昭和39年11月4日 朝の御理解
「女は髪形」と言うが、髪形のいかんによって、その人のきりょうのよしあしは別として、いくらも引き上げるという意味でしょうね。
信心も同じです信心の神の結い上げ方一つで、その人の、人となりと同時におかげというものが決まってくる。どうゆような髪型に結い上げたらよいか、おかげになるか。
昨夜寝ませて頂いたらすぐzお夢を頂いた。そのお夢の中にどこともわかりませんけど大きな御手洗い、御本部のよりももっと大きい御手洗いを頂くのです。手を洗ったり、口をゆすいだりしようと思ってくみとろうとするとうすぐろくなっているのです。こんなに溢れているのだから、どこからか沸いているのにちがいない。一しゃくくみあげたら電気がついて、盛り上がって沸いている。丁度私が汲み取ろうとするところに電気がついて、手を洗ったり口をゆすいだりしているお夢だった。あとから次々に参ってくる人が私に尋ねれば、あそこから沸きよると教えてあげるのになあと思っているところでした。お手洗いの前に大きな長い台が置いてある、丁度、カウンタ-のような台の前に私は座っとる。
紋付袴をつけて腰掛けている。そして見事な琥珀色をした、ウイスキ-をちびりちびりと味わっているところを頂いた。ちょっと向こうの方にテ-ブルをかこんで七、八人がお酒を頂いている感じ、ごちそうがでているけれど、酔わない酒を飲んでいる。そしたらね、その七、八人の中に古賀先生がいるのです。何か分厚い白い紙を持ってきて「先生これは何という字でしょうか」といっておる。私が見たところが縮図と書いてある。たとえば人生の縮図といったようなことを申しますでしょう。「縮図と書いてあるよ」「先生縮図とはどんな意味でしょうか」。ある大きな教会がある。何もかも整っている。先代の時には御比礼が立ったでしょうが、現在は御比礼を落としている教会。それをを私が、何処何処の教会と言って説明をしている。生き生きしたおかげも頂けんから、やっと教会が維持されているような教会。その教会と椛目とを比較している。そして私は色々言っているのですね。いわゆる形だけ整うた教会で、御比礼が立たないということ、どこにそうゆう元があるのか、教会は立派で有る。先生は大学を出ておられる。金光教の信心の説明をせろと言われたら、行き届いた説明ができられるという先生がおられるにもかかわらず、生き生きしたものがない。これは丁度、今の教団の縮図を見ているようなものだねと、私は言っている。それに反して椛目は教会の看板もあげてない教師の資格も持たない。お広前も継ぎ足し継ぎ足しのそうゆう教会からみたら、教会らしくない教会である。ところが中味は生き生きしたもがある人も信者も育っている。どこにそうゆう元があるか、私は今後の金光教の信心はかくあらなければならない元が椛目にある。これは私の理想とさせて頂いている私の願いとさせて頂いている。こうゆう信心、こうゆうあり方にならなければ道の信心のヒレイは落ちていくだけだ。これは将来の金光教の縮図の様なものだと説明した。
現在の強団の生き方というものは形の整うた。偉い先生方も沢山おられるのだけれども、精彩を次いでいる、生き生きした働きがないのはどうゆう訳かそのところがわからせて頂いたら、教団の立直しも出来ると、こうゆう訳なのです。
整うた教会があるにもかかわらず、信者が助からない。その原因はどこにあるか。現在の教団が曲り角とか、いきずまるとか、低下しているとかいうような同じものがこの教団の中にあるのだ。ここを究明したら、今の金光教はここを改めねばいけなぬのだということがわかるのだ。そして形は大したことではないけれども、生き生きとして、生きた働きがです、おかげを頂いているところのお広前が、育っている信者の程度というものを見てです、ああゆう有り方になれば人も信者も育ってゆくんだということを、それがどこに原因があるかということを究明してつきとめて、それを教団の上にもってくれば、又新たな生き生きとした教団が産まれるであろう。「古賀先生、縮図というのはこうゆうものであろう。」
