昭和50年6月20日 朝の御理解



昭和50年6月20日 朝の御理解

 御理解 第84節 「驕りがましい事をすな。ものは細うても永う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも次第に踏み拡げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やす様な事をすな。」

 驕りがましい事をすな、云うなら贅沢をするなと云う風にも頂ける。身の程を知れと云う事。細うても永う続かねば繁盛でない。一代で儲けだしたと云った様な分限者があります。もうそれこそもう爪に灯を灯す様にして、始末倹約をして身代を作ると致します、勿論驕りがましい事は致しはしません。それでそれが二代三代と続いて先代の苦労を思うて、所謂驕りがましい事はしないと云う生き方を、その家の家訓の様にして遺しておくと言った様な家があります。

 まぁ例えて申しますなら、私くしの場合は茶粥を頂きます。ですから是は子々孫々あのう茶粥と云う事は、合楽では頂く事になるでしょう。只お客があったり致します時には、出しませんけれども、お客さんが無い時には茶粥を出さなければならん様になっとる。それは昔を忘れん為だと云う事にもなります。所が最近はお米のお供えは沢山頂くけれども、お麦のお供えが無い。

 茶粥と云うのは、あのう麦を沢山使いませんと美味しくないんです。それでついこの頃では冬の信行期間が終った時、信行明けの時に朝の御祈念にお参りして下さる翌の日に茶粥会、茶粥会と云った様な事をまあする、まぁほんの名残になって仕舞って居る。今年も今年ちゅうが、足ったそうですね寒の中の、今年は三百五十杯から作っとりますから三百五十人の人が茶粥を頂いとる訳ですが。だから本当にまあ昔を忘れん為にと云うその事だけではいけない。

 その精神は有難いですけれども、矢張り所謂身の程を解らせて貰い、そしてそれが続けられて良くと云う生き方でなからなければならない。細い道でも次第に踏み拡げて通るのが繁盛じゃと、云うならば濡れ手で粟の掴み取りと云った様なおかげではなくて、矢張り細うても矢張り確実に間違いなく、踏み拡げて通ると云う道、あんまり一遍に広う成り過ぎて、例えばお掃除が行き届かぬと云った様な事ではいけないのです。ね。

 まあ例えば六畳一間、まあ私くしがお取次をさせて頂いて、段々それが皆んなも潰さなければいけない、勝手の方ももう外へ出して、勝手の方ももうお広前に改造して行くと云った様に段々拡がって行った。段々拡がって行く時には拡がったら拡がっただけ、人間も多くなって行きよりますから、どの部屋を荒すとかそざすと云う事はない。合楽へ参りましてまあーこういう広い所に来らせて頂いた。敷地が一千八百坪ですか、建て坪が五百坪ですからあるでしょう。五百坪以上でしょうかね。

 新館が出来ましたから、けれどもそれも段々拡がって行くのであって、そんならもう余んまり拡がったから掃除のしてがないと云った様な事はない。段々おかげを頂いて。私しは踏み拡げて通ると云う事はそう云う事だと思うです。六畳一間でやっとと云ったのが一遍に何百畳と云った様なお家に住んで、そう云う様なおかげは如何にも素晴らしいおかげの様であるけれども、それはだからそれでは荒さなければならん。いわば道に草を生やすと云う事はそう云う事だと思う。

 結局自分の実力と云うかそれこそ一間から二間、二間から三部屋から十部屋も二十の部屋もある様になって来た。次第にそう言う大きゅうなって行く事だと思う。その時にはもう既に力が付いてからの事ですから、部屋をなら荒さんで済むと云う事。そう云う様な意味の事だと思う。信心させて頂いて先ずは質力を受け、頂かなければならない。昨日は丁度午後の奉仕をさせて頂いとりましたら、元の参議院議員ですかね、鬼丸勝之さんと云う方が秘書を同道でお願いに見えた。

