昭和45年1月30日 朝の御理解
御理解第61節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
六十一節は様々に頂いてまいりましたが、今日は金光大神の教えて下さったことを、違わぬように、いわゆる絶対のもの、絶対に間違っていないもの、そうゆうひとつ確認をして、やはり自分自身がおかげを受けなければなりません。
又、おかげの体験が確認ともなってくる訳ですが、それを人に伝えていくとゆうこと、それが真の道を踏んでいくことになります。それが神様へのお礼にもなるのであり、又私共自身としては、それが「神になるのぞ」とも言うておられます。わが心が神に向こうていくとゆうこと、それが信心だと。
そこで、又の御理解に、「心配する心で信心せよ」と、仰せられます。これはお互い様々な、やっぱり不安になる事、心配になる事、なんとはなしに気にかかる事がございます。そうゆう心を神様に持っていくとゆうことだけではなくてね、いわゆる心配する心なんだ。
例えば、よく皆さんが申されますように、「先生、どうゆう心掛けで信心をさせて頂いたらいいでしょうか。」そういうような、「どういう心掛けで信心したら良いか」と。
ですから、心配な時があるでしょう。心配な時のあの心で信心せよとゆうことなんだ。例えば、いろんな難儀な事がある。不安な事がある。心配な事がある。だから、信心せよとゆうふうにも頂けますけれども、私は今日はそこんところをねえ、信心する心掛けなんだ。心配する心とゆうのは。
先日もある方が、金銭のお繰り合わせを願われた。それで、自分の持ち物を売って返済に当てようか、人からお金を借りようかとゆうようなお伺いに対して、私は申しました。「お繰り合わせを頂かれたらいいのです。お繰り合わせを頂きなさい。それにはね、例えば自分の物を売って払うといったようなことをね、心の中にいつも置いておるような心掛けではおかげになりません。」神様のお繰り合わせを頂く。
やはりお繰り合わせを願う時にです、いよいよの時には、あの手もあればこの手もあると、心の中にそうゆうものが暗にあって、お繰り合わせを願ったって、お繰り合わせを頂けるもんじゃない。
いわゆる心掛け、お繰り合わせを願う時の心掛けなんです。そうゆう意味に於いてですねえ、信心させて頂く者の「心配する心で信心せよ」と。
私は信心しておるから、心配はひとつもないなんてゆう時は、もう信心は留まっておると思うですねえ。信心をすればする程、その心配は深刻なんです。深刻とゆうことは高度なものになってくる。
例えば信心の無かった時に、心配しておったようなことは、もう、さらさら心配では無くなってきますよね、おかしい位に。ほんな、あの位の事で心配しよったと思う。あの位の事で夜も眠れない位にあったとゆう、そうゆう心配ではない。段々、心配の度合いとゆう〔も〕のがです、純粋なもの、高度なもの。
例えば、ここでも毎日お届けをなさって、いわゆる日本中の、いわば、交通化と、交通戦争と言われる程しに、激しい交通事故がいつもございますから、その交通事故の事が心配で心配でたまらん。自分の息子の交通事故って、そのことじゃあない。別に自分の息子さんは、自動車に乗ってられる、持っておられるけれどもですね、そういうような事が心配でたまらん。だから、毎日それをお取次ぎを頂いて、お願いをしなければおられない。
どうでしょうか。皆さんなんか、そこのところ迄は、高められてはおられないでしょう。なる程、毎日神様にお願いしよるばってん、わざわざ毎日その為にお参りし、その為に〔毎日〕お初穂を奉ってお願いをするとゆう程しの心配になっていない。まあ、例えて言うとそうゆうことなんです。
だから、信心が段々わが心が神に向うていくに従ってです、その心配の度合いとか、程度とゆうものが全然変わってまいりますですねえ。確かに、これは私自身も体験をもって、それを申し上げることが出来ます。私の体験から。
