昭和45年9月13日 13日会前のお話
(この御理解に続き13日会の御理解と・13日会のルーツについて解説がある。)
願われておる私達。または願っておる、いや願ってやまない、願わずにはおれないその願いと、願われておるそれとが一つになった時にそこから本当のおかげが生まれて来ると。願われておる私達。ね。天地の親神様が教祖金光大神を通して、どうぞ、氏子信心しておかげを、受けてくれよと。その、おかげのことというのは身の上の事、万事万端の上に、それは牛馬の事にいたるまで、とおっしゃる。
それを、実意をもって願えと。私どもが、ここを頂かなければしあわせになれない、幸せになるためにはどうでもここのんところを頂かねばならないと。問題はその、幸せなの。神さまが願って止みなさらん、願われておるというのは私共の幸福であり、幸せなのだ。もう他には何んにもない。天地の親神様の願いは氏子の幸せなのである。そこで私達がです、それは牛馬のことにいたるまで私共の幸せに繋がることであるならば、実意を持って願えとこう仰る。
そのところをですね、私共分からせてもらわなければいけん。ですから、これを頂かねば幸せになれない、不健康の物であったなあらならば健康をここに頂かねばです幸せになれない。ここにお金がこれだけなからなければどうしても幸せになれないなら、もう、幸せになれないという、それではね、神様は喜んでくださらない。それが幸せになるものであるならば、神様が必ずおかげを下さる。何故って、神様が氏子幸せになってくれよと願っておられるのであるから。そうでしょう。ね。
ただしです、その願っておる事がです、願っておる事が、私共の本当の幸せに繋がらないような、私は願いであったり、おかげであったり、ならば神様は、下されるにしてもそれは、悲しい、おかげの渡し方でおありにあるだろう。私共も頂いて、かえって、難儀と言う事にもなりかねないのですよね。ある人が、息子さんのお願いをなさった。もう医者は難しいという。ね。
それでも、家族上げて一心の願いでおかげで助かった。助かったところが、その息子さんが、不良仲間に入って、もうとんでもない事をしでかした。そのときにそのお父さんがお参りをして曰く、先生あの時に、助けてもらわんほうが良かったちおっしゃる。そういうおかげをね、私共が幸せと思っておる様な場合もある。そこが人間なんです。どうぞと例えば、経済のお繰り合わせを願うた。
お繰り合わせを頂いた、けれどもそのおかげがかえって、財産が恨めしいというような事に迄なりかねないのが、私共の私どもが思うておる、云うならおかげなのです。ですからそのおかげの検討というものが、なされた上にもなさらなければならない。ね。私共は二十年かかってそこのところを、まあ、二十何年でしょうか、椛目からそして合楽へかけて、その事を一生懸命取り組んできたのでございます。
今朝から、朝の御祈念の後に奉仕、日曜ですから、奉委員の方達の、御祈念がありました、その後に頂きます御理解の中に私どもがどうでもおかげを頂きたい。と神様に盛んにいわゆる私共の願いを打ち向けていった。それには神様に、いわば神様にこちらをむいてもらわなければいけない。どうぞ、どうぞ神様と言うて、言うなら、神様にですね、まあお願いをしたり、いたしてまいりましたけれども、神様はいうならこちらの方を向いてはくださらなかったという感じであった。
教祖様がだんだん御信心をお進めになられて一番初めに神様から頂かれた、御神格というのは、拍手神文と、(パンパン)とこう拍手をされますと神様が教祖様の方をおむきになって自分の心の扉を開かれたというのである。私共も盛んに拍手をして、神様どうぞどうぞとこちらを向いてもらいたいと思うたけれども神様が見向こうともされなかった。どういうことを願うかと。どういうことをここちらどん向きよったらどげなこと願われるじゃ分からんと思いになさったのでしょうね。神様はきっと。
そこで私共はどういう事を言うて来たかたと、是は合楽の合言葉の様に、とにかくおかげを頂けれるのは私共にね、いわゆる和賀心がないからだ。為には一つ本気でお互い限りなく美しゅうなろうやと。これは合楽の合言葉の様に言われて来た。限りなく美しゅうなろうと。問題がある難儀がそこに感じる。もう本気で美しゅうなろうとして、方向をそちらへ向けたが最後、問題はもうそこで解決をしておるのである。
問題があるということはね、これが汚かったり浅ましかったりするから問題がそこにあるのであってこちらが、本気で美しゅうなる事に、心を定めさせてもろうたら、もう問題はなくなっておった。ね。限りなく美しゅうなろう。もうより豊かにより大きゅう、よりにこやかに明るくと言った様な事に、焦点をおいて、いうなら二十年間一生懸命。もうその頃にはね、おかげの事などを言う事は。
もうちょっと信心の程度が低いぞと思われはせんかと言う位に、お願いと言う事については、云うなら皆んがいうなら慎んできたんです。ね。もうとにかく限りなく美しゅうなろう。限りなく美しゅうなろう。おかげは和賀心にあると仰せられるから、和賀心になることこれが先決。そこには期せずして頼まんでも神様はおかげを下さるんだと、それを信じていうならば信心の稽古をして来た。
神様はこっちを向いてくださいと言う事ではなか。今日私その(特別奉仕のお礼をさせて頂いておりましたらね、もう十年くらいまえでしょうかね、ダッコちゃんというおもちゃが流行ったことがあるでしょう。真っ黒いあの土人の子供お人形さんが。何処にでもちょとだっこ出来れる。あのウインクちゃんともいうですね。ね、その真っ黒いそのウインクちゃんを御心眼に頂くんですよ。これがね、私共が始めの間神様に例えばウインクをしておる。ところが神様のほうは知らん顔をしてござった。
とそこで色の黒い私であったと。自覚が出来てきた真っ黒い自分の心と言うものを自覚してきた。成る程、これじゃ神様がこっちを向いて下さらんはずだと云うので一つ本気で、限りなく美しくなろうじゃないかというようにです、もう限りなく美しゅうなるようにもう本気で焦点をおいてきた。そうでしたよね、皆さん。また本当にその気になったら、問題はその場で解消しましたよね。
どういう人間関係で難しい問題であろうがです、本当にあちらが悪いのではないこちらが悪かったと気がついてこちらの汚さがそういうことになっておるのだと、こちらが限りなく美しゅうならせて頂くそれを材料とおもうようになったら、もうそこには難儀と言うものは解消して、おるくらいにおかげを頂いてきた。ところがね、今度は限りなく美しゅうなろうとしたいわばいよいよ豊かに大きく、ね。
より明るく大きゅうなろうと一生懸命努めさせて頂いてきた。そして二十年間なら自分がどれほどに美しゅうなったかと言う事である。どれほど大きゅうなったか豊かになったかと言う事である。相変らず一っつも変わり映えのない自分を発見した。もうそれで、こりゃ自分はおかげを受けられんのじゃなかろうかと、へきへきするほどしに、感ずるものは感じてきた。ね。
ところがその頃から、今度はね神様がね私共のほうへ周波をおくって下さる様な、いわば情勢になってきた。皆さん周波という意味は分かるでしょうね。いわゆる神様が私共にですねモウションを掛けて下さる事になってきたというのある。あんまりに美すうなろう美しゅなろう、和賀心和賀心とばっかり言うてから、本当の願いをしない。荷物だけ行く様に馬は萱の陰。ね、荷物だけ行く様に馬は萱の陰、ね。
丁度山頂あたり、山の遠いあたりの道を、もう夏草がこうしこっております。そこを馬が荷物を背中にのせて下っておる姿でしょうね。本当に荷物だけがいっておるようにある。道が低いから、けれども実際は馬はその、萱のかげに隠れておるんだというね、いうならば私共はね、もう、心の底の底にはね、ああもありたいこげんあったらなおよかろうというね、思いを何時ももっておるのだと。
けれどもそれはね、隠してあった。それがね赤裸々に出されなければならない、いや出されなければかえって神様に相済まん。かえって御無礼になるということになって来た。ね。例えば出来んなりにも二十年間、私共がねもう限りなく美しゅうなろうじゃないかと。ね。もう本当に確かにおかげは和賀心にあるんだから本気で和賀心になる事の修行をあらゆる角度からさせて頂いた。
そしてその上にたったおかげでなからなければ、おかげがこれは、砂上に楼閣のようなものだと。私どもが分かってきた。それが分かってきだしたら今度は、神様が私共に周波を送って下さる事になってきた。どんなに私共がモウションをかけても、どんなに神様が私共にウインクをしても、神様は見向うともされなかったけれども、神様は段々私共のほうを、向いて私共が本気で拍手をするならば神様も本気で神さまのお扉を開いて下さろうというような所になって来た。
最近言われておる、所謂願へと言う事であるね。願いの本質。又は願うと言う事をどのように神様が待ち望んでござったことかという事であるね。またそれを聞き届け下さり、そのおかげを私共が受けた時に、神様も喜んで下さり私共も喜びいうならば、本当の意味においての合楽、神も喜び私共も喜べれる様なおかげという、おかげの実現がです、間近に感じられるという時代に合楽はなって来たというのですよ。ね。
願われておる私達。又は願いをもっておる私達、その願われておる神様の願いと私共が願ってやまない願いとが一つになった時に、そこから一つになって生まれてくるもの、今までおかげを受けたと云うてもひとつになってのおかげでなかった。ね。いわゆる願われておられる神様のお心と願うものとの心とが一つになって一つに合体して、そこから生みなされてくるおかげ。これが合楽的おかげなのだ。
今日は私はね神様の願いが成就する年、日として、大事にされる十三日会にですね、その神様が願っておられる、願われておる私達。ならば私達にどのような事を願っておるのであろうかと一人ひとりがわからせてもらわなければならない。一人ひとりに違うだろう。神様の願いというものは。それを願われておるという事はどういうことであろうかと分からせてもらうときに私共の願いははっきりして来る、はっきりして来たら、その願いをですいうならば、どうでもという願いの元にです、私どもが願いに徹しさせてもろうて、おかげを受けていこう。ね。
私共がどんなに神様に拍手をしても、向こうを向いてござった神様が私共の方を向いて下さろうということになってきたのである。そこで私共の拍手一つでですね、神様が自分の心を吐露してくださる。一人ひとりの上にその私の思い私の願いというものを、向けてくださる。その願いを受けて私どもが願っていくということになるときに完璧な願いというのはそのような願いである。そこにはね、人間が本当に幸福になって行く道がはっきりしてくるのである。ね。
私共が是を頂かなければ幸福になれない。是をもう一つもらわなければ幸福になはれないならばもう絶対に神様はおかげを下さるという事です。だからそこの所を私共は一人ひとり極めていこう。そして一人ひとりがそこの所を願いとして行こう。ただ願っただけではいけん。その願いがねこの、7月からでしたか、合楽の信心の焦点というのが、あの短冊形ので皆さんの手元にも配られておるでしょう。ね。
7月の焦点が祈り、祈念力をつくろうということでしたかね、修行月ということでありましたね。その、修行によって祈念力を作ろうと。ね。それから、8月が願いに徹するということであったですね。今から思うて見ると成る程です、私どもが願わなければならないと言う事は、祈念力をつくらなければならない。私共の思いを神様に本当に聞き届けて頂くためには、祈念力。願った上にも願い、祈った上にも祈り。
神様が本当にこう聞いて下さったと思えるところまでの祈念力をつくろうと、成る程7月からそういう御準備があっておったという感じがする。成る程願いに徹しようということをもうすでに8月にあのような形で教えられておったと。その願いは願われておる願いでなからなければならないと言う事。ね。それは氏子一人一人がしあわせになってくれよ幸福なってくれよという願いである。
そんなら私に今、これがなからなければ幸福にはなれないと言うものを一つ把握しなければ、分からなければならない。分かったならそのことをいわゆる、祈念力をもって、一つ神様に願っていく。今月が全ての事を有り難うございますと受けていけれる信心。これは全ての事というのは、全てのもの一切の事柄、ね、それを有難く受けていけれる私にならせて頂く願い、これはまあ、願いの最高のものであろう。ね。
そういう願いをね一つね、お互い願いとして一ついよいよ、しん合楽にかけられる神願成就と申しましょうかね、合楽に掛けられる神願が成就して、そしてそれが世界中にそういう願いがね、願われまたは願いそういう世界が顕現されてい来る事を私共の是からの願いとしていかなければならない、そういう手本そお云う見本と言う様なものをです、先ず私どもが頂かせてもらわなければならないと言う事になります。
今日の共励会、又は今日のお話し合いには、そういう一つの願いのまだスッキリしていない人が沢山あるようです。今までは願わんでもおかげを頂くということでしたからね、それを願えということになってきたのから、その願いにいわば戸惑うておるというような形です。毎日毎日が。ですからそういうところをはっきりさせる話し合いを、して、進めて下さったらあり難い事であろうとこう思います。
どうぞ、よろしゅうお願いいたします。
(13日会のお話)
