昭和41年4月10日 月次祭
春の御大祭に、ここからお参りする日がいよいよ迫って参りました。翌日は十三日会でございますから、どうぞ残られた方たちで、どうぞ、神様にお喜び頂ける様な十三日会が行われますように、それから、もう引き続きますように、大祭の御用がございます。今日も大掃除が行われました。十六日の御大祭には、本当に私共の日頃のおかげを受けておるという事、信心の稽古をさせて頂いておるという事。
その稽古させて頂いておる信心を、いよいよ神様にお喜び頂ける様な方法で、一つ現していきたいと、その事にもう、一意専念、椛目の御広前にご縁を頂いておる者みんなで、その事に取り組ませて頂きたいと思うのでございます。本当に一つ真心一杯で、それぞれの真心を持って一つ奉仕させて頂きたいと、まぁこんな風に思い、また願っておるのでございます。どうぞよろしくお願い申します。
今日親教会のお月次祭、引き続きまして、皆さん、ご承知の方もございましょうけれども、善導寺の総代であり、岸先生の奥さんが先日亡くなられました。今日、お道流儀に、いわゆる教会で、賑やかにしめやかにお葬式がございました。それに拝ませて頂きました訳でございますけれども、本当にこの真心とか、その真心によって表れるところの働きとか、と言う様なものの、この美しいものと美しいものの触れ合う時にです、本当におかげを頂くなという事を、まぁ感じますのですけれども、
今日も大変時間が予定よりも遅れましてね、大変勝手の方で、ばたばたしてなさいますもん。どうしてだろうかと私思うておりましたら、後で親先生のお話を頂いたんでございますけれども、皆さんもご承知のようにお葬式の時には、この冠をねこう巻かれなきゃなりません。その巻くのにここに丁度この挟むものがあるんですね。それがその、他の先生方のは全部御用が出来ておるのに、親先生のが無いのです。
仕方が無いから、もう普通の大祭のように長く垂れたまま、これはお祭を仕えならんだろうかと言っておられるところに、丁度福岡の親奥様がもうそれこそ走りこむようにしておいでられました。まあ間に合うてよかったというわけでございます。その故人とその吉木先生の奥様は、師弟関係にあるわけなんですね。楽の方で。今度も御本部の十三日の御大祭の親琴を、岸さんが御用を承っておったんだそうです。ところがあぁして急に休みつかれましたもんですから、それが出来ません。
それはもう張り切ってですね、おられる間は非常に元気だったそうです。ところがこれはもうお父さん、いよいよ行くまいごたるから、福岡に電話をかけて下さいと、もう電話をかけられたとたんに、もう張り詰めておったものが、一片に緩むようにしてがたがたっとその、がたがくるように体が弱られたという事を、今日岸先生のご挨拶の中にそんな事がございま、言うておられましたがですね、一つの事にこう思いを込めておるという事はそんなに肉体にも響くようなもんですね。
やっぱりその願い、張りというものは持たなきゃいけませんよ。皆さん例えば御造営なら御造営にという事にです、もう最近、何かもうお供えする事はしてしもうたと、もうあとはもう役員さんやら、いわゆるもう大工さん達に任せときゃ建つようには思うておるけれども、そんな事じゃないです。ですから、本当にあれが、成就になります暁まではです、お互い気を緩めちゃなりません。
気を緩めたらです、もうおかげにならんのです。もうがたがた、もうその証拠にですね、も本当に、いわゆる御造営費というのが、お供えが非常に少なくなりました。この御広前の中の皆さんの中から。むしろその思いがけないところから集まってきておるので、まぁどうやらこうやら、おかげ頂いておると言った様な事です。成程もうこれまで、自分はおかげ頂いたから、もう自分の責任は済んだからというんじゃいけんのです。
