昭和45年2月1日 朝の御理解
御理解第84節 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば、繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
またたく間におかげを頂きたい。またたく間に繁盛のしるしを見せてもらいたいと。これは人間は誰しもそういうことを思いますね。苦しい時であれば苦しい時である程、そういう気が致します。
例えば金銭の事でも、それこそ宝くじでも買いたいような気持ちすら致します。そして、それが当たるようなおかげを頂くことが、おかげのように思うのです。
だから、例えば、よしそれが当たったところでですねえ、それは決して繁盛じゃあないです。繁盛というのは「次第次第に細うても踏み広げて通るのが繁盛だ」と、こう言う。そこに、私は信心によっておかげを受けるということがあると思うのです。信心によっておかげを受けるということはそういうことなんだ。
皆んな年頭に当たって、今年(こんねん)こそはと思います。今日は二月一日ですから、先月は出来なかったから、今月だけは今月はひとつ是非といったような、計画を立てます。信心も、今月こそはと思うのでございますけれども、それが段々月の半ばにもなってくると、薄らいだものになってくる。
それが人間のそういう性格と言うてしまえばそれまでなんですけれども、何故そういうことになるかということを、一つ思うてみなけりゃいけんと思うですねえ。確かに嘘ではない、確かにそう思うた。けれども、それが段々薄らいだものになってきた。「おごりがましいことをすな。ものは細うても長う続かねば繁盛ではないぞ」と。
細い道でも次第に踏み広げて行くということはですね、段々それが本当のものになっていくということ。いわば育つということなんです。ですから、それが育っていくのですから、そこには新しい発見もあれば、又、楽しみもあらなければならないんです。
ところが、その発見もなければ楽しみもないから、途中でしぼんでしまったり中絶してしまう訳なんですね。育っていないからです。いわば育つ喜びというか、又は育てるやっぱ楽しみといったようなものがない。
何の稽古事でも同じですけれどもですね、段々、その稽古をさせてもらっておるものが身に付いてくる。段々、いわば本格的な稽古が出来てくるというものは、その本格的なものが身に付いてくる。それが上達してくる。いわゆる育ってくる。だから、やめられなくなるのですよ。だから、育てるとか、育つとかゆう、その精進をしないから。
「道に草を生やすようなことをすな」と。例えば、雑草がありますと、育っておるものまで育ちません。いうならば、必要でないものは、どんどん伸びていったり、育ったりする。放任しておっても肥料はやらんでも、自分でどんどん大きくなっていく。良いものはなかなか手を入れても育ちにくいように、なかなか手がかかる。
そこでですね、これだけは育てなければならんということに当たって、どうゆう私は精進がいるかとゆうことはね、「おごりがましいことをすな」と、こう言う。
おごりがましい事をすなということは、いつの間にか自分ではおごっておるつもりはない、けれどもいつの間にかおごりがましい事になってしまっておる。
そこで、私は、その、おごりがましいことをする前に、自分の心の中に決め定めるものがなからにゃいけん。おごりがましいことは致しません、と例えば言うただけではいけませんから、それのまあ少し前提になるもの。ですから、それはどうゆうような事かというと「楽はせんぞ」とういうような気持ちです。
昔、頂きましたみ教えの中に、「楽はせんぞという気になれ、楽はさせてもらえ」と。次の【 】を頂きました、楽はせんぞという気になる。ところが、その楽をすることば楽しみに信心しよる。楽ばすることに、いわば血道をあげるといったようなことでは、決してええものは育ちませんよね。
今度の日曜には、いっちょうどこに行こうと、遊びに行こうと。今度の日曜には、お芝居に行こうといったようにですね、自分でちょうど、楽をすることの計画を立てるようなことではね、決して良いものは育ちません。
許されて、いわばさせてもらう楽。例えば、自分はお芝居には行こうと思わんのに、招待券を頂いた。自分は行くまいなどと思ってないけれども、もう是が非でも〔と〕、温泉なら温泉に案内を受けたと。
例えば、そういうような意味での楽でしたらね、自分も許されてという気持ちがあるからだけではなくてです、非常にそれは有り難いものになってくる、思いもかけないことなんですから。