ただ、ほんな自分の事だけが心配。それを心配しちゃならんとゆうことではありません。心配するから神様へ真剣に打ち込む、打ち向かうのでございますからね。だから、四神様の御教えの中にですねえ、「氏子が心配しておる時には、神は心配せんで済む。」と、おっしゃる位です〔から〕。
だから、その事はですねえ、私共が心配をしておるとゆうことがです、神様が心配せんで済むとゆうことは、神様は、もう心配しなさらんでもええ訳なんです。だから、本当言うたら、私共が心配するのではなくて、神様に心配をしてもらわなければ嘘なんです。
〔だ〕からと言うて、心配が絶え間があるはずはないとゆうこと、人間は。しかも、その内容は大変高度になってくる。そんならおかげを受けられんじゃないかとゆうのではない。その心配する心で信心するのだ。その心配する心で信心する時に、もう言うならば行きがけの心配は、もう帰りがけの心配ではないことになってくる訳です。
私は、最近、毎日皆さんに言い続けておることですけれども、いわゆる和賀心時代が来ると。それは、そうゆう時代に、もう本当の意味に於いて、その第一歩が今年とゆう年柄だと。その事が、例えば何千年又何万年〔になる〕かも分からない。けれどもその事をですね、和賀心時代とゆうのがです、追求される、探究される、又は、そうだと気付かせて頂くとゆう事になってくる。
世の中は人間の限界と言うか、知恵、力というものの限界と言うか、もう、ここ迄来た。こうゆう発達を遂げた。人が、いうならば、月の世界にでも行けれるような時代になった。そうゆう、例えば、いうなら、輝かしい時代だとゆう訳ですけれども、それが輝かしいとうゆう事ではなくて、かえって、そこに私共の行き詰まりとゆうものがある。これからは、心の時代だと。それは、学問なら学問、技術なら技術を身に付けた人達が、そこ迄いって初めて気が付いておることは、心だとゆうこと。
だから、その心ということ、その心に気が付いたとゆうことは、付いただけではいけん。その心が和らぎ、その心が賀びに溢れる。そうゆう例えば心が賀びに溢れるような、豊になれれるような生き方。そうゆう道があるなら、そうゆう道を本気で体得し行じてゆかなければ、人間の幸せはありえないと、いよいよ分かった年が去年であった。
だから今年からは、和賀心時代に、いわば突入したとゆうことになるのです。今迄は、和賀心、和賀心と言うておってもです、まあだ人間の力で幸せになれるとゆう生き方の方が強かったとゆうこと。
教祖の例えば、おっしゃておられた事がです、今日(こんにち)程、大事にされる時はないだろう。又、今日(こんにち)以後、いよいよ大事にされることはないだろうとゆうことになってきた。
御理解三節の最後の所にあるようにね、「末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」とゆう時代に突入したと。末々までです、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす、とゆう時代。
ここんところを私共は、神ありての氏子とゆう、神様あっての、神様あっての私達であるとゆう自覚。まず、この自覚が出来なければ、和の心も賀の心も生まれない。神様を抜きにしては、いわば自分の心の中に、和ぐ賀ぶとゆうことは頂けない。しかも、上下立つようにいたすとゆうようなことがです、これから、いうなら地球上の人類の全てにです、ここを徹底してゆかなければならない時代に来ておる。そうゆう、例えばおかげをです、私共が、まず受けなければならないと言うのである。
いわゆる六十一節、「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。」金光大神が、尽きぬおかげの頂けれる話を話にして残しておって下る。その、お話の全てを結集したものが、私は天地書附だと思うです。「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願え おかげは和賀心にあり」と、いわゆるこれなんです。その天地書附をです、いわゆる和賀心、その和賀心を、自分のものにしてゆきながら、それを人へ、そこから生まれてくる体験も添えて、人へ伝えていく。