ひょっとすると三倍位かかる様になるようなものでございますね、今の値段から。その代りに、もういよいよ磨く。それこそ九州の(桂離宮?)ができるというふうな評判をしておるというくらいに、中がいよいよ立派になっていきよります。もうここ一両日内から、管理の古屋さんも毎日日勤される、なければその、内部の一番大事な時でございますからを始め、委員長は勿論、本当に今一生懸命でございますから、
その周囲にありますお互いがです、ここで力をがたがた緩めたんでは、もう後ろにはあれだけの人達の祈りがある、あれだけの働きがあるのだと言う所に、先方切ってそのおかげを頂いておる者も、仕事がやりよいわけなのでございますから、まぁ話は横道に反れましたけれども、そう言う様な訳で、今日のお葬式がです、それから勝手の方から、福岡の奥様がみえた。琴もう一面だしてくれって、言うておらびよんなさいましたから、奥様が親琴のおかげを頂かれました。
もういつもの事ながら、もう本当に今日のなんかはもう、それこそもうどうしてテープに取っとかなかったかと、私は豊美に申しましたんですけれども、もう実に見事な琴であり、これもやんなさいましたけれども、やっぱり真心一杯なんですね。実はあちらも十三日の御大祭がそうでございますし、春海さんの代りに御用頂かれますので、もう今日から、お立ちにならなければならない、お付の方達はもう用意して待っておられる。
それにとても今日は、晴海さんの、いわゆる、岸さんのお葬式だから、とにかくおかげを頂いてからもう、琴の一曲なりともお供えしたい。一声なりとも、その御霊様にお供えしたいという、一生懸命の思いでみえておられる。そしてみえられた、琴の調子が合うた途端にですね、そのここに挟むそれが出てきたと言って。もう御霊様の働きは、もう早速始まってと言うて、親先生もその事を大変喜んでおられました。私もそれを実感致しました。もう本当に私も実感致しました。
ですから御霊様のお働きというものがです、どんなにお徳を受けられて出来られておられましてもです、それを真で現すという事が考えられるでしょうが。福岡の方から、いよいよ福岡の奥さんがです、もう岸さんの御霊へ御霊へと、お葬式に遅れちゃならんという思いで一生懸命の思い、その真心がです、私はその丁度神隠しに遭ったように、そのそれが無しにゃ出来ない御霊様のお祭の道具が無くなった。
皆さんもご承知のようにもう、とにかくあの親先生なんかってのはもう几帳面な方ですからね、小道具一つでもなくなされるような、不調法な方じゃないんですが、そう言う様な事。それこそあの神隠しに遭うておったという感じ。いわば奥様がみえたら琴の調子が合うた、その小道具があったと言う様なおかげを頂いて、ここにです、皆さんがもう純真なね、素直な素直な心でです、はぁほんにそんなもんだなぁという事をね、思い込み分からせて頂かなければならん、信心とは。
そう言う様な意味合いで、なら椛目でならば本当にそれを、まぁお繰り合わせを頂いたとか、素晴らしいタイミングであったとかというてです、余りにふんだんに頂いておるもんですからです、それを私共が疎かにする様な向きがあるのです。ね、ふが良かっただけでは済まされない。それがんなら、御霊様の働きとそれを拝ませて頂く、んなら福岡の奥様なら奥様のその真心とがです、一つになってそういう事になっておる事をです、
私共は拝ませて頂く者、また聞かせて頂く者も本当御霊様の働きに違いは無い、成程奥様の真、真心持っての、その真と御霊様の働きとが一つになった時でなからなければ働きというものは現れないのだと、これは神様、私共という場合においても同じ事なのだと。信心とはだから真の追求である。真心とは真心とはと、真心を本当に追求していく事に、精進させて頂くという事が分かるでしょう。
どうでしょうか皆さんの真心は。私は思うのです、その真心とはです、本気で私共が改まらせて頂こう、磨かせて頂こうと、限りなく美しゅうならせて頂こうというそういう一念から生まれてくる心だと思います。ですから、あの人は長年の信心しとんなさるけん立派な真心、この人はまだ偶々の、信者さんじゃから真心がないという事は無いと思う。信心を頂き、教えを頂かせてもろうて、今までのあり方が間違うておった。こういう事ではいけないという風に悟らせてもろうてです。
