったらです、合楽だってどこだって、理屈は同じと言う事にもなります。ただ聞きよりゃ、何時の間にか血になって、身になる事は絶対ありません。それを頂かなかったら。それを守らなかったら。

 最後に朝寝をしてはならん。「早く起きると、遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いに関わるぞ」と。いう風にいっておられますことは、もうこちらの信心次第だという意味なんです。先生が早起きすりゃ、信者も早起きして来る。先生が良い信心をすりゃ、やはり信者も良いおかげを受ける。だからこりゃ皆さんの場合でもそれが言えるのです。本当に教えに、愈々忠実にならせてもろうて、本当に一年一年有り難うなって行く信心。それにはそれこそひたすらに、通い続けると言う事と同時に。

 ひたすらに合楽への道を体得していかなければいけません。そして自分自身が私は夕べ感じた様にです、こういう素晴らしい道があると言う事を皆さん自身が頂き、感じられる様にならなければ駄目です(同じ御理解 )結局拝めれると言う事は、嬉しいものであり楽しいものであり、有り難いものであるというのですよね。まぁ矢張りあの信心の一つの悟りと云う所にはもう、あのなんちゅうかね欲徳抜きな心の状態。それこそ石の地蔵さんの前にでもこう、頭下げて通らなければおられないものが。

 生まれて来る訳ですね。まぁ文男先生はそこん所を、まぁいうならば見事に話された訳ですね。どうでも一つ自分の心に注連縄がかけられるくらいなね、もうだから注連縄をかけると云う事は、もうこれはもう汚されないという意味なんですね、今ここに開けて来取るこの有り難い心は、もう崩されないという信心です。大祓い信行信行というのは、大祓い信行というのは、もう一日でも欠いだら、もう値打ちはないと言われる様な信心が一つの、文男先生が信心の根底になっておると言う事だね。

   ここん所をやっぱおかげ頂かにゃいかん。



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