とてもあの、私ここ十日あまり説いてきたことはね、今ここで、また話せといったってとてもとても難しい。けれどもね、だから、そういう、こちらがお話をしておるうちにね、それが一つ一つ出て来るだろうと思う。問題は今の御理解のね、あの、願われておるということよ。願い、願われておる私達。私はね、あの、例えば、椛目合楽を通してから、私共の信心がどのような経路をたどって信心を進めてきたかという事がですね、あの、願われて神様に願われておった私達。
そこでねそこん所をね、皆さんが一つ検討して頂かにゃ、願われておると言う事は銘々でいいですよ。私には神様がどういう事を願っておられただろうかという事を一つ思うてみて下さったらいいんですよ。ですからあの私に神様が願うておって下さった事、是をんなら、合楽全体でいうとです、ね、どう言う事かというと今申します、一つ本気で限りなく美しゅうなろうやという今でも同じですけれども合楽の合言葉です。ね。
あのどんなに込み入ったコンガラガッタ例えば、私ちょうど真正面に、綾部さんにが座って居られるから、綾部さんを例にとって云うならです。昨日、一昨日そりゃもう絶対人間的には許されない問題が起きたので御座いますよ。お店の中に店員さんの事にね。所がですねその例えば問題がですね、いうなら言葉ちょっとその時私申しました事は分かりますけれども、あの限りなくこちらが美しゅうならせて頂くことに成ったらね、その問題は問題が問題じゃなくなってるんですね。
今日聞いてみると。ん。と言う様に私共は限りなく美しゅうならせて頂く事に一生懸命取り組んで来たんですよね。だから神様が私に共願うて下さった第一は、先ず美しくなれと言う事だった訳ですよ。ね、願われておったと。ね。それからそのどういう事だったでしょうかね。願われておったと。そこでんなら限りなく美しゅうなる為にはと、私達は工夫を凝らしたわけです。ね。
皆さんが例えばそれに取り組んで来た人、取り組まないで20年間安閑としてやって来た人もです、もうここでは取り組んで来た者として、一つ考えて貰いたいですね。それに取り組むと言う事になったらですね、まず自分がね所謂何十年間所謂、もう、是に焦げ付く様にしてついておる、所謂垢というかね、改まりという事ですから。ね。所謂先ず垢を落とさなければ美しゅうなれないという事が分かった。
そして垢はまだおてとらんですよ本当はね。けれども垢を落とさなければならないと言う事が分かった。信心は日々の改まりが第一だと言う事が、成る程教祖が仰る第一と仰る意味が分かった。そして次に分かった事はね、なら垢を落としただけではいかん。信心は日々の改まりが第一であると同時に信心は本心の玉を磨くものぞやと云われて居る事がわかって来た。本心の玉を磨く。ね。
いうならば垢を落として磨きをかけるという事なんです。ね。そう言う事にも倒れ転びしながら取り組んで来た。そこから時々ではあるけれども、まあ顔をのぞかせて感じさせて頂いた事はね和賀心というものである。和らぎ喜ぶ心というである。ね。だからいかに和らぎ喜ぶ心というものがね、改なければ磨かなければ和らぎ喜ぶ心は生まれないかという事が、二十年間の信心の稽古を一生懸命させて頂いて、そういう結論に達した。
だから私はこの合楽の信心が今、素晴らしいと思わせて頂く事はですね、その神様に願われておる事がね、まあある意味ではあらゆる角度から、その私共がかく願われておるんだという事が分かったと言う事なんです。実は分かっていない人があるかも知れません。けれども、まあ分かった事になっておるです今では。どうでしょうかね。皆さんそこはそれを私に願われておるという事を実感できなければいけんです。又私共も本気でそれに、応えようという心ができなければ駄目なんです。出来るできんは別としてです。
(若先生 そこん所が一線上に並びなさいと言われるのはそこなんですか・・)
一線上に出れというのはそこです。だからなら二十年間改まることに勤めませんでした、あの磨く事にもそげん努めはしませんでした。一生懸命参っては来ました。お願いはしました、おかげも頂いて来ました。けれどもね頂いて来たおかげは、本当のおかげでは決してないという事なんです。ね。今日、正輝さん来てないの?今日、出て来る様に言うとったばって旦那さん。だから皆さんねあのう願われておるという事は、そこを神様が切実に願うておられるという事なんですよ。ね。
ですからそこが分からん所ばちょっと手を挙げて先には進まれない。ね。例えば合楽に御神縁を頂いておる皆さんにです、神様がどうぞまあ、分かりやすくいうならば合楽の信者一人一人助かって下さいよ、幸せになって下さいよというて言わば願おうておるわけなんです。ね。その願ってござるという事がね二十年間、ね、目に始めてね願われておるという事が気付いたという事が分かった。私は願われておる。
ならどういう事を神様は願われて来て下さったかというとです、なら私共が願う本当の事はおかげにならなくてもです、ね、その周辺の事、昨日か一昨日の御理解の中にもあった様にね、合楽に是だけ沢山の御信者がおるがもうとにかく、お医者さんに手を握って貰おうとか、薬を飲むと言うほどしの、先ず無かったという事です。これだけでも考えてみるとね不思議で不思議でたまらん位のおかげであったという事です。
私だん健康の事はいっちょん願いよらんじゃった、お金の事ばっかり願っていたという人でも、お金の願うた事はおかげにならんなら、もう考えてみると家族中のものが今日まで健康であった事に驚くばかりです。それこそずうとと皆さんが3年間医者に掛らなかったから、町からご褒美を受けたかたが沢山おるという事です合楽に。第一、薬箱、薬袋というものが、合楽の信者さんのお宅から。
段々かげを無くしていっておると言う事。そういう例えばまだ他にも色々ありましょうけれども、願わずに信心しておるけん、是はおかげを受けておると思われる程しのおかげはまあ、目をつぶって思うてみると、感じられる事なんだ。けれども自分の願いと言う事にはその日暮らし的なおかげは頂いて来たですね。一日だけ食べなかったと言う事はなかったし、さあ手形が落ちなかったから倒産した。と。
言う所もいっちょもなかったと言う事。さあ先生というて飛び込んでくれば、もう本当にその事だけならきちっとおかげを受けて来たという事なんだ。だからそう言う事に掛けては非常にその、技術的にうまくなった訳なんですね。合楽のご信者さん方は。そう云う愈々の時におかげを受けるこつ合いと言う様なものを、色んな面からあのまあ研究して来た。ね。そうして例えて申しますと、本年私が に入って申しております様に。
とにかく和賀心という事ですね。その和賀心というのが、世界の言わば市場に出されなければならない、為に合楽が和賀心時代とか、和賀心運動を一大転回させて頂こうと言う風に一生懸命今日まで言うて来たわけなんです。そう云う事も願われてそういう気分になって来た訳です。ね。そしてね例えばなら今私が申しました事が、こりゃもうなべてね、そこまでは皆さんが頂いておって下さらなければいけないのですよですから。
二十年間例えば改まる事に努めて来た、磨く事に努めて来た、神様の願いに出来んなりにもそうて来たと言う事にならなければならないのですよ。ね。その一線上に並んで下さらなければ次の願いと言う事に本当の事にならない、自分はまだ一年しかお参りしとらんけんまだ、自分は半年じゃけんというてもです、ね、だから今私が言う事を分かって下さればいいのです。神様が私共に願ってしかも願われて来た私という事がです・・・
(若先生 そこの所が合楽の人たちはですね、(?)しておられるんじゃないでしょう、例えば難儀にぶつかる。そしたら神様が何を分かれと仰るのか、どういうご都合だろうかと、ぽっとこうすぐ、ここの所に直視出来るでしょう。だからそこの所に並んでおられると思うのですよね、だからそこの所を難しく言うて頂くとですね、その願いというものが、非常にあのややこしくなって来るんです。)
いやそればってんさ、ならそういう風な頂き方をして来た人もあればなら、是だけ沢山の中には、まだして来ていない人もあるけんで、その人達も、漏れてはならないと思うから、最近ね私達の所に集まって来る茶碗、昨日ご飯茶碗がお供え頂いた。そしたらその御飯茶碗が網目なんですよ。模様が。その前の前の日に頂いた、お湯飲み茶碗が矢張り、網目なんですよ。
またこの万博に行かれた方がお土産に見事な、清水焼を持って来た。それもやっぱり網目なんです。これは可笑しいないわば清水焼に四国のなんとか民芸品なのです、昨日頂いたのはとにかく茶飲み茶碗は伊万里焼きなんですね。それがもうみんな網目なんです。同じ。それで是は私の信心が目が荒うなったけんじゃろうと私が思いよったです。そしたら横におった誰かが、それは高橋さんだったか、はぁ親先生そげな事じゃなかですよち。これはもうその、網で一網打尽にこうね、ね、網を作ってそして、これからつん漏る事があったれ先生かもいなさらんがよかですよという事じゃた。(笑)
いやいやけれども本当是は笑い事じゃないです、こりゃ必ずですね、教祖様が仰る様に、例えば周期的にねある事は、あのお錆替えというのがある事です。お錆替えと言うのは、昔こう錆びると言うこ実ですね。実は後に残って殻は飛んでしまうと云うのです。そういうと例えばこう転換期の時にはですね、もうどうでも前に前進していかないかんけんもう、足手まといになるとはやっぱり錆替える様な感じがするとです。
けれどもなら、13日会にと例えば、十三日会に集まって見えられる程しの人がですよ、錆替えられたんじゃかなわんと思うからね、私はこの一線上に出て下さいと言う訳なんですよ。例えばならここで、今小野先生のお話が出て来たけれども、もう小野先生なんか椛目の一番始めからのご信者さんなんです。もうそしてもうあのまあ願い、言わば願いに徹しられた方、もうお願いばっかりの先生です。いうならば本当ですよ。
それがね最近ようやくもうそりゃもう、私はもう子供のおかげだと思うけれども、子供に信心を分からせたい、もうそれは涙ぐましい位でしたね。鹿児島のあのう学校に行っておられます、夏休みに帰って来とられっと、毎朝毎朝起こしてその、連れてまいらせる。そしてその、御理解を頂いて帰られる。ご自分も勿論成程、あんなにお医者さんというお忙しい仕事ですから、でもありましょうけれどもね。
まあ私の話を聞こうともなさらなかったんです。けれどもね最近は必ずここで、例えば御祈念の済んだ後頃に参ってみえますから皆さんと一緒にご理解を頂いて帰られます。ようやくなら神様の願いが少し、解って来なさったという事でしょうが。今までは我がよかごとだというまあ、それこそそれは無邪気に、願うて来られたんです。そしておかげを受けられたんです。実際に。又
おかげを受けらなければ、あがしこ毎日二十年間も続けられませんよね。ね。だからけれども、只今ご理解を頂いておられるという事は、神様の願いがわかって見えられたから、今までの様にはいかんと言う事になって来た訳です。ね。だからならお参りをして来ておるから必ずしもなら、改まる事にその例えば、合楽でいう限りなく美しゅうなりましょうやの、運動に参加していなかった人も、沢山あるというわけなんです。
確かにねもうどんな問題が起きて来ても、限りなく美しくなろうという所に、焦点をおいたら、即刻そこでおかげを頂けれるのですから。だからならけれども、なら神様が願われておる私達という、その願って御座る事がです、どうぞ幸福になってくれという事なんですけれども、その願いの一つの前提としてですね、信心とは本心の玉を磨くものぞや、信心とは日々の改まりが第一なりと言う所を踏んまえて、それが基礎になってですたい、ね、そして私共が願うと言う事になって来なければならない。
それも今まで願って来た願いとは駄々目の違った、言わば願いに入っていこうと言うのですよ。それは神様が願って下さっておる、願いそして私共の願いと言うものが、もう話を聞けば分かって来るというほどしの所まで、合楽の信心は成長してきておるという感じなんです。昨日私は、あのうテレび室に行きましたらハガキが来ておりますもん。あの甘木の親愛会か、何とか私の二番目の息子光昭宛にきておる訳なんです。
ハガキが。それに今度の○小のあれで、光昭を光昭先生、光昭先生とこう呼ばれるわけなんですね。甘木ではそして今度の、リーダー達の集まりの中で、講演をして下さいと言うお願いの手紙が来てるんですよ。じゃくん私しゃもうびっくりしてしまいましてね、私ににも言いもしませんそんな事。ほじゃけん光昭こげな事黙ってうけちぇから、受けとるとじゃろかちゅたら、横に直子がおりましたもん。
この頃ん時もね、あそこで講演をしたよち。もう私は本当にドキドキしてから、こっちの方がもうたまがったち。と言う様にですね、いつの間にかその様にお育てを頂いておるち。そのように。合楽の人達は。是は光昭だけではないですよ。だから本当に皆さんがよそを知られませんけれども、合楽で二十年間稽古をして来た事もですよね、よその教会の先生方の前でもよいから、話したら素晴らしい声になるですよ。
ほんなこつ。合楽のご信者さん方の場合は一人一人。ね。もうそれこそ願って、願って止まない所をですね、所謂神様が願って止まない所を私共は出来る出来ないは別として、おかげを頂いて来たという事です。そしてんならば一生懸命取り組んで来た人ですらがです、二十年間振り返ってみたら、とてもとてもその和賀心の難しさ、いわば日に日に清まっていくという事の改まっていくという事の難しさに気付いてきた。
けれどもこれが基本だと、それが神様から願われておる願いだという事は分かったという事なんです。だからそこまで分れというのです私が言うのは。ね、そこまで分かっとらんとね、これからの願いそしておかげを受けてですね、そのおかげのためにまた難儀をしなければならんというのです。ですからね、そこでならいうならば、二十年間一生懸命取り組んで来た、なら私に致しましょうか、その私にですらです、もう本当に不完全な私であったと言う事になる。ね。
