昭和49年6月16日 高須教会参拝者研修



昭和49年6月16日 高須教会参拝者研修

 皆さんこんにちは。おかげを頂きました。御遠方の所お疲れの所、私のつたないお話を、ま暫く聞いて頂く事、どうぞよろしくお願い致します。ちょっとここ電気を付けて頂きましょうか暗いから。只今あの皆さんのお出でられるちょっと前に、一時の御祈念を終らして頂いとりましたら、皆さん所にも、あの是が信徒会からのあいよかけよという御本が来ております。お読みになっておられますでしょう。是は私ちょっとこう、あのはぐらして頂きましたらね、俳句をなさる方達の、あのあれが出てました。

 俳壇八十三才になるおばあちゃんんの投句なんです。「朝参りでほのかに白き、梅一輪」「生かされて、八十路超えてし、桃節句」とあります。私はここを読ませていただいとったら、しきりに感動が湧くんです。ははぁ今日はこの事を皆さんに聞いて頂く、その感動を聞いて頂こうと思ったんです。評にこう書いてあります。八十三才の御高齢、堂々たるご筆跡、ほのかに白い梅一輪、梅は高貴の印、二句ともその人柄のよく出ている、しかも信心につながる、良い出来であると。評にしてある。

 八十三才のおばあさんの句なんです。生かされて八十路越えてし桃節句、とほのぼのとしたおばあさんでも一つの色気が漂うているような感じが致しますですね。私はあの今のこれは日本中の人たちに言える事だと思うんですけれども、そう言うこのらしさと言った様なものが段々欠如して行っておるように思うんです。是はお道の信心を頂きましても私どもの、ま少年時代の金光教、お盛んでありました時分の金光教を知っとりますが、段々おかげを頂いて開けては参りましたけれども。

 教祖様のお言葉じゃないけれども、開けながら、金光教自体がめげて行っておるような感じ、そんな感じなさいませんか。ね、世が開けるというけれど開けれのじゃない、めげるのじゃと仰ったんだけれど、金光教自体もそう言う様な事になりつつあるような感じがするんですけれど、ね、結局あのらしさという、教祖の御信心をたとえば三代金光様が、全教一新して、全教一家と言った様な、御教えを頂いておりました。

 もう是は私もう願う所ここのとこばかり、今日は皆さんがはるばる九州にお出でられた。そしてまああちらこちら見学をなさったり、信心実習をなさるわけでございますけれどもね、こうして合楽教会に皆さんがおひき寄せを頂かれると、もうほんとになんと申しますか、全教一家の実がこの様にして上がっているんだという思ういがもうしきりに、お手紙を頂戴致しましてこちら、その事を感じさせて頂くのです。

 それでなからなければいけないと思うです。あちらはどこの手続きだから、こうそれはさまざまあります。例えば九州の信心とよく言われますけれども、九州の信心がやはり金光様の信心なのです。上方に参りますと上方のやはり信心ぶりというものがある。同じ小倉の桂先生の流れを頂いておりましても、例えば久留米の流れがあり、甘木の流れがあり、福岡の流れがあり、また最近は合楽は合楽で、はら合楽は間違うとると言われるように、言われる位に違ってるんです。

 私の方は、ね、けれどもね、金光様の御信心というものはその様に広いのです。赤一色ではありません。赤もあれば緑もある、黄なもあらゆる色が集まっての金光教なんです。それは私が知っておる限りでも、様々な教会がございます。今申します甘木、福岡、ね、久留米また合楽と、ね、けれどもその根底に流れるものは、一つなのです。けれども矢張り流儀と申します、甘木流とか久留米流とか、でまあ最近では合楽流だと、ね、その合楽流をそのまま金光様の流儀とはもうしません。ね。

 皆んながあって金光教の私は御流儀だと思うんです。ね、昨日広島の下田教会の教会長先生がお見えられました。時々お見えられるんです。もう七十五才ですかもう矍鑠として、お取次の御用がでけておられます。お話をさせて頂きましたが、あの近所の教会に大変ごひれいの立つ教会がある。所が面白いんですよその教会は、ね、とにかく病人が沢山助かる。ね、ほらもう御祈念なんかもう実に熱烈である。