本気で磨かせて頂こうという気持ちになって磨かせて頂く事に思いがまいりました時にです、そこから生まれてくる心です。ですからこりゃ誰でも、やはりそりゃもうピンからキリまでございましょう。ございましょうけれども、そのその真心、神様がお受けになるところの真心というものは、神様とのいわゆる交流と申しますか、寛容と申しますか、神をましますという事はそういうようなものがパンとこう合うのですよ。
ですから、もういつも絶えず、私共が限りなく美しゅうならせて頂こうという事に、精進させて頂くおかげを頂かなければいけません。ただ今下りて来ようとしよります時に、お祭がすんでからでした。秋永先生がその前にお届けがございました。今朝でしたか、昨日ですか、昨日。昨日御造営の事についてから、もう本当に私のような者が、私のような不徳な者が委員長の席なんかを受けた為に、本当にあれやらこれやらが、もうスムースを欠いたり、難儀な事になってきたりしておるのは本当にこれは私の責任だ。
私のような不行き届きな者がです、例えば委員長の席にあったりする事がです、これがこんな事になっておるのじゃなかろうかと、その御神前で思うた途端に、神様からお知らせを頂いておられます。どう言う様なお知らせかというとね、このくらいばかりの歯車を頂かれた。そしたら次にはこのくらいの歯車を頂かれた。次にはこのくらい。それが限りなく大きな、大きい歯車につながっておるという御心眼であった。
頂いただけで分かりますね、皆さん。この歯車が回っていきよる時ですね、これとこれとが噛み合って二つになる時には、もうこれとこれとが、噛み合うておる事になる。これが噛み合うておる時には、もう次の動きに活動が始まっておる時なのです。私はその事を頂いてから、それは私が御神前でね、今日のお説教の事について、どのような事をお話させて頂こうか思わせて頂いたら、ただ今の事を、当時今お話させて頂いておるような事を話させて頂こうと、その事を今話させて頂こうと思いよったんだから。
どうぞお説教の中から、その御理解を頂いて下さいと言うて、私は下りて参りましたんです。そういう一つ、働き合いになってこなければいけんのですよ。誰に任せておくという、一番初めに申しまようにですね、ある人は申します、もう親先生のお徳で建つ、もう絶対そんな事はないです。もう今度という今度はです、もうそれこそ信心一致。椛目にご縁を頂いておるすべての者が真心がです、結集されなければ出来ることじゃございません。そこからです、思いがけない働きを生み出していく事は事実でしょう。
昨日、一昨日でしたか、秋永先生が先日、教務所の次長である日吉先生に、私の学院問題の事で,会われたんです。その時に、日吉先生が秋永先生に言われた。私はそれを聞きながら、まぁ有難いなぁと、椛目の信心認めていって下さりよるという事だと思ったんです。秋永さん、あんたんとこの先生は、何かこう神様にお約束なさっておられると、言った様な事がきっとあるに違いないと、そんな風に思う。
そのお約束を実行される為に、あぁいう事があり、こういう事になっていきよなんなに思う。どうも、私そう思われてならんがと、その日吉先生がおっしゃったちいう。それで秋永先生が、そうですね、そう言われれば実はですね、うちの先生はもうそれこそ、もうこれこそ一事が万事にご神意を伺うて、もう立つ事かがむ事に至るまで、ご神意を伺うてですよと。
先日からもですね、もうこれ自分の物っては全然、例えばお金を使うちゃあならんというので、もうそれを自分の身に付けるようなものを、自分でお買いになるような事は絶対にないんですけれども、今度学院行きの事については、そりゃあもう運動もしといて体も作っとかなきゃならんというて、まあ毎日神様にお願いをして散歩なさったり、最近ではもう、その試験を受けなければならん、その試験の道具、あぁいうその万年筆とかね、小刀類までこう買われたり。
