昭和46年9月15日 朝の御理解



昭和46年9月15日 朝の御理解

 御理解 第21節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし、カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 信心というものは心が神様に向かうと言う事が信心であり、信心なければ世界が闇なりと、最後におっしゃられとるところは神に向かうと言う事だけでも信心だけども信心に依って、自分の心の中に力を頂く、勿論神様を信ずる力である、いわゆる光りである、力である、と言う所までいかなければ、世界を明るくするようなおかげにはなってこない。心が神に向かうというだけでも信心。

 信心せよ信心とは、わが心が神に向かうのを信心という、全然信心の気も無かった人が神様に縋ろうという気になるか、心が神様へ向けられたら、もうそれは信心である。神徳の中に居っても氏子に信なければおかげわないとおっしゃる、神徳の中にあって氏子に信なければおかげはない、神徳の中にあると言う事を、聞いただけでもいけない、成る程それが神徳かなと分らせてもらう、神様のいうならば、お恵みの中に在るとお恵みそのものが御神徳である。

 ですから、私共こうして日々お生かしのおかげを頂いておると言う事は、神様のお恵みの中に在る、神徳の中に在ると言う事を聞けば一応は皆が分る、神徳とはそういうものだということが、神様の御神徳いわゆるお恵みの中に在るのだと、けれどもそれが分っただけでなくて、これが実感として御神徳の中に在るんだと言う事を信じなければ、信じられるようにならなければおかげはなしと仰る。それはカンテラの中に油が一杯あっても、シンがなかならければ火がともらない様なもの。

 そこで、そのシンを頂かなければならない、そこに信心の稽古がある訳であります。信ずる稽古と、それは神様にお願いをする、お取次を頂く、そこにはこれが神様のおかげかなと思われるおかげがあります。ところがそういうおかげだけでは、いよいよ神様を信ずるということは出来ぬ。何故かというと願った事のすべてが、自分の思い道り、願い道りにならんからであります。

 いやむしろ場合には右と願っても左、左と願っても右と言う様な事が多いからであります。ですからもうそこに、神様もいい加減なものだという心がわいてきたら、もう信はない訳でありますからね。そこで右と願っても左、左と願っても右というところを私どもがいろいろの角度からわからして貰う。昨日或る方が、お店の不如意であること、いわゆ自分の意の通りにならないこと、人間関係の上に於いて然り、経済の上に於いても然り、熱心に信心が出来なさるのにかかわらず。

 そういう難儀な問題がね、商売をしておつて、まず経済の上に、金銭のお繰り合わせを頂かなければならん、それが思うようにならない、また人間関係の上においてもそうであります。そういういろいろなお届けをされましたら、そういう場合にただお願いをどうぞどうぞというて、どうぞ人間関係の上においてもおかげを頂きますように、または金銭のお繰り合わせの上において、おかげを頂きますように、まあ商売の大繁盛を願うと言う事は商売人としてはこれは当たり前のことだけれども。

 ここんところ願うだけでは、いけないように思う、そこでね私は申しました。そういう自分の願いというか自分の思いが、かなわない時は、いまこそ神様の願いが成就しておる時だと、思うてむしろ願った事が成就した時よりもむしろ真剣にお礼を申し上げなければいけない時だなといって、それが私も実感しましたし、本人もはあそうだった、大事なところを頂き忘れておったという様なふうでありました。

 永年信心をしております、御教えを頂いておりますから、こう言う事になって参ります時にですね、その自分の心の状態というものが楽になるだけぢゃなくて、信心のいわゆる信味というところ、もうしみじみと感じられるところです。今こそ神様の願いが成就している時なのだ。私なら私の上にお店をいくらも何軒も持っておられますが、その何軒ものお店の上に神様の願いが成就しておる、私はここでいう信なければおかげはなしというのは、そういう事だと思う。

 信心とは和賀心が向かう、神様の方へ心が向かうというだけでも、それが信心だとこういう、そこから、信心が一歩一歩進んで参りまして、神様の本当の御神徳というものを知らなければならない。神徳の中に居ってもとこういう、いわば御恵みの中に居ってもという事である。そこでなら御恵みと言う事は、人間の都合のよい事ばかりが御恵みかというと、さに非ずということ、神様の深い御思いというか、又は神様の願いというか、そうゆう中にあることを知ること。