 そういう意味合いででも、ここではもうあのこうして朝昼晩の御祈念の時以外には、祝詞も上げない位です。もうただ御理解を頂くばっかりでございます。ね、もほんとに御祈念力が合楽は欠けとると言われる位ですけれども、どうしてもそういうふうに偏る訳です。聞かせて頂きますとね、とにか、あ、いわばおさすりなんです。ね。どこが悪いと言うと、そこん所は裸にしてから、手をさすってあげると不思議にそれが治る。

 だからそういうのは金光様の御信心にはないと言う事はない。というほどしに私は金光様の御信心は大きい。ね、教学で一本で行かれるような教会もあります。かというともうそれこそ福岡で、の教会なんかはもう、祈念力で人が助かると言われるくらいに、熱烈な御祈念をなさいます。先生の御祈念を後ろで聞かせて頂いとると、あの御祈念を頂いとるだけで、確かにおかげ頂くような気がするんです。その気がするその事が、おかげの元にもなるわけなんです。ね、すとここ当たりになりますと、私が黙って心中祈念をするだけでございましてね、そして毎朝三十分あまりのお話しさせてもらう。それがテープに入れられる。そのテープを皆一日中、お参りをしてきた人はそれを聞かせてもらう。それから心が開ける、それがおかげを頂くまた元にもなる。

 どれが本当と言う事は、ないのですけれどもね、矢張りそこそこの矢張りいうならば九州の信心と言われるように、なら九州でも今申しますように、甘木もあればまたは久留米もあり、または合楽もあると言う事になります。で皆さんがこうして合楽の教会にお引き寄せを頂かれてね、なら皆さんの御教会に合楽でおかげを頂いておる何かが少しでもま、参考にでもなれば大変有り難い事だと思うのです。

 ま横道にお話がちょっと、それましたが二、三日前でした。私はここは月次祭が四回あります。その月次祭の日だけ両親が一番奥の方へ、あのまだ九十になります両親が、揃うとります。もうその朝の御祈念にはいはいしながらここへ出てきます。ね、まだあの元気ですけれども、足が少し弱っとりますから、実は四回だ夕食を一緒にするんです。お月次祭の日だけ、もう大変私があのその日、月次祭の日だけは楽しんで待ってるんです。そして信心の四方山話いろいろさして頂いて。

 私と家内とそして両親と一緒に、あの食卓を囲まして頂きます。その何の話からだったでしょうかあの母が、髪が少しこう乱れておりましたから、家内にあれをこう断髪してあげたらどうかて、ね、どうもこう暑くもなるとあれだから、あの少し乱れるから、ね、朝はちゃんと、自分で髪結ってそし、ちょっと着物着替えてここへ出てくるんです。けどもその夕方になりますとそのように、まも髪が乱れておる。

 だから断髪にしたらどうかて、してあげたらどうかと私家内に申しまし、いやそれがね、先日それを言うたんですよ、そしたらならそげんして貰おうかとその言うたけれども、すぐその後に返って妹から返って来た返事なんです。ね、私の家内は五十枝ていいますが、五十枝さんがああ言うてくれるけれども、まーだじっちゃまがおられる間は、髪は切られん、と言うたそうです。ね、

 いうならまだ爺がおる間は、まだ髪は切らんと。もう私はそれを聞いてから、胸が一杯になりました。成程こういう母に父は幸せするんだと言う事。そういう母の信心から私が生まれたんだと。ね、いわば先ほどの俳句じゃないですけれど、八十三才にもなられて、桃の節句を楽しまれると言う所に女らしさがあるじゃないですか。女の色気がいうなら八十三才にもなられる、お婆さんのその句の中から、感じられるじゃないですか。ね、金光様の信心を頂かせて頂いて。

 いうなら金光様の御信心ぶりが匂うような、私は信心を身に付けたいと思う。そこでただ今申しますように、金光様の信心は広いそして大きい、だから様々なその御流儀を、そのいうならば、教会長の個性とでも申しましょうか、が、変わってはくるけれども、矢張り金光様の御信心、私の方でも二十年あまりていうのは、あれは金光教じゃないんだと、もうそれはもう大変な、そのま風評の中に言わば悪名高い合楽でしたけれども、この頃では段々おかげを頂きましてですね。

 本部の方でも、私のお話をした御書物をテキスト代わりにお使いになられたり、ね、または、あの、月々ここから出しております、おかげの泉と言う御本がございます。私が三十日の間に一日、一日のひと朝の御理解を、もうそのまま筑後弁丸出しのね、お話がもう五十何回続けられております。ここへ、こちらへ移りましてから、それを皆さんが待って読んで頂くように段々なってきた。ね、

