昭和49年5月1日 朝の御理解



昭和49年5月1日 朝の御理解

 御理解 第7節 「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中からできた神でなし。天地はハはやることなし、はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 今朝例の通りに庭に出て、天地を拝させてもろうて、拝ませてもろうて、拝ませて頂いておる時に、突然頂いたことでしたけれども、「天の心は神心、大地の心が氏子の心」と頂いた。「天の心は神心、大地の心が氏子の心」と。突然でした。もう本当に自分の耳を疑うような思いで今日このことを頂いたのです。結局大地の心が私共の心に備わった時、神の心が地球上に、言わば成就する時。大地の心が私共の心に備わった時、言うなら神様の願いが地球上に成就する時。

 そこで私ども金光様の御信心を頂いておる者だけでも、ここの所を一つ頂いて天地の親神様のお喜びを受けられる、頂ける信心を本気でさして貰わなければいけない。どんなに言わば天の心とはもう限りなく恵む心とも言われております。それは丁度地上に雨が降り注ぐ様に、満偏なく私共人間氏子の上にあらゆる人間の幸福の条件と言った様なものを恵みに恵み、与えに与え続けておられるのが神の心であり、天の心である。

 それをなら見事に受け止めると言う事がお道の信心であり、教祖金光大神はそのために「天地日月の心になること肝要だ」というふうに教えられたんとだ思うです。ですからここん所を一つ徹底して頂きたい。例えば神様がそういう人間の幸せの、言うなら種のようなものを蒔いて下さっても、地が荒れておりましたり、コンクリートのように硬かったりしたんではその芽をきることも、植えることも芽が出ることも、花が咲くことも実が実ることも出来ません。

 神様はいかほどにおかげを下さっておっても、言うならば受け心が悪ければ、と言う事になるのです。私は今日は新たな生神新たな和賀心、というものを教えて頂いた様な気が致します。生神とはここに神が生まれる事であってと仰せられます様に、私共が総生神を目指すというのがお道の信心だ、と言われておる様にね。その生神とはあらゆる角度から説かれておりますけれども、今日の私は大地の心が氏子の心と仰せられる様な心を頂いた時が、私の心に生神が誕生した時です。

 それを短くみやすう言うなら、どう言う事でしょうか。まあ普通人間的に言えば難儀な事である。腹の立つ問題である悲しい事柄である。そう言う事柄そう言う事柄をです。言うなら大地の心で受け入れた時が生神です。大地の心というのは、ただ受けるだけではない。受けてそれを地が肥える。またそこに植物があるなら、例えば木なら木があるならば、その木に滋養・養分を送るほどしのもの。まあもっと身近な事で言うと、なら商売敵というのがあります。

 もうそれこそ憎うてたまらない。相手が繁盛しておると腹が立つ。そう言う様な例えば場合にです。その商売敵と思うておった者が相手の繁盛が祈ってやれるような心。商売敵ですから向こうはこちらに色んな手を打って来るでしょう。所謂色んな戦いを挑んで来るかも知れません。それをただ黙って受けるというだけではなくて、黙って受けるだけではなくて、相手の繁盛を祈らせて貰えるという心。是が大地の心です。ですからお互い本気でその事に精進させて頂いたら、生神の誕生を見る事が出来る。

 それはなら些細な事から稽古するがよい。これも私は、昨夜休ませて頂いて。私の心の中に。昨日の朝の御理解に「言うことを聞かぬ子は親でもしかたがあるまいが」とおっしゃる。言うことを、言うならば自分の願い通りにならないということが、心の中にちょっと寂しい思いをした。そしたらね、これもまた神様は、はっきりとこれ心耳に頂いたんですけれども。「チャップリンの街の灯」と頂きました。あのチャップリンという名優がおりますね。今はもう映画に出ておりませんでしょうけれども。

 まあ喜劇の王様の様にいわれた人です。街の灯という、それこそ不朽の名画といわれる映画があります。あれは盲の花売り娘にねチャップリンが大変心を寄せます。それで要らない花を買ったり。又はその手術すればその目を開く事が出来ると言う事を聞いて、その手術の金を無理算段して作ってやります。そしておかげでその娘の目が開くというのです。それでもその娘はです。いつも恵んでくれるいつも花を買ってくれるその人は、どっか大家のお坊ちゃんか何かじゃないだろうかと思っておるわけです。

 娘はそういうものを心に描いておるわけです。だからこそこういう目を手術する大金でも私に恵んでくれる事が出来るんだと、こう思っているわけなんです。ですからその心を裏切っては娘が可愛そうだと。自分のあのチャップリンスタイルのみすぼらしい自分である事を思わせたくない訳です。それで目が開いて帰って来た。けれども自分がそうだと言う事を名乗らない、そういう筋の確か映画であったと思うんです。