今日はあれを食べよう、これをいっちょお御馳走しようと、自分で例えばおいしい目にあおうと思うておると、もうその味付けようの悪かったちゃ腹が立つようなものなんです。思いがけないものをというところに、感謝の心というかね、喜びがある。
私はですね、まず、この「おごりがましいことをすな」と言うておられる、そのおごりがましいことを、もう一番初めに慎まなければです、次の「細うても長う続く」という信心がでけんです。
私は信心をさせて頂くならね、これはもう人間が絶対に幸せになれれる道なんですからねえ、信心とは、金光様の御信心とは。いや、合楽で私が説いていることは、もう絶対、大地を叩く程に間違いがないことなんですからね。私が言うておることを本気で稽古させて頂いたら。
最近、私が申しておりますように、いよいよ和賀心時代に突入した。どんなに人間の知恵、力の素晴らしい、例えば力と言うかね、人間の知恵と言うかね、人間の知恵、力で言うならば月の世界にでも行けれるような時代が来たと致しましてもです、どのような、いうなら機械文化の花が咲いてもです、コンピュ-タ-時代が来てもです、ここを人間の知恵、力の限界と致しますならです、それだけではね、人間は幸せにはなれない。
どんなに金を貯めても、どんなに立派なおうちに住んでも、ですから、そういう立派なうちを建てる前に、どうゆう素晴らしい便利の良いものを使わせて頂ける身分になる前に、その根本になるもの〔は〕「和賀心」。和らぎ賀ぶ心、その心をです、頂かせて頂く道。
そういう稽古をさせて頂かなければならない。いわば、時代に直面しておる。《一九七○》年という年柄は、そういう大変な年柄なのだ。まあ、私が、こういうようなお話を、もう毎日ここ十日余り致しております。
昨日は月の最後の日でございますから、毎月ひと月のお礼を神様に申し上げて、それから、あと信話会がございました。夕べはちょうど三十五名余り集まっておったんです。
そのことを、まあ、いろいろ一時間半余りを、信話、皆さんのお話をしたり聞かせて頂いたり、させて頂いたんですけれども。
私が若先生に、「最近、私が言うておる和賀心時代というのは、あんたは、どういうふうに思うか」と。皆さんは、どうでしょうか。毎朝参って来るけど、毎朝、毎朝必ずこの事をひとくさり聞かなきゃならん。最近、それを私が言っておるから。それを皆さんどう思うて聞きよんなさるか。
「若先生はどう頂きよるか」と。そしたら若先生が、いわくです、「初めの間は、またお父さんの大きなことが始まった」と。言うなら、「大うだごつが始まったというふうに初めは聞きよった」と。ところが毎日毎日頂いておれば頂いておる程です、「確かにそうだ」と。和賀心時代が来る、必ず。
例えば、もし私のようなことを言う人が次々出てきて、いつの時代にかです、私のような者でなからなきゃ、総理大臣にはなされんという時代が来る。それはね、月の世界に行けれるなんてことをです、それこそ何千年何億年もかかって、ようやく月の世界に人間が行けれるようなものが、事が出来たようにです、人間の幸せとは、幸せとはと。
幸せを目指して知恵をしぼってまいりましたのが、例えば原子時代と言われたりですね、コンピュ-タ-時代と言われたり、月の世界にでも行けれるような、例えば人間の計画が一分一厘も間違いなく出来るような時代になったが、果たしてそれで人間が幸せになれたか。
もう、それをそこまで導いた人、そういう技術を身に付けた人が、もうそれこそ、暗たんたるもんですよねえ。いよいよ、人間はこれでもう幸せになりきるように考えていたところが、どっこいそうではない。心だ、心があるんだと。
それを私は、只心、心にそれをもってきただけではいけん。いわばその心がです、一切のおかげにつながる心でなからないけんて。
天地の中には、無尽蔵にある宝庫とでも申しましょうか、人間の幸せになる全てのものが天地の中にはあるんだと。そうゆうおかげ。お金ならお金、ものならもの、そうゆう例えばおかげがね、おかげにつながる心、それを「和賀心」というのだ。和らぎ賀ぶ心というのだ。
ですから、この心を土台にして、物であり家であり、金でなからなければならんのに、いわば物やら金やら、そういうことが先に立っていって、例えばそんなら一生なら一生かかってこれだけの財産を作った、これだけの立派なおうちを建てたと、そして自分はもう終着駅に近づいてから、初めて気が付くことが、人間の幸せはこれじゃなかったと。
それが例えばです、いわば、いよいよ大型なものになってきたということなんですよ。個人じゃない、この地球上に住まわして頂く人間の、人類である全てがです、ここに気付かなければならない、ここに目を覚まさなければならない時期に、今年(こんねん)とゆう年はもう突入したんだと。
