昭和47年7月10日 朝の御理解
御理解第五十三節 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
確かに信心させて頂いておりますと、あれもおかげこれもおかげである事に驚くばかり。なる程知ったおかげより知らぬおかげの方が多いとゆう事も分からしてもらう。ですからどうゆうようなそれが場合であっても、神様のそれをご都合として、それでいけばよいのだと、一切を神様のご都合の中に。
私の信心が最近、本当にあれもおかげこれもおかげと実感させてもらいますし、そしてその結果に於いては成程おかげであったとゆう事を、ある意味で実証して参りましたし、自分もそう信じておる訳ですけれど。あれもおかげであったこれもおかげであったとゆう事は、もうだから日々の中に一切がおかげとゆう事なんですね。後で分かるのでなく、もうその場で分かる事の方が本当だと、私は言って参りましたんです。
例えば、さあ困ったとゆうような場合であっても困ったとはひとつも思わない。神様の御都合に違いはない、もうおかげを下さろうとする御都合なのだから。昔の事を考えてあれもおかげであったと分かるのでなくて、即その場でおかげと分からして頂けるとゆう事が有難いんだと、まあ皆さんに、そんな風に聞いて頂いて参りましたし、又私もそうゆうおかげを頂いておる。そうゆう事が分かるようになると真実の信者じゃと。だからそんなら私は真実の信者かと、例えて申しますと、今頃から泰子のお国替についてでも、もう本当に私だけは、即おかげと頂いて、私だけでもお礼申し上げねばと、言うてもきたし実際思うてもおるのです。
ですから、そんなら私は真実の信者かと言うと、なかなかそうではない。今朝私は御神前で進道栄太郎とゆう映画俳優がおりますよね。進む道、それに栄える太る郎と。本当に私共はどのような場合であっても、前に前進するより他にない。前進以外にはない。どんなそれが難儀な問題であっても、それを踏み越え踏み越えして前に進んでいく以外にない。所謂そして栄えてもいきゃ太くなってもいくとゆう進道栄太郎、ははあこれは合楽の信心、私の信心だと思うた。そしたら次に頂く事がね、歌舞伎に天竺徳兵衛とゆうのがある。昔のお芝居、その天竺徳兵衛とゆうのが舞台いっぱいに装置された大屋根の上でね、大きなガマに乗って沃術を使っておるとゆう場面なんです。ガマと言や私の一番嫌いなもの。天竺徳兵衛とゆうのは、それこそ日本制覇を目指すとゆう大野心家なんです。私もそう言や、何と言や日本一。
昨日なんかでも私が休んでおる所へ若先生が、昨日は、今度の記念祭の記念出版、それから御直会用の本が出来ます。それでいろいろ皆さん、その御用に当たられる方達が五、六人、昨日は集まられて検討が加えられた。それで夏の修業の間だけを、ひと口ずつ御理解をね、皆さんに聞いて頂いて、それを戸板に書いて、それを皆さんが写して帰られる。あれがもう今年で五年間続きました。そしてこの夏の修業の半ばに終わる訳なんです。それでこれも記念出版させて頂きたいと、大変厚い本が出る訳なんです。そん時、私が若先生に言う事が、私が何時も言っておる、金光様の御信心を世界中の氏子に分かってもらうと、そうゆう意味では信心のない者でも、信心の浅い者でも長々と難しゅう説いたのではなくて本当に一分位で説くんですからねえ、あれは。ですから読むのにも簡単だし、だけれども、まあ教祖の御教えの神髄に触れ、又は浅く、又は深く、又は軽妙、又はしょだつな説き方をしてる訳なんです。