 そして是が本当だとか、是が違うんだと言った様な事ではなくて、そうしてあらゆる信心を吸収していく、私は豊かな心というものがです、金光様のご信者の中にはなからなきゃいけない。教祖様は御承知の様にいうならば、土の様な御方であった。ね、お百姓をなさって、いうならば天地と交流されるのに一番、それこそ最も相応しいお人柄であった。それがあの今日の、金光教の大元をお創りになるご信心であったわけですから、私共もどうかそういう信心を、ね。

 教祖様のそれは色々真似ではでけませんから、ね、けれどもその矢張りそういう信心を根底にしての信心を一つ進めて行きたい。私の上にはこの先月の二十八日でございましたですか、三代目が生まれました。初めはあの女でしたから、今度は息子が生まれました。すぐそこに合楽食堂というあの食堂が、こちらへ参りますちょっと前から、あのお参りをしてまいりました。

 お母さんが乳がんで、もう医者は助からないと言う。けれどもまあ乗るか反るか、一辺手術をすると医者が言う。それでお母さんはどう言われるかというたらもう、手術はしょうごつなかち、もうその時が八十位になられておられました。だからそんなに言うごとあるならば、もううちに連れて帰って神さま一心、一本に一つおすがりしなさい、というてそれからおばあさんも喜んで帰って来ました。帰って参りましたら、もうどんどんおかげを頂きました。

 おかげを頂いて一年ぐらい致しましたら、もう畑ん出てから鍬を持つぐらいにおかげを頂きました。今年の春いわば十何年間の、それがまあ十何年間じゃありませんですね、もう、九十いくつで亡くなられましたけれども、もうほんとにあの健康のおかげを頂いて、それこそ眠るような大往生でした。病気というものはすきり無くなっての、お国替えでございました。ね、そう言う様な事から熱心にお参りして来るようになりました。この合楽の村の方達もほら。

 金光様ちゃあらたかだなちゅうんで改めて、合楽に合楽会という信者さんの集いがでけるようにおかげを頂いてるんです。矢張りおかげを受けなければいけません、ね。そのおかげに皆が付いてくる。そして信心が段々分ってくるというのです。丁度私の方の誕生の前々日でした。朝参りが済んで、親先生、今度のあの赤ちゃんはおぼっちゃまですよち、どうしてやちゅうたら、今朝方からお知らせを頂きました。それがその鯉のぼりが上がっったところ頂いた、いやそれも、あのこちらの若奥さんの安産を願っておりましたら、そういうお知らせを頂いたから、今度はおぼっちゃまですよ、

 はら、鯉のぼりがあがっとると思うて見せて頂きよったら、それが段々とその鯛になったお知らせだったとこう言う。鯉がははあそりゃやっぱ息子に違いない、しかもこれは鯛は目出度い、これは天地の親神様が祝福して下さってあるんだ。合楽にも三代がでけた。というわけなんです。それで私はさっそく、神様にお願いさせてもらって、お名前を頂きました。

 そして名前を恵城と命名さして頂きました。恵城というのは景気が良いという景気じゃない、恵むという字それの城と書きます、ね、それで私はそれを若先生に伝えさせて頂いた。ね、おかげを頂いて合楽にも二代、そして三代がここに誕生した。そこでですふんなら先代の時のような信心が、そのままでけるとは思われないけれども、お爺さんがこう言う事を言い残しておられた、是だけは守れよというて行かれた。ね。

 だから是だけはというて、それを信心にして行くならばです、愈々おかげは教祖様のみ教えどうりに親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛するおかげを頂くであろうという御理解恵という字は恵まれると言う事城と言う字を、分解致しますとどろに成ると書いてある、土辺に成るという字が書いてある。ね、そこで言うならば是は合楽の信心の芯というても良いのですけれども、成り行きを大切にすると言う事が言われます。いうならばすべての事柄にです、ね。

 御の字を付けて頂こうというのです。御事柄として受けて行こうと。私は真の信心真の信心というけれども、ただこうして拝まして貰う対照だけが神様ではない。ね、天地自然それ一切が、神様のお姿であると同時に、ね、起きてくる一切の事柄が、天地乃親神様の御働きだ、私は思うんです。ね、降る事も照る事もしかもそれは私、大坪総一郎の上に起きてくることであるならば、それは大坪総一郎に求め給う、天地乃親神様の願いであり、または、神様のお心だと私は思うです。ね。

