昭和48年6月15日 朝の御理解
御理解第十九節 「金光大神は形が無うなったら来て呉れと云う所へ行ってやる。」
御神徳を受けて形は無くなっても、天翔けり国翔けりの働きが出来るほどしのおかげを目指さねばと思う。私は信心の究極の目的はそこだと思うのです。
この世に私共が生を受けてどういう生き方をさせて頂くか、様々な生き方がありますけれども、私共がこの世に生まれてきたと云うことはいったいどういう様な事かと云うことを分からせて頂いたら本気でいわゆる魂の清まりを願い、又その精進をしなければおられないとこう思うのです。
その清まった魂をもって私共がこの世を去ると云う、云うならその事のために私共はこの世に生を受けて居る。
この世には清まりげに来たのだと云うことが分からせて貰う。だからその事だけに焦点を置いて精進することが出来るだろうと思うのです。
これは教祖様、金光大神様だけではない。私共もやはりそういうおかげを頂くと云うことを目指して信心をさせて貰う。
信心の意義と云うかね、それを思わせて貰う。何かそんな風に皆さん感じられたことはないだろうか。信心をしておかげを受けると云うことだけでは、心もとない感じが致します。
昨日私は、或先生からお手紙を頂いて、その手紙の裏に返事にもならないけれども、私今日これを出させて頂こうと思うのですが、いわゆる断片的に色々書付けてみた。
「拝む心は拝まれる姿、拝む者は拝まれる」
私はあの拝まれる人になることだと思うのです。この世で拝まれているから、あの世に行けばいよいよ拝まれる。
ですから皆さんが一切の人を拝み、一切の物を拝み一切の事柄を拝むと云うことは、その侭私が拝まれる事だと、私が尊ばれることになる。一切の物を拝むということは尊ぶと云うことですからね。
ですから一切の事を拝む生き方になったら、そのそれは自分自身が又拝まれることになるのです。
それはそんなら事柄でも物でもそうです。だから一切の例えばお金を拝むと致しますと、お金が又拝んでくれる、お金が尊んでくれる。物に大事にされお金に大事にされる、人に大事にされる。そういう生き方を目指させて貰わなければならん。
「金光大神様が天地の親神様より受けられた御教えを、いよいよ広くいよいよ深く私を通して説き聞かして下さる事を私がこの世に生まれた本懐である、同時に喜びでもある」
これは私はいよいよそれを思うのですけれどもね、こうして二十数年間この教典一冊に取り組ませて頂いて、もう今迄先日の十三日会に末永先生と西岡先生が話しておりました様に、今昨年のテープを整理させて貰って、それをいわゆる一年前のそれを聞かせて頂いてもう本当に素晴らしい素晴らしいと思うて聞き入ってしまうと云う。毎日毎日頂いておる御理解、もうそれも一年も前にそうであるのが、そういう風に頂ける。西岡先生が言うてました。どうしてああいう風な、例えば教祖様の御教えを深く広くしかもああ云う表現でです、いわゆる魅力ある表現で表現出来るだろうかと、とても飽くとかもうこれでいいと云った様なものでなくてもう限りがなく、頂いても頂いても有難いんだと云う意味の事を言ってました。
これはそんなら私自身でもそんなら何年前の・・・・
私、先日久富さんが私の部屋をいろいろ整理して下さったときに、以前のおかげの泉が一冊出て来た。
それでそれを読みだしたら、もう何十回か前のですけれども、まあ一辺読み直そうと思って読みかけて今そこに置いとる。云うならばやはりそれは御理解何十節という御理解の中から説いてあるのですけれども、その御教えの深さ広さに触れさせて貰うて改めて素晴らしいことだな、尊い事だなと云うことを感ずる。これは只事ではないなと。
教祖の神様が天地の神様から受けられたその御教え、それをいよいよ広く深く頂き分からせて貰える。それを又皆さんにも伝えさせて頂けれると云うことがです、私はもういよいよこの世に生を受けたその本懐であると云うことと同時に私の喜びである。
昔の俗謡に「あの子と添わなきゃ娑婆に出た甲斐がない」と云った様な詠があります。
「あの子と添わなきゃ、裟婆に出た甲斐がないと云うことが有りますが、人生に生まれ五十年あるいは八十年、営々として衣食の為にのみ働いて何一つ取り上げることの出来る事なくこの世を過ぎて行くのだと云うことを感じた時、即ち夢のごとく幻の如くこの一生を過ぎてきたのだと思う時にいよいよ寂しい悲しい思いにおそわれるだろう」
どうでしょうか、皆さんがそんならこうしてお参りはしておってもです、いよいよ自分の信心とは本心の玉を研くものだと日々の改まりが第一だというところに焦点を置いての信心でない限り、只随分おかげは頂いてきたけれどもと云うことでは寂しい。勿論これは信心と云うものがです、いや信心のない人達がです、どんなにそんなら立派な地位を得た、財産を作ったと云うてもです、私はそういう様なものが本当に夢か幻の様なものとしか感じられない。
過ぎ去った後を振り返ってみてです、本当に寂しい悲しいそういう思いで、例えばあの世に行ったと致しますならば、いよいよ寂しい悲しい霊と云うことになりましょう。
