昭和49年7月16日 朝の御理解



昭和49年7月16日 朝の御理解

御理解第60節 「おかげは受け徳、受け勝ち」

 久留米の石橋先生の仰っておられたという、「人間の一握りはこれだけだけれども、神様の一握りというのは、限りがない」という事を仰ったそうです。

 今日私は、★「はなさにゃ助からん」という事を頂いたんです。ご神前で。「はなさにゃ助からん」。それは、んー、例えば、人間の一握りがこれだけならば、神様の一握りはどれだけあるか分からんという事なのですから、その限りないおかげを頂く為には、自分がもっておる、この一握りのものをなはさにゃ、大きなものは握られんという事だと思うです。

 ん、人間の知恵とか憶測でものを考えたり、計ったりするのじゃなくて、どこまでも神様の物指しで、神様の心を心としてのおかげ。それにはね、自分の考えが、右がよいの、左がよいのといったような考えはまず捨てて、時が自分の考えを捨てた時。一握りのものを捨てた時なんです。

 そして、例えば、ご神意のままに動くという時が、だからそういう、信心が積み重ねて行く時に、ね、ただ神様の懐に手を突っ込むのと同じこと。お商売人が、例えばお客さんの懐具合ばかりを、に考えたり、なら手を突っ込んだぐらいなことでは対したことはない。

 神様の懐に、手を突っ込ませてもらうためにはね、まず、ここの一握りの、自分、人間の一握りというものを、自分の憶測、考えを捨てなければならん。ん、捨てなければ、神の一握りといわれるような大きなおかげを握る事は出来ない。

 「おかげは受け徳」。そういう信心をさせて頂いて、徳を受ける。もう「受け勝ち」というのは、徳を受けた者にはかなわんという事です。ね、徳の受けた者にはかなわん。そんなら、徳を受けなければならん。その徳は、もう受け勝ちです。受け徳である。

 なら、そういう、受け徳のおかげを頂くためには、はなさにゃならん。ここでです、私はこのはなさにゃならないという事をです、ね、一握りを放すという事と同時に、ね、お話をするということ。話さにゃ助からんというのは、私は今日は、その、そういう風に感じたんです。

 ここで、黙って治めるという事がいわれます。これはもう素晴らしいことです。ね、だからそれは、自分の、自分の例えばことの場合、黙って治めるという生き方をいよいよ身に付けていかなきゃいけません。ね。

 子供にお説教をするとか、子供を(?)言うて聞かせるとか。そういう事は、もう黙って神様にすがっていったら、一番素晴らしい時です。けれども、話さにゃ助からんというのはです、ね、自分の頂いておるおかげを、話していかなければ助からん。私は、これを、しきりに思うのです。

 昨日、えー、お道の新聞がまいりましたから、読ませて頂いておりましたら、今度は安田という先生が、教官になっておられます。なかなか、よう信心をなさるお方らしいです。お話しの節々から分かる。今までとは違った、いうなら教官という感じです。ね、そして、今金光教の曲り角と言われるような所から、こう抜け出ろう、事の為に、本気で考えておられる、という感じなんです。

 そのお話の中に、こんな事が書いてありました。( ? )「安田教官の話しの中から、助けるのでなく、助かるのである。伝えるのでなく、伝わるのである。広めるのでなく、広まって来ている」という事が書いてあります。もう私は、現在の合楽にぴったりだと思うんです。ね。

 助けるのではない、助かる。ん。伝えるのでなく、伝わっていくのである。広めるのではなく、広まっていくのである。そういう内容を、現在の合楽は持っておるということだと思うです。

 私はこれはですね、いうならば、何ともうしましょうかね、そういう力のない教会には当てはまらないと思うです。そうでしょう。例えば、えー、去年でしたね、えー、(?)大きなお祭りで、公開公演が開かれました。この辺の地区でも、久留米の文化ホールで、えー、朝と晩と、二回に別けてございました。皆さんもおい出られたですね。

 これは、あー、教会の信者という事じゃなくて、未信者の方、に対するいうならば、公開公演である。いうならば、金光教の、ならPRである。

 それで、なら皆導かれた人達が、んー、まぁ未信者の方も沢山お参りをして、その総合した結果です、まぁあの時から信心を頂いて、よか信心を頂いておりなさるという人はもう( ? )もう、( ? )というてもよいぐらいです。お話を聞きに行った人は皆金光様の信心が素晴らしいと思うてやっぱ誉めた。けれども、金光様の信心をしようとは思わないというのが、大多数だったという事です。

