昭和40年5月18日 月次祭
(途中から)
頂いておりますと、何時とはなしにおかげを頂きます。何とはなしに、人柄も変わってまいります。これは私が、信心、私の信心を言うて見るのが一番いいと思うんですけれども、何十年間という間の、両親の信心を受け継いで、それでまぁ一にも神様二にも神様と言うて、おかげを頂いております、まぁ言うなら熱心に信心させて頂いて、もう何とはなしにおかげを頂いてまいりました。ね、まぁ困ったことが起こってまいりますと、お取次を頂きますと、なんとうなしに安心が出来ます。
何とはなしに安心出来ますから、また何とはなしにおかげを頂いて来た。そういう繰り返しの、まぁいうなら何十年間でございました。ところがです、ところがこれではいけんと。これではいくらい何時まで経っても、言うならうだつあがらんと。ね、これは根本的に信心をこりゃやり直さなければと、と考え出させて頂いたのが、まぁ終戦このかたでございました。
そして今まで、なるほどおかげは頂いてまいりました。また信心も止めも、止めもきりませんでした。と言うてなら花ばなしいおかげを頂いたかと、人柄も変わっておったか、ならおかげも、金光様の信心しござるけん違う、と言った様なおかげを頂いておったかと言うとそうではない。だた自分の心の中に、こりゃ私だけではない、家族中の者がです、何とはなしに信心を止めきらん。何とはなしにおかげを頂いて。もういよいよの時には本当に信心頂いておってよかですもんねと。
いざという時には、神様にお縋り出来ると言う事が有り難い、と言う様な程度の信心であった。ところがそれではです、成程何とはなしにおかげを頂いて行くけれども、やはり信心も何とはなしの信心である。これではです、神様が下さろうとしておる、言わばおかげをよう頂く事は出来ないと言う事です。皆さんどうでもここに一つですね、神様が下さろうとしておるおかげ。どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと、仰るようなおかげ。そう言う様なおかげを皆さん、頂いて欲しいなぁとこう思うんです。
ここで皆さんが、おかげを頂き良いと思いますことはですね、私自身がそういう一つの、信心の様々な、いやなんとはなしの時代からです、ね、あの時代からこの時代、はっきり例えば修行の時代。あの時代からこの時代。まぁ力受けたというなら、力受けたんであろうと。光を受けたなら、光を受けたんであろうと言う様な時代。そして現在私がおかげを受けておるという事実をです、皆さんが見て下さる事が出来、聞いて下さる事が出来るのですから、私は本気でおかげを頂きたいと願われる方はです。
もう目の当りに一つの、生きた手本を見るのでございますから、やりいいんじゃないかと。ね、私共は何時何時、誰、誰そりゃこんなおかげも頂かれた、何処の教会の誰さんは、こういう広大のおかげば頂きござるげな、という話は、おかげ話で聞きますけれども、中々自分の身の上に、そういう、おかげの受けられるような信心をしてなかった。またどうしていいか分からなかった。事実。ところでここではです、私がおかげを受けたことを皆さんに聞いて頂くのでございますから、こりゃ間違いがないのです。ね。
勿論、教祖神様の教えを元にしてです、私が頂いて来たこと、私がおかげを受けたことを、皆さんに伝えさせて頂いておるのでございますから。ね、間違いがない。ところが中々ですね、やはりなんとうはなしに、ここ15年の間に、なんとはなしに皆さんおかげを受けてこられたというけれども、さぁなら目覚しいと言う様なですか、ね、皆さんも、私が何十年続けて来たような、まぁそれに言うなら、ちょっと毛の生えたくらいな信心じゃなかろうか、と私思うのです。
