昭和45年1月27日 朝の御理解
御理解第88節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
これの解釈と言うか、いわゆる解釈のいらないように、説明してあると思うのですけれども、これは、どうゆうことかと言うと、鏡を立てるとゆうことは、教えの鏡を立てるとゆうこと。
自分が、例えば辛い顔をしておると、言うなら苦しい顔をしておる、にがい顔をしておると。その苦しいとか、にがいとかとゆう思いがです、どうゆうところから、そうゆう、にがい顔をしておらなければならんのか、どうして、そんな悲しい顔をしておらなければならんのか、とゆうことをです、その鏡によって、いわば自分の顔が映るように教えの鏡を立てますと、その元が分かるのです。
だから、ついにがい顔とか悲しい顔が、悲しいけれどもにがいけれども有り難いとゆう、その有り難いとゆう心が、顔に表れてくるようになる。信心は、それだと思う、ね。なる程、苦しい、苦しいけれども有り難いんだと。
ですから、その有り難いとゆう心で、家を治めようとゆうことだと。まあ、そうゆう意味のことだと思うんですが、果たして、皆さんの場合はどうでしょうか。その心で、自分の心を治め、家を治めるといったようなことにまで、おかげを頂いておられるだろうかと思う。こんにちの焦点ですね。
自分の心ひとつが、治めかねておるようなことはないかと。不安である、心配である、歯痒いとか、情けないとか、腹が立つとか、と例えば、言うだけであったら、もう全然、ですから、信心を頂いておる値打ちが無い訳です。
しかし、それがあってもいいけれどもです。けれども、有り難いとゆう、教えの鏡を立てるけれども、有り難いとゆうことになってくるのですけれども、教えの鏡を立てようとしないから、ただ苦しいとか、悲しいとかということだけで、自分の心が治められないのですから、家が治められるはずは勿論ありませんがね。
最近、コンピュ-タ-時代とか、断絶時代なんてゆうことを申しておりますね。又は、宇宙時代とも申します。人間が、月の世界に行けれるようになった時代、まあ大変な時代だと。
コンピュ-タ-時代、もう人間は、ひとっつも思うこともいらなければ、考えることもいらない。人間の思い以上の思いを機械に入れて、パッパッと、こう算盤をはじくように、はじき出してくれる。どんなに低能であってもいい、その操作だけ覚えとけばよいとゆう時代。世はまさに断絶時代だとゆうふうにですね。
ところがね、そうゆう素晴らしい時代。〔そう〕なればなる程、皆んなが気付いてきたことは、いわゆる心の大切さとゆうことだそうですねえ。いよいよ、そうゆう素晴らしい時代が出現したと、〔そ〕してです、そうゆう時代になればなる程です、いわゆる心というものが重視される。
もうどんなに、例えば、じ-っとしておってでも、食べられるような時代が来たにしてもです。人間の幸せとゆうのは、そうゆう機械文明というか、科学時代というか、もうそうゆう人間が月の世界にでも行けれるような時代になればなる程です、いよいよ求められるものは心だと。そうゆう意味で、私は思うですねえ。いよいよ神の願いがですね、地上になる時代がね、もう間近に来ている。そんな感じが致します。
昨日、午後ここを下がりましてから、コタツの間で、若先生、それから日吉さん、末永さん、それに久富先生とこの博通さんと若い青年の人達が、三、四人あそこへ集まりましてね、いわゆる信心話に花が咲いて、今のような話がでたんです。断絶時代。
私は、そうゆうことは知ってはいたけれど、それがどうゆう意味なのかひとつも分からなかった。だから断絶時代とか、又はコンピュ-タ-時代とか、言ったようなものは、まあ具体的に言ってどうゆうことなのか若い人達の話を聞かせて頂いてから、段々、おぼろげながら分かってきた。分からせて頂きながらです、私は、本当にそれを感じたんです。
