昭和49年7月20日 朝の御理解
御理解 第15節 「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」
氏子が真から用いると。私の真心で御座いますから、神様どうぞこれを使うて下さい、とこういうのです。是はお供えの場合でもそうですね。お金ならお金。真心多少でございますけれども、私の真心でございますから、又御礼の印でございますから、どうぞ是を使うて下さいこういう。それが真から用いる。
ところが神様から御覧になった所が、そのどうぞ用いて下さいというのに、不浄があったいうなら穢れがあったとするならば、私共がお役に立ちたいお役に立ちたいとこう思う。もう明け暮れてそう思う。お役に立ちたいけれども私共に力がなかったら、神様が使うて下さりようがないですわね。だから今日はここの真から用いると言う事は、用いられなければ意味はないと言う事です。私共がいかに使うて下さいというても、神様が使うて下さらなければ仕方がないというのである。
本当に私共が力ができて、どうぞお役に使うて下さいと願った時に、神様がそれをうけて下さる受納して下さる。それが神のヒレイ。いわゆる盛大の威と書くんですね。愈々神様の勢いというものがそこから現れる。だから氏子の真心というても、その真心と思うておっても、使うて頂きたいと思うておっても、それにまだ不浄穢れがあったり、力なしにはです使うて下さらない。
例えばそこに百斤のものがあるから、君ちょっとそれを持ってきてくれというてもです、お役に立ちたいお役に立ちたいというから、そこにあるものをちょっとここさん持ってきてくれというても動かしもきらない、というならば何もできないでしょう。そういう力を受けてお役に立つ。いくら力があっても使うてくれ、用いてくれと言わなければ始まらない。用いて下さる神様が用いて下さる。私共が用いて下さいと願うそこに本当の御ヒレイというものが現れるのですね。
寄進勧化をしては神は喜ばぬ、と。私は今まで合楽の20数年の信心というのは、いうならば、この寄進勧化の信心だったと思うですね。これは例えばお供えをせよ、お供えをせよと言う事を私は言うた事は一ぺんもないですね。どんなにここにもの入り金入りがある時であっても、サア-御造営が始まったから、皆がんばって下さいなんて言った事は一ぺんもないです。だからそういう意味じゃなくてです、信心の寄進勧化ですいうなら。おかげが受けられん。
「そりゃ又、あんたの信心が足らんとばい。がんばりなさい」というて、そういう意味において、尻を叩き叩き今日まで、皆さんの信心が育ってきたと言う事。仏教的な言葉で言うならばです、自力を教えてきたと言う事です。又自力で今日まで合楽はたってきたと言う事です。その自力で立って来たおかげで、力ができたと言う事です。20何年間の間、もうとても、合楽の信心にはついていききらんと言うてやめた人も沢山ありましょう。おかげは受けたけれども。
いわゆる受けた時だけで、やめた人も沢山ありましょう。けれども20何年間皆さんが、そういう激しい信心修行の中にです、叩かれながらも付いて来たと言う事です。そして大体において、合楽全体においていうならば、力が出来て来たと言う事です。だから是でです今ここに私共が真から、どうぞ用いて下さいと言や、神様が用いて下さろうという、いうならば時期が到来したと言う事です。私は今日はいうならば最近の御理解は皆、そうですけれども、それこそ重大声明だと思うですね。
今日今ここに御参りをし合わせて、今私の話を聞いて下さると言う方はそういう意味で、本当に心して頂いて貰わなきゃならないと思うです、ね。今日私は色々に頂いた事なんですけどもね、あの遊び人が持っております、サイコロというのがありましょう。サイコロね。あのサイコロの『五』の所から『六』の方へクリッとかえる所を頂いたんです。今までの合楽の信心は『五』の信心であったということです。
『五』と言う事は、いうならばめぐりのお取り払いを頂くために、一生懸命信心辛抱してきたという信心です。『五』と言う事は、仏教的にいう『業』という。難儀の元を業という。それが一生懸命信心辛抱、20何年間出来て来ておる内にです、いうならば自力をもって助かってきた人達が力を得た。そして信心が解って来た。そして最近では合楽を現わすということ。自分の心の中に自分の家庭の中に、それを世の中に合楽を現わす事の為に、精進しようと言う様な信心になってきた。
