昭和42年12月10日 月次祭
只今一同四十四名おかげを頂きました。無事に帰らして頂きました。何時もの御本部参拝に感じる事でございますが、やはり御本部にお参りをしなければ頂けないものがある。けれども、私、この度こういう様なお気付を頂いて、成程そうだなあと思うた事がございます。というのは御祭典をあちらで拝まして頂いておる時でございました。御心眼に沢山の、その大根を頂くんです。一寸こうどうですか、いいですか、これで調子は、これで、しかもそれも大根の、引きたての大根ですねえ。まだ土がいっぱい付いておる様な大根。それで私は感じさせて頂いたんですけれども、大根というのは、お知らせに頂きますのに、白くきれいな野菜でございますから、苦労苦労してないね、大根は白うしとる、苦労してない。しかもその上、まだ洗ってないから土がついとる。ハハアーここに何千、おそらくは何万ございますでしょう、全国津々浦々からお参りさして頂いておかげを頂いておりますお祭りを拝んでおります私共始め皆の者がです、ね、やはり四神様の御大祭、報徳祭というので、これはもう恒例ですから、もう普通お参りを御本部参拝をしようというような方達は大体教会決まっとる。そういう方達が又、春の大祭だ秋の大祭だと四神様の御大祭だというようにお参りを致しております。これは少し弱めて下さい。とても話しにくい、ですから、成程それでは一足でも無駄にさせんとおっしゃるのでございますから、沢山なお金と、それから様々な事情がありましても、その事情を万事万端お都合お繰り合わせを頂いて、所謂お引き寄せを頂いての御本部参拝者ばかりでございます。ですから、これは無駄になるとは思われません。けれどもそれをいよいよ有難いものにする為のです、信心というか修業が必要だなあという事を感じたんです。ねえ、折角沢山のお金を使って、しかも遠い所を様々な都合のいけないところをお繰り合わせを願っておかげを頂いたのでございますから、ねえ、ただ、その有難い御大祭を拝んだというだけでなくてです、本当に心の底から御本部参拝を頂かして頂くたんびんに何かを、力を頂いて帰ってくると。御本部参拝だからやめられんという様なものを頂いて帰りたいという様な願いの元にお互いが信心さしてもらわなきゃならん、願いの元に御本部参拝をさしてもらわなきゃならない。これは御本部参拝の事だけじゃございません。こうやってお月次祭拝まして頂くでもそうです。
今日は十日の月次祭だからというて只お参りをする。成程お参りの雰囲気、例えば今日あたりのお祭の雰囲気を拝まして頂いておりますと、本当にその雰囲気だけでもおかげを受ける。若い先生方は一生懸命、前列には学生会の方達が、それこそ未来の合楽を私達が担うんだ将来の総代だ幹部だと自認した様な、ここで前にずらっと並んでおる。それだけでも感激する、有難い。これはいよいよ合楽は、おかげを受けるなと、そういう雰囲気の中から感じるのです。ですからやはりお参りなさった皆さんも、それを感じられないはずがない。これは親先生よりもかえって若先生方がよかごたるという様な、そのなんか、さらなものがある。生き生きしたものがある。ねえ、一生懸命のものがあるからなんです。やはり、ですから只お参りをしてた、誰でもそれだけのものは頂くんですけれども、だけではない。お月次祭たんびんに分からしてもらう事、ね。色々と頂いて帰らして頂く、有難いものをです、より有難いものを頂いて帰る為に、私共は工夫がいる。只大根じゃいかん。土のついたままじゃいけないという事を思いますですねえ。
