昭和45年3月8日 朝の御理解



昭和45年3月8日 朝の御理解
(おかげの泉 第2号)

      天 地 書 附

   生神金光大神
  天地金乃神一心ニ願
    おかげは和賀心にあり
    今月今日でたのめい

 今日は天地書附の裏とでも申しましょうか、今日この天地書附の一枚はぐった裏の白紙の所を頂くのです。なあにも言う事ないとゆう事、私の今の心境と言うか丁度、このような感じなんです。

 昨夜から今朝にかけて、私は、小便が近いものですから、何回も行きます。起きますたんびに目がさめて又、次眠る迄、有難うして々それこそ、どこから、湧いてくるか分からん有難さなのです。今朝三時半に控えに出て参りましてもやっぱり有難い。 私はだから思うた、私がこんなに有難い、これは嘘の有難さではなかろうかと思うた。ほんなもんじゃないだろうと思うた、とゆう程に有難い。その有難さは今も続いていおる。

 そして、今日朝の御教えを頂こうと思いましたら、丁度白紙のところを頂いた、そして前をはぐったら、天地書附である。言うなら、天地書附の裏である、言うなら中味である。ははあ今日は、天地書附の裏のところを頂くなと、そして、私が夕べから眠っては覚め眠っては覚め致しますたんびに、私の心の中に、それこそ、異常な迄の喜びが湧いてくる。

 もう着物着る間も、洗面させて頂く間も、控えにおらしてもらって三十分じっとしておられる間も、この有難さとゆうものは、本なもんじゃないだろうかと思う位に有難い。それこそ何と言うでしょうか、只有難い。それも何がこう生き々としたようなうきうきとしたような、何かそうゆう、と言うて原因が有る訳ではない。何か特別のものをもろうたとゆう訳ではない。

 それで今日は又、只今申しますようなところを頂いてから、教祖さまの又の御教えを頂かせて頂いたら『丁度、参拝せしに教祖お書き附けを下され、おかげは和賀心にあり、の説明をして下された』と書いてある。

 そして、『和は和らぐの和であって、賀は祝賀の賀じゃと、お説明をうけたまわり身にしみ有難く感じ帰った』と書いてあります。これは,教祖さまより、佐藤宿老が頂かれたもののようですねぇ。

 私が昨夜から今朝にかけて、心の中にそれこそ湧いてくるように感じておる事と思うたんです。今日は、私は天地書附の、一枚はぐった裏のところ、白紙のところ、何にもない、それは私が昨夜から今朝にかけてもう何にもない。そこから、湧いてくる有難いさと言うか喜びと言うか、何かしら、とび立つような言うならば喜びなんですねぇ。ですから、そのおかげは和賀心にありと、宿老がお天地書附を頂かれて、それに対して御説明がして下さってある教祖さまのお言葉がです、和とは和らぐ事であり賀とは祝賀の賀じゃと、おっしゃっておられる。ですから、祝い喜ぶとゆう事になるのです。

 自分の心がうきうきと、まあ、じっとしてはおられない程しの感動とでも申しましょうか。そして、それは私の実感ですけれども、この有難さとゆうものは、本当なもんじゃないのじゃないだろうかと、私位な者の信心に昨日から、今朝にかけて頂いておる、この有難さとゆうものは、これは、本なもんじゃないだろうと、思う位に有難い。今朝教典を開かせてもらい頂こうと思うたら、何にもない白紙の所、もう何にも言う事がない。只有難い。しかも、その有難さは、いわゆる教祖のまたの御教えをもって只今頂きました通りであります。おかげは和賀心にありとお書附を下された、そのお書附を下された時に教祖さまがそれに対して、理解づけておられる。説明しておられる。それは、和とは和らぎ、賀とは祝賀の賀じゃと。只、和らぎ賀ぶ心と頂いて参りましたけれども、賀ぶ心とゆうのは、丁度祝賀、祝い賀ぶとゆうのでなからにゃいけん。しかも、それは、何かをもろうたから、明日は芽出度い事がひかえておるからとゆうのではない。どこから、湧いて来るか分からんけれども、言わばそれにも似たような心、私は昨夜から今朝にかけて頂いておる、そうゆう心が和賀心だと思う。 そして、今でも私が思う事は、これは、ほんなもんじゃなかろうとゆう事である。 けれども和賀心の、ひとつの見本のようなものを今朝は下されたなと、私は思うのです。最近は教典もさる事ながら、「金光大神」をどこへ行きましても、一番初めに聞かれるのは、「金光大神」を読んだかと、信者は、皆んな、「金光大神」を所持しておるか、とゆうような事ですよねぇ。教務所でも私は聞かれましたし、検定試験の時も聞かれました。なる程「金光大神」は、私はお道の聖書であると思います。

