昭和46年03月18日 朝の御理解



昭和46年03月18日 朝の御理解

 御理解 第84節 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 中々このおごりがましい事をすなと。この事だけでも実は中々難しい、分からないもんです。自分でどの程度の事がおごりがましい事か。中々常時気が付きません。所で私が思うのですがね。おごりがましいというのではなくて、おごりがましいのいわば反対。まぁ慎みきって行く生活とでも申しましょうかね。又は確かめながら生き方に石橋を言わば、叩いて渡るような生き方と申しますか。

 または始末倹約をさせてもらう生き方と申しますか。とにかくそのおごりがましい、というその言わばおおよそ反対な事、反対な物反対な生き方。と言う様な事に心を切らせて頂いたら、どうだろうかとこう思うんです。おごりがましい例えて言うと、その反対の生き方と。それがほんなら周囲から、まぁまぁ意味でですかね、まぁ言うならばしみったれた生き方であってはなりませんよね。いわゆる俗に言うけちんぼう的な生き方、という生き方ではない生き方であって、おごりがましい言わば反対の生き方。

 そこにね私共は神様の御働きというか、神様の御物というか。全ての事柄全てのものに対して、私は本当の神様の御働き、神様の御物っていう事について、分らせて頂かなければいけない。そこからねいわゆるおごりがましい、言わば派手な華やかなと言うか、贅沢なと言うか。そこにはまたそのおごりがましい生き方の中に、まぁ言わば楽しみと言ったようなものもありましょう。

 けれどもそれとはまた反対な生き方の中にです、楽しい生き方と言うか言わば有り難いという生き方をはっきりする事だと思うですね。物を例えば粗末に見たり粗末に扱うたりする事の中からは、喜びは生まれてまいりません。これは私の日々の体験ですけれどもね。皆さんに聞いて頂くように、私がまぁお風呂に入らせて頂いてお風呂での生き方。まぁお風呂に入る、まぁ私が入るのはまぁ少し夕方ですから。

 まぁ薄暗がり今頃は丁度薄暗がりの時ですけども、私はまだその大して不自由しないならば、電気は点けません点けんで入ります。夕べも私はお風呂に入らせて頂いておりましたところが、そのお風呂はもう、確かに早く入れてあるから、親先生どこにおられるじゃろうかち言うちから、探しさるきよる。実際私はお風呂の中に入っとるけど、電気を点けて入らん、暗いもんだから。

 あなた入っとるなら、気点くけて入るなら分かるばってん、電気も点けんで入っとるなはるもんじゃけん、いっちょん分からんって家内から言われた。だってにくじをする訳ではない、真っ暗ではない。もうそれこそ必要でもないのに、たちまちそこもここも、電気を点けて入る。例えばこのお風呂だけでもそうですよ。私共はそのまぁその薄暗がりの中に入らせて頂いておる事は非常に有り難いです。

 有り難いなぁていうものが、少しは強うなってくる。お水でもお湯でもやはり、洗い桶半分とこう決めておりますから、もう心がけます。洗い桶がばっと汲む時にっとこう心して汲みますから半分しかつぎません。そういうね例えば神様の御ものを大事にしなければならない、お粗末にしちゃぁ相済まんというその心がね。そういう煩悩の上に現われてくる時に本当に、心豊かに有り難いものを感じるんです。

 と言うてほんならお湯を使うという事は、限りなく使わせてもらいます。清潔にするためにはやっぱり使いますけれども。ただそのお湯桶に水を汲む時の、お湯を汲む時の心がけなんです。心を込めておくと言う事です。そりゃ本当に皆さん実行してごらんなさい。神様の御物を大事にせにゃぁ相済まんと、というね所が分からせて頂いたら、それをさせて頂く実行すると言うこと。

