昭和43年3月12日 朝の御理解



昭和43年3月12日 朝の御理解

 私は、こういう願いを持っておる。限りなく生みなしていってくださる神様。天が無条件に恵んで下さる。大地が、良いものを限りなく生みなしていってくださるような、そういう神様を頂きたいと思う。ところが時々、何と申しますか、パサパサしたような神様になって、いわば無味乾燥な神様になって、潤いもなんもない神様になってしまう。そこを私は、信心修行によって、生き生きとした神様に、していくところに、えー、私どもの信心があると思うておる。

 昨夜、遅くでしたが、福岡の(?若い)先生が、私に、こういうことを言われた。「先生あなたは、これだけは一生大事にしたいと言われるようなものが、おわりでしょうが、どういうようなことでしょうか。」。私は、すぐに答えた。それは、私は御結界ですよ。もう、これだけは、もう一生、私は、ここを下がって隠居しようとは思わない。手足の動く限り、命のある限り、ここだけは大事にさせて頂きたいと思う。同時に、もうひとつある。それは、うん、いよいよ成り行きを大事にしていきたいと思う。これはもう、おそらく一生、そこんところに取り組んでいくでしょう。私の頂いておる神様は、そういうような私の信心から、私に現れてくださる神様は、頂けておると自分で確信しております。

 み教えの中に「神に会いたいと思えば、庭の口に出て見よ。空が神、下が神」と仰せられる、ね。私共が日々、御神前に出て、御祈念をさせてもらう。それは、なんとも言葉では言い表せないけれども、こりゃあ実感としてね、あそこに座ったら、もう動かれないというような感じ。立ちあがるのがほしいにようなある、神様。そういうような神様をね、庭の口に出た時に、天地に対して、そういうような実感の通うような神様を頂きたいと、私は思う。毎朝、私は、あの御祈念前に、ここのお庭に出る。で、必ず天を拝し、地を拝むわけでございますけれども、ね。御神前に出て、これは実感ですけれども、その御神前で感ずるような神様を、天地を拝する時に、感じられない。私のこれからの信心の、あ、そこんところを、同じものにしていきたい、ね。御神前にぬかずかせて頂いて、頂いておるその神様と、庭の口に出た時に頂かせてもらう天地とね、同じ情感をもって、私に迫るように感じてくださる、働いてくださる、そういう神様を頂きたいと思う。

 教祖様の、まあ、そういうところを「畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中をわけて通りおるようなものじゃ。」、そういう実感を教祖は、味わっておられたのである、ね。まあいわば、朝露にぬれた藪の中をわけて通りるような実感。ザワザワ、ザワザワと音がする。そして、その露で着物が濡れるような実感。そういう生々しい神様を頂きたい。そういう神様を現していきたい。

 真っ黒い、みずみずしい、例えば、どろのような信心、ね。種を蒔けば、必ずおえる。必ずそこから、育つ、育ててくださる神様。限りなく無条件に恵んで下さる神様。そういう神様を頂きたい。ところが観念の神様。いわゆる無味乾燥な神様。金光様というても、実感として、有り難くなれない金光様。天地金乃神様というても、それは、だた観念の上の天地金乃神様、ね。生に、直に、感じれれる、例えば、触れば温かみを感じるような神様。つつきゃあ、血が飛び出るような神様。そういう神様を頂きたい。そして、そういう神様を現していきたい。

 私が、内殿に入って、御祈念をさせてもらう。時々、怖い思いが、することがある。天地に対しましても、そういう怖いような思いを時々することがある。まあ、教祖の神様は、「畑で肥えをかけておっても、道を歩いておっても、神の中をわけて通りおる」と仰るが、まあ、私の場合は、それが薄氷の上を渡るような感じで頂く時もある。天地を拝する時に、それこそ電気が、かかったのではなかろうかと思うように、いゆなら身が、しびれるような思いで、天地が私に迫ってくださるような時もある。けれども、どうしてもまだ、そこに、隔たりというか、私がここで拝む神様と、庭の口に出て拝む神様とが、大変な開きを感じる。ここのところを狭めていきたい。でなかったら、私が、今日言う、限りなく恵んでくださる、ね、限りなく生みなしてくださる、そういうおかげは受けれないと、私は思うておる。そこでそういうような、神様を実感させてもらえる信心。私は思うのですが、その、金光様を唱えさせて頂いても、「ありがとうございます」を申しましても、実感のない金光様であり、有り難いであるならば、それは、信心という遊技のようなものだと。ね。遊びごとじゃつまらん、ね。「金光様」、「天地金乃神様」と唱えさせて頂いたら、まあ今、申しますように、こう迫って来てくださる神様。もちろん私の心の中に内在してくださる、その神様とが一つになって、ね、そこに起きてくる信仰的感動とでも申しましょうか、いわゆる真に有り難いといったようなものが湧いてくる。そういう環境、ね、起こってくる神様を頂きたい。また、そういう神様を現していきたい。その為にどういう信心をさせてもろうたらよかろうかと。まあ、いつもそれを感じる。