 所謂泣き笑いというんですかね。もうチャップリン独特のぺーソスと申しますか、もうなんとも言えん映画です。ですから見ておってです。本当にいじらしかったり、可愛らしかったり又は可笑しかったりと言う様な。見てからはそうなのですけれども、それではね、それではおかげが受けられない。私が昨日思った事は、丁度それと同じような事だったと思うんです。言うても聞かんのだから仕方がないんだとこう。そして自分という者を自分で慰めながら休ませて頂いとる私に、チャップリンの街の灯。

 お前の今思うておるようなことはそういうものだと。本当にそれは実らないのだ。花は咲かないのだそれでは。自分で自分の心を慰めると言った様な事では、言うなら自慰的なもの。自分で自分を慰めるといった。もう「私が一人で辛抱しときゃよか」「私が馬鹿になっときゃええけ」と言う様な事を言う。それは成程第三者から見ておったら、いじらしいまでに見えるでしょうけれどもです。神様がご覧になってそういう心の状態にはおかげは下さられんのです。

 その事が有り難いと気付かせて頂くと言う事。仕方がないのではない。それがご神慮だと分からせて頂く事なんです。それが私は大地の心だと思う。泣き笑いの人生とこう申します。普通はそうですそれはやはりね。けれどもその泣きを見なければ成らない様な時に、笑えれる信心。泣きを見なければ成らない様な時にです。むしろ有り難涙がこぼれるような心境を開いて行く事が、私はお道の信心だと思うです。その心こそが生神なのだ。その心こそが和賀心なのだというのです。

 はあこりゃ生神に一歩前進するのに前進しよくなった。そんな気がするんです。今日わたしは御理解頂いて。そこにです神人共栄というか、神様の願いが地上に成る働きが生まれてくるのです。神様の願いが成就する。そのためには氏子が大地の心を。「天地日月の心になること肝要だ」というのはそういうことだと思うです。私共がね大地の心を心として受ける。それは黙って受けるというだけではいけない。それは自慰的なものである。受けてそれを送らなければいけない。それが和賀心和らぎ喜ぶ心。

 今日はこの御理解七節を、「天地日月の心になること肝要だ」と。その天地日月の心と言う事は、私共が大地の心を心として受け得た時。大地の心が大地の心が氏子の心と言う事になった時、言わば天地の親神様の願いが成就した事になる。所謂地上に成ると言う事は、私共の幸せの世界が、そこに開けて来ると言う事なのです。そこでねここではなぜ大地の心にならなければならないか。なぜ御礼を例えば普通は悲しい涙である。腹の立つ事だと言う事柄でも、それは腹の立つ事ではない。悲しい事ではない。

 むしろ神様に御礼を申し上げなければならない事だと言う訳をです。まああらゆる角度から、皆さんに聞いて頂く訳なんです。それを受けて現す有り難く受けて、和賀心とはそういう心を和賀心というのだ。普通の人はとても受けられない様な事柄でも、それを黙って受ける。そしてそれを受けて送っておる。受けて返しておる。そういう心が和賀心である。そういう心が生神誕生と言う事になる。そういう心を愈々育てて行くという精進、ここではね今も申しますように、なぜこの事にお礼を言わなければならないかと。なぜこの事が、おかげなのかと言う事をね、皆さんは日々聞いておるわけです。

 もうそれが出来るごとありゃ、まあこつ(なんてこと)はないけれども、そげな難しい事は出来んと言うたらだからそれまでです。ただお願いをしておかげを頂くという程度の事に終わってしまう。自分の心が愈々生神へ向かって行く事を楽しみに、自分の心の中にその和賀心が維持出来ると言う事を、持ち続ける事が出来る事を願いとして、それは失敗もあります。なら私も大抵有り難い、有り難いで受けてい行きよるけれども、夕べ休ませて頂いた時に感じた事はです。「仕方のない事だな」とこう寂しい思いを。

 だから自分が受けて行くより外にはない、それはチャップリンの街の灯の様なものでありますから。それはまあ神様がご覧になってもです。まあいじらしいというふうには見て下さるかも知れんけれども、可愛いとは見て下さるかも知れないけれども。それがお徳を頂くとか、おかげを頂く心ではないのです。神様がいかに恵みに恵み、与えに与えておって下さってもだから固い心。言うならば心が荒れておったりね、心が荒れ地であったり、コンクリのように固かったんでは、神様がいかに恵んで下さっても。

 それを恵みを恵みとして、受けて現す事が出来ません。愈々和らいだ心を目指させて頂く。そこを私共がこの御理解七節では「天地日月の心」と言っておられます。所謂天の心と地の心が一つになると言う事です。それが神の願いが地上に成る時です。地球上に成る時です。そこでならお道の信心をさせて頂く者だけでも、いやせめて合楽でこういうご理解を頂いておる人達だけでも、その所を一つ本気で目指さして頂いてです。愈々生神への道をそれこそまっしぐらに進みたいと思います。

   どうぞ。



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