いうならば『五』から『六』、『六』と言う事は御徳と言う事です。禄をはむというでしょう。何百石なら何百石の禄という、あの意味での禄です。『六』と言う事はだから御徳という意味。ここではそれで頂かなければならない。五から六へ、そういう大きい岐路に立っておる、現在合楽なんです。だから今までの信心じゃいけんじゃなく、勿論いけんですけれども今までの信心よりも、もっともっと自然なスンナリとした。
自力から愈々他力に移って行く所の信心を、愈々体得していかなければいけない時期にあると言う事です。もう一月ぐらい前だったでしょうか。大分のあそこは杖立温泉のちょっと手前だったと思うんですけれども、ドライブインがあります。あちらにちょっと見物に行った事があるんです。帰りにそのドライブインに寄ったんです。所がそこで私はステッキを忘れてきたんです。日田の綾部さん所からお供え頂いておる、あのべっ甲のステッキがあるでしょう。
あれはね当時御米20俵がたあるステッキだそうですよ。大変なる金額になるわけですね。そうでしょうね、この眼鏡が22万もするのですから。そういう値打ちのあるものば、私が忘れてきたわけです。どこに忘れてきただろうか。寄ったというなら、ほんにドライブインじゃったがと思いよったところがです。 だからこれは日田の綾部って、彫りこんでありますからね。これは日田の綾部って書いてあるから、これは元の大将が持ってあったその何です。
特に大将とはその時分に外車を乗り回しておられたそうですが、その人が御主人がかりの運転手しとったげな。そう言う様な縁故があってから、持ってきて下さった日田に。だから日田からここに又届いて返って木た訳なんです。そういういうなら不思議な縁があるわけなんです。所がその人がね、先月だったでしょうか、御参りをしてきた。色々な難儀のある、中にも交通事故にあわれた息子さんが、もう沢山のお金は貰われたそうですけれども、いわば不具同様になられたわけです。
それをおかげ頂きたいというので参ってきた。縁ちゃ不思議な事ですよね。それが昨日一昨日その子供、今度その子供を連れてから、丁度一時の夏期信行に参ってきてました。私はその方のお夢を頂くんです。その方がねその日に御参りして頂いた御理解がです、内容を充実するということ。今例えば一反なら一反の田圃を持っておるならばです、頂いておるその一反をです充分に手入れもしよう、草も取ろういうなら肥料も施して、その一反の中に、もうそれこそ充実した収穫を。
得ようというお話を聞かせてもろうてです、帰って早速自分の所にある山の田圃の二反という田圃をです、ここから夢ですよ私の。その二反の田圃をもう精魂の限りを尽くして、二反の田圃をしたら、今までかつてないほどの大収穫を得た。それが大収穫を得ただけではなくて、その子供の病気もよくなった、店も繁盛してきたというて、喜んでお礼に出てきておるお知らせを頂いたです。それはどう言う事かというと、私は「大分」と言う事は、大きく分かれる、今日私が言っておるわけです。
合楽の信心がいうならば寒い冬の信心から春の信心に移ろうとしている。夜の信心から昼の信心に移ろうとしている。今日の御理解で頂くならば、めぐりのお取り払いのために一生懸命励んだ信心から、もう徳の世界に入ろうとしている。又いうならば自力から他力に入っていこうとしておる。大きく合楽が分かれという意味だと思いました。そして縁があって、今のその方のように縁があって、初めて参ってきても、その教えに本気で取り組んで、内容の充実をはかる事の信心に精進させて頂いたら。
その田圃から充分の収穫を得るほどしのおかげは頂く、これは当然の事ですね。そこに一生懸命の肥料を施したり、草一本生やさんように努めたり、一生懸命するのですから、当然ですけれども、そのことを守らせて頂いたら、商売は繁盛してきた、願いであるところの子供の病気も全快のおかげを頂いたというおかげにつながってくると言う事。いうならばです、あれは奈良に有名な何とか菩薩というのがありますね。あの手をこんな口あたりの所にこうして、下をこうやって見ておられる。
