昭和45年9月9日 朝の御理解



昭和45年9月9日 朝の御理解

 御神訓 「蔭と日向の心を持つなよ。」

 人間の心の中にはやはり蔭の心も有れば日向の心もあります。 けれども、信心をさせて頂いて段々縋って行くとか立派になって行くとか云うのは、その蔭の所をむしろ日向の所よりも見事に生き抜く、そういう所をむしろ大事にして行くと云う生き方に変わって参ります、又変わらなければなりません。ここはもう誰も見ない所だからと云うて普通はそこを粗末にするところですけれども、段々信心が分かって参りますと見えない所、いや、むしろそこの所を大事にしていく。そういう生き方にそうしなければ居られない、まあ、云うならそうしなければ馬鹿らしい、そうすることが有難いと云うげな風にまあ変わっていきますね。

 ところが、信心頂いて居りましても、そこのところの思いとか信心が成長して行かないとするとこれはちょっとおかしいですね。 信心頂いて居りながらそういう事には気を使わない。平気でいわゆる蔭と日向の心を持つ。云うなら要領ばっかり良くなってと申しますね。人が見て居る時だけはいかにもまめまめしゅう働いて居るかのように見えるけれども、まあ主人なら主人が見ていないと、もういわば油を売って居ると云う様なことをです、そういう様なことをまあ極端な例ですけれども、平気で日常生活の上に繰り返して居るようなことではね、おかげにならん。いやそれは        そういう様な意味合でこの蔭と日向の心を持つなよという御神訓を大体今まで頂いて参りました、ね。いわゆる神様の御信用を受けた人達、いわゆる神徳を受けた方達は、確かに表よりも裏を丁寧に大事にしておみえた方達ばっかりであります。ね、だから、はぁもう自分はお徳を受けない筈だとすぐ分かるですね。自分の心の中というものを眺めてみてですたい、おかげは受けられても自分はもうお徳は受けられないと云うことが分かるですね。表はもうやっとるけれども裏は様なかと云う様な心の状態でいわゆる神様が裏も表も見通しですから、これではお徳が受けられないな自分はと、ね、けれどもおかげは受けますから、それでまあおかげさえ頂けばと云うことで一生終わったんでは、いよいよ魂だけの世界に生還させて貰わなければならなくなった時がそれでは恐いようですねえ。

 ですからどうでも一つ私共の心の中からお互い蔭と日向があります人間は、けれどもその蔭をです、ね、蔭をむしろ大事にして行くと云う信心。ね、いわゆる神様だけがご承知の世界に生き抜くと云うこと。ね、そこで今日は少しそこの所を向きを変えてですね、こういう様なことが有る。                   段々信心が分からせて貰う、いうなら「おかげは和賀心にある」と仰せられるから和賀心になることを一生懸命努める。ですからこちらが信心になればおかげを頂くことは分かって居る。ところが実際問題として自分の信心が遅々として進んでいない。もう何十年信心を続けて居るけれどもどれ程自分が進展したと云うのであろう、どれだけ自分の心の中に和賀心が頂けたであろうと思うと、もう云うなら愕然とする人が多いかろうと思う。ね、それでも段々教えを頂いて来ておりますから、ね、神様が例えばおかげを下さろうと云うても、いやもう暫く待って下さい、こちらの受け物が出来てからと云う様な生き方は、成程素晴らしいごとあるけれどもです、なら心の底にはやはり求めて居ると致しましょうか、ね、言葉には例えば信心さえ出来ればおかげを下さるからとね、言うておる。ところが心の中にはやはり実際おかげと云うものをここに見せられるなら喉から手が出る程のそのおかげが欲しい。ね、それがいうなら赤裸々な心、人間の。いいえ、おかげは要りません、おかげは欲しく有りません、まあいうならそれは嘘なんです。ね、だから信心をしてほんとのいわゆる和賀心を頂いてそのおかげを頂こうとこう思う。 ところが実際問題としてです、その和賀心とは似ても似つかない自分と云うものを見極める。これは何時になったら和賀心になれるやら分からん。それでもやっぱり心の中に欲しいと思いながら、欲しいと願うことはそれこそ罪悪の様に思うて居る。いうならこれは蔭日向の心ですね。心に欲しいと思いながら口ではいいえ要りませんと云うような顔をして居る。いえば体裁はいいね。けれどもこれでは何時まで経ってもおかげは受けられない。