和賀心にならせて頂くとゆうことは、このように尊いことなのだと、このようなおかげが受けられるのだと、人へ伝えてゆくのが真の道を踏んで行くのであり、又、神になるのぞ、とまで高められたことになってくるのです。
そこで、その和賀心を求めての信心がです、これはまあ、私の自論です。いわゆる、成り行きを大事にするとゆうことは、自然との対決によってです、私共が何を得るかというと、これはもう、必ずその都度に力を得ていくとゆうことですねえ。自然との対決によってです、得れるものは力なのです。
まあ、病気になったら医者にかかるなと言う訳じゃないけれども、私共が、いよいよ力を求めての時には、いうならば、その病気との対決と。
まあ、例えて申しますと、私共の三番目の息子の幹三郎が、もう一年以上にもなりましょうか、皆さん御承知のように、頬ばれのように片一方腫れておる。なんか骨が腐っていきよるとゆうことらしいですねえ。そして、時々痛むらしいんです。時々その為に学校休む位にあるとか。
これはね、心配が無いと言うたら嘘です。私は、あの人の顔を見るたんびに心配になります。心配になりますけれども、それを神様にお縋りすると、もうその場で安心が出来ます。どうゆう安心かと言うと、ままよとゆう安心なんです。これだけ、神様にお任せし切ってから、例えば死ぬるなら、死んでもよいとゆう心なんです。あの人の顔を見るたんびに、やっぱり心配になります。けれども、心配する心がいつも神様に、強烈な心を持って向かうことが出来ます。向かう、向こうにはもう安心があります。ままよとゆう安心が。そうゆうような生き方で、いつも対決ておりますから、なる程力が受けられるはずだなあ。
そしてです、それがおかげを受けられるとゆうことになってくると、いよいよ確信が持てれます。それが力なのです。だから、そうゆう自然との対決とゆうことがです、対決そのことを、自然の成り行きを大事にするとゆうことは、そうゆうことなんです。だから、心配する心で信心せよ、とゆうことなんです。
信心するから、御取次を頂いた。一生懸命御祈念をした。皆さんもそうです。いちいち御取次を頂くと言うて、合楽まで度々やって来る訳にもいかんけれども、「金光様、金光様」と、心の中に不安になる事〔を〕縋らせて頂くところから、安心が生まれてくるでしょう。又、喜びに変わる事もございます。それでもいけんなら、御神前にぬかずかせて頂いて、御祈念を一生懸命、大祓の二巻も三巻も上げさせて頂いて、心の不安になる事をお願いさせてもらいよりますと、心が安らいでくるでしょうが。それでも、安らげん時には、やはりここへ出て来ることです。
いわゆる、そうゆう風にしてです、心配する心で信心せよとゆうことは、そうゆう信心がいつも絶えず私共にあって、いよいよ、より力が受けられるとゆうことが言えます。
「心に光を」と、これも私の自論です。改まる、そして研いてゆかなければ光は得ない。心に光を頂く。その心に受ける光、心に強い力を頂くとゆう、そうゆう力を内容としたところの和賀心。
『今日、私、御神前に出らして頂いたら、石坂浩二とゆう俳優がおりましょうが。あの「天と地と」で主役をした人ですよね。上杉謙信をした<人ですよね>。「天と地と」とゆう映画に主演を致しました時の扮装で石坂浩二を頂きます。
そして、今朝の御理解を頂いている訳です。そして、今朝の御理解を頂ましたら、ただ今、今日私が焦点を置いておるところになる訳なんです。
石とゆうことは、いつも私は心と頂かなければならんと思うです。坂とゆうのは、修業とゆうことだと思うんです。心がいつも、体は、私共のように、こうやって朝から晩まで座っておればですよ、楽なことですよね。じ-っとしておくのですから楽なことなんですけれども、心はいつも山を登っておるような、急な坂を登っておるようなものでなからなければならんとゆうことです。それに何ぞや、心がいつも安らいでおります、なあにも考えません、とゆうようなことであったら、これは、ちょっとおかしいとゆうことになるのです。あなたの信心はひとつも向上しよらんとゆうことになるのです。その不安が心配がです、生神金光大神様を祈るのです。縋るのです。その縋る向こうにです、縋れるものを持っておることの心強さ、縋った後の有り難さ、それが信心の喜びなんです。
