昭和45年4月18日 朝の御理解



昭和45年4月18日 朝の御理解

御理解第93節 「氏子は神の守をして居る者を神と心得て参詣する。守が留守なら、参詣した氏子は今日は御留守ぢゃと云はうが、神の前をあけて置く事は出来ぬ、萬時に行き届いた信心をせよ。常平生心に社 を着けて居れ。人には上下があるが、神には上下がない。人間は皆同じやうに神の氏子ぢゃによって見下したり、きたながったりしてはならぬぞ。」

 お取り次ぎをして下さる先生方に下さった御理解でしょう、最近取り次ぎ者金光大神の信者じゃと云われております。又は全信奉者が取り次ぎ者とゆう風にも云われております。

 確かに私はそうだと思います。そうゆう気持ちで御信心させて頂かねばならん、又先生だからと云うて、俺は取り次ぎ者だから、信者だからとゆう事はない。やはり金光大神の眼から御覧になれば、金光大神の御信者に違いはない、先生自身がやはり、金光大神のお取り次ぎを頂いておかげを受けなければ、立ち行かんのですから、そうゆう意味で皆さん今日はひとつ、皆さん一人、一人が先生になられたやうなつもりで、お話しを聞いて頂きたいと思います。

 段々、稽古をして参りますとですねぇ、やはり玄人の域に達すると申しますか、やはりそれが何の稽古事でも同じですけれども同じですけれども、同じだと、こう思います。もう玄人はだしだとゆう訳です。ですから、信心はとりわけやっぱり、そうゆうおかげを頂かなければ、本当に有り難い事になってこない。

 御理解第二節の中に、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてるとゆう事がないと、そんなら金光さまの御信者が全部御神徳を受けておるかと云うと、御神徳受けておられるなあとゆうのは、そうざらに有るもんじゃない。もうそれこそ滅多にない。

 だから、信心すればとおっしゃる信心とゆうのは、どうゆう信心を指して云うておられるのであろうか、御神徳が受けられるやうな信心とは、しかも誰でもおかげが受けられるとおっしゃるのですから、もう金光さまの御信心をする全部の者に御神徳が受けてくれよとゆう、ひびきと云うか、そうゆうものを感じます。

 信心しておれば、誰でも御神徳を受けられるのですぞと、御神徳を受けなければならんのだと、云うておられます。と云うて、そんなら御神徳を受けた御信者、先生とゆうのはそうざらにあるもんじゃない、やはり神さまの、いわゆる御信用が受けられるやうな信者、先生にお取り立てを頂かなければならん。 その神さまの御信用を受け、神さまのお引き立てを頂かせてもらえる程しの信心とゆうのが、私はこの九十三節に有りますやうな心がけが必要、こうゆう信心させて頂くところに神さまの御神用が頂けれるのだと、こう思う。

 氏子は神の守をしておる者を神と心得て参詣する。守が留守なら、参詣した氏子は今日は、お留守じゃと、云おうがと、これは例えば取り次ぎ者が御結界をはずしてならんと、神さまの前をあけやならんと、ゆう事でしょうけれども、お互い信心させて頂く者はです。いつも自分の心に神さまを頂ききっておくとゆう事なんです。

 特にここの万事に行き届いた信心をせよと、常平生心に社 をつけておれ、とゆう風に云っておられます。

 万事に行き届いた信心、心に社 をつけておるやうな信心、私はそうゆう信心に御神徳が受けられると思います。

 云うなら、ここの神の前をあけてはならんとおっしゃるところをです。それこそ寝てもさめてもです。

 ですから、寝てもさめても心に神さまを頂いておくとゆう事がどのやうに有り難い所かとゆう事が分かる迄、辛抱しなければ駄目だと、こう思うですねぇ。 これは私共いつも体験させて頂く事なんですけれども、体が例えば悪い時なんか、もう寝とってもどうにも悪いから、御結界に座らせて頂くとです。不思議に体がしゃんとする。嘘のやうです。そのやうに御結界とゆう所は有り難い。 昨日、なんかも私は大変体がきつかったのですけれども、午後からここへ出らして頂いたら、体がしゃんとして、又夕方迄、もう身軽々と御用させて頂く事が出来た。そのやうに不思議な所なんです。この御結界とゆう所は‥‥‥。 だから、それは御結界にかぎった事ではない。ここにおると、神さまを心の中にしゃんと頂くからなんです。お互い、私共のそんなら、御信者さん方の場合であってもそうです。体がきつい、体がだるい、家におってもこんなにきついからお参りをさせて頂こうと、お広前にお引き寄せ頂こうとはずんできますから、もうここへ着いた時には、しゃんとして帰る時には身軽々と帰らせて頂くとゆう体験は皆さんも同じでしょうが。