 お芝居に傘を使いますお芝居が色々有りますね。まあ私が知っております限りでも沢山有りますが、その中でも例えば忠臣蔵の山崎 の所に定九郎が使う蛇の目の破れた傘を使いますね。まあここでは傘のお知らせを安心と云う。ね、どんな場合でも傘を持っときゃあ暑い思いをせんでも済むし、また降って来ても濡れんで済む。何時も安心を持っておけと云うのである。             例えば破れた蛇の目でありましても持って居れば役に立つ。ね、まあこれがいうならどういう事であろうか、信心の無い人達のまあ姿、ね、金儲けになる事ならば人の茶碗を叩き落としてからでも自分が儲ろうとする。ね、そしてやっぱり儲って居るのです。ね、人を騙してからでも金を儲ける。そして結局この世は金の世だと、金さえ有れば人間は幸せだと云う様な一応そんな顔をしておる。けれどもね、これは人間の切実なものなんです。定九郎の様にいうならば、  を殺して金を取ると云うことではなくてもそれと五十歩百歩の様なものです。ね、人がそれで死んでもですよ例えば、平気で自分が儲ることならやろうと云うのだから。ね、だからそういう例えば、中から安心を感じて居るというか、まあ幸せをまあ金さえ持って居ればといった様なものをしておると云うことは、まあいうならば、この定九郎が持っておる蛇の目傘の様なものだと。    ね、次にはあの歌舞伎十八番に助六と云うのがありますねえ。いわゆるあの伊達男の助六が花道を出て参ります時さして居る傘がそうですね。これは但しこれはあんまり役に立たない傘です。金張りのね、いわゆるこう傘をさしとっても傘越しに姿が見える程しの薄いいわば見せかけの傘、云うなら見せる為の傘なんですね。

 今日私が言っとります蔭と日向、心には欲しいと思いながら口には欲しくないと言って居る様な中にですね、よか信心しとるごとある顔をしとるのは、丁度助六が持って居るいわばあの見せ場と云うかね、はあ、あっちは素晴らしいとあれだけの難儀の中におかげ、御利益なんかいっちょも言わっしゃらん、信心さえ分かりゃおかげ頂きますがのとすまぁしてござる。素晴らしいごとある。今日もその心の中を当たって見ると欲しいのである。いわゆる蔭と日向の心である。だからそういう傘では勿論これはつまらない事が分かりますね。悪いことはしない、定九郎が持って居る様な定九郎的な、人の茶碗でも叩き落とすと云った様な事はしません。けれども信心頂いて居るからと安心の様であるけれども何時かは頂くであろうぐらいの気持ちでの安心は役に立たない。

 そこでね、私どもが持たせて頂くおかげ、安心、いわゆる傘を持っておかなければならない傘と云うのはどういう傘であるかと云うとね、太平記であるですね。太平記に現れて参ります松平伊豆守が持つ傘がある。ね、堀の深さを試しておりますあれは何とか云いましたね、丸橋忠也ね、丸橋忠也が堀の深さを試す為に石をこう投げ、いわゆる投げる振りをして堀の中の水のかさを試しよる。それを松平伊豆守が後ろからそっとそれにさしかけてやる、傘をね。今までバラバラ降りよった雨が急に止んだ感じで、手をこうやって丸橋忠也がやっていると上に傘がある。はっと気が付くとそこには丸橋忠也じゃない、松平伊豆守が蛇の目の傘をさしてしかも丸橋忠也に差しかけて居る。そこで酔うたふりをしてそこを逃れるところがある。又夕方にはそれを知っていると云うわけなんです。けれどもそこは大目に見てやるというわけなんですよね。云うならば、人の事が願えれると云う信心。ね、いわゆるそれは賊に違いは無いけれどもそれを見逃してやれるその器量というかね、心の深さというか、これにはなら自分も濡れていない人も濡れていない、自他ともに濡れんで済む程しの傘、まあ云うならそういう傘、そういう安心を目指してお互いが信心をさして貰わなければならこうんと云うわけである。いわゆるお芝居三題ですね、云うなら。傘を使うお芝居です。

