昭和48年1月2日 朝の御理解
御神訓 信心の心得
一、「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」
一、「わが心でわが身を救い助けよ。」
神徳を積みて長生きをせよ。これは七十よりも八十までも、いや九十までもという様に、長生きを請い願う心と言うものは、誰しもあります。けれども神徳を積みてと仰っておられます。ですから、神徳を積みて長生きをすると言うことは、そうした生身をいつまでも、持ち続ける、生き続けると言う様な事だけでなくて、もっともっと深いものがあると思う。神徳を積みて長生きをせよと。
ある時に教祖様に、ある方が「生神様 あなたはいついつまでも、ご生命を長らえられ、生き通しに生きて下さい、生神様。」と言うのですから、そういう意味のことを申し上げた時にね、教祖様が仰っておられることは、「此方とても塩漬けじゃないから」と仰った。体に塩漬けしとくわけにはいけんと仰った。いつまでも生身を持ち続ける事は出来ないと言うことなんだ。だから長生きと言うのは、後々の者がいついつまでも拝んでくれることじゃと仰った。そう言う意味の事を仰っておられますですね。
新御理解に、そういう御教えがあります。素晴らしいこと、成る程ここで、なるほど神徳を積まねばならない訳が分かりますね。例えば皆さんが、ここに高橋さんが居られますが、高橋さんのお宅では、高橋定利という方が、金光様の御信心の、言わば、高橋家の初代と言うことになられるでしょう。初代がこういう尊い信心を残しておって下さった。先代が、こういう徳を残しておって下さったおかげで、今日の高橋があるのだと、後々の者が、いついつまでもです、それを仰がせて貰う、尊ばせて貰う。
先代のおかげでとそういう風にです、どんなに偉い人とか成功したというてもです。成程亡くなられる時の葬式は大変な事であったけれど、それが子になり孫になりその次の頃にでもなると、拝む者すらがなくなって来るという位なものではないのです、神徳を積むと云う事は。そういう例えば息の長いいうならば、永世生き通して行けれるのは、神徳以外にはないという事です。それにはね私共が本気で信心を求めるという心、まぁ求道心と言う事を申します。お互いその求道心が足りんのではなかろうか。
これは私の修行中の時分に、これはもう実感でした。あの梅林寺さん辺りのお坊さん達が、所謂墨染めの衣を着てわらじ履きで、修行して廻っておられるのを見ると、もう羨ましゅうして羨ましゅうしてたまらじゃったです。あぁいう風にして一途に信心を求めて行けたら、どんなにか素晴らしいだろうかと。何の煩わしさもない只、一心に出家をする訳です。家を出る。そして只々ひたすら仏の道を求め、所謂求道しておられる姿に触れるとです、もう心から羨ましかったです私は。
如何に本当の事がわかりたい、真の信心がわかりたい、本当の道を知りたいという思いが、強かったかと言う事を今にして思います。けれどもお道の信心は、それは許されない。自分だけ山に籠って修行したり、自分だけ出家してその道を極めて行こうと言う様なものではない。もう現実的なもの。此の方の行は火や水の行じゃない、家業の行とも仰る。表行よりも心行をせよと。言うなら家内子供、私の場合は、家内子供親も一緒にそれを、世の中の難儀というものを味わいながらです。
その中から信心を解らせて頂こうと言うのがですね。お道の信心でしょう。言うならどんなにきつかっても、きついと言うその事の中に、真の信心を求めて行こうという。難儀な心と言うものをです、難儀とせずにその難儀の中から、真実の神の真実愛とでも申しましょうか。神愛を悟らせて頂いてその神愛に応え奉って行こうかと言うのが金光様の御信心です。その神愛に応え奉ると言う事がです、そのままお徳を受けると言う事なんです。ですから、ここにも金光様の御信心の独壇場を感じますですね。
本当に何にも他の事は、煩わしいものがなくて、只ひたすらに、信心の道を尋ね求めて行くと言う様な信心じゃないの、金光様の御信心は。難儀の中です家業の中にです、真の信心を体得して行こうというのであります。今日は御神前に出らせて頂いて、ご祈念をさせて頂いておりましたら、私どもの若い時分に流行りました流行歌にですね。「君恋し」と言うのがありますね。「君恋し」と言う流行歌です。
宵闇迫れば悩みは果てなし、乱れる心に映るは誰が影でしたかね。そういう歌の文句じゃないです、あのリズムが流れて来るんです。なんとも言えん本当に御祈念中に声を出して、何かこうその歌を付けたいような感じのする様な雰囲気の中にですね、こう言う様な事が私の心の中に、そのリズムに乗って感じさせて頂いた。心の迷いの闇が迫って来ると、悩みは果て無し、乱れる心に願うは誰が事、御親恋しく心は焦れど、涙溢れて無明はつきせずと言うこれを、君恋しという歌の、替え歌で唄えると思うですね。