私共が修業中に、もう本当に御本部参拝は、これはもうどんな事があってもお参りさしてもらう毎月お参りさしてもらうねえ。ですから旅費が何時もあるはずはございません。もう団体参拝という様な時でもです、もう最後の最後迄お金を納めてない。ねえ、それでもやっぱり雑納かろうて水筒かろうてあの時分の物々しい格好でお参りさしてもらいましたんですけれども、それもお参りするつもりでおる。神様おかげ下さるところ確信している。「 」でもついていく。もし駅でお繰り合わせを頂けん時にはというて誰かれに私やお金持っていきよらんけん出して下さいて頼んだ事は一辺もございませんでした。なんとはなしにおかげ頂いた。ある時のやっぱり団体参拝の時でした。私は皆さんのお金の受付とお米を持って受付を全部御用さして頂いた。そして私も参加する用意をして来ておる。けれども私は、まあだそのお金を納めてない。そのお世話だけはさしてもろうた。そして皆について行くつもりでおる。そしたら草野に山口さんという方が、お爺さんがおられる。心安い方なんです。ハアー大坪さん、おかげ頂いたばいなあ。私がもう用意して来とりますもんですからねえ、もう旅費もおかげ頂いたと思うておる訳です。もう、おかげ頂いたばいなあ。何時もの、そのお参りの事を知っておられますから、その言われるんです。まあだおかげ頂いとらんばってん私や、どうでもこうでもお参りするつもりじゃから、それを丁度その時お参りをしあわせておった久富正義さんの姉さんがおります。今小郡におります、久富しげるさん、ねえ。その時のお参りしたいと思うとったけれども何かの事情でお参りがでけなくなっておった。それを聞いたもんですから、大坪さん、貴方がもしお参りの旅費を納めてないならば、私は、そのつもりで実は旅費を持ってきておりますけれども、実はお参りができませんから、あなたが代わりに参って下さいと言って、そのおかげ下さった様な、そういう調子であった。片道はあるけれども片道はない。片道はどげんするじゃろうか考えた事がない。ねえ、何時もそういう中に秋永先生なんかは私の旅費の受け持たされたおかげを頂いた人達なんですねえ。もう俺が旅費はあれがしてくれるじゃろう。そういう横着な気持はさらさらなかった。もうどこまでも神様がおかげ下さるんだという気持なんですね。ですからとても、そのお参りがです、ただのお参りであってはならない、ね。お参りさして頂きますでも、もうあの時分はそれこそ窓から入る。あの入ってくる混雑した汽車の中でございました。水道が壊れぱっなし、便所がドアが壊れておるといった様な、まあ惨憺たる状態の時でございました。終戦後でございますから、ね、そういう中に私共は月参りを続けさして頂いた、おかげを頂いたね。ですからもう勿体ないです。ね、ただ乗せて行ってもらうというだけで有難いですから席があっても掛ける、掛けるけれども、もう大体掛けんはずだったけれども、何時も掛けん修業さしてもらうけども掛けなきゃいけんから掛ける様な場合も、だから後に寄り掛かって私は御本部参拝した事はなかった。所謂人は気が付かんけれども後は少し透かしてあった、という様にです、修業をさせて頂き、いうならば本気で研かしてもらい本気で改まらしてもらい、それを汽車の中でも、それを修業続けていく、そこにです、お参りをさして頂いて、それこそ人が十を有難いなら千も万も有難さを持ってお祭りを拝む事でけた。奥城参拝もでけた。本当に、あの時分の、例えば修業精神というものはとてもでけませんのですけれども、これだけ沢山の人が参ってきとるけれども皆、大根であり言わば土のついたままの、又お参りをさして頂いておるだけの事。それでもそれが無駄という事ではないのだけれども、ねえ、折角お参りをさして頂くのであるから、よう有難いものを頂いてくる為にも修業をせにゃいかん。してない苦労はなくとも、例えば土ぐらい洗い落としとかなん。それでも汽車の中ではただ汚れぱっなし、ただワアーワアー面白いうてしとるだけ。それでいけないというのではない、内容なんです、ねえ。御本部参拝さして頂くというならね、私はその修業さしてもらうという事がです、必要なんです。それでいて始めてあちらへ着かせて頂いてから、ね、神様をここで拝んでも同じですけれども、やはり教祖の神様の奥城には、御本部へお参りしなければお参りはでけない。これは御本部参拝しなければ、その味わいというものは味わう事はでけない。ね、それこそ神様が手を引き寄せて、それこそ待っておったといわんばかりにです、神様も感激して下さる。こちらも感激。感激と感激との出会いがです、爆発的な有難さになって、そういう有難さを頂いて帰って来ておった。そういう様な者が、今の方達には少なくなった。ね、これは合楽からお参りした者だけではない。沢山お参りして来ておる者の上にも、それが言えるのです。ねえ、おそらくはそういう大根の土のついてるものではなかったろうかとこう思うのでございます。今度私は、そういう意味合いで少しおかげを頂いた。