 神徳の中にあることを知ることは、神様の御恩恵の中にあることを知ること。なら御恵みとは人間の、都合の良い事だけではないということ。様々な難儀な形、その形は千差万別ですけど、その実はすべてが、御恵みであると分らせて頂くところから、いわゆる信が生まれて来る、本当の信心が生まれて来る。本当の神様を信ずることが出来た人の姿というものはそういうもんだ。一切を御神徳の中に在ると知ること、一切を御恵みの中に在ると知ること、そのところがわからせて頂いての信心。

 それならば間違いなく火がともる。いわば世界は闇なりと、世界を明るうするというところまではなくても、自分の心の世界、自分の心が明るくなる、隅まで明るくなる、自分の家庭が明るくなる、自分の職場が明るくなる、という様なおかげを頂いて行かねばならん。それは神様の御神徳を本当の意味で分かった人の姿ということになります。今日はこの神様の神徳の中に在っても、氏子に信なければと仰るこの御神徳、と言う事を今日は御恵みと云う表現で申しておりますね。

 御神徳とは神様の御恩恵、御恵みである。その神様が恵んで下さる、その恵んで下さる事の中には、苦いものもあれば臭いものもある、辛いものもあれば甘いものもあると言う事。食べ物で申しますとやはり、にがごうりの様に、にがい食べ物でもあれは苦いから神様の御恩恵のものぢゃないとはいえないでしょう。辛いこげな辛いものは、こげん辛いもんはもう、と例えば辛いもの嫌いの人はいうかも知れませんけれども、やはり胡椒だって御恩恵によって出来たものでしょう。

 お砂糖の様に甘いものは皆がすぐわかるでしょう、大体この甘いものは、皆が好きですから大体、ですから甘いおかげ、自分の都合の良うなるおかげだけ、はぁおかげ頂いたとこういう、というてそれは臭いものでもお恵み、ニンニクのように本当に鼻つまみたいような、臭い食べ物があります。それは私どもが、北京に参りました当初のころはもう、北京に居りましたが北京中が臭いニンニクの中にあるようなもの、もう駅に駅じゃないもう汽車に乗ったとたんに。

 汽車の中がもうニンニクの臭いでプンプンです。所がその臭いニンニクを食べなければ外のものの味がせん位になるのですからね。もうあちらでは味噌汁を炊きましてもニンニクを入れます。それはもう一味変わります。けれども頂きつけない人はよう食べません。様にですね臭いものだからというてそれは神様の御恵みぢゃないと言う事じゃないと、それもやはり天地の御恩恵に依って、頂けたもの。

 今日は例えて食べもので申しておりますが、なら事柄の上に置いたって同じ事ですよ。甘いもの辛いもの、臭いもの苦いもの、その総てが神様の御神徳の表れなのです。それ即、御神徳なのです。だから私ども日常生活の上に表れて来るいわゆる、苦い思いをすることもあろう、つらい悲しい思いをすることもあろうけれども、それを即神様の御恵みとわからせて貰い、即今こそ神様の願いが成就しておる時だという頂き方をする時、結果はどう言う事になるかというと、心が豊か。

 心が安らぐだけでなくて、心の底から神様有難うございますというお礼が申上げられる。その御礼を申上げられるその心におかげがある。例えて申しますと、お酒です。あのお酒の中の味というものを分析しますと、いうなら甘辛ぴんから生まれておる。甘い味辛い味、それに甘辛ぴんとはりがあることですから、それをも少し小かくいうと、お酒の中には絶対、苦味も必要である、甘味も必要である。

 辛いもの、すべての味が含まれて、それが程よく良い味になるときにあの芳香と申しますが、芳しい迄のというか芳醇なですね、芳醇な香りを放って来る。それを頂けば心はいつも春めいてくる。心がうれしゅうなってくる、信心のお徳を受けるということはそういうことだと思う、いつも心は和やかである、いつも喜びがあふれておる、例えば私ども自分の心が神様に向うた、お取次を頂いてお願いをした、おかげを頂いた成る程神様の働きとはこういうものであろうかと、段々わからせて頂いて。