それからもう他の時には何ばってん、この時だけはいろうからというて腕時計まで買うて準備しておられるんですよと。はぁそうでしょうねと言うてその、まぁたったそれだけの話の中からです、椛目の生き方、あり方というものが、どうも合点がいかんところがある、ただ普通の考えだけでは。何故かと言うと、あまりにも椛目の思うようになっていくと言う訳なんです。椛目の言いよる通りになっていくという事なんです。
その為に沢山の人が、使われていきよるという事。小さい歯車が回っていきよったらこれがずうっとこう回っていきよる。そういう中にある、ですから神様のお働きに、邪魔にならんように邪魔にならんように、と言う様な信心を、お互いがさせてもらわなきゃならんという事になるのですよ。
この辺で空回りになったり、この辺のえが離れておったんじゃこちらだけ回ってこっちは止まってしまっておる。空間が出来ておる。これはまだ確定と言う訳ではございませんから、けれどもまあ、内報ですから間違いはなかろうと思いますから、皆さんにも喜んで頂きたいと思うんです。これはもう私の為にも皆さんの為にも、いや神様の為にもおめでたい事なのですから。
今度私は試験に参りました。おかげを頂きまして、もう本当におかげを頂いて不合格の通知が教務所まで来ておるという内報を先日、昨日、一昨日、わざわざ(星野?)さんがいってきて下さいました。そしてその事を、まぁ聞いてきて下さっとるんです。もう何という素晴らしい働きだ、もうそれこそ私はもう、本当に行くからには私は本気で清まりにいくという気持ちだった。
本当に金光様のお膝元で、それこそ朝晩、朝な夕なにそれこそ奥城に出て本気で御祈念をさせて頂こうと、本当に微かなそういう楽しみを持っていたんです、私は。けれどもこれは神様がなさる業なのだから、私も思い通り決めた。これはまぁ可笑しいんですけれども、学科の方だけどうとかなるんですよ。ところがですね、その時にここから4、5人の方がおいでられました。中に久富繁雄さんと、それから高橋さんが、まぁ私のわざわざ為に行って下さいました。
だからもう試験場に一緒に入ってきて下さいました。もう何かにとそれこそ行き届いた御用をして下さいました。ところがです、私が翌日の体格検査の時にはですね、顔がこんなに腫れてたんです。ですから私の自覚してなかった、私が知らなかったその、腎臓という病気があるんだという事を、お医者さんが言われるんです。だから、もう医者の立場からなら絶対団体生活は出来ないという事を、ところが私のような年配の者が行っとるもんですから、教務所の先生としてはですね。
しかし折角みえとるのだから何とかなりますでしょう、というてまぁ合格の方へ入れなさったような感じでした。私の方は、おかげどちらにいったとも、おかげだと考えておった。ところがいよいよ済んでしまいましたら、暫く待ってくれという事だった。相談したいからというて、また私だけを最後まで一時間ばっかり残りました。丁度末永さんも一緒に受験に行っておりましたから、末永さんが行っておる時に、あの医者をもういっぺん呼んでくれと言うて、教官が言うておられた、教官ではない学院長が。
そして先生方と一緒に、そのまた新たにその、係のお医者さんを呼ばれてから、私の健康状態の事についてお話しあい、相談ありがあったようでございます。して帰られろとき、ただどうぞお体の方お大事にと言うだけで、まぁ帰ってまいりましたんですけれども、どんな事になるか分からないと思うておったんです。ところが、そして不合格の内報があっておるという事でございます。もうこれは本当に私の為だけじゃありません。もうそれはその、とりわけ喜んでおるのは両親でございます。
けれども椛目の皆さんとても、それを喜んでない方は一人もなかろうと思うのです。もう一番喜んで下さるのは神様なのです。そういう事によって、あちらの顔も立てばこちらの顔も立つ、という事のお働きがです、まぁその内報ですから、また中に、いやどうでんこうでん強引にこう、その嘆願してからでもです、どうでも入れてやろうという先生もおありになったんです、先日から。
