昭和45年12月28日 朝の御理解



昭和45年12月28日 朝の御理解

御理解第7節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はや ることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおか げはやってある。」

 私は今朝、こういうお知らせを頂いた、そうですね、畳六枚ぐらいでしょう、それぐらいある大きな井戸、その井戸の縁が回っとる、中に車井戸がついている。ところが、その、井戸の縁がもう氷ついてしまっておる、これは、私北京におりましたから、あちらの井戸は冬になりますと、こう周囲に水を汲む時にこぼれますから、それがかたっぱし凍っていくんですよね、そんなように、井戸の縁が全部氷ついてしまっておる。そこに、一人の、なんというんですかね、托鉢僧ですね、托鉢させてもらう、まんじゅう笠をかぶったお坊さんがそこに立っておられて、井戸の所へ水を汲まれのかなあとこう思ったら、水を汲まれるふうでもない、(   ?   )そして、その縁に寄られないというのは、托鉢をして回るのに、前に、こう袋を下げておられますでしょう、あの袋にいっぱいお米かなんかが入っておる、いわゆる、こんなに前の袋がいっぱい、頭陀袋にいっぱいのお米、いわゆる、托鉢をして回られた、まあ報酬が入ってる訳です。

 ですから、うーん、それを外されたら、その井戸の縁にも行けようと思うけれど、前にもっておられる、その托鉢の袋がいっぱいなもんですから、井戸の縁に寄られないと言う、また寄ろうと思うても、氷で、氷でこう、まるっきり氷うたったように縁がこうすべすべして、側に行きにくいといったお知らせでした。

 私はそんな中から、( ? )ふうに思わせて頂いてから、思わせて頂いたんですけど。

 例えば、お道の信心で、信心のお題目と、まあ、思われ言われております、いわゆる、天地書付ですね、天地書付の中にある和賀心ということ、和の心と言う事、私は、この和の心を頂くということはね、え~、それこそ、大変有り難いことですね、心が和らぎ喜ぶ心、けれども、じゃそれに、その、和の心によって人間が幸せを感ずる、幸福を感ずる。けれども、賀の心、喜びの心、喜びの心を頂かなければ、お徳は受けられない、和の心、和の心があると、う~ん、いわば、幸福を感ずる事ができる。ね、すべての事柄の上にこの和が頂ける、人間関係だけではありません、自分の心の中に和がある、ね、いろんな問題でも、その和の心、いわゆる、その事柄と調和した心というものが、そこに、いうならば、腹も立たん、悔やみもせんでよいといったような心の状態がある訳ですから、幸福を感じます。けれども、賀の心を頂かなければお徳は受けられない、賀というのは喜び。ね。

 昨日、日田の綾部さんがお参りになってから、「先生、私が一番、改まらなんいかんところを一言、その、言うてください」といわれますから、まあ、神様にお願いをしてから、それを申させてもらいましたら、「ひどかですね、きつかですね」と言われる。ね。これは、「社会的な上にも、やっぱそげん改まらないかん…。まあ、社会的は別として、まあ、こと信心も、ことここという場合だけは、そういうような心がけになられるといいですな」と、あることのヒントを、まあ、与えた。

 「けども、それはまあ私にとっちゃ一番ひどいことだ」と言われます。ね、「打ち切るは難しされど妙賀かな」、ね。妙賀というのは、喜びの妙と言う、これは信心によらなければ頂けない。しかもです、しかもそれは改まる、このことを改まるという事は、もう大変な難しい事だと、けれどもね、やはり、信心の喜びが欲しい、喜びが頂きたいというならば、やはりそれを改まらないかん。

 それを打ち切るように、やはり自分の心から打ち取らなければいけない。そこにあるのが喜びの心、いわゆる妙賀である。喜びの妙。

 ですからね、ね、和の心と言うのは、例えば先日からね、お話がでておりました、秋永文男さんが腹を立てんというような修行をさせて頂くようになって、もうずいぶんなりましょうが、ね、これは、いわゆる、和の心。なら腹を立てん済むだけでも人間はやはり幸福ですね、いわゆる、和の心、どういう事とでも調和してる心。