 その神様の働きのすべてが、神様の御神徳の表れとわからせてもろうて、甘いことにもいうなら苦いことにも、お礼が申し上げられるようなことになってくる。そのお礼が申し上げられる様になってくることに、その味わいのすべてが心の中に頂けてくる、そこにミックスされた味わいというか、今それをお酒に例えて申しましたが、それがほどよいくらいに自分の心の中に頂けてくる、それをお徳という。

 いうならば、有難いもつたいないに酔っておられる、それは必ずしも自分の都合の良いことだけではないのだけれども、そこのところの調和が取れる、それを金光教は和賀心という、そういう心を目指さして頂くというが信心なのだから、どうぞおかげを下さいというのでも、わが心が神に向った訳なのだけれども、それが段々わかってきたらです。いわゆる和賀心を目指すと言うこことが、信心なのである金光様の信心は。

 そこからいよいよ神様へ向っての、前進というか展開がされてくる、神様へ向って一歩一歩、近付かせて頂くということになる。私の心の中にはいつも春風駘蕩というですね、いつも春風の様な柔らかなおだやかな心で、おかげが頂けてくるのです、それを春風駘蕩、それを和賀心という。世間でも申しますでしょう様々な所を、まあ人生航路の上に於いて頂きぬいてきた人を、それこそ甘いも酢いもかみ分けた人というでしよう。

 、その甘いも酢いも苦いも、その味わいのすべてを、御恵みとして頂き、それを神様の御神徳の表れとして頂く、そこで私が申しますなるほど、御事柄ぢゃなあということがわかるじゃないですか。どのようなことであっても、神様の御恵み、御恵み即御神徳、そのお恵みの中には、甘い辛い酢い苦い、時には臭いまでも一切があると言う事、それを日々の体験の上にです、ああ甘いこともおかげであったが、また辛いことも神様のおかげであったと、あれもおかげであった、これもおかげであったとわかる。

 そこを繰り返さして貰っての信心の精進がです、よしどのような場合であっても、甘いこともおかげ辛いこともおかげともう、即、その場で自分が今直面しておる、難儀と思とった難儀でも、難儀ではない御恵みとして感じ取ることが出来る、ああ不尿意これだけ信心しょるのに、どうして商売が繁盛せんのぢゃろうか、これだけお願いしよるのに、どうして、こげん人間関係のうえに、いつももつれがあるだろうとばかり思うておったからどうぞ人間関係の上におかげをください。

 商売繁盛のおかげをくだされとばかり思うておったが、これは神様に向かう姿勢が間違っておった。そのこと自体が、あなたの願いが成就しておる。神様の願いが成就しておる。これを私でいうならば大坪総一郎の上に、そういう神様の願いが成就しておるのだ。それをともう少し具体的に言うなら、甘いことも辛いことも、すいいことも、その一切のことをです、おかげと分らせて頂くけいこをさせて頂いておるのだと分かる。

 今日も結構な修行をさせて頂きまして、有難うございました、と言う事になる。あれはもう、いよいよ修行がたけなわの、十二月の八日の日、星野教会の大祭を終えて、それから帰り、東久留米教会の大祭におかげを頂いた。だから、それは私は日にちも忘れない。もう、大変な雪でした。それから、東町の大祭を終えて、福岡の方へ帰らせて頂いた。そこで、金銭のお繰り合わせの上に、いわゆるもう今晩食べることの上に、おかげを受けなければいけない。

 まぁ迫られた時ですから、それから帰って、もう、その頃には自転車もございませんでしたから、あっちこっち歩いて回らせて頂きました。少しばかりの商品を持って、商いに行っていました。もう日が暮れる頃まで辛抱しましたけれども、もうそれこそ全然商いができなかった。もう雪解けの道をね、靴も破れて口を開けとる。破れとるものじゃから、中は、もうじくじくです。靴の中が。もういうならば、もうへとへと。寒さと疲れとで、へとへとになっている。