親先生が、若い青年会の方を一人御供してから、二人でございました。ですから、合楽は始終、あの一緒に行動とらしてもらいましたから何時も私と一緒でございました。親先生と私と、だから久富さんがおられます。どこん中にでも、ですから今までのような、その行儀の悪いとも、今までのような楽な事ばっかりはでけない。親先生「 」だからそういう時にです、んなら私は、その席を他へはずして他へ行ってもよいのである。ひょっとすると、お爺ちゃんは、その方がお喜びかもしれん。楽になられるかもしれん。けれどもハアー、今日は、今度の御本部参拝は修業がでけるなあという様な気持である。ねえ、そうやって楽々させて、楽をしながら、それは昔の御本部参拝とは、もう本当に天地ほどの違いのあるお参りではございますでれども、ね、そういう中にその事を修業を思わせてもらいおかげを頂かせてもらう。ねえ、色々とおかげを頂いて参ります。皆さんがお月次祭を頂かれるのも、そうである。今日お月次祭だけはお参りしようかというのが、例えば朝から考えられる。今日はお月次祭だと、さあー皆仕事を早う切り上げると、中心の、例えばお父さんならお父さんがそういう気持である。そしてそれがささやかながらでも修業させてもらう位な気持がです、私は必要だと思うですねえ。それだけおかげ頂かれます。それだけ神様を身近に感じ頂かれる事がでけるのです。ね、いよいよ今日の御本部の報徳祭の御比礼を頂いて、そしてこの十八日に奉仕されます報徳祭がここでも、又出来ます。おそらく全国で一番の報徳じゃなかろうかと思うんですよ。十六日の十八日の報徳祭というのは、もうこの報徳祭というのは殆ど来年になるんです。二月三月、善導寺は三月三日が報徳祭です。けども、やはりです。私は思うのですねえ。
皆さんが言われます信者の方、皆御本部の御大祭の御比礼を頂いて来て、今月今日御大祭が行なわれたとか、ねえ、御本部、御本部の今日の報徳祭の御比礼を頂いて、かく全国津々浦々にある所の教会が報徳祭を奉仕するといわれるけれども、本当にその御比礼を頂いてくるというなら、ねえ、本当に頂いてこなければだめ。ただ行なわれておるだけじゃいかん。それには、まあだ生々しい、生き生きとした、あの教祖金光様にご奉仕下さるお祭の、あの一つの感激というものがです、その御比礼がです、やはりこの場に移られる為には、やはり私は時間をおいたらいけないと思うので、私は必ず、これは昔から教祖大祭を仕えるでも、四月の天地の親神様の御大祭を仕えるでもねえ、おそらく九州でも、九州では勿論です、ねえ、九州の一番が小倉の教会の二十日です、十月の。ここでは十月の十六日ね、四月の十六日、報徳祭が今度から奉仕させて頂くことになりますから、十六日が色んな都合でですね、他の教会の都合ででけませんから夏の御大祭と報徳祭は十八日という事に決定致しました。ですから、その十八日にその報徳祭の御比礼を頂いて奉仕される訳でございますねえ。
ですから、私は何処よりも斬新な、いうならば本当にそれを頂いて帰ってくる事がでけておるという事においても一番近いという感じが致しますねえ。どこーに、まあだ分けてやんなさるという一番先にもろうてきとるという感じがいたします。ねえ、やはり信心にはそういう工夫がいるですねえ。そこでです、これから一週間後に奉仕されるところの報徳祭をです、いかにして仕えるか、この頃から北区?の方達が集まって会議を終わりましてから、私の所に参りましてから、まあ大祭に準じた、ねえ、お祭をという様な話し合いがあった。それで私が申しました。そげなこつちゃいかん。ねえ、報徳祭というか、報徳祭の意義を知っとるか。ねえ、報徳祭の意義を知っとるなら、そんないうなら手心を加えた様な事じゃいかん。お供えもんだけは、ちゃんと大祭並みにしようと思いよりますから、それだけじゃあいかん。お供えがでけりゃお大祭がでけるじゃなか。ねえ、その心の状態がまず大祭に向わなければならん。ね、今日頂いた、百受けた。ばってん「 」五十受けた事じゃいかん。ねえ、それを受ける事は難しい事でも、何でもないのである。報徳祭の本当の信心を分からしてもろうて、おかげを頂かしてもらわなければいけん。