 昨夜、私、お客さんがあってから、ちょっとお神酒を頂かなければならんことがあって、お神酒を頂いて、ことお神酒を頂くちょっと寝らにゃん癖がつきましてね。それから御祈念前まで休ませて頂いて、夜の御祈念出てこうと思って、まあ、起きて参りましたら、もうすでに御祈念の時間で、もう御祈念があっておるという時でした。ですから、仕方がないですから、神様にお詫びさせて頂いてお風呂へ入らせてもらった。

 お風呂へ入らせて頂いてから、まあ、いつものことですけど、まあ、いっぱい散らかしてある。お風呂はなんか、蓋はしちゃるけれども、斜めにこうして空いておる。もうそこに髪がいっぱい、あの、女の髪、非常に長い髪があっちこっち。まあ、昨日はとりわけ散らかっておった。シャンプーの髪はあっちこっちある、もう、私は、いつも蓋がおいてあるところはドロドロ。それから今度は、裸で温もりまして、裸で一生懸命お掃除をさせて頂いた。きれいに、もう心ゆくまでお掃除をさせて頂いた。散らかっているのは、きれいに取ってからゴミ箱の中に入れて、そして、だから、まあ、30分間済むのが、やはり、だから一時間かかった。

 ちょうど御祈念が済んで、「光橋先生にお風呂へ入ってください、もう私、今、お掃除をしたからきれ~いなっておるから気持ちがよかよ」って。ね、もうとにかく後から入られる人の為に、お風呂をきれいにきちっとして、しかも、お湯もちょうど、私には少し熱いぐらいなお湯を、後からの人の為に入れて。そのことがですね、「まあ、どうした、ほんにろくそなか(だらしない)奴どんじゃろか」とは、一つも思わなかった。

 もう、それば、させて頂きよるということが、とにかく有り難い、という訳です。これはその事と私が調和しておったわけです。ね、もうほんなこて、もうどうして、ろくそなか入り方をするんじゃろうかと、蓋でんなんでんこげんなんふうにしてから、散らかってから、髪でんなんでん、こう、もうきたかなって、本当に、ここんにきゃ、もう掃除はしよらんとじゃろうかと、いうようにドロドロしよる。もうタワ、タワシそのものが、あつこうたらドロドロしよる。ところが、一つも、自分の心を汚すどころが、そうやってさせて頂きよるということが、ほんとの有り難かった。ね。

 これは、いわゆる、私の心の中に和があったからです。心が調和、その事と調和したわけです。ですから、やはり、幸福ですね。どうして奴じゃろか、どうしたこっちゃろうかと言うところには、その人の幸福はありません。けれども、それをそうさせて頂くということが有り難い。後から入ったもんが気持ちがよかろうとこう思うだけでも、心の中に有り難いものが頂ける、ね。これは、和の心、けれども、賀の心、喜びの心というのはそれでは頂けない。

 私が昨日、私の信心が乱れておる、お風呂はいわば極楽というところ、その極楽がドロドロしとるようなところがあったり、髪がちらかっとったり、こう、不潔な感じがそこにあるとするなら、極楽がもう極楽でないことになる。そこでです、お風呂場がそういうふうに乱れておったという事の中にです、ただ、勿論それはお掃除をさせて頂こうがね、そのお風呂が、その余分に乱れておったという所に、私の信心が乱れておったと気付かせて頂いておったら、賀が頂けれる。喜びを頂ける。

 例えば、夜の御祈念を奉仕させて頂くことを分かっておるのに、お神酒を頂き過ぎておったり、寝ておったり、もう起きた時には、もうすでに、御祈念が始まっておったり。いうなら、夕べの私の信心が、そこに乱れておった姿が、そのまま、まあ、皆さん、風呂場がそんなに不潔にしとるといってから、そんな、いつもじゃないですよ、いつもきれいにしておる。夕べは汚くしておった。

 そこでですね、はぁー、本当に神様っちゃ間違いないな、私がちょっと乱れておったら、もう、風呂場このように乱れておる、という頂き方なんです。そこにです、改まるという、はぁー、こんな事では神様に対して相すまんと、改まることになり、それがお詫びの印にお掃除になり、これからこのような乱れた事があってはならんと心に改まるところからです、それこそ、「打ち切るは難しされど妙賀かな」です。

 いわゆる、綾部さんに申しましたようにです、「それはひどか」と言われましたがね。親先生一言云うて下さいと云うたから、私は言うたけれど、「けれども、それはちょっとひどいことだ、けれども、はい分かりました」というて、ご自身そんなことに決心されたようなものでございました。けれどもね、その事が打ち切られ、打ち取られたならば、改まらならば、それはもう、心の底から湧いてくる喜びなのです。いわゆる、妙賀なのです。