 石鹸でもどうせ使わせて頂くもう使わせて頂くたんびに楽しいです。もう楽しいし本当に楽しいてたまらんお風呂入らせて頂く。神様の御物を有り難いそう言う事を分からない時には、もうそれこそごろうごろ石鹸でも使わせて頂いて。勿論使うのは十分使います。けども最近私が石鹸を石鹸箱の上に、横に置く事を致しておりますがね。もうちょっとした心がけで、使う時の楽しさですかね。

 もうからからになっておりますしそれが例えば、お金にしたり何かしたらそりゃ本当に、もうお話にならないくらいな事でしょうけれどもです。そういうね生き方を、身に付けてさせて頂く楽しさと、有難さと言うようなものがです。私はおごりがましい事をせんですむ、おかげが受けられると思うですね。と言うて私は石鹸を、あの昔から私は、牛乳石鹸の赤箱を使う。

 こりゃ沢山お供を頂き、私が牛乳石鹸の赤箱を使う事を、皆さんが知っておられますから沢山頂いております。何年分と言うぐらいに頂いております。ですからどんなにごろごろ使うても買いに行くことも要りません。けどもまぁ普通30円なら30円の、するならばあの石鹸は、その倍くらいはするでしょう。言うならそれは贅沢なものではあります。品物が品物ですから。けどもどんな贅沢な物でもです、その使う心がけが私はおごりがましくないという事でなからねばならんと。

 御食事をさせて頂く時でもそうです。まぁ家の者が一緒に御食事させて頂きます時ほど、結局私のような頂き方をする者は私だけのような感じがするんです。それでいて私は大変楽しゅう御食事させて貰う。一滴の醤油を濯いで頂くでも、茶碗に付いておる物をこう茶碗を洗うようにして頂くお茶でもです。もうそれこそお茶の手前でもするような、楽しさで御食事させて貰う。

 と言う様に是がね一時が万事に、その様な事に現われて来る生活の全体に。そういうものが身につく時にです、私はおごりがましい事は、それでもどこの隙からおごりがましい事になって来んとも限りませんからです。心していかねばなりませんけれども、そう言う生き方を身につける事だと思います。そこでいわゆるおごりがましい事をすなとおっしゃる、そのおごりがましい事を何時、私共が段々物が無駄になって来て、贅沢をしても誰もなんとも言い手がないと言う様になってまいりますとです。

 どこの隙からおごりがましい事の態度やら、言葉になって来てはなりませんから、そこんところを、まぁ染み込ませて頂くために、それとは反対の生き方を身に付けて行く。しかも反対の生き方が、そのまま有り難いのであり、楽しいのでありと言うような物が、身に付いてまいりましたら、まぁおごりがましい事にならんですむとこう思います。皆さん、信心させて貰うならね、矢張り物の有難さっていうものを分からなければ、信心の有難さという事になってまいりませんが。

 そこん所の私は工夫もなさらなければならない。おごりがましい事をせんですむ、工夫が必要なのです「細うても長う続かねば、繁盛でない。」細うても長う続かねば繁盛ではない。いわゆる次第次第に少しずつではあるけれども、広がって行くと言うことは、これは大変な事なんですね大体は。繁盛一途をたどるという事は少しずつでも、それがこう繁盛して行くという生き方。

 誰でも今思わん事はありませんよね。お金でも一遍にがばっと儲かった方が良いようにあります。それこそ濡れ手で粟のつかみ取りと言った様な気分が、まぁ私にあるから皆さんにもまぁある物と仮定する。私共はいよいよ一介の商売人ですから、もうそのお金を儲けると言った様な事なんかには、あまり人後に落ちない。まぁ一つの感も働くし。まぁ場合には手段を選ばんで、金儲けのためにまぁ一生懸命だった時代もありますけれどもね。それが一つも残っていない。

 これは私の場合。もうちゃんと細うても段々確実に伸びて行く、その元の所を頂かせてもらわにゃならん。そこで私共信心させて頂く者がですね、お願いをしておかげを頂くと言うだけではなくてです。より良い生き方より本当の生き方、より本当に助かる事の出来れる道はないものかと、精進し出したわけです。私共が外地に居ります。もう本当にまぁなるほど、苦労も致しましたけれども。