ですから、これは金光様の信者だけを対象にしなくてね、世界中の、例えば英文に直したり支那の文に直したり、そして世界中にです、の人に読んでもらえれるような気持ちを、私は、この御理解感話集には持っているのだと。そして何宗何派の人であろうが信心の無い人であろうが、あれを日々例えば読んでいかれればです、その日の言わば幸福になる元といったようなものが、そこから感じ取ってもらえれるおかげを頂いてもらいたいとゆう願いを、私は持っているのですから。まあ、あれは、もっともっと検討に検討が加えられて、私のあの講話集の方をこうゆう風にしたらよかろうと言うて、まあ私、寝ながら指図させて頂いて、今日思うんですよね。本当に大きなこつばっかり言うなと、皆が思うだろうと思うのです。けれども事実、私は本当にそう思うのです。あの教典感話なんかは、もうむしろ例えば金光教で出すよりもです、私は他の大きな出版社から出してですね、只金光教の信者だけを目当てにせず、それこそ日本中の人達に読んでもらい、出来るならばそれが段々英訳されたり、支那語に訳されたりしてですね、本当に金光教のひとつのバイブルとして世界中の市場に、言うなら御していくような、まあ言うならそうゆう野望を、私は持ってる訳なんです。
そんな事から思いながらね、ははあ天竺徳兵衛とゆうのは、これは、私の事だろう、しかも私の一番嫌いなとゆう事は、それはやっぱ難儀を、難儀が起きてきたなら、どっこいとそれを受けますけれども、難儀を好いておるとゆう事じゃないのです。それは、私が蛙とかガマなんかを、身の毛のよだつごと嫌うように、ましてや信者さんが亡くなられるといった事やらは、もう本当に身の毛がよだつ程に思うただけでも嫌いなんです。それは誰だってそうです。けれどもそこにもし、そうゆう事態が起きてきたら、どっこいと受けれるものが何時も私にはあるとゆう事なんです。ははあガマの上で、それこそ大見栄を切っておる天竺徳兵衛の場面を、今日見せて頂きながら、これは私のは、本なもんじゃないなあ、と、厳密に言うたら天竺徳兵衛のそれのように、只嫌いなものがガマの上に、言うならあぐらをかいで、そしてガマが口から、こうもうもうと煙を吐きます。そしてごまかして、そして只こう大見栄を切っておるだけじゃないだろうか、と、まあ今日は、そうゆう意味で大いに反省させられておるのであります。
最後に、それが真の信者じゃとおっしゃる。そんなら本当にあなたは真の信者かと言われると、真の信者じゃないとゆう答えしか出てこんのです。ですから、そんなら私が言う、あれもおかげ、これもおかげで頂いていっておるとゆう事は、これは本気で検討を加えられて、も少し謙虚に信心を頂きなおさにゃいかんのじゃなかろうかといった事を、私は、今、今日感じておるのであります。
昨日と一昨日が一番ひどかった。一昨日は、それこそ遺言状書かんならんごとあった。家内、若先生夫婦を呼びまして、いろいろ話しておきました。私が今日言うとは、私は初めてでした。子供達を呼んでから話をするとゆうのは。昨日一昨日だけは、これはどうでも聞いてもらうとかにゃいかんと思うて寝ながら神様からいろいろお知らせを受けた事を若先生ども夫婦、それから家内、それに繁雄さんも立ち会っておられましたから、お話をした事です。その中に神様は「今日は死神も呼ぶ」と神様はおっしゃった。だから、ははあ死神も呼ぶじゃけん、死神を呼ぶじゃないけん、死ぬとじゃないと思いましたけれども、ははあ死ぬる時には、こんなにきついもんだろうかとゆうように。きついと言うか、別に痛んだりどうしたりする訳じゃない。もう何と言うでしょうか、もう兎に角目も開けたくない位に、きついと言う訳じゃないけれども、気持ちがいいとゆうのと、きついとゆうのと一緒にしたような感じなんですねえ、手足はしびれたような感じ。そしたら死神とゆうものを形に表現して見せて下さったんだけれども、これは言うなら、しょうぎ様のような感じのね、今でも分からんなおるのは片一方の方に片うだき?にです、割木のようなたきもののようなんですけれども、真っ黒なんです。それを片一方に抱きながら、私の枕元にやって来るんですね。それで、私があんまりきつがるもんですから、そしたら神様がね、後の方の帯を釣り竿か何かに引っ掛けてポーンと塀の向こうにやって下さった。途端に息がしよくなって楽になった。