 だから、神さまの方へ心を向けるとゆう事がこのやうにも有り難い事だとゆう体験をまず頂かなければなりません。心を神さまに向けるとゆう事がこのやうにも有り難い事だとゆう事を分からなければならない、だからもう神の前はあけてはならんではなくて、あけられんのである。

 万事に行き届いた信心をせよ、常半生心に社 をつけておれ‥‥‥。

 常平生心に社 をつけておれとゆう事はきちっとした信心をせよとゆう事、社 をつけますと人間は羽織り袴をつけてもしゃんとするのですから、これ、社 をつけたらですねえ、よけいしゃんとするだろう。

 侍の方達が何か儀式とゆう時には必ず社 をつけられます。体がしゃんとする訳なんです。

 常平生心に社 をつけておれとゆう事は、しゃんとした信心をせよとゆう事、きちっとした信心をせよとゆう事。いわゆる信心に筋金が入らなければならんとゆう事。

 何かちょっと困った事、難儀な事が有るともう信心がゆるむやうな事ではならんとゆう事。同時にここで私が申しております、「信心に節度をもて」とゆう事。

 信心に節度を持つ。節度とゆうのはきちっとした‥‥‥。これは昔の兵隊さんが使われた言葉です。敬礼ひとつさせて頂くでも百人なら百人の者がきちっと揃う。「やすめ」から「きおつけ」の時なんかもう、それこそ、きちっ、きちっとカチッと靴のかかとが合う見事な音が出ますがね、いわゆる節度。

 あれにはやっぱりひとつの要領が有るんです。だから、そこのところの私はコツあいとゆうものをです。体得しなければいけん、信心に節度を持つ。これだけはと、心の中に定めさせて頂いたら、それをきちっと行じぬくとゆう事。

 それはそんならきちっとしたおかげを頂きたいなら、信心の節度を持てと、私が言うのです。おかげだけは、きちっとしたおかげを頂きたい、そんならやはり信心の方もきちっとした行儀のよい節度のある信心させてもらうところから、おかげもそれに同じ伴うてくるおかげもきちっとしたおかげが受けられる。もうそれこそ尺で計ったやうにきちっとしたものである、やはりきちっとした信心をしなければならん、そこんところをここでは社 をつけておれと、社 をつけたやうな信心をさせてもらえと云のである。

 自分の都合のよか時はえらい念入れて拝むばってん、自分に都合の悪かと、もう拝むともろくろく拝まない。そうゆうやうなやはり信心ではです。やはりおかげもそのやうに頂いたにしても、しだごだです。しだごだの信心しておかげだけはきちっとゆう事は、願う方がやっぱり無理です。信心するならやはりしだごだの信心よりです。きちっとした節度のある信心させてもらう事によって、きちっとしたおかげを受けさせてもらうのが有り難い。

 ですからそんならきちっとした信心をさせて頂かなければ馬鹿らしいのであり、きちっとした信心させて頂く事が有り難いんだと、やはり分からなければいけない。

 神の前をあけておく事はならんと、取り次ぎ者にたいしておっしゃったと云われる、あけてはならんとおっしゃるから、泣く泣くでも辛抱してここへ座らせてもらう、そこのところの辛抱をしぬかせて頂いておるところからです。ここ御結界とゆう所がこんなにも有り難い所だとゆう事を体験させてもらうのですから、ひとつの過程ではあります。そこんところの辛抱が大事。