和賀心という事がいうならば、満月の様なものであるならばね、私がこの頃一晩中頂いた時に、半月さん位の所の光しか頂いていないと言う事。自分ではもう本当に有難うして応えんごとしておってもです、ね、まあだまあだ半月三位の有難さ位しかなか。だから皆さんの場合は三日月三位の事じゃなかろうかとこう思う訳なんです。ですからねけれどもねけれども、私共がおかげを受けなければならないという切実なものがあるという事。ね。それを最近はあの気付かせて頂いて皆さんに聞いて頂いておる訳なんです。
ですからどいうぞ今の所まではね、皆さんが分からん所があったらどうぞ、質問してください。それからいわば願われておる私、又は願っておる私の今の私の願いというのが今度は問題になってくるわけです。ね。あの「荷物だけ行くよに馬は萱の陰」というのが、事を申しましたよね。「荷物だけ行くよに馬は萱の陰」あれ秋永先生あんたが頂いたのは覚えとる。(覚えていない 笑)あれは秋永先生が頂いた私は覚えておるのです。だからもうとにかく素晴らしいですね。
秋永先生の信心はそういう意味で。所がなら秋永先生でもですね、(?)矢張り下は馬なんだと言う事。馬という事はまあいうならば卑しい心。いうならばおかげを頂きたい心で一杯なんだと言う訳なんです。だからそれをね今までは、美しゅう隠した様な状態。そして、和賀心(?)何時もいう訳なんです秋永先生曰くいつも、神様おかげは暫く待って下さいと。こちらに受け物が出来るまではと言った様な事を秋永先生なんかは言うて来たでしょう。
それこそ皆さんしっておるでしょう、ここがいっちょ分からんとですね、その卑しい所が出されんとですよ。そしてそれは卑しい事ではない、卑しい事その事が、すでにあの神様の神様がそこん所を出してくれというて御座るとじゃけん今は。ね。どうぞ質問があるならば手を挙げて質問して下さい。私達も今合楽の信心は、とても合楽の信心は難しかととても私どんそげな和賀心にいつの事どんなるやら分からんけんおかげは頂けんと悲観して御座る方達はですたい、悲観せずに今日私がいう所までの第一線上に、この一線上に出て下さいという事なんです。
ね。信心のいわば基調になるのはやはり何というても、本心の魂を磨くこと、日々の改まりが第一であるという事。そして、いつもがです、和賀心になれなくても和賀心をそこから、求めようとする精進努力が修行g必要だという事。なら和賀心に満月三の様になってしまわなければ、おかげが受けられないというのではない。だからどういう汚い願いでもよい、その汚い願いをですね、一遍ここに出してみて赤裸々にね、その願いに一つ、息をなんていうですかね、その生あるものたいね。
所謂その願いをね、立派な願いにしていく道をね是から説こうというのです。私共は是は汚い馬と思うておったのだけれどもです、人間はそこん所を頂いて行かなくてはならないのだと、ね、だからお金の事も健康の事も、全ての事が願われなければならないと言う事。その日暮らしではいけない、矢張りそこには、んなら出来るならば、億万の金でも銀行に行けばいつでも、ちゃんと入れてあると言う位なおかげを願わなければならないちゅう訳なんです。又頂けなければならないと言う事なんです。
それにはこういう願い方があるんだそれにはこういう心の状態にならなければならないのだと言う事を是から説こうというのですから、そこが分からんなら説けんでしょう。 A面終わり (信者の質問 聞き取りにくい。)
ちょっと言葉が足りないけれどもそうだと思うね、けれどもただ苦しいからね、あのというのではなくて、神様金光様の御信心を頂いておってですね、金にこの様に苦しんでおったんではですね、あの例えば神様に対しても相済まんという事なんですね。ね、ですからあのう信心しとっていつもこんなに、弱かったんじゃ神様も相済まんのじゃと。だから、健康にして下さいお金を下さい、ね、けれどもそのお金をお金のお繰り合わせを願うのもその願いがね、その願われておる願いに一致しなきゃならないね、
例えばそれは今でもですよね、合楽は是以上の事は望みません言うほどしに、皆んな大体おかげをうけておるわけなんですよね。その毎日毎日の神様の間違いのないお働きのなかに。おかげを受けておるわけなんですよ。けれども今年のスローガンである所の、「世のお役に立たせて下さい」という切実な願いはもっておるでしょう。そうするとですねこれは、これでけの健康とか、是だけの財ではね、その日暮らしでは、世のお役に立つという事はできんということになるんです。
だから世のお役に立つ事の為に、億万長者にもならせて下さいという願いなんです。その、昨日頂いたご理解ですかね、ユトリのあるおかげと。ユトリのある心で願えという事。だから私の云うとは、願いはどんな願いでもよいその願いにね、一つちゃんと筋道を立てろとこう言う訳なんです。だからお願いはお金のお繰り合わせだけなんだけれども、お金の送り合わせだけではない。億万長者にならせて下さいという、願いを立ててですね、それに向かって精進をすると。ね。
なら億万長者になった時の時にですね、その願いがしゃんとしとらんとね、その億万の金の為に、苦しまなければならないのですよ。すとこの億万の金が生きて、お役に立つ事になるのです。片一方はまあそれは・・・
(若先生 非常に難しい様になりましたですね。僕は最初はあの、それを頂いた時はですね、それこそ10人位朝の御理解を頂いて助かりました救われましたと、お届けお聞きしました。また僕自身もそうだった。所が段々十日たった僕等おらん間に難しく成りましたですよ。そんな難しく言われますとですよ、そのおかげを頂いた為に又難儀をするような説き方をされると非常に願いも又お願いが出来ないと言う様な感じが(?)どうですかお互い。)
だからそういうところを出し合いなさいちゅうわけ。いかがでしょうか・・・
(信者の質問 聞き取り難い)
それがね、今はねその一千万円貸してくれちいうなら、貸して下さる神様の方がですね、むしろ私共に塩を贈る御座る時ですから。ね。貸して下さるたい。ね。皆さんもそこんねきを思わない、今先生が思われた様な所ねだからね、問題は貸すという体制は出来ておる神様には。けれどもね保証人の所ば、ようとこうみよる御座る訳ですよね。是は今は確かに月賦で払おうとしよるばってん、先の方でいい加減にしだんせんじゃろうかと思うてからね。そこでね過去の信心がものを言うて来る訳なんですよ。実際。ね。
過去の信心、合楽で言う、二十年間の信心の稽古をして来た問題がですよ、信心がですね、身についておる人がね、今、それを願うたら貸して下さると思うですよね。
(信者の質問 聞き取りにくい)
貸してもらえるなぁと言った事で喜んだというのです。皆は例えていうと所が私がね、その神様がその貸して下さろうと思うておるけれどもですたい、果たしてこの人が毎月なら十万づつでん払うていけれる能力があるかなあこう見ござる訳です。そこ私は話しよるけん、ちぃた又難しいなったち言いよるとです。ね、だから本当に私共の汚い、心というものが、もうもろうてから後から払うという事には非常に、その惜し気がついてきたり、払わんでもよかなら払わんで良かばってんちゅう事になって来る訳ですたい。
それこそ誰さんじゃなかばってんか、金のお繰り合わせを願うた訳たい。所がその頂いたたい。それがその隣の人がね、まぁあのお金つこうておきなさいと持って来てくれたんです。ほっでもってそうにゃ喜んでおかげ頂いたと言う訳たい。所がご主人が曰くて、そればってんそれば、戻さにゃんめぇもんちいわっしゃった。そりゃ戻さなん事は解っとるたい。ね。それをねお繰り合わせじゃない様な、その例えばその先生どんが今、家を建てよりますから、その出来るだけ金利の安い銀行から借ろうという訳たい。
もう毎日それをお届けされるとですよ。それで切替ちからんなら、私はもう本当に合楽ば、私ばもうそげなこつなんか、金利でんなんでん自分でばし払うごと思いますけれどもね、それを言うてもまた小野先生分かんなさらんけんで、そんなら安か方に切り替えられる事を願わなきゃのちという事になる訳なんです。私しのどんの場合なんかは、もうそげな事のう茂さん、安か所に切り替えろと言うた事もなか、また聞いた事もなかです。
私は。ほんなこつ。そればってんなら、小野先生の場合はそげん言いなさりゃあ、なら安か所に切り替えるならちっとずつ切り替えて行かんのという事を願う訳なんですけれどもね。ですからその問題はね、その果たして信心あの基本になるものが和賀心とその何時でも本心の魂を磨くものとかそういう、合楽で二十年間稽古をして来た様なものがばっちりとね基礎になっておるかどうかという事を確かめなさるだけの事なんだ。
だからそれを確かめられるとです、ちっとまた難しかち言い出す。けれどもね、ここら辺の所はね、是から私が少しずつ説かせて頂く事でね、皆さんが合点して頂いてです、どうでもそこん所に、入って頂かなければならないと言う事。
(秋永先生 ・・・・そういう意味では親先生の信心の感覚をまあ、感覚的には捕らえ ておるといえば捕らえておる。・・・)
そしてですね、演技力というものは身に着けて来たと言う事ですよ。本当は。所が私はねそれをまだ身につけていない方が、そこまで出て来て下さいという分からんなりにでもね、あの、・・・
(秋永先生 親先生の信心をくちではこう言いきらんけれども、何となく合楽はこげな風じゃったばいのという位のことは分かっておらっしゃる。それを感覚というのである。それを例えば、実際、どげんかと言われれば、言葉がつまるわけです。ところがなら、小野さん達でもそうでしょうけれども、頭をがんと、そげな事は大体わかっとるです、合楽で一年二年ここに参ってきよったら。そういうことを先にいっちょまあ、・・・)
そしてですね、それを分かっておるけれども、それをいい加減にしておる人達というのが沢山ある事ですね。それがどういう事かと申しますと、例えばあそこに松岡さんがおられますが、この合楽の一番古い(こっぴ?)ですよね、信心から言えばの松岡さん。そしてもう本当に誰がなんというたって、私を見て下さいという位なおかげを、あそこのお母さんが来ておりますが、お母さんが参って来るたんびに、私が話しきるなら、私がおかげを頂いたことを誰でんこう聞いてもらいたいと言う位それを頂いておるとですよ。
ところがね、ならいっちょ和賀心とかね、本心の魂を磨くとか改まるという事にはいっちょんそのあんまり精進せんなりね、おかげを頂いてきたという事実が合楽にあまりにも多いい事です。それでねその基本というか基調と私がいうておるがね、その基調がなかなか出来難いのです。けれどもそういう人たちを、んなら、いいよったら、これはもうきりがつかない訳なんです。だから神様はせん先月からその、基調を作るためにご準備があっておったという気がするんですよ。
だから松岡さん達のように、その様な方達でも是はもう本当に信心の本当のおかげを頂くならば、やはりお父さん私共が改まらな出来んばの、そりゃ嫁ごん事をお願いしよったっちゃあんたが悪かと合楽では必ず言われるのじゃからな。ですからあの本当に悪が自分というものを、見極めて行く事が信心だという事を一つあの、分かって貰う所に出て来いというわけ。
(秋永先生の話)
そういう言い方があるね。例えばこの頃から一帯が 今の金光様がね何事も有難う、有難う頂いていかなければ、物事が成就せんと仰ったち。だからね何事にもねとにかく有難く、有難う頂ききらんでも是を有難とう頂かなければならない、有難とう頂く事が本当だとは分かれと言う訳なんです。
そこの一線上にはでれというわけなんです。例えば・・・
(秋永先生の話)
そこでね、所謂願われておる私というのはね、どういう事を神様は願おうて下さってあるかというと、そういうあなたになれという事を神様は願ってあるという事なのです。それを私共は二十年かかって来たと言う訳なんです。ね。言わば早い人もある遅い人もある。例えばんなら、まだようやく一年めにしかならんけれおども、もうそこの一線上に出て御座るという感じの綾部さん達の場合なんかもあるという事。ね。
ですから是はあのまあだから、もう合楽の全ての人が、五年の人でん10年の人でん1年の人でもです、ね、一つ信心とはこういうものだと分かってそれに精進する事も、又ある意味で楽しく成って来る、有り難うなって来ると言う様なものが見極められたらね、例えば先だしにしておられても、利払い位できますよね。
けれども今までが今までじゃけん、とても今からしょんなら大事出来ると思うてから、神様が貸しなさる場合にもなって来るだろうと、ね、そこでね、あのどう言う事かと云うと、そう言う事を今日の御祈念、特別奉修委員の方達のご理解に当てはめるとですたい、私共はずうと拍手を打ちながら神様にこっちを向いて下さいというて来た事なんです。いうなら、ところがですね、器量悪かずが言いよるけんで神様が動きなさらん訳です、そこに気が付いた訳ですたいね合楽の人たちは。
そして限りなく美しくなろう、限りなく美しくなろうとして、美しくなる事に精進しだしたら、神様がちったこえ出しなったわけです。これは合楽全体がですよ。ね。だから、神様の方がもうちっとモウションを掛けだしなさったわけ。そしてお前と結婚をして良い物を産みなしていこうという働きになって、本当の合楽になっていこう、だから私最近、本当の意味に於いての合楽の曙だとこういうておる訳です。ね。
