昭和40年6月12日 朝の御理解



昭和40年6月12日 朝の御理解

 壊れない「思い」とは

 権力やら策略で人の形の上の事は、どうにでもなろうけれども、その人の心までも自由にする事は出来ない。例えばあたくしを自由自在に、ましてやこの権力なら権力を以って操る人があるとすると、形はあたくしは操られても、あたくしの心までも操る事は出来ない。これは神様とあたくし共の場合の事をもそれが言える。例えば、あたくしの一念、あたくしの想いと、というものと神様の想いというものが、交流する。

 通うておる。そして、椛目がおかげを頂いて参りましていわば15年間、それを例えばそんな事もないでしょうけれどもです。ね。椛目の、その、ひれいの為に、障害があったり。ね。それを、まあ分かり安く言うなら、そういう勢いを潰そうとしたりするような人がいかにありましても、形ではそれもこれも取り上げておるようでありましても、私と神様との間に交流しておるものを壊す事は出来ない。まあ最近の話で言うなら、教務所,樺目に対しての問題でもそうでしょうが。ね。

 ほんとに、いよいよ事態が最悪と言ったような事になってまいりましても、それはあちらやらこちらから中傷があって、もう本当に「寝耳に水」といったような、枝も葉も無いような事が原因であったという事は、横から、中から中傷する者があったからなんです。それでもあたくしと神様の間に交流しておるものが、切れない限りそれは、どうにも出来ないのであって、却って結果はそういう中傷した人達の、思い以上のことへどんどん話が進んで行っておるのと同じ事。

 御造営の事だって同じ事、どんなに「ああせにゃいかん」「こうでなからねばならん」と言うても、神様と私の間に交わされておる、念というものが交流しておる限り、もうどうにもこうにも仕方の無い勢いで、こうやって、お、その、ほんとの事え、ほんとの事えと動いておるから、この働きをどうにもすることが出来ないでしょう。ね。例えば、なら親先生が、椛目のお広前の敷地の事でも、ね、

 勿論、椛目の実力というものを大体知っておられるから、それではちった過ぎるというのが、一番初めの二反より多くしちゃいけないという事だった。二反で丁度いいというころだった。なる程、ここのと、坪にすれば、二反だって随分、ここよりも何倍もの広さがあるわけですから、ほんとにここでも十分と思ておるのだけれども。神様の想いを親先生でも断ち切るわけにいけなかったでしょうが。

 ほんとこて、三反が六反になったでしょうが。そういうようにです。あたくし共のその思い、一念というものがですね、そうしてその、何者にも壊されない、何者にも障害を受けない、それをです。それが強いしかも清らかなものである限りです。あたくし共の思い以上のおかげに、進展していくことを思わせて頂く時です。例えば、まあ00さんの思いがですね、初めの間は、これを貫かなとこう思ておったのがです。

 もし、何かの障害によってです。その思いが崩れたと致しましょうか、ね、形が崩れるだけではない、その思いまでも崩れてしまうような思いでは、神様へ一念は届きません。寝ても覚めても思うておること、一生懸命に思うておること、その思いというものが至純のものである。ね。いうなら神様が喜んで頂けるような、その思いであるならばです。その思いは誰が何と言うても、壊されない災いされないところの、そうであるかどうかという事をあたくし共は、確かめる必要があると思う。

 自分の初めの間はこう思っておったけれども、こう中傷されたら、やっぱ形が壊されたと同時に、その思いまでも壊されてしまうと言ったようなことではね、私はほんとのおかげの成就ということは見られないと思う。思いというものはです。一念というものはです。誰が何と言うても、壊されるものではない。まあ分かりやすく言うなら、恋愛問題なんかにとってもそうですたい。ね。

 男女の一念と云うか、その思いというものが、ね、思い思われる、念というものがです。交流しておる限り誰が中傷しても、誰が水を差す人があっても、ね、その二人の思いというものを壊す事は出来ないでしょう。思いというのはその位な思いでなかなければ駄目だということ。あんた、あげんとと一緒になったら大変ばい。末の事考えて御覧、いくら、と、とくとくとしてです。言うて聞かせてもです。ね。

 言うてもです。ね、いうなら、あなた達にそげん心配かくるごたるなら、そげんしましょうと、と形では言葉では言わせてもです。その人の例えば、その弁に、誘導尋問なら誘導尋問に引っ掛かって言うてもです。その人の心までも、そう思い込ませるということは至難のようなものです。それが一念が強ければ強いだけ、そういうようなものがです。あたくし共と神様との間には、いつも交流しておらなければいけないと思う、始めはこげん思いよった。

 その思いが、なら必ず神様が喜んでくださりゃ、自分もこれなら、おかげを頂けれる思いだと思ておったのがです。誰かちょっと中傷された。まあ始めは思いよったばってん、もうその思いが無くなって薄うなった、というような思いではね、天地をいわば揺るがすかという、天地を動かすといったような働きにはならないということです。私共の、ま,さし当たってからの、全体の方達の場合ですね。

 そうした、教会、それはね、ほんとにそうなんですよ。例えばあたくしの教師資格問題、御本部行きの問題だってです。いくらあたしに、「はい、そんなら来年から、学院に参ります」と言わせてもです。ね。又それかのように見せてもです。あたくしの心の底にあるものは誰も知らんでしょう。あたくしと神様との間の約束と言うか、交流しておるものというのは、誰がどんなに巧妙な手を以ってしても、それを壊す事は出来ないということ。そういう思いがです。ね。

 そうならなければならないような事に、形の上に現れて来るということです。ま、これは先のことですから、分かった事じゃありませんですね。いくらあたくしがあなた、いうなら学院に入れよう、そんなあたくしも行こうと、言わなければならない羽目になって、まあ言うたと致しましても。どっこい、行く時になったら、体が全然動かなくなったと云うたら,そうゆう訳にはいかんでしょう。皆さんだって、例えば、そういうような状態な先生に、なら、本部に送るわけにはいかんでしょう。

 例えて言うならそう言う様な事、ね、御造営のことだって同じこと、それだって皆さんがあたくしは御造営のことに一念を燃やしておられる、その一念がですそう言う様な誰が何と言うてもです。ね、貫か貫かなければならんというそんなもんじゃない。ね。この思いだけは、誰にも壊す事ができないと言う様なものがです。ね、私しは信念というのじゃなかろうかとこう思う。寝ても覚めてもそのことを思い続ける。

 それがねもし崩れるようなものであったら、あなたと神様との間もその位な程度だということになってまいりますから、おかげもその道を辿ってくるのですからおかげにおいても然りだということが言えましょうね。それを貫かしてもらうね、壊れないもの、そんな至純なもの清らかなもの、神様に喜んで頂くようなものであればあるほどにです。それを貫かれていくところに、その現れてくる形がおかげというのだと私は思うのです。

   おかげを頂かなければなりません。



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