いやぁあんたの体の事どげんでも、私が教務所に知ったつばっかりおるから、いや私の本部教庁には、私の後輩ばっかりだから、私が行って話しゃそんな事問題じゃなか、もうあんたあもうチンバでちゃ、肺病でっちゃ全然学校に入れるとじゃけん、私が行ってから言うてあげますというて、その親切に言うて下さる先生もあるんだけれどもです、けれども今度という今度は、どう先生が診察を下さってもお断りしようと私は思うのです。そういう意味で私はですね、私の為にめでたいなら皆さんの為にもめでたい。
本当に不合格おめでとうという事なのです。それもまあ今申しますように、内報の事でございますから、また神様どういう演出がこれから続けられるか分かりませんけれども、分かりません。けれども神様にお任せしておるのですから楽です。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと仰る。この御教えはもう十五年前、あの4、5年間は、もうそれこそ、いつもいつも頂いておる御教えでございましたですね。これは金光様が私に下さった御教えでございます。
氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと。もう本当に神様に任せるというところに、心の安らぎがあります。そこに私共の思いもつかない働きが始まってまいるのでございます。この働き、そしていわゆる、神様が大坪総一郎任せになって下さる。それこそ、私が夢にも思わないような働きに、進展して来る訳なのです。ですからその、任せるという事は、いかにもみ易いようでありますけれども。
先ほどから申しますように、本気で私共が改まらさせて貰い、美しゅうならせて貰う事に、精進させて頂いておらなければ、その任せる心が生まれてこんのでございます。我情の方へ走るのです。我欲の方に走るのです。自分の思いの方が本当のごとあるのです。自分の思いになった方がおかげのごと思うのです。ですからこれを任せるという事は非常に難しい事です。み易い事のようであって難しい。本気で神様を信じさせて貰い、そしてその神様の心に本気で沿わせて頂こうとする心がなかったら難しいのです。
そこのところが段々分かって参ります時にです、私は安心のおかげというのが頂けてくるように段々なってくる。本当神様にお任せする心こそ安らぎの心であると、神様にお任せさせて頂いておればです、人間の見た目には分からんそん時には、笑われるような事が起こってくるかも知れん、その時には、痛い思いをしなければならんような事があるかも知れん、けれどもそれがおかげの方の道を、その信心によって進んでいっておるという事をです、私共は確信する事が出来る様になる時に。
全ての事が有難いのであり、全ての事が安心という事になってくるのです。昨日夜の御祈念の前でございました。御祈念しようと思ってここに奉仕仕えさせて頂いて、それからある事で、いろいろもうお参りになっておる方、それから7、8名他にも夜の御祈念前にも参っておられました。先生方も前に来られますから、私あそこから先生方に先生方に話しかけるんです。
そうして、ただ今私が申しますような、先生あなた方がここで奉仕をさして頂かれるのはです、さぁどのような例えば大事な御用さして頂かれよってもです、私の思いに沿うて下さるという事、ここでは。私の思いに沿うて下さるという働きになって参りませんとです、おかげにはなりません。というて私が申しました時にですね、あぁ丁度あそこの御結界のお幣義が二つ置いてございますね。
あのお幣儀とお幣義をですね、カチカチっとこう合わせた音でしたけど、別にこう形の上にはひとつも合ってないんですけれども、あれは恐らく二つカチカチっと合ったんでしょう、もうここに今お参りさせておりながら思わずこちらに振り向くぐらいでしたから。そういうおいさみがありました。いわゆる連続的なおいさみなんです。カチカチほら見てご覧なさい、もう私の、私の思いに沿うという事がご真意である事があれでも分かろうが。その時ちょうど東さんが参ってきておりました。