なんとはなしに感じておられる、なるほど椛目の信心は間違いがない。素晴らしい。まぁこれは自分の事をそう、私はもうその自惚れが強いもんで、そう思うております。皆もそう思う、思うておって下さるだろうと、また信じております。けれどもです、なら私が言う様な信心は、皆さんが出来ていないという事。ね、これではです、何時まで経っても、おかげはなんとうなしに頂いとりましてもです、言わば踏ん切りの付いた信心、おかげにはなってこないと。目覚しいおかげにはなってこないと。
先ほど、石井誠之助さんが、あの、今日は兄さん、何時も兄さんが参って、喜代司さんが参って見えるけれど、今日は誠之助さんが参って見えた。あら今日は兄さん、あたしがいうた。もうこの頃はもうとにかくその、まぁ言うなら、確かにあの人も、二人目も三人前もよう働かれるです。もうくたくたにこの頃疲れておる。もう体に疲れが出て、もうきついごたる風でございましたから、私が代わりに代参、まぁさせて頂いたと、こういうわけなんです。
立派に神様に口実が付くですよね。事実なのですから。嘘じゃないから。今日なんかも出かけに丁度、お参りしようと思いよりましたら、こうお客さんが見えたもんじゃけん、その相手してきよりましたから、丁度、お祭りには間に合いませんでした。立派に言い訳が付く。ね、こういう例え信心ではです、何時まで経ってもどうどう回りですね。こりゃ間違いないです。それでおかげを頂いておるのはね、それでつう一杯のおかげなのですから、それ以上溜まるものがないでしょう。
もう今日はもう本当に、もう本当にもうずうのでるごと働いた。ね、けれども例え御祈念が八時なら八時であるならば、内を出るのが七時でなからなければならんのなら、七時のジンがジンジンジン、とこう七時なった途端にしゃんとすると言う位な、おかげを頂いたらどうだろうかとこう思うのです。ね、これを目当てにこれを合図にと。私共がお月次祭を仕えさせて頂いて、先生方が全部揃うて、楽員さん方が最後の一人まで揃うまで、その揃うた時間を、私はお祭り開始の時間だと自分の心に思うとりますもん。
だから全部が出来ておっても、一人の楽員が揃うとらんでも、一人の先生が揃うとらんでも、私はその時間は待ちます。揃うたら最後ただ今から。これが私のお祭り開始の合図なんです。楽員さん方が下へ下りますとです、ね、琴が調べられます。そして合図のように太鼓がドンとなる、そのドンとなったそれを合図に、先導される秋永先生がどうぞという先導をして下さいます。典礼の御用をして下さる。
言わば、その太鼓の合、そのドンとなった合図と共にです、こちらへ下りて参ります。下がる時も同じこと。ね、いわゆる楽の調べにのってから、お祭りが仕えられる。太鼓の退下の、太鼓を合図に立たせてもらう。そう言う様なですね、私共のその日々でありたいと思うですね。皆さんこれを一つ本当に行じてごらんなさい、ね、神様がもう今日はもう、お前がズウのでるごと働いた事を神様は見とる。見ておいででござるのである。今日は丁度只今出かけに、お客様来たことも神様はご承知なのでございます。
ならそれから先、それから先が大事なのです。信心はねそれから先なのです。いいですか、ね。何とはなしにいつとはなしにです、そりゃ一月に一遍お参りしよってもです、ね、お日参りをしなくてもです、おかげは受けます。けれどもそれは、何とはなしのおかげでしょうが。ね、何時とはなしに、おかげを頂いて来たという程度のことでしょうが。例えば私の信心を、皆さま思い出して下さる。もう聞いて下さることは、何回も何回も聞いて下さっておるんですから、ね、はっきりしとるでしょう。ね。
ここのところを私は信心の、節度と、ね、例えば眠っておりましてもです。ね、四時半のジンがジンジンジンと、四時半を押したならばです、もうその四時半を合図に起きることに決めとく。すと体がシャンとするんです。もう夕べ遅かったけんでと、と言うて寝るんです。そして成程ならんなら、7時頃からなら8時頃からでもお参りは出来ますです。ならそれでおかげ頂けんことはないです、けれどもね、これではね、決してこれから先のおかげを受けられないですね。そういう信心でです、ね。