 きちっとした節度のある信心させて頂くと云うても、初めの間はしだごだの信心から始まってもです。段々本気で節度のある信心をさせて頂くやうになり、節度のあるきちっとしたおかげが受けられるやうになり、これはきちっとした節度のある信心をしなければ馬鹿らしい事が分かり、その事が今度は有り難うなってくるとゆう風に信心が進んでゆかなければいけん。

 これはですねえ、いかに神さまがきちっとした信心を求めておられるかとゆう事は、いかに神さまがきちっとしたおかげを下さろうかとしておる事を知らなきゃいけません、神さまが本当にきちっとしたおかげをやりたい、と思ん旨すから、又私共に神さまは、そのきちっとした信心を求め給うのです。

 もう私の信心が、皆んなが私に云われます。熱心に御信心が出来る、どうせ学院行きでしょうと、金光さまの先生になられるのでしょうと皆んなが私に言われる、もう私はその事だけには身がゾッとしよった。本当に金光さまの先生になろうてんと思うちゃおらん、どんなに熱心にしたっちゃ、そりゃあ云うなら玄人はだしと思われる位な信心させて頂きよった。

 小倉の桂先生のお話しも頂いておる、福岡の吉木先生、久留米の石橋先生、又は三井教会の初代の荒巻先生の御信心を見たり又は聞いたりさせて頂いておる、御修行ぶりといったやうなものを聞いておる。

 だから、たとえ先生方だって人間だ、だから私だって人間だから先生方の修行が出来んはずがない、とゆうのが私のこれは持論でした。修行に対する、これは信者じゃけんこん位でとゆう思いを、その当時はしておりませんでした。そうゆう信心が出来ておりますから、誰の眼にもですね、私がもう学院に行くもんだと思うておられる、けれども私はそれを聞くと身がゾッとしよりました。 どこ迄も、そうゆう信心をさせて頂いてとに角商売より他に知らんのですから商売一本でおかげ頂こうとゆうのが、私の願いでしたし、その商売の上に特別の広大なおかげを頂こうとゆうのが私の願いでしたし、その商売の上に特別の広大なおかげを頂かんならんから、そうゆう云うならば先生方がなさったやうな修行にまで取り組ませて頂く事になっておった時代であります。

 御本部へは毎月どんな中からでもお月参りをさせて頂いた。当時は親先生もお月参りをなさっておられました。丁度久留米の初代のお立ち日が千本杉の上の方に奥城が有りましてあちらで、久留米地庄の手続きの先生方が集まられまして、あちらで各々お御馳走を持ち寄りまして親先生の奥城の前でお酒盛りがあっておりました。

 私は初めて先生方ばっかりの中へです。どうだろうかと、思うたけど、親先生が是非来いと云われるから、初めて先生方ばっかりの会合の中に入らせて頂いた。その日、久留米地庄の先生方が寄り寄り話し合って今日の夕方から御本部に立とうとゆう話し合いをなさいました。

 その時に親先生がある都合で、おい出られる事が出来なかったんです。それで、私は、私も一緒にやらして頂こうと、思うておったけれども、旅費がないから、とに角急いで福岡の方へ帰ってひとつ何とかお繰り合わせを頂いてその先生方が乗られておるその汽車へ、博多から乗り込もうと、思うて、そこそこにして福岡に帰らしてもらうた。

 それこそ一生懸命の思いで、どうでもお参りせんならんと思うて帰らせて頂いた。そしたら私の家の前に、綿を積んだ自転車が置いてある。誰かが来てる訳です。

 そしたら、布団を作りたいとゆう訳なんです、だから、その当時、まだ衣料品とゆうのは、闇から闇といったやうな時代ですから、私が闇製品をやっておりましたから、私の方へ尋ねて来てあった。

 ところがその頃は私がもう商売は全然止めて商品も全然持ちませんでしたし、けれども、私がその闇製品をやっておるとゆうので尋ねてみえた。何か布団生地になるやうなもんはないだろうかと。

 とこがですねえ、もうそれこそ、売れ残りの八反生地が二反だけ残っておった丁度その方が布団生地をと、云われるから、一反ここに有る事は有るがと、云たらもうそれでよかどころじゃない、それをわけて下さい、と云うてそこでおわけしたのが丁度、御本部参拝の旅費と私のお初穂だけであった。その金額が‥‥‥。