毎晩参ってくるんです。ところが昨日は、その遅うなっとるのに一生懸命参って来よるのに、途中で思い出したのがお父さんの三十日祭の事であった。あらぁしもうた。お供えを持ってくるとを忘れた。そげな時間が遅くなるから、もうここへ着いた時にはもう九時半になった。仕方がないから、そのまぁお供え料として、料で御初穂をお供えさせて頂いてからのことであった。ははぁどういう事で二つこう、( ? )、東さんが来た事をおいさみ下さったんですね、一つは。
一つは私が毎日言っておる所の事を、一緒に下さった。私の思いに沿うという事。私の思いに沿うためには、私の思いが分からなければいけない、私がいつも言う様に、私が背中が痒かち言いよっとに、ここら辺の所を掻くならば、私が歯がゆい思いをするじゃないですか。それでも血の出るごと掻いたっちゃ私は喜ばん。そうでしょうが、そこじゃなかばのっち言うてからよけい腹ん立つ。ああここですかっち言うてその、痒かとこに手の届くような為には、私の痒かとこ分からないけんでしょうが。
皆さんどうぞ、ここで私をそれこそ信じなさい。私を信じて下さい。皆さんから信じられれば信じられる程です、私は、なるほど責任が重うなるんです。ところが信じて下さらなければお取次がしにくいです。自分の思いになる事だけがおかげ言う様な、まぁ間違った考え方をしておったらです、その人の思いになら、おかげを願わなければなりません。ですから、私を信じてくださる以外にはないです。
信じて下されば私も責任は重いけれども、責任が重ければ重いで、だから私の信心修行というものは、又なされて行く訳なのでございますから。ここんところを本当に、もうこの先生に手を握ってもろうてから、死ねるならもうよかと言う位なですね、ところまで、私と皆さんとの仲が、育っていかなければいけないという事。だからどのような結果が生まれてきよってもです、親先生の思いに沿うてから、例えばなら委員長が、御用頂いておるとするならば、それは問題じゃないという事。
けれども親先生が、こう思うてござるとは分かっておるばってん、私は私でこげんしていきよると言う様な生き方がもしあるとするなら、そこは改めていかなければいけないという事。自分の我を持っちゃあいかんという事。本気で私は、私の心を分かって頂かなきゃならんという事。そこで私の心、私の心という、を分かって頂かなきゃならんその為に、先ほど私は、日吉先生と秋永先生の事をお話したんですよ。
うちの先生ばっかりは、もう本当にもうそれこそ、ちょっとした身の回りのもの一つ、まあ求められるでも、ご神意を伺うてでなからでなければなさらんのですから。そうじゃろうそう思うとった。と例えば文男先生がその事を合点されたようにです、そういう風に私もですね、神様の願い、それがですよね、神様から頂きましてもそれをやっぱり私頂き違いをする事もあるんです。分からない事もあるんです。
けれども神様から頂いてからの事なんです。全てがですから私の頂き違いがもしあってもです、そらそらいとわんというものが、皆さんの度胸の中に段々出来てこなければならんという事。2、3日前でございました。久保山先生がご自分の御初穂と、それから娘の高松和子さんの名前の、まあ改まってのお届けをなさって、そしてお伺いがございました。この度順子の高校不合格の事につきましては。後どういう風に、あのこ進ませて頂いたら良いか、和子からその事をくれぐれも親先生にお伺いをしてから。
間違いのない道を歩かせてくれと言うて参っておりますから、どうぞご神意を頂いて下さいという事であった。もう高校に行くというても行く所がない。それで、神様に私その事をお伺いさせて頂きましたら、はっきり字で頂きましたのが実業と頂いた実業と。ははぁこれは何か体に身に付けさせて頂く様な事を専攻させるがいいがと、例えば洋裁なら洋裁、和裁なら和裁、と言う様な事じゃなかろうか。この実業と頂くから。明らかに私のこれ頂き違いだったんです。
