昭和46年6月1日 朝の御理解より



昭和46年6月1日 朝の御理解より
(おかげの泉 第23号)

 御理解 第七節 「天地金乃神は昔からある神ぞ途中から出来た神でなし天地は流行ることなし流行ることなけれは終わりもなし天地日月の心になること肝要なり信心はせぬでもおかげはやってある」

 ここの御理解は何十回頂いたかわからんように思いますが、結局はお道の信心をさせて頂くなら、此の御理解七節にあるところの、信心をわからしてもらい、それを身に付けて行く、そういう心が育って行く、そこから神様を現し申し上げる事が出来ると言う為にはどうしても此処のところを頂かしてもらわなければならん。

 あと先の説明はともかくとして、お道の信心をさして頂いて、信心に修行はつきものだと申しますから、様々な修行は致しますけど、お道の信心させて頂いて、次の事が一番修行の眼目になる修行だと思います。

 所謂「天地日月の心になること肝要なり」と、これがどういう何の修行よりも、一番肝要であり、肝心である。ここのところの信心修行が本気になされる時に、今月の焦点であります「育つ喜び表す楽しみ」という事になるんだと思うのです。

 信心に修行は付きものじゃと、これはもう、あらゆる宗教、宗派、がさまざまな修行を致しますね、これは宗教だけじゃありません、いろんな、何だって修行はありますけれども、金光様の御信心は大体ここにしぼってよいと言う感じが致します。

 「此方の行は火や水の行ではない家業の行ぞ」とおっしゃる、家業の行とても、家業の行そのものの中味が、天地日月の心になると言うのでなければもう無意味です。 一生懸命に百姓をする、一生懸命に商売をする、その事自体が行だと、けれどもその行の中味が只一生懸命に働く事だけでない、その家業の行の中に、天地日月の心になること肝要なりであります。でなったら修行が修行にならん。きついとか、辛いとか言う他とだけが修行じゃない、天地日月の心になる事肝要なりであります。そこに信心はせんでもおかげはやってある、下さってある、そのおかげを頂きとめる事を頂きとめる事も出来る、頂きとめる力ができる、けれどもどんなに下さっておっても力なしには、おかげは受けられません。

 御理解第十三節に「神は向かう倍力の徳を授ける」とおっしゃる。所謂、御理解の願いとでも申しましょうかね,神は向かう倍力の徳を授けるとおっしゃるから、神様に向うて御祈念をする、神様へ向うてお参りをする。あらゆる修行をさしてもらって神様に打ち向うて行く、信心は一に押し、二にも押し、三にも押しといわれるのですから、その押して行くところをです、どうぞ、どうぞと神様へ向かって、言わば肉迫して行くようにです、神様に向かって行く。「神は向かう倍力の徳を授ける」それはね、一生懸命願います、もうそれこそ日に何回も何回も御神前に出ては、御祈念をする、お願いをする、こういう向かい方でもおかげは受けますね、熱心にね、水をかぶったり、断食をしたり、そして神様に一生懸命向かうて行く。おかげは受けますけれども、これでは「神は倍力の徳を授ける」とおっしゃるところの徳を受ける事にはなりませんね。それは私共もおかげを頂かなけれはなりません、どうしてもと言うおかげがあります。ですからやはり願います、又願わなけれはなりませんし、おかげを受けなければなりませんけど、それは徳にはならない。どこまでも神様に向かうて行くと言う信心修行がです、徳を受けて行けれる、力と徳を受けて行けれる修行でなければならん。神様へ向かえば、向かう倍力のとおっしゃる、倍力の徳を授ける、その倍力の徳を受けられる修行が、天地日月の心になる事が肝要なのです。

 今日はここのところだけに一つ焦点を置いてわかって頂きたいと思います。

 おかげを受ける、神様へ向かう、言わば内容と言うものが成程、家業の行である、もう一生懸命こうやって御用させて頂いておる。その事自体が、金光教では行なのだと言うても、それは一生懸命「がまだしよる」(一生懸命働くと言う意)だけで行になっていない。そのがま出して働いておるその内容がです、天地日月の心に合っておるかどうかと言う事、そしてそこへ神様に向かう心が、天地日月の心を以て、向かって行く力が、百の力を以てするならば、二百のお徳を受ける事が出来る、二百の力を以てするならば、四百も五百も力を受ける事が出来る、又神様はそれを下さるのである。私は自身の信心を思うてみた、私が頂いている力とも徳ともいうような言葉で表現するならば、お徳を、神様をけがす事になるかも知れませんが、まあひとつ私が頂いとるのを、お徳と思うて頂くならばです、いつ、そういうおかげを受けたかと言うと、私にもわからんのです。実を言うとまあ、そうじゃろうと思うだけなのです、いつ、ハハ-、あの時分におかげを受けたのだろう、天地日月の心になろうと言うような、はっきりした焦点もなかったし、只言わば、がむしゃらに、成程がむしゃらに神様に向こうた、それはもう本当に、まあ言うならば力の限りであった。だからそういう力の限りで神様に向かうと言う人は沢山あると思います。

