昭和42年10月7日 朝の御理解



昭和42年10月7日 朝の御理解

 私が御神意のままに椛目の時代から、そしてこう合楽にかけて、お取次ぎをさせて頂いて、助けられた人はその数はたくさんなことだと思います。

 本当にその数を知らないぐらいでございますけれども、信心を頂いて、今日まで信心を続けられておる人は現在、もう本当にわずかばかり、今日おかげを頂いておる方達ばかりの、でございますけれども。

 どういうわけおかげを頂いて、そして、信心がおっくうになったり、信心を見たりするであろうか、なるほど、それは取り次ぎ助けられた、医者も見離した病人ごたるだった。もうどうにも出来ないこんがらがった、いうなら問題がおかげで解決のおかげを頂いた。まあ、様々なおかげの様相と言うものは一人一人に違うのでございますけれども、そういうおかげを頂いて、そして信心が続けられて人間の幸せと言うか、神様が喜んでくださり、氏子も喜び、金光大神も喜びと言うようなおかげで信心が続いた。それがあの世にもって行き、この世にも残しておく、いわゆる、子孫にも残っていくような信心になっていかないのだろうか。

 どこん所からそういうふうに変わってくるんだろうか。私はそういうふうなことを今朝から思わせて頂いた。したらあの、霊神様の御祈念に半ばでございましたですね。丁度、その頃お参りになっておった方はお聞きになったと思いますけれども、おいさみでございますね。

 本当にお広前一ぱいにどーんと響くようなおいさみでした。時に私が丁度頂いておりましたことは、昔はね、近藤・・・。御本部参拝なさった方はパンフレットを頂きましたですね、教祖の神様がまだお百姓時代にお使いになったという、あれは何と言うものなのでしょうか。とうみと言うんでしょうか、こう実とからを選り分けるものがありますね、昔のお百姓さんにはなくてならない農機具なんです。

 あの、とうみを頂くんですね、なるほど、結局あれでとうみにかけられると、実のあるものはこちらへ落ちる、実のない軽いものはむこうへ飛んでいくと言うような仕掛けになっておるんです。

 十、椛目が始まって、そして、現在合楽に至って丸17年間ですか。その間におかげを受けた人は数知れずではあるけれども、数知れずの中に本当におかげを受けていけれるという人はわずかこれだけのことである。いわゆ実のあるものだけが残ったと言う感じ。いわゆる、とうみにかけられて、教祖の神様もそんな中にもございますね、用心しなされやと、信心に実が入ってくると神様のお試しがありますよとこう仰る。

 いかにも信心に実が入ってきたようなから、いわゆる、とうみにかけられると飛んでしまうと言うようなたくさんである、これでは本当に詰まらん話なんです。おかげを頂いてから本当に信心させていただく、信心の喜びがです、本当にあの世にもそのまま持っていかれる、信心の喜びがです、子供にも孫にも伝わるそういう私はおかげを頂かなければですね信心の値打ちはないとこう思うのです。

 昨夜も、企画の方達が丁度、やんがて二時ごろでございましたでしょう、一緒に今度の開教式のことについての打ち合わせがございました。それで半ば半分帰りましたからあと五名余りでまた三時まで、私が休みますのは4時近くでございました。もう本当に熱心にいかにこの教祖大祭を仕えるかを併せて仕えられるところの、開教式にどういうような信心で奉仕させて頂いたらよいかと言うようなことを練らせて頂いて、(  ?  )、本当に思わせていただきますと、17年間お互いが願いに願い続けてきたこと。それは教会設立ということであり、私の教師問題であった。その時、その時の、総代さん方、役員の方達、本当に思われる方達がその時、その時の信心で御本部にも出所され、あたられたんですけれども、それは、もう、それこそびくともすることのないようにです、もう、本当に教会と言うようなことは断念しなければならんのではなかろうか思うような自体が時にずいぶんございましたけれども、ここ合楽に移らせて頂いてからこちらというのは本当に難しい問題もあるのですけれども、それがスムーズにおかげを頂いてまいりました。

 私の検定試験が許されたのはこの3月でしたでしょうか、おかげで合格、おかげを頂いて。4月には拝命のおかげを頂き、教師拝命のおかげを頂き、同時に4月の御大祭には春の御大祭には親先生御祭主の元に奉祭式があのように賑やかに行われた。

 そして、教会の認可がこの23日に頂き、そして、この10月16日には開教式、しかも私を教会長とするということは初代教会長にするということは非常に難しい問題であった。どうでもやはり、私より先に長男の方が教師の資格をとっておりますから、それが初代教会長と言う事にならなかればならない事でございましたけれども、そのへんもどんな風にしておかげを頂いたか分からんぐらいなおかげを頂いた。