 まぁしばらくお取次をさして頂いてお茶でも差し上げて、いろいろお話を聞かせて頂いたんですけれども、お願いに対した私くしは神様に頂きます事はから谷、谷はあるけれども水が流れていないと云う空谷を頂くのです。その谷の上の方へ大きな井戸があるんです。そしてこう空谷それで今あのう、鬼丸さん彼方の状態は丁度この空谷の様な状態だ。水が流れていない。云うなら谷と云うなら山と山との合間にこうある様なもの。まぁそう云うところにあるんです。

 そこでそこに大きな井戸があるから井戸から汲み出さなければ、汲み出すと云うてもつるべで汲み出すと云った事は出来んからね、そこに例えば電気仕掛と云うかね、発動機なら発動機を据えて、ボタン一つ押せばその井戸からどんどん水が流れ出て、そしてその谷を満たす様に流れて行く様なおかげを頂きならなきゃならないけれども、それにはね、矢張りその神様の御発動を頂かなければならない。

 例えば合楽の教会の場合なんか、まぁこちらへ参りましてようやく足掛け八年ですか、でこういうならば教会が出来たと云う事は、とても私の知恵とか力で出来た事ではない。矢張り神様の御発動を頂いたから出来るんです。神様の御発動です。神様が発動なしました。それはどういうかと云うと、私くしの心私くしの真実です。私くしの真実が神様をして発動しなければ居られない、働きと云うかそういう雰囲気を作った。そこで神様が自ずと発動ましまして来た。発動ましますと云う事。

 天地の親神様が発動なさると云う事になりゃ大変な事になって来る。人間の知恵やら力ではどうにも出来ない。それこそあれよあれよと云う様なおかげに繋がる。それも只なら今申します様に、椛目時代に神様が発動して御座らなかったと云うと、矢張りあの六畳一間でお取次さして頂いとる時にも、それこそ門前市をなすと云う様に沢山の人がやっぱり集まって来た。言わば普通では助かり様の無い人達がどんどん助かって行った。是は大坪総一郎の力があったからでなくて、神様が発動ましましたからである。

 その発動が段々続いて、そのそれとても矢張り自然の成行きの中に合楽に来なければならない事になり、合楽でこうして段々多くの人が助かって行く事になって来た。そして段々拡がって行く様になって来た。又近い将来には又拡がる事でしょう。ね。けれどもそれは次第に踏み拡げて通ったのですから、道に草を生やす様な事をせんで済む実力を頂いて来たからおかげを頂いて来たんだと。

 例えば鬼丸さん辺りの場合はです、一時に参院議員とか何とかと云う様なです、まぁ時にと云う訳ではなかろうけども、まぁ一遍に大きな道が開けて来た様であったけれども、云うならば実力のなさ真実のなさ、真のないと云う事が永く続く事が出来なかった。是からはです私くしはそのう、真実というか真心と云うか、まあ政治家としてです本当に世のお役に立つ事の為に、お役に使うて下さいその為の信心が是からなされる事になれば、そこに言うならばボタンと云うかスイッチを。

 真心の真のスイッチを押す事になったら、そこに井戸はあるのですから、その井戸から限りない水が湧き出る様に、しかもその谷を潤うて行く様なおかげにもなるでしょう。その意味がどうも分かんなさらん事あった。お導きをして富永さんと云うて福岡の陶器屋さんですけども、もうその後で今日先生が言いなさったと、解った風して解らじゃったが、どう言う事でしょうかち言うて聞きなさった。

 それで富永さんはここで御理解を聞き付けとりますから、先生言われたのはこうこうこういう訳なんです、やあもここの先生の言わっしゃる通りだと、云うちから言われたと云う事で御座います。是からこう云う御縁を頂いてそれこそ云うならば、一遍に濡れ手に粟の掴み取りと云う様な気持を捨てて一歩一歩です、確実に所謂踏み拡げて通り、しかも踏み拡げた所には草を生やす様な事のない様な、一つおかげを受けなければならんと云う意味の事、を富永さんに言われたと云う事です。

