昭和44年10月9日 朝の御理解
御理解第12節『神に会おうと思えば、にわの口に外へ出て見よ。空が神、下が神』
信心が、『神に会おうと思えば、にわの口に外へ出て見よ。空が神、下が神』とこう仰られる。会うただけで見るということではない。たとえて言うなら、誰々さんと会おうと思えば、どこどこへ行かなければ会われない、というだけのことです。
金光様とお会いしたいと思うなら、御本部へ参拝しなければならない。朝の2時から昼の4時まで、金光様が御本部のお広前にご奉仕下さっておる、御神勤になっておられる。ね。金光様にお会いしたというだけではいけん。ですよね。
会おうと思えばそこに行けば会える。にわの口に外へ出て見りゃ、なるほど、お道で言う神様というのは、空が神であり、地は神であり、もちろんもう少しそこを言うと、その天地を支配まします、その天地を守りしてござる、いわゆるもとつ親神が「神はわが本体の親」と仰る。その本体のもとつ親その神様に会おうと思えば、にわの口に出て見りゃ会えるんだけれども。会うただけでは何にもならん。
金光様に会いたいと思えば、御本部に行けばいつでも会えるのである。だからと言って、お会いしたからというただけでは、何にもならん。ね。だから、それが分かる。会うて、その神様が、どのようなお方かということを分かるということ。金光様がどのような願いを持っておるのであるか、ということを分かることの為には、やはり、その内容に、金光様のご信心の内容に、触れていかなければならん。ね。それはもう、言わば当然の話でありますよね。
その天地の、言わば働き、ね。天地を守護してござるもとつ親ね。その、まあ神様が、どのような働きをなさり、どのような、言うなら性質の神様であるかということ。ね。そこから、私は、信心が始まると思うんです。いわゆる、天地をまる生かしにしてござる、いわゆる、生かさなければおかん、止まんという神様である。
もちろん、天地というたら、もう広大無辺ですから、まあ、人間の住んでおる地球上に頂いたら、まあいいと思うんです。ね。地球を支配し、したもうておられる神様。しかもその地球上に生存しておるというかね、生きとし、いわゆる生きる物、生きておる物を生かさなければおかん、止まんという働き。( ? )人間を神の氏子として、目にかけて、人間氏子の立ち行き。その氏子の幸せ。その人間をいよいよ生かさずにはおかんという働き。
そういう働きをしてござることに合わなければです、それを知らなければです、信心は、いわゆるお道の信心ということになってこない。神に会おうと思えば、にわの口を出て見れば分かる。ですから、その言わば、天地の上に、いわゆる地球上の上に現れておる、様々な、ほんと、いわゆる森羅万象、ね。ことごとくが、神のそのまま姿と見ても良い。ね。
ですから、その森羅万象をですね、「生かさずにはおかん」というその働きはね、私どもなら、それを、その、そこに流れておるものとでも申しましょうかね。そういう働きを私どもが知らなければ、分かりません。それをまあ、神様の心を深く分かるというふうに、信心では申します。ね。天地の心ということ、とも申します。
その天地の心を知るところからです、ね、人間の、んなら、天地の心を知る、神の心を知り、その神の心に即応していこうという生き方。そういう生き方から生まれてくるのが、人間の幸せの道であり、真の道なのであります。ね。
ですから、神にまず会おうと思えば、ね。金光様にまず会おうと思えば、御本部へお参りをしなければならん。そして、その金光様のご信心のご内容というものを、私どもが分からして頂かなければならん。分からして頂くだけではない、そのご内容をご内容としての生き方がです、私どもの生活の上に現わされてこなければならん。言うてみるとこれだけです、金光様のご信心は。ね。
そこから人間の、これはもう生きとし生ける物ですけれどもね。天地と言うても、私、今日は地球ということに絞ったんです。ね。その地球の中でもです、ね。森羅万象という、そういう全ての生きとし生ける物の上に、「生かさずにはやまん」という働き。それをまた、人間氏子の上に、こう絞った。ね。
