昭和43年1月13日 朝の御理解



昭和43年1月13日 朝の御理解

御神訓 「神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するも同じこと。」

 私は先日から、歯がすびくんです。もう熱いものも冷たいものも頂かれない。先日十日の月次祭が終わりましてから、いつも御神酒が出してありますが、その御神酒を頂かしてもろうた。頂いたら、もう、それこそ痛むんです。ところが、それっきりおかげ頂いたんです。もう、あとお水を頂いても、なんともない。ところが翌日になりましたら、又すびくんです。皆さん、そうゆう体験はお持ちでないでしょうか。御神米を頂いた、御神酒を頂いた。もう本当に御神米とか御神酒の威力とでも申しましょうか。お徳とでも申しましょうか。おかげを受けます。

 さて、昨日は確かにおかげ頂いておったんだけれども、今日、又痛みよる。昨日んとは、偶然に良うなったっちゃろう、とゆうような考え方があったんでは、おかげにならん。そこのところが大事のようですね。そこで今日私が申します、「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと」とゆうようなものが分かっておりませんと、神様のお働きを制止するような事になってくる。これは御神米を頂いたり、御神水を頂いたりする時だけじゃありません。一事が万事そうなんです。お願いを致しますと、特に、生きるか死ぬるかとゆうような、まあ医者から見離されたといったような病人のお取次の時なんか、もう絶対しるしを見せて下さるんですねえ。もうこれは絶対です。ところが翌日は、又元に戻っている。そうすると、やっぱり昨日んとは偶然じゃったっちゅうところから、おかげが崩れてくる。病気だけでなく、事柄、事情の場合でも、確かに神様の働きを見して下さる。そこに私共が一つの勢いを得る。どころか次に元に戻ったりすると、やっぱ偶然じゃったつじゃろう、その偶然にする心が次のおかげを頂かん。神様だからですねえ、もう良うなりの口をつけて下さったら、ずーっと快方に向かわして下さりゃいいんだけれども、そこんところに親心があるのです。ここへんのところを分からなきゃいけん。

 今日は初の十三日会でございます。十三会のそもそもの始まりは、せめて月に一日ぐらいは、神様の願いに応える一日でありたい、神様のお心に添いたい、親心が分かりたい、神の思いに添い奉りたい。せめて今日一日だけはと、ゆうような願いの元に起こり、今日迄続けられているのでございます。けれども果たして、その親の思いに添い奉るとゆうところの信心が果たして、どれだけ出来てきたか。しかし、そうゆう私共の一寸した心掛けといったようなものが、日頃はお願いするばっかり、おかげ頂くばっかり、せめて今日一日ぐらいはとゆう、そのささやかな気持を神様は受けて下さって、例えば、合楽の御造営の端初となったのが十三日会でございました。してみると、神様の願いに添いたい、神様の思いに添いたいとゆう、その向こうには、氏子の願いに添いたい。氏子の思いに添いたいとゆう思いがいっぱいある事が分かります。だから、そこんところを皆さんが大事にしておいでなければなりません。信心は親に孝行するも同じ事。だから、その親がですよ、撫でたりさすったりする時があるけれども、怒る事もありゃあ叩く事もあるのです。それが親心なんです。ですから、そこんところの信心をですね、分からないと、本当の神様を把握してゆく、いよいよ確信に満ちた生活さして頂く事ができん。痛んでも痛まなくても確信してゆけれる、神様の御都合に違いはない。あれ程の働きを見して下さる神様なんだから、又痛んだ。これは神様の御都合があるに違いない。氏子なにか分かれよ。ここんところをあんたどんがちっと分からんといかんところよと、ゆうようなものを感じさしてもろうて、そして神様にお願いさしてもろうて、お縋りさしてもろうた。神様の働きを働きとして、そこに至った。そしてそこから向こうは氏子の分野である。私共が所謂、信心は親に孝行するも同じ事ぞやとゆう信心になってゆけば、おかげ頂く。神様の思いも分かり、おかげも頂く事になる。

 寒中に親が竹の子を食べたいと言う。こげな寒中に竹の子のあるはずはないじゃないか。昔のお芝居の「二十四孝の竹の子堀り」の一場面、親が寒中に竹の子を食べたい。日頃、親孝行の息子ですから、この寒中に、しかも雪をかき分けて、その竹の子掘りに、竹の子のあるはずはないんだけれども、親に孝行する一念が天に通じるかもしれん。どうでも、ひとつ掘ってみろうかとゆうところなんです。いっとき、あけて掘りました。ところが成程、親の願うところの竹の子はなかった。竹の子は無かったけれども、その人が、もうそれこそ家代々伝わっておるとゆう、その刀がなからなければ命にかかわるといったような、探し求めておった刀が雪の中から出てきた。親が竹の子食べたいとゆうのは、これは親の願いじゃないのです。実際は、もうその向こうに、子供におかげをやらにゃおかんとゆう働き。そこが親に孝行するも同じ事ぞやとゆう信心が分かっておかんと、そうゆう時にです、神様は無理ばっかり言いなさってから、こげな寒中に竹の子がありますもんかいなと言うたら、それ迄。