 自分の難儀を感じるから、その難儀な中から助けて頂きたいと思うのですからもう神様のおかげを頂かなければ、私の場合などはもう、とにかく、神様のおかげを頂かなければ、立ちゆかんと言う事がもうはっきりして来ておりましたからですね、もう一生懸命ならざるを得なかった訳です。

 初めの間、商売をさせて頂いては、まあおかげおかげと言うてはおるけれども、未だ自分は誰よりも努力するし、商売でも誰よりも上手だから、もうそういうふうに自負しておった、ところがだんだん信心に身が入ってくる、商売にもいよいよ身が入るだんになって参りりしたら、今度は商売の力を持っておる、商売は上手と思いよった私の上に次々に難儀な事が起こって来たのですよね。私の場合は・・・・・

 右と願っても左、左と願っても右、例えばここに、商いが出来よる、大きな商いが出来る、それが九分九厘、もうお金をとる段になったらくずれて来るのですよ、それがず-と続いたのです、私の場合・・・・・・

 そして初めて、それこそ打ちのめされるように、自分の商才とか努力とかでは出来る事じゃないと言う事がわかったです、私はだからその事が非常に有難いと思います 今思いますと・・・・・

まあ私が一生懸命願う事に神様がです、もう妥協して下さって、もうあれだけ願いから、三べんに一ぺん位は、おかげをやらじゃあと言うような事が続いとったら、未だ目がさめなかったかも知れませんね、いわゆる吾無力と言う事なのです。

 「障子一重がままならぬ人の身」であると言う事が、皆さんこの辺のところを脱皮せにゃいけませんよ、自分は出来ると、自分が先頭に立って、神様には、お手伝いさせる程度だった、私の場合。

 頂いているおかげは、成程一つの商売に打ち込んで行くのですから、商売が上達して行くのは当たり前の事、だから商売が誰よりも上手であり、人よりも努力するから私は誰よりも商売が・・・・・例えて申しますと、誰よりも私が一番売上を上げてあった、出来るとこう思うておった、だから売上はその為にやはり自分だけの力では出来んから、神様にも手伝って貰うて、お願いをすると言うお願いであった。だから私が例えば引っ張って行くなら神様がどうでも後から押して下さると言ったような信心が、だんだん身に入って来ましたら、もうこれは本当にそうでした・・・・・。

 一日中ですね、もうその頃は自転車もなくしてしまっておりましたから、歩いて福岡の町をです、もうその時には大変零細な商売でした。少しばかりの商品見本を持って商いをして行くのでございますからね。そして本当に神様にお願いし、お願いし、又御神意を伺い、もうその時分にはね、胸知らせと言うような感じのおかげを頂いとりました。道を歩きよっても、ああ右の角へ入れ、さあまっすぐ行け、この家に寄ってみよというような事でしたから、そういう神様から願わしてもらうやら、お知らせを頂きながらやらせて頂く訳ですからね。そうしてその商いが出来るのです。まあこれで今日はやれやれおかげで商売が出来たと、それこそ九分九厘以上も出来てる商いがちょっとした事から、やはりちょっと見合わせときましょうと、ほどんどくずれて行くのですから、もう私は驚いてしまいました。

 そういう事が続いて、その時にです、如何に商売が上手であっても、力があっても本当言うたら神様のおかげ頂かなけれは出来る事ではないんだと言う事を私は体験させてもらった。所謂、神様のおかげを頂かなけれは立ちいく事は出来ない、私と言う人間はとりわけ神様のおかげを頂かなければ出来ん事がわからせて頂いたのですからさあその神様に一生懸命打ち向わぬ訳にはいかん、神様に一生懸命おすがりせぬ訳には行かなかった訳です。

 だからね、今から考えて、人のびっくりするような、又は自分ながらよく出来たと思われる位にもうがむしゃらに神様におすがりする信心にならして頂いた、それでもやはりおかげは受けませんでした。そこであの手この手で修行させて頂いた、その修行の中から、こういう修行を私は思い立った。

 私の身の上に起きて来る様々な事柄、それは降る事も照る事もありましょう。嫌な思いをする事もありましょう。苦しい思いをする事もありましょう。まあどういう事が起こって参りましても、私の上に起きて来るそのもの自体です、私は修行で受けようという事に気付かせて頂いた。それが後々に、どんなに素晴らしい事になって来たかと言うと、現在の合楽になって来るおおもとになったんです。