 アンケートを取った。ね、次には、お話を聞いたから、近所の教会にいったけれども、もうあんなんならもう二度と参ろうとは思わなん、思わんというのが、次じゃった。やっぱ参ってみたんです。ね、宣伝になったわけですいわば。

 けれどもです、ね、宣伝と実際は違うとったということなんです。今の私は、合楽の場合はです、いうなら皆さんが、ね、ありのままを宣伝して下さったら、皆さんがまだまだここには、皆さんが説明する以上のおかげの頂けれる働きが今あっておるということです。

 私は、思うのですけれども、合楽という事の、の地名から、ね、神様の願いを自分の身にひしひしと感じます。いよいよ世界の人達が、助かって行くという。和賀心時代をいよいよ作っていくというようなです、ね、おかげを頂くという事は、まず自分の心から、自分の家庭に、いわば苦悩、苦しみ、悩みというものが、取り除かれなければならん。

 ん。そして、喜びの世界を現していかなければならない。ね。そういう、一つの見本手本というものが、合楽にできた。それが、神様の理想であると同時に、私共の信心理想でなからなければならんのです。

 そういう、おかげを頂く事のためにです、しか、世界が本当に真の平和。和賀心時代を創るというような、大きな働きの事の為にです、ね、合楽教会は生まれたんです。同時に大坪総一郎も、そのために生まれたんだ。そういう確信を、最近しきりにさせて頂きます。

 私はその御用の為に生まれたんです。だから、神様が、私にその見本というものを、手本というものを、まず先に下さったんだ。ね、合楽教会に、合楽の世界があるという事。ね、喜びの世界。ん、いうならば、争いのない世界、貧乏のない世界。ね。欲のない世界。ね、人間のいうならば、苦悩、苦しみ、悩みというものをです、ね、から、脱却した、いわば歓喜の世界に浸っておるのが現在の合楽です。

 そういうおかげを、(正気?)のながらもです、合楽のご信者さん方は、( ? )沢山おられるということです。それを昨日の御理解で頂くと、そういう、いうならば、真善美というか、ね、のおかげというか。人間の三大苦といわれる、その三大苦から、もう解脱しておるほどしのおかげを正気がながら、頂いておりながら、まだ頂き足らんような思いをするところに、おかげが育たない、いわゆるおかげは半死半生だ。そのおかげが、いうならば、死んでおるようなことになっておるから、おかげが大きくならないのだと、いう御理解が昨日の御理解でしたね。

 ですから、銘々、合楽の、いうならば小さい見本のようなものを、なら皆さんの、家庭に現しきっとらんでも、心の中には頂いておる。ね、その心に、( ? )しておったのが、家庭中に広がっておる。そういうおかげを頂いておる人が、合楽の教会に沢山おるという事。ね、だからそれを話していかなければならないというような。ん。

 これはね、お導きとか、ね、(?)とか、いうならば、自分が助かるために人を助けるといったようなものとは違う。助けるのじゃない、助かるのだ。その助かると言えれる、内容が今合楽がそなえておるんだという事です。

 先日、秋山さんの車が追突された。その追突した方が、あー、北野の、警察官の方であった。大変人物の方であった。大変、運転の上手な方だそうですが、その時にはなにか知らんけれども、何か(  ?  )おったと。それで、こういう事になった。

 とにかく、まぁ十分の修繕をして下さい。というて、色々話をしておる内に、実は、あの日は、家内が病気をしておりまして、ね、どうか、頭、脳腫脳が、脳腫ですか、が出来て。それはおかげいた、よくなったけれども、それからその、段々他の病気にうつっていって、もうとにかく、まぁ勿論、全然ものも言えないし、それから、便所なんかはもう、いうなら、出っぱなしというような、難儀な状態な中にある。

 それで、そこに、家内にとこにおしめを持っていってやった、その帰り道であった。だから、その事を( ? )から、くにあんで、考え考えておられたもんですから、その、確かに( ? 。 ? )止まっておる事が、分かっておるのに、それにこう追突した。

 というような、難儀な話を聞かれた時にです、あなたが疑いなさらんなら、私が、金光様にお願い致します。合楽の教会に参って、今日は( ? )帰りなんです。ですから、あなたが疑いなさらんなら、御神米をさしあげます。そして、明日から、まぁそのあなたの奥さんの事をお願いしますと。