これは、神の願いが地上になる事前(ことまえ)にあるということです。人間の知恵、力を総結集してですねえ、こうゆう素晴らしい時代が、このように実現してきておる。そして、そこに大きな壁というのは、人間はそれだけで〔は〕、幸せになれるものではないとゆうことを、ぎりぎり分かってきた。本気で心を大事にしなければならない時代に、いわば、これから突入する。
言うなら、コンピュ-タ-時代、宇宙時代を迎えた。そして、これから、いよいよ精神の時代、心の時代に突入していかなければならない。いわば、有り難い時期が、到来し来つつあるとゆうこと。
いわゆる、わが心を治めるということ。わが心で家が治まるとゆう、わが心で世の中が治まっていく、そうゆう時代を、求める時代が必ず来る。
言うならば、昨日、私は、若先生のいろんな質問に対して答えたことでした。例えば、これは、金光教に限ったことではないでしょうけれども、そんなら、このように素晴らしい教えを持つお道の信心がです、どうでもね、これが国民の義務、こうゆう信心を身い付けるとゆうことは、そうゆう義務の時代がこなければ、駄目だと私は申しました。「おかげは、和賀心にあり」と。和賀心を求めての時代、和賀心を求めての時代、そうゆう時代に突入する。
この頃、私の従兄弟がやって参りまして、西日本の新聞記者をしておるんです。一週間に一遍ですかね、心とゆうペ-ジが設けられておりますがね。最近ではですね、あの欄を毎日にしてくれとゆう要望が非常に強いそうです、〔そうゆう〕投書が来ると。
「こころ」とゆう、なかなか、いいことが書いてありますね。まあ宗教の方達とか、いわゆる精神家の方達が、色々随筆風のものを書いたり、その人の生き方を書いたりしておる。一週間に一遍ずつあれが出てます。「こころ」という。
それをですね、毎日あの欄を設けてくれと、ゆうような要望が非常に強いからね、本社でもそれを考えておる、といったようなことが。いわゆる世は、まさに宗教時代になるといったような意味のことを話しております。
人間の知恵、力を総結集して、いわゆる、そうゆう科学万能の時代というかね、コンピュ-タ-時代が、ここに到来した。そうゆう時代を迎えた。
迎えたところが、もうこれで人間が幸せになるか、ボタンひとつ押せばですよ、なあにもすることがいらん、とゆうような時代が、よし、来たに致しましてもです、そこに求められるのは、心の問題だと。
だから、その心とゆうものが、そんなら有るとか、無いとか、心とゆう問題とゆうことは、情操の問題だとゆうことなんです。心豊に、心豊に生活をする、生きていくとゆうことが、人間の一番幸せだと。
ですから、それをもう少し進めると、それに和らいだ心だけではなくて、それに賀びの心というものが執拗になってくることは勿論です。
いわゆる教祖様が、「おかげは、和賀心にあり」と、世の中の幸せは、人間氏子一人一人がです、和賀心を求めての生活。だから、全世界の人間である、地上に住んでおる人間の全てがです、和賀心を求めての学問といったようなものがね、私は、義務とゆう程しにまでならなければ、いわゆる世界の平和とか、人間の幸せとゆうのは、ありえないとうゆうことになるんです。
それを、先駆けて私どもはですね、いわゆるお道の信心をさせて頂く者はです、私どもは一生懸命で、それを身に付けようとしておる訳なのです。
そういう素晴らしいことを目指して、いわゆる和賀心ひとつで家を治めてゆけれる道をです、習うていきよるのに、果たして自分自身の心ひとつが治められておらんような事ではおかしいじゃないか。和賀心を求めていないからだ。
やはり信心がですね、御利益、御利益という時代はもう過ぎたんだ。世はまさに、コンピュ-タ-時代なんだから、宇宙時代なんだから、断絶時代なんだから、もうおかげというのは、もうそれこそいっぱいあるんだ。形の上においての。