 それでもうそのお金をもろうて、博多駅に走りました。おかげで間に合った。先生方も久留米から四、五人の先生方が乗り込んでおられました。一緒にならせて頂いて、御本部参拝した。

 夕方の急行で帰る訳です。それで二度目のお礼参拝にお広前に出らして頂きましたら、しきりにですねえ、私がその頃まあだおしらせとか頂いた事がなかったんです。しきりに私の心にです。いわゆるあの胸知らせとゆう訳なんです。それから胸知らせとゆうのを頂くやうになりました。

 例えば道を歩いておりますと、この家に寄れ寄れといったやうな、ひびきが胸にしてくるのです、寄ってみると確かにそこに私が用事が有るといったやうな状態の時分なんです。

 二度目にお広前に帰る為出らして頂いて御祈念させて頂きよったら、しきりに私の心の中に、いわゆる胸の中にです、胸知らせがある。

 とゆうのはね、私が当時親孝行したいばっかりに、一生懸命の信心させて頂いておるとゆうのが、私が信心に本気で打ち込んだはじまりでしたから、その事を頂くのです。

 お前が常日頃は、あんなに親が大事と、こう云うけれど、この度は親の名前でのお初穂もしなかったじゃないかとゆう事なんです。心の中に頂くのが。

 神さまは私が帰りの汽車賃だけしか持ってない事は御承知なんですよ、云うならば‥‥‥。その私にたいして、それを頂くのです、もう私はそれを頂いた感じた途端に本当に相済まん事だと、さき程申しますやうに一反の反物を売らいて頂いたのが丁度、旅費を私のお初穂だけじゃなかったんです。勿論途中の弁当代なんか有ろうはずが有りません。

 私共は御本部参拝するのに、お弁当持って行ったり御飯食べようとは思いませんでした、あの当時は‥‥‥。

 母が作ってくれるおにぎりなんかは、もう絶対食べて帰らずに帰りにはおみやげに持って帰りました。それはもうおにぎりなんて子供達に対しては、大変なおみやげですから、とても御本部参拝するのにお弁当てんなんてん、ぜいたくな事。もう席てんなんてんなかとは問題じゃなか、とゆうやうな熱烈な信心をさせて頂いておる時分です。

 そこでですね、私の財布の中には、百円だけ残っているんです。それはね、帰りの急行券を買わなければならんとゆうお金でした。その当時は急行券は百円でした。

 そこで私はその百円を、もう急行に乗らずに普通で帰ろうと心に決めた。そして、その百円を包ませて頂いてから両親の名前を書いて金光さまにお取り次ぎを願った。金光さまはね、御神米を三体下げられました。そして初めて、その時に大坪氏とゆうお書き下げを頂いた。信者時代に‥‥‥。

 いかに神さまがおかげ下さろうとしてござるかが分かるでしょうが、いつもはちゃんと、家族の者から両親をはじめたとえ、多少なりともさせて頂く。ところがその時だけはもう私の多少なりともさせて頂く。ところがその時だけはもう私のお初穂でいっぱいだった。だから相済まん事じゃけれどもと思うて自分だけのお初穂をして、帰らなければならんから、二度目のお参りをした時に、心の中に頂くのが、そうゆう事であった。

 そこで、私は残っている百円の、その急行券を買わなければならないお金を、お初穂にして、大坪徳蔵、大坪ツルヨとゆうお届けをさして頂いたら、御神米が三体下ってね、初めて大坪氏とゆう、もう大変な感動でした。信者でお書き下げ頂くなんてもう、それこそ大変な事ですから、それ以来、私はお書き下げを頂くやうになった。

 その有り難さが、もう有り難とうしてたまりませんから、又すぐ奥城に出らして頂きまして、教祖さまの奥城に出らせてもろうて、四神さまの奥城に出らして頂いたら、もう初めて神の声を聞かせてもろうた。初めは、もう耳につんざくやうなお声であった。「四神」とゆうお言葉を頂いた。

 それから、私は神さまのおしらせを頂くやうになった。もうそれから大変な修行が始まった、神さまのさして下さる修行が云わば始まった訳でございます。 その時、先生方が帰られますから、私は駅まで皆んな送りました。その頃はもう、どの先生でも大変に好意的でありましたし、大変かわいがって頂いておりましたから、先生方が私が今金で 迫したり、修行したりしよるとゆう事を知っておられるもんですから、先生私は都合が有りますから、次の汽車で来ますと、だから先生方はどうぞと云うて、先生方を駅まで送って行ったら、「大坪さん、そげん事は云わずに、一緒に帰りなさい」と急行券位のお金なら、どげんかなるが、とまあ云うて下さる先生方もありましたけれどもです。私は先生方を送ってから、私は次の普通の汽車で帰らせて頂いた。

 例えば、この話しから皆さんが今日の御理解の所を感じて下さると、いかに神さまがね、きちっとしたものを、こうと決めたら、こうとゆう節度をね、守りぬかせて下さったとゆう事が分かるでしょうが、心の中にこうと決めておる事は決めねかせて下さる。

 それにはどうゆう事かと云うと、きちっとしたおかげをやりたいばかりなのである。私と金光さまとのお書き下げによってのつながりは、その時からであったし、奥城に出らして頂いて、三代金光さまの奥城に出らして頂いて初めて、「四神」とゆうお言葉をいわゆる心耳ですねぇ、心耳に響く程しのおかげを頂いたのは、それが初めてそれから神さまからいろいろとおしらせを頂くやうになった。

 そうゆうおかげを下さろうとする前にです。そうゆうきちっとした事をもしお金が急行券を買うお金しかないでだから、神さまも御承知だから、といったやうな事で、そこをしだごだにしておったら、おそらく、やはりその後に於いてもしだごだであったろうと思います。そのやうに大変な事なんです。社 をつけたやうな信心をせよとゆう事は。

 どうぞ皆さん、おかげ頂きまして、ここは正しく取り次ぎ者、先生に下さった御理解ですけれども、御理解二節に有りますやうに、神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来る。みてるとゆう事がないと教えておられますところが実際に、御神徳を受けたとゆう程しの先生やら信者やらがものごくまれでありますやうに、そうゆう御神徳の受けられるやうな信心とは、どうゆう信心か。

 それはこの御理解九十三節に有りますやうにです、寝てもさめても金光さまを自分の心からはずさないとゆう事と同時に、いわゆる万事に行き届いた信心をせねばならんとゆう事であります。

 同時に常平生、心に社 をつけておれ、とゆう事なのであります。そうゆうきちっとした信心の上にです。そうゆう信心を土台にしてのおかげであって初めて、きちっとしたおかげも受けられるし、そうゆう信心に御神徳が頂けるのじゃないかと、こう思います。

 私の御本部参拝の百円がです。御神徳を受けるきっかけであったとするなら、大変な事でしょう。なおざりには出来ない神さまは知ってござるけんでとゆうやうな自分で簡単な割り切り方をしてはならない。

 先生方とやはり折角一緒に来とるのですから、一緒に帰れば、やはり楽しゆう帰れるるんだけれども、一人で帰ろう、その急行券のいらない汽車に乗って帰ろうと心に定めさせて頂いただけであった。

 その日から私は金光さまにお書き下げを頂くやうになった。云うなら、金光さまから御信用を頂いたとゆうやうな感じがする。三代金光さま、四神さまがその日から、初めて私に云わばよびかけて下さる事になったとゆう風に思うのです。

 いわゆるきちっとした信心から、きちっとしたおかげが受けられるやうになり万事に行き届いた信心させて頂くところから、神さまの御信用が頂けれると、私は信じております。

 皆さんも、どうぞひとつ先生も金光大神の信者じゃと云われ、御信者の皆さんも、全信者が全取り次ぎ者としての自覚といったやうな事が云われます。皆さんもどうぞひとつ、それはもう先生のものだと思わずに云わずに、先生がする位の修行なら、自分達も出来んはずがない、とゆう位な意気をもってです。取り次ぎ者になったつもりです。例えば私が申しましたやうな今日のやうな信心を身につけておいでられる事が有り難い事じゃないでしょうかね。どうぞ。



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