昭和47年9月7日 朝の御理解
御理解九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
お取次をさせて頂く教師に対する御理解だと思いますねえ。信者に不同の扱いをすなとおっしゃる。これは信者とか、教師とかという事ではなくて、確かにこの人を軽う見なと仰せられる御教えがあります、ように、人に不同の扱いをすると、いう事は神様のお心に適わない事、の一つだと思います。これは例えて申しますと、不同の扱いという事は、一様に扱えという意味ではないですね。例えば子供と大人であってみれば、例えば嗜好物でも、違いますから、大人にお酒を出して、子供にも酒を出さんならんという事ではありません。
大人にお酒を出したら、子供には、ジュースでも出すといったようなね、意味なんです。この辺は大変難しいところですけれども、問題は、信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃるように、何事も真心でなされる時にそれは形の事は変っておっても、例えばそんなら一様にしなければならんからと言うて、一様の取り扱いをすると言うても、それに真心がなかったら、これは不同の扱いをしとるのと同じですよ。これでは神様の心に適わん。神様の心に適う生き方をせにゃと。
そこでそんなら、信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃる。ただ一生懸命参ったり拝んだり、まあお供えがどんどん出来たりするから、真の信者、信心が篤いとは思われない。そこでどういう信心をさせて頂き、どういうところに焦点を置いて、その人が信心をしておるか。しかもその焦点に於てどの位の努力精進をしておるかという事が、信心の篤い薄いという事になるのじゃないでしょうか。どんなに素晴らしい例えば、素養を持っておっても、どんなに信心の筋がよいと言うても、その人が堕落をしたり、その人が不精進であったりしたら、もう信心が篤い信心とは言えません。かと言うてそんなら今申しますように、ただ拝む事やら、参る事やら、お供えをする事やら、は一生懸命であるから、信心が篤いのかと言うと決してそうではない。
信心が篤いというのは、いわゆる本当のところへの信心の、焦点とでも申しましょうか。本当のところに信心の願いというものが、置かれてしかもそれが、精進される。いわゆる手厚く信心が出来る。修行が出来る。という時に私は真の信者じゃと思うです。だからこれは、教師信者を問わず、真の信心を願い、真の信心を頂こうとする精進努力が必要だと思います。
昨日若先生が、記念祭の記念の御本が出来ますのに、私の書いたものを、中に入れたいというので、いろいろどういう事書いたらよかろうかと、言うて相談に来ました。それで私がちょっと紙切れにメモしておるのを、アルバムに納めてあるのを持って来て、これならどうでしょうかと言うて持って来たのが、「成り行きを願い成り行きを頂く」というのがありました。それがよかろうという事になったんですけれども。
私共が成り行きを大切に大切にというけれども、その起きてきたその問題と言うか、その時点と言うか、それを大事にする事なんですけれども。たったそれだけの事なんですけれども。常日頃信心が手厚う出来ておらなければならん。そしてそんなら成り行きそのものを、願っておらなければいけん。教祖の御教えを借りますと、どういう事になるんでしょうかねえ。信心して変った事が起きてきたら、おかげと心得て信心せよ、という事になるでしょう。変った事が起きてきたらとはおっしゃってない。信心してとおっしゃっておられる。信心して変った事が起きてきたらおかげと心得て。
だから、その信心が手厚う出来ておらんとです。その起きてきた事柄とか、その時点を大事に、しょうという事になってこない。ただ日頃は、無信心であって、起きてきた事をです。ただ大事にしさえすりゃよいと、言うのじゃいかん。それは寧ろ、そういう困った事が起きてきたりしたならばです。それはまずお詫の方が大事だという感じがします。