そこでね、そこでんなら今までのおかげはどういうおかげ、松岡さん達がいうなら、頂いておいでられたおかげ、小野先生あたりが頂いておられたおかげ、又は是は、だけじゃない、皆んが頂いてきたおかげというおかげは、どういうおかげであったかという事です。本当の所謂生みなされるおかげじゃなかったという事です。今日は正輝さんが来ているけん正輝さんに説明させ様と思ったけれども来ていない。
正輝さんが頂いたご理解ですから。あのこの頃の晩にね頂きます事の中に、合楽の人たちがね、おかげを頂いておるというおかげはね、その生みなされておるいわば、結婚をしてそこから子供が生まれる様なおかげではなかったと、今日までのおかげは皆んな。どういうおかげである、皆がそういうおかげを願った。そういうおかげを願って例えば菊栄会なるものが生まれた。または美登里会なるものが生まれた。
本当にそれこそ、緑会のおばしゃん達皆が、合楽の魔女だという位に皆強いものをもっておる人達の集いが出来た。それこそ親先生のためなら命までもはいはいちいうてから、その、言うくらいな人たちの集いが、その菊栄会としての、私のま取り巻きの様にして生まれたわけなんです。その一人一人がもっておるものは素晴らしい。ね。是はもう本当に菊栄会の菊の字を頂いたくらいに合楽のシンボルとまで言われたくらい。菊。
そういう会が生まれた。会長を正輝さんとして、文男先生が副会長としておかげを頂いた。これはもう本当にこれが成長したらどげな素晴らしい合楽になるじゃろうかと、次のいわば、総代と云う、総代さん達のこの人達が総代になる頃にはどげな素晴らしい事になった頃はがいっちよんその頃が先は進展しなかったうかとね。所謂私のいう事について来きらなかった。皆んが。ね。
そうしてその頃はですね、もうおかげを頂くこつだけは覚えてきたちいう訳。ね。是は正輝さんにおいてしかり、会長においてしかり文男さんにおいてしかりなのである。文男さんの話なんか聞いておってみなさい、はあ素晴らしかち言う所は、もうおかげを頂くこつはピシャット握っとるですもんね。それがならどういう事であったかという、なら自分の思いだけは果たせれる。それはいうならばね同姓愛的な物だと。
結婚から生まれてくるのではない。だからお互いは満足だけはしておるちゅう事。まあいうならば、合楽の信心のベッテイング時代だという風に頂いたのです。だからその目的だけは達しておる訳、果たしておる訳なんです。どっちも果たしておる。そういうおかげだけえつにいっておるちいう。おかげだけ受けておる。けれどもね、文男さんにおいてしかり、正輝さんにおいてしかり、美登里会の面々の信心においてしかりであってね、是ではね本当のものが、生みなされないちいうね。
是は私の信心にどうでも、ついて来なければ。というのが所謂神様がね、所謂私共に周波を送って下さってあると言う事なんですから、私共がそちらに本気でこう向きを換えた時にですね、そこからいうならばまあ分かりやすく言うならば、どうどうと出来れると言う事。為には結婚と云う事。所謂身も心も神様に任せるという事。この事だけは親先生任せになれるけれども、この事だけはは任せられないと言った様な事でもです。
おかげだけは受けて来たという事です。その辺の意味のことはどうでしょうか、今まで一通り分かって頂いたかね、文男さんが一番口 分からなん所。あればこればもうほんにかんで含めると、この頃いうたじゃん正輝さんに。だから今日ね、あんあただったかな、誰か二三人で私が話した、だから私達が頂いてきたおかげは、本当にベッティングによって、その快感だけなら快感だけを得てきたの様な、おかげであった事は認めますか皆が。身も心も私に捧げとるとが、本当の意味での結婚が出来て生まれたのではないというのだけは認めなければいけないのですよ。
今日ここでは。ね。その代表的なのがなら菊栄会とか美登里会なのですよ、合楽では、菊栄会と言われる程しの人たちがですたいですから。そういう意味では、文男さん分からんならあんたが質問してくれんの。まあだあんただん結婚届けもせんうちにしよるとたい。(笑)それけんほんなこつし切らんのる。いや本当(笑)神様もね、本当に噛んで含める様に実感として分からせて下さる為ににね、もうそれは本当におご苦労であろうというてね、もう私だんそげないろんな、今言うた様な言葉は知らんとです、知らんけんこんだ字引ひかにゃ出けんそげなこつはベッティングちゃどげん事じゃろかと。
という位に難しい事をね、けれどもそれがあの、実感的になね分かる為には、ははぁ私しどんがおかげおかげと言うて来た、おかげはそういうおかげであったと言う事です。ね。感じるでしょう。それけんならもう是でですねいうなら満足しよりますけんね、もうわざわざ結婚せんでよかち言う風になって来たら困った事になりますよね。そしたら合楽の信心が変体的なものになって来る訳です。ね。素晴らしい事をいうておるけれども、そうだと言う事になってくる。ね。
そしてですね、結局私共が、どうしてそう言う所でぐずぐずしておるかということなんです。その程度のところで。今分からんならも一遍手を上げて言うて下さい。次の話を進めますから。文男さん。結婚届ば出して下さいよ。ね。そしてね、そういう程度の事ですからね、私ともの願いそのものが進展していないと言う事。願いというものが。例えば今年度のスローガンであります所。
世のお役に立たせて下さいなんて、あそこにせつなる願いの言葉を私がそこに出したけれども、果たして皆んがですどうぞ世のお役に立たせて下さいという切なる願いを、果たしてもっておるかと言う事を一つ聞いて頂きたい、自問自答して頂きたい。もう案外ですね、そげなだんじゃなかまだこっちがおかげを頂かなければ人の事だん世の中の事だんじゃなかというのが、私は殆どじゃないかと思うのですよ。
本当のこと言うと。言葉だけなら誰でも言えますよ。隣近所の事でも言いよるとじゃけん。ね。世界中の事でさへ願いの言葉の中で言いよるとじゃから。けれども実感として、世のお役に立ちたい為におかげを受けんならんと言う人が、ないでしょうが。願いの焦点という、小野先生どうでしょうかね。その辺の所は。そうでしょうが。もうとにかく今の、もう小野病院建築が見事に出来やせんじゃろうかと云う思いがいっぱいじゃろ思う。こりゃ小野先生に限らず。誰でんそうじゃろうと思う。
ところがねそれではねあのね、所謂子孫繁盛家繁盛にならんわけですよ。それで終わったのでは。ね。自分達の願いというものがいかにあの、浅はかなものかという事を分からせて頂かなければならない所がね、なら今そう思えていったって思えんから、願わなならんと言う事になるのですよ。そういう心の状態にならせて下さいという願い。だからあの、是からそげん所ばいうと若先生また。
是はやっぱり願いなら簡単に何でんかんでんねごちゃよかと思うて、皆がもう今日は限りのない、もうここでもお届けされました、あのご理解を頂いたときにはですね、是は合楽の信心が楽になりましたというて、ここでお届けされたんですけれどもね。段々三日四日するうちに、是は願いの信心も段々、難しかち言う事なって来た位ですから。けれども今までとは違って、難しぶりが変わってきたわけです。ね。
(秋永先生の話)
そこを分からんならもう一歩だから踏み込んでね、踏み込んで来ると繋がるとですけれども、分からんなりにしよる所もあるね。例えば願いという所に筋道を立てよとか、神の願われておる願いなんていうと大変難しいですたい。けれどもなら何でも願へと最近いっているでしょうが。是なんかはですね、もう本当に我情我欲まじっとってよかと言う事ですよ。
(秋永先生の話)
そしてね、願うでしょうが、願ってねこげな事願われんということはなら、例えばこげな書類を提出される、判がかけておる、ここが一字がぬけとるというところは、また、取次訂正してもらえばええけんね、やっぱりその、なんでもかんでもひとつ願う。その代わり最近私が云うとる事は、願う事は今までのような願い方では出来んよち。一遍参ってきてから、もうよかようじゃいかんよち。もう、日に今まで5編も拝みよったのが、10篇拝みなさいよという、生き方なんです。
今私のいう。ね。もうこれは初心の人でもこれは言うです。それは、ちぃたあんたが、荷のかった願いねと思うてもね、そりゃ良か私が加勢するけん、願わにゃ願わんのそればってんか、そりゃまちっとそげな腰前じゃでけんよというて、その腰前を私はしっかりそうすると、次には、こんどはどうでもこうでもと云う願いがあるちゅう。これだけには一つ筋道を立てる。ね。
(秋永先生の話)
だからね私がここで皆さんに分かって、そういうじゃったんですたい。だからそういうことでおかげを頂いた人がですたい、それこそうんかのごとく 徳者のところに集まったわけたい。おかげを頂いた人達が。なら久留米が私だん一番知っておるなら、久留米の石橋先生のもとに、それこそあの通り町の卸屋街全部けんばん、今近しんきんの芸者さん達は、総参りちゅうくらいに、おかげを頂いたんですよ。
ところがそういう何でもかんでも願うておかげを頂いたところがたい、ね、ところがさあ、親先生が亡くなられると同時にもうどこさえ行ったじゃ分からんごとして消えてなくなったちいうわけですたい。あっちは総代さんまでしござったつが、その、どこさへ言ったじゃろうかと、後もごろけんなっとるけんそういうぐを繰り返さないようにですね、私が言っているのはそれでしょうが。これがあの、とにかく天地と共に極まりなくとこう仰るでしょう。ね。
だから、あの世界中の氏子におかげをやってあるというのは、成る程、世界中の氏子におかげをやって、天地の恩恵に浴していないものは一人も無いと、その、天地の恩恵の中にはね、降ることも照る事もあることが分かってきたという二十年間ということなんだ。だから降る事も照る事も、今まで例えば恩恵というたら、撫ぜさすられることだけを言うてきたですけれどもね、例えばなら叩かれることも神様の恩恵として、そういうおかげを、世界中の氏子にやってある。それを、信心のないものは、難儀な事だと言い、信心の薄いものは、これだけ、信心をするのにとこういう。
それで、信心が分かってくるとです、神様がこのようにしてお育て下さるとそれを合掌して、受けていくという事。だからそこがね、分かっての願いでなからなければ今まで、これは、甘木でも同じ事でしょう。久留米あたりで私共が知ってきて見てきた、信者さんと同じような事に結果がなるという事を私が恐れて言いよるわけですよ。そうでしょうが。だから願いは、ちょうどんなら、久留米の先生が願ってどんどんおかげをやんなさった時代に入ろうとしておるわけなんです。
合楽が。けれども、まあ、合楽の場合二十年間の信心を踏まえてからの信心だと言うことです。だから私が二十年間の間に説きに説いてきた、事をです、ならそれに熱心に取り組んできた人も、きなかった人もです、そういうものであるという一線上に立ってから願へとこう言いよるわけなんです。その辺のところをみなさんわかってください。
(秋永先生の話)
ちょっとねご理解第七節を読ませて頂くとね、「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中から出来た神でなし。天地は流行ることもなし、流行ることもなければ、終わりもなし。天地日月の心になる事肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある」と今私は、信心をせぬでもおかげをやってあるというおかげはね、もう、天地の恩恵に浴しておるということは誰でも分かるでしょう。話をすればすぐ、私は天地の恩恵を受けておらんという人は誰もないはずなんだと。
けれども、ならちょっと難しいけれどです、ならあんたが難儀と思うた困ったというておる事もですね、やはり天地の御恩恵ですよというのが信心なんです。それで合楽の信心をさせてもらいよる者はです、降る事もおかげなら照る事もおかげだと分かる。そういうおかげも全部に信心の薄いもの、信心の無いものにもやってあるわけなんです。それを、信心の無いものは難儀というておるわけなんです。ね。
だから、信心が分かった者が、それを、例えば親愛と受ける。それが本当だと、天地が流行ることもなければ、終わる事もない極まりなくおかげ頂いていけれると、教祖も仰っておられるのにも関わらず、今の久留米の例をとるならです、あのように、発展しておった教会に月並祭が何名かといったような、ことになってきておるわけなんです。実際。あの、時代にわんさと、押しかけてきた信者はどこにいったか分からんようになってしまっておるということがです。
ただ、みやすい方の恩恵だけをうけてですね、難しいのほうは恩恵と思えるところまで、教導はしていなかったという事なんです。そこで合楽では、そこを二十年間もかかって教導してきたという事なんです。その教導をしてきておるうちにですね、少し変形なものが生まれてきたと。その間におかげを頂くこつあいだけは、それこそいろいろな角度から、頂いて来たものすからね、いうならば菊栄会が、生まれたり美登里会が生まれたり、して来たわけなんです。
それから、上を一歩も昇ろうとしないとすると、これはおかしいという事になってくる。だからその、極まりなく子孫繁盛のおかげが頂けれる、天地と共におかげが頂けて行くというのは正式な結婚をして、生まれ、また次が生まれという行きでないといけないでしょう。ね、そこにあの私は天地が、はやる事もなければ終わることもないという、こういうはっきり教えておられるおかげに合流したいちいう、合楽信心は。ね。
(秋永先生 正式な結婚というのがどういう事か分かりますか?同姓愛というのがどげなことか分かりますか?)