 まぁこげん儲かって良かじゃろうかと言った様な、まぁいうなら悪どい儲け方ももして参りましたけれども、結果に置いてはそれを全部他の国に置いて帰って来なければならんという結果になってしまったのですからね。いうなら裸一貫同様で、その国をまた出て来なければ成らない様な事になって来た時にです。分からせて頂いたのは今までの生き方ではいけなかった。今までの生き方では、なるほど一時は儲かった。

 一時は良かったけれども、それはこういう結果になってしまったじゃないかと言う事になった時にです。今までの生き方ではいけないから、今までの生き方を変えようという気持ちになってきた。それも私の場合はもう回れ右と言う様な生き方であった。まず第一自分は食べる資格がないと言う事が分かって来た。それは例えば子供やら親達にすら、十分に、食物でも与えられないような時代に直面しましたからね。

 子供におやつ一つ与えるでも与えられない。親に例えば柔らかい物を、暖かい物と思うてもそれでも、自由に出来ない場合になった時です。とてもとても自分が食べる資格は無いと私は思うたから、それか、私は一食今で言う言葉で言うと、一食修行になります。けれども修行じゃなかった。もう食べる資格がなかったと言う所に思いが至ったからなんです。修行じゃない。

 本当言うたら食べる資格がないんだけれども、お許しを頂いてお茶碗の少し大きな、どんぶりと言う程じゃないけども、それで毎日一椀のお粥を頂くと言う事が何年間続いた。今までの生き方というものを、本当に回り右した生き方なんです。こりゃ皆が行き詰まる、行き詰まると言いますけれどもね、その行き詰まってから、前の方へ行き詰まってから、押せども引けども、どうにも出来ないところに行き詰まってから、それでもなおかつ、前さん行こうとする生き方は間違いです。

 そこにはどういう大きな壁が、コンクリートんごたる壁があるかも分からんとじゃけん、自分の力ではもう受けないと悟ったらね回れ右するべきです。私その事をある方のお取次ぎを、行き詰まったという方のお取次ぎをさせて頂いたら、あの透明のガラスにね、とんぼが止まってるんですよ。そして皆さんがここへあの情景をご覧になるでしょう。とんぼがガラスにこう止まってですね、向うに消えると思うんですから。

 こう一の字になってから、あのガラスを突き抜けて行こうとするような指示のとうりです。それでもなお向うに行けれると思う訳なんですね。そういう事よりか矢張りもう是は行けない、行き詰まったと思うたら、回れ右をする生き方になる以外にない。今まで自分がしてきた事の反対の事をして行く意外にはない。食べよっても食べんがいい、ぼうっとなら寝らんがいい。というくらいに極端な生き方になるんですよ。

 まぁ言うならそれからと、寝らんとか食べんとかとは出来ませんから。奉職しておった者はいうなら、私日に一回もう食べる資格のない自分を発見する。着る資格のない私を分からせて貰う。熱の中でも冬もない。やはり一着の洋服で私は過ごさせて頂いた。無い訳じゃなかった洋服はあった着物もありました。弟の戦死した弟の方が、私に丁度よかからあったけれども、もうそこに着る資格も無からなければ、食べる資格も無いと感じた所からそういう言わば生き方に、もう修行とは思わなかった。

 本当に資格が無いと思うた自分で。いうならそこから私の信心が始まった。細うても長う続かねばもう細い一番言わば、ぎりぎりのどん底んところから、少しずつ今日に至って来た訳なんです。しかも心にはですね何時もより良い生き方はないものかと、より助かる事の出来る道はないものかと尋ね続けて。様々にやはり迷うて。様々に苦労し続けて初めてその助かり方と生き方とにです。