もっと言うならば、その人間氏子の中にです、いわゆる教祖は、「氏子信者」とこう仰っておられる。金光大神の御取次ぎを頂いて、幸せになろうと思うて、願うておる氏子。いわゆる信心を、お道の信心を頂いておる氏子。ね。人間氏子、の中からお道の信心を頂いておる氏子。
また、それをもっと言うなら、今度はね、お道の信心を頂いておる中にも、ね。合楽の信心に帰依し、合楽の信奉者である皆さん。ね。その皆さんがです、ね。お取次ぎを頂いておかげを頂きたいと願うならば、んなここで、私の、教会長なんですから、その教会長の心を心としてです、教会長が受けておるおかげ。大坪総一郎が受けておるおかげを、ただ、見るだけなら合楽に来れば分かるのである。ね。
ある人は、「ああ、こんくらいか」と言う人もあるかもしれません。けれども、またある人は、「素晴らしいことだなぁ、金光様のご信心とは、このようなおかげが受けられるんだ」というものを、ここへ来れば分かるのである、というふうに言う人もまた多かろう。また、そのいう見方をしておる人達が、ここに御神縁を頂いておる人達だというても良いと私は思う。
そこで、んなら、大坪総一郎が頂いておるところの信心の内容というものをです、それを日々頂かなければならんことになるのじゃないでしょうかね。そこに始めて、ね。神に会うただけではない、会うたことを機縁として、ね、大坪総一郎に会うたことを機縁として、そこから銘々の信心が一変し、ね、生活態度というのが一変んし、物の見方考え方というものが一変し、ね。変えられていく、私は稽古をすることが、合楽に御神縁を頂いておる者の、私は、生き方有り方でなからなければならんと信じております。どうでしょうか。
昨日私、今日のね、今朝方お夢を頂いたんですけれども、●誰か分からない。私はあの、もうとても格好の良い、洋酒のビンのようなものを、ようなものを、(?)のたくさんこれを持っておるわけです。
それで皆さんがそれを、これは格好がいいからこれを下さ下さいというて、まあ願うていくわけです。
中にほんとに格好のいい、やっぱ洋酒か何か入ったビンらしいけれども、それに、ソースか何かを入れたらしく、中がこう汚れておる。それを皆がこう、まあもろうて行く、まあ( ? )もろうて行く人もありゃ、遠慮深く「いらんならこれ下さい」と言うてもろうて行く人もある。
中には、遠慮してから「これは汚れておるじゃけん、もういらんとでしょう先生」ちゅうて、「これは相当何かはやっとったって、もういらんごたるから」ちゅうて、もう一番汚い所からこう、そのまあ遠慮しながらもろうて行くというのである。
私は、あの椛目、昔、これは椛目が始まった早々の頃、いろいろお供え頂きますね。もちろん、洋酒のなんかも頂きますが、いろんなお菓子なんかも頂きますと、それはほんとにあの、良い箱がね、ほんとにとっておきたい、溜めておきたいというような、格好のいい箱があるんです。
それは、包装紙なんかは、もう実に見事なですね、もうこ貯めといたら、役に立つだけではなくて、楽しいような包装紙がいくらもあった。
ほんで、私がそれをですね、あの(くわの先生が?)まだ参ってた時ですから、これを貯めときなさいちゅうた。なんか、私はだいたい収集癖がありますからね、物を集める癖がありますから。それが、このようなものを、空箱をこう集める癖がある。包装紙なんかでも、綺麗なのをこう集める癖がある。そういうような時にですね、神様がね、★『包み紙を集めたり、空箱を集めたり、空ビンを集めたるような、そういう事はやめれ。中身を頂けれる信心を受けよ』というお知らせを頂いたことがあるんです。
お菓子箱じゃいかん。中に入っとるお菓子を頂かにゃあ。洋酒の空ビンじゃいかん。中身を頂け。しかも、いつも身の入ったのが、こうやって、もしこう、んなら空ビンを飾りたいというなら、空ビンを飾るのじゃない、身の入ったのを飾れるようなおかげを頂かにゃいかん。包み紙やら空箱やら、空ビンども集める信心ではいけんぞ、ということを頂いたことがあったが、その事を今日私は思わせて頂いた。
皆その形の所、包装しておる物、そこだけを頂いていこうとする。ね。その中身を受けなければいかん。中身が受けられる、私は信心を頂かなければいけん。それにもね、やはり神様の中身というものを私どもが頂かなければならん。頂けるのです。ね。