ですから、それを、もうこれ以上求めるということは、本当に私はいけないことだと思う。だから、自分の心が助かっていくということをです、いよいよ求めての信心でなからなければ、信心が何時までも世に取り上げられない。信心が何時までも低級視される、おかげならね、そういうコンピュ-タ-時代といわれるのですから、それに頼ったほうが良いのです。拝むとか、参るとしなくてもいいんだ。
けども、和賀心を求めての信心。和賀心を求めての生き方。情けない自分の心ひとつが治められない。何年信心させて頂いておるか、自分の店ひとつが治められない。自分の家ひとつが治められない。
実にその、いかに和賀心を求めてて言いよるけれども、和賀心を求めよらんかということが分かる。いよいよの時には鏡を立てよらん。自分の我情我欲でいっぱい。
そこに、それこそ、まさに断絶時代がある訳です。自分さえ良かりゃ~良か。私は、信心者がですね、そういうところを、何時までも繰り返し繰り返ししよっては、本当に神の願いが実現する、地上になろうとしておる、もう、夜明けにあるということ、現在は。
私は昨日、若い方たちの話を聞いてから、それを本当に感じたです。そして、そんなら科学を治めた人ですね、そういう最高の学問なら学問を身につけた人達、最高の技術を身につけた人達がです、これだけのことが出来たけれども、これから先は心によらなければ人間の幸せは望めない心ということをです、皆んなが絶叫しておるんです。いろいろのことをなしてしまってから。でなかったらもう人間は窒息してしまう、という意味のことを言っている。
そういう意味でです、私は本当にもう本当に神様の御働きがです、もう世界全土にわたって、地上におかげを頂いておる人間の全てがです、これは、心ということに重点を置くようになり、しかも、心だけではない、いわゆる和の心だけではない、賀びの心というものが必要である。そこに求められるのが信心である。信心とはそれなんだ。そこにです、そんなら素晴らしい絶対の教えをもった宗教が強いことになってくる。
同時に、生きた働きのある宗教が強いことになってくる。又、それが、必要になってくる。それが義務とまでも高められるものになってこなければならない。
そういうことになったら、素晴らしいことだと思うです。神のいわゆる理想実現なのです。神の世界がこの世に実現する。それをですね、まず私の心から、まず合楽からという位の願いを持って、私は世のお役に立たせて下さいという願いが、なからなければいけんと思うのですけれどもねえ。
それが、自分の心ひとつが、まだぐずぐずして治められんでおるようなことでですよ、折角、合楽におかげを頂いておって、しかも毎日こうした生きた御教えを頂いておって、自分の心ひとつが治められない。自分の店ひとつが治められない。自分の家が治められないといったようなことではいけませんですね。
ですから、今日(こんにち)の焦点〔は〕、まず自分の心を治めえておるかどうかを検討して、それは、痛いことも痒いこともありましょう。辛いことも、悲しいこともありましょう。けれども、有り難いとゆう和賀心だけは、微動だもしとらん。悲しいから、涙がボロボロ流れとる。けれども、その底にはです、本当に信心を頂いておるとゆうことは、有り難いと。
ところがです、悲しい時になると、腹が立つ時になると、和賀心はどこへやら。それが、どこに原因しておるかというと、自分さえよかりゃよいとゆう、我情我欲でいっぱいだからなのですよ。いつも願うておることは、自分のことだけだからですよ。いつも願うておることはどうぞ万事万端、お繰り合わせの事をと。
それは、願ってはいい。そんなら、私どもが一時間なら一時間を、一生懸命お願いさせて頂いておる時に、いうならばです願いがほとんどだとゆうことです。あれも心配になる、これもやっぱり不安だとゆうことを、やはり神様に聞いて頂かなきゃ安心がゆかんのですから。