例えて考えてご覧なさい。今度の報徳祭には、私は誰ーもお参りしなさいといった人はないばい。何時もお参りする人は決まとっるから、その書き出せてある。それでどうでもお参りできん人はきやす?というような生き方であったけれども、今度は一人一人が申し込んどる。しかも四十何名でけた。久留米から五十何名でした。久留米地区から十何ヵ所の教会から大きな教会もいくらもあります。ねえ、その大部分が合楽でした。それこそ九州一といい、又自分達は日本一と言うておられる甘木の教会すらが、私は今日聞かして頂いたけれども団体参拝がですね、バスで参ってみえとられました。四十一名であったそうです。してみると合楽の方が三名多い。三名多いとか少ないとか、そんな事は問題じゃないけれども、そういう例えば働きがね、どこから起こっとるのという事なんです、ねえ。
小倉の初代桂先生がお道の教師になられて、ねえ、何処に布教さして頂いたらよいかという事を二代金光様四神金光様にお願いをなさった。九州の地がよかろうと、こう九州に下れとおっしゃった。金光様が九州は何処を頂くがよろしゅうございましょうかと、九州は門司の向うに何とかという地があろうがとおっしゃった。はい、門司の向うならば小倉という所がございます。金光様、お言葉を返すようでございますけれども、小倉という所は一漁村じゃないけれども、まあ漁師町である。漁師町である寂しい町でございます。その寂しい町を、この福神を御供して繁盛の町にするのぞとおっしゃった。皆さん御承知のように、それこそ九州一の勢いのある町と現在では言われております、ねえ。長崎の原爆は大体は小倉に落とされるというはずだったという事でございますねえ。それが、確かに金光様を、そこに福神をお供して、福神というのは金光様をお供してである。桂松平、九州には内開きというても信心に行くのぞ、とおっしゃった。金光様の先生と言われる事ではつまらぬぞ。小倉にも生神様がでけなさったという様なお徳も受けなければならんぞ、という様な激を受けられて九州の地小倉に下された。その間に道が開けなくて何回も何回も御本部に帰られた。そのたびに激を受けては、又九州に帰ってみえて、ようやく道が開けた。
その、例えば御修業というのは私共が、とても口ぜつで、その表す事のでけない程の御修業を下さった。そしてようやく九州一の道の信心が信心の種がまかれた。ある時に、大正八年だったかね、時代に金光教のお家騒動といった様な事でですね、取り沙汰された時代がございました。管長家と言われる金光様、御結界奉仕下さる三代金光様との対立。金光様は対立があなる訳でもなーにもない。それこそどうでもよいのであるから、毎日毎日やはり御神勤続け貫かれた。けれども本家側であるところの
管長側の方から色んな問題がおこりましてですね、本部から九州に偉い先生がござって、こられて第一に九州に見えられた。そして小倉の当時は桂松平先生はお隠れであったけれども、ねえ、桂ミツ先生、所謂先、先代親先生に向かって本部の方の先生がおっしゃる事、今度は桂さん、こういう様な状態の事で参りました。というのは、九州の家の者は生神金光大神四神つらゆきの神様、四神金光様というて拝む。四神金光という事は唱えない様にしてくれ、教祖生神金光大神でよいのだ。四神金光様というのは唱えてはならんという、言わばお達しと持っておいでられた時に、桂ミツ先生は、ねえ、それこそ景色ば見ておっしゃったであろうと、こう思う。先生、ここを桂松平の御広前と承知の上で見えたのですか、とおっしゃったそうです。ここを桂松平のお広前と承知の上で見えられましたか。四神様あって桂松平がございます。桂松平があって九州の信心がございます。