信心をしておって、変った事が起きてきたら、有難いと心得て、もう神様のお働きが始まっているんだとして、それを有難く頂いていくという事。成り行きを願いという事は、それをもっと具体的にここは表現してある訳です。成り行き、日々起きてくる事柄、どうぞ今日もおかげ頂きますように、という信心が出来ておって、そして、こんな問題が出来てきておると致しましょうか。ですからその問題を、これ程お願いをして起きてくる事であるから、これも神様の御神意、御都合に違いはない。いや神愛に違いはない、と、それをいよいよ成り行きを、大事に、いわゆる成り行きを、頂く事が出来る。
そこで分からせられます事は、私共の願い、と、神様の願いというものが、です、一致しなければいけない。『今朝からその事を頂くのです。その事をおかげにしたいと思う。例えば皆さんが持っておられる問題、難儀というものを、その事をどうぞおかげにしたいおかげにしたい、どうぞおかげを頂かせて下さいと願うという訳です。ところが神様はですね、願っておるその事よりもです。その事を通して力を与えたい、と思う。‥‥違うでしょうが。その難儀な問題から、どうでも早く脱却したい。
例えば病気なら病気をしとる。どうぞ一日も早く全快のおかげを頂かせて下さい、と願う。ところが神様は、そうじゃない。その事を、その病気を通して、力を与えたいと思われる訳です。ですからその事を通して、力を頂こうとする姿勢と言うか、精進がなされなかったら、神様の願いとすり合う事になる。私共はおかげにしたいと思う。神様は力を与えたいと思われる。そういう事になるでしょうが。
だから私共の願いというものが、私は今日は、信心の篤いのが真の信者じゃと、おっしゃるが、そういう例えば行き方、その事を通して、力を受けよう。その事を通して信心を分からせて頂こう、というような信心が、精進されてこそ、初めて、信心の篤いのが真の信者という事になるのじゃないでしょうか。』例えばここに信者に不同の扱いをすな、という事は先程、解釈しましたように、どの人もこの人も一様にするという事じゃない。
私は共産主義というものを、どういう事か知りませんけれども、例えば給料でも、小使いさんでも社長さんでも、一様にするという事じゃないのですよ。けれどもそういう考え方が共産主義の中にはあるような感じがしますねえ。一応同じレベルに揃えるといったような。私は社長さんは社長さんとしての給料を取られるのが当り前である。小僧さんは小僧さんとしての、給料貰うのが、私は不同の扱いをすなという事だと思う。
それを社長が十万じゃから小僧も十万やらにゃ不同じゃないといった事ではないと思う。その辺のところをひとつ間違えないように、頂いて。だから、私共はこれは人だけではありません。事柄物事でも、そうです。ですから本当にそこのところを御神意として頂く。ちょっとした問題であろうが、ちょっと難儀な問題であろうが、私は寧ろだからその、ちょっとした問題という問題を、大事にしなければいけないと思う。
例えばお取次させて頂くでもです。先生困った事が起きました。どうしましょうかといったような、相談を受ける時、そら困ったなと私も言うけれど、けれども本人のその事によって、一生懸命になったら、私は楽なんです。ところが先生、今から久留米に行きよります、どうぞよろしゅうお願いします、と簡単な事なんです。本人も軽うく思うてお届けしよる。ところが私としては、非常に重いものを感ずる。何故って久留米に行きよると言うてお届けするのですから行って無事に帰って来る事を願わなければいけません。途中で交通事故にどん合っちゃなりません。
本人が軽う、思いですから私が重い思いで、神様にお取次させてもらわんならんという感じがする。だからこうバランスがとれてくる訳です。信者が本気で、どんな難儀な問題でも一生懸命なっとる時ならば、私がそげん一生懸命にならんでもいい、というような感じがする。不同の扱いをすなという事はそういう事だと思う。昭和二十八年でしたかね、あの大洪水、あれは確か婦人部会がその前の晩にありました。ところがあんまり、それこそ、しのつく雨です。これはこげん降るなら大水の出るばいと話しよるうちに、もう庭に水が入って来た。