いいけれども、そのことは神様にお願い〔を〕して任せて、私はどういうことの中にあっても、和賀心を追求しておる。求め抜いておる。そこんところを頂かして下さいとゆう願いがです、その根底になっての願いでなからなければならないとゆうこと。
そこにですね、そんなら求められるのが一心なのです。そんなら和賀心、和賀心と言うておるだけじゃ、誰も和賀心になれやしません。どんな素晴らしい話を聞いとったちゃです、決して和賀心になりゃしません。
その和賀心を求める、その心が切でなからなければならないとゆうことです。言うなら、その和賀心を求める心が一心でなからねばならない。和賀心が与えられるならば、どんな修行もいといませんとゆう修行精神が必要なんです。
昨日、丁度私どもが、お昼から丁度、もうすぐ四時ですと、ここから言うてくるまで、お話をしよった。で、まあ三時頃だったでしょうか、二番目の息子の光昭が、昨日は朝の御祈念に出て来てませんでした。私が三時半にここを出ます。あの時の御用だけはさせて頂いておったけれども、御祈念に出て来てなかった。
ところが、あの人は蓄膿症が悪いから、何時も頭が痛むらしいんですね。大体早起きが出来ないらしいんですね、蓄膿症の人は。昨日、初めて聞いたんですけれど。風邪とそれが重なって、大変それが苦しんでおるらしいのです。
昨日、話しておる時に二階に食事を運びよりますもん。「誰か、どうかおるとか」って言ったら、「光昭さんが休んでおんなさるから」と、こう言うんです。「ああ、そうかね」と、言うておりましたら、それから、又二十分から三十分したら、昨日、洋服どん着替えてちから下りて来ましたもん。えらい顔色が悪いです。もう、じゅずなかそうにして下りて来ましてから、それでも、「今から親教会にお礼に出ますから」と言うんです。もう明日にしとけと言いたい思いでしたけれども、まあ、あれは一途にその事だけを心に掛けておりますし、この前、風邪をひいて熱発してから休んでおる時に、親教会に、今日は御無礼しようと思うて休んどったら、寝床の中でですね、[ほうても出れ]とゆう御言葉を頂いたそうです。
ですからですね、その時も熱で顔が真っ赤になりながらお礼に出て、そしておかげ頂いておりましたが、昨日もそんなふうで行きよりました。そしたら、間もなく帰って参りました。あら、お参りしなかったじゃろうかと思いよりましたら、ニコニコして帰ってきました。
僕がそこの表まで出たら、丁度善導寺の教会の前に、森光さんとゆう衣料品店がありますが、そこの息子さんが高校の時の友達だそうです。それが、商売であちらへ言ったとか言うて便乗させて下さった。ほんな教会の前までおかげ頂いた。お届けを済まして、それから帰らして頂きよりましたら、丁度原さん所の前まで行ったところが、「親子で四時の御祈念に今からお参りしよります」と、こう言う。「さあ、乗って下さい」とゆう訳で、もう本当に行き戻り、教会の前から乗って、又教会の前に帰って来る。だから、アッとゆう間にお参りして来た訳なんです。
それで、「本当に光昭さん有り難いねえ、お参りしたことも有り難いばってん、その一心がね、このような素晴らしい神様の御守護の中にあることが有り難いね。」と、「僕もそれが有り難いと思う。」と言うて、ニコニコしてる訳なんです、ね。
ですからね、一心を立てんとね、そうゆう有り難さとゆうものが頂けんのですよ。漠然としておったんじゃ。ただ、信心しよります。参りよります。焦点はどこにありますか。はあ、おかげ頂かななりませんけんで、とゆうようなことではですね、何十年経ったってお道の信心をですね、全世界の人に義務としてお道の信心をさせれる働きになってこんです。そうゆう素晴らしいものを内容に持っておってもです、それを現すことの出来ない信者ばっかりじゃ出来んでしょうが。それを、実際に現してゆけれる、私は働きをすることが、世のお役に立つことだと思うんです。それで、そこに、やはり一心を貫かせて頂いてです、そこから生まれて来る神様の生きた働きとゆうものをです、身に受け感じさせて頂くところから生まれてくるのが和賀心。