私共にはですね、これが足りんのではなかろうかと。本当に神様の事を思うたら、本当に信心の事を思うたら、親神様の心が少しは分かりかけて来たら、私は只じっと自分の心の中に神様を思う感じる所からです。判りたい判りたい、真実のものを得たい。そして与えられぬ悲しさその淋しさ。その淋しさ悲しさが、又一段と深い信心を与えられていくという様なです。はぁどうすりゃおかげが頂かれるじゃろうかと言う事は思うけれど、それもね、本当に思わんようです。
本気で例えば、それこそ乱れる心に願うは誰が事とかね、悩みは果て無しと言う、果てしのない程しの悩みを、信心で悩んだことが、お互いあるだろうか。私共はそれが有りました。本当にもうそれはそれは、何とも言えん味わいです。分からないです所謂涙は溢れて無明つきせん。無明と言う事は明かりがないと言う事ですよ。無明はつきせん、自分の心に光が与えられない。その悩みその悲しさ。それでも親のある事には間違いない。神様が在られる事だけは間違いがない。
けれども私の信心に、まだまだ遠いところにあって、それに手が届かない悲しさ。どうすればそれに近づいて行けれるのであろうか。悩みはいよいよ尽きないのであります。昨夜、青年会の方達が、バス一台を借り切って、恒例のご本部の年頭参拝をさせて頂きます。全部ここへ集まって、御祈念をして、そして御理解を頂いて出発致しました。今頃はもうあちらに着いている事でしょう。その時にです.こういう御理解を頂いた。私の存在の絶対価値と言うこと。
御神米に、そういうお書き下げを頂いた。私がこの世に存在しておる、生きておる。それにね、絶対価値を分からせて貰うという事が信心だと。ここのところを判らんなりに果てていく、一生を終わっていくと言う人が、どのくらい多いか分からない。振り返って見ると、七十までも、八十までも生きておったと言うてもです。何にも、生き甲斐というものなしに、生きてきておるのですから。
それは、ある人は仕事に生き甲斐を、お金が貯まって行く事に生き甲斐を、只、立身出世だけが生き甲斐と、まぁ言うて生きてきたかも知れません。けれども、そういうものが、如何に他愛もない物であったかと言うことがです。いよいよ、人生の終着駅に近づいた時に、これは何にもならない事が分かってきた。このように、儚いものに生き甲斐を感じておったと言うのは悲しいことですよね。
生き甲斐の焦点と言うものがです。ここの所を判って貰うために、頼むように言うて願っておるのが、今の五つの願いだと思いますね合楽の。私はそのことを今日の五つの願いのことを繰り返し御祈念中に御祈念させて頂いておりましたらね、川柳にこういう句が有りますよ。「居候、三杯目にはそっと出し」と言うのが有ります。居候三杯めにはそっと出し。意味はお判りになるでしょう。居候ですから腹一杯に食べられない。遠慮しながら、気兼ねしながら、ソッと茶碗を出すという意味なんです。
金光様の信心をさせて頂いとってです、ここの所で堂々巡りをしておる人が、どの位多いか分からないですね。真実の親ではないか。しかも真実のその親は、私どもに何を願っておるか。氏子どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと言うのは、勿論信心して徳を受けてくれよと言う事でありましょうけれども。どうぞ健康で健やかにあってくれよ、家庭円満であってくれよ 愈々子孫繁昌、家繁昌の基を作っておってくれよ、繁昌して行ってくれよと言うことが、神の願い、親の願いなんである。
その親の愛というものを、私どもが悟らせて頂く所からです、道がはっきりして来たと言うのが、現在の合楽の信心じゃないかと思います。願わんでも頼まんでも、神様はおかげを下さる。例えば居候が一生懸命に働く、お手伝いをする。まぁそげんその位でよかですがの、早うご飯を食べてください、さぁお茶を飲んで下さい。成程そういう働きはあります。けれども、願うことには、気兼ねしながら願っておる。そういう信者がどの位あるやら分かりませんよ、金光様の御信心は。
いや願うことは下作い様に言うです。願う事は、間違いのように言う人すらあります。けれどもです、勿論それはそうですけれども、合楽の信心を、ここ二十年間の信心を踏んまえてからの事。いわゆる天地日月の心になること肝要と仰せられる。そう言う信心を、土台としての願いなのです。そこに合楽の信心の大発見が有るのです。これは願わなければならんではなくて、願わなければおられんのである。願わなければおられない事を、今までどうして願っていなかったであろうかと思うくらい。