 確信を持って沢山の人に聞いて貰えれる自信が出来て来た。だからそこの場合に過程には、どういう事になってきておるかと言うとです。成り行きをいよいよ大事にしてきた。ここん所がです、おごりがましい事をせんですむ、私一つの様体だと思う。成り行きを大事にする。自分で買おうの求めようのと思わない。自分で食べようとしない食べさせねばおかん、着らさせにゃおかんそういう働きを、ただ受けて受け抜いて行くという生き方。事柄でも問題でもそうである。

 どういう嫌な問題が起こってまいりましても、それは自然が私に求め給う修行であるとして、それを合掌して受けて行くという事の生き方を身に付けて来た。そういう生き方をです身に付けさせて頂いて。今日思うておる分からせて頂いた事は、間違いのない生き方であったなという事である。しかもその生き方こそこの助かり方こそです。世界中の人達にここの所の生き方を身に付けてもろうたら、どんなに素晴らしい明るい住み良い世界が生まれるだろうかという事にまで、思わせて頂く様になって来た。

 もうこれには確信と喜びを持って、皆さんに聞いて貰う事が出来るようになってきた。なるほど一番始めは、点で打つように小さい所からです、次第次第に踏み広げて通って行った。例えば私共が福岡におります時分に、私が一番最後に住まわせて頂いておった部屋というのは四畳半しかない。畳も敷いてないござやらドンゴロスやらが、継ぎあててしてある。その隅にお神様がお祭りしてあると言った様な所であった。

 雨が降れば漏ると言った様な住居でしたけれども。まぁ私はその時分に思うた。もうこれよりより以上の住居に住もうなどとは、夢思わなかった。そこから私の住居は言わば、そういう所から始まってる。雨露を凌がせて頂くというだけでも有り難い。これ以上の家に住もうとは、もうさらすら思わなかった。だから私は今でもです、私のあの居室の方だけはです、障子が破れとるけん、いっちょあそこを張ってくれんのとも言いません。いわいるおごりがましい事をせんですむものが身に付いて来た。

 そしてねそしてより良い部屋に、良い家に住まなせねばおかんと言う、例えば働きを、ただ受けてきただけである。自分が住む所は、こげな風にしようという事ではない。そいう生き方にです、私はおごりがましい事をせんですむ、いわいる間違いのない、いやそれでも心がけないと人間はどこから、いわいる隙が出て来るやら分かりませんけれでもです、そういう生き方。

 もう本当にね、皆さんの例えば生き方を見とってから、ひやぁひやするような事があるです。そんな事でよかろうかと。おかげが足らん足らんと言いながら、そういう事ではあんた、おかげの頂けるはずはなかじゃないのと、言いたいような事を平気でやっておる人達が沢山あります。細うても長う続くおかげ。しかもその細うて長う細うても、それが段々踏み広げて通ると最後に言っておられます。

 踏み広げて通るというのは、段々段々一が二になり二が四になり、四が八になるという広がり方になるんですよ。踏み広げて通ると言うことは。そしてほんなら私共が福岡時代、椛目時代そして現在合楽時代と言う事を、皆さんが見ていて下されば一番いいのです。次第に踏み広げて通って来た。より良い生き方を求めながら、より良い助かり方を身に付けながら。勿論そこにはね信心をしておれば、一年一年有り難うなって行くという、確かな自分の信心の進め方、生き方をです。

 身に付けながら自分の心にいよいよ有り難いというものが募っていく。信心をすれば一年一年有り難うなるとおっしゃる。もし有り難うならんでおかげの方だけが、進んで行きよるとするなら、こりゃちょっと危ない時なんですから。おかげの方をちょっと待って下さいと言わにゃいけん。自分の有り難いその心の状態に伴うて来るおかげ。そういう生き方にです、「細い道でも次第に踏み広げて通るのは繁盛じゃ」とこう。