何とか菩薩というですかね、あれがありますよ。只下をこうやって見ておられるという仏像です。その今日私の御心眼にはね、その仏像がです、手を差し伸べて、こうやって差し伸べて、手を伸ばしてくるものを救い上げようとなさる所を御心眼に頂いたです。いうならばここ20年間の間というのは、天地の親神様がです、一人ひとりの氏子の上をじっと見守っておって下さって「ハア-ああいう難儀な所を通っておるが、もうあれで信心を辞める様な事はないじゃろうか」と心配したり。
又は、そこをのり越えていく信者をです、「ハア-良い信心を進めていく」と思われたり、そういうじっと見ておられる時代であったと言う事なんです。だからそれに耐えられずにやめた人もあるというわけでしょうけれども、ならここに生き残ったというか、ここにその信心を頂き抜いて今日までおかげを頂いてきた人達の上にです、いうならば信心はでけてもでけんでも、解っても解らなくても縁があって、今の大分のその方じゃないが、ひとつの教えを本気で、最近ここで言うておる。
もう自分の手元の所の信心の充実をはかる以外にないんだといっておる。同時にその内容としては、最近合楽を現わすと言う事なんです。自分の心の中に又は自分の家庭に、愈々合楽を現わす、それが焦点でなからねば、ね。だから例えば今までね、様々な問題をお願いしたけれども、これだけはどうしても、もうギリッとおかげにならなかったという問題がいくつもあるでしょう皆さんの所に。
それは神様がじっと見ておられるだけだったからです。ですから私共がです様々なおかげを頂きたい、難儀というその問題をです、いうならお役に立ちたいからのおかげ、いうなら合楽を現わして行く事の為におかげを下さいという焦点がはっきりしたらね、おかげにならない事はないと言う事なんです。もちっとそれをいうならばです、ここ20年間の間には、いうなら私に力が足りなかった。だから皆さんに頑張れ頑張れというて、皆さんばっかりを頑張らした時代。所が私に力ができてきた。
だから願う事の焦点が間違ってさえいなかったら、合楽を現わす事の為に、お役に立ちたいその一念がです、そのためにどうぞ息子が信心になりますように、お商売が繁盛いたしますように、と様々な願いがなされなければならない。願いをなすと言う事には、先ず合楽を現わす事の為に、おかげを頂くと言う事なんです。そういう願いがなされる時にです、今までグズグズしておったおかげがもうスッキリとおかげに成って来ると言う事なんです。いえならば、神様が今まではじっと。
ただこうやって見守っておって下さるだけだったのが、手を差し伸べて下さる所へ、合楽は来ておると言う事です。いうなら神様の初めてです、神願成就のきざしが見えてきたと言う事です。その神の願いが成就すると言う事もです、昨日からも申しますように、いかに合楽を現わすの、極楽を現わすのというてもです、神様の働きを私共の演出によって現わしていく、いうならば人間の力と神様の力が一つにならなければ、現わされないということ。それが現わされる時期に合楽は到来しておると言う事。
中にこういうお知らせも頂きました。その内容です今申しました。もう20年位御参りをされる、月に何回か熱心に参ってこられる、遠方から参ってくる御婦人です。私はその方が一番初めに参ってきた時のことを思いますが、もうそれこそ大変裕福な、それでいて、御主人は立派な御主人で実力家でというて、いろんな条件に恵まれたおかげをうけておられた。まあその時分椛目のうわさを聞いて、別に大した願い事じゃないけれども、御参りになつたのが初めてでした。
そん時に私はあの浄瑠璃にありましょう、三勝半七酒屋の段というのがね、あの悲劇の女、所謂あのおそのというのがね、三勝という芸者に半七が心やすうなって子供までできて、そして心中沙汰になっていく。あとに残るのはおそのだけだというね「去年の秋の患に」という有名な浄瑠璃がありましょう。あのおそのを頂くんですよ。だから○○さん、あなたは今は幸せそうだけど、しっかり御信心なさらんとそういう運命にあるのですよ、あなたは。そしたら口の所に手を当ててから。
もうそれこそカラカラと笑われました。「もう内の主人がそげんことありません」というてから。所がもう実際はでけとった。そしてですそれから一年後には、とうとう遠方に二人ででかけてしまわれました。それっきり音信普通のような状態。その後に一人息子さんがありますから、段々おかげを頂いて今では嫁さんももろうて、子供もでけてとても幸せだとこう言う訳です。