 ですからいかに神様を拝み上げておりますというても、その神様の働きそのものを、おろそかにしたんでは、おかげにならんと思うのです。神様の御働きそのものを、これは都合が良いから頂きます、是は私には部が悪いから、お返し致しますと言う様な事では、おかげにならん。是は私がです、ね、二十ここ数年間もう是を徹底して行うて、行の上に表してここの信者も、そういう信心を身に付けて行くと言う事、ね、それはなかなか受けにくい事もございます。けれどもです、ね。

 教祖の御教えの中に、天地日月の心になる事肝要なりと仰せられる御教えがありますね。天地日月の心天地日月の心とはどういう心であろう、天の私は心はね、もう限りなく与えて与えてやまない心だと思うです。ね、いわゆる麗しい心なんです。与えて与えてやまない心、ね、地の心はそれを受けて受けて、受け抜いていくという心だと思うです。日月の心とは、実意丁寧そのものだと私は思うです。ね、そういう天地の働きを、そのまま実意丁寧な心と信心を持って受けて行く、ね。

 合掌して受けて行く、有難いとお礼を申し上げながら、受けて行く、そこに私は土のような信心が求められるわけであります。ね、土のたとえば大地にどういう汚物を持って行っても、不平を申しません。黙って受けます。受けて受けて受け抜いて、そして自分自身の、いうならば、肥えていく沃とともしていくのです。ね、私それがね、金光様の御信心の芯だと思うんです。

 金光様の御信心ぶりというものがです、なんかこの頃いうならば、もう決して金光様の御信心ばかりはね、ほかの宗教の宗派のああだから、こうだからと真似する事は一つもいらんです。ね、教祖様の御信心というのは、いうならばですもう土の様な信心を私どもが身に付けさせて頂いて、ね、受けて受けて受け抜いていくというおかげ、ね、そこから心はいやがうえにも豊かになってまいります。ね、

 教祖のみ教えの中にも御座います様に、ね、とかく信心は根を肥やせ、根を肥やしておれば、ひとりでに肥をせいでも、ものがでけるようなものである、と仰るのです。是は例えば、もうお宅あたりのお教会に比べるならば、それはもうそれこそ足元にも及ばん事で御座いますけれども、合楽は合楽なりにです、ここ二十数年間私共がいうならば、布一寸買いませんというのが私と家内の信心です。

 米一粒買いませんというのもそうです。ね、それがおかげを頂きましてです、ね、必要な時には必要なものがしかも最近などは、もうほんとに最高、これが最高のものであろうかというようなものが、集まってくる。はあ合楽はもう派手だなと、合楽はもうほんとにそのまあ先生が元が道楽じゃったから、というて皆さんが言われる方がありますけれどね、もうほんとによその教会だと、なんかこう感じが違うと言うようにです、九州の信心というても、もうそんなんに違うんです。ね、

 皆さんがここに来てから、一番初めにたまがるのは、あのお手洗いの水がこんこんと、こう湧いておる事です。もうよそではもう水というたらね、もうそれこそ大事に大事にされます。勿論大事にしないわけじゃありませんよ。私お風呂入る時にまだ湯桶半分しか使いません。だから湯桶半分と決めております。ね、けれども天地がもう限りなしに下さるものだからこれは、例えば皆さんが手を洗われる、口をゆすがれてもやはりもう溜まった、ボウフラが湧いたと言う事はなかろうけれどもね。

 じゃどうも気持ちが悪うて、ほんとに心を清めると言う事に相応しくない。勿論だからこの九時の御祈念が終わりますとぴしゃっと止めます。してまたあくる朝は、こんこんとああして湧いて出ておりますから、いかにも勿体ない様ですけれども、それは天地に対する還元です。有り難く還元してお返ししていくんです。ね、先月のお月次祭には、二十二万円もするあの袴を頂きました。

 ほもうこの頃から五万円もするち私聞いてあるご信者さんが、お届けしましたから、そげんするもんかと、いうたところがなんと今度私が頂きましたのは、反物で二十二万円すると。それに仕立て代からしよると、やっぱ随分高い。ね、だから天地乃親神様は、人間氏子にね、もうほんとに下さろうとする、こりゃ金光様の信心は、もうその始末倹約ばっかりせんならんということじゃない。ね。