何時かはおかげ頂くじゃろう、何時かおかげ頂くじゃろうとどん思いよったら、そりゃもう大当てが違います。ね、これは、これでは絶対おかげは受けられませんから、皆さんもそれを承知しとかにゃいけません。ね、なんがりなんがりの、押しやり気槍のような信心ではです、ね、何時とはなしに、何とはなしにという、おかげを頂きましてもです、なるほど金光様の信心しござったけん違うなぁ、と人が見て気が付くようなおかげにはなってまいりません。
ですから言うならばです、もうそこが一番大事な時という事が分かるですね。もう今日はもう本当に、誰か代参してくれと、俺はもうきつうしてこたえん。そ、そこなんです、そこが一番私は大事だよっち。ね。そこが10人の者が、例えば10人がもう代参でもたてようという時なのである。ところがそこにです、私は神様からです、ね、言わば時計のジンがなるように、楽の太鼓を合図のように、何か自分の心の上にです、ね、合図の頂けれるくらいな、信心は頂きたいもんだと思うですね。
神様合図して下さるんです、間違いないです。ね、本気で朝の御祈念にお参りをすると、5時までにここに着くと、いうあのう、発心を致しましてですね、神様にお願いをしてです、お願をしてご覧なさいませ、もう神様がどげん寝とらんでん、どげんか揺り起こすようにしてでも、起こして下さいます。こりゃ間違いないです。体験がございましょうが。ね、あそこがおかげ頂くのです。あれがつい人とは違うんです。あれがたまっていくのです。あれが力になり、徳になるのです。ね。
だから信心はこの辺のところに、味が分かって来る様な信心にならにゃいけません。夕べが遅かったから、ね、言い訳は付きます。ところが大体を言うたらです、ね、信心に言い訳は付かんです。これはですね、私はですからあのう皆さんに、もう御無理を言うわけじゃないですよ。皆さんが本当に私、私がおかげを受けておるようなおかげをです、雛形んでもはっきり頂かれて、何時もかつも神様が絶えず。これに働きかけておって下さるなぁという実感の中にです。
昨日も久保山先生がご飯の後にです、あれ何からのことからでしたでしょうか。言うておられました。先生がどんなに例えば喧しく言われても、どういう態度を取られてもです、先生の場合はいちいち神様からお知らせがあってのこと。神様からお合図があってのこと。だからどうとも言えませんですもんね、と言うておられます。また事実がそうなのです。ね。皆さん眠たいでしょうけれどもお聞きならにゃいけませんよ。そして、例え今のような信心を続けになりながらです、これはこれではいかん。
何か本気でおかげを頂きたいと、例えば本当言うたらです、今日ここになら、居並んでおられる方達はです、本気でおかげを受けなければならない、人ばっかりなんでしょうが。本気で御造営のおかげを頂きたいと言うて、お届けくらいしとる方達ばっかりでしょうが。もしそれが出来ないなら、皆さんは神様に嘘を言うの同じことじゃん。何時もとは違うと、椛目の場合只今非常時。ね、口だけはむご言うちから、体が動かんという事は信心で神様が言うて、言う事聞いてくださるはずがないじゃないか。ね。
それこそこえらしい事はいよるて、行の上に現さなかったらおかげになるもんか。お月次祭だというのに、8時半の、8時半のお祭りだというのに、何人今日はここにならんでおったか。ね。願いだけは大きゅう願いを持っておるでしょうが、皆さんは。ね、嘘か本当か知らんけれども、本当の信心が分かりたいと言う様な風に何時も言う、言うたりしたりしておるだろうが。今居眠り半分の信心で、ね、どうして特別なおかげが頂けるか。特別なおかげを頂くという事は、御造営という事だけではない。ね。
御造営の時にです、特別の信心させて頂いて、特別の力をあの時に受けたと言う様な、おかげを頂いてもらわなければならんと、私は思うの。今どんの信心じゃご造営は出来ん。今のうち止めたがいい。私は建ててもらいたいとも、なんとも思うとりゃせんち。神様の願いと皆さんの願いでから、今度の御造営が思い立たれたんじゃ。ね。御造営が始まったら、ね、お日参りが出来なかった人が、お日参りが出来るようになった。朝参りが出来ないが、なかった人が朝参りが出来るようになった。