こら皆さん早う帰りなさらんなら、帰られんごとなりますよ、と言うて、帰った時には、もう久保山さん達は、この道を通れません位でした。それから久大線の方に登って久大線の方から、こう伝うて帰られたという事です。もう、というほどしにアッという間でした。どこかの堤防が決壊しましてね。それがもう、白馬が駆けてくるように、夜眼にもそう見えたんですから、もうこんな段のついた水が押し寄せて来よった。もうそれはアッという間でした。丁度あの時に真言宗のお坊さんが修行に来てました。
あの時分には病人のような人ばかり、藤原さんとか、山本から何とかさんともうこの人は重態の病人でしたけれども、当時の椛目で修行しよりました。ですから強い者という者は、もうほとんど、いない。まだ父が、元気でしたから、大水なんか、私共より慣れてますからね。それでそれは、もう慣れたもんでした。もうちゃあんと。けれども私共が二階に神様をお供えして、上がった時には、もう梯子の真中位来とりました。私はもう本当に何と言うですかねえ。ああいう時に変人ぶりを発揮した訳でしょうけれども。
やはり奉仕着を着たまま、お神様、所謂お社だけを抱えて、二階に上がって、そして、二階に御結界を持って上がって、そして皆さんも御承知のように、あん時は四畳半と六畳と、それから二畳の間があるだけでした。それにあの時分に十何人でしょうかねえ、の者が六畳の方と二畳の方へ、もうスシずめのような状態でした。そして四畳半の方へ、神様をお祭りする御結界を置いて、やはり私は、次の日も又次の日も、大水が下へ下りられる迄は、二階でお取次させて頂きました。
誰かれも参って来る訳じゃありませんけれども。家族の者の又は修行生の、又はその当時二階におりました人達、言うなら、お取次をさせてもらった。神様の奉仕をさせて頂いた。あん時の事を思うと、ようあの坊さんが、来てくれとったな、坊さんがもうそれこそ自分が首ぐらい迄浸かってから、あれこれ御用してくれました。本当に今から考えますとおかげだなと思います。けれどもおかげでその時には二階に水道が引いてございました。二階にお便所が出来てました。それで小さい廊下がありましたがね。その廊下まで水が来ました。
そん時に父が皆さんも御承知のように、もう本当に落ち着いたんですけれども。そん時ばかりは、もう辛抱しきれないという風にして、私が御結界奉仕しておりましたら、もう先生いよいよ駄目ばの、兎に角早うどうにかせにゃいけない、と。もうその時には、椛目の方達は屋根を破って、屋根から救いを求める。もうそれこそ日頃はこう威張ったおっちゃん達が「助けちくれー助けちくれー」ともう、それは悲愴な声をね。
それはそうですよ。前を家がどんどん流れるとですもん。牛が流れる馬が流れる。助けちくれーと言よんなさるのが、ほんな目の前で家がくりーっとひっくり返って、流れて行くのです。そらもう二階から一生懸命御祈念せにゃおられなかった。そしてもうほとんどは、皆んな逃げられました。そん時に、西日本新聞の方達が、決死的な撮影をしたと言うて草野の役場に、そん時の大水の情景をずーっと展示されました。その中に私の方の前を映したのがあったから、役場に出ておる人がこれはお宅の皆さんが映っちゃるけん記念になろうから、と言うてスマ代が頂いて来ました。
その写真が今にも残ってますがね。もう屋根すれすれのところまで、もう畳とは一寸もない位の所迄。だからもういよいよそん時に、父がいよいよ先生難しかばの、どうかしなければと、言うたのが丁度三時位でしたでしょう。それで私がじっちゃま、もう一時間待ちなさい。その時分、私が四時まで奉仕しておりましたから、だから四時の奉仕が終ったら、後はまた神様にお願いをして、どうとかさせてもらおうと。それはもうそういう決死的な救助の舟が出てましてから、皆さん上さえ移って行かれる訳です。
ところが私の方は誰もそれに乗せてくれとも言わんし、おりますもんですから。そういう舟が前をそれこそ、もうそれはえらい広い流れですからねえ。本当に決死的な新聞社と消防の方達でずーっと上から、網を引っ張ってから、舟を流して、私共の前で、私共が全部窓ぎわに来てから前を見ておるところを写真に映してあります。その写真が残っております。そん時に父が今申しますように、もう難しかと、言うて来た時に。じっちゃまもう一時間待たんのと。それで私が神様にお取次させて頂きましたら、もう二階の下敷きの屋根がこの位しか見えん位でしたけれども。