 今日は私くしは或意味で爆弾発言とでも申しましょうか、もう或意味であのう今迄の考え方を引っくり返す様な事ですけれども、是は頂いた事ですから皆さんに聞いて頂こうと思う。例えばこの霊様と神様、勿論それは勿論違います。所が霊様を拝むと云う事やら、お祀りをすると云う事は何処までも霊様を尊敬すると云う事です。又はね言うならば、先祖あって私共ですから、その先祖を敬うと云う事です。

 同時に又感謝を捧げると云う事です。御先祖にそれにです例えばもう先祖、例えば霊様にね、縋るとか願うとかと云う事はね、是は大変是は霊様としても御迷惑な事だと云う事です。又それでなら霊様を拝んだから霊様が働いて下さると云う事は、もう絶対有り得ない出来ない事だと云う事です。おかげを頂くと云う事は願うと云う事は、神様生神金光大神天地金乃神だけしかないです。神様だけより外にない。

 生神金光大神様は矢張り霊様の世界、御霊様ですけれども、是は天地金乃神様が仰って居られる様に、まさかの時には天地金の神と言うに及ばぬ、金光大神助けて呉れと言えばと、仰る様な御教えがありますけど、是は天地金乃神と同根でおありになるからそうなのです。例えばなら私共が桂先生の霊様やら、久留米の初代の石橋先生のお徳を受けられた御霊様に、今まで私共縋っておった事は霊様としても大変お困りになった事だろうとこう思います。けれども先代の大変なお徳を受けられた。

 先生方の信心が今日此処にこう残って居ると云う事。おかげで私共が今日この様なおかげを受けられる様になったと感謝の念を捧げると云う事が霊様も愈々喜ばれ、霊様も愈々言わば霊様が助かられる為に私共拝むのです。こちらが助かる為じゃないです。霊様が愈々力を受けられる為に、霊様が喜んで下さる事の為に、先祖は言わば家の根と何時も私が申しますが、所謂家の根が言うならば喜びに満ちて来る溢れて来る。

 そう云う例えば私共と霊様の関係がです、そう云う事で霊様を大事に、よく信心はなくてもお先祖さえ大事にすりゃ家が繁盛すると云う様な人があります。これは又事実です私くしの知った人にもうまあ無神論と云う程しに、神様仏様を言わない方ですけども御先祖だけはとっても大事にされる方が居られます。もうそりゃもうあのう盆正月なんかのお墓掃除なんかは、もう早く何処よりも早くどこよりも立派に、お家には立派な御仏壇をお祀りして、先祖さえ拝んどきゃ他の神様仏様。

 拝まんでよかと云う人があります。だからそこのご先祖の霊様が働き御座るから、不幸な事やら困った事が無いのかと言うとそうじゃない。先祖を大切にするそういう心根が天地の気感に叶うからおかげ頂くのです。霊様の働きと云う物は絶対ないです。今日は私は此処ん所を爆弾発言と言っておる。今迄も私くしも知らなかった。だから私共もやっぱり先代に縋らして頂いた。高徳な霊様達にゃお願いをした。

 お願いはお取次ぎを頂いて金光大神に願い、天地金乃神様に願う言わばお願いと云うのは是以外にない。但し私共の根は先祖ですから先祖の御霊言うならね、親先祖の御霊と云う物を大切にしなければ居られないその心が、その神の気感に叶うたのです。私くしよく御霊の物語の中に霊の働きと云う事をよくお話致しました。この頃の霊祭の時も、丁度霊祭の十日か十五日位前でしたが、ここの田中さん所のお爺さんが、もうそれこそ天寿を全うされて高齢で亡くなられました。

 所がお家ではおそれこそ家騒動と云うわけじゃないけれども、騒動にならんばかりの様な事件が起こっておったのです。或言わば今の御主人の兄弟になる方が、まあ悪知恵を付けられた人があってです、その財産をそのよこせと云う訳です。お父さんが是これだけの事は兄弟達にやらにゃと云う事だけではなくて、随分無法な事を云うて、まあそれも普通でない様な人を頼んで、まぁそのう言ってそう云う様な事がお家騒動になる訳ですよね。で田中さんその事を御取次を願うとられました。