 とうと教徒新聞にでもここの布教所のことは新聞にのらんまんま教会設立の報があったぐらいでございました。

 そこには、どういうふうになっておるのか私には分からないぐらいである。というのようにです、さあおかげと言うことになってきたら、もう本当にスムーズというか、タイミングよいというか、おかげを頂いて参りましてそこに運びになってきた。

 そういう、例えば事がです、17年間と言う長い間お互いの願いと言うものが一生懸命願い続けられたからこのようなおかげを受けたというのではないということなんです。

 そういうお互いの願いと言うことと同時に、天地の親神様の願いと言うものが私、また私共の上にかけられておる、その天地の親神様の願いが成就したと言う事になるのでございます。

 皆さんが一生懸命願うてきてから、私共の願いが成就したとこう思う。それも嘘ではないけれども、本当のことを言うたら、ね、天地の親神様の願いがここに、こう言う形になって成就したと言うことになる。

 神の願いが地上になるというのはそういうことなんです。一人一人の氏子の上に神様の願いが、その願いが成就する時こそが、私共が本当のおかげを頂かせて頂く時なんです。ね。

 私共は小さい例えば願いが、ね、例えば様々な痛い痒いことから、悩む苦しむことから、そういうようなことが一つ一つ成就していくという、しかもそれが、いかにも成就な形にあるようにあるけれども、この問題だけはどうしても引けども押せどもおかげにならんと言う事柄もです、神様の願いの中にあるということ。その17年間の間にお互いの信心も段々進み、もう17年間の信心の間にはこれほど信心するのに、これほど願わせて頂くのにどうしておかげが受けられんのであろうかと思わねばおれんようなこともあったのだけれども、そこん所を、これはまだこちらの真心が足りんのだ、これはまだ私共の信心が足りんのだと、そこんところを進めていきよる内に17年間たった。それが真相なんです、ね。それは、もう本当に不思議でたまらんというようにです、お互いの様々な願いというものが成就していくけれども、この時はどうしておかげにならんであろうか、これはめいめいの上にもあるのです。ね。

 めいめいの上ならそれがある、ほんとに日にちお取次ぎを頂いて、おかげを頂いて、本当に神様のおかげを頂いて有り難いという事になるんだけれども、ね、このことだけは引けども、押せども神様が聞いておってくださるんだろうかと、言うようなことがあるけれども、そういう願い、そういう不成就というようなこと、そのことがもう本当は天地の親神様の願いがです、成就していきよる、一年一年、( ? )刻々に成就していきよるんだけれどもそれが分からん、そこで、私共の場合、そこん所を教祖の神様は、これほど信心するのにどうしてと言うような時にはもう信心がそこでとどまっておるから、これはまだ自分の信心が足りんのだと思うて一心と一段と信心を進めていけばそこからおかげがうけられるというおかげが頂ける。 そこからおかげを受けられるというおかげこそが天地の親神様の願い。

 17年間という間に、いうならば、信心が様々な雨にも会い、風にも会うてきたけれども、それによって雨にも風にも負けないだけの信心が育てられてきた。

 そして、その信心の内容と言うか、ね、その信心の内容がこのままここの御造営と言う形になって現れた。お互いが17年間辛抱してきたその信心のです、現れがこういう形になって現れてきた。ところが、この御造営だけのことじゃなかった、そこにはもう、教師の資格を与えられる、しかも私がどうでも一年間行かなければ教師資格が与えられないという私にです、検定を受けられない資格のない私にです、検定を許され、検定の結果おかげで合格のおかげを頂き、私が初代教会長として、おかげの頂けないはずのそういう一つの決まりがある中にもかかわらず、どうしてこう言うふうになってきたか分からないぐらいにです、ね、まあ、こちらからの願いではなくてから本部からの願いとして私を初代教会長しての開教式がこの10月16日に奉仕されると言うことになってきたと言う事がです、ね、いよいよ神様の願いがです、そういう形に現れてきたと言う事です。

 私共の信心がです、もう本当にこの17年間の間に、どれほどたくさんの人が助かってきた分からんのです、ここには。どれだけたくさんの人が数限りなく取り次ぎ助けてきたか分からない、断片的ないうおかげであるならば。その人たちが例えば少しの風に吹き飛ばされる、少しの雨に流される、結局自分の願いが成就したけれども、神様の願いが成就しようとする、そこの所をよう受けられなかった。ね。

 神も、拝詞の中に私共が日にちお唱えさせて頂きます拝詞の中に、神も助かり氏子も立ち行く道が開かれましたことは、真に有り難いことの極みでございますと言う一説がございますように、ね、神も助かり氏子も立ち行く所の道がこのようにして開かれてくる。言うならば、皆さんはです、そういう一つのたくさんのおかげを受けた信徒の中に選りに選られたところの、まあ、キリスト教的にいうなら選民なのである。選られた氏子なのである。