信者 すべてをお任せするというのが正式な結婚 そしてね、それが右左にしないことがね・・・それで完璧というわけじゃありませんけれども、やはり中心をついたものだと思いますね。
(秋永先生 他にないですかね?
それは本当にまあ、今あなたが言われますようにですね、ね、例えばなら、菊栄会の人たちがね私のいうとおりにしてきたら、それはもう、今頃はね、もう本当に、半月さんぐらいなっと生まれとるとですよ。私もまあちっと満月くらいなっとたか知れんですよ。ところがね、やっぱりそこまでは身も心も任せきらんでしょうが。これだけはちいうてから、大事なお願いはするばってんか、今度はこげなこつお願いしよると先生が金光様の先生どんなれといわれるとどうこんされんけん、あんまり接近せんがよかちいう風にですね、もう、そげなことなんかはもう先生になれち言われたら先生になるという腹でなければ、結婚という事にならないのですよ。ね。
それはもう、見事な答えだと思うですよ、本当。けれども、それをもうちっと、本当にね、なら私の私の子供でしたら、任せきらせきらんのですからね実際は。だから、私が任せきらんから、今度は皆さんのほうがね、あのそれこそ、あの佐賀の善隣会じゃなかばってん、はいはいはいはい ちゅわにゃならんとたい。あれはあの任せますという事らしいですね。もう、何もかもあなたにあげますちゅう云うわけなんです。だから、そういう気持ちになっていたらおかげを受けるわけなんです。奇跡が生まれるわけなんですね。もう、何もかにもありません。あなた任せになりますとこういうわけなんです。
「やります」か、「やりますやります」ち。
(ここでNO45-131のテープが途中で終了)
ところがですね、信心の技巧は非常に高者でもそこが出来ないという人、信心はそう高者でなくても、そこんところだけは、すぱっとできる人があるのですよ、合楽の場合。例えばなら、文男先生や正樹先生は、その辺の技巧は非常にうまいわけなんですね。あの、おかげを、打開していくということならばね。ところがその、高嶋さんなんかは、技巧は対して旨くないのですけれどもね、その、もう本当に、親先生が言う事には一も2もないコロッとあの、変えていけれる転身が、素晴らしいという事ですね。
これは、私は合楽の第一人者だと思いますね。だからですね、生まれてくるものが、確かに生まれてくるわけなんです。確かに。高嶋さんちったどうか言うてください。まああの人はちっと好かんばってんか結婚せじゃこてという人もあろうしね、もう好きで好きでたまらんという人もありましょう。高嶋さんはこのどっちの方になりましょうか。高嶋さん もう10年も前だったでしょうか、親先生の言うとおりになれと随分先生に言われておりましたよね)
連いて来なさいこの提灯にたいね。決して苦労はさせませんち・・・願われておる私達、そのどういう願いを私達一人一人の上に、神様、(聞こえますか、皆さん)どうぞ皆さん席についてください。その生きた信心、今日私がいう生きた信心とこれから言う信心、ね、生きた信心とはどういう信心か、ね、それはこれから、私共が私が説こうとしておる事、これは今日に限ったことではなく、これから、説いていくことであろうそういった信心が、生きた信心となる。
だから、そう言う生きた信心はね、生きた信心はね、今まで受けて来た信心ですね、例えばここで言うなら、二十年間おかげを頂き続けて来たおかげ。なら、このおかげがね、今のままで終わるとするならばね、これは、あの、先ほど、へんな言葉で表現しましたがね、いわゆる、ただ自分の目的をかなえただけであって、生まれること、ただその、だけのものだと申しましたですよね。
ただその、目的だけは達しておるというわけなんです。そういうおかげだと思う。合楽のおかげは。だからそういうなら二十年間受けつづけてきた、おかげにね、その、息吹を与える。命を与えるもの、ね、その命をあたえるものはこれから私がいう、いわゆる、生きた信心をする事によって、二十年の信心が全部生きてくるという事。
先ほど例を申しましたある教会のところのようにですね、例えば先生が亡くなったら、もう、散ってしもうたどこにおるやら分からなくなったというような事ではなくてです、ね、あの、それが、このご理解でも申しましたように、天地と共に極まりなく家繁盛、子孫繁盛の基礎土台というものが、私共の時代に作っておかなければならないと思う。なら、大坪総一郎出現の所以がそこにあるのだと私は思うのです。ですから、皆さんもそれを信じてくださって、親先生がおる間にここだけは体得しておかねばならんという事になるわけなんです。
ですから今まで頂いてきたおかげが、例えばそれはただ、捨て子的なおかげではなくて、それが生きてくる、または蘇ってくるそれに命を与えるためにも私ともがね、これから極まりなくおかげを受けて行く、またはことのためにもです、いわゆる生きた信心でなからなければならない。そこで生きた信心とはと言う事になるのですよ。
私そのことをここで御祈念させてもらいよりましたらね、あの、大きな、揚巻が揚巻、という貝があるでしょう。あの貝がベローとこうやって、身を出しておるところを頂くのですよ。だからそれを手でチョコッとこう、つついたらシャーと引きしまる。生きた信心とはそういうことだから、生きた信心とはね、寝てはいけんということではないということです。お芝居をみてはならないという事ではないのです、生きた信心というのは例えば場合によっては、堕落と見えるようなことがあるかもしれんです。
けれども神様がほらほらと、言うてくださったら、しゃんとするだけの内容をもった信心を、生きた信心という。いわゆる人間がさせて頂く信心だと言う事なんです。今まで例えば高僧、正僧と言われたような、仏教の中に現れたね、その宗教家的な信心ではなくて、もう確かにお道の信心は日に日に生きるが信心だと言うことなんです。だからダラーとしてもよいのだとね、けれども神様がね、そこにちょっと、おきづけを下さったらはっとして、引き締まれるだけの信心の内容を一つ頂いておけという訳なんです。
今日は大変難しいことをここに書いております。今日これからの合楽の信心が願いの信心に変わってくるだろう。御礼もお詫びも勿論内容になって来るでしょう。けれども一番矢面というか、一番正面に出て来るのが、どうでもおかげを頂かなければならないと言う内容なだ。ね。その、願いをねすることが、神様が待っておってくださったことであり、その願いをかなえてくださる事が神様の願いかのうたことになると、高められてきたわけなんです。今までの願いとはだだねが違うでしょう。ね。
その所を皆さん分かって、ね、そこでその、そういう願いとはどういう事なのか。ね。その願いのあの、お道の信心で言う願いの根本原理というのはどういうことかと。ね。先日、久富績さんの所の宅祭りがありました。その時に、お祭りを奉仕させて頂こうとする寸前に丁度ここんところを猫がにゃおにゃお言いながらとおりすぎてしまった。私共装束をつけて出るばっかりであった。
私はあの猫は大嫌いだという事をしっておられるのに、みんな立ち上がってコラコラともいわんもん。私はこれは本当に今からお祭り仕えなんならんとに猫のお知らせは不浄とまで言われるのに、ね、不浄がこのお祭りにかかったのかなと、私は一瞬ヒヤッとしたんです。そしてそのことを神様に、お詫びさせて頂きこれからのお祭りの事をお願いさせて頂きよりましたら、二代金光様、四神様のご理解であるところの、お道で言う願いとは、不浄とは、不成せぬことぞと仰る。成就しないことぞというてある。お道の信心ではね、願うたことが成就しないという事が不成だと仰る。素晴らしいでしょうが。ね。だからどうでもおかげを頂かなければ神様にご無礼になるて、おかげを頂かねば。
そこで、先ほどから言われる、姿勢が必要になって来る訳なんです。ね。ですからそういうその、どうでもおかげをうけなければならない、その、おかげを受ける、願いの信心をどうさせて頂かねばならないか、あんたは、こういう生き方でいきなさい、あんたはこういう生き方でいきなさいと、それぞれの、信心の過程というか、また、程度に応じてこれから、信心の稽古をさせて頂くことでしょうけれどもね。いわば、願いに徹していく信心が、ここから、頂けれるわけなんです。ね。
今日の例えば願いの焦点、神様の願いの焦点は神の願いが成就する、例えば心も神様がドキドキされる程に、今日の私の話は聞いておって下さると思うのです。神様が。これから合楽の信者がおかげを受けていけれるぞと。と言う事になるのじゃないでしょうかね。ですからそういうおかげを、願わせて頂くためにはここの一線上まで出ろというのが、今日の全般のお話だったわけでしょう。それをねもう一つ具体的にいうとです、
例えば、久富さんところの、宅祭りのときに私が丁度、4時半に迎えに来てくださって、私がここで御祈念をした。只今から、謝恩祭、いわゆる家のお祭りを、奉仕させて頂きますが、どういう事をもってお礼の焦点とさせて頂こうかと神様にお願いをさせて頂いたら、甘露アメを頂いた。紙に包んだ甘露アメ。中からそれこそ宝石にも似たような、ころっと、転げ出る仕組みになっておる。
あの紙があの、右よ左にこうひねってあるでしょう。ね。ですから、ちょと引くと中から、ころっといわゆる、甘露のアメが転がりでるよなね、例えば右と願っても左といったようなこと。ここ二十年間。おかげを受けて来たけれども、この事だけは神様がいくら願うても、願うてもおかげをくださらない、くださらないのかしらと思うくらいに、くださらない。いやそれどころか願いもせん難儀なことが次々と例えば久富さんの家なんかは例えば交通事故など様々な問題が起きてきた。
ご自身の体にも変調が起きてきた。そういう中にです、それでもお父さん考えてみなさい、おかげを頂いたとですよと家内が例えば申しますとね、ほんにそうねと例えば二人の者が喜べれる。ね。いわゆる甘露、甘露というのは信心でなければ、受けられないところの信心の境地を甘露という。これは信心を高めたものでなければ、いただけない、甘い露と書いてある。信心者が頂けれるところの心なのである。
本当に右と願っても左になっておるけれども、真っ直ぐちょっと引っ張ってみたら中からコロコロと甘露のような、喜びがわいてきて本当に思うてみればやはりおかげだなとわからせてもらえれるという、そういうところまでは一線上に出れという。だから皆さん、ここまでは信心を一つ、二十年の信心にです、ここんところはあらゆる、角度から、といてあるのだから、これはまず、自分のものにすることにやはり、焦点を置いてそこの所の信心をさせて頂きながら、願いに(?)という事である。
その願いというものは、根本原理というものは、お道で言う根本原理というのは、どこまでも願いなのである。願いというのは、喜びを持って根とするのだと。それは私共、喜びをもって根とするというのではなくて、神様も喜んで下さることの、願いに通うという事が喜びを持てる、これは私が今頂いたことですから初めてでしょうね。自分の心の中に喜びを持って根とする事なんか中々難しかったでしょう。難しかったでしょうが。心に和賀心がなければ願われんようなごたる気持ちだったです。
ところがね、例えば、健気な心です、子供が来ても出けんでちゃですたい、あっちの高岩さんじゃないばってんか、ご造営の始まる時にですね、先生高島一家がです、ね、一生かかたっちゃね、この、ご造営だけは思いたってください、高嶋一家だけでもしますというたですよ。その当時はまだ全然むしろ、借金のほうが多いいくらいの時代であった。けれども、そういう、健気な祈りですたいいうならば。ね。これはいわゆる願い、神様が喜んで、もうそれは、もらおうと思いよらんばってん、心根がカワイイというのじゃないかというのです。
覚えておるでしょう、あなたがそういうお届けをなさったのです。ね。一生かかったっちゃ支払っていくちいう。もし、ここに借金が残るとするならば。だから、このご造営だけはどうでもこうでも総代として、思い立ってくださいとこういうわけなのである。私はね、今日皆さんが頂いて下さらなければならないところはここだと。ね、願いに徹っしようと言う事は、神様がね、なるほど目を細めてくださるほどしに、喜んで下さるだろうというような祈りが願いが、ね、願いの根本原理であると言う事。
願いに徹せよと先月、願いに徹せよとはそういうことなのである。そこん所をようと分かってもらわなければならない。だから億万長者にならせてくださいもです、夢ではないて。ね。でなからなければ神様、お役に立とうと思うてもお役に立てません。勿論億万長者になったからというて、悪いと(?)悪いことに使うような事は金輪際致しません。ただ、世のお役に立ちたい一念が、願いになって来るという願いが根本原理なんだ。願いのお道でいう信心の願いの根本原理というのは。
これはそうすると大変なことであると同時に、大変、見やすく、難しい難しいというばってん、見やすい事になってきたでしょうが。神様が、こげな願いをするなら喜びなさろうとするなら、すぐ気付くことですよ。今までの教えを元にすれば。ただ、自分の我情我利我欲のために貯金をさせてくださいとか、家を建てさせてくださいとか健康にならせてくださいというのとはだたねが違う。喜びを持って根とするところの、願い、その願いの根本原理というのはこれだと言う事。
そこでなら一つの具体的な例をいうならばです、ね、竹内先生が今度の市長選の始まる前のお伺いがあった。ご自身としても親先生任せ。もう、(?)実をいうたらもう一期辛抱しておれば市長さんが、の座をほじって竹内先生に譲られるような、話し合いもできておった。ところが、いろいろな事態が変わってきましてね、どうでも、こうでも助役に市長になってもらいたいという願いもあって、始めたところが、片一方のところは、いわば運動資金とすらない。お金もない。というてなら、例えば市長さんの人気が悪いちうわけじゃなくても、人気もよくて、実力者がズラリ続いておるから、びくともせんほどしの、地盤をまだ固めておられたというのである。