その九州の者が四神様をお唱えしないという事は、もう非常に悲しい事でございます。これは本部の誰がおっしゃっても四神様だけはお唱えさせてもらわなければまいりません、とおっしゃった。鶴の一声であったそうですね。という様に四神様とは切っても切れない縁のある四神金光様のお祭である。桂先生が大恩を受けられた四神様のお祭は、当時はなかった。そこで御本部に折衡?されまして、どうでも四神様の御大祭というのを奉仕する様にという事になられたのが今の報徳祭の始まりであるねえ。もう、その時分の神饌物一切をこちらで用意されました。大きな桧の神饌物入れる納める箱を沢山作られました。尾道かどっちかの駅で下車されました。そこでもう梅の香の種々の物を用意されまして、そして御本部に持って行かれましたお鏡を御本部で搗かれる。そしてあちらの偉い先生方にお祭を仕えられて九州の者がお祭をさせて頂いて四神様のお祭を奉仕させて頂いたところお祭である「 」報徳祭という事になって偉い先生方がお隠れになった、そのお徳に報いるというお祭に四神様のお祭が中心であるけれども、勿論そこに三代金光様のお祭でもある。ね、そういう例えば意味の深い祭りである。ね、四神様あって九州のお道の信心がある。ね、その小倉の桂先生があって私共の信心も末端迄こうしておかげを頂くことがでけるのである。とりわけて私共は三代金光様七十年間の御神勤、その御神勤の中に金光教合楽、金光教神愛会の御広前が椛目に発足した。信者でもない教師でもない私の所に人が段々集まる様になり、そこにひとつの組織がでけ、ねえ、総代ができ幹部ができねえ、そして、ああした教会行事までもする様なことに発展してきた。様々な問題も十七年間の間にあった。もう本当に場合には血の涙の出るような場合もあった。ねえ、御本部でもきよにしてきよでお参りでけない。?小倉の月参りも「 」いった様な事になってきたけれども、この十七年間たった今日、ここに合楽教会というものがでけて、こうして沢山の人が助かっていく様にならせて頂いたという事。ね、そういう様なおかげを頂いたことにはね、もし三代がおられなかったり三代金光様がおいでなられなかったら、おそらく私はお道の教師を志さなかったであろう、又こういう風な道は開けてこなかったであろうと私は思うね。大変おかげを頂いた、その商売もひとたびおかげを受けられないという事になったら、もう右と願えば左、左と願えば右である。もうそれこそ目もあてられんとういう状態であった。それでもやはり一生懸命私や他に何ーにもでける事はない。商売より他に道は知らんのだ。そこでやはり商売に大きなおかげを頂かしてもろうて商売をやらせて頂くのが一つの願いであった。ね、そういう或る月のお参りの時に、現在の善導寺の親先生が私の一身上の事について金光様にお尋ねになった。この上で、お商売の上で大変おかげをこうむらしたけれども最近はこの様な状態でございます。どういう風に道をとらして頂いたならよろしゅうございましょうかというお伺いをして下さった。そしたら金光様がおっしゃったね、道の教師になられたら結構ですとおっしゃった。もう本当に、それこそ夢にも思わないことでした。私が道の教師という事は、それこそ熱心ですから、皆さんが、大坪さん、あーた、どうでも「 」学院行きじゃろうと言われる方がありました。けれども、ぞーたんのごと一辺に私は、はねのかしよりました。とても先生てんなんてん、私の様なのがでけるはずがないと思うた、ねえ。金光様はおっしゃるけれども、私が道の教師になる、とてもとてもそれはおおそれた事でございます。実際はなりたくなかった。やっぱお商売がよかったねえ。