まあ、どうぞ天と地ととゆうことと、石坂とゆう、浩二とゆうことは、皆さん適当に頂いて下さい。とりわけ今日は、石坂とゆうことを皆さんに聞いて頂いておる訳ですね。
私共の心はいっつも、体は楽な姿勢であっても、心はいつも神様に向かっておるとゆうことなんです。場合には、心配する心で、いわゆる心でいつも神様に向かっておるとゆうことなんです。
『御神眼に、広い石庭ですよね、広い、もう真っ白い砂を敷いてあって、その隅にちょこんとひとつの石が置いてある。その石の配石の具合と言うか、もう何ともかんとも言えんような配石の様子を心眼に頂きした。
言うならば、その広々とした白い砂を敷いた所がですね、ひとつの石の使い方ひとつで見事に生きておる訳です。いわゆる空間です。特に日本の絵なんかを描く人達はね、この空間とゆうことを、絵そのものより大事に致しますそうですね。
例えば、広い紙にちょっと絵を描いて、その絵がこの空間の全てを生かしておるとゆうのです。勿論、その石とゆうのは、今私が申します、石とは心なんです。自分の心の使い方ひとつではですね、もう全ての空間がね、もういっぱい生きてくるんです。
もう大変なこと、素晴らしいことですね、信心とは。自分の研きに研き、改まりに改まった心から生まれてくる、放ってくるところの光を持って、自然との対決によって鍛えに鍛えた、その力を持って、その心をです、使い方ひとつではです、いうならば世界中の空間がですね、私の心ひとつで生きてくると言ったような意味なのです。
これは自分の家庭に言ってもいいです。自分とゆう信心のある私が一人ある為にです、家庭の全部が生きてくる。自分の職場の全部が生きてくる。又はこれが時間、又は空間と言うてもいいでしょう。はあ、今迄は知らなかった。こうゆう有り難い信心があるとゆうことは知らなかった。最近言われておるように、本当に和賀心これだと、気付いたのは今日(こんにち)であり今迄は知らなかった。空間であった。
けれども今日(こんにち)私がここに初めて、和賀心、これだと。これからの時代は、和賀心時代に突入するのだ。その第一歩的なものをです、私共の信心によってそれが頂かれて、私共がおかげを受けて、それを人へ伝えていくとゆうことは、神様へのお礼になることと同時に、私共がいよいよ神になっていくことだ。それが真の道を踏んで行くのだと、気付かせて頂いたとするならですね、過去の何十年間御無礼時代というかね、知らなかった神様が、空間がです、生きてくるんです。
私は、今日の心眼に頂く、たいして大きくもない石がひとつ据えてある。その据え方の具合ひとつでですね、この白い白砂の所が、もう見事に生かされておるとゆうことでです、これは名人が入れられたものだとゆうことなんでしょうがです、私共は、心の使い方の名人にならせて頂かなきゃなりません。しかもその心がですね、全てのおかげにつながるのですから。
今日私が、「心配する心で信心せよ」と。はあ、イライラする、モヤモヤする、不安で不安でたまらん。仕事も手につかんごとある。そうゆうことであってはならんのです。私どもの心が心配だからこそ、ひとたび神様へ向かったらです、そこに次には安らいだ心とゆうものが与えられるものでなければならん。それを、ギリギリのところを申しますと、私は幹三郎のことを、〔私が〕あの人の顔を見るたんびにです、難儀なことだなあと、こう思う。これが医者が見たらどげん言うだろうかと。
ある人が、幹三郎に言うた。「幹三郎さん、あんたそげなこつしよったら大ごとの出来るばい。早う、医者に行って。」と言われたから、「信心のある人がそうして言わしゃったから、どうさせて頂こうか。」と言うて、ここへお届けに来ました。「けれども幹三郎君、それは勿体なかね。」と、私が申しました。「折角、僕はそのことで信心させてもらいよるのじゃけん、勿体なかばい。」と、私が言いました。かかれとも、かかるなとも言わん。