今までまだ水掛ったことはなかったけれども、御造営を境にお水を掛ることを覚えたと。何時も先生が言う信心は、この時こういう時に味あわせて頂こう、本気でそういう信心をさせて頂こう、というようなです。皆さんがね、私が楽、私が楽をしようと。私が得をしようと。私の見栄や面子でです、御造営を始めたようなもんだと思うとったら大間違いなんです、ね。偉そうなことを口で言い寄るじゃないか、1人1人が。今本当の信心を頂かなければ何時頂く。生きた神様を、いわば見ておるだけじゃつまらん。
生きた教えを、聞いてから逃しただけじゃつまらん。聞き逃したんじゃつまらん。それが本当に、行の上に現されてこなければ。本気で、例えば御造営を自分の事として、神様にうち向うておる信者が何人おるかこの中に。顔だけは総代でござい、幹部でござい。実行員でございと言う様な顔をしとるけれども、そしてから書いてなかったら腹かきよる。馬鹿んごたる。性根を入れて、日ごろできない信心を、ね、この際こういうときにです、身につけさせて頂いて、ね。
こういう時にだけぐらいは、一つ言い訳せんで済む、信心させてもらわなければ、私はいけんと思う。ね、信心に言い訳は立たん。遊ぶ時やら、食う時や飲む時だけに、一生懸命になるなるごたる勢いで、神様に向うてきたらどうだろうか。ね、神様はちょっと、甘いおかげを見せて下さる時のような、信心で進んだらどうだろうか。はぁもう広大なおかげを頂きまして。涙流して喜びよるかと思うと、それがほんなもんじゃないから、すぐ消えてしまう。
今度の例えばご造営は、私の信心一人で出来るだんのこっちゃぁないと。皆さんがうって一願になって、皆さんがその気にならなければいけんのですから、でなかったら今の内にお止め下さい。今まで造営の入ったお金位はです、まだ椛目にあります。ね、それが5年後に10年後に建たんでもかまいはしません。私が何時も言うておるでしょう、教会にならんでもええっち。私は教師の資格を取らんでもいいって。問題はあなた方がおかげ、もうほんな事を言うならば、あなた方がおかげを頂かなければならんからよ。
あなた達が力を頂かなければならんから。ね、私はね、今晩の月次祭に皆さんがです、ね、遅かったから、だけのことじゃない。最近ずっと考えて来た、ね、何時もの方が一生懸命になったって、今度のことばっかりは、ね、せめて椛目に四十七士とか、ね、まぁ何時も何かと言う時には、50名は集まるから、本当に50名の方。ね、この方達が一生懸命にならなければ出来ることがないて、今度の、今度の御造営は。その一生懸命にならせて頂くチャンスを、神様が与えておって下さるのであるから、ね。
このチャンスに力を受けようじゃないか。本気でお徳を受けようじゃないかと。今まで出来なかった、ね、そん出来なかったです、だから神様それは言わば、言い訳で聞いて下さったけれども、ね、もう言い訳は出来んという信心にならせて頂いてから、そりゃぁ本当に今日はずうの出るごつ働いた。もうお前が今日はかわ、変わりに代参してくれ、というごたる時にです、ね。そ
こにです、神様が太鼓の音を打って下さるように、花火を合図に、時計のジンを合図に。シャンと立ち上がられるような、お繰り合わせくらいは自分の周辺に、もう生きた神様の働きを頂けるようにならなければいけん。実際はあっておるのだけれども、皆さんがつんぼじゃから聞こえんのじゃ。これは私の体験から言えること。ね、これまでなら誰でも出来るという信心があるのじゃ。
しかしこれまでの、は誰でも出来るという信心ならです、ね、誰でもが頂いておるところのおかげであり、一足でも神様はこちらへ向こうてくれ、無駄足は踏ませんと仰るのだからです、ね。何とはなしに何時とはなしにおかげを受けて行くだろうけれども、ね、ここに一つ、何かを機会にです、踏ん切りのついた信心を、シャンとした信心をさせてもろうてです、神様の前には言い訳は付かんと。