ただ、「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て、空が神、下が神」と仰るから、その天地そのものを神様と言うとるだけじゃいかん。天地の、言わばその、心と言うか、その底の底と言うか、底に、言わば流れておるもの。それから、それに夢に続いたように頂きましたのがね。
●この、ずっとこう、私が空中をこう歩いておりまして、もうはっとその音にびっくりしたんです。というのはですね、その天地のこう、天地の、大地のですね。大地がまるきりガラス張りのように底の底が見えておるんですよ。私は、そこに一歩足をぽっとこう、踏んでる空間に、もうそれこそ落ち込んだように思ったんですね、感じが。
ところがそれは、そのいわゆる、上辺ではなくて、大地の底の底にですね、その、もうそれこそ、まあ音は聞こえませんけれども、音を立てて流れておるであろう、いわゆる地下水ですね。地下水がもうとうとうとして、流れておる姿が私の眼下にあるのです。はっとして目が覚めた。
大地の底に流れておるもの。噴き出さんばかりに流れておるもの。もう落ち込んだら命がなかろう、と思われるほどのとうとうとして、その流れておる地下水をです、私どもは、知らなければならん。この地の底には、ね。そういう例えば、お恵みがいっぱいである。ね。
いわゆる、大地の底の底の、にあるものなんです。神様の心の底にあるものなんです。よく申しますですね、信心をさして頂くようになって、だんだん分からして頂く、神様を分からして頂くようになると、有り難いということと同時に、神様は怖いというようなことを申します。ね。
『神の中を分けて通りおるようなものじゃ』と教祖様は仰るけれど。私どもは、もうそれこそ、薄氷の上を分けて、用心して通っておるようなものだということを申します。油断したらそこに落ち込むような感じである。そういう働きの中に、私どもがある。その働きを私どもが「神の心」と言う。「神の働き」と言う。その「神の心」を知り、「神の働き」を受けて神恩報謝の心が、もちろんそこから頂けてくるのです。ね。
神の心を心とし、神に会おうと思えばだけではいけんのである。神に会うたら、神のその心を分からなければならん。神様の心の底を分からしてもらう。それを信心では「悟り」というふうに言うんじゃないでしょうか。
翻然として、ね、この神様の御陰を受けなければ、人間が立ち行かない。立ち行くということは別としてです、幸せになれない。その神様のお許しを頂かなければ、人間は幸せになれない。形の、言わば、目先の、例えば空ビンどん頂きよったっちゃ、幸せにはなれない。「あああるがいい」「こうあるがいい」と思うて、それだけで幸せになれるか。ね。
私どもは、「こうあるがいい」「そうあるがいい」というふうに、思いを思うのは、それはちょうど、形のおかげを空ビンの、空ビンのおかげを頂いておるようなものだと思う。ね。その中身の詰まっておる物を頂かなければならん。中身を頂いて始めて、「有り難き、もったいなき、恐れ多き」ということになってくる。ね。空ビンとかじゃ「有り難き、もったいなき、恐れ多き」が出てこないです。
してみると、私どもが、「あああるがいい」「こうあるがいい」というのは、そういう例えば、おかげはです、ね。空ビンを頂いて、ね、ちょっと、まあ飾りとおんないようなのかもしれんけれど、ちょっとした物の入れ物には役立つかもしれんけれど、それでは神様のほんとのお心に触れる事はできん。または、神様が下さろうとしておる、そういうおかげに触れる事はできん。ね。
そこで私どもはね、様々な問題という、その問題の形に囚われずに、その問題の底にあるもの。ね。その問題の中身というものを検討して、そこを分かっていくところから出てくる答えは『神愛』なんである。ね。そういう生き方をですね、具体的に示して下さったのが教祖の神様である。ね。
これは最近に限ったことではないけれどもですね、世界中の、言わば、こういう激しいと言うか、混沌としたというか。そういう中にあっても、人間はいよいよ幸せになる為の努力を続けておる。どうすれば幸せになるかと。