例えば主人がおらなかったおかげで、信心もでけたとこう言う訳なんです。そして自分は生活にこと欠かれますから、とても今までかつてそげな事した事ない様な仕事までなさって、子供さんを育てられたり、息子の嫁さんもろうて、そしてその嫁さんも大変おかげを頂いて孫がこの頃できたから二人できました。ですから今までの合楽の信心というのは、そういう信心であったわけです、皆。
難儀のおかげで信心ができますとか、ね。けどもこれに主人が帰ってきてもろうてからが本当のおかげだと私は思うんです。所がもうその本当の主人と言う事にはね、主人と言う事にはあきらめきってあるわけです。まああちらはあちらで立ちますように、と言う様な願いはなさっておるでしょう。けれどももうそれが帰ってくると言う様な事は、もう考えておられないのだけれども、今日御理解を頂くと、そういう例えばおかげを、あきらめてるおかげをあきらめずに願っていけというのです今日の御理解は。
もうどげん言うたっちゃうちの息子は信心になってくれない。もう神様の御都合というてあきらめておる。いつかおかげになるじゃろう位の事しか考えてないのを、本当に願っていけ。けれどもその願いの条件としてはです、合楽を現わす事の為に願えというのです。ですから今のような例をお話し致しますと、合楽中の御信者さんの中に、そういう是だけはおかげ頂っきらんというのがあるのですから、それがスッキリとおかげになっていける程しの、もう自力で頑張らなくても。
神様がもう手を差し伸べて下さってるのですから、それに縋る気になれば、おかげになると言う事です。縋ったばってん、おかげにならじゃった。そん時には私の力がない時と、皆さんが思うて下さってもいいです。あげん先生が言いよんなさるばってん、まあだ力が足りなさらん時です。又それだけではなくて自分が本当に、合楽を現わすために願っておるけれどもその思いというものが、まだ本当なものではないと言う事を、究めに究めていけばよいのです。
これは私自身としてはです、そういうお取次を皆さんが願われて、おかげ頂きなさらんならです、スキッとしたおかげにならんなら、私自身は是はまだ、私の信心が足りんのだ。最近言われておる、内容の充実ということが、まだはからなければならんのだと私は思う。皆さんは願いの中心と言う事がそれておる。合楽を現わす事の為ではない。神様のお役に立つ今日の御理解でいうならば、本当に神様に用いて頂く事の為、と言いよるけれども、実際はまだ本なものじゃない。
と解らせてもろうて、用いて頂きたいというそれに不浄がないか穢れはないか、と用いて頂くそのものをはらい清めさせて頂いて、「どうぞ用いて下さい」という時に、神様が用いなさらん筈はないと言う事。そこに神もヒレイじゃがという、神のヒレイがあるのです。今までの合楽の信心をいうとです、いうならば寄進勧化をいうて、一生懸命それでおかげを頂いてきて、今日の合楽がここまでおかげを頂いてきたと言う事です。まあ大雑把な話なんですけれども。
だから是からはねそういう信心から、愈々氏子が真から用いるという、本当に真心から「用いて下さい、使うて下さい。使うて頂きたい、ために商売繁盛も願っておるのであります。息子の信心も願っておるのであります。」今まで願いが叶わなかった願いもそこに焦点をおかれての願いになって来る所からですおかげが。いやもう神様が今まで見てござるだけで、その自力というか、力をつけて下さろうとする、それこそ只見てござるだけであった。けれども自力で這い上がってきたここまで。
だからそこまで這い上がってきとる所に、神様が手を差し伸べて下さるのですから、おかげにならんはずはない、助からんはずはないと言う事なんです。それがもう縁先程ステッキの話をいたしましたように、ああいう例えばちょっとした、私がものを忘れてきたというような縁につながると言う様な縁があるならばです、もうその縁から助かる道は開けてくると言う事です。些細な事でも本当に充実させて頂こう。二反の田圃を本気で草もはやさせまい肥料も施そう、手も入れようという気になったら。
までかつてない程しの収穫があったというおかげではなくて、もうそれには商売繁盛も願いであった所の息子の病気も直っておると言う程しのおかげに繋がって来ると言う事なんです。いうならばサイコロの五の目から六の目に変わろうとしておる合楽であると言う事。大きくそういう分かれ、分岐点にたっておる合楽と言う事。自力から他力に移っていこうとする信心。そこでです今まで自力でやってきた、お互い火の行水の行などというものはもういうならば合楽で、ああいう修行があって良かろう筈がないです。