 この事がこの修行が・・・・・。この信心はそういう商売上での大修行中から、椛目(合楽以前のお広前)で人が助かるようになって、丁度五年祭のお祭りを仕える半年前の御大祭の日まで続きました。どのような事であってもそれを受けて行く、受けて立とうという修行でした、ですからそこまで至迄に、様々な修行がありました。

 椛目にいよいよ座り込ませて頂いて、人が助かるようになりまして四年半です。四年半の間、当時の信心を知っている方はご承知でしょうけれども、それこそ箸にも棒にもかからんような病人を、まるで姥捨山のように病人を連れて来て、親戚の者まで構わぬと言う位な病人やらが、あの時分にいつもです、常時十何人おりました。あの狭いところに、もう誰でも側にも寄り付こうごとないような病人やら、まあようあの時分に・・・・それを気にもかげずにね、皆さんお参りがありました。もうあの時分でした、村内からいろんな非難がありました、皆そのあおびょうたんのようなよろよろしょるごたる、病人さんだ、横にある谷川で洗うたりいろんなものを洗うたりするものですからね、やはり近所の信心の無い方達は、言いなさるのは当たり前、北野町の保健所から何人も来てから、いろんな調査をしたのもその時分でした。投書があっと言う訳なんですよね。例えばね、それは困るばの、そげん悪か病人ば連れて来たっちゃと言わなかったんですよ、私は。

 お金を下さいと言えばお金はあるだけやりました、もうお賽銭箱をひっくり返してあげました、貸してくれと言えば、何と言われても貸しました、くれと言えばやりました、預かってくれと言われれば、そういう病人迄預かりました。もう本当にこれは私だけで出来る事じゃない、家族中の者がその気になっておかげを頂いた。

 だからね、合楽で信心させて貰うならね、こういう信心が真似方でも出来にゃ駄目ですよ。それがね私は、このように素晴らしい修行である事を知らぬなりにしとった訳です。その頃から成り行きを尊ぶとか、大切にするとか言う言葉で表現するようになりました。それがね例えば今日の御理解で頂きますと、それがそのまま「天地日月の心になる事肝要なり」と仰せられる修行であった。

 仏教の言葉に雲水行というのがあります。行く雲、ながれる水、もう自然には逆らわない、あるがままに、なるがままにと言う、そこのところを受けて行くという修行なのです。ひとつも気張りのない、その事自体が、修行なのである、そういう心で家業の行をさしてもらう、家業の行の内容が、そういう一つの雲水行と言うかね、成り行きを尊ぶ、大切にさしてもらう修行にならせて頂く、「それは困るばの」と言う事がない、それは出来ませんと言う事がない。勿論出来ませんところは出来ません、その当時金百円貸して下さいと言うたって、ありもしませんから、それは仕方がないけれども、それならあるだけ上げましょうと言う事であった。これはまあ余談ですがあの時分貸してあげたり、差しあげたりしたのが未だ一銭も返って来た事がありませんでした。そげん言うならば何にもならん修行のごとあったけれども、私にとっては大変な修行であったと言う事。

 それが私は今、思うてみるならば、力を受けたであろう、徳を受けたであろう、と言うのはその時であったろうと、自分で思うとります。いよいよ五年祭をあと半年で仕えられると言う春の御大祭に、その、もうそれこそもうすべてを私が受けて行くという事が修行でしたから、神様が常識で考えてね、こんな病人を預かっちゃでけん、幾ら金を貸してくれと言うたって、そげなつは貸しちゃ出来ん、やっちゃ出来んといったような、自分の常識で考えて、そこんところだけは、言わば切り取ってそして本当の意味に於いての天地日月の心になる事、言わば成り行きを尊ぶ、大事にさして頂く修行にならせて頂いたとき、例えて言うと、その時のお知らせは、ホ-レン草のひっこぬいたばかりのまだ土の付いた、ヒゲもいっぱい付いてる、下の方は枯れ葉が赤くなっている。だから今まで四年半と言うものはこれを皆さんに頂いて聞くと言う訳です。洗いもせずに赤い葉っぱも何でも頂いた。土のちっとはジャキ々いうのを頂いてきたという訳です。

 そういう頂き方です、けどもよくそういう事が出来たと思います位。だから、四年半経ちましたら、赤い葉も摘み切ってしまって、根もヒゲのあるところは切ってしまって、燃もきれいに水で洗ってから滋養になる、おいしいところだけ頂かして貰う、そのホ-レン草全体を頂くけれども、食べられないところは食べないと言う訳です。 そういうお知らせを頂いてから、もうそういう修行に切替えさせて頂いた。とたんと言うてよいくらいでしたね、椛目から病人さんがなくなりましたのは、それから金貸してくれという方達もなくなったですね。だから如何にその間が、神様の御都合であったか、おためしであったか、と言う事が感じられます。