 それをね無理してね、借金してまで作ったり買うたりと言う事はいけませんけれども、与えて下さるものは、私有り難く頂いていかなければいけないと言う事を最近特に思います。ね、そしてほんとにね、優雅な私は信心生活がしたいと思うです。ね、先日からの御理解の中に、この真善美と言う事を頂きました。しんは真善は善光寺さんの善ですね、善美は麗しい、そういう真善美の、真善美のおかげを私どもが受けると言う事が、天地の親神様の願いであると言う事です。神様の願いなのです。

 どうぞ二十二万もする袴をはけれるだけの身分になってくれよと言う、神様の願いなのです。ダイヤの指輪もいいでしょう。ね。何十万百万もする着物も良いでしょう。神様が作って与えておって下さってあるんだもの。ね、ですからそれが頂けれる信心を頂きたいというのです。ね、真の反対は、ね、嘘と真と申します。しんは真とだから真の反対は嘘です。ね、真善美の世界が神様が氏子に願われるおかげの世界です。仏教的にいうならそれが極楽だと言う事です。

 いうならば和賀心の世界なのです。その和賀心の世界には人間が幸せになっていく条件のすべてが足ろうてくると言う事を、私は思います。ね、ですから私共はどうでも真の生活に入らなければだめなんです。嘘の生活ではだめなんです。私共からこの嘘を追放しなければだめなんです。正直者が馬鹿を見ると言われますけれど、それは信心のないもの、ほかの宗教の人の言う事であって、金光様の御信心は絶対、神様が外にはいなさいません。ね、いわゆる真の私は生き方を求めての信心、ね。

 善の反対は悪です。ね、是は善悪と言う事は是は又大変広いと思うんです。まそれを仏教的に申しますと大乗的とか小乗的と言う事になりますね。小乗的に置いては善であるけれども、大乗的には悪になってくる。例えてまあ手っ取り早く申しますなら、ま乞食が物乞いにやってくる。それにああ可哀そうだからと与える。それはいかにも小乗的には善でありますけれども、大乗的な見地から行くとそれは悪です。

 何故かと言うと、ね、それこそ乞食を三日すれば止められないと言う様な根性が、を作るようなものなんです。だから私は本当は善と言うことを追求していかなければいけないと思う。自分がしておる事は果たして本当の善なのか、ね、いわゆる人間心で言う、じゃなくていうなら神心、ね、キリスト教でいうなら、愛を説き仏教で慈悲を説くならば、私は金光教では、神心を説くと私は思います。金光教は真だとか、ね、まあ色んなふうに申しますけれども、私はね金光教祖は、神心を説かれたんです。

 その神心の中に慈悲もあれば愛もあるのです。だから私どもは神心になっていかなきゃいけない。ね、時にはここに可哀そうだけれども、是は突っぱねる事が、おかげであると言う時には、矢張り突っぱねる事が善なのです。と言う様に善というその意味合いは、愈々深いと思います。それから美なんです。麗しいと言う事なんです。美の反対はいうならば見苦しいと言う事です、ね。

 ですから私共が、真善美の世界に住むならば、神様の願いの世界に住みたいと思うならば、どうでもこの真善美を身に付けえていかなければいけんのです。お部屋も綺麗に整頓がしてある。そこにはお花の一つも活けてある。見事な軸が掛けてある。素晴らしい美術品がそこには、目を楽しませてくれる。私は極楽の世界というのは、そうだと思うんです。それこそ蓮華の花が咲き乱れて、ね。

 どこからとも分らない妙なる音楽の音色が聞こえて来て、ね、そしてどこから香ってくるか分らない素晴らしい良い香りが漂うておるというい世界を、極楽の世界と私は思うです。だからそういう世界がね、金光大神の説かれる信心は、そういう世界に氏子、住んでくれよ、と言う事だと私は思うんです。ね、それにはね、私どもがその真善美というそれを一つほんとに身に付けていかなければなりません。ね、

 がその内容としてです私は、私共の三番目のではない、三代目が誕生致しましました時に頂きました御理解の様に、ね、お爺さんの真似は出来なくても、お父さんの真似は出来なくても、ね、是だけは合楽の信心の、いうなら筋金だと例えば三代目が、四代目が頂いていくならば、ほかの事は知らない分らないけれども、この土の信心だけは身に付けていくという生き方になればです、恵みは限りなく私は約束されると私は思います。ね、土の信心をすれば恵みはなるというその御理解が付いております。ね。