 いわいる繁盛という事になって来る。最後に道に草を生やすような事はすな、その広がっていくあまりにです、先日ある教会の先生が見えられました。応接間で色々お話させて頂いとったら、こういう事を私に言われた。もう庭がまぁ綺麗にもう綺麗にお掃除が出来ている、庭が綺麗です。そしたらその方はまぁ私に言うて聞かせなさるようなつもりじゃなかったろうかと思うのです。

 金光様の先生が、庭やらにあんまり金をかけたり自分が老いて行って、いわばその盆栽いじりでもするようになると、教会のいわいる御比礼が落ちますねと言った様な意味の事を話されるんです。いや私はその方にまた申しました。そうですねそれどころじゃありません。けれどもまた教会の庭にですね、お掃除は何時したやら分からんと言う様な、草はいっぱい生えておると言った様な教会じゃ、また愈々御比礼は立ちませんねと私は申しました。先生が自分から庭に下りていってお掃除をする。

 そういう事に神道楽が出来るようになったら、本当に私はおかげ頂かれんと。けれども、私共はより優雅な生き方をさせて頂こうと言う様なものを、お互い持っておりますからね。より繁盛のおかげを頂きたいと思うから。それが段々ほんなら庭が一年一年綺麗になっていく。綺麗になっていくばってん草の取り手もなかなければ、庭の手入れをする者もないという時にはもう、愈々可笑しいとである。

 そこにはちゃんと草を取る人もありゃ、掃わく人もあると言う様なお繰り合わせを頂いとかなければならない訳です。所謂踏み広げて通る道というのは、そりゃ細うても次第次第に踏み広げて通るという事は、大変な繁盛につながると言う事なんですよ本当は。ですから一が二になり、二が四になると言うよう、に繁盛して行きますから。つい広がりすぎて、そこに草を生やすような事があります。

 もし庭に草でも生えて来たならばです。こりゃ自分の信心は可笑しいぞと、自分が降りて行って草を取るのじゃぁない、その綺麗にする働きがなくなっておる時ですから、用心しなければいけない。そういう生き方ならば、私共の生き方の上にです自分の生き方の上に、草を生やすような事はなかろう。そういう生き方を身に付けていかなければならない。足したら引いてみる引いたら足して見る、掛けたら割ってみる割ったら掛けてみると言うようにです。私はそういう生き方こそが堅実な生き方だとこう思います。

 自分の生き方が今日一日、間違いはなかったかと反省してみる。そこに現われておる、おかげというものを見てみる。確かに足したけれどもこりゃ間違い無いかと言う事を確かめるためには、引いて見ればすぐ分かる。私はこの八十四節は、そういう事を教えておられるとこう思うのです。だからどうでもこの生き方で行きさえすれば、繁盛になると言う所をです、まず把握して頂きたいとこう思うのです。

 ただもう参りよりさえすりゃ、おかげになると言ったものじゃないです。そこにより良い生き方より良い助かり方というものを、身に付けて行かなければいけんのです。その生き方をです体得する。繁盛の元になるその元を、先ず自分の生き方の上に頂いていかなければいけません。そのためにはです私が言うておる事をです、私が確信を持ってしかも、喜びを持って、皆さんにこれだけははっきり言えれると言う事をです、まぁ色々な角度から言うております。

 その中のです成り行きを尊ぶとか、成り行きを大切にしていくとか、愈々行き詰まったら、回れ右をせよとかという生き方をです、皆さんが本当に行じて見なさらなければいけん。それでも尚且つおごりがましい事があってはならないと言う生き方の中に、私はおごりがましいとはその反対の生き方をの中に、楽しさやら有難さを感じれる様な生き方を身に付けたらどうだろうかと今日はあの皆さんに聞いて頂いた訳ですね。

 それには先ず神様の御働きとか御物という事のです。尊い事大事な事を分らせて貰うて、一掬いの水の上にも心させてもらう。電気一つカチッと点ける前にです。これを点けんでも良い所になら、点けんですむおかげ。私はもう最近徹底その事を他の事はもう言うても何ですけれども、最近は電気の事を特に取分け喧しく申します。必要な所に点けるのは、どれだけ百燭光の電気を十点けても二十点けても構わん。