ただ修行としてさせて頂くのは、いわゆる内容を充実、頂いておるこれを充実していくと言う事と、神様があなたに求めなさる修行を本気に取り組むこと。成行きを愈々大事に尊ばせて頂いての取り組みに成って行く事以外にない、その修行に本気で取り組むということ。大きくいうならばです、合楽に世界の難儀な氏子を取次ぎ助けて下さる働きが生まれてきた。今までどんなにジダバタした所で、力もないのにです、世界の平和を祈った所で、出来なかったのがです。
世界に和賀心時代を創造していく、創っていこうという働きがです是から出来て来た。その気になれば、出来させて頂けるおかげの、いうなら自力から他力と言う事は、大変な力と言う事なんです。そういう力にすがる、神様も手を差し伸べて下さる、というほどしの所におかげを頂いておるのが、現在の合楽であると言う事。私が皆さんにです、だから、あげな修行せな、こうせなという寄進勧化的なことを言わずに、ただ神様の願いを皆さんの上に成就される事の手立てをお取次ぎさせて頂く事になる。
今私が申しました一婦人の、成程それでも立派なおかげです。人間そういう災難難儀様々な思いもかけない事が起きてくる。もうそれこそうちの主人だけは絶対、固い男ですからと思い込んであったけれども、もうすでにでけておった。そしてそこに酒屋のおそのじゅないけれどもおそののような運命を、もう20年近く続けて来られた。そして今になってはその事がおかげであったとお礼も言うておられるのだけれども、これに主人が帰って、それこそ父帰るじゃないけれども。
その父が帰ってきて、現在親子4人の水入らずの生活が出来る様になった時が、本当の神の願いが成就した時であり、又は、それが本当の人間のおかげだと言う事になる。そういう素晴らしいおかげの頂けれるね、いわば場にそう言う所に合楽は今あると言う事なんです。ですから皆さんがね、それをそうと「ハア-そうだ」という風に切り換えられなきゃダメなんですよ。だから皆さんの願いの中に色々ありましょう、成就しない事が。そしてそれは半ばあきらめて居られる様な事もありましょう。
けれどもそこにですはっきりとした、合楽を現わす事のためにと、本当に神様に用いて頂く事の為に、という焦点がはっきりしてきたら、おかげにならんはずはない。もしおかげにならん時には、私の力がない時足らん時と私はそう思う。なら皆さんはその焦点が、まだそう口では、どうぞお役に使うて下さいと言いよるけれども、それがまだ本当なものでないと言う事を確かめていって、私は初めていわば今まで成就しなかった問題が、又は事柄が願い事が成就していくほどしのおかげを頂いた時に。
初めて神の願いも成就すると言う事じゃないでしょうか。半ばあきらめておる様な事、それでは神様の願いが成就するとは言えません。本当に神様の願いが成就する事の為に、これからの信心をそこにかけていかなければいけないと思うです、ね。どうぞ16日は祈願祭だから諸事大繁昌のおかげ、そしておかげの事実を話して、するならば諸事繁昌を願わないものは一人もあるまいと思いますから、一人で十名なら十名のものを、つれてお参りができる位なです、宣伝をさせて頂いてね。
それこそここの御広前がわれる様な祈願祭にもならなければならんと今から、お願いをしておるわけでございます。皆さんがまだ頂き足らんと思うとる所に宣伝もでけんのです。本当に頂いておると、それこそあの苦しかった時代、あの時分の事を思うたら、それこそ夢のようであるという実感から、現在頂いておるおかげの実感が、愈々新たなものに、瑞々しいお礼心となって信心の修行に励みがつこうかと思うのであります。
どうぞおかげを頂いて、まずは本当に自分の心の中に、合楽を現わし自分の家庭に合楽を現わしていくと言う事に、愈々本気にならせて頂かなければならない。そしていうならば無駄な修行、いや神様がお喜び下さらんような苦しい修行は、してはならない。断食をするとか、水をかかるとか言う様な事ではなくて、もうどこまでもお参りの修行でなからなければいけない。どこまでも、教えを本気で充実して行く所の修行に取り組まなければいけないと言う事で御座います。
どうぞ。