 いや疑いません、どうぞよろしくお願いします、ということであった。ね、月次祭の日。ね、昨日、一昨日でしたか。お礼に見えた。御神米を頂いた。金光様を、いうならば、( ? )合楽に参られた。そしたら、おかげで家内がものを言うようになりましたというて、おかげ( ? )を持ってから、お礼に出てきました。

 だから、これはもう、私(?)じゃないというので、ここへ、お供えを持って、そのお礼を言うておられた。ね、例えば、そういう例えば、きっかけから、話せば助かるだけの内容が今、合楽にあると。ね、いうなら、素晴らしい宣伝というか、素晴らしいお話を聞いて、教会に参って、見たけれども、ね、参る気がしないというのではなくてです、今の合楽ならば、皆がそういう風に助かられる。

 いうならば、合楽のいうならば、極楽の世界というものを見て下さい、合楽にいって。又私共が頂いておるおかげを見てくださいと、言えれるものがあってです、私は今日、教官がいうておられるところの、助けるのではなくて、助かるのだという事。

 ね、秋山さんが助けたのではない。合楽の助かり。力があるのだ。かというて、いわば、話さなきゃそういう事になってくるわけです。ね。

 秋山さんが助けたのじゃない。合楽の助かるその、働きがあるんです。というてなら、ほっておったんじゃいけん。話さにゃ助からんです。話さにゃ。お話をしなければ。

 ん、いよいよ、後一月後、ね、が夏の、いうならば大祈願祭。(けんだい?)繁盛、ね、五穀豊穣の悲願のお祭り。30日の、大祓いのご大祭が、ね、守るお祭りなら、という事をいただきましたが。ね、交通安全の大祓いをいただく。ね、悪疫予防から守って頂く、守る、守って頂くという、大祈、祈願のお祭りであった、それに対してです、8月の16日の、夏のご大祭は、ね、今度は、せめる(?)せめるお祭り。せめていくお祭り。

 ね、それは、(先代?)繁盛を願わない者はありますまい。五穀豊穣を願わない者もありますまい。ね、その大繁盛を願わせて頂く、願わせて頂けばおかげになるという、いうならば、確信を持って、お祭りが仕えられる。

 そういうお祭りにです、いわば、最近私は宣伝という言葉を( ? )もう宣伝、これにつとめるべきだということなんです。

 いわば、話さにゃ助からんのです。そこんところを間違えてです、ね、なら話さん、というてです、さぁ自分の子供がいう事聞かんとに、話して聞かせるという、これは違うです。ね。

 自分を中心とした時には、黙って治めるのであり、人が助かるということのためには、いよいよ話していくということ。しかも話していってです、ね、おみち、お導きをしたけれども、助からないというのでなくて、ね、助かる働きが現在、合楽に出来てきたという事。初めてです、いうならば、世界(じょうか?)の準備が出来てきた。

 銘々の家庭に合楽を現していくように、又、ね、難儀な人達の上にも、合楽を現して行かれるような働きをさせてもらう。よりよき世界、すなわち人間から、苦悩を取り除かせて頂くという、ね、それを表していくというのが、神様の願いであると同時に、私共の、(みすご?)でなからなきゃならんというように、信心が大きくなってくる。

 合楽というのはね、そのために、合楽が生まれたんです。そのために、大坪総一郎は誕生したんだ。というようなです、大いなる世に、皆さんがです、そういう大いなる働きのあっておる時にです、合楽に御神縁を頂いたという事は、これは大変なことだと、一つ皆さんが、びっくりするごと考えなきゃいけないです。

 そして、ほんなら、私もその一( ? )を担わせてもらう。私もその働きの手にも足にもならせてもらう、と大いなる御用に、私は目覚めなければいけないと思うです。ね。(宣伝?)多いにこれにつとめなければいけないです。

 それが、いうなら、薬の能書のようにです、あれにも効く、これにも効くというてです、実際は効かん。ね、宣伝につられて参ったけれども、おかげ頂くだんじゃなくて、一切におかげの頂いておる現場というか、事実を合楽で見せて聞かせて、ね、そして、いよいよ神様の願いであるところの、合楽の世界をいよいよ広げていかなければいけない。

 私は、今朝方こんなお夢を頂いた。●4、5人の方となんか旅行をしておるようです。こうして、こう道を歩いていっておるうちに、道を間違えた。この道だろうと思うて、私は右に、いー、いや左の方へ入っていった。