ところが段々私を、大坪さんが大坪先生になってきた。先生先生と言うて、皆が集まる様になりおかげを頂いてきたのでございます。今日まで、その時分の事を思い出させて頂いたんですけれども、汽車ん中で福岡の徳久さんが、先生昔ーの先生のお知り合いの方が、大坪先生がこの汽車に乗っておられるという事であるからお会いしたいとおっしゃっとります、とこう言うのである。どなたじゃろうか、丁度私共が長浜町、今は市民会館とか図書館がでけとります。あすこは昔はね、もうそれこそ寂しい所でした。もう朝鮮人の部落がありまして焼酎の密造の場所であった。そういう家とも、家とは名ばかりの家でございましたね。本当のバラック建て、それこそ「 」が住むような状態の家でございましたが、そこにおかげを頂いている時代でございます。丁度ひとつ通りをした所が東の電車通りでございました。そこに小さい後藤という小児科の先生がおられました。両方ともお医者さんなんです。非常に熱心な甘木の御信者さんでした。私はどういう様な事がきっかけで後藤先生にお会いするようになったのかはよく記憶いたしません。けども、それ考えたんだけれども、どうしてじゃったのか、確かに福岡の大祭に見えられて参られて、そして話した。そして後藤先生が、私の小屋の様な、その御広前にですね、おいでられた事が始まりであって、それからもう裏の便利な所ですから、私もちこちこ私も参ります。先生もお参りをして下さる。色々信心話に、いつも花を咲かせたり信心、いわば友達だった。当時、ねえ、或る時私は甘木の安武松太郎先生がいついつお国替えというお知らせを頂いた。もう私はびっくりしましたねえ。あらー「 」誰かに伝えたいけれども色んな事は言われん時代ですもんね。ですから私は後藤先生だけでも聞いて頂こうと思うて神様を頂いて、その何ちいうかね、その面白か訳ではないけれども、兎に角その頂いたら何か、その人に伝えなきゃおられない、その衝撃があるのですね。しかもその当時、もう飛ぶ鳥落とすような勢いの甘木の安武先生です。それからその事を申しましたら、もうそればっかりは大坪さん、本当とは思われんと言われました。昨日もお参りしてきました。家内、そして親先生にもお目にかかって参りました。本当、それこそピンピンしておられます。ねえ、何十年、四十五年の記念祭五十年の記念祭、ねえ、とまあだご奉仕されるまでは、とても絶対死んなさる事はないと皆も信じておる。その次の年があちらの四十五年の年にあたっておった。それ一年前に私は頂いとった訳である。して、けども、これふかんぶ?だから他に言うて下さいますなと言うけれども、私はこういう風に頂いたからと言うて、お話をしましたけれども、それを本当に受け取る人はなかったけれど、確かに一年に私が言うた通りに亡くなられました。
四十五年の記念祭に私共おかげ頂きましたが、もうそれこそ大変なお祭でございましたねえ。今の金光様がお祭主に見えられましたね。ところが私が拝まして頂いとる、そのお祭の心眼に頂くのがです、沢山の先生方があの廊下を伝うて御広前の方に参向して参ります。その参向して見えられる先生方のお冠がです、全部巻いてある。お葬式の時には必ず、これこの冠を巻くんです。まあなんと不吉な事じゃろうかと思うてですね、ところが四十五年の記念祭を奉仕されたら、それから間もなくでございました。「 」秋永先生なんかは、今日はこげな事じゃったというてから、話した事でございました。ねえ、そういう様な事で色々信心の、もう心安うし、私の話を聞いて下さる。又聞かせて頂いてねえ、もう本当に実意丁寧な方でした。御用とも、ねえ、ある時に私は、どうーしてもお金、壱万円のお金が必要な事があったんです。も、どーしてもでけん。ねえ、その当時でございます。ねえ、どんなに私が逆たんぼ打っても「 」頼んでもでけないんだ。丁度禿げ山に登っておる。禿げ山に登って、言うならば薪をかろってしておるもんだと御理解して下さった。ねえ、薪にする木がなかった。以前には、この山にも、それこそうっそうと生い茂る様な材木が一杯あっただろうけれど先祖が、又その先祖がそれをただ切り倒すばーかり、ね、所謂徳を残すという事、徳を植えておくという事、喜びの種を蒔くという事をしておらなかった。ただ切るだけであった。もう既に禿げ山に丁度生れ合わせたのが私であるんだと。だから、お前がいくらバタバタしたところで、どうにもしようがないのだから、兎に角さあ禿げ山に一生懸命に喜びの苗木植えてもらう事に一生懸命になるより他にはない。