金の儲かることか。自分の国土を広げることか。もう様々に試みておるわけでありますけれども、どれもこれもがほんとうではないと悟らして頂くところから、いわゆる、人間のほんとうの生き方というものが、求め続けられておるわけなんだけれども。その生きた幸せの生き方というものが、いわゆるはっきり答えが出てこないわけである。結局それが、ね、だんだん空しいものになってくる。
そういう中にあって、私ども金光様の信心を頂いておる、金光様の信奉者である私どもはです、ね、ここにこのような素晴らしい生き方。絶対の幸せの生き方があるということを教祖様は、お示し下されてある。ね。
それをまあ例えば、一言二言で言うならです、ね。『打ち向かうものには負けて、時節に任せよ』と仰せられるような御教えがありますよね。ところがです、打ち向かうものには負けるどころか、打ち向かうものに勝ち向いて行くということに幸せを、いわゆるほんとの反対の事を皆が一生懸命になっておるわけなんです。
教祖様の生き方はね、打ち向かうものには負けて、言わば「時節」に任せる。神様の働きに任せよと。そこにね、人間の幸せがあるんです。必ず。そういう生き方に、お互いがならせられるところからです、ね。社会の清まりもあれば、ね。人間のほんとの幸せもあるんです。ね。ですから、その事に徹底するということなんです。
この度、百十年の記念祭に、ここにたいへんなご本ですけれども、『金光大神覚』というのがご直会として頂いた。これは教祖の神様が、神様から御神命を受けられて、ね、金光大神が、いわゆる生まれた時から、ほとんど晩年に至るまでの事がです、ずーっとお控えになって、書き残しておられる。それがたいへん、まあ言うなら、このようにもう一枚一枚、こういうふうにね、写真そのままの教祖様のお書き残しになっておられる物が、この本に全部出ております。
それは、意味の分からんところがあるのも、まあ、いろいろ研究されて、その説明がここにちゃんと書いてある。言うならば、金光大神のご一生のほんとに、まあ実に変わった、何と言うですかね、ご伝記と言うてもいいだろう。ね。
この中にです、金光大神がどのような生き方をされたかということが、もうほんとにその、教祖独特の表現で書いてある。教祖の神様がどのような物の見方考え方、または見極め方をなさったかということが、この(?)『金光大神覚』という覚書がずーっと書いてある。ね。
ですから、そういう例えば、金光大神の生きられ方というものがです、もうそのまま金光教の信心をさして頂く者の、いわゆる生き方でなからなければならないことになるのです。いわゆる金光大神のこれは「手記」なんですね。
これを書き続けられる途中にありますように、ここまで書いてきたら、ね、もう有り難うて有り難うてというてその、感涙にむせんでおられるところがあります。どうしてこのような事ができてきたであろうか、と言うて感動しておられるわけですね。
金光大神が、だんだんそういう実意丁寧な生き方というものが、神様のお認めになられるところとなり、神の頼みとなり、ね。そして金光教が誕生し、教祖様のその生きられ方の中に、天地の親神様、いよいよその生き方を示されるように、いろいろと教えておられる。そして、このようにたくさんの人が助かるようになり、日々有り難い。御神格も『生神金光大神』と進まれるようほどしのおかげを頂かれて、どうしてこのような事ができてきたであろうか、と感動しておられる。ね。
それを天地の親神様は、金光大神が、悲しいって言葉使っておりますね。金光大神が有り難いのじゃない、うれしいのじゃない。金光大神が悲しいのではない、悲しいまでの有り難さというのですね、意味は。ね。それは、そのままが「神の感動である。神の喜びである」というふうに、神様が言っておられます。ね。
そこにです、いわゆる「神も助かり氏子も立ち行く」といったような、そのおかげが現われております。金光大神が助かって行かれる事にしたがって、天地の親神様が助かっておいでられた。ね。それは、金光大神がいわゆる、実意丁寧な生き方がそれなんです。そこで、その実意丁寧な生き方をどこに焦点を置くかと。
生活態度と言うて、ただ、ね、実意丁寧に頭をこう低く下げたり、言葉使いを綺麗にしたりといったところに焦点を置いておる人もあるかもしれん。その心に焦点を置いとる人があるかもしれない。そこで、んなら、ここではどういうことかと言うと、ね。「神様のお働きそのものを実意丁寧に受けて行こう」というところに焦点が置かれておるわけですよね。