所がいかに頂き違いであっても、受ける方が真心で受けておれば、もう絶対間違いがないと言う事ですよ、それでも。その翌朝丁度お婆ちゃんが参ってきておりました。その時丁度あの、渡辺先生が参ってきておりましたから、渡辺先生に私知らなかったけれども、あちらが学校関係に色々してありますから、香蘭とか何とかあちらの方へ入れて頂く手続きを、私があちらの学校の先生知っておりますから、私が交渉してあげましょうと言う様な事だったらしいんです。
それから一時間ぐらいしましたかでしょう、南筑高校から合格の通知が来たんです。お婆ちゃんがあくる日参ってまいって、先生、後から聞きましたらですね、もう本当に驚きましたち。今度は南筑では補欠は一名だったそうです。その一名の中に順子が入ってお
その辺の神様の御都合というか演出というか、もう久保山一家の上に、な、高松親子の上に分からせて下さろうとする働き、久保山一家の上に分からせて下さろうとする神様の働き、そういう一つの手の込んだお働きを下さってから、
そしていよいよ、あれが一日遅れておったら、あちらの手続きとっておったかもしれません。で、渡辺先生にすぐ電話をかけてからそちらの方断りさせて頂いて、あくる日入学のおかげを頂きました。そして私が昨日頂いた、久保山先生からお願い頂いたところの実業という事について、ははぁ実業とはこういう行だ、こういう事だったんだなあと分からせて頂いた。順子不合格という通知を届で娘さんの和子さんが頂いた時にです、その時にこんなに分厚い手紙がまいりました。
もう親先生、あの、落てとった時にです、本当に体がガタガタ震うごたった。もう絶対そげな事思うてなかったんだから。いうならば、もう頭の上だけでは自信があったんだから、その上神様のおかげを頂くのであるから、必ずおかげを頂けるものだというところに、あれも不合格これも不合格。私立高校なんかも受けておったんだけれども、とてもそげなつなんか、めもふれなかったんです。大体もう、だから受験の出来れる、その入学の手続きもだからとってなかったんです、試験はできとったけれども。
ところが開いたところが不合格だったんですよ。それこそ大声を上げて泣いております、泣きましたと。それでも参っております内にです、段々、親先生有難うございます、親先生有難うございますという内容に変わらせて頂いて、初めて親先生にお礼を申し上げる心が出来ました。これによって分かる所を分からせて貰いました。おかげを頂きまして有難うございました。その心が出来まして、この手紙を書かせて頂きました、という手紙が来ておりました。
そしてその前、その久保山先生が、お届けさせて頂く時に、お爺ちゃま、どうぞ親先生にお伺いをして下さいという、これは入学する事の時の為の、というて用意してあったお金を、そのまま御造営費にというてお供えになった、お爺ちゃんから。ははぁ実業とはこういう風な事だったと私は思うたんです。実行とは実際の本当の行。神様がもう間違いなしに受けて下さる行、しかもおかげを頂く行ではなくて、もうお徳を受けるところが行なのだ。もうがっかりしておりましたら、補欠でおかげで入れました。
おかげを頂いて有難うございましたというて、これはもう試験もなかごとして、これは御造営費にというても、神様が喜んで下さってもそれは実行にはならん、徳までにはならんと言う事。この辺が日頃信心を、本気でしておかなければ、出来ない事が分かってくるでしょうが。お互いが信心をさせて頂くのはお徳を受ける、受けさせて貰わねばならんのですから。間違いがあっちゃあなりません。誤魔化しがあっちゃあなりません。もうしら真剣、この神様ばかりはです、そこの取り組み以外ないのですから。