 これは、まあ私の体験ですけれども、うん、やはり修行が必要であるということ。最近、ここの青年の方達が、まあ夜な夜な、えー、ここの山の上に御滝場がある。その御滝場へ、もう御祈念が終わって、11時12時頃から参ります。そりゃあもうこんなに温くなると、段々、良いですけれども、そりゃあ大変な、まあ修行だと私は思う、ね。ところがそれがひとつのなにかね、うん、快感というかね、自分の身をこう、ジカジガするような、ああ、その、氷のような水にあてて、ね、そこにひとつのまあ快感。あの最近、若い方々が歌う、歌の文句の中に、こんなのがありますね。あー、なんだったかな。「昨夜の夜の、あなたが噛んだ小指が痛い」ちいう、ね。「そっと唇、押し当てて」というような歌があるでしょう。ね。私は、その例えば、一つ間違えるとです、私が、今日申しますように、生な、生き生きとした、触れば本当に温かみを感じるような、ね、つつきゃあ血が飛び出るような神様を頂くために、修行が必要だ。けれどもその修行がです、ただそういうようなものが、これに感じれるる楽しみであったら、これは私は変態的なものだと思う。ね。それは、昨夜の夜にあなたに噛まれた小指が痛い、そっと唇、押し当ててと同じなんだ。そういう修行に、終わる恐れがある。だから、私は大体、その表行を評礼しないけれども、もう止むに止まれんというか、若い勢いあまって、そういう修行をなさるのですけれども、その例えば修行が、ね。もう本当に心の底から「生神金光大神様。金光様」と唱えたいというのならば、まあ実際、唱えにゃあおられん。「金光様」と唱えなければ、あの滝の中に飛び込んでいかれない、ね。その為の私は、修行ならば有り難い。けれどもそういう修行がです、ひとつの快感を伴う。とういうかね、ちょっとおかしな言い方ですけれども、それでは、私が言う、そういう修行ではない。生の神様を本当に感じさせて頂けるための修行というのは、そういう寒中に、滝の中にでも飛び込むような思いで、お互いの生活の現場において、ね、私はそういう思い。そういう勢い。を持ってその御用に立ち触らせて頂く、そこから、ね、神様をいよいよ身近に感じれるるおかげを受けられることを、これは私の体験から言えれる。

 同時にもう一つ。素直になること。「そんなことあるもんか。」と言うわずに、ね、そこに例えて、えー申しますと、私がもう、十七年になりますか。私のひとつの信仰的、ひとつのジレンマがあった時に、三代金光様、当時の金光様に、そのことをお願いお申し上げた。そしてら、「神様が教えてくださるようになさったら、結構です。」と仰しゃる。ところがそうしておるけれども、実際はここにジレンマが起こっておるのです。ここで、お言葉をお返ししてはと、思うたけれども、「金光様、それはどういうような、うん、おかげを頂いていったら」というようなことを、まあ、無我夢中で申し上げた。そしたら金光様が、はっきり教えて下さった、ね。「氏子が神様、任せなら、神様が氏子、任せになると仰せられますから。」というお言葉であった。「氏子が神様、任せなら、神様が氏子、任せになると仰せられますから」ね。今から、それを思うてみますとです、なるほど、それは神様、任せになるということは、場合によっては、もう嫌で嫌でたまらんこともある。辛うて辛うてたまらんこともある。けれども、また人からバカのアホうのと言われる時もある。けれども、神様のいわば、仰せにはそむ、まあ例えば、人間から笑われても、神様から笑わちゃあならん。そういう信心がです、ね、神様の教えてくださることをね、いわゆる神様、任せの、いわば信心をさせて頂いておったら、段々、私の願うことを、神様が、いや願い以上のことを聞いてくださるようになってきた。いわゆる、そこに生きた神様が現れて下さるようになった。まあ、そういう体験から、私はですね、とにかく神様の前に「はい」という素直な信心が望まれる。なかなか、見やすい言葉ですけれどもね、「はい」とそれを、次の行に表わしていくということは、なかなか難しいことである。そういうようなことをです、ね、それこそ寒中に滝の中に飛び込む勢いで、そういう修行に取り組ませて頂いたらです、本気で素直にならせて頂こうと、いうならバカになろうと、アホになろうと、そこから開けてくる道に現れて下さる神様が、私は本当に生きた、生き生きとした神様が現れてくださる。それを私は体験した。だから、なら、それは現在の程度である。けれども、それはもっともっと、表わしていきたい、ね。それには、私は思いますのに、私が内殿で、に入って、拝ませてもらう時の、あの気持ちと、庭の口に出てみて天地を拝する時の思うが同じような実感をもってです、ね。私の心の中にキャッチできるというか、感じれるというか、ね、そういうおかげの頂ける所まで、修行をいよいよ進めていかなければいけないな、と、まあこりゃあ私が思う。どうも「はい」のような、「はい、はい」というとおかしいね。なんか水気のないというか、砂のようなパサパサとした神様。どんなものを蒔いても、芽も生えない、芽も出ない。そういう神様。蒔けば必ず、芽を出す、花を咲かせてくださる。実を実らして下さる。ね、いわば沃土のようなね、いわゆる滋養豊かなドロのような神様を頂きたい。限りなく無条件に恵んで下さる神様。その限りなく与えて下さる、その神様、それを私の、そうした生き生きとした心でです、もう十分に頂きとめれれる、キャッチしていけれれる、おかげを頂いていく為に、いよいよ私の信心がね、庭先に出て天地を拝する時に、ね、現在、私が御神前で拝ませて頂く神様と同じような状態で、感じれれるになれた時にです、私は、そういうようなおかげを頂けるのだということを、うん、思います。もうそれは、あーなんと申しましょうかね、まだ、それこそ限りがないほどに、これから開けていく、その信心ね。そこんところを例えば、狭めていく。同じものにしていく信心を、私はさせて頂きたい。そのための修行ならば、どのような修行でもいとわない。また、いとうてはならないというふうに、私は思い、私はそういう神様を頂いて、いよいよ、そういう神様を表わしていかなければならないというふうに感じております。どうぞ。



[Return to the List]

[Return Home]


Copyright (C)