 読ませて頂けば頂く程、大変始めの間は難しい、何が何やら分からんような感じ、分かるけれども分からん、とゆうような感じ、まあ言うなら、眠気のつくような感じけれども繰り返し、読ませて頂いておるとです。いわゆる金光大神の生きられ方とゆうものが感じられる。金光大神の例えば思われ方、又は生きられ方、そうゆう、生活のお態度、又神様へ向けられる教祖さまの御信心の御姿勢とゆうものがそこから感じられる。

 そこで、私共のお道の信心させて頂く者がです、教祖の神様の御生きられ方を、私共の生き方として、学ばせて頂かなければならない。行じさせてもらわなければならないとゆう事になるのです。

 ところが、私は今日は、そこに問題を感じるのです。教祖伝の中に、生麦を俵につめよとおおせられるところが有りますねぇ。どんなに考えたからと言うて、常識から言うて、取り上げたばかりの麦を俵につめよなんて、無茶苦茶な話なんだけれども、教祖さまは、それを、はいと畏まって、その通りになさっておられる。

 隣の久蔵さんが、最近の教祖さまの、いわゆる、文さんのされる事は、いちいち当たる、言うなら、変わった事を文さんがするなと思うて、それを見ておると必ず結果がよい、とゆう訳なんです。だから、文さんの真似をしたらよかろうと言うので、やはり、手もぬけますからねぇ、麦をほさんでもよいのですから、それで文さんがされる通りの事を、やっぱり久蔵さんもなさった。

 ところがしばらく過ちますと、じぶんの家から、隣の家まで虫が行列を作る程しに虫が麦の中からはい出して来たとゆう訳なんです。

 そこであわてて、文さんの所へ、久蔵さんがお出でられております。大変な事が起きたと、あんたが生麦を俵に入れるから、私も、その通りにしたのに、あんたん所はどうじゃと言うてみえられたから、教祖さまが自分所の俵をあけられると、それこそ虫一匹ついていなかったとゆう。それでも、久蔵さんの所のは虫がついて、それこそ自分の蔵から隣まで、虫が行列する程しにたくさんの虫がはい出しておった。

 そこで教祖さまは、御神前にぬかずかれて、その事を、おうかがいになった。そしたら、教祖さまに、どのように、神様が伝えられておるかと言うとか、「形の真似は出来ても心の真似が出来ぬから」と、おおせられてある。もう一言もない訳です。形の真似は出来ても心の真似が出来ぬからと。私は思うのです。なる程金光大神を拝読させて頂く、なる程金光大神の生きられ方が分かる。ですから、このような場合、金光大神は、どうなさったであろうかとゆうような事を思うてみる事は有難い。又、行ずる事も有難い、けれどもです、例えば行じたところでです、結局、教祖の神様のお心にですねぇ、私共がとうてい追いつけるはずはないとゆう事なんです。心の真似は出来ん。だから、金光大神の生きられ方がです、私共の生き方にならなければならないと言うておりますけれども、それはどういう事になるでしょうか。丁度、久富さんの生麦を俵にめた真似をなさった。それと同じであって、そこに私はおかげではなくて、虫が入るような結果に、なりはしないだろうかと、私は思うのです。

 だから教祖伝を読ませて頂いて、教祖の生きられ方が詳しくなるとゆう事は有難いけれどもそれがね、只、形の上で真似られたとゆうだけでは、これは、やはり、久蔵さんの二の舞だとゆう事をです、私共は、ひとつ分からにゃいけないとゆう事、私は今朝は大発見だなと自分で思うた。皆んな、教祖の生きられ方生きられ方と言うておる人達にも、本当に声を大にして教えてあげたいような気が今日はするのです。

 そこでです、今日私がここに頂きます、天地書附の裏であり、白紙であり、私共が本当に、白紙になってね、教祖の教えを、拝聴する事と同時に、それが、行の上に表されてです。いわゆる、いよいよ和賀心とゆうものを、追求しなければないないとゆう事になります。

 だから、その和らぎ賀ぶ心、和らぎ、いわゆる祝賀の賀、祝い賀ぶ心がね、どのような信心から、生まれて来るであろうか。どのような修行したらよかろうかと、例えばお互い本気思うてみなければいけない。