立派な教会がある、ご比礼が立たないその原因はどこにあるか、それはあそこに原因がある。それと同じ物が教団にもある。教団がいきずまるとか、曲り角に来ているとか、低下している金光教と言われるのならば、あまりにも多すぎて漠然として、どこを切り替えて、どこを改まっていったらよいかと、わからぬようになっているのが、今の金光教の姿じゃなかろうか、小さい一軒の教会を見てみるとハッキリする。ああ、あれじゃご比礼がたたん筈だ。あれじゃ人が助からん筈だとはっきりしてくるわけなんです。
一方椛目を例にとってから、形は出来ていないが、実際に人が助かっている事実がある。生き生きと人が助かっている。繁盛している実相がある。繁盛したいならば、椛目の生き方に変えなければいけないということになるのじゃないかね。「古賀先生ここへ掛けなさい。あなたが飲みよるのはビ-ルね、サイダ-ね。」「それが先生ビ-ルじゃろか、酒じゃろかわからん、ありゃ酒じゃありませんもん。いっちょん酔いませんもん。」ところがです、私が紋付袴をつけて、足をこうあげて、行儀の悪い格好で飲んでいるわけなんです。一ふんばり上らにゃ私の横へ来て洋酒の御しょうばんをしきらんでいるところを頂くのです。
これは私がもっと行儀よくせにゃいかんな。私の行儀が悪いものだから、おかしいと思っている感じです。上がろうという気がしないというようなお夢でした。
それを縮図というのだ。現在の教団の縮図というのが、この一つの教会に現れているのじゃないか、次ぎの新しい生き生きと勢のある教団になるには椛目にそうしたモデルケ-スというか。何かがある。その何かを究明していくのが、生き生きとした信心を頂くということではなかろうか。
昨夜もそんな話が出ました熊本からでも自転車で参ってくる一週間に一度参ってくる。佐賀県の伊万里、福岡からでも歩いてからでも参ってくる。そうしなければおれない何物かが椛目にあるのだ。その何物かというものを、自分のお店に自分の教会に持って帰らにゃいけん。そして切り替え無ければいけない。最近いろいろ考えます。どうでん椛目流儀にならにゃいかんごとあります。せっかく信心の稽古をさせてもらうなら、椛目流儀になる他ないですよ。そんなに形は出来ていても精彩というものをかいでいるなら、切って捨てていかねば駄目だ。そこに金光教の改革がなさらなければならない時期にきていると思う。
教団の縮図というものをそこへ持ってきたのですけども、教会といわず、お互いの家庭の上に、自分の頂いた御用の上に、どうゆう訳でおかげが受けられぬのか、どうゆう訳で繁盛市内のか、あの店は繁盛しているか、その元というものを究明して、それをちっとばかり持ってくるのじゃなくて、そこを切り替えてゆかんばならないということ、どう考えても椛目流にならなければいけんごたると、きずかねばならぬ。
ちょっとばかり、もろうてこうと、そんなことでは駄目だと、しかも本気で教えをもとめてくるなら手洗いの中の一パイの水を頂くんじゃなくて、大元の湧き出てくる所を私は知っている。そこを教えてあげるのになと思っているお夢でした。
皆さんの家庭にちょこっとばかり、それを持っていってもつまらん。根底から信心生活にならなければいかん。そんな風に信心がせばめられていくというか、結い上げられていくというか、たとえばどんなにメグリがありましょうとも、きりょうが悪かろうが、色が白かろうが、黒かろうが、誰でも髪型によって変わってくるように、おかげの感じも変わってくる。このへんをハッキリしなければいけない。どんなにきりょうがよかっても。
いつもきれいに洗い上げたり、すき上げたり、結い上げたり、女は髪形といいますが、信心も同じ事、信心の髪型がはじめからすき上げられて結い上げられてゆかねばならない。心の中で聞いたばかりではつまらんということ。よいものは産まれない。金光教がいきずまっている。曲り角にきている。ここがわかったのだから、ここへ土俵の生き生きとしている、繁盛している教会が有るならば、形はできていても、繁盛どころかだんだん生きたものが無くなっている。力がなくなっておるとするならば、その根本にあるそれとこれを。積み替えていかなければ駄目だ。家庭の上においてもそうです。信心さして頂く家庭と無い家庭と、根本から変わってゆかねば繁盛の家になっていかないと感じたのです。