 そういう信心を身に付けて行きながら、愈々真善美の世界に住まわせて頂ける、ね、私は、御霊の世界というものを否定したら、信心はないと思うです。矢張りあります。先日から、今日もお参りしております安東さんていう方の、もう大きな仕事をなさっておるです家に恵まれん、住宅にようやくおかげを頂いたかと思うと、すぐこう追い立てを食うと言った様な事で、家を探しをなさっておられました。所が是から一里ちよっとばっかり上の所に家がある事が分ったんです。

 所がそのもうそれこそ立派な家なんです。新しいまだ四、五年しか経たない家ですから、立派な家なんですけれども、そのいわくのある家だと。もうそこに住まう人住まう人、もう第一そこの御主人と言う人が、それに永住する積りで住んだ所が、もうほんの瞬く間に、出られてから人に貸された。貸された人ももうすぐ出て行く。ノイローゼになったりね、とにかく幽霊が出ると言うんです。それを聞かれてまお届けに見えましたから、私がそげなこつなら違わん、家賃が安かろうからそれを買いなさいち、ね、

 そしてあぁた幽霊に、私はよかばってんか、主人が臆病だからちゅうってからいいよんなさいましたけれどもね、そのそりゃもうほんとにね、あのもう手入れをしないもんですから、草ぼうぼう庭に生えてね、ほんとに化け物屋敷の様な感じだったそうです。私も先日からあちらに、お神様をお祭りし同時に改式祭を致しましたから、参りましたがもうこちらには川があって、堤防があって丁度芝居に出てくるその怪談のね、その場面のような感じなんです。ね、

 けれども先生が買えと言うから、まあ腹を決めて買う事になったんです。所が大家さんがどこにおられるか分らない。そこで尋ね求めして行った所が、熊本県の山鹿と言う所に、変わっていっておられる事を聞いて、わざわざそれ行ったんです。所がその向こうの御主人が言われる事が、そのうあの事を知ってから見えられたですか、とこう言われる。あの事と言うのが、幽霊が出ますよと言う事なんです。幽霊が出るそこの幽霊、その何ですかね、えらい荒れるんです。

 もう夜中にね、もうその襲い付きに来る。ほりでもうその青うなってね、その皆んながそこにもう何人も変わったけれども、あとはもういうなら幽霊屋敷と言う事で、誰も住み着く者がないと言う事だった。いやそれから安東さんという方なんですけれどもね。ね、私はそういうふうなうちが好いとりますち言われた。そんならいっちょ借って下さい家賃もこの位でいいからと言うてただの様な家賃で、それから庭を手入れさせて頂いて、家を手入れさせて頂きましたらもう、それこそ見違える様に立派になった。

 近所の方たちがあのお宅はあちらにお住みつき、付かれたんですけれど、何あぁんごともないですか、何あぁんごともないですか、ちゅうて聞かれる。ね、私はその事を神様にお願いさせて頂いとりましたらね、やぱりそういう世界があるんです。ね、私がお知らせを頂きますのにあの洋服、あの出来合いのこうあれを首つりと言うですかね、その首首つりですが、その洋服をあの私が洋服ダンスを開けて、一杯はいっとるのをこう押しのけてね、こう押しやっとってそこに収めたと言うお知らせを頂きました。

 だからねそれが行く所に行けずしてね、矢張りそういう災いがあった。だから私が行く所にこうやって詰め込んだ。だからもう出て来られん事に成った訳なんです。ね、おかげで日々お礼に。でもうそれこそ、それがねやっぱ思うんです。あのとにかくあちらへ行ってから、一番たまがったことはね、二階の上にあがってこう白壁にですね、ちょうど人間が寝ておるようなシミが付いておるんです。いくら剥いでも剥げない。もうそれ見ただけでみんなが震え上がる。所がこの頃あっちの主人が見えてですね、親先生あれをじっと見せて頂きよりますと、ほんとにこのおかげでこういう素晴らしい家がね。

 に住まわせて頂くく事が出来る様になったと思うて、あれは消せとかなんとかもう、ああもうそれはそのままとっとけと言うて、思わせて頂きますが、段々見よるとこの頃地蔵様が寝て御座るごと見えるとこう、もう人間の姿そのままです。壁のそれはシミなんです。シミがそういうふうに出て来てる。ね、おかげを頂いてこの頃からお祭りをさせて頂いて、その洋服ダンスからそれ出しました。