お金はどうにもでけんのだから、兎に角喜びの種を蒔いていく以外にはないという事であった。私はその事を後藤先生の所でお話をした。そしたら後藤先生が非常に感激されましたねえ。それは大坪さん、あの壱万円はどうかなります、ならお願いしますと言うて、その約束の翌日に、その参りました。私は本当に一張羅の服を持って参りました。いえーっ、もうこれは、私はそれを置いてから帰ろうと思うた。いいえ、そんなもの置きなさる事いりません、と言うてそんなら何時何時頃払いがでけようと思いますから、どうぞしばらく貸して下さいと言って借りた。けれども勿論お払いがでけなかった。何遍かお断わりに行ったけれど、いかに私も断りに行けなくなった。或る時に私、秋永先生の所に行ってから、その断りの手紙を書いた。後藤先生に、こういう訳で本当にお目にかかりません。持っていかれんからお金を。だからすいませんけれども、もしばらくお待ち下さいという手紙を書いた。それを現在秋永先生ところに残っとります。秋永先生が持って行っとらんとですね、とれは後から聞きました。これは私がたに?宝もんに取っとく。いよいよ先生から・・・。そういう時代であったんです。その方なんです。ねえ、もう本当に懐かしい昔話を暫らくあすこでさして頂いたんですけれども、ねえそういう時代があって、やはり今日がある、ね。そしてその禿げ山であったであろう、その禿げ山にも段々こうやって材木をどんどん切り出しても切り出してもおかげ頂ける様なおかげになってきた。ね、そこでその後に切った後に又、植えとかなければ、これは又後の者にも難儀をする。こういう私はおかげを頂かなければいけないと思う。今日の報徳祭を頂かして頂きましてです、ねえ、只今四神様の御大祭と申し上げておった、現在もやはり四神様の御大祭、私は驚きましたねえ、今日も向うの方へ団体の人が泊まっとる。十二台へんじょう、あの隣、それはなんと大阪の玉水教会の団体じゃったねえ、九州のお祭がいつの間違い「 」感じが致します。うちの当たりは甘木が四十一名、合楽が四十四名。これが九州一の一番多かつ、もちょいーと四神様に対して相済まん。教会から一人参っとるか参っとらんか分からんという所もある。なんという寂しい事になったであろうか。けれども私がです、その事を企画委員の方達に話すんですよ。ね、久留米で五十何名、その中に椛目が合楽がしめておるという事はです、ささやかながらでも、まだまだ四神様の願いというか、桂先生の祈りというものがここにあるという事が分かるじゃないか。奨めんでも頼まんでも無理しなくてもねえ、親子三人夫婦二人という様な多かったんですけれども、こうしてお参りがでけるという事はまだまだ、いわば九州の四神様のお祭に対するところの脈が残っとるんだ。そういう願いが思いが合楽にかけられておるんだという事が四十何名の申し込みからみても分かるじゃないかと私が皆さんに申しますねえ。だからそれが大祭に準じてから、てんなんてんちいう事では、それこそ準じてしまわなければならんねえ。それはでけなくても、やはり一生懸命の者があらなければならない。同時に四神様だけではない、小倉の桂先生だけではない。私と金光様の中にあっても、あの時もし金光様がですねえ、商売が具合よういくようにお願い致しますとおっしゃって、成程商売にお繰り合わせを頂いたに致しましたら、今日はなかったんです。それこそ私共夢にも思わないお道の教師になっておかげを受けられたがよかろうという事をです、まあだ金光様のこの字も先生というせの字もない時にですおっしゃっておられたという事がです、この十七年間に私の心の中に何時もそれがあった。どういう問題があっても、その事だけは私の心の中からはずす事はでけなかった。親教会においてもトラブルがあった。一年位たった。丁度一年祭を仕えるちょっと前くらいであった。金光様にお届けさせて頂いた時に、金光様から、ねえ、氏子が神様まかせなら、神様も氏子まかせになると仰せられになりますからという御教えを下さったのも、やはり三代金光様であった。その当時の人達は、これだけはいうておったですねえ。