『御心眼にね。その屋根の横にカエルがね、丁度、ぎっちゃんばっちゃんというのがありましょうが。子供の時に、‥‥それで遊びよるような感じで、カエルがぎっちゃんばっちゃんしよるところを頂きました。どういう事だろうかと思わせて頂いたら、神様からね、皆んなを集めて安心させよと言うて、私共が皆んな窓ぎわに出た時に、その舟が通って写真に写して。そしたら、本当に屋根ぎわでですねえ、カエルが遊んでいる訳ですよ。カエルやら蛇やらというのが表に一杯こう、水際にはやって来ますよね。そのカエルがですね、本当に横に飛びながら、遊んでるというような感じ。
だからね、このカエルが上の方さえ飛んで来て、家の中さえ飛んで来るごとなる時にはもういよいよ難しか時。けれどもこう横に飛んでおるという時には、もうこれ以上水はいみらんという時。これはね、もう本当にあの、蛇とか、ああいう冷血動物ですらです。もう降る照るの事が分かるんです。もうこれ以上は降らん、これ以上はいみらん、と。人間のが万物の霊長と言うて威張っているけれども、降る照るの事ひとつが分からんような事では、いかに人間の霊性というものが、もう汚く、言うならば、濁りに濁っておる、汚れに汚れておるかという事が分かります。
冷血動物の例えば蛇とか、カエルですら、降る照るの事が分かると言うではないか。蛇なんかが高い木に登る時には必ず、高水が入る時と言われておる、‥‥知ってる訳です。だから皆が安心しました。そういう御理解を頂いて。このカエルが上さえ飛ぶ時には、危ない時だ。けれどもこれが横さえ飛びよる時なら、安心してよかと言いましたから、皆が安心しました、が。もう四時をきつかけでした。水が引き出しましたのが。おかげで私の方だけは、避難せずにすみました。
けれどもね、私はそれを今思わして頂いて、今日この九十四節を頂きながらその事をしきりに思うんですよ。二十八年の時の大洪水の事を。そこでです。そんなら私がいかに、成り行きを願っておったか、という事が分かるでしょう。神様にお願いをさせて頂いておって、このような事が起きてきておるのであるから、その成り行きを大事にする。さあ逃げんならんとか、どうせんならんという事じゃない。神様におすがりしとけば大丈夫だ、と言えた訳です。同時にそういうような自然の働きといったようなものの、中から御理解を頂いておりますから、余計皆んなも安心しまして、おかげを頂いた訳です。』
常日頃、本当に成り行きを願わせて頂いておる、からその成り行きもその時点を有難く受けさせて頂いて、その事によって力を受ける。私はあん時の事を思うのに、神様のそれ前の働きには恐れ入ってしまいます。御神前のお広前の方だけは杉皮ぶきでしたもんね、その当時。ところが大洪水のほんなひと月ばっかり前に、全部瓦がふさったんです。あれが杉皮ぶきだったらもう、家全体がガバッと浮いとったです。それから皆さんも御承知のようにあの時分は、雨が降るとすぐ椛目の井戸は濁りよりました。ところがもうこれだけは、今に思うて不思議ですけれど、も大水の間だけはもう、見事なお水でした。
だから二階に水道が引いてあるもんですから、水にも不自由しませんでした。便所も二階に出来とりましたから、所謂お掃除は大変でしたけれども。やはり便所がありました。同時にあの時分のお供えのね、穀物やらね、缶詰めやら、沢山二階にあげてあったですから、もう本当に不自由しませんでした。もう考えてみるとね、その前後の神様の働きを思うただけでも、成り行きを願う日頃の信心が出来ておる。
さあいついつは大水が入るぞ、そん時のためにと言うわんばかりに、神様が屋根の瓦もふせて下さっておった。二階に便所も作ってあった。二階に水道も引いてあったという事です。そして私の父があんなに落ち着いた人ですけれども。もう先生駄目ばのと、言うてお届けに来た時に、私がおじいちゃん、もう一時間待ちなさい、と。これは私がいかにです、御結界という事を大事にしたかという事。そういう中にあって、だあれもお参りして来る者はないはずなのに、やはり、御結界という所は、そのように大事な所だと、言うならば、死守した訳です。
例えば修行生の方達が、何か口実がありさえすれば早う御結界を下がろうごたる、といったものじゃなかったという事です。そういうそれこそ、家の前をどんどん牛が流れたり家が流れたり人が流れたりする、ようなしかも畳にぴちゃぴちゃという位に水が来とったちゃ、私はもう本当に微動だにしてなかったという事です。御結界をはずれてなかったという事は。