夕べ遅かっ、遅かったなら寝らんで、明くる日の朝の御祈念の時間を待ったらいいじゃないか。起きれんごたるなら。神様にしらごつばっかり言うちから。朝の御祈念に参りますとか。2辺づつ参りますとか。今度のご造営でじゃこげな修行もしますとか。しらごつばっかり言うとるもんが、いくらでもおるこの中にゃ、神様はなんとも仰らんと。今日は皆さんどうぞ、大坪総一郎が言いよるとじゃない。ね、神様が言いござるとと思うて聞いて下さい。ね、ほんとこで本当ですよ。
私はもう本当に、まだこれよりか狭かったっちゃかまわんです。ね、私共は本当に長浜という時代に、畳もなかった。雨降りゃ上から雨が漏りよった、ガラスの破れた障子や、破れておった。私共もこれより以上の所に住もうと、自分から求めて住もうとは思わんということをです、神様にお約束をしてお願いもしておるのだから。どうして私はこれ以上のものを私自身が望むかと。
ほんなこついや椛目にご神縁を頂いておる人達が、ね、一人でも、私が頂いておるようなおかげを、本当に皆さんにも受けてもらいたいと、また皆さんも受けたい。ね、その願いと願いが、今度のご造営いわばなっておるようなもの。ね。本当ですよ。ね、先生があげなこつを言うたから、もう信心な止めるというならお止めになってもかまわん。ね。もう本当に、椛目で本当の信心を頂いて、信心の力を頂いて、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるような、徳と力を受けさせて頂いて。ね。
そして、まぁそれなりの信心ではあるけれども、神様が尽きぬおかげを、神様がお恵み下さる、そのおかげを体験させてもらいながら、毎日を有り難い勿体ないと言う、信心生活に入って頂きたいばっかりなんです。ね、自分が、私がです、おかげを受けてきたことをです、例え皆さんに聞いてもらうということがです、聞いてもろうたばっかり何にもならんでしょうが。ね、してからに皆さんは聞くばっかりで、おかげだけはやっぱ受けとるでしょうが。ね。
神様にです、もう本当にずうから言った信心。真からいった信心。ね、一生懸命で頂く、というところの信心。ね、そこから生きた神様を体験させてもらい、ね、嘘ではない本当のです、今日もおかげを頂きましたと言うて、日々お参りが出来るような信者氏子に、せめてただ今言う、50人だけぐらいはなって頂きたい。ね、その50人、50人の方達が椛目の今後の土台になるのじゃ。基礎になるのじゃ。それが皆さんの、一人一人の上の、又基礎にもなるのじゃ。ね。
私を見なさ、見なさったが一番分かる。何十年間という信心、ね、なるほどおかげを受けて来た。ね、いよいよの時には神様におま、走ってお願いが出来る、行ければなんとうなしに安心も出来る。またおかげも頂く。そういう例えば信心がです、もう50年続いておっても、ただそれだけのことだと、それを普通で堂々回りの信心だとこう言われておる。一遍ずっと神様にです、ね、嘘を言うた事ばいっちょ考えてみてから、その、そのお詫びをさせて頂いて、ね。
改めてもう一偏、本気で神様に打ち向かわせて頂く、生き生きとした信心をして下さって、ね、神様の方には、前には進んでも後ろには引かん。ね、神様の前には絶対言い分けはせん。そういう信心させて頂いて、体験として生まれてくるのがです、なるほどあれから先がお徳になったんだなと。あれから先が力になったんだなと。ね。椛目のこれがひとつの例のようになっておる。私は久富先生に、いつ北野の共励会の日だった。言うたことがある。ね、北野の共励会で十一時頃までなってお話をして見える。ね。
ですからもう自分方はもうすぐ、自分の横を通ってこりゃ、帰ってきなさらなきゃならんけれども、ね、そこが大事だと、私はそこを大事にして来たと。もう今日はもう本当にもう、いやそれこそ、もうくたくたになったと。ね、そこをです、一生懸命の思いこみを持っておると、おるとですたい、神様がです、さぁもうきつうして答えん、もう時間になった、もう立とうごつもなかという時に、パーンとほんな事叩いて下さる様なですね、お働きを必ず下さるです。