 そこでね、私は思うんですけれども、本当に私共が赤裸々なところを刺激したらおかげが欲しいのだ。病気の者は健康になりたい。お金に不自由して居る者は、よそにあっちこっち借りさばかんでよいだけでもよいからお金が欲しい。ね、人間関係に悩み苦しんで居る者はなんとか人間関係の上にも、もちっと仲の良い行き方で行ける道はないものかとまあ思う。ね、だからその思うと云うことをです、私は願って行くと云うこと。               どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さいと願う。どうぞお金のお繰合わせをお願い申しますと願う。ね、健康にならせて下さいという願い、例えば。ね、そういう願い、そういう願いを私は願うことがです、本当は人間らしいことになるのではなかろうかとこう思う。ね、願うことはおかしいとか、願うことはと云うのではなくて、そこに願って行くと云うこと。むしろ定九郎の様に殺しはせんでもです、人の茶碗を叩き落としてからでもね、例えば云うなら掛引きをしたり騙したりしてでもです、自分が儲ろうとする根性です。ね、しかしそういう根性がです、ならお互い心の中にあるとするなら、例えばお金が欲しいならお金が欲しいとね、赤裸々にね願うことの方がまだ人間らしい。ね、例えばその傘が破れておってもです、そりゃ役に立つでしょうが。ね、だからね、私信心がまだ幼稚であり分からない時には、只願うことが信心、頼むとが信心と云う様な思い方で願うと云うこと。だから願うことはこれは決しておかしいことではない。むしろ人間らしいんだと、ね、それは破れた傘ではあってもそれは本当なことはななくてもそこで願うと云うことなんです。いわゆる何でも願う。

 私昨夜は一睡も致しませんでした。このことに考えを今度この事が段々も少し具体的にもうほんとにびっくり仰天と云うかね、合楽の信心がもうほんとにひっくり返る程しの事を今私は考え続けております、昨夜から。だからこれが今度の十三日会ぐらいにはどうでも一つ合楽で御信心を頂いて居ると云う程しの人なら全部一つおい出頂いて私がね、二十年間の信心をずうっと聞いて貰い、そしてここに至って今私が思うておるその事柄をもっともっとね、誰にでも分かる様な説明の仕方を夕べ一睡もせずにそれを考えました。それでもう実にデリケートなその表現を持ってですね、沢山頂きました。それは何かにちょいと書いとかなければおけぬ位に頂いた。だから今日はその話をして居る訳じゃないです。今日は蔭と日向の心を持つなと云うことを話して居るわけですけれども、私共の心の中に欲しいと思いながらです、心には喉から手が出るほど欲しいと思いながらです、それを願うことは信心ではないように思うて、それこそ助六が持って居る傘のように、只そういうて居る事を如何にもね、それは聞いた目見た目にはいいんです、はぁ成程よか信心しござるなと云うことはあるです。けれどもそれでは役に立たないて、それよりもむしろ定九郎がいわゆる人間の汚い心であってもぎりぎりのですね、痛いなら痛い痒いなら痒いことを願わせて貰う。そしてそこに立ち行くおかげを頂かせて貰わなければならんがです、そのことに今ついてね、まあ色々頂いて居ること。私は夕べその事を気付かせて頂いて十二時ちょっと過ぎでした。まだ青年会の方が帰って仕舞うて教励殿の方を見たらまだ電気が付いておりますもん、だから若先生やら日吉さん、それから麻生さん加藤さんと四人で居りましたから私行ってからあのう将棋など差しよりましたから「ちょっと将棋など止めんの。私の話を聞いてくれんの。そしてあんたどんもっと新しい知恵を貸して呉れんの」と言うて私は暫くその事について一生懸命お話をしました。そして一応皆にその話を聞いて貰ってそれをどげな風に皆に伝えたら皆が分かるだろうかと、と云うことをですね、今迄云うてなかった、今迄いわばたふ?と申しますかね、言うてはならない事の様にして教えてきた、教導してきた私がそれを今度は言えと云うことの切り替えの一つの時期にある信心をです、皆さんに計ってそれから自分の部屋に参りましてから、もうそれこそまんじりともしませんでした。もうそれこそ一生懸命に思うた。いやそれはね、私はその事が充分分かって居る。けれどもこの充分分かっている事をみんなに分かって貰う為にはどういう表現をしたならよいか、もうそれは色々な事を使っても言葉ほど不自由なものはないと云うことを夕べほど痛感的に分かった。まあ云うならそれのいわば今日の御理解ははしりのような御理解ですから。まあだこれからね、その事について色々説きましょう、そしてまあ一つ十三日会を山としてその二十年間の信心のことから、ここからのおかげを頂かねばならんと云う信心もですね、いわゆる何でも願うと云うこと。しかもそれがどうでもの願いと云うこと。それを願い込んで行くと云うことに大体なるんですよ。ね、        だから何でも願うと云うことは、何でも願うと云うことはこれは広いと云うことである。何でも願うと云うことは広い。ね、だから何でもの願いと云うことはそんならどんな我情我欲なことでもと云うことじゃないですよね。ね、自分が願おうとして居ることがです、神様の云うならば心に通うて行く願いであるならばです、もうそれこそ何でも願おう。どうでもと願うたら最後どうでもこうでも頂かんならんと云う姿勢なんです。これを深くと云うことになる、どうでもと云うことは。これも私は随分夕べ考えてからこれは出てきた答なんですよ。ね、どうでもこうでもと云うことはね、深い信心が深くならなければいけない。例えばどうでもこうでもお願いしますと言うたら、頼まれる人が「そうですか、それなら考えときましょうと。けれども私の言い分も聞いて下さいよ」と条件が出されるでしょう。その条件を聞いてからでもどうでも聞いて貰わなきゃならんのですから。これはね、なら神様がそこを一つあんた変えなさいとか改まりなさいとか、けども聞いて下さると云うことになれば、ならそこを神様の条件を聞いてですね、こっちがどうでもこうでもと云う願い、只ねお取次を頂いてお願いしときゃそれでよかと云った様な生優しいことではなくて、そこに願い込むと云う事になってくる。願い込んで行くということ。ね、云うならばあの夏期信行の時皆さんが神様にそれこそ神様に噛み付くような勢いで願われたでしょう。ああいう願い、その為には今まで一遍御祈念しよったとが二遍、一遍参りよったとは二遍ね、と云う様にです、願い込んで行くと云うこと。ね、願い込んで行くと云うこと。何でもの願い、それを凌ぐ、どうでもの願いと云うことを深くと頂かせて貰うて、そしてしかもですね、それを繰り返し繰り返し願い込んで行くと云うこと。抱え込む様に願い込んで行くと云うこと。ね、しかもそれの方がですね、それの方がね、もう素晴らしい人間らしい考え方であり、願いでありしかもね、神様が喜んで下さると云うような事柄をです、ね、私の心にはもう分かって居ることなんですから、それを皆さんに分かって貰えるようにね、段々これからお話していこうと思う。そこからね、合楽の信心が今迄二十年の信心をです、ね、基礎土台としてのですね、一つおかげになっていかなきゃならない。