わが心で我が身を救い助けよ。わが心で我が身を救い助けよ。言うなら私共のこの世に生をうけたと言うことの訳柄が分からせて貰う。そこに私共がこの世に生を受けたことに、絶対の価値をつけさせて頂くのが、真の信心だと思うです。その絶対の価値と言うのは、どこにあるかと。いわゆる、五つの願いの最後の二つです。どうぞ真実の御用が出来ますように。どうぞ神願成就の事のためのお役に立たたせて下さい。これなんだ。そういう願いを持たせて頂くほどしの信心こそがです。
この世に生を受けた、絶対価値と言うことになった時にです。もうそれこそわが心で我が身を救い助けることが出来る。こんな事は御願いできんだろう。こんなことは気の毒な、と言うようなものがなくなって来るのだ。なぜって絶対価値のあることのための願いなのだから。そういうお役に立ちたい立ちたいという一念が、すべての願いになってくるのだから。健康も繁昌も家庭円満も、すべてがです、そういう価値ある物の事の為に奉仕されるとか、行使されることのためにです。
願うのであるから、その願いという物が生き生きとしてくるだけではなくて、価値が生まれて来るのです願いそのものに。そこにわが心で我が身を救い助ける道がはっきりしてくるのです。私今日は所謂、君恋しの歌に替え歌のような事を文句を申しましたね。まずはここの所にです私どもが求道心。道を求めてやまないと言う信心を、そして一生懸命の修行させて頂いても、御参りさせて頂いても、さぁ御用すりゃ助かると言われるから、御用も一生懸命してみても私の心は助からなかった。
それこそ乱れる心心に悩みの闇が迫ってくると、もうそこには悩みは果てなかった。乱れる心に願うはどう言う事を願って良いのやらすらが分からなくなってきた。いや願ってはいけないのではなかろうかとさえ思うてきた。御親恋しくもう神様の心が分かりたいと言う、神様に対する憧念心は愈々燃えて来るのだけれども、与えられぬ悲しさはもう涙は、溢れて無明は尽きせぬ。そういう無明の世界の中にです。
そこに光を感じる様になった、光を感ずるようになったら、道がはっきりしてきたと言うのが、現在の合楽で言っておる、五つの願いなんです。道がはっきりして来た。自分の心の光に照らし出されて来た。そしてこれを願うことは当然のことだ、いや願わなければならんことであり、願わずにはおられん事であり、そこに神様の氏子信心しておかげを受けてくれよと言われる、その心と私共の願う心に一致点が出た。そういう発見なですよ。合楽で言っておる、今の五つの願いと言うものは。
ですから願って、皆さんが本気で願ってご覧なさい。そこから色んな信心が分からせられる。そして願わずにはおられない事になってくる。そしてお前済まんけども、お前も参ってくれ。あんたにも頼むよと言わずにおれなくなってくる。なぜ願わなければならないか。なぜ五つの願いの成就を願わなければならないか。と言うならその訳を、今日は皆さんに聞いて頂いた様に思うのです。何故願わなければならないか。
同時に皆さんの所謂、求道心をもっともっと真実の事が分かりたい、本当の信心が頂きたい。と言う一念を燃やして貰うお繰り合わせを頂かなければならない。そこから道を求めると言う前に、どうしても光が要ると言う事を分からせて頂いたのが最近の私の信心だと思うのです。求道求道と言って一生終つてしまう。そして手探りの様な信心をしておる様な人が、どの位世の中にあるか分からんですよ。
合楽の場合は、手探りではなくて、私が、光を以て、はっきりそこに見極めた道をです、皆さんに、このようにして聞いて貰っているのですよ。だから、皆さんとても、心に光りを頂かせて頂いたら、私が、言うことが、はっきり分かってくるのです。そしてその道は、歩かなければならんものでなくて、歩かずにはおられない道なのです。親子じゃないか、真実の親子じゃないか。何の気兼ねが遠慮が要ろうかと言われても。未だ自分が居候的な信心だもんですから。
それこそ、三杯目にはそっと出しと言った様な状態じゃなかろうかと思うのです。願って願って願い抜かせて頂く所に、神様の心と通う信心が生まれて来る。生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。神徳を積むと言うことは、そういうはっきりした道を分からせて貰い。その道を辿らせて頂く事によって。言うなら永生生き通しといった様な、後々の者が、拝んでくれる程しの信心が、そこに生まれて来るので有り、自分の心の中に、はっきり自分で自分の心を救い助けられる事の出来れる道がです。
この五つの願の中からはっきりして来たように感じられるのです。お互い一つ自分の信心が本当に、私の存在の絶対価値と言った様なものが、本当に絶対のものとしての価値づけ、そこに例えば生き甲斐が感じられる程しの信心になったら、もう誰に言われずとも、いわば、参らなければおられんのであり、御教えを受けなければおられんのであり、願わなければ、またおられんと言うことになるのですよね。
どうぞ。