昨日もそれによく似た症状で非常に、昼頃から三時頃迄でしたか。そうゆうような事のあった事やら、そのお夢の中に頂きました事の中にね、御本部の金光様の弟さんに真整先生とゆう方がおられます。三代金光様がおいでられる時、何時も手を引いておいでられた、私が一番好きな金光様なんです。その金光様がね、本部の学院生を全部連れて合楽にみえておるところです。しかもそれが公用に回っておられるといったような感じでね、その学院生を全部相撲取りに仕立てられて、そしてここで角力があっておるとゆう状態。そして、その角力を見ながら、私が感じておることは、まあ皆弱い。これは合楽の信者が向うたら、合楽の信者の方がよっぽど強いと思うような中に角力が終わりました。それで、さあ終わったとゆうので丁度、御大祭の後の御直会のように五人十人とグループグループで、ここの御信者さん方が皆御直会を頂いておると。そこへ真整先生が行事のような格好してから茶目っ気たっぷりに、又は厳格なような感じで、そこを回っておられる。そして私共が頂いておるところへみえてですねえ、もう沢山飲んだり食べたりした後のようであって、もう食べ散らかして、食べきらんとがいっぱい散乱しとるようなところへです、みえて立たれてから、それも茶目っ気たっぷりにおしゃる事が「お食物をこのようにお粗末にして頂かれてはいけませんなあ」と、ゆう風に注意をして回っておられるところでした。
これは私は本当に、それこそ合楽の場合は、おかげを頂きすぎてから有り余っとりますから、それは鯛でもブリでも、何時も冷蔵庫の中には何匹か入っとる。さあ酒といや酒蔵建てんならんごと何時もお酒は沢山あるし、さあ何か一寸お酒頂こうかと言うと、どうしても、だから御粗末になるところがある。これは某当りの御大祭の後の御直会なんてものは、それは、それこそこげん倹約せんならんじゃろうかと言おうごたるそうです。本部辺りでも来賓の方達だけにしか出ませんけれども、それはもう私、今頃豊美の所で御直会の送り膳がありました。それを見せて頂いたが、もうそれは実に簡単なこと、そしてお神酒一献上げたらもう解散とゆうのが御大祭後のそれらしい。これはここの場合は、いつの場合にでも、一寸会食とゆう事になると、本当にあれこれが御粗末になるような雰囲気があるとゆう事がです。これはいよいよもって合楽が本当なもの、例えば私自身も真実の真の信者じゃとおっしゃる真実のもの、真の信者、真の先生、真の教会を目指させて頂くためには、金光様からそうした、いろいろとご注意頂いたような事にです、も少し関心を寄せなければ、このままの合楽ではいけないな。それこそ大きな野望を持っておるならおる程に、もっともっと言うなら誰が見てもです、金光様がおいでられても、成程と合点がいって下さるような。力は強い、本部からみえとる方達よりも合楽の方達が強かろうと思う位、けれども実際その後のざまとゆうものがよくない。これは私のあれもおかげこれもおかげとゆう中にです、例えば私がどんなにお腹をこわそうが体をこわそうが飲み過ぎろうが食べ過ぎろうが、もうその事が何時も食べ過ぎなければならない、飲み過ぎなければできない。そして、そうゆう体を壊す事が必ずおかげの元になってきてる、私の場合、それはもう本当にそうなんです。ですからそこを、家内なら家内が分かればです、もちっと大事にしてくれるでしょうけれども、私が、もう必ず飲み過ぎたり食べ過ぎたりして体を壊す。これはもう昔からです、もうこの時だけは虐待されるのです。ああたが口が卑しかもんで食べ過ぎるからそげな風ですたい。ほんにああたがのぼり上がってから、どんどん飲みなさるから、そげな風ですたい。私しゃかまやしませんよと、言やしませんけれど、言わんばかりの態度でここ二三日過ごさせて頂いとる訳ですけれども。分からんもんじゃから、こうやって修業させて頂きよる。神様からお願いさして頂いたら初めて頂いたが、真っ白の西瓜をきれいに頂きよるところを頂いた。