だからこれに立ち向かうと言うのは、どんなに考えても理不尽であり、馬鹿らしいと言う事であった。ところが神様が立候補するということを声明せろという事なんです。さあそれからの竹内先生の願いなのである。ね。只今、私が助役をさせて頂いておることより、市長にならせて頂いたほうが今の市長さんより世のお役に立つことだけを私は確信するというのである。ね。いうならば世のお役に立ちたいの一念がね、どうでも、市長選に参画させて頂きたいという願いであったという事である。ね。
世のお役に立ちたいの一念がその願いであったということ。だから、ぴったりその願いにあてはまる。ね。だから私の願いがね、そういうところにだから、私達がいっちょ久留米の市長になろうというたっちゃ、それはね、いくら私どんがお役に立ちたいけん市長にならせて下さいじゃいかんけん、そこは分に応じてですよ、ね、私が億万長者という(?)今その底辺にある人が、私をどうでもこうでも億万長者にしてくださいというたって出来んからです、ね、けれども、このままではお役にたてない。このままでは、ただその日暮らし的な神様のもったいない程しのおかげを受けておるけれどもです。
今までのおかげです。ね。のおかげを受けておるけれども、これでは、お役に立てないからお役に立つという一念をここに震い立たせて頂いてです、本当のお道でいうところの根本原理に基づいての願いにお互いが、かわらせて頂こうというものである。ね。その願いをさせて頂くにもです、ここまでは一線上にでらなくてはいけないぞというのが私前半のお話しである。それを具体的に、ね、例えば難儀なら、普通でみるなら難儀とみるけれども、とこう引っ張ってみたら中から甘露がころころとこれげでるような、いや思うてみればおかげと。
御神愛。神様はこのようにして、私共をというその心が出てくるところまではね、やっぱり信心を、これからはきわめていかなければならないというわけ。そこに立ったところの願い。願われておる私と。神様はねひとりひとりをそういう願いをかけておられるのであるから、なら、私ともがそこに気づかせて頂いて、私ともの願いがそこにある。そこに、初めて願い、本当の神の願いと私とも願いが一致するのだということである。
いわゆる本当の意味合いにおいてのここに、結合が出来るわけなんです。そういう、意味においての結合。と同時に先ほど古谷さんが言われたように、どのような場合であっても身も心も親先生任せという生き方。これを高嶋さんの例をもって、いうならばです、ね、先日も、昨日おとといでしたか、もうそれこそ、今日はどうした風の吹き回しじゃろうかと、ゆっくりしてからお話しをして、もう本当におかげを受けておるという事は実感的に色々と話されました。
以前の田主丸の時代にはね、子供達もあんまりよりつかなかった。それが、よりつかんはずですたい。あんた、よってくればほらあんただん、ちったかせせにゃんとか、というようなことばっかいじゃったち。ところが最近ではですね、さあ、子供ひ孫達がくれば、小遣いの一つもあげられるくらいな爺婆にならせていただけたということだけでもね、有り難いというてから、家内とお礼をいよりますとこういう。
それがねどういうことから、それになってきたかというとです、本当にあのような時代にあのような中にようも、親先生任せになって日田に行くことが出来たというて改めて実感したと家内とお礼をいうとこういう。そこにはね、高嶋の願いが成就するのではなく、神様の願いが成就する、神様にそれこそ身も心も任せての、(?)であった。そこからね、高嶋の願いもそこから成就してきたが、神様の願いも成就してきたとなら、大分地区に支部が出来るほどしの、おかげをだんだん頂いてきたということなんです。
神様の願いが段々成就してきて、高嶋の願い成就してきていわゆる本当な、ものが生まれてきたわけなんです。ね。だからそういう、おかげになって行くということの、が内容になったところの、願い。いよいよ例えば先ほどなら親先生任せになるということ、私が言うてきた「連いてきなされこの提灯に 決して苦労はさせぬから」本当に苦労はせんかと思うたら親先生任せになったらそれこそ、まあ、こういう難儀なことにもなってきたという事実があるから、やはり、みんなが恐かったということもありましょう。
けれどもそこのところをとおりぬけさせていただきよったら、あれは怖いことではなかった、神様が心に光りを与えてくださることのためであった。あれは恐いことではなかった、恐いと思うておったことは迷いであった。あれは神様の力を与えたいばっかりのご神意であったと分からせてもらうところまで任せきらなければならないということなんだ。それを親先生任せになると、トンネルの中に入らなんならんような気がする。
けれどもトンネルに入らなんならんときには自分の自家発電が出来るくらいなおかげを頂いて、トンネルを抜けきらせていただいたところに晴れ晴れしいおかげが待っておるという事なんだ。そういうおかげをね、これからの合楽は合楽の全体の願いとしてです、ね、いかなければならない。そういうおかげの手本、そういうおかげの見本をねやはり引っさげて世界の市場に立ちたいというのが私のこれは、願いなのであります。
ね、ですからそういう意味においての、信心がこれから展開して来る事を一つ願いとされなければならない。願い、その願いの前のまた願いというのが、今日の御理解でしたね。心がイキイキとしてこなければならない。それはね、朝御祈念をさせてもらう。お参りをしてくる。眠かった。眠くてまいってきたばってん、参って来てお話しを頂きよったら心が有り難くなった。心配事をお願いしたら、もう親先生が引き受けてくださったけんというてかえる。かえるけれども、またその現実にぶつかるとまた不安になる。それでよいのだという事であった。
それならば私だって昨日は、四時の御祈念の時には手も足もあがらんくらいにきつかったんです。本当は。もうだから電気を全部消してしまってから、御祈念、ここの前にこうやって、よたれかかるくらいにきつかったんです。ね。その時にね、心のそこでは金光様と唱え続けておる。ちょうど御祈念前に熊谷さんがお見えになった。いやぁ今日は熊谷さんは、朝の御祈念に参ってきて今日は、美登里会で夕方までおんなさった。それがまた晩の御祈念に参ってきておる。
しかも、三里も四里の道をかけってお参りをしてこられておる。しかも七十何歳というおばあさんがなんと謙虚な人だろうかと思うただけで、心が少し明るくなった。けれども元気がなかった。ここでお届けをされた。先生、今日帰らせて頂きましたら、もう、娘がねご飯の用意も出来ました。風呂も沸かしておりました。風呂も入ってご飯も頂きましたら、娘が言う事が、あらお母さんもう御祈念参りなさらなん時間ですよち、もうその時のありがたさ、もう、今日1日も参っとなさるけん、参りなさらんと思いよったら、「お母さんお参りせなんならん時間ですよ」というてくださった。
もう私はそれを聞いて、有り難かったと思うてまた、お参りをさせて頂いたという、お届けをさせていただきよったら、ね、本当に、熊谷さんこうして信心にかかられるという事。信心にかかりけられるという事は、なんと有り難い事じゃないですかと、お取次させていただきよりましたらね、今まで私の中に腐ったような血があったのでしょう。(?)いうなら糖尿病に(?)おった。いうなら。ところがねその、例えば、熊谷さんのお届けを聞くと同時にね、私の心にもう(?)新しい血が入れ替えられたように元気になった。もう本当に。ね。
ですから、もうそこには、私の前には糖尿病ではなくて、神様の御都合、糖尿病という名の神様の御都合ということになった。それでも私でもやはり、私でもというとおかしいけれどもね、私でも、そのように糖尿病に負けるときもそのようにあるという事。けれども心の底に求め続けるもの、それがいわゆる甘露であり、信心の喜びなのだ。それは何かの機会にぽっとふれた時にですいわゆる全身が新しい血に入れ替えられるほどしのおかげ。最近この願いということに対してです、非常に私はだから何でも願へ、何でも願わせていただくと、おかげを頂く事に驚いてしまいます。
先日からもあの氷を頂くのに、必ず頭が痛くなる。これは、頭が痛くなるちゃあばからしか。これは、頭の痛くならんことお願いしようと思うて、お願いしだしてもう10日あまりになります。おかげでいっちょん頭が痛くなりません。どんぶりいっぱいの氷を頂いても。ね。はあやっぱり有り難いなあと思うて神様にお礼をもうさせて頂きよりましたらね、ご神願におじいさんが孫に追われておる。孫というても12,3になる位な大きな孫じゃん。それが、追われちからおじいさんの背中におわれちから、こうこう踊っていきよるところを頂いた。
その時に初めて私は分かった。願うということはねただお願いしときます、お取次を頂いておるからではいけない。願ったら願って願いきっていかにゃいかん。願い、縋りきっていかなければいかん。ね。でないと神様がお慶びにならん、神様がおきついということ。ね。しっかりおんぶされたら、(?)上のほうでかるい、こうやって踊っていくなら、これは踊っておるものはきつかです。ね。
これはとても願う、どげなちょっとした願いでん、本気でねがわなければならんなということを私は最近は感じ取らせて頂きよります。全てのことの中に。だから、何でもかんでも願わんのとこういうわけなんです。ですからそういう願いもね、ただ、願うというても切実に願わせていただくというそういう願い。同時に、願いの本質に立っての願い、それは、お役に立ちたいからの一念が願いになってくるという、根本的な願い、そういう願いを、2つの願いに立ってです、私ともこれから信心を進めていきたいと、まあおもうのです。
はあ、時間が私ばかりの時間になりましたけれども、どうぞ、今私がお話を申しましたなかに、質問があるならどうぞ、あの、皆さん、質問してくださるようお願いいたします。どうぞ只今申しましたようなことをですね、行としてくださってですね、神様の願いを願いとしてくださってですね、ね、そういう信心に一つ、おかげをこうむっていきたいと思うのでございます。
どうぞ。
「おかげの泉」 第十三号 昭和四十五年9月十三日 十三日会に於ける御教話より今回の「おかげの泉」十三号は、朝の御教話ではなくて九月十三日に行われた十三日会での御教話を収録させて頂きました。御教話の中に度々出て参ります「十三日会」の由来を左に掲げさせて頂きます。 「十三日会の由来」
椛目で信心の稽古をさせて頂いておりました昭和三十年、毎月十三日を御本部への月参りの日と定め御霊地への参拝が続けられていましたが止むを得ぬ事情により、それが出来なくなりました。そしてこの事は神様の御悲願達成の為という御神意である事を承り、神様へ向かう情熱、真心の迸りはどうしょうもなく、せめて御本部参拝したつもりでその日一日は神様のお喜び頂ける御用にお使いまわし頂こうという願いのもとに十三日会が結成されたのであります。そしてこの十三日会が現在の合楽教会御造営成就の母体ともなったのであります。
毎月十三日には日頃参拝出来ない人々もこの日ばかりは、多数参集して午前中は会堂内外の御用奉仕に汗を流し、午後は親先生を囲み、合楽の信心の精髄を頂く信心共励会が開かれております。願われておる私達又は、願っておる、いや、願ってやまない、願わなければおられない、その願いと、願われておるそれとが、一つになった時に、そこから、本当のおかげが生まれてくる 願われておる私達、天地の親神様が、教祖金光大神を通して、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと、そのおかげというのは、身上の事、万事万端の上に、それは牛馬の事に至る迄、とおっしゃる、それを、実意を以て願えと。
私共が、ここを頂かなければ、幸せになれない、幸せになる為には、どうでもここのところを頂かねばならないと、問題はその幸せなんです。神様が願ってやみなさらん、願われておるというのは、私共の幸福であり、幸せなんです。もう他に何もない。天地の親神様の願いは氏子の幸せなんです。
そこで私達がです、それは、牛馬の事に至る迄、私共の幸せに、つながる事であるならば、実意を以て、願えと、仰せられます。そこのところをですね、私共は、わからせてもらわなきゃいけん。ですから、これを頂かねば幸せになれないと、不健康の者であったなら、健康をここに頂かなければです,幸せになれないと、ここにこれだけお金がなからなければ、どうしても、幸せになれないというのなら、それでは、神様が喜んでは下さらん。それが幸せになるものであるなら、神様は必ずおかげを下さる。
何故って、神様が、氏子幸せになってくれよと、願っておられるのであるから。 ただしです、願っておる事がです、私共の本当の幸せにつながらないような、願いであったり、おかげであったならば、神様は下さるにしても、それは、悲しいおかげの渡し方でおありになられるであろう。私共も頂いて、かえって、難儀という事になりかねないのですよ。ある人が息子さんのお願いをなさった。医者は、もう難しいと言う。それでも、家族あげての一心の願いで、おかげで助かった。助かったところが、その息子さんが不良の仲間に入って、もうとんでもない事をしでかした。
その時にそのお父さんがお参りをして曰く「先生、あの時助けてもらわん方がよかった」とおっしゃった。そういうおかげをね、私共は、幸せと思っておるような場合もある、そこが人間なんです。 どうぞ例えば、経済のお繰り合わせを願うた。お繰り合わせを頂いたけれども、そのおかげがかえって、財産が恨めしいと、いうような事に迄、なりかねないのが、私共が思うておる、おかげなんです。ですから、そのおかげの検討というものが、なされた上にもなされなければならない。