 所がです霊様のお祭りを此処でさせて頂いた。お祭りの前日にそのうここの霊様達愈々明日は御霊様のお祭りだから前の日に、私くしが霊様の色々明日のお祭りを受けられる様に、言わば準備を致します。その日にあのうー田中さんがお夢を頂いとられるのが、亡くなられたお爺ちゃんが、親先生を中心にして沢山の御霊様達であろうと思われる人達と一緒に、会食して居ると云うお夢であった。会食と云う事は結局私しと一緒にままになって居ると云う事です。霊が助かって所謂ままになって居る。

 明日のお祭りを受けろ事によって霊様もです、普通は食べる事も飲む事も出来ん様な霊様でもです、明日と云う明日だけは一緒に会食が出来る程しの、事だと言うお知らせであった。御祭りを仕えたその翌日又お夢を頂かれた。あそうではなかった。是はそれから幾日かしてから。その兄弟の方が財産寄越せと言うと言うておった兄弟の方がです、もうそれこそ涙を流してお詫びに見えた。本当あげなえらいそのうひどい事をお兄さんに言うてから、済みませんでしたと言う訳なんです。

 と言うのはね今朝方からお爺ちゃんの御霊様が枕元に立たっしゃった。そして兄弟仲良うして行ってくれと言わっしゃったと言うのです。だからいかにも御霊様がままになった、助かったからもうそう言う働きが出来たと、私しどん思うっとったね。所がそれは例えばそうではなくて、御取次ぎを頂いて田中さんがお願いをしてあるから、そんなら神様がですなら兄弟の所に言われても、ピンと来んでしょう解らないでしょう。

 だからそのお爺さんを神様がお爺さんの姿を使うて、言うならば神様がお知らせを下さった事になるのです。御霊様がお知らせしたとか、御霊様が働いたと云う事じゃないです。そう言う例は幾らも有りますけれども、そのお取次ぎを頂いて願う、又は御先祖をこの人が大変大切にするから尊ぶから、何時も感謝の念を捧げて言うならば、仏様にでも御霊様にでも大事にするから。

 その心が神の気感に適うからおかげは神様が下さるのです。それは私くしもねおぼろげながら知っておりました、ですから何時も言う様に、あのう霊祭の時には神様を大事にする此処で御祭りを先にね、神様のお許しを頂かなければ、なら御霊様とても言うならば動けんごたる御霊でも、動ける様に与えられてに、例えば食べ物も与えられてない御霊でも、神様のおかげを頂いて頂く様にです。

 言うなら監獄に行っておる御霊でもです、ま言うなら地獄に落ちとる御霊でもです、神様のおかげを頂いて、子孫の者の言うならば助かって居る者がです、又は神様にお徳を受けた者がです、その方法を取るから例えば人間の世界でも同じ事ね。監獄に行ってる顔役の人と言うか、大変信用のある人がです又は金を積むとか、解釈をしたり又は監獄から出してあげる事が出来る様に、御霊の世界でもやっぱり同んなじ事なんです。

 だから結局は神様のおかげを頂かなければ出来ないと、言う意味の事をお話しますが、私共は御霊の働きと言う事は、実を言うたら御霊の働きと言う物は無いのだ。但し御霊自体だけが、助かって行かなければならないと言う事だけなんです。御霊様が愈々喜びの御霊、御霊様が愈々安心の御霊、としてのおかげを先祖が頂いて下さる為の、私くし共が真の信心をさして頂いて、言うなら親先祖の御霊様でも大切にさせて頂く。

 それは御霊様に頼むと言う事じゃない、むしろ頼んではならない御霊様には、それを大事にするその心根が神の機関に適うからおかげを受けるのである、此処ん所を一つ皆さんね解って頂きたい。まぁ是には随分まぁあのう言わば、今までの御霊様に対する考え方と言う物が大変変って来る。特になら私くしで言うならば、初代とか私くし共の師匠筋にに当たる「ごうつぐ先生」なんかには、私くし自信もお願いをして来た、けれども是は大事にすると言う事は有難いけれども。