 ご神前に額づかせて頂いてから、本当にまあ一日の間に星野から久留米から、まあいうならば普通でいうならばもう今日は、一所の大祭を務めただけでも、それでやれやれというのですけども、さあそれからいよいよ自分の事を務めさせて頂いた。それが都合よういけば心もまあ弾んでくるけれども、思うようには一つもならない。そういう時にご神前に出て一番始めに、私が一番始めにお神様に申し上げた事。又その実感はまた本当に今日は結構な修行をさせて頂いて有難うございました、

 ということです。だからそう言う事がです、これがそう思うおうと思うて、思えるものじゃないです。この頃十三日会の時に、文男先生の発表があって、話しておりましたが、例えば自動車の事故に遭うときにですね、しまったと思う場合、ちゃんと神様にお願いしてきたのにこげなことがあると、不足に思う様な事があったり、もうこれはいよいよつまらんしまった。まあそれでも、大難は小難のおかげ頂いてとと言う事になってくるけれども、そういう例えば自動車ががっというたと。

 いわゆる事故が一寸あったというときに、すみませんという心とか、又は有り難うございますというのが、出て来た時には、もうそれはお徳だ、という表現をしたと言う事を聞きました、まさしくそうですね。今日私がいう御神徳を御神徳として頂いたときです。ですからね、それが教えられたからというて、できることではないと、繰り返し体験させて頂いて本当に例えば、しもうたと思うような時にもです。

 それを有難うございますと受けれたり、済みませんと受けられたりするということなのです。これが日頃、けいこができとかなければです折角のお徳、折角のお恵みをお恵みとして受けることが出来ません。お徳として受けることが出来ん、足を棒にして雪の中を歩かせて頂いて帰らせて頂いてあー今日もつまらぢゃったと、思うて御神前に額ずくか、確かに今日は疲れに疲れ切った体けれども、御神前に向った時には、今日は修行させて頂いて有難うございましたということが出て来ると言う事は。

 もうお恵みをお恵みとした理屈ぢゃない、御神徳を受けておる、そういう日々が続くところに、私は御神徳は頂けてくると思うです。ならばお恵みをお恵みとして分らせて頂いた御神徳そのものが、どう言う事かと言うと、今日は甘い辛い酢い苦いと言った様なそういうそれが一緒にいわゆるミックスされた味わい、それを今日は、お酒とこう申しました、そのお酒を信心はお神酒とこういう、御神酒は有難きもったいなき恐れ多きぢゃと四神様はおっしゃられるように。

 その有難きもったいなき恐れ多きが自分の心の中に絶えず頂けておるということはお酒を飲んだ人がよい気持ちでおるようなもの、適度の酒を飲んで気持ちようしておる様なものそういう心を和賀心というのだということを申しました、二十一節の信心せよ信心とはわが心が神に向かう、ということはもうすでに信心じゃと、けどその信心が向かうて進まなければもう次ぎの瞬間には、信心ではないことになる。心が神様へ一遍お参りして見ようかとこういうた時には。

 すでに神様に向かうておるのである、けど次ぎの瞬間にその信ずる心、お恵みはお恵み御神徳は御神徳と感じられるような、見方に段々なってくるという様な事が一番最後に信心なければ世界は闇なりとおっしやるが、信心が即光りである。信心とは力であり光りであり、そういうものが、自分の心の中に頂けてきて初めて心の世界が明るくなる、家庭が明るくなる、職場が明るくなる、そういう灯が次から次ぎと点じられて行って初めて世界が明るい世界ということになる。

 そういう世界を願っての信心、神様の願いをここ二十一節に聞くことができます、感じ取らせて頂くことができます。そういう神様の願いが、私どもの上に成就するということは、決してお参りをしよれば商売が繁盛するというのではない、人間関係の上に、都合のよいことばかりではない、そいう事柄の中にあっても、春風駘蕩、いわばそれを大きな心で受けて行くだけでなくてお礼の申しあげられるような心、それを即御神徳だというふうに聞いて頂きましたね

   どうぞ。



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