私共は二十年かかって、そこのところを、椛目から合楽へかけて、その事を、一生懸命取り組んできたのでございます。今朝から特別奉修委員の方達が頂かれた御理解の中に、私共がどうでもおかげを頂きたい、と神様に私共の願いを打ち向けていった。それには神様に、こちらを向いてもらわなければいけない、どうぞどうぞ神様と言うて、言うなら、神様にお願いを致して参りましたけれども、神様は、言うなら、こちらの方を向いては下さらなかったという感じであった。
教祖様が、だんだん、御信心をおすすめになられて、一番初めに、神様から頂かれた御神格というのは、拍手神門と申しまして、拍手をされますと、神様が教祖様の方をお向きになって、自分の心の扉を開かれたというのです。私共も盛んに拍手をして神様、どうぞ々と、こちらを向いてもらいたいと思うたけれど、神様が見向こうともされなかった。どういう事を願うかと、これは、こちらども向きよったら、どういう事を願われるやらわからない、と思いなさったのでしょうねぇ、
神様はきっと、・・ そこで私共は、どういう事を言うてきたかと、これはもう合楽の合言葉のように、とにかく、おかげを頂けんのは、私共に、いわゆる、和賀心がないからだ。その為にはね、ひとつ本気でお互い・・・・限りなく美しくなろうろと、これは、もう合楽の合言葉のように言われてきた。限りなく美しくなろうと、問題がある、難儀がそこに感じる、もう本気で美しゅうなろうとして、方向をそちらへ向けたが最後、問題は、もうそこで解決しておるのである 問題があるというのはね、心がきたなかったり、あさましかったりするから、問題があるのである。
こちらが本気で、美しゅうなる事に心を定めさせてもろうたら、もう問題はなくなってくる。限りなく美しくなうと、より豊かにより大きゅう、よりにころかに、明るく、といったような事に、焦点を置いて、言うなら、二十年間一生懸命に・・・・・。もう、その頃にはね、おかげの事等言う事は、もうちょっと信心の程度が低いぞと思われはせんかという位に、お願いという事については、皆んなが言うなら慎んできた。もう、とにかく、限りなく美しくなろう美しくなろうおかげは、和賀心にあると、仰せられるから、和賀心になるという事、これが先決、そこに期せずして、頼まんでも神様はおかげ下さるんだと、言うてそれを信じて、信心の稽古をしてきた。神様はこっちを向いて下さいという事じゃなかった。
今日、私、特別奉修委員のお礼をさせて頂いとりましたらね、もう十年位前だったでしょうか、「だっこちゃん」というおもちゃが流行った事があるでしょう、真っ黒い、土人の子供のお人形さんです。ウインクちゃんとも言った。その真っ黒いウインクちゃんを、御心眼に頂くのです。これがね、私共が初めの間、神様に、例えばウインクをしておる。ところが神様の方は、知らん顔をしてござった。そこで色の黒い私であるという自覚が出来たという事である。真っ黒い自分の心というものを自覚してきた。
なる程、これじゃ神様がこっちを向いて下さらん筈だというので、ひとつ本気で限りなく美しくなろうじゃないかというようにです、もう本気で限りなく美しくなるという事に、焦点を置いてきた。又、本気で、その気になったら、問題は、その場で解消しました。どういう人間関係の難しい問題であろうがです、本当にあちらが悪いのじゃない、こちらが悪かったんだと気がついて、こちらの汚さが、そういう事になっておるのだと、こちらが限りなく美しゅうならせて、頂く材料と思うようになったら、もう、そこには、難儀というのは、解消しておる位に、おかげを頂いてきた。
ところがね、今度、限りなく美しくなろうとした、言わばいよいよ豊かに大きく、より明るく大きゅうなろうと、一生懸命つとめさせて頂いてきた。そして、二十年間どれ程に美しゅうなったかという事なんです。どれ程大きゅうなったか、豊かになったかという事なんです。相変わらず、ひとっつも変わりばえしない自分をそこに発見した、もうそれで、これは自分はおかげ受けられんのではなかろうかと、辟易する程しに、感ずる者は感じてきた。ところがその頃から、今度は神様がね、私共の方へ周波を送って下さるような言わば情勢になってきた。いわゆる神様が私共にですね、モ-ションをかけて下さるようになっなきたというのである。
あんまり美しゅうなろう美しゅうなろう、和賀心和賀心と、言うてから本当の願いをしない。「荷物だけ行くよに馬は茅のかげ」丁度、山頂あたりを、もう夏草がしこっております、そこを馬が荷物をのせて下っておる姿でしょうねぇ。本当に荷物だけが行っておるようにある、けれども、実際は馬は、茅のかげにかくれておるんだという。言うならば、私共はね、もう心の底には、ああもありたい、こうもあったらよかろうという、思いをいつも持っているのだと、けれどもそれは、隠してあった。
それが赤裸々に出されなければならない、いや出さなければ、かえって神様に相済まん、かえって御無礼になるという事になってきた。例えば出来んなりにでも二十年間、私共が、もう限りなく美しゅうなろうじゃないかと、もう本当に確かに、おかげは和賀心にあるんだから、本気で和賀心になる事の修行をあらゆる角度からさせて頂いた。そして、その上に、立ったおかげでなからなければ、おかげは、これは、砂上の楼閣のようなものだと、私共がわかってきた。
それがわかってきだしたら、今度は、神様が私共に、周波を送って下さる事になってきた。どんなに私共がモ-ションをかけても、どんなに神様に私共が、ウインクしても、神様は見向こうともされなかったけれども、神様は、だんだん私共の方を向いて、私共が本気で拍手するならば、神様も本気で、神様のお扉を開いて下さろうというようなところになってきた。最近いわれておる、いわゆる願えという事である。
願いの本質、又は、願うという事がどのように神様が、待ち望んでござったかという事である。又、それを聞き届けて下さり、そのおかげを私共が受けた時神様も喜んで下さり、私共も喜べる、言うならば、本当の意味に於いての合楽。神も喜び、私共も喜べれるようなおかげという、おかげの実現がです、間近に感じられるという時代に、合楽はなってきたというのです。
願われておる私達、又、願いを持っておる私達、その願われておる神様の願いと、私共が願ってやまない願いとが、一つになった時に、そこから一つになって、生まれてくるもの、今迄おかげになったというても、一つになってのおかげではなかった。 いわゆる願われておられる神様の、お心と、願う者との心とが、一つになって、一つに合体して、そこから生みなされてくるおかげ、これが合楽的おかげなのです。
今日は、私は神様の願いが成就する日として、大事にされる十三日会にです、その神様が願っておられる、願われておる私達、そんなら私にどのような事を、願っておられるのであろうか、一人々がわからせてもらわなきゃいかん、一人々に違うだろう神様の願いというのは。それを願われておるという事は、どういう事であろうかと、わからせてもらう時に、私共の願いがそこにハッキリしてくる、ハッキリしてきたらその願いをです、言うならば、どうでもという、願いの元にです、私共が願いに徹しさせてもろうて、おかげを受けていこう。
私共がどんなに神様に拍手しても、向こうむいてござった神様が、私共の方を、向いて下さろうという事になっきてたのである。そこで、私共のこの拍手ひとつでです神様が自分の心を、吐露して下さる、一人々の上に、神の思い、神の願いというものを、向けて下さる。その願いを受けて私共が、願っていくという事になる時に、完璧な願いというのは、そのような願いである。そこにはね、人間が本当に幸福になっていく道がハッキリしてくるのである。
私共がこれを頂かなければ幸福になれない、これを、もうひとつもらわねば、幸福にはなれないという願いならば、もう絶対神様が、おかげを下さるという事です。ここの七月の信心焦点が「修行月、祈念力をつくろう」という事であった。それから八月が「根賀以(ねがい)に徹せよ」という事であった。今から思うて見ると、なる程、私共が願わなければいけないという事は、祈念力を作らなければならない、私共の思いを、本当に神様に聞き届けて頂く為には、祈念力願った上にも願い祈った上にも祈り、神様が聞いて下さったと、思えるところ迄の祈念力を作ろうと、なる程、七月から、そういう御準備があっておったという事を感ずる。
根賀以に徹せよという事も、もう既にあのような形で、教えられておった。その根賀以は、願われておる根賀以でなからねばいかんという事。それは氏子一人一人が、幸せになってくれよという願いである。そんなら私に、今これがなからなければ、幸福にはなれないというものを,まずわからなければならない。わかったならその事を、いわゆる祈念力をもって、ひとつ神様に願っていこう。
今月が「全ての事を有難とうございますと受けていけれる信心」これは全ての事というのは、全てのもの一切の事柄、それを有難く受けていけれる、私にならせて頂く願い。これは、まあ願いの最高のものであろう。そういう願いをね、ひとつお互い願いとして、ひとついよいよ合楽にかけられる神願成就とでも申しましょうか、合楽にかけられる神願が成就して、そして、それが世界中に、そういう願いが願われ、又、願い、そういう世界が顕現されてくる事を私共のこれからの願いとしていかなければならない。そういう手本、そういう見本というようなものをです、まず私共が頂かせて頂かなければならないという事になります。
どうぞ。
〔以上は九月十三日会の冒頭に頂いた御教話であります。この後、約三時間にわたっ て「願いの信心」について熱心に共励しあって、それを親先生にまとめて頂いたも が次に掲げる御教話であります。〕 ※ 生きた信心とは、私共が過去二十年間受け続けてきたおかげに命を与えるもの、息吹を与えるもの、その命を与えるものは、これから、私が言ういわゆる生きた信心をする事によって、二十年間の信心が全部生きてくるという事。さき程、例を申しましたようにある教会のように、例えば先生が亡くなんなさったら、もう散ってしもうた、どこへ行ったやらわからなくなってしもうたというのではなくてです、それが、天地と共にきわまりなく、家繁昌、子孫繁昌の土台というものを、私共の時代に作っておかなければならない。
そんなら、大坪総一郎出現の所以がそこにあるのだと、私は信じておるのです。ですから、皆さんもそれをですね、信じて下さって、親先生がおる間にここだけは体得しておかねばならんという事になる訳なんです。ですから、そんなら、今迄聞いてきたおかげが、例えば、それはただ捨て子的な、おかげではなく、それが生きてくる又よみがえってくる、それに命を与える為にもです、私共がこれからきわまりなくおかげを受けていく事の為にもです、生きた信心でなければならない。そこで、その生きた信心とはという事になるのですよ。
私は、その事を今、ここで御祈念させて頂きよりましたらね、『大きな、揚巻という貝がべろ-っと、身を出していくところ』を頂くのですよ。だから、それを誰かが手でちょっとつついたら、しゃっとひきしまった。生きた信心とはそういう事。
だからね、生きた信心とはね寝てはいけないという事ではないです。お芝居を見てはならんという事じゃないです。生きた信心というのは例えば場合には、もう、堕落と見えるような場合もあるかもしれんです。けれども、神様が、ほらほらと、言うて下さったら、シャンとするだけの内容を持った信心というのです。いわゆる、生きた人間がさせて頂く信心と言うのです。
今迄、例えば高僧、聖僧と言われたような、仏教の中に表れた宗教家的信心ではなくて、もう確かにお道の信心は、日に日に生きるが信心だという事なんです。
だから、だらっとしてもいいんだと、けれども神様は、そこにちょっと、お気付を下さったら、ハッとして引きしまれるだけの内容を持った信心を頂いておけというのである。これからの合楽の信心は、願いの信心に変わってくるであろう、御礼、お詫びも勿論内容にあるでしょう、けれども一番正面に出るのは、どうでもおかげを頂かなければならないという願いなのだ。その願いをね、する事が、神様の待ってござった事であり、その願いをかなえて下さる事が、神様の願いがかのうた事にまでなると高められてきた訳なんです。今迄の願いとは、値打ちが違うでしょう。
そこでそのそういう願いとは、どういうような事なのか、お道の信心で言う、願いの、根本原理というのはどういう事かと、先日久富勇さんのところの宅祭がございました。その時お祭りを奉仕させて頂こうとする前にね、御神前を猫がにゃお々言いまがら通りすぎてしもうた。私共は装束つけて、もう出るばっかりになっておった。私が猫を嫌うというのは、皆さんが知っておられるのに、皆んなが立ち上がって、こらこらとも言わん。私はもう本当に、今からお祭りを仕えなならんというのに、猫のお知らせは不浄とまで言われるのに、不浄がこのお祭りにかかったのかなと、私は一瞬ヒャッとしたんです。
そしてその事を、神様にお詫びさせて頂いたり、これからのお祭りの事をお願いさせて頂いとりましたら、頂く事がね、二代金光様、四神様の御理解であるところの「お道で言う不浄とは不成の事ぞ」とおっしゃった、いわゆる、お道の信心で言う不浄とは、不成、願うた事が成就しない事ぞと。素晴らしい事でしょうが、だからどうでも、おかげを頂かなければ、神様に御無礼になる。
そこでさき程から言われる姿勢が必要になってくる訳です。ですから、そういう、どうでも、おかげを受けなければならない、そのおかげを受ける願いの信心を、どうさせて頂くか、あんたは、こういういき方でいきなさい、あなたはこういういき方でいきなさいと、それ々の信心の過程と言うか、又、程度に応じて、これから、お取次させて頂く事でしょうけれどもね、言わば、願いに徹していく信心が、これから頂けれる訳です。