 神様はもうこれでもか、これでもかと言うて全く見も知らぬ人がですね、金を借りに来たり、もう縁もゆかりもない者が、それこそ親がもう死のうごとある子供を連れて来ては預かって下さいと、親は来んとですからね、それっ切り、と言った事が次々と、もうこれでもかと、神様は言うて、まあお試しと言うか修行させて下さったんですけれども、私はもう腹の中で決め込んでしっまっているからね、絶対受けますと言う修行になって来たですから、それがもう本当にさわらずに出来てきた。あの時にお知らせ頂かなかったら今でもやはり、そういう事だったかも知れませんけれども、それははやり神様の御都合であった。

 そして後はですね、言わば教会にはいり込んで来ると言う人は本当の意味に於いての、信心修行をされる方ばかりになられましたですね。いかにそれが神様の御都合だったかがわかるでしょう。そこで皆さんの上に起こって来る様々の問題もです、絶対神様の御都合ですから、それを言わば成り行きを尊ばせて頂く行き方と言う事、燃も天地日月の心になっで、いつも申しますように、天とは与えて与えて与え止まない心地の心とは、どのような場合であっても黙って受けて受けて受けぬいて行く心、日月の心、これはそれこそ日月の、天地の働きの中に日月の心と言う程、正確無比なものはなかろう、所謂それはお道で実意丁寧と言う、その事柄を実意丁寧神信心を以て、受けて行くという生き方、そういう生き方です。「天地日月の心になる事肝要なり」であり、そういう生き方を以て神様へ向かう時に「神は向かう倍力の徳を授ける」と仰せられるのであります。

 「神は向かう倍力の徳を授ける」と仰せられる、そこで、ここではっきりと私の体験から言えれる事はです、もう本当言うたら、神様のおかげ頂かなければ、皆さんも商売をしてあられて成程商売の要領も良い、駆け引きもむごうやる(上手にやる)ようになったと、人より売上はよくもうけきると言うけれども、本当に言うたらその事も、一切神様のおかげを受けておるのです。だからいよいよ神様がおかげを形の上に表して下さらん事になりましたら、私が商売の最後の時分のようにですね、もう一日足を棒にして歩いても、一銭の商いも出来なかったんですからね。燃もどこへ言っても九分九厘出来たかのようにあって、サッサと商いがくずれて行く。その時に強力な神様のお働きを受けておったと思います。

 おかげでこれは自分の力や知恵では出来ん、やはりお神様の力をもってせねば、おかげが頂けん事がわかったところからです、様々の修行を以て神様に打ち向うたけれども、その打ち向かう事の中にです、私の心に気付かせて頂いて、その後の言葉で言うと、成り行きも大切にさせて頂く修行に、入らせて頂いて、言うならば雲水行が身に付いて来た。それが天地日月の心になる事と知らずに、その修行をさせて頂いた、そして今振り返って考えて見ると、その時に私が向うた倍力の強い力を以て向うたその倍力を以て、神様がおかげを下さってある、徳を下さってあるんだ、力を下さってあるんだと、今にして思うのであります。「神は向かう倍力のおかげをやる」とはおっしゃってない「向かう倍力の徳を授ける」とおっしゃってあります。

 なら神様とは何か、神とは金光教の信心では天地以外にないのです、天地自然の働き、そのものを神の働きとする以外ないのです。その天地に向かって、私共が打ち向かって、私共が打ち向うて行く修行が、天地に向かっての修行である。

 断食をしたり、水をかぶってりしたのは、天地に向かっているのではないでしょうが、天地に向かうと言うのは、天地の働きそのものを修行として受ける修行こそが、天地に向かっての修行である、神に向かっての修行である。

 神に向かって倍力の力を下さろうと言う修行とは、そういう修行以外にない。だから金光様に御信心が如何にです、御事柄、御物事を、そのこと自体をです、私共が尊び、又それをひた受けに受けさして頂くと言う、精進こそがです、神様へ向かう力になるのです、だからそういう修行に対して神様は、倍力の徳を以て働いて下さる訳であります。「日月の心になる事肝要なり」日月の心にならして頂ける修行と言う事であります。その修行事が神に向かうと言う事なのです。

 神に向かう、一生懸命にお願いする、願う、じだんだ踏んで願う、成程それは願った事にはなるけれども、神様に打ち向かう事にはならない。願うからおかげは下さるけれどもそれは徳にはならないと言う事実がね、これは私の信心の体験から、それをはっきり申し上げる事が出来ると思うのです。

                 どうぞ。



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