そして神様のお働きに間違いのない事が分からせて頂いて、なるほど悲しい事であり、大声上げて泣きたいごたる、苦しいことであるけれども、泣きよる内に、親先生有難うございますというところまで、心が整理されて参りまして、時に主人はそれをおかげと思うとります。もうこれも神様の御都合と思うとりますだけではなくて、それが形に現されるところのおかげを頂いた時にです、
それが、なるほど神様が実行として、受けて下さった事を、私が頂いたんだけれども、それを私が違えてから、久保山先生に伝えておったと、いう事になるでしょうけど。ところが受ける方、がそれをまともに受けておるのですから、もう間髪入れずに、そういう働きがこうあっておるでしょう。だから私とてもです、やはり頂き違いもありゃ、間違いもあるのです。
けれども先ほど、秋永先生、日吉先生とのお話し合いの中に出て参ります様に、うちの先生はどの様な場合でも、御神意のままに動いておられる方だという事をです、皆さんが確信して下さって、だから親先生の仰る事を本気で、例えば私がする事、言う事の中にはです、皆さんでは合点のいかん事が沢山ございましょう。親先生がもうあげなだらしない事ばしてから、けれどもそのだらしない事の中にとてもです。ご神意の中にあるという事を、皆さんが確信して下さる様なおかげを頂いて下さって。
皆さんが私を信じて下さる所から、私も本気でのお取次がしよい。ですからんなら、親先生に、いわゆる氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと言う事は、神様任せとはどう言う事なのか、神様の心というてそんなに分かる、話を聞いてようやく分かる様な事だから、本当な事は分からん。金光様の心というのはならどういう心か、私だんはもう百年も前の事じゃけん分からん。けれども親先生ならば分かるでしょう。皆さんが私を解剖なさるなら、いつでも私は解剖台に上がりましょう。
そして私のいわば、ねの根まで分かりたいというのであれば、ならそのところを一つ分からせて頂いて、そしてこれならば、信じられるというものを、皆さんが確信されたならばです、本当になら神様任せという事は、そのまま親先生任せであるという事を、分からせてもろうて、ここの信心を皆さんが、務めぬいておいでなければならないという事、なのでございます。
そのところがです、ただもうすっきりせんまんま、あやふやなまま、中途半端なまま、自分の都合のよか時だけは任せるばってん、この事だけは任せられんと、言った様なものがです、あるです。あるけれども、そこを一つひとつ任せられるだけの信心に、ならせて頂く為に、本気で限りなく美しゅうならせて頂こうという事、そこから生まれてくる心を真心と今日私は言うた。
その真心を持ってです、真心を持って神様に向かう時、真心を持って御霊様に向かう時、それを私は、今日先代のお葬式の事を思って理由を話した。そういう働きが生まれるんだ。神様がわざわざその事一つを、神隠ししておられると思わなければ、おられないような働きが起きてくるんだという風に、今日もうしあげたわけですね。
委員長が神様にその事をです、もう私の柄じゃない、とてもこげないよいよ難しくなってきた、とても私だんのできる事じゃないと、お前は出来んのだ、出来んのだけれども、親先生の思いが分かろうが。親先生の思いに本気で沿うて行けと、秋永友良こうあってくれよという声をこれに聞け。そしてその事に私はおかげを頂いていく時にです、その小さい歯車から段々大きい歯車がです、限りなく回っていく、活動の働きが生まれて来る様にです、おかげが受けられる所の道が、必ず開けてくる事を私は確信致します。
いよいよ御本部参拝、そして十三日会(?)の方では十三日会が、そして御大祭の御準備が、もうどの事でもこの事でもがです、もうそげなところにお互いが焦点を置いて、日頃稽古させて頂いておるところの信心に物言わせる、これが私の真心だというものを打ち出させて頂いて、御本部参拝に十三日会に、または十六日の御大祭に、それを打ち出していくおかげを頂きたいと思うのでございます。
どうぞよろしく。