それを分かっておる私が、毎日こうやって、それこそ握りこぶしを固めて、一生懸命、皆さんに私が言うておることがです、「和賀心時代が来るんだ」いや、もう「和賀心時代に突入しておるんだ」と。
そこで和賀心にならせて頂く、和らぎ賀ぶ心を頂く為には、どういう生き方をなさして頂いたらよいかと。世界中の人類にそれを知らせる前に、まず日本全体がその気にならなきゃいけん。日本全体がなる前に、まずそのことを知っておるお道の、「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と毎日唱えておる、それを知っておる金光教の信者の全部が、その気にならなければ駄目。その気になる前にです、ここに焦点を置いてないなら、合楽の信奉者だけでもです、そこんところをまず私どもが知らなければならない。合楽の信奉者がまず、なる程、和賀心時代を私の心の中に作らなきゃ駄目だ。私の家の、一家の中に和賀心時代を打ち立てなければ駄目だと。
皆さんでも、若先生じゃないですけれども、初てこんな話を、私の言うておることを聞いて、それこそ何千年、何億年先にしか実現しないようなことをです、それこそ夢のまた夢のようなことだと思われるかもしれませんけれども、毎日そんなら頂きよるうちにです、若先生が言っておりますように、「そうだと、確かに和賀心時代が来る」と。「和賀心でなからなければ人間は幸せになれないと気付かせて頂く、そういう働き、そういう機構というものが、世の中に出来なければならないんだ」と。それを私達は、こうして日々頂いておる訳なんです。
その和賀心に伴うところのもの、只心だけには伴わない。その和賀心に、和らぎ賀ぶ心に伴うそのおかげ、そこに人間の、いわゆる人類の幸せがあるのだと。いわば、そういう大変なことをです、稽古をさせて頂く。そして稽古させて頂こうという気になればです、もうその和賀心という、これはもう限りのないものです。
けれども「はあ、和賀心とは、こういう心であろうか」とすぐに頂けてくるんだと。そういう喜びの芽が心の中に出来るんだと。だから、それを育てていくという精進が必要なのだと。
自分の心の中に和賀心の種がまかれた。和賀心の種が芽をきった。二つ葉が出た、幹が伸びた、花が咲いたということをですね、育っていくことの楽しみ、喜びというものをです、私どもがどんなに何をおいても、何を犠牲にしても、それを頂いていくということが本当だということが、ひとつ皆さんが分からなきゃいけんのです。
それにおかげおかげ、百万円の宝くじが当たりますようにといったような願いだけで、もしお道の信心が終始されたら、もうそれこそ、それは大変なことだと私は思うです。
いわゆる御利益ということだけが目指しであったら、それは人から例えば軽視され、軽蔑されてもしかたがない。働かんどいて拝むこつばっかり覚えてから、おかげばっかり願いよる。そういうだらしない信心があるもんか。毎日参りよります、いや、日に二遍も三遍もお参りする人がある。
それは自分の心の中に育っていく、その和賀心の芽が伸びていく。和らぎ賀ぶ心とは、こういうもんかと体験していく。しかも、その和らぎ賀ぶ心にはです、不思議な働きと言うか、いわゆるおかげがこれに伴うおかげを頂いてです、いわゆる本当の信心の開眼があるわけです。
皆さんの中にも、私《が》和賀心時代と最近言っておることをですね、どのような気持ちで聞いておられるだろうかと。本当にもう、ここ、これに極まった。この和賀心を求めて、どういう難儀な問題の中からであっても、どういう痛い痒いのことからでもです、その中にひそんでおるところの和賀心を求めれる道づけをして下さるんだと、私は分からせてもらう、悟らせてもらわなければいけない。
私が皆さんに、昨夜、いわばこのひと月の間、私が皆さんに聞いてもろうた。とりわけ朝の御祈念の時にずうっとお話をしてきた。その御理解の根底になるもの、〔それは〕ずっとつながっておる。御理解ていうものは、毎日同じみ教えじゃないけれども、その底にあるものは同じなんだ。「最近、私が和賀心時代を毎日言う〔が〕、その前には、どういうような事を私は言うてきたかね」と。
なかなか、毎日頂きよってもです、忘れとるです。身に付いていない、それが血肉になってないからなんですよ。「【 】さん、どうですか、どげな事だったですか」。自分の血になり肉になっておることならです、一月の何時頃はこの事ばかりを先生が繰り返し繰り返しおっしゃった。