だから、ははあ西瓜といや水火の修業と言われるが、赤い西瓜の場合はね、自分が信心の熱情をたぎらかして信心を燃やして取り組む修業が赤い西瓜、そうすると白い西瓜とゆうのは修業しようと思わんでもさせられておる訳です。所謂熱のない修業なんです。させられておる修業はきつい。だからおかげを頂いてですね、もう本当にこちらが一歩先に、いつもそんなら赤い西瓜の修業させて頂いて、させられる修業がない程しのおかげを頂く事が、本当は信心の理想なんです。
日本の政治を、待合政治とゆう風に言われます。又実際、待合じゃなからな話が進まんそうです。合楽の場合も、何とはなしに、そうゆう雰囲気をもっております。もっと例えば清潔な政治とでも申しましょうか、もっと言うならば清潔な信心とでも申しましょうか。そんなら例えばそうゆうところを通らんでも、白い西瓜のところを通らんでも、赤い修業でです、通らせて頂ける道があるのだと。そうゆうところを、今日は私は反省させて頂いた。今迄あれもおかげであった、これもおかげであった、自分の言うなら御粗末とか御無礼とか、只自分よがりの事で難儀をして苦労をして、そしてそれもおかげだと神様から厳しいお気付を頂いておるのにもかかわらず天竺徳兵衛じゃないですけれども、それこそ大ガマの上にあぐらをかいて、しかも生首をくわえてから見栄を切るのですよ。本当言うたら、あの生首は自分の親の首ですから、そんな見栄でも切れる事じゃない。本当言うなら椛目の不幸の場合もそうです、私の本当の姪なんですから。しかも子供同然の姪なのですから。本当言うたらしゅーんとする位の方が本当なんです。
けれども私は何かしらん、その恐いもの、言わば普通はもう本当に身が震うように嫌いな、そうゆう事に直面しても、その上にあぐらをかいで生首くわえて見栄を切っておるようなものではなかろうか。成程大向こうからは拍手喝采でしょうけれども、私自身の心の中に今度の、言わば白修業ですね、白西瓜の修業をさせて頂いてから、そうゆうような事を感じさして頂いておる矢先に今日の御理解でした。
進藤栄太郎、成程どんな場合であっても私はそれを乗り越え乗り越え、確かに栄えてもきた太くもなってきた。けれどもここにもうひとつ真の信者である事の検討からくるならばです、あれもおかげであったこれもおかげであった。その内容がもっと言うなら清潔な意味においての事態になってこなければいけない。金光様から御注意頂いた、言うなら成程お宅の御大祭は素晴らしいですけれども後の御直会の時がおかしかですのと、例えば言われておるような感じ。実は御直会そのものも、御祭典と言われておる。してみると大祭がどのように素晴らしかっても半分はいけなかったとゆう事になる。これは大いに私の信心性格とゆうものが、どうもそのような、言うなら待合政治的なものがございますから、ここんところにこれからの信心をおかせて頂いて、なる程家内が、ああたが好きな事してから、ああたが飲み過ぎてから具合の悪かつじゃけんと言うて冷遇されても虐待されても仕方がない。
本当に、成程、私は、それでもおかげにしておるけれども、もうそれでは今後の合楽はいけないような感じがする。そんなら世界の市場に出すといったような野望に近い事ですけれども、そんならこうゆう思いとか願いとゆうものを捨てるのじゃない。だからいよいよ出させて頂いた時にです、成程素晴らしいと言われて、半分はそればってんどうも不潔だな、おかしいなと言われるものがあってはならないから、ここんところを今度のたびはお気付け頂いたなとゆう事を感じるのです。ここまで信心を進めさせて頂いたとゆう事も、これは大変な事、大した事。本当に信心とゆうものは、やはり一生が修業じゃとおっしゃるが、極めて行けば行く程にです、もう限りがないものである事を、いよいよ感じさせてもらいます。本当の意味において分かる。本当の意味に於いての真の信者をいよいよ目指させていかねばならんと思うのであります。どうぞ。