 信心生活さして頂いとっても、そげな理不尽な話がありますもんかいなとゆう事もある。ところが神様の願い、例えば私共の上にです、私共が、この十三日ですね、所謂今日必ず小倉にお参りさせて頂いた。もう本当に小倉参りの時は皆が、もう楽しみにお参りさせて頂いた。近辺の教会へお参りすると、何かしら背中が痛いようなものを感じておった。あれが椛目ばい、あれが神愛会の連中ばいと言うてです、声は聞こえんでも、背中にそれを聞き止めるごたるものを感じてたんです。その時代は、所謂椛目の者であると、肩身の狭い思いをしておった。だから小倉あたりなりますと、誰もそれを知らない。ですから、もう繁々と、毎月十三日を楽しみに、皆お参りさせて頂いた。ところが段々分かってきた。分かってきたら今度は桂先生が、それを大変大事にされるようになった。行く毎に、桂先生の御伝記を貸して下さったり、いろんな人には聞かせられない話まで、私共にして下さるようになった。特別に、こう、クローズアップされだしたんですね。さあ、その頃からが段々いけなくなった。

 ある御大祭に貸切バスでお参りさせて頂いた。それが、先生方の気持に??かったんですねえ。ところが桂先生はそうじゃなかった。お祭りを拝ましてもろうて、それが済んだら奥城へお参りさせてもらった。ところが私共、その奥城がどこにあるもんか知らんもんですから、それを先生にお伺いさせて頂いたら、そんなら総代をつけてやりましょう、とゆう事になり、わざわざ総代をつけて下さってお参りさせて頂いた。それが有難かった。そこで帰って来て、総代さん達が、こうして椛目の人達は、もう今時は、お祭りにお参りして来ても、奥城どんにお参りするもんがおらんごつなった。それを見てみなさい、椛目の信者さん達は、こうじゃた、ああじゃった、お道の教師でもない、ただの信者さんがこれだけの信心がでけよりますよ。先生、ああた方はどうですか。信者を何人連れて参りましたかと言うて、御直会の時、説教があったそうです。椛目は面目を施しましたが、さあ他の先生方が黙ちゃおらん訳です。もう、本当に椛目が出しゃばってと言うので、それが次々伝わり善導寺にもやって来た。もう私は、豊美と二人でお参りさせて頂いたが、親先生が大変な剣幕でありなさる。そりゃあ、ちゃんとお届けもしてある。ところが、もう、私どんが顔をつぶしてしもうたとゆう訳なんです。もう、そりゃあ、もう本当に血の涙の出るような事を、私は覚えておりますけれどもね。親先生、これからは椛目はもう団体行動、椛目だけの行動はとらん事に致しましょう。御本部参拝も止めましょう。そんなに先生方の顔にかかわるなら、小倉のお参りも止めましょう。

 さあ帰って、この事を伝えますと、皆が、もう血の涙流すようにして残念がりました。けれども、これは神様の御都合に違いはない。だからお参りしない。そこから、期せずして、十三日会が生まれた。そんなら十三日会に合わせて、お参りさせて頂きよったんだから、一日ゆっくり小倉にお参りさせて頂いたつもりで、御広前に集まって、信心の共励でもさせて頂こう。そして、その時の旅費を、お互い積み立てようじゃないかとゆうて、その積み立てたお金が、ここの御造営の一番初めのお金だったんですから。本当に「二十四孝の竹の子堀の場」の事から考えてもです、もう本当に血の涙の出る思いをさせてからでも、参る分なら、こちらの勝手じゃなかっと、そげん言うとったら、それ迄の事。そりゃ、なる程お参りも続けられとったかもしれん。けれどもそこんところにです、寒中に竹の子欲しいとゆう親心を分からして頂いた訳じゃないけれども、それを感じた。そこには私共の願いであった、所謂教会設立問題、あるいは御広前の建立にならして頂けるようなおかげが、その向うにはあったとゆう事なんか、神はわが本体の親ぞとゆう信心が分かりよらんと、そうゆうおかげを頂けれる時にです、そのおかげの場をなくしてしまうのですよ。

 私は、今日は御神酒を頂かしてもらう。確かに、その霊験は間違いないのです。お取次を頂けば、御働きは絶対なのです。だから、お互いが、それを本当にですねえ、そこからひとつ一段と信心を進めていきゃいいのだけれども、さあ二日目になったら又元に戻った。昨日のは偶然じゃったのじゃろうとゆうような、うすらいだものが、そこにおかげをおかげと感じきらなくなってくる。そこから神様の働きもなくなってくる。うすくなってくる。そうゆうところを大事にしなければならない。大事にするために、親心を分かっておらなければならない。神様の思いを分かっとかにゃいかん。「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事」とゆう心の状態で信心を続けてゆかなければ、自分の思うようにならんと、もう神様を恨むようなこつでは、おかげにならんとゆう事です。どうぞ。



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