それが、なる程、初めの間は、そんな事にも考えなかったけれども、何べんも繰り返し聞いておるうちに、そうだと気付くようになって、それを行ずる気になっておかげを受けてきたというものであるならです、すぐ出てこなきゃならんはずなんです。
私が、この和賀心時代の前に申しましたことは、「頂く心あらばさわることなし」ということでしたね。それを、私は大変風邪が猛威をたくましゅうしました。とにかく、朝の御祈念が減るぐらいにあったですからね、一時は風邪の為に。だから、風邪でもです、頂く心あらばさわることなし。風邪をひいても寝つかんならんということは絶対にないということをです。
そげなことはあるもんかと思うて、誰でも初めは聞きよったでしょう。けれども、毎日毎日(笑)それを聞いておるうちにです、頂く気になってみたわけです。
ところが、風邪はひいたけれどもおかげを頂いたと。苦しかけれどもおかげ頂いた、いや風邪だけではなかった、胃腸までようなった。まあ、そういうおかげがたくさん生まれだしてきた。
これは病気だけのことではない、全てがそうなんだ。難儀な問題でもそうであった。この難儀な問題から逃れよう逃れようとしておった自分がです、それを頂こうという、本気で修業させてもらおうという気になったら、そこから道が開けてきたというような体験が、次々と生まれてきた。まあそんなことを申しましたですねえ。
ですから、その、例えば、初めはですねえ、何かこう遠いところのような自分の問題じゃないように思うておるけれどもです、それをね 身近に自分に感じ頂かなければ駄目なんです。
とにかく昨日、秋永嘉郎さんが発表してる事がこうでした。とにかく、毎朝毎朝の御理解をですね、もうひと言でもよいから、それを心にかけ通しにかけておる。そこからね、いわば、いつも神様が心の中に宿ってござる実感と、いつも自分の心が神様に向かっておる。そこから生まれてくる小さい事柄の中にです、信心のおかげのリズムといったようなものを感ずる。一日がなんとはなしに、信心頂いておる者の有り難さを感じられるんだ。もう日々の御理解をね、その日その日に本気で行じていく以外にはない、といったような意味のことを言うております。確かに、そうなんです。
ですから、今日私が「おごりがましいことをすな」と。だから、贅沢をしちゃならん、言うちゃならんと、横柄な態度とちゃならんということなんだけれども、その前にです、その前提としてですね、やっぱ楽はせんぞという気になる。
もう楽はさせてもらうもんだと。させてもらうからこそ有り難いのだと。自分がしようと思ってしたって、それは有り難いものになってこない。いわゆる和賀心が育たんのだ、それでは。
なる程、窮屈なごとある。自分で楽しようと思わんのだから。以前な、それが楽しみじゃったち。もう楽がしたいばっかりに、働きよったちゅう人もある。一週間一生懸命働いたら、日曜日には、もうどこかに遊びに行くことが楽しみだという人もあるです、がです、例えば、今日私が申します。そのように大変なこと。いわゆる和賀心時代が来る。その「和賀心」こそが人間の幸せの根底になるものだと分からせて頂いて、そのことを自分のものに頂こう、マスタ-しようとする私は稽古にかかったんですから、そのくらいな、私は気持ちがなからなければ駄目だと。
昨日、〔ある〕青年の方が、ここでお取次を願いました。「今日から向こう三年間、決してテレビを見ません。高校時代からのみよったタバコを今日限りにスッキリやめます。朝の御祈念には、必ずお参りをさせて頂きます。この三つ、お取次をお願いします」と言うて、願いに来た青年があります。
私は信心させて頂く者はですね、そういう大変なことを、例えば身につけていこうとする、いわば姿勢が心の中に出来た時にです、それこそ修業でもさせてもらわなければおられんのです。ねえ、楽はせんぞという気になった。
今の時代にテレビ〔を〕見らんだけでも大変な修業だろうと思うです。向こう三年間テレビを見ませんと、何年間のんできたタバコをもうこれでやめますと、朝の御祈念にはどんなことがあってもおかげを頂きますようにと。
それは何を求めてからのことであろうか。何を育てようとしてからのことであろうか。自分の心の中に育ちかかった信心の喜び、人間の幸せはここにありと分からせて頂くところからです、それを育てることのために、私は、そういう、まあ、私がお取次させて頂いても、「そげん一遍にせんでもよかじゃんの」と言いたいようなことでしたけれども、本人が一生懸命ですから、そのことをお取次させて頂こうと言うてお願いさせて頂いた。
例えばねえ、修業もせずに和賀心をば頂こうなんてん、それは虫がよすぎるです。そうゆう大変なことを頂くんですから、和賀心とは。