 ね、そういう私はことをです、思わせていただいておる時にあのおいさみでございました。ね、いかに神様がですね、その通りなんだというてござるかという気が致します。

 信心とはそうなんです、ね、自分の願いがです、自分の思うことがです、成就する、それもおかげ、けれども成就しない時、一心にすがって成就しない時、それはもっと言うならば素晴らしいおかげな時であると悟らなきゃいけんのです。ね、そしてこれはまだ自分の信心が足らぬからだと信心を続けさせて頂いておりましたら17年間の間に、ならこのようなおかげになっていた。

 それは、もう、それこそ高い所から低い所へ水が流れるようにスムーズである。そういうおかげをいよいよおかげたらしめるために、そういう、総仕上げをさせて頂くような意味合いに於いて今度の教祖大祭であり、開教式なのです。

 ですから、高い所から低い所へ水が流れるようになるから、ほうからかしておけばお祭りが出来るだろうという訳にはいかんのである。ね、そこん所を私共が受けて立たせてもらうところのおかげを頂かせてもらい、ね、合楽教会開始、そこに神様の願い、願いの場、悲願の場というものがここに初めて誕生する。その場で私共が信心の稽古をいよいよさせて頂き、いよいよ助かっていく、また、数限りなく助かっていくことであろう、たくさんの氏子の方達が、おそらく金光教のある限り、永劫合楽のお広前、合楽の教会というのはおかげを頂いていくことであると私は確信するのです。ね。

 それにはどうしても、只今申しますようにです、根のある信心、根のある信者ができなければできないということです。

 昨日からもそういうこと、意味のことをしきりに頂いておりますね、神様が特別にお育て下さった私達なのだということ。ね、そこんところの自覚にたって、私共は今度のお祭りはお向かえしなければならないと思うのです。

 私共の願いが成就していくと同時に神様の願いが成就していくと言う事になって始めてお道で言うところのあいよかよの道が開けてくる。神も助かり氏子も立ち行く所の道が開けてくる。

 例えていうならば、本当に苦しいこと、一つ難儀な問題というものはあるという事でもですね、それはそういう神様の願いが成就していこうとする足がかりなんです、いうならば。 

 昨日、高山さんところの嫁さんですね、長男の嫁、御祈念済んだ後に参ってきた。ある一つの難儀、ぜんぜん自分は信心がない。ところが高山の家にきた途端に皆が一家中が信心をするから、やはりお参りをさせて頂いて、もう、私もこれはお母さんも信心してからいうんですよ。本当に、自分はもう、あー言う風にして信心に入っていくという事は予想もしなかったことであった。ところが、するすると信心の中に入っていく。ところがその信心にするすると入っていくその嫁さんの上に難儀な問題が起こって来る訳ですね。

 まあ、本当にそれは困ったこちゃあるねと言わば、私が相槌を打たなければならんほどの一つの問題があるんだけれども、あはー、これは、「けいこさん」というんですけれども、「けいこさん」自身にです、いわゆる、信心の、今度は神様の願いがそういう形によって現れていきよる訳です。

 信心の分からない嫁にそういう一つ難儀な問題が起きておるのですけれども、だから、それは難儀な問題ではなくてから、神様の願い、いわゆる、神愛の現われなんです、神様の愛情の現われなんです、そこをけいこさんが悟られる所に、はあーこれは難儀な問題ではなかった、これによって信心を本当の信心を分からせてくださるんだな、実のある信心をさせてくたださるんだなと言う事が分かる時にです、その問題も、それは見ておれば、聞いておれば歯痒いことであったり、情けないことであったりするようにあるけれども、ね、はあーこうやって私の信心が本当なものになっていくんだなと分かる時にそのことに対してお礼を申し上げなければおられない事になってくるのである。

 苦しいことではないのである。それは有り難いことなんだということが分かってくる。そのようにしてお互いの信心が本当なものへお育てを頂くのでございます。ね。

 どうぞ、御理解42節に、これほど信心するのにどうしてこう言うことが出来るであろうかと思えば信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らんのじゃと思い、一心に信心していけば、そこからおかげが受けられると言うおかげ、そこから受けられると言うおかげこそがです、神様の願いである所のおかげであると言うこと。ね、それ以前に、ただ願ったことが、あーおかげ頂きましたという願いはそれはあなたの願いである。これほど信心するとにと思わなけれおられないような事の中にです、起きてくるその問題をです、これはまだ自分の信心が足りぬからだと一段と信心を進めていくと言う信心こそが、本当の信心であり、そこに生まれてくる所のおかげこそが本当のおかげであると言うことが言える、いわゆる、本当のおかげとは神様の願いが成就すると言うことのおかげなんです、そこには神も喜び、取次ぎの金光大神も喜び、氏子もの喜びということになり、そういう喜びこそがあの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるというおかげなんですよね。

                                   どうぞ。



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