 頼むと言う事は御霊様はおかげを下さると言う事は出来ないと言う事。其処でですそれこそ鬼丸さんに私しお取次ぎさして頂いた様にね、私し共は兎に角真実と言うか誠と言うか、神様が御発動ましまさなければ居られない程しの心を、愈々育てて行くと云う事に成らなければ成らないし、同時に例えば御霊様でも、今日はなら長ぁい親先祖からの繋がって来ているこの道です。

 細うても長う続かねばと仰る先祖のもうそれこそ、随分前の前からの先祖から私し共に繋がっているその道にです、私くし共が草を生やしておる様な事がありやぁしないかと言う事です。先祖の中に御霊様が助かっていないと言った様なのは、もうその道に草を生やしている様な物ですから。愈々ご先祖を金光大神のお取次ぎを頂いて、是からは助かって下さい安心の御霊、喜びの御霊として、御霊の安らぎの言わば喜びの生活をして下さい、と言う言わば祈りと言うか信心を作らなければならない。

 そこに長い長い道の上にもです、言うならば生えておった草も取り払う事になり、それからの私共の生き方の上にも草を生やす事の無いおかげを頂かせて貰うと言う事。今日の御理解はそう言う親先祖の事から、深くお話しが進んで参りました、是からじゃなくて、今までの私くし共の先祖が歩いて来たその道にも、草を生やす様な事があってはならない、それではその草に言うなら御霊様が。

 引っ掛って転ばっしゃると言う風に思うてもいい訳です。そこでなら御霊様自信が助かられるその道を、はっきり立派にしてあげると言う事はです。御霊様に願うと言った様な事はもう邪道である、言うなら御霊様も迷惑をなさるのである、私しは其の事を頂いてから、どうも私し今までのその観念的に頂いておる事が、だからもう繰り返し此の事はお願いさせて頂いたんです。

 そしたら私しがあんまり繰り返しお届けするもんだから、あの丁度三角巾を付けたね死ぬ時にこうするでしょうが、それを抱えちからゴロゴロ引いて来よる所を頂いたんです、だから御霊様に願うと言う事は、そう言う力のある事は絶対無いのです御霊さんには。往生し取る死んどる者を引っ張って来る様なもんですから、けれどもその御霊様が、御霊の世界で助からなければならない。

 より安心の御霊より喜びの御霊にならなければならない。もし地獄どんおてとるとなれば。それをいっちょう拾い上る救いあげる働きこそは、私し共がしなければならないけれども、御霊様にどうぞお願いしますと言った様な事があっては、よかろう筈はないあってはならないと言う事です。私しは今日ここん所を頂いて、金光教の信心の本当に素晴らしい事を、又改めて解らして頂いた様な気がするんです。

 ですから私くし共がそう言う風に気付かせて頂く時、言うなら長い長い細い道が、言うなら繋がって来とろうけども其処にはです、広かったり狭かったりもあったでしょう。随分奢りがましい事をして来た時代もあったでしょう。それで薮のようにその草が生えとる所でもあるかも知れません。それをなら私共の真心一心でお取次を頂いて、霊様が喜ばれる様に霊様が助かられる様にと云う様な熱い心を。

 私くし共が霊の世界に送る時にです、云うならば片付いとらんものは片付くでしょう。生えとる物はその草を取る事の様な意味にもなる事だと思うのです。同時に私共も同じ事。なら奢りがましい事をすなと仰るんですから、自分の分というものを弁えての信心生活がいよいよ大事になって参ります。鬼丸さんの例を取りました様に私共は何か一遍に立身出世をすると。

 それが何か大変広大なおかげの様に言うけど、決してそうじゃありません。丁度椛目から二十五年間それこそ、営々として築き上げてからの今日の合楽であると云う事。一遍に拡がったんじゃないと云う事、力を頂いて力の出来ただけが拡がって来たんだと。その証拠にゃあっちこっち散らかっとるとか乱れとる所は無いじゃないか。一遍に拡がるから草を生やす様な結果になるんだと言う事を聞いて頂きましたすね。

   どうぞ。



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