もうどげなこつがあったっちゃ、絶対朝の御祈念にお参りしますと、神様にお願いしてご覧なさい、もうどんなにね、もう神様がある場合に揺り起こすようにして、ね、ある場合にはおててならんものが、上からポトンと寝とるのに落ちてきたりしてからです、起こして下さる。まぁそれは皆さんも体験済みであろうと思うですけれども、ね、そこから私はお徳の信心というか、力の受けられるという信心か。これから先がです、椛目で今50人の方達に受けてもらいたいというのは、そこから先の信心なんです。
これからは沢山の人が出来るだろう。ね、それは皆さんの信心をもう、言わば神習い見習うて、おかげを頂いて来るだろう。ね、もうどんなに、私はあぁそん、何百人の者がおりましてもです、椛目には今50人です。50人の者が一生懸命。ね、だから自分はその、50人の中の一人であるという、自覚のある人がです、ね、自分こそ50人の中の一人であるという、自覚のある人はです、ね、今まで出来なかったところをです、今まで言い訳をしよったところをです、言い訳をしません。
今まで出来なかった事を、これからやりますと。神様に今晩お誓いしてお帰りなさいて。ね、でなかったら、言わば皆様の事はあんまり言わんがええ。ね、私は今晩また委員長にこの事、私は話たい。ね、今の様な信心の状態じゃ駄目だと、いくら頑張った所で。ね、ただ今私が今申し増すような所をです、ね、本気でやり貫かせて頂こうという50人がです、私に着いて来てくれるならです、もう必ず成就のおかげになるて。
そして初めて、本当に神様おかげを頂きましたと、本当に氏子が頂いてよかったなと、神様と氏子とが、本当に手を取り合い喜び合えるような、おかげになってくる、それが皆さんのものになる。私はそう信じるのです。どうぞ、折角椛目にご神縁を頂いておられるのですから、ね、椛目の一番有り難いもの。椛目で一番大事に、大事にしておるもの。ね、それだけぐらいは皆さんの信心に、ね、何時もかつもという訳にはまいりません。やはりチャンスがあり、必要です。ね。
チャンスというたら、今度もう、うって一願になって頂くような、チャンスというのはです、そうざ何時もあるものじゃありません。ね、どうぞ私が、無茶苦茶な言葉を使って申しました。それをもう一偏皆さんが考えてみて、なるほどと思われる方はご信心を進め下さい。ね、腹が立っとる方はどうぞお止め下さい。かまいません。ね、そして本気になってです、本当のこのことによって、本当の信心を頂こうという。
お互いがやりましょうと。やりますとと言う様なです雰囲気が、椛目のお広前に出来てこない限り、今度の御造営は私はおぼつかない事であると、こう思います。そしてですたい、ね、この御造営を境に、ね、本当に考えてみると、あの時は3千500万円位のお金でじゃったが、ね、お徳を受けてみたら、あのくらいぐらいならが一人ででもおかげ頂けるとじゃった、と言えれるようなです、ね、皆さんおかげを頂いて欲しい。ね、おかげが頂けれるのです。
もう本当に限りなく、無尽蔵に頂きよるとです、力さえ頂けば。だから普通一般で、普通のことでは、やっぱり普通のおかげですたい。ね。はぁきつかと、もう今日は、もう本当にご無礼しようごとある、と言う時にです、神様にお縋りをしてご覧なさいと、お縋りしとってご覧なさいと。もうどげなこつがあったっちゃ、おかげ頂きますという気持ちでおりゃです。
それこそ太鼓がドンとなるように、合図の援歌がパチッと、あのなるように、必ず私共の周囲に、はー神様が勇みたってござる。神様がさぁ行けって言うてござる。と言うようなおかげを頂いたら、私共の心の中に今まできつかった心がですたい、何か知らんけど寝むか時に冷たい水で顔洗うたように、シヤンとするおかげが頂けれるのです、それが有り難いのです。
おかげ頂かにゃいけません。