 信心の喜びと言うても、おかげを頂いて喜ぶのも喜び。けれどもね、これはね、いわゆる、法悦と申しましょうかね。その法悦ということ、いわゆる、信心の喜びと言うこと。信心の喜びと言うのはただ拝みよるから、信心させて頂きよる者の幸せを感じる、信心させて頂いてお願いをしておかげを頂くから有り難い、というのではなくて、そのもう一つ奥にある、そこにある喜び。

 これは、ね、難しい、けれども、その法悦に浸りたい、それは難しい、けれども妙賀に触れたい、打ち切るは難しいけれども、その妙賀に触れたい心は、それよりももっと切であるというような所にです、賀が頂けれる。賀というのは喜びですね。和賀心の賀である。

 和の心、これが頂けるということ。それは、例えば私のお風呂の中での、夕べのそれは、私のそれは和であった。だから、そこに散らかっておろうが汚かったろうが、そこに調和したものがあった。そこに、人間の幸福はある。それは自分の心が和だからである、和らいでおったからである。

 けれども、なら賀の心は、それでは頂けない。いわゆる、賀正の賀である。心の底から、いわゆる法悦である、法の水というなことを申しますね、法というのは法則の法というのを書いてありますかね、信心によって頂くお恵みと言う意味なのです。

 私が、ね、今日お知らせに頂いた、その大きな井戸、その中にはね、おそらくこれが500年前、1000年前には仏教、現在の仏教、ね、そういう法の喜びにひったておった行者がたくさんあっただろう、また、その則水を汲み取ることのできれるおかげを頂いておったことであろう、ところが、なら現在の仏教から、これは仏教ではありません、もう既成宗教というかね、いわば、大きな大宗教といわれるほどしの宗教ほど、いわば、和の心ということにおいては、今でもやはり、宗教の持つ和をやはり説いてもおるし、なかなかやっぱり宗教家であれば宗教しておる人は和を尊びます、ね、キリスト教あたりでも、あれは事前事業のような事を致しますね、あれは和がなかなければ出来ることではありません、けれども賀の心がない、喜びの心がない、ね、私が、なら金光教だけはあるかというと、なら金光教だって、今ここに考え付かなければ、ただ和だけの金光教になったらもうおしまいだと、ね、和の心賀の心と言うものが頂けて始めておかげを頂く、為にはです、ね、金光教もいわばもう百年、百十年からの、まだ他の宗教にひたすればそれは若いですけれども、まあ、たった百十年ぐらいで、すでにです、和の心は尊重されておるけれども、賀の心というものを失いないつつあるということなのです。ね、和の心で幸福を頂くなら、賀の心を頂かなければお徳は頂けない、ね、その賀の心を頂くためにはです、いわゆる、打ち切る心、ね、まあそれを分かりやすう、なら私は夕べのお風呂のことで申しました。私はただ和の心でそのちらかっておった、(  ?  )したことも、別にそれをなんとも感じなかった、ただ、それをこうやってきれいにお掃除をさせて頂く事が有り難かった、けれども、そこんところにです、ね、今私がお風呂に入ろうとしたらこのようなろくそうなお風呂に入らなければならないということ、風呂のそこに乱れておるということ、これは、私の信心が乱れておったんだと気付かせて頂いてです、その乱れを正していこうという、いわば、改まり、その向こうにあるのが賀の心、喜びの心、ね、則の水、例えていうとその井戸の中にはです、則の水がいっぱいあるのである、けれどもそれを(  ?  )としない、それはなぜかと、第一その氷を割ってその井戸の側に近づこうとするそういう修行の心がなくなっておる、同時に、ね、(    ?    )貰いもんがあんまり多かもんじゃからよりつかぬ、ね、いうならばです、もうとにかく仏様のほうは向かず、神様の方はむかずにです、いわゆる、信者のほうばっかりに向いておる、信者に寄進勧化をさせることばっかりに一生懸命(   ?    )。