 だから今日のところは皆さん自分で心の中に欲しいと思いながら願わないのはもう既に蔭と日向の心があると云うこと。ね、今日はまあこの辺までのところを聞いて頂きましょうかね。ね、

ですからね、心にはぁあって欲しい、こう願うなら、その願うことをね、ほんとにあの願えれる信心にならにゃいかん。願ったら最後どうでもこうでもと云う願いに深めていかなければならない。 それをおかげを受けるまではと云う願い込んで行くという信心になっていかなきゃならない。

 「蔭と日向の心を持つなよ」と云うことの新しい解釈ですね、今日の御理解は。心には欲しながらそれを例えばくそ遠慮して居るというか、そんなこと願うのは信心じゃないような思い方をしておることを正していかなきゃならん。そして人間らしゅう痛いなら痛い、痒いなら痒いと願って縋って行かなきゃいけん。ね、そこにおかげを頂いて神様の喜びを頂く事も出来、私共の喜びも頂くことが出来ると云う様なおかげを頂かせて貰う。同時にいわゆる蔭と日向の今日お芝居三題の中から例を申しましたね、おかげを頂くと云う意味合いだけなら定九郎が持って居る蛇の目の破れた様な傘の方がまだいい。けれどもそれをいいと云うことではない。そこからね、云うなら少しづつ蔭と日向の心とさっき頂いて居る、云うならば、信心させて頂く者が信心者でありながらこういういわばかんけんな心を持って居ったんでは徳が受けられんと分からせて頂いたら、そういうところを本気でむしろ蔭になっておる所を大事にしていく様な信心に、信心してそれこそ松平伊豆の守が持っている様な立派な蛇の目の傘、しかも大きな器と云うかね、器量と云うか、云うなら賊であるその丸橋忠也のそれでもかばうてやろうと云う位なね、願い、それをまぁ云うなら何でもの願いと、広く願って行けれる信心もついておると云うようなことをね、今日の御神訓の中から聞いて頂きました。

 今日から恐らくその願いと云うことについてね、また御理解頂くと思うんです。それが今迄予想もしなかったこと、そういうね、願いをかけさせて頂くことが、これはいよいよ本気な事になって来るいわゆるお互いおかげを受けて行く事の道に繋がるんだと云うことをね、私がまあ感じ取らせて頂いて居る。ね、けどその事を誰でも分かられる様な表現で聞いて頂こうと思うんです。ですからどうぞ今から十三日の日の事は皆さんしっかりお繰合わせを願うて下さいよ。して夫婦が信心しとるなら夫婦で聞いて下さい。親子で信心しよるなら親子で聞いて下さい。とにかくその日は一日どうでもこうでも休んでからでもですね、いわゆる大きなおかげの転機に立つ合楽という様な意味でですね、お話をしたいと思うんです。今日は蔭と日向の心を持つなと云う、云うならば新しい解釈に立っての御理解でしたね。 どうぞ。



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