「細うても長う続かねば繁盛ではない」と。なにかこれは細々とした道のように感じますねえ、こう聞きますと。けれどもね、細うても長う続くとゆうことは、ずうっと広がっていくということなんですから、大変なことなんですよ。
それを、例えば一分ずつであっても、それが何年かたっていくうちに、どのくらいな素晴らしい、細い道でも広い道になるか分からんのですよ。それを途中半端から広い道を頂こうなんて、そういう例えば、辛抱強さ、信心には、これは何事にもよらずですけども。
三代金光様がおっしゃるように、「神信心には辛抱することが一番大切でございます」とおっしゃるように、そういう辛抱がね、身についていく。細うても長う続くということは、それ。
それがです、いわば私の心の中に芽生えた和賀心の芽がです、段々育っていく。育っていきよることが自分で感じられる。それには、私は本気で楽はせんぞというくらいな信心気構え、修業がです必要なのですよ。
もう銀行の通帳が、段々帳尻が多くなっていきよることが楽しみ、それが多くなっていくことばお願いしよるふうなことじゃですね、絶対、どがしこ膨張したって駄目ですよ、その預金通帳は馬鹿んごたる。
だから、まあだ金銭に不自由しておる時、物に難儀をしておる時にですね、そういうところの目指しをかえて、まず根本的なものから身につけていくという信心修業、そこにはおごりがましい心ということを、大変これは、まあ贅沢と言う、贅沢はしよらんと言わずにです、そのおごりがましいの前の心。それが、楽をしようという心なんです。
ですから楽はせんぞと、もうこのへんでピシャッととめたが一番いいです。そして神様が許される範囲においてです、させて頂く。だから、有り難い。
「今夜は寒かけん、いっちょう、すき焼きなっとするか」ち。(笑)そういうことをね、してはならんということじゃないですから、皆さん、聞き間違えなさらんように。楽はせんぞという気になると、すき焼きも食べられんということじゃないです。けれども、借金してからすき焼きしちゃでけん。自分の働きが、例えば千円あったば、八百円なら八百円ですき焼きが出来るなら、すき焼きじゃろうが、お刺身じゃろうがかまわん。そういう意味なんです。
そういう例えば、おごりがましい前にですね、おごりがましい前に、そういう私は下準備的な信心修業があって、初めて細い道に入っていけるのじゃないか。それが段々広がっていく。「踏み広げて通るのが繁盛じゃ」と。
細い道でもと言うから、なんか細々とした道のごと思うけれども、そんなことじゃ決してない。それこそそれが信心辛抱続けられていく限り、途中でやめたり途中で堕落したりするから、また、元の木阿弥にもどらなきゃならんのであって、これが続けられていく限り、ずうっと広がっていくのだ。八の字に、八の字開きに広がっていくと。
だから、その道にです、草を生やすようなことをすな。それがいわゆる、楽はせんぞといったような、根本的なものがありませんとです、すぐ、もうそれこそ、久富繁雄さんのお父さんじゃないけれども、「もう、こんやつばっかりは、あんた、人が放からかしとったちゃあ生えますけん」ち言わしゃった。(笑)畑の雑草のことをです、放からげとったちゃあ生えるです。
だから、これには育てるじゃない、これも一生懸命取らにゃあならん。雑草的なものがある。それを改まりと言う。それを雑草を取り除かせて頂きながら、良いものを育てていこうと。
それを例えば最近は、和賀心に焦点をおいて、和賀心を育てていこうという事になってくる。今年(こんねん)こそはと、いやこの二月、この二月こそはとゆうふうにです、例えば月の初めに当たって、皆さんがやはり、それぞれに感じられる事があろう。ところが、段々それがしおれてきたり、細うなってきたりすることは、どういうわけか。
私は、「おごりがましいことをすな」ということをですね、厳密に頂いていないから、楽はせんぞといったような生き方にならないから、だから育たんのだ。育つならば、その修業ぐらいのことではない、それが楽しゅうなってくる。育っていくことの喜びがある、そこ《に》。
そんならです、これは、例えば元旦の計というものは段々、段々育っていくに違いないです。二月一日の思いというものは、段々三月に入っていくに〔つれ〕、もうやめられないというようにです、これを育てていくことの楽しみが生まれてくるだろうと思います。育たないから途中半端になってしまうのだと。
ただ思うただけじゃいかん。ただ種をまいただけじゃいかん。それを育てる楽しみ、育っていくところの喜びというものをです、身につけていかないから中途半端なことになってくるのじゃないでしょうかね。どうぞ。