 先日、私はこういう話を聞いたある先生から、この頃、いわば、お金の用事がなくなった、それに信者はもういつも100円、ちょいとなんかちっとも1000円、そんなことじゃ立ち行かん、これはもうどうでん信者にもうちっとお供えばさせちから、そのことを信者にお供えをさせるということは信者もおかげを頂く事だから、例えばお祭りなんか仕えたら、やっぱり、その、祭主をするなら2万ぐらいは、その、もらわにゃいかんちいうことば教えにゃいかん、他の先生でん1万円ぐらい包まにゃいかん、今時の金の値打ちなかつば1千円どん5百円どんもらったっちゃどんこん出来ん、信者にそういう教育をしなければいけないという話を私は横から聞かせて頂いてから、まあ、いろいろ考えさせられた、なるほどですね、お供えのさせ上手というか、無理でんいうちからさすんなら、やはり、お供えをしたものをおかげ頂きますね、ばってん、先生自身がおかげ頂かんじゃない、どうでしょうか、ね、いわゆる、その、もらい、その、寄進勧化、いわゆる、信者に言うてからあげさせることばっかり、いわゆる、前に下げておる所のこのずだぶくろにあんまりお米が入り過ぎとるけん(  ?  )、ね、だから、これをね、下ろして、自分のもっておるすべてのものを、いわば、空しゅう、空しゅうするということは、いわゆる、神様の御物なら神様の御物と頂いたらです、ね、そして、そこに修行、その交流があって側に近づかせ頂く気にならせて頂いたです、井戸の側によれる、寄ることができる、そして、則の水を汲み取ることが出来る、けれども、もう(   ?    )もうこなもんじゃから、中はもうよどんでしまって腐ったごたる水しか入っとらんであろうというのが、私は大きな、いわゆる、大きなというか、既成宗教の私は宗教だと思いますね、ね、それが汲んで汲んでくみ上げられてですね、すればまた下からそういう立派な水が沸いてきましょうが、けれども現在の所では大宗教に求めると言う事はそれは至難な事だと私さえ思いますね。自分の見極め、神様の方は、仏様の方は見らずに、信者の方の顔色ばっかり見とる、そしてどげんしてあげさせるばっかり考えとる、だからそれもです、なら金光教の信心だって、私が先日聞かせて頂いたようなです、信者にお供えさせきる先生が偉いといったような、なるほど信者は一生懸命にお供えをするから助かるかもしれませんけれども、それでは先生が助かりようがない、いうなら、和の心があっても賀の心が生まれない、ね、お供えが少ないなら自分自身が、ね、それがとしかない自分であると言う事を悟らせてもろうて自分が精進する気にならせて頂きゃ、ね、おかげが頂けれる、ね、どのようなおかげでも、いわゆる、オールマイティーである。

 私は今日皆さんにそこを分かって頂きたいのはね、いわゆる、その、本当に和の心だけではなるほど幸福は感ずることは出来ましょう、どんな中にあっても、ですから、その貧乏をしておってもですよ、和の心があればその貧乏と調和する、はぁー有り難い、ね、それでも有り難い、けれどもね、人間はやはり賀の心を頂かなければね、いわゆる、限りないおかげ、先日、私が「贅沢はすれどひがはせんと」、もう贅沢が出来ない、まあ贅沢が出来ないと言うとちょっと聞こえが悪いのですけれども、ね、いうなら、限りない神様のお恵みに接することが出来ない、神様のおかげを頂く事が出来ない、ね、それは徳を受けなければ出来ることじゃない、徳を受けると言う事はその賀の心、だから賀の心を頂くためにはそのことを通してです、そのことと調和するだけではなくて、そのことを通して例えば風呂の乱れを自分の乱れと悟らせてもろうてそこん所を改めるという生き方なのです。ね。

 今日の御理解はもう大変、もうお互い信、信仰、宗教させて頂く者がね、どうしても金光様のご信心させて頂くならどうでもそこん所を一つ知っておかなければいけない事を私は申しましたです。ね。

 仏教なら仏教の教えによればね、和の心は生まれるです、やはり。ね、けれどもね、ねその、則の水を巣くう事は出来ない、または巣くうてもそれは今は腐ったような水である、ね、法悦、その氷を割ってでもというな修行精神がない限りです、ね、自分の心、自分の在り方の中からここんところを一つ切り取ってしまえばね、大変それはきつい事かもしれないけれども、それを切らなければ妙賀に触れないというならば、その妙賀に憧れておるならばです、やはりそれを切り捨ててでも、やはり妙賀に触れたい、いわゆる、法悦に浴したい、そこにね、和の心があり、賀の心があり、いわゆる和賀心、おかげは和賀心にありというのは、ここでいうおかげと言うのはそういうね、一切のおかげが含まれておる所のおかげなのです、和賀心にはそのような素晴らしいおかげです。