椛目の人達は氏子が神様まかせなら神様が氏子まかせになると仰せられるから神様まかせという事は、そのまま親先生まかせという事なんだ。で親先生まかせになる事に徹底して、その当時の方達はおかげを受けた、受けてきた、ねえ。そういう例えば三代金光様が仰せられなかったら現在の椛目も合楽もなかったんだ、ねえ。それでもなかなかお道の教師を十七年間も所謂十八年間ですかねえ、そのそういうお言葉を頂いてから、そのならなかった。もう本当になる様にあってもならなかった。ねえ、それは何年目か、四、五年目位だったと思います。私は、或る時お夢を頂いた。ねえ、お夢を、その当時私は布団の中でおんおん声をあげて泣きよった。母がびっくりして先生どうしたか、どうしたかというて言われてから、もうその母に話した事がございます。お夢の中に丁度御広前の御結界、ここにある、丁度言うならばあすこにくんたけさんが座ってみえる所に私が座って御祈念をしておる。そしたら金光様が御結界からお立ちになってから、ス-ッとお進みになってからですねえ、畳半枚ばっかりの所に止まって座られて、そして向きを私の方にかえられて手をついてじーっと「 」そして二人の者が見えたら「 」勿体ない勿体ないと言うて、その泣きよったねえ。私共のお広前という事は、所謂信者という事であろうと思うた。何時までもおったら教師になれるけれども、信者も今苦労しとるけれどもしばらく待ってくれという私は金光様のお頼みであろうと、私はその時悟った。だから五年が十年いや十年二十年かかっても、私がお道の教師になる事だけは間違いない。ね、そしてあれやらこれやら話が進み、あれやらこれやら問題が起こって椛目の広前が建立になる、そしてここに初代教会長をとしてのおかげを下さることの為の神様の願いでもありゃ、やはり神様のそうした思いでおありになったという事を今さらはして考えるのですよ、ねえ。そしてそういう三代金光様の御働きを頂いてなかったら、あーいうお言葉を頂いてなかったらねえ、例えば桂松平先生が四神様とのつながりを大事にされたように、私と三代生神金光大神様との仲というのは、そういう風な事から私の信心が成長してきた。言うならば四神様の御大祭、三代金光様の御大祭としてです、私共奉仕させて頂くというのであるから、勿論大祭の今日の報徳祭の御比礼を生き生きと頂いていき、私共の心の中にそういう様な躍動する様な、私共は心を持って報徳祭を奉仕させて頂く為にですねえ、ただ大根が土で汚れておるという事じゃいかん「 」いかん。今からでも遅くはないからその為の修業としてもろうてねえ、土がついとるなら、それを洗い清めさせて頂いて、私は今度の十八日の報徳祭はお迎えしなければならない、奉仕させてもらわなければならないという風に思うのでございます。
ねえ、ですからどうぞ、ねえ、そういう生き生きとした今日の御大祭の御比礼をここにおとさせて頂いて、私共のそうした四神様と三代金光様のご神徳につながる、言わば「 」話をです、私共、もう一辺ここに考え直させて頂いて思わせて頂いて、そういう様な事で小倉があって合楽があるのだという事を分からしてもろうて四神様はそのお祭をわざわざ九州から一切の物を準備して全部でお礼のお祭をなさった様に、私共もやはりそういう意気込みを持っておかげを頂かしてもらわなければならない。もう一辺九州の道の者にです、四神様の御大祭が三代様の御大祭という事がです、ねえ、それこそ合楽だけでも団体列車で一辺位したてさせて頂いてお参りさせて頂くという事は、それはそのまま桂先生の一言でありねえ、四神様にお応えする事であり、いよいよ道の発展につながる事、そういう願いをです、私共が持っての信心にならせて頂かなければならないのでございます。今日は御本部参拝の皆さん大変お疲れでございました中に、今日のお祭にあわれました。又準備万端の上に今日のお祭の御用なさった方達も私共がおらなくても「 」なんとはなしにありがたい心強いものを感じさせて頂いたのでございますけども、その内容に、そうした例えば生き生きとした信心をです、いよいよ育てさせて頂かなければならんという風に思うのでございます。どうぞ。