 私は、昨夜、総代会でもお話をさせて頂いた事なんですが、世の中には矛盾が多い教祖の神様の例えば御教えを頂きましても、ちょっと矛盾を感じる御教えがいくらも出てくる。けれども段々信心が分からして頂くとね、今迄矛盾に感じておった事がです、矛盾でなくなってくる。私はだから、矛盾のない世の中に、生きる事がお道の信心者の願いでなからにゃならんと思うのですね。もう世の中は矛盾だらけだと言う人種、その人は助かっていない訳です。世の中には矛盾があろうはずがない。只こちらが、迷うておるから、こちらが本当の事が分からんから、矛盾を感じるだけなんだと 昨日、午後の四時の御祈念が終わってから、私、ここで少し読みものをしておりましたから、六時頃迄、奉仕しておりました。光昭(教会長次男)がここへ出て参りましてから、今日、久原教会から、お通知を頂いたと言うのである。あちらの少年少女会が出来て、満二十周年になるとう言うので、その式典が有る、お宅の教会からも見に来て下さらんかと言うのである。

 それで、その事をおうかがいに出て参りました。あちらは、日本一と言われる程しの立派な少年少女会を持っておられる教会ですから、うち当たりの駆け出しの教会には、十分参考になる事だろうと思う。勿論すぐにお許しを頂くと思った。

 ところが、それは、お断りしとったがよかろうとゆう事であった。まあ、その時、光昭も少しは、考えたらしいのですが、それからしばらくして、又、封筒を持ってやって参りました。それは,又別なものなんです。

 実は先頃から、グル-プサウンズの講演会が福岡であるとゆうので、応募しとったら、当選して、入場券を送ってきたと言うのである。それで、私は、それはやらせて頂いたらいいだろうと申しました。

 ところが、まあ光昭曰くです、私はさっきから、いろいろ考えた。そして、どんなに考えても、矛盾しとると・・・・・。私は、どうでも久原の少年少女会には、出席させて頂こうと思うてお願いさせて頂いたら、行かんでよかろうと言われ、そして、この音楽を聞きに行こうと、入場券のそれをもらっておるから、もう止めとけとおっしゃれば、行かん腹でおったら、行かんでよいとゆう所には、行ってよいとゆう事であった。これは一体どうゆう事でしょうかと。久原の方は、自分自身もここで、子供達を、言わば、リ-ダ-としておかげ頂いておるから、当然やらせて頂くものだと思うておった。ところが、行かんでよかと、これは、自分の趣味、娯楽であるところの音楽を聞きに行くとゆう事はです、言うなら、どうでもよい事だと、それを許された大体どうゆう訳だろうかと言うて、質問してくるんです。いわゆる、矛盾を感じた訳なんです。

 それで私が、まあ々そこんところが、矛盾でないよう段々分かってこなければならん。とに角、若先生が帰って来たら、若先生に相談してみなさいと言うたけれども、それでは承知のいかんごたる風ですから、私がその事について説明するのです。

 例えて言うならね、ここの少年少女会はね、他の少年少女会とは違うのだと。他では、とに角、人数さえ集めればよいとゆうけれども、ここではそうじゃないんだと。 例えば、ここで少年少女会のいき方を見てごらん。日曜たんびに集まって、しかも大人も顔まけするように、皆んなが一生懸命、御祈念をする。しかも、後に御理解を頂く。そして、有志だけではあるけれども、何人かで信心共励をする、子供達は、子供達なりのです、信心とゆうものを、ですから、信心の無い子供達が入ってきたら、返って、邪魔になる位なんだ。

 だから、自ずと、そこそこの流儀があってよいけれども、合楽の流儀は、こうであろうが、自分もその中に、中心としておかげ頂いて行きよろうが、だから、そんなら久原なら久原へ行ってです、久原の華やかな素晴らしいものを見てきてから、それをそのままここへ持って来てもです、それは、真似にしかならんのぞと、そうゆう真似事ではつまらん。ここには、ここの少年少女会が育つ為に、お前が行かん方がいいのだと、私は申しました。

 同時に、その音楽を聞きに行くとゆう事はです、言うなら、あんたは、むこう三年間、テレビを見ませんとゆう修行させてもらいよろうが、そして、それは、実は光昭は、私に似てから、そうゆう事が非常に好きなんです。自分でも、エレキバンドを作ってやる位ですから・・・・・。

 もう、その好きなものがテレビを見ません、とゆう修行させてもらっておる時であるら、そう張りつめたような事ばっかりではなくて、しかも、それに当選しておるとゆう事はね、神様が、言うなら、おやつを下さってあるような感じだから、やらせて頂いたら、あんたもよかろう、神様も喜んで下さるだろうと・・・・・。