そうゆう御守護の中にあって頭が痛いのであるから、そうゆう御守護の中にあって風邪をひいておるのであるから、そうゆう働きの中にあって、こうゆう腹の立つ問題が起こってきておるのであり、情けない事になってきておるのであるから、だから腹が立つけれども有り難いとうゆうことになってくるのでしょうが。
そうゆう心がです、あなたは、自分自身の心を治められておられる事になるのです。だから治めるとゆうことは、腹を立てちゃならんとゆうことじゃないです。悲しんじゃならんとゆうことじゃないです。悲しいけれども有り難い、それなんです。ですから、本気でですねえ、私どもが、その和賀心を求めて。
先日、善導寺の村山さんが、月次祭で言っておるように、「あのような難儀な問題、悩みいっぱいの時にです、お参りさせて頂いて初めて頂いた、おかげは和賀心にありとゆうことがです、人間の幸せはこれだと、これなしに私がもし結婚生活に入っておったら、私は、本当の幸せは掴みえないでしまえただろう。結婚が破談になったことのおかげでです、このことが分からせて頂いた。これによる以外にはないと思うた」と、こう言う。
どのような場合にでも、和らぎ賀ぶ心とゆものを頂かしてもらう道ずけをして頂くのが教会なんです。どのような場合でも和らぎ賀ぶ心をです、頂かせてもらえれる稽古の場が、ここなんです。それを、家に帰って、様々な応用問題に応用させて頂きながら、稽古をさせて頂くとゆう生き方なんです。
そこんところを体得して、結婚である。「もう、自分は結婚しても良いと思うた」と、その後三ヶ月の信心を続けて、そう言うております。
いよいよ、根本的なそこんところ。まあだ、まあだ、コンピュ-タ-時代と言い、宇宙時代と言いながらです。まあだ、まあだ、あれが揃わなければ幸せではない、これが無ければ、人間は幸せじゃないと思うておるから、あれを下さい、これを下さいとゆうことに終始した信心では、いつ迄たっても同じ。世はまさに断絶時代だと。
本当になにか、もう世界中が崩れてしまうような感じの言葉ですねえ。親と子の仲が断絶する。それで立ち行く時代だと<言うのです>。もう、親でもなからにゃ、子でもないと言うてもいいんだ。それで立ち行く時代なんだ、形の上においては。
けれども、そうゆう宇宙時代が到来し、コンピュ-タ-時代を迎えましたけれども、そこへ至って初めて、いわゆる開眼しつつあることはです、心の問題であるとゆうこと。だから、心、心と言うおっても心が汚い心やら、あさましい心じゃ、なんにもならないのですから。結局、心の清まりを願う。心の限りなく美しゅうならせて頂くことに、精進するような道を、そこに求めていくことになってくるだろう。
そこに、宗教がある。いわゆるそこにです、おかげはいやでも伴のうてくる。おかげは和賀心にある。和らぎ賀ぶ心、その心がです、私をいつも安心というか、喜びに浸らしておってくれる、和賀心。その心が、家を勿論治める原動力になる。それが勿論、世の中に潤うていく程のことになっていくとゆう、そこんところを今年(こんねん は私どもは、願いとしておる訳なのです。
信心の喜びの心がです、自分の周囲にも潤っていく程のおかげを頂こう。世のお役に立たして下さいとゆう願いを持っておるのでございますから、まず、わが心の治めることの出来ない位のことでは、世のお役に立つはずがありません。
どうぞ、ひとつおかげを頂きましてね、お互いがです、自分の心の中に様々な辛い悲しい思いをする時に、鏡を立ててみるとゆう事のですゆとりを、どうでも持たなければけませんですね。どうぞ。