「時節に任せよ」と仰る。その時節そのものを大事にしていこうという生き方なんです。「成り行きを大事にしていこう」という生き方なんです。ね。そこから、たとえて言うと、ここでは大坪総一郎が助かった。その助かりを神様がまた、一緒に喜んで下さる。ね。いわゆる、「神を大切にする」とか「自然を成り行きを大切にする」ということによってです、神が助かられれる道が開けてきたわけです。
神が助かられれる道が開けてきたところから、大坪総一郎が助かる道が開けてきたわけです。そこから、たくさんの御神縁を頂いておる信奉者の皆さんが、助かられる場ができてきたのです。
ですから、その助かられる為には、いわゆる大坪総一郎の生き方というものがです、ね。問題になるところなんです。ね。その生き方こそが、私は中身である。合楽の信心の中身である。ね。だから、それを銘々が頂かずしてです、合楽の信心を頂いておる、金光様の頂いておるということにはならんのである。ね。
どうでも、「神に会おうと思えば、にわの口を出て見よ」と。大坪総一郎に会いたいと思えば、ここのお広前にお引き寄せ頂かなきゃならん。大坪総一郎がおかげを受けておるそのおかげをです、皆さんも頂きたいなら、形のおかげなら、空ビン的なおかげなら、空ビン的のおかげならです、ね。「早よ持って行きなさい」と言うてから、頂けれる。
または、だんだん信心を進めていくなら、「こんな空ビンをもろたっちゃ、何にもならん。この中身の入っとる、それば頂いていかじゃこて」と言うて、もうそう簡単に「空ビンなんか、何になるか」と言うて、やらないことにもなってくるだろう。ね。この中身を頂きなさい、信心の中身を頂きなさい、私の頂いとる中身を頂きなさい、というところから、それぞれ、様々な難儀というか、問題を通して、私の信心を皆さんに頂いてもらうわけなんです。ね。
だから、「親先生なら、こげん時どげんしなさるじゃろうか、どげん思いなさるじゃろうか」ということにもなってくるわけなんです。ね。だからそれを(有身なもの?)に、私はしていかなければならん。
会うだけなら合楽のお広前へ来ればいい。ちょっとしたおかげ、形だけなら、空ビンだけな、空箱のようなおかげであるならば、なるほど頂けれる。下されって言うたら、神様は下さるだろう。ね。けれども、それで人間が幸せになるということじゃない。その中身に入っとるものを頂いて始めて幸せになれるのであるから、そこんところを頂いていかなければならん。
もうほんとに、いくら頂いても頂いておってもね、そのそれは、たいへんなことなんですよ。実際は。私が今(口に出とる?)「はあ、もう親先生それどこじゃありません」と心から思えるということは、たいへんな難しい事なんです。ね。
私の内容を頂かずして、ただ頂けるならもう、それの方が簡単でいいわけなんですけれど、そんなわけには当然(おろせん?)。私の内容を皆さんが頂いて下さった時に、始めて頂けるのがほんとうの幸せであり、ほんとうのおかげなんです。
ですから、始めの間は、「さあ、持って行かんの。持って行かんの」言うなら、空ビンでもどんどんあげましょうけれどです、ね。ほんとうに幸せになってもらいたいと思うならば、「こげな空ビンをもらっていって何になるか。ほんとうなものを頂けるようにならないかんじゃないか」ということになるのです。
そこに、んなら今日は私が申しますようなところをです、本気に「そうだなぁ」と自分の心がです、そこへ目を向けるということ。
さっきあの、御理解に私申しましたように、昨日、午後から、お初穂整理をしながら、末永さんと桜井先生と、お手伝いして下さってから、三人でここでお話することです。ね。もうここに信心が極まってるんだからねと。
末永さんが、「最近、先生が言われる限りなく美しゅうなろうということが、少し分かってきた」とこう言うのですから。ここ何年間も(専門に?)おってから、もうそれこそ何十遍、何百遍聞いたか分からない「限りなく美しゅうなろう」ということが、始めて少し分かってきたっちゅうんです。またそうでなからなければ、もう合楽の信心はないと思うてきた。今にもよく思います。「もう限りなく美しゅうなる以外には、親先生ないですね」とこう言うた。そうなんだ。もうどれほど私が言うたか分からん事を、今、末永さんの言わば、心がですね、魂がそういうことになってきたわけです。