ですから心の中に力があった。おじいちゃんまあ一時間待ちなさいというような事が言えた訳です。そして皆を安心させる御理解を頂いて、の事でした。ちゃんと朝晩の御祈念もありよりました。御理解もやっぱりありよりました。何日も何日も二階住いをさせて頂きましたがです。けれども思うてみるとです。日頃一心に例えば、成り行きを願っておるという、信心して変わった事が起きてきたらと、こうおっしゃるように、その信心が日頃出来ておるから、その安心がある訳です。
そしてそん時もあった事ですけれども、後で思えば思う程、神様の微妙な働きに恐れ入ってしまう、という事だった。だからその成り行きそのものを、大事に頂く事が出来た。そんなら大洪水を通してです。ただ家が流れんごと、人が助かるごと、と言うだけではなくて、その事を通して、私は力を受けたという事になる。神様との願いがピッタリきてる訳です。その事を通して力を与えたいと思われるのが神様。
ところがお互いの信心はどうかと言うと、その事を早くおかげにしたい、と思う。これでは願いが入れすがいます。ひとつ間違えばです。例えば家庭又は修行生の方達が、全部それこそ、年寄り子供ばかりが、どうしょうもない中におってもです、厳然として、御神前奉仕が出来たという事は今にして思うて、大した事だったなと思います。成程神様がわざわざ、役場に貼ってあった写真を後から話しよったら、すらごつのごとなる、ごたる話でしょう。私がやっぱちゃんと奉仕着つけとる。その向う側から写した写真にそれが写っとる。それを実証させる事の為に、あの写真は頂いとったっじゃろうと思う位です。
どういう事が起こってきてもです。信心させて頂いて、どういう事が起こってきても、驚かんですむ信心とおっしゃるが、常日頃驚かんですむ信心を頂いておかねば、慌てるのです。そん時だけ慌てんというのは、それは横着です。‥‥‥そうでしょうが。信心させて頂いて、これから先どのような事が起きてきても、驚かんですむだけの信心をさせて頂く。そういう信心も拝むとか参るとか言うのでなくて、信心の篤いのが真の信者とおっしゃる。その真の信者が真の信心をしなければ、真の信者とは言えん。
ただ拝む参るだけに一生懸命なっただけじゃいけん。しかもそれが精進努力されねばいけない。しかもその信心の焦点というものがです。間違いのない所に、何時もおかれなければいけないと言う事を今日はね、私達の願いがただおかげを頂こう、ただおかげにしたい、おかげにして下さいとだけの、願いと言った信心が、何十年続いた所で、それは真の信者とは言えない。神様の願いを願いとして、その事を通して力を与えて下さろうとする信心を、分からせて下さろうとする働きを受けなけりゃいけない。
そしてその事を通して信心を頂いた。その事を通して、あん時、本当に力を受けたじゃろうと思われるような、力を受けると言う願いこそがです。そういう願いに徹して行く信心こそ、私は真の信心であり、又それに精進する事が手厚い信者じゃと思うのです。ね、そんな大洪水の事、そういう言わば大きな自然の難儀と言う事に取り組んでおる場合であっても、信心がひとつも乱れていない、ようなおかげ、ね。それかと言うて、例えばほんとに水難なら水難に会う人はね。
もう洗面器の中の水でも死ぬる人があるのですからね。ある有名な易者がですね。ある人にあんたん所の子供はね、水難の相が出とるから、今日だけは外に出しなさんなって、教えてくれたそうです。だからお母さんはね、今日は行ちゃいけんばい水泳ぎ行っちゃいけんばいと言うてね、出さなかったところが、風呂に入る時洗面器の中に首に突っ込んでちゃんと死んどったという。
ですから私が言うように大洪水だから大変。洗面器の水の中だから平気と言うことはあっちゃならん。どちらも大事だと、大事にしなければならないという事、ね。それが不同の扱いをすなと言う事はそういう事だと。もう簡単な問題だからと。簡単にお願いしとけやよかろと言う事では決してない、ね。その辺の所を今日は聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。