 今度はそしてあちらで改式祭を致しましたから、あちらの御霊やに一緒に納まって頂く様に、是からは金光大神のみ教えを頂いて、是から喜びの御霊、安心の御霊ともなってもらわなければならんというて朝晩、拝んでおられます。ね、だから金光様の御信心は、御霊関係のことなんかを言うと、まるで違う様に事実あるのですから、又それを否定するなら、神様も否定しなけきゃならないと私は思うです。人間はいうならばその魂の世界ということをです、ね、私どもは信じます。ね、

 最近色々なお話がありますね、二十五年後にはこの地球が破滅する、人類がもうその全部亡びてしまうんだと言う様な大予言をしておる人がある、と言う事です。それは分りません。分りませんけれども私共がね、そう言う様な、例えばこの地球は滅びても、ね、神様は地球は滅びないと神様はやっぱ教祖様は仰っていませんもんね。だから亡びるか分らんのです。ね、

 天地は極まりがないのですけれども地球は、ね、限りがないと仰ってないです。今のように人間がです、賢うなってそれこそ教祖様が仰るめげて行くのですから、めげてめげてめげて行くならば、そういう破滅の事もですなら、まんざら嘘とは思われない。けれどもです、どう言う例えば事があってもです、なら魂の世界だけを滅ぼす事は出来ません。魂の世界が破滅する事はまずありません。

 そこで私共がこの現世におる間に、ほんとに真善美のおかげを頂いて、真善美の世界に住まわせて頂き、はぁこれがこの世の極楽だろうかと、言うようなおかげを受けて、ね、その心が、その魂があの世に行っても、また喜びの御霊として続けていけれるような、おかげを頂きたいと、私共は願っております。ね、真にお粗末なお話で御座いましたけれども、ね、今日私は偶々このは暮らして頂いた所に、八十三にもなるおばあさんが、ね、桃の節句を祝われるという、その句を見せて頂いてほのぼのと何か心に暖かい。

 はあほんとにこう言う様ならしさと言うものが、女にはなかららにゃいかん、男にはなからにゃいけ無い、所謂お道の信心者信奉者には、教祖様の信心の御信心ぶりというものがです、ほんとにこの体臭からね、溢れて来る様なものが家庭の中にも生まれてこなければいけない。ね、信心の情操と言うことが言われるけれども、天地の私は情操、いろんな教育とかそういうこちゃないと思う。

 天地の大恩を悟、分らして貰い、もうそれこ見るもの聞くもの天地乃親神様の御働きの、いわ、たまものであるというかね、その天地の全てが拝めれる心こそ、私は金光教的な情操だと思うです。ですからいつも有り難いのです。わざわざ特別な情操を養わなくても天地の御恩徳が分っていけばいいのです。そこに天地の一切に、そのお恵みに対してお礼を申し上げれる、その心が私は金光教信者の情操でなからなければならんと思うです。そういう情操がです。

 最近それを今日の言葉お話して申しますと、その土のような感じの雰囲気と言った様なものが、段々失われてきた希薄になって来た様な気がするんです。ね、何かと言えばすぐ討論、ね、何かと言えばすぐ話し合いではなくて言いあい、と言った様な事になるのではなくて、ほんというたら問題はあってはならないです。問題そのものがおかげなのですから、ね、ですからそのところをです例えば、合楽でここ二十数年間是はもう言い続けております。成り行きを尊ぶ成り行きを大事にする。

 全ての事に御の字をつけて御事柄、これこそ私は真の信心でなくてなんであろうか、それはほかには真の信心はいくらもありあす、ありますけれどもです、矢張りその中にもです、合楽でもただ今ここの信奉者全部が、そのいうなら和賀心時代を、この世の中に広めていこう、和賀心時代を創る、その和賀心時代を作らして頂く一人一人が運動員にならなければならないと私は申しとります。ほんとに金光教の信心のみ教えのすべてがです、この和賀心を頂く事の為にあるというても私は過言ではないと思うです。

 ま今日は私の信心のいうならば、芯と思うような所を、ね、簡単ながら聞いて頂きましたが、どうぞ皆さんの御信心も頂きたいのですけれども、時間の都合ででけないのが残念ですが、また一つぜひ皆さんの御信心も頂く機会を頂きたいと思います。今日はあの婦人部の方達があのお茶をひとつさし上げるように別室で準備しておりますから、どうぞお茶を召しあがってお発ち下さいますように。

   ありがとうございました。



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