けれども私共がそこに自分の本懐だと思うておる事がです、いよいよそんなら私共が亡くなるときにそれを有難いと云うものにしてゆける信心をさせて頂いておったら、それこそが私はいよいよ拝まれ尊ばれる霊としておかげを頂いて行くことが出来る。
それこそ形は無うなっても来て呉れと云う所へ行ってやれれる程しの力を頂くと云うその事が信心の究極の願いである、ギリギリの願いである。
「神の願いを明かにし永遠の願いに生きる」そこに目覚めなければならない。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと仰るのはそういう事である。
「この事一つを明らかにする為にこの世に生を受けたんだと云うことがハッキリすると飛び立つばかりの喜びが湧いて来るのです」と。
本当にそうです。私共がこの世には魂の清まりげに来とるんだと云うことをです、本気で例えばそこを分からせて頂くところまで辿らせて貰ったら、この事一つを明らかにする為にこの世に生を受けたんだと云うことがハッキリすると飛び立つばかりの喜びが湧いて来るのです。
どうでしょうか。飛び立つばかりの喜びで信心の稽古が出来たら、この事をお願いせんならんからお参りしよると云った様なところからです、だからどうでも本当のところが、いわゆる自分の心で分からにゃいけんです。
そこんところをです、神の願いを明かにし、永遠の願いに生きる神様の願いと云うのは、氏子信心しておかげを受けて呉れよと。それはこの世だけではないのぞ、あの世でもと云うことであります。 おかげを受けて呉れよと云われるのは、一生を過ごしてきたが一生を信心して来たが何を得て来ただろうか。随分おかげは頂いてきたけれども、そんなら自分のこれを持って行けれるんだと云うものがなかったら寂しい悲しい思いだけしか残らないことになる。
私共が様々な難儀と云うか問題を通してです、そこのところを頂き分からせて頂くことの為に信心がある。精進させて頂いておる。 飛び立つばかりのいわば喜びが湧いて来る。そういう喜びいっぱいでの日々の生活、信心の稽古。
金光大神は形が無うなったら来てくれと云う所へ行ってやると云うことは、金光様と唱えるところに金光様の働きをそこに受けることが出来ると云うことだけに頂いておりましたけれども、私は昨日書かせて頂いておるこの事の中から金光大神が天地の親神様から頂かれたことを御教え下さっておる、その御教えをいよいよ深く広くしかも私が感じるところ、私が頂いて思うことは、とても今迄の大宗教家が説き得ていなかった事を教祖様は簡単な御教えの中に説いておられる。
それをそんなら、あらゆる角度から深く広く今迄、云うなら全人未踏のいわば御教えをです、こうやって踏み開いて行っておる。そのことを皆さんに聞いて貰うだけではなくて、それが必ず残るんだと、そこに私のこの世に生を受けた本懐を感じておる。
ですからこれは、そんなら私だけじゃない、皆さんも又そういうそんならこれは金光大神だけではない訳です。私もそれを感じておる。そんなら皆さんもそれを感じれれる程しのものに私は仕上げていくと云うところにお道の信心があると思うのです。
信心を分かると云うけれども、どういう事が分かるか、ギリギリのところは神の願いを明らかにする事である。神様が私にかけられた願いを明らかにする事である。
そういう永遠につながる願いに私は生きると云うこと。それを今私共がふんまえておるところの様々な難儀と云うものをその事をおかげにしていくと云うのじゃなくて、その事を通してです、おかげを頂いて行かにゃならん。
それこそ、あの娘と添わなきゃ娑婆に出て来た甲斐がないと云う詩の文句じゃないですけれども、そこを分からなければ信心をする者の甲斐が無いと云うところ迄極めてそこを分からせて頂く為の信心にならせて頂いたら、それは例えて云うと、お徳を受けられた先生方の霊様が、やはり金光大神の霊と同じにです、天翔り国翔けりお働きを頂いて居る事実をね、色々な体験の上から感じる時です、私共もやはりそういう悲しい寂しいものを持って行くのではなく賑やかな有難いおかげ。
そこで稽古の初めとしてです、私共一切の人を拝む、一切の事柄を拝ませて頂く稽古を本気でさせて頂くところから、拝む者は拝まれる、尊ばれる私共にならせて頂くことを願いとしなければならない。神様の願いをいよいよ願いとして私共の上に受けて行く信心。
今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ
私共はその目を覚まさせて貰うチャンスを願いとしなければならない。それを本当の信心を分からせて頂きたい、本当の信心を頂きたいと云うておる訳であります。
そしてここに私が最後に申しておりますそこが分からせて頂く為にこの世に生を受けておるんだと云うことをです、ハッキリ分からせて頂くと云うこと。
だからそれは何年かかってでもいいから、そこんところを分からせて頂くと云うこと。その分からせて頂いた時にです、それこそ飛び立つばかりの喜びが湧いて来るのです。
いわゆる歓喜の生活、喜びの生活と云うのはそこんところが分からせて頂いてからの信心を云うのではないかと思いますですね。
どうぞ。