 それが本当に生きて来る事ならば。けれども点けんでもよか時に点けたり、使こうたりするという事は、私は信心させて頂く者の、それではもう姿勢をね崩しておるようなものであると私は思います。皆さんも一つ家庭に帰られて、こんな事がお粗末じゃなかろうか、御無礼じゃなかろうかと言う様な所を一つ、探して見てご覧なさい必ずある。そしてそれを大事にしていくという事がです、楽しゅうなる有り難うなるという所まで、おかげを頂かなきゃいけなません。

 道に草を生やす様な事をすなと。私共の繁盛の道というのは、それは本当言うたら本当の繁盛というのは、そりゃ大変な事なのだと。例えば二十年間の間に私共が椛目から、ここへこう繁盛してきた状態というものをです、皆さんが御覧になれば良い。それでもこの頃可笑しいぞと。昨日は今日今年学院に入ります方達が、博多教会で試験の前のまぁ前試験と言った様な事が、今日ございますので今日みんなあちらに参ります。

 それで一通りこう言う様な事は分かっておるか、こういう事は覚えておるかと言った様な事を私昨日みんな集まって貰って、話を聞いて貰ったりしたわけですけれど。その中にですね、あんた達は合楽で修行しよるが、合楽の信心のどこん所をあんた達は頂いておるかと、質問受けたらどう答えるかと私は申しました。公子さんが言うております。もうとにかくねとにかく私は、信心の動機というのが。

 ただあちらがお忙しいから、勝手の御用させて頂こうと、しばらく御用させて頂こうと思わせて頂いて勝手の御用をさせて頂いている内にですいわいる、奥様の信心に触れて来た。その奥様の信心の素晴らしさに、段々魅せられてきた。もう離れられんごとなって来た。しかも親先生が言われる、成り行きを大事にせろと言う事の素晴らしさを、段々分らせて頂いたと言う様な事を言うております。

 山田先生が言うておられます。とにかく私はもうその、繁々と合楽に通うてくる訳でないからね。熊本の支部長としてのおかげを頂いておられるのですから。けども来るたんべんにです。合楽の信心が足ろうて行かれるのに驚きますち言う。様々な事がですこれだけはおかげを頂くござるばってん、これだけは可笑しいちう所がないち言う、どれもこれもが一様に足ろうて育って行きよると言う事なんですよ。

 これはもう私共信心させて頂く者が、そこん所がどういう信心から、こういう足ろうたおかげになって行くかという事を思わせて貰う時にです。いよいよ合楽の信心にまぁ魅せられた、そしてわざわざ何十の教会を乗り越えて、熊本からわざわざ合楽に通うてくる訳は、そういう所であると言う風に言っておられます。まぁ一人一人が合楽の信心の言わば、その素晴らしい所をそのまま身につけて行こうとし、また身に付けて行きよる事なんです。私共はどうで、繁盛のおかげを頂きたい。

 その繁盛にはどうぞ今日商売が繁盛します様にだけではいけんて言う事が分かりましょうが。先ず今日私が申しました様な所を、身に付けて行かなければ。そこからです一が二になり二が四になると言う様な、繁盛のおかげを頂かなければならない。為には私が申しております事を皆さんが、本気で身につけられてどうでもよい真似させて頂く所から、成程有り難いものだな楽しいものだなと言う事を、体験させて頂かれながらです。

 愈々繁盛の道を愈々繁盛のおかげを頂きながら、歩かせて頂かなきゃならん。しかもその繁盛の道に草を生やす様な事をしてはならん。それには日々がです反省である。今日一日是でよかったであろうかと反省させて頂いて。引いたら足してみる足したら引いてみると言う様な、生き方を見に付けて行くという事がです、大事じゃないかとこう思います。八十四節はそう言う様な事を教えておられるのではなかろうかとこう、思ううですね。

   どうぞ。



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