 そこで、和の心は腹を立てん、ざあっと決めただけでも心の中には和が頂けれるだけではない、賀の心を頂くためには例えば私が申しましたようなことを、そこで、今日私がこの御理解七節を頂いて、ね、このことの説明を一つもしませんでしたから、私がお知らせを頂いたことを皆さんに聞いていただいた訳ですけれどもです、ね。

 私共はこの天地金乃神様が途中から出来た神とも思うていないし、ですから、天地は流行ることなければ、いわば、ね、終わりもなしと、けれども、私共がね、ただ和の心だけに依存するような宗教であったら、ね、終わりはなかろうけれども、終わりを見るような結果しか生まれてこない、私が今日お夢の中に頂いたそれである。ね。

 信心、本来の信心私は救いと言うかね、それは、宗教の持つ一番大事なもの、宗教によらなければ頂けないもの、それはお徳である、ね、いわば、法の持つ内容、教えの持つ内容、そこから頂けれる喜び、いわゆる法悦、ね、それに触れるためには、いわゆる賀の心を頂かなければ頂けれることではない、いわば、今の宗教の、まあ、すべてと言うていいのではないでしょうか、なるほど、和の心ではある、和の心は非常に追求される、または、和の心を頂くための精進もなされる、ね、おかげは和賀心にあると言うのが看板である所の金光教の信心に於いては、やはり、その和の心はやはり頂けておるけれども、賀の心がない、それには氷を割ってでもそれに近づこうとする所の意欲がなくなってきたからである、ね。

 それは難しい、それは打ち切ることは難しいけれども、本当の喜び、いわゆる、妙賀に触れる事の、いやば、動燃心といったようなものかけておる、ね、そこの、例えば法悦が、妙賀が得られるならばどんな修行でも、どんな改まりでもさせて頂きますといったような、いわば、姿勢が、いうなら、今のお道の信心の中にも大変気迫になっておるというような感じが致します。ね、でないと和賀心にはなってこない、そこでです、私共がね、天地日月の心になること肝要と仰せられるます。

 先日からもうしますように、ね、いうならば天地ほど大きなものはありません、ね、その天地ほどしの大きな心、また、日月ほど正確なものはありません、その正確な、いわゆる、実意丁寧な信心をさせて頂いて、ね、大きな心を頂かなきゃならない、その事がです、天地日月の心がです、今日私が申しましたような和の心、賀の心というものをです、求めのそれじゃなからなければならないということなんです。ね。

 天地日月の心になると、なることを肝要だと、その内容が、今日私がお知らせを受けたようなです、内容をもって天地日月の心になることを肝要と言うことになってこないと、ね、いわゆる、オールマイティー的なおかげになってこないと思うんです。そこん所を頂くために、ね、私共はどうもこの和の心、賀の心をね、いっしゅんたくりんにしておるような感じがする。ね。だから、その和の心と賀の心を私はもうぜんぜん違ったものとして聞いた頂いた、ね。

 おかげは和賀心にあり、今日いう、私がおかげというのは、ね、大きなおかげの事、いうならば、お徳を受けると言う事、いわゆる、万能であると、いわゆる、オールマイティーである、ね、そういうおかげを頂くための今日は御理解だったと思います。そういうおかげを頂くために、私共が一つ、和の心、賀の心をもういっぺん今日の御理解に基づいて検討してみて、本気で、一つ妙賀に触れさせて頂けれるおかげ、ね、金光教の信心でもこのままほっておくなら、ちょうどその法の水を汲み取る人がなくなって、いうならまた腐敗した水になってしまうでしょう、ね、私共が氷を割る、修行、そういう精進を惜しんではならない、そして、前に下げておる、ね、ただ、我情我欲でそこに側によれないといったようなことであってはならない、そして、汲んだ上にも汲み上げていく、汲めば汲むほど新たな良い水が頂かれる、それを私は則の水というふうに申しました、そういう私はおかげを頂いていかなければね、金光大神の道もやはり流行ることもなかなければ終わりもないと仰せられるけれどもね、やはり終わりに近づくというふうな急無念を私は持つものです。どうぞ。



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