今の例えば、神様の願いの焦点はね、神の願いが成就する、例えば心を神様がドキドキさせる程に感動しながら、聞いておって下さると思うのです、神様が。これから、合楽の信者がおかげを受けていけるぞと、いう事になるのじゃないでしょうか。ですから、そういうおかげを願わせて頂く為には、この一線上までは、出るというのが、今日の前半のお話だった訳でしょう。
それをもうひとつ具体的に言うとです、例えば久富さんのところの宅祭の時に、四時半に迎えに来て下さった、私はそれでここで御祈念をさせてもろうた、只今から、謝恩祭を奉仕させて頂きますが、どういう事をもって、お礼の焦点にさせて頂こうかという事を神様にお願いさせて頂いたら、『甘露飴』を頂いた。紙に包んだ甘露飴、中から、それこそ、宝石にも似たような、飴がコロッところげ出るようなしくみになっておる。あの紙は、右と左にひねってあるでしょう。ですから、それを、ちょっと引くと中からコロッと、いわゆる甘露の飴が、ころがり出るようなね。
例えば、右と願っても左といったような事ここ二十年間、おかげを受けてきたけれども、この事だけは神様が、いくら願うても願うてもおかげは下さらんのかしらと思う位に、下さらない。いやそれどころか、願いもせん難儀な事が次々と、例えば久富さんのところなんか交通事故とか、いろいろ起きてきた。御自身の体の上にも変調が起こってきた。そういう中にです、お父さん考えてもみなさい、おかげ頂いとるですよ、と家内が申しますとね、ほんにそうねぇというたような、二人の者が喜べれる。いわゆる甘露というのは、信心でなければ受けられない境地を甘露という、これは、信心を高めた者でなければ頂けない心なのである。
それがね、本当にもう右と願っても、左になっておるけれども、まっすぐ、ちょっとそれをひっぱってみたら、中からコロコロと甘露のような喜びが湧いてきて本当にやはり、思うてみりゃ、おかげだな、わからせてもらえるという、そういうところ迄は一線上に出よという事。だから皆さんここまでは、信心を、二十年の信心にです、ここのところは、あらゆる角度から、説いてあるのだから、これはまず自分のものにする事に焦点を置いてそのところの信心をさせて頂きながら、願いに立てというのである。
その願いというのは、根本原理というものをです、お道で言う根本原理というのはどこ迄も根賀以なんだ、賀びを以て根とするのだそれは、私共の賀びを以て根とすのというのではなくて、神様も喜んで下さる事の願いにかようという事が賀びを以て根とする事なのです。自分の心の中に賀びを以て根とするというのではなくて、神様も喜んで下さる事の願いにかようという事が賀びを以て根とする事なのです。
自分の心の中に賀びを以て根とするという事なんかなかなか難しい、ところがね、健気(けなげ)な心、例えば子供が出来ないながらも、高芝さんじゃないけれども、御造営の始まる時にです、「先生高芝一家が一生かかっても支払いは致します、だから、御造営を思い立って下さい」と言わっしゃた。その当時は、まあだ借金の方が多いくらいじゃった。けれどもそういう、健気な祈りですたい、言うならば、これは、いわゆる、根賀以、神様が、喜んで、もう、それは支払ってもらおうとは、思いござらんばってん、その心根が可愛いじゃないかというのです。
今日皆さんが頂いてもらわなきゃならない事はここだと、根賀以に徹せよと言う事は、神様がね、なる程目を細めて下さる程しに、喜んで下さるだろうと思うような、祈りが願いがね、根賀以の根本原理である。ですからね、億万長者にならせて下さいもです、夢ではない、でなからなければ、神様、お役に立とうと思うても、立てません、勿論億万長者になったからと言うて、悪い所通いをしたり、悪い事の為に使うような事は、金輪際致しません、只世のお役に立ちたいの一念が、願いになってくると言う根賀以が根本原理だ。お道で言う願いの根本原理はそこなんだ。
それは、そうすると大変容易い事になって参ります。神様がこげんするなら喜びなさろうという願いはすぐ気付く事ですよ、今迄の教えを元にすれば……
只自分の我利我欲の為に、貯金させて下さいとか、健康にならせて下さいという事とは段階が違う。賀びを以て根とするところの根我以、その根我以の根本原理とするところのものはこれだと。そこでその具体的なひとつの例を言うならです、竹内先生が、今度の市長選が始まる前にお伺いがあったんです。御自身としても勿論親先生まかせ、もう立つなとおっしゃれば立たん、実を言うたら、もう一期辛抱しておれば、市長さんの座を、竹内先生に譲られるような、話合いも出来ておったんです。
ところがいろいろな事態が変わって参りましてね、どうでもこうでも市長になってもらいたいという願いがあって、始められたところが、片一方には言わば、運動資金すらないと言うて、そんなら例えば市長さんの人気が悪いというのでもない、いやむしろ反対に、とても人気がよくて、実力者がズラリついておるから、まあだびくともせん程の地盤をまあだ固められておられたというのである。
だから、これに立ち向かうという事は、どんなに考えても理不尽であり、馬鹿らしいという事であった。ところが神様が立候補するという事を声明せろという事であった。さあそれからの竹内先生き願いなんです「只今、私が助役をさせて頂いておる事よりも市長にならせて頂いた方が、今の市長さんよりも、より、世のお役に立つ事だけを、私は確信する」というのである。
言うならば世の中のお役に立ちたいの一念がね、どうでも市長選に、参加させて頂きたいという願いであった。世のお役に立ちたいの一念がその願いであったという。 だから、ピッタリその願いにあてはまる。だから、私共の願いがね、そういうところに、いわゆる分に応じて、このままでは、お役に立てない、このままでは、只、その日暮らし的な神様の勿体ない程しのおかげを受けておるけれどもです、これではお役に立てないから、本当に、お道で言うところの信心の根本原理にもとづいての願いにお互いが、変わらせて頂こうというのである。その願いをさせて頂くにもです、ここ迄は一線上に出らなければならないぞというのが、前半のお話であった。
それを具体的に言うと、普通で言うなら、難儀に見えるけれども、ひっぱってみたら、中から、甘露がコロコロと、ころがり出るような、思うてみりゃ、おかげ、御神愛、神様は、このようにしてまで私共をというその心が出てくるところ迄の信心を、やっぱりこれからとてもきわめていかなければならない。
そこに立ったところの願い、願われておる私、神様はね、一人々にそういう願いをかけておられるのであるから、そんなら、私共は、そこに気付かせて頂いて、私共の願いがそこにある、そこに初めて、本当の神の願いと、私共の願いとが一致するというのである。いわゆる本当の意味に於いての結合がここに出来る訳です。そういう意はに於いての結合。それと同時に、さき程、古屋さんが言われたように、どのような場合であっても、身も心も、もう親先生任せという行き方が、これを、高芝さんの例をもって、言うならばです、昨日でしたか、久しぶりにゆっくりされて、もう本当におかげを受けておるという事を実感的にいろいろ話されました。
本当に田主丸の時代は、子供達もあんまり寄りつかなかった。それは、寄りつかんはずですたい、寄って来りゃぁ、ほらお金をあんたたち加勢せにゃとか、というような事ばっかりじゃった。ところが最近ではね、さあ孫達が来りゃぁ、小遣いのひとつもあげられる位な爺と婆にならせて頂いたという事がね、有難いと言うてから、家内とお礼を言いよりますとこう言う。それがね、そんなら、どういう事から、そういう事になってきたかと言うとです、本当に、あのような時代に、あのような中に、ようも親先生任せになってきた事が、出来たという事を述懐してから、改めて、家内とお礼を言うとこう言う。
そこにはね、高芝の願いが成就するのではなくて神様の、それこそ身も心も任せての日田行きであった、そこから、高芝の願いも、そのようにして、成就してきたが、神様の願いも成就してきたというのが、そんなら、大分地区にまで支部が出来るようなおかげをだんだん頂いてきたというのである。神様の願いが成就してきて、高芝の願いが成就してきて、本当のものが生まれてきた訳です。だから、そういうおかげになっていくという事が内容になったところの願い。
いよいよ例えばさき程も、そんなら、親先生任せになるという事を、それこそ、「ついてきなされこの提灯にけっして苦労はさせはせぬ」と、本当に、苦労はせんかと思うとったら、親先生任せになっとったら、こういう難儀な事になってきたという事実もあるから、やはり皆んながこわがったという事もありましょう。
けれども、そこのところを通りぬけさせて頂いておったら、あれはこわい事ではなかった、神様が心に光を与えて下さる事の為であった。あれはこわい事ではなかったこわいと思うたのは迷いであった、あれは神様の言わば「力」を与えたいばっかりの御神意であったと、わからせて頂くところまで、任せきらなければ、いけないんだという事なんです。それを親先生任せにてなると、トンネルの中に入らねばならんような気がする。
けれども、トンネルに入らねばならんような時には、もう自分の言わば自家発電が出来る位におかげを頂いて、トンネルを抜けきらせて頂いたところに、晴々しいおかげが待っておるという事なんです。そういうおかげを、これからの合楽は合楽全体の願いとしていかなければならない。そういうおかげの手本、そういうおかげの見本をね、やはりひっさげて、世界の市場に立ちたいというのが、私の願いなのであります。ですから、そういう意味に於いての信心がこれから展開してくる事を、願いとされなければならない。
その願いの前の又願いというのが今日の御理解でしたねぇ。心がいきいきとしてこなけれはいけない、それはね、朝御祈念をさせてもらう、お参りをして来る、眠かった、眠うしてきたばってんここでお話を頂きよったら、心が有難うなった。心配事をお願いしたら、もう親先生が引き受けて下さったけんと思って帰る。帰るけれども、その現実にぶつかると又不安になる。それでよいのだという事であった。
それならば私だって昨日の夜の御祈念の時、手も足も上がらん位きつかったのです。もうだから電気を全部消してしまってから、御結界によりかかる位にきつかったんです。その時にね、心の底では、金光様、金光様と唱え続けている。丁度御祈念前に、熊谷さんがお参りになった。今日は熊谷さんは朝の御祈念に参られて、昼から、美登里会に出られて、夕方までおんなさった
、それが又、晩の御祈念に参って来とらっしゃる、しかも、三里も四里もの道を、かけてお参りをして来ておられる。しかも七十何才というおばあさんが、何と元気な人であろうかと、思うただけで、心が少うし明るうなった けれども元気にはなれなかった。そして、ここでお届けをされた。先生今日、帰らせて頂きましたら、もう娘がね、御飯の用意も出来ておりました。風呂も湧かしておりました。風呂に入って、御飯を頂きましたら、娘が言う事が「あら、お母さん、もう夜の御祈念にお参りの時間ですよ」と言うた。
もうその時の有難さ、もう今日は一日も参っとったから、参りなさらんでもと言うかと思うとたら、お母さんお参りしなさる時間ですよと言うてくれた。もう私はそれを聞いて、有難いと思うて、又お参りさせて頂いたというお届けをさせて頂いておったら、本当に熊谷さん、こうして、信心にかかられるという事、信心にかかりきられるという事は、何と有難い事ですかとお取次させて頂いとったらね、今迄の私の中にね、腐ったような血があったんでしょう、きつかったんですから、言うなら、糖尿病に負けておった、夕べは、ところがねその熊谷さんのお届けを聞くと同時にね、私の心の中に、もう体中に新しい血が入れられたように元気になったんです。
もう本当に、ですから、もうそこには、私の前には糖尿病ではなくて、神様の御都合、いわゆる糖尿病という名の神様の御都合になった。そのように、私でもやはり、糖尿病に負ける時があるという事、けれども、心の底に求め続けておるもの、それがいわゆる甘露であり、信心の喜びなのだ。それが何かの機会にぽっと触れた時にです、いわゆる全身が新しい血に入れ換えれる程しのおかげが受けられる。
最近、私は、この願いという事について、何でも願えといわゆる何でも願わせて頂くとおかげを頂く事に驚いてしまっております。先日から氷を頂くのに、必ず頭が痛くなる。それで、これは頂くたんびに頭が痛うなっちゃ馬鹿らしいから、頭の痛うならんごと、いっちょお願いしょうと思うて、お願いしだして、十日位になりますが、おかげでちっとも、頭が痛みません。
どんぶり一杯の氷を頂いても、有難いなあと思うて、神様にお礼を申し上げておったら、御神眼におじいさんに孫がおわれとる、孫というても、もう十二・三才位になる、それがおじいさんの背中におわれてから、踊っとるところを頂いた。その時に初めて、私はわかった。願うという事はね、只お願いしとります、只お取次を頂いとるからだけではいけない。
願ったら、願いきっていかにゃいかん、願い縋りきっていかにゃいかん、でないと、神様がおきついという事。しっかりおんぶをされたら、負う方も気易いけれども、背中で踊っていくなら、それは負うとる者はきつかです。これはとても、どんなにちょっとした願いでも、本気で願わにゃいけないなという事を、私は最近感じとらせて頂きよります。
全ての中に、だから何でもかんでも願わんの願わんのとこういう訳です。ですからそういう願いもね、只願うと言うても、切実に願わせて頂くというそういう願い、それと同時に願いの本質に立っての願い、それはお役に立ちたいからの一念が、願いになってくるという根本的な願い、そういう二つの願いに立ってです、私共はこれから信心を進めていきたいと思うのです。
どうぞ。