 してこん人達、後からついてきておると、ところが誰もついてこない。もう夕方になって。行き詰まってしまって、むこうのには、墓場がある。こりゃ道ば間違いたばいのち。後ろから着いてこないもんですから、あの、心寂しい。

 私が何時も旅行する時に、懐中に財布を持っていない。時計も持っていない。こりゃもう私、なんですか、まぁ流儀なんですけれども、そして、ひっくりかえしてきよったら、あの、林の中に一軒の素晴らしい家がある。

 そしてそこによって、道を尋ねさせて頂いた。そして、この( ? )屋敷ともいわれないけれども、屋敷の暗い、向こうに小さいお社がお祭りしてある。あー、ここは金光様のご信心なさるのですか、ていうたら、はい、あの金光様のご信心を頂いておりますとこういう。

 あー、あなたも、なら金光様の信心なさるですかち、向こうの人が言うから、私は合楽ですて言うた。そしたら、もうびっくりして、はー、合楽の先生ですかて言うてから、( ? )です。勿体無い。もう合楽の先生に来て頂いたというて、その、拝まれる。ん。

 そして、私が本当の道のところまで、ご案内申し上げますというて、ついてきて下さったところを頂いたんです。

 いうなら、私は、実をいうたら道は間違えた。ね、間違えたけれども、ね、そこには、間違えた中にも、なるほど、皆の一緒に、旅行の楽しみということはできなかったけれども、又、そのお道にでて、そして、又引き帰すわけになりましょうけれども、例えば、なら皆さんがです、ね、本当に、合楽を宣伝する。そこに、よし、なら人間ですから、間違えた事があるかもしれません。

 けれども、そこには神様がちゃんと、顔を立ててくださるほどしのものが、現在の合楽にはあるという事です。私はそういう風に頂きました。そして、今日、話さにゃ助からんということから、たまたま、いうならこの60節を頂いてです、ね、おかげは受け徳、ね、受け勝ちということはです、ね、神様の一握りというものを、私共が分かる。そのためには、自分の考えというような、自分の一握りというものを、放さなければ助からん。そこにお徳を受けていく道がある。

 ね、受け勝ちというのは、徳を受けた者には勝たん。例えば、今までの合楽の場合は、ね、話しなさんな、ね、私はお導きをしなさいとか、合楽の宣伝しなさいという事は、それこそ言うたことなかったでしょうが。

 ところが、いよいよ合楽にです、いうならば極楽の見本。合楽の見本。真善美の見本が出来てきた。そして、思うて( ? )とこう、信者さん方の(お家?)眺めてみてですね、あらー、もうどこもここも、いうならば合楽の( ? )のようなおかげを受けておるんだと。

 ね、高橋さん、あ、高島さん達夫婦じゃないばってん。お父さん、これが本当の極楽というとじゃなかじゃろうかのと、2人で朝参りをし、する道々、そういう話をしてくるというのです。

 ね、だから、そういうおかげを銘々頂いておるという事と。ね、それが足らんならば、合楽を見てくださいという宣伝がです、もういよいよなされなきゃならない時期にあるんです。

 ね、お導きをしてきた。ところが、教会内で、ごた、ごた問題が起きました。何時も病気がんなら絶えない。はーもう何時も教会は貧乏しござる。というのを見るから、二度と参る気はしないということになってくるのですよ。

 ところが、合楽の場合は、それが教会のこのお話じゃないですけれども、ね、皆さんが、そういう話していくならばです、ね、助かるのではなくて、ね、助けるのではなく、助かる働きがある。ね、なら皆さんが、お話をしていくならばです、もうそれが伝わっていく。ね、伝えるのじゃない。伝わっていく内容がある。

 皆さんが広めるのじゃない。もう広まっていく内容が今の合楽にはあるという事なんです。ですから、これは合楽にして、ね、初めて言えれることではなかろうかという風に、私は思うんです。

 二十何年間私はこれを言うてこなかった。ね、けれども、今こそ私はいわなければならない時だと。合楽というものは、そういうです、人間の苦悩を、ね、取り除いていく事の為に、合楽が誕生したんだと。ね、そのお取次ぎをさせて頂く事のために、大坪総一郎は生まれたんだ。

 その手足にもならせて頂くことのために、不思議な働きを得て、合楽に皆さんが御神縁を頂いたんだという自覚に立ってです、ね、いよいよ世界から、ね、いうならば、病気のない、貧乏もない、争いのない世界を、ね、広め現していかなければならないと思います。どうぞ。



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