そしたら、涙ボロボロ流してから、勝手まで行ってから泣きだした。「なんで、あんた泣きよるの」と、家内が言うたら、親先生が医者にはかかるな、と言わっしゃったと言うて泣きよるのじゃあなくてです、「これによって信心ばさせて頂けと先生が言わしゃった。」と言うて泣きよった。
子供の泣くごと心配なこと、親が心配にならんはずがあるもんか。しかも、目の前にあの姿を見るんだから。これほど医学が発達しとるとじゃから、医学でちょっとどうかメスをあててもらうとか、どうかしてもらって、治療してもらったらいかにも楽なごとあるけれどもです、それではね。
これはまた、私の過去の体験から言うてです、医者にかかるよりも、これの方が早い。これの方が素晴らしいおかげを受けられるということも確信しておるのです。
けれどもです、万一、私の見当違いがです、そのことによって、神様にこれだけ向こうて死んでもです、次の瞬間には、ままよという心になるのです。だから、心配する心という、いわゆる石坂です、今日の御理解の焦点は。
心がね、いつも急坂(きゅうはん)を、いわゆる坂道を登っているような状態がある時ならね、例えば、まあこれは、お取次者の立場としてですね、神様に心配なかろうと一生懸命お参りしとんなさる時には、安心だということになります。
けれどもね、あれも出来た、これも出来たというごとしてから、この頃信心も遠ざかってきておる。そして安心してござる。安心の座にあぐらをかいておる人達のことが、私の心の中では、心配でたまらん。難儀をもって、一生懸命お参りをしておる時なら。私はひとつも心配をせんでいい、楽です。もうそれでおかげを受けると思うのです。神様にそれだけ打ち向こうておるのですから。
そういう例えば、ことによって研きに研かれた。そのことによって、光を放つ程しの信心を持って私共が、世の御役にたたせて頂こう。光も無く、力も無くて、真暗な、いわば、難儀な世の中に出たってやはり同じこと、力も無しに世の御役にたとうというたって、何をもって〔世の〕御役にたつか。
そこで私共自身がまず、力を頂き、光を頂いて、いよいよなる程、一九七〇年という年柄は、和賀心時代を、もう、本当に、和賀心時代でなからなければ、人間は幸せにはなれないということを本当に人間が分った年なんです。それもぎりぎりのことまでいった人達が分ったんです。まあだそこまでいって無い人達は、まあだ物じゃ金じゃと言っておるかもしれませんけれどもね。
だからそういう時代がこれからは、もうたくさんな、それこそ天文学的な数字の年限を費やしながらです、この和賀心時代が段々、一歩一歩おかげ頂いていくでしょう。
そのことを、「神あっての氏子、氏子あっての神」と、私共は頂かなければならない。神様は、「氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたすこと」と、こうおっしゃておられます。上下立つように致す。神様も、人間もが幸せになってゆけれる、いわば、本当の道の働きというかね、それが、顕現されてくる訳なんです。
今日の六十一節を、そのような風に、今日は頂かせて頂いた。どうぞ、心の中にはいつも、いわゆる「表行よりは心行をせよ」と、おっしゃるが、心行とはいつも絶えず、自分の心の中に心配を感じておることだと。
しかもそれは、神様が御心配をなさるような心配が出来るようになることを目指しながら、その心配がひと度神様へ向けられる時、一心の祈念になる時、お取次を頂いた時、その向こうにあるものは、安らぎであり又は、ままよという度胸であり、そこから力が、そしてそこの所のおかげを頂いていく事のために、いよいよ「信心とは、本心の玉を研くものぞや。日々の改まりが第一ぞ。」と、おっしゃるところへ、焦点を置いていくと光を感ずるおかげを受けられるだろう。
そういう、いわば光に輝く世の中に私共の信心。まず、私の心の中から頂いて、それを自分の周囲にもたらしていくということが、世の御役に立つことの第一歩ではないかという風に思うのです。どうぞ、心配する心でひとつ皆さん信心をなさらなきゃいけません。どうぞ。