そこで最近私が思わして頂くことは、と言うてその、まず限りなく美しくならして頂く為にもう、日々の改まる以外にはないということを最近実感しますとこう。まず自分の垢を落とせと言うのである。ほんとに、それ考えてみるとやっぱり難しいことだなぁ。ね。あんたの魂が、今そこに目覚めたなぁ。そこに目覚めた。
だからね、分かっておるとか聞いておるとかというのは、ちょうど、神に会おうと思えば、にわの口出て見ただけなんです。そして、んなら今の末永さんが、昨日言っておることにですね、言わば、開眼できたら、目が覚めたらですね、もうそこに全ての事がです、改まる材料であり、全ての事が限りなく美しゅうならした頂く材料ばっかりなんだ、ということになってきた。もうこれ以外にはない。( ? )ですから、知っとるだけじゃいかんですね。
あの、その問題がね、そこに自分の魂がです、より動かされるというか。そこに眠っとった魂が目覚めるというか。ね。そこからね、問題が解消するんですよ。どんな問題だって。ね。その上に、言わば素晴らしいこと。いわゆる大坪総一郎のほんとうの生き方というものはです、本気で身に付けようとしておることなんです。そこから、私は、ほんとの幸せが約束されるのです。ね。
(かえりみ?)だけでも狙っておる。ね。大地の底にはです、それこそとうとうとして流れておる神の働きというものがあるんです。その地下水に触れる。その地下水が頂けれる信心。ね。
もう私どもは、それこそ、( ? )平気でこう歩いておるけれどです、もし私どもが心眼をもってです、この地の底に流れておるそれを知ったらです、もうほんとに、まあ薄氷の上を渡るような思いでなからなければ、この上は渡れない。それがだんだん分からして頂いて、おかげを頂いて徳を受けて、始めて「神の中を分けて通りおるようなもの」という実感が頂けれる信心がそこにある。ね。
人間の幸せというものが、ね、様々な形でそれを求めておらないものは一人もない。けれども、ほんとうの幸せの道になるというものはです、に行き当たっておる人は、ほんとに少ない。そこに金光様に御神縁を頂いておる者が、私がまず喜ばなければとは、そのことである。
どんなに信心をさして頂き、お道の信心を頂いておっても、ただし空ビンだけを求めておるような信心では、形の上の信心だけを求めておるようなことではです、それにおかげは得られない。ね。
いわゆる、教祖の神様の生きられ方、その生きられ方が自分の生き方になってくる。親先生がそのことを少しでも頂いて、その、その生き方が、例えば合楽のごひれいになっておる。私の幸せのもとになっておるならば、それを受けようと努力する。精進、精進する。ね。それを、んなら末永さんは、「限りなく美しゅうならして頂くということが、始めて分かってきた」とこう言う。それにはまず、何と言うても改まっていくことだと。
そういうことにならせられたら、もうそこに問題がなくなってくる。難儀がなくなってくる。その事によって磨かれ、その事によって改まらして頂けれるそこに『神愛』が感じられる。ね。どうでもひとつ、これは、「金光大神覚」というものを皆さん、一遍、ぜひこれをよく読ましてもろうたり、分からして頂いて、金光大神は、このような生きられ方をなさったんだと。この金光様、教祖様ご自身が、その自分の生き方を克明に書き記し、残されておられる。ね。
その生き方こそがです、人間のほんとうの幸せ、いよいよ世界は明るくなる、世界が清まる。人間が、言わば拝み合うていけれる世界が顕現されてくるもとなのです。このお書物ひとつがそれ、そのもとなんです、と言うてもよいくらい。ね。
だから、そういう生き方をいよいよ身に付けようとする、私は願いを立てさしてもらい、それを翻然としてです「もうこれに極まった」と、「これ以外にはないんだ」と、というその「魂の覚醒」とでも申しましょうかね、魂が目覚める。そこに目覚めるおかげを頂くお繰り合わせを本気で願わなければならんと思うですね。どうぞ。