 おかげで矛盾がとけた。実はだから、矛盾はないのです。分かれば、それを問うて来ないから、いつ迄も矛盾と思うのだ。

 夕べ或る方が今度、子供が学校へ入学をする。私立の学校だから、言うなら、賄賂がきくと言うのである。そう言うて頂くのですが、どうさせて頂こうかと言うのである。まあ、時々参って来る人。

 だから、私は、それはね、教祖の御教えにも、折れ薬れとおっしゃるのだから、だから、お金はくさる程、有るおうちなんですし、お金は使われたがよかろう。けれども、お金使うたから、入学が出来たとゆう風な思い方はいけませんよと、神様のおかげで、お金を使わせて頂く事を、そうゆう道がついている人だから使いなさいと。

 まあ、その人の考えではです、親先生にお伺いをしたら、おそらく、そげなもんは必要じゃないと言われると、思うとったらしい。けれども、私はそうお取次させて頂いておって昨日、私は、総代さん方に言うのです。これがもし、皆さんの場合であったら、そげなもんはいらんよと、私が言うであろうと。

 私が此頃、お取次させて頂いたのは、いわゆる小愛、小さい愛のおかげにつながる事。おかげを頂かなければ承知しないとゆう人達に対するところのお取次、もし、あなた方が同じような事をおうかがいするならば、そんな事はいらんよと言うて、出来ても出来んでもおかげ、いわゆる大愛、神様の大きい愛によってのお取次をさせて頂くだろうけれどもと。

 だから、これを二つ並べると、矛盾でしょうが、片一方には金を使え、片一片には使うなと、どうしてかと、信心の段が違うんだもの、だから、そこのところが分からしてもらうと、矛盾じゃない。教祖もやはり、そうゆう信心の段階を追うて、程度の低い人、高い人に、それぞれにやはり教えをしておられますから、教えそのものにもやはり矛盾がある。けれども、本当の事を分かると矛盾ではなくなってくる。と、まあ、ゆう訳なんです。世の中には矛盾が多い、信心の上にも勿論、矛盾がある。けれども、本当な事が分かったら、矛盾はないと、それにはね、私共が、いわゆる、神様の大愛を悟らにゃいけん。

 昨日、その事について、或る有名な先生の、願って願ってと、願いに生きぬいておられる、何十年間の御信心を語っておられる。それを、ひとつの参考として、皆さんに聞いてもろうた。だから、私の信心が違うのは、ここなのだと。ここの場合は、願わんでも、頼んでもおかげの頂けれるとゆう信心を、私は説きよろうが・・・・。

 ここに説明しておられますが、その先生は、ナポレオンはね、この世の中に不可能とゆうものはない、自分の辞書から、不可能とゆうものは、抹殺してしまえと、ゆう程しに、豪語したそうです。その先生もやはり、願って願いのかなわん事がない、不可能とゆう事はないと、そうゆう在り方が先生の御信心らしいです。

 ところがこれは、私が昔から言ってきた事ですから、これは、皆さんも記憶にあられる事だろうと思います。私達は、右と願えば左、左と願えば右といったような感じばかりする、私の願いは成就しない。

 けれどもね、私の辞書から、もしこれだけをのかせと言うなら、この世の中にはね難儀とゆう事はないとゆう事である。この世に難儀はない。難儀に見えるのは、それは幻を見ておるようなもの、言うなら、迷うておるのである。そこを教祖は、肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃる。肉眼をもって見ると、なる程、難儀のように見えるだけであって、心の眼をもって、本当の眼をもってすると、それは、神愛以外にはないのだ。してみると難儀とゆうものはないじゃないか。教祖もそこのところを、難はみかげとおっしゃってある。難はみかげとゆう事は、難とゆう言葉を使っておられますけれども、みかげなんですから、もう、難、即おかげだと。教祖は喝破しておられる訳です。

 大坪総一郎の周囲からは、絶対難儀とゆうものはない。辞書から、抹殺するなら、私の辞書からは、難儀とゆう字は、もう無くしてしまってもいい。これからは、私は昔から、言ってきた事なんですよね。

 それはね、どうゆうところから、そうゆうものが生まれてきたかと言うとね、大愛なんです。小愛は、目先のおかげとするなら、私共の願い以上の願い、言うなら神様の願いが、成就する事をもって、人間の本当の幸せは、そこにしかないのだと、私は確信しているからです。

 だから、その事を私は、昨日、総代さん方に、繰り返し繰り返し皆さんここんところだけは、これが合楽の信心なんだから、しっかりここんところを分かって下さいよ人から、聞かれたら、ここのところを十分に説明のしてやれる信心を頂いてくださいよ、と言うてその事を話さして頂いたんです。

 私は思うんです。天地書附、特におかげは、和賀心にあり、今月今日で一心に頼めとゆう私は、その裏と言うか、内容とゆうものは、その神様の大愛が分かるとこうにあると思うのです。

 だから、どのような場合であってもです、和らいでおられるのであり、どのような場合であっても、それを難儀と見ないのである。神様がおかげを下さろうとする働きである。それこそ、喜ばしいだけではなくてです、それこそ、祝い賀ぶような心がです、どこからか湧いてくるとゆうおかげを頂いて、私は、昨夜から、今朝のかけて、このように有難いのではなかろうかと思う。その心におかげが有るのです。だから、頼んでも、願わんでも、おかげになる。

 白紙いわゆる何もない別に何かもろうたとゆう訳ではないけれどもです。とに角、有難うございます有難うございますを、連発しなければなられない程に有難い。それは、じっとしておれない程しの有難さ、私は、これを、和賀心だと思う。

 ですから、教祖さまの生きられ方とゆう事。そんなら、教祖の神様の場合、それがどうゆう事になっておるかと、生神とか、ここに神が生まれるとゆう事であってとおっしゃるように、教祖の神様の心の中には、生神が生き通しておられた、言うならば和賀心の権化でおありになったとゆう事なんです。

 ですから、私共へは、その和賀心を土台にしてです。教祖の生きられ方とゆうものを行じていく事によって、教祖が教えて下さる、例えば、おかげが受けられるとゆう事になるでしょう。和賀心をぬきにしてです、いかに、教祖の生きられかかたを真似たところでそれは、久蔵さんの生麦、その程度の事にしかならないと思うのです。

 ですから、教祖、その方の御信心内容、心の内容とゆうものはです、いわゆる生神である。生神とはどちらへ転がしても、喜びしか出てこないとゆう心なんだ。そこには、教祖のお心の中には、只、大愛あるのみであったからなんです。言うならば、教祖の神様その人こそです。いわゆる、和賀心の権化でおありになったとゆう事なんです。ですから、その和賀心を追求せずして、その和賀心を求めずしてです、いかに、「金光大神」を読破したところで、それを行じたところで、教祖の生きられ方といったような事を問題にしたところでです、それは、久蔵さんの教祖の真似と同じ事になるのだ。和賀心をまず頂く事に精進するとゆう事。そして後に、私は、教祖の生きられ方であるとゆう風に思うのです。

 そうゆう祝い賀ぶ、それこそ、赤飯炊いて、祝うような心、それがいつでも、どんな場合でも、何かもろうたから、今日は、誕生日だから、赤飯炊くといったようなもんではなしにです、もう日々が赤飯炊いて祝うような心、いわゆる元旦の心、そうゆうような心をね、追求する、その土台になるものは、和賀心なんだ。

 ですから、和賀心にならせて頂く事のための修行、和賀心にならせて頂く事の為の勉強とゆう事になるのですねぇ。

 私の心の中に昨夜から、感じ続けておる、この心が私共の場合、いつか又ぽっつり切れてしまうけれども、おかげでまあ、何時間と続いておる訳なんですが、教祖の神様はこうゆう心がず-っと四・六時中おありになったとゆう事。そして、あの生きられ方とゆうものが、素晴らしい、例えばね、なる程、超人間ですねぇ。なる程、神様じゃなあと、言われる程しの、生きられ方がお出来になられたんです。

 ですから、私共は、そこを学ばなければならないとゆう事を。世の中には、もう本当に、やはり矛盾が有る。又感じる。教えを頂いても矛盾を感ずる所はいくらも有る けれども、矛盾を感ずる、その時にはです、まあだ、自分が本当の事が分かってないのだと悟らしてもろうて、そこを、追求する姿勢。

 それを光昭じゃないですけれども、そこに矛盾を感じた、けれども追求した、そこに答えを頂いた。なる程、親先生が言われる通りだとゆう事になった。ですから矛盾のない生き方、生活とゆうものがなされるおかげを頂きたい。それには、本当の事が分からなければならん。信心で言う本当の事の基本になるものは和賀心、そこに教祖の生きられ方がある。

 又、その和賀心とゆうものを追求していく手立てとしてです。たくさんなこうした神誠神訓、御理解とゆうものが